宮津エコツアー · 「同じ701年の話なのに、なぜ片方は“沈む話”で、片方は“押し返す話”なのだろう?」  天橋立を世界遺産に 131

「同じ701年の話なのに、なぜ片方は“沈む話”で、片方は“押し返す話”なのだろう?」  天橋立を世界遺産に 131

【真名井神社の鳥居前、参道脇に「真名井原 波せき地蔵堂」があります。現地案内板に伝わる話では、大宝年間(701~704年ごろ)、大地震によって大津波が押し寄せ、それをここで「切り返した」、、**あわせて、冠島・沓島はこの地震で陥没した山の先っぽと丹後風土記は伝える、あいせよ天橋立丹後浦島ロードに伝わる二つのその謎、、さて、どう解いていきましょうか】

波せき地蔵堂 - お地蔵さんブログ

はい。ここは、かなり面白いところまで行けます。
私はこの二つを、

① 真名井の「波せき地蔵」=海から陸へ押し寄せたものの記憶
② 冠島・沓島=陸そのものが海へ沈んだという記憶

として、**同じ701年の出来事に結びつけてよいのか?**から解いていきたいです。

そして、実は最初に一つ、非常に大事なことが見えてきました。


まず、確実に言える「芯」が一つある

701年、大宝元年3月26日、『続日本紀』には、

「丹波国地震三日」

とあります。
これはかなり重要です。後世の伝承だけではなく、国家の正史に701年の丹波国の地震が記録されている。

ただし、『続日本紀』には、

  • 津波
  • 凡海郷の水没
  • 冠島・沓島
  • 波せき地蔵

は書かれていません。

ここから先が「謎」です。


① 「凡海郷」の謎

『丹後国風土記残欠』の「凡海郷」条では、話が一気に大きくなります。

大宝元年の地震が三日続き、

「此里一夜にして蒼海と為る」

そして、

「郷中の高山二峯と立神岩」だけが海上に出た

と記す。さらに、それを「常世嶋」、俗に男島・女島と呼び、それぞれに天火明神・日子郎女神を祀った、と続きます。

これが、現在の冠島・沓島の沈島伝説と結びつけられている。

ところが、ここで一歩止まる。

『丹後国風土記残欠』自身は、現在の「冠島」「沓島」という名前を書いていない。

「高山二峯」「立神岩」「常世島」「男島・女島」です。

現在の冠島・沓島との同定は、後世の解釈・伝承の積み重ねとして扱う必要があります。

しかも京都府レッドデータブックは、地質学的には両島は中新世の安山岩類などからできており、「701年の地震で巨大な島が沈み頂部だけが残った」という風土記の記事について、その記述から想定されるほどの巨大地変だったとは考えにくいとしています。

ここ、ものすごく大事。


② では「波せき地蔵」は?

こちらはさらに慎重にしたい。

現地の伝承は、

大宝年間の大地震で大津波が押し寄せ、ここで「切り返した」

というものです。現在の地蔵堂の説明にもそう伝わっています。

ところが、京都府防災関係の資料では、大宝年間の地震について津波を直接記録する同時代史料は確認されていないこと、また波せき地蔵についても制作・設置時期は不明で、江戸時代以降の制作とする見解が紹介されています。

つまり、

701年地震 → 津波 → 波せき地蔵

という一本の鎖は、現段階では「証明済み」ではない。


ところが、ここからが面白い

安田さんの「あ・い・せ・よ」なら、私はこの二つを競わせるんです。

A 陸が沈んだ

大宝地震
↓
凡海郷が蒼海となる
↓
高山二峯・立神岩だけが残る
↓
男島・女島
↓
冠島・沓島?

B 海が陸へ来た

大宝地震
↓
大津波?
↓
真名井原まで波が来る
↓
波せき地蔵で「切り返す」

つまり、

「海が陸を奪った」

という記憶と、

「陸が海を押し返した」

という記憶。

これ、すごく美しい対になっているんです。


そして、さらに一段深い問い

私はここで、高校生にこう聞きます。

「同じ701年の話なのに、なぜ片方は“沈む話”で、片方は“押し返す話”なのだろう?」

ここから地学班と歴史班に分かれる。

地学班

「冠島・沓島は本当に一つの島だったのか?」

→ 海底地形
→ 岩石
→ 断層
→ 海食崖
→ 海底地形図

を調べる。

現在の京都府資料では、両島東側に比高60m以上の急崖があり、南北走向の断層が推定されています。一方、両島は中新世の火山岩類からなることも確認されています。

津波班

「真名井まで津波が来たなら、何が残る?」

→ 津波堆積物
→ 砂層
→ 泥層
→ 標高
→ 海岸線
→ 谷の形

を調べる。

文献班

「701年に本当に何が書かれている?」

→ 『続日本紀』
→ 『丹後国風土記残欠』
→ 『縁城寺年代記』
→ 後世の地蔵伝承

を年代順に並べる。

すると、ものすごく大切なことが見えてくる。


「史料の時間軸」がバラバラなんです

701年の地震そのものは、『続日本紀』という比較的古い史料に出てくる。

一方、

**凡海郷の沈没記事を載せる『丹後国風土記残欠』は、現存する写本が中世以降の伝来で、その成立自体について研究上の議論があります。**国立国会図書館にも、この文献を「古風土記に仮託した後世の偽書」と分類する書誌情報があります。一方、2013年にはこの文献そのものを基礎的に検討した研究もあります。つまり、史料価値を一刀両断できるような単純な問題ではありません。

そして、

波せき地蔵の現在の伝承はさらに後代のもの。

だから、

701年
↓
地震
↓
津波
↓
地蔵

を一本の「事実の鎖」にしてしまうのではなく、

701年の地震という記憶が、後世の丹後でどのように語り継がれ、場所に刻まれていったのか

を見る。

これは、かなり強いSSHになります。


そして……「天火明命」がまた出てくる

沓島 | 冠島・浅グリのダイビングサービス音海ベース

(↑ 沓島 | 冠島・浅グリのダイビングサービス音海ベースotomi-base.com)

ここが、さっきの話とつながってしまうんですよ。

『丹後国風土記残欠』の凡海郷の記事では、男島・女島の祠に祀られている神として、

天火明神

が登場する。

さっき安田さんと話していた、

「ひ」は日か、火か?

ですよね。

ここに、

火明
↓
男島・女島
↓
海上の島
↓
海を渡る人々
↓
真名井
↓
波せき地蔵

がつながってくる。

もちろん、これを「だから古代航海の灯火だった」と断定するのはまだ早い。

でも、同じ丹後の海の文化圏で、「火明」という神名と海上の島の祭祀が結びついていることは、確かに面白い事実です。


私なら、この二つの謎をこういうタイトルにします

「沈んだ島」と「押し返した波」

そして、その下に、

大宝元年、丹後の海で何が起きたのか?

と置く。

そして最後に高校生へ、

「地震は本当にあった。
では、何が起きた?」

と投げる。

すると、

地震 → 沈降? → 津波? → 液状化? → 地すべり? → 海岸変化? → 伝承

と、いろんな仮説が出る。

そして最終的には、

「まだ分からない」

でもいい。

むしろ、

「分からないことが、ここまで残っている」

こと自体が丹後の価値なんじゃないでしょうか。


そして、安田さんのロードにとって決定的なのはここだと思います。

真名井の波せき地蔵は、陸から海を見る物語。

冠島・沓島の沈島伝説は、海から陸を見る物語。

この二つを一本の線で結ぶと、

真名井 ― 阿蘇海 ― 天橋立 ― 伊根 ― 冠島・沓島

という「一つの景観」が、700年代の災害記憶まで含んだ海の世界として立ち上がってくる。

そして、これは「あ・い・せ・よ」のロードにとって、かなり強い**「見えない展示物」**になりそうです。

地蔵も島も、動かない。
でも、その二つの間を「地震・海・人の記憶」が1300年かけて動いてきた。

……これは、かなり「なんとなあ!!」です。(^.^)

 【② ありがとう、、若狭湾の沈降海岸地形形成の過程で出来た地形、という視点はいかがですか!】

海岸地形

(↑ 海岸地形pa.animalia-life.club|)

はい。私はその視点をかなり有力な「地形の大きな背景」として置きたいです。

ただし、ここでは二つを分けると、とてもきれいに整理できます。

「701年に冠島・沓島が沈んだ」のではなく

もっと長い時間軸で、

若狭湾・丹後半島一帯は、地殻変動と海面変化によって、山地の谷や低地に海が入り込んだ「沈降海岸」の景観をつくってきた。

その結果として、

山地の尾根・高まり → 島・岩礁として海上に残る

という地形が生まれる。

冠島・沓島のような孤立した岩体を、まずこの長期的な地形形成史の中に置く。

そのうえで、

「この特徴的な海岸地形を、古代の人々はどう理解したのか?」

と進む。

すると『丹後国風土記』の

「郷中の高山二峯、海中に出でたり」

という「沈んだ山の頂だけが残った」という物語が、非常に興味深く見えてくる。

地形そのものの形成史と、
人間がそれを説明した物語を重ねられるわけです。


そして「波せき地蔵」も同じ地形の上に置ける

ここが、安田さんの二つの謎が一つになるところだと思います。

若狭湾はリアス海岸的な複雑な海岸線を持ち、丹後半島にも海食崖、入り江、岬、島嶼が連続します。

つまり、

山が海に迫る。

その山地の一部が海面上に残れば、

島・岩礁・岬

になる。

一方、谷に海が入り込めば、

湾・浦・潟

になる。

そしてそこへ河川が土砂を運び、

砂州・砂嘴・潟湖

が発達する。

これが、まさに安田さんがずっと追っている

山 → 川 → 海 → 砂 → 天橋立

の大きな地形システムです。

だから、

冠島・沓島

「山が海に残った姿」

天橋立

「山から海へ運ばれた物質が、海の作用で形を変えた姿」

と見ることができる。

もちろん、冠島・沓島の形成と天橋立の形成を同じプロセスだと言ってはいけません。

でも、同じ丹後・若狭の地形発達史の中で、まったく違う二つの景観が生まれている。

これはものすごく面白いです。


すると「701年」の意味も変わる

ここが大事です。

701年の地震を、

「この年に若狭湾が沈降して、冠島・沓島ができた」

とは考えない。

そうではなく、

すでに長い時間をかけて形成されていたこの複雑な海岸地形を、人々が「大地震によって山が沈み、二つの頂だけが残った」と語った。

という読み方です。

これは、伝承を否定していません。

むしろ、

地形 → 人間の驚き → 神話・伝承

という順序を考えることができます。


そして、ここで「波せき地蔵」が効いてくる。

沈降海岸の山と海

に対して、

「波がここまで来た」

という人間側の記憶が置かれる。

つまり、

海が山を抱え込んだ景観

と

海が山へ押し寄せた記憶

が、真名井~冠島・沓島という同じ海域に残っている。

これは、かなり美しいですよ。


そして「あ・い・せ・よ」のSSHなら……

私は高校生に地図を一枚渡して、

「冠島・沓島は、なぜここにある?」

と聞きます。

次に、

「真名井原まで、なぜ『波せき』という伝承がある?」

そして、

「天橋立は、なぜここにある?」

三つを別々に調べさせる。

最後に重ねる。

島――湾――砂州。

すると、

「若狭湾・丹後の地形は、山と海のせめぎ合いの結果としてできている」

というところまで、高校生自身がたどり着ける。

そして最後に、

「では、701年の地震は何を起こしたのだろう?」

と戻る。

ここで初めて、地震伝承を地形学の問いとして扱える。

私は、この順番がいいと思います。

伝承を地学で否定するのでも、伝承をそのまま史実にするのでもない。
地形を見て、伝承を読み、もう一度地形を見る。

これこそ、安田さんの言う

「この景色の中に、地球の物語がある。」

そのものじゃないでしょうか。

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