宮津エコツアー · 9月 2026

9月 2026

【さて、「日本三景と世界遺産思想の関係 世界遺産思想(1972年)は、自然 × 文化 × 歴史 × 景観 × 生活 を統合して価値を認定する仕組み。 驚くべきことに、日本三景はこの価値体系を200年以上前に先取りしている。 ① 日本三景は“世界遺産の価値基準”を先取りしていた 世界遺産の価値基準(抜粋): 顕著な自然美 地形の特異性 文化的伝統 信仰・精神性 歴史的連続性 景観と生活の統合 天橋立はこれらをすべて満たす。 つまり、 日本三景=世界遺産価値の先駆的モデル。 ② 日本三景は“国家による景観選定”という世界遺産の前史 世界遺産はユネスコによる国際的選定だが、 日本三景は 国家(幕府・明治政府)が景観を選定した世界でも珍しい例。 世界遺産思想の前史として位置づけられる。」、、、以前に頂いたこの解説、ブログにアップしたところ、大きな賛同をいただいきました、ありがとう!!】

日本三景・天橋立(主に自然編)

(↑ 日本三景・天橋立(主に自然編)tangonotimei.com|580 × 386 jpeg|7 年前 ※ 天からはこう見えている(^.^))

おお、それは嬉しいですね!!(^.^)こちらこそ、ここまで一緒に掘ってきた甲斐があります。しかも、賛同が大きかったのは、たぶん「日本三景はすごい」という話ではなく、日本三景を別の角度から読み直したことにあるのだと思います。

ただ、今になってここまで議論を積み重ねてきたからこそ、あの文章にはさらに一段深くできるところがあります。

特に、「日本三景=世界遺産価値の先駆的モデル」は、非常に面白い仮説ですが、厳密には「世界遺産の価値基準を先取りした」と断定するより、

「後の世界遺産思想と響き合う価値観を、近世日本が独自に形成していた」くらいにすると、歴史的にもかなり強くなります。

なぜなら、1972年の世界遺産条約が日本三景を直接継承したわけではないからです。


でも、もっと面白いところがあります

日本三景が

松島・天橋立・厳島

だったことです。

これ、以前話したように、三つとも単なる「美しい場所」ではない。

松島

島嶼景観
+海
+瑞巌寺などの宗教文化
+歌枕・文学
+海上交通

天橋立

砂州
+海
+神話・神社・寺院
+文学・絵画
+参詣
+地域の暮らし

厳島

島
+海
+厳島神社
+信仰
+芸術
+海上交通

つまり、

自然景観そのものと、人間がその場所に積み重ねてきた意味が分離していない。

ここが共通している。


そして「三景」という形式が面白い

1643年、林春斎が『日本国事跡考』で松島・天橋立・厳島を「三処奇観」として並べた。

これは、

「日本で一番美しい景色を三つ選びました」

というだけの話として読むより、

「日本列島には、これほど異なる海の景観がある」

という全国的な景観認識の成立として見ると、俄然面白くなります。

松島は島々。

天橋立は砂州。

厳島は島と社殿。

三つとも海ですが、海の地形が違う。

そこに人間の信仰・芸術・文学が重なる。


だから私は、今ならこう言いたいです

日本三景は、近代的な「景勝地ランキング」の先祖ではない。

自然の特異性と、人間がその場所に与えてきた意味とを、一つの景観として捉える日本独自の景観認識だったのではないか。

これはかなり慎重な言い方ですが、強いと思います。

そして、ここに1972年を置く。


1643年

三処奇観

↓

近世を通じて
名所・歌枕・参詣・絵画・遊覧

↓

明治以降
名勝・公園・国家的景観保護

↓

1972年
世界遺産条約

↓

現在
自然 × 文化 × 歴史 × 景観 × 人間

こうして見ると、

日本三景から世界遺産へ

という「制度の直系譜」ではなく、

人間が自然景観の価値をどう発見し、共有し、守ってきたかという思想史

としてつながってくる。

これは、かなり面白いです。


そして、これを天橋立に戻すと、最初の問いが変わるんですよね。

「天橋立は世界遺産になれるか?」

ではなく、

「なぜ日本人は、300年以上前から天橋立を『特別な景観』として認識してきたのか?」

さらに、

「その『特別さ』とは、砂州の形だけだったのか?」

と問える。

すると、

地形 → 神話 → 信仰 → 文学 → 絵画 → 名所 → 日本三景 → 名勝 → 自然公園 → 世界遺産

という、ものすごく長い「価値の発見史」が見えてくる。

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そして、安田さんがずっと追っている

「この場所は、なぜ人類にとって大切なのか」

という世界遺産の問い。

実はその前に、

「人間は、なぜこの場所を大切だと思うようになったのか」

という問いがあるんですね。

私は、こちらのほうが天橋立学の入口としてずっと面白いと思います。(^.^)

IMG_20260509_082630

そして今回のブログへの反響は、その問い方そのものが、ちゃんと人に届いたということなのかもしれません。

 

【橋が倒れて横になって、、そんなのは、いまの子どもは信じません、しかし、観光番組では、龍が一晩で!(^.^)いったいなにがあったのですか、きちんとお話しください。】
 飛龍觀﹅從跨下窺看 - 天橋立 view land

(↑ 飛龍觀﹅從跨下窺看 – 天橋立 view land)

ははは、そこです!!(^.^)
「神様が昼寝していたら梯子が倒れました」では、子どもでも「なんでやねん」です。

しかも、ここは前の私の説明が少し飛躍していました。
『丹後国風土記逸文』が実際に書いていることと、そこから私たちが想像することを分けて、きちんと見ましょう。

まず、原文は意外に具体的です

『丹後国風土記逸文』の「天椅立」は、

伊射奈芸命が「天に通ひ行でまさむとして」、椅(はし)を作り立てた。
だから「天の椅立」と呼んだ。
ところが神が寝ている間に、仆れ伏した。
神はそれを「久志備(くしび=神異・不思議)」と思った。

という話です。しかも、その場所を東の海=与謝海、西の海=阿蘇海と明確に説明しています。

つまり、ここで重要なのは、

「橋が壊れた」

ではなく、

「天に向かって立っていたものが、仆れ伏した」

ということなんです。

そして「仆れ伏しき」という言葉は、まさに倒れて横たわったという意味です。


では、「何があったのか?」

ここからが本題です。

私は、少なくとも三つの層を考えるべきだと思います。

① 神話としての説明

まず一番素朴には、

「海上に異様に長い陸地がある。これは何だ?」

という問いに対して、

「昔、天へ通うための梯子があった。それが倒れたのだ」

と説明した。

現在の京都府も、この伝承を「天界と下界を結ぶために立てた梯子が海上に倒れ、そのまま細長い陸地になった」と紹介しています。

ただし……

これだけなら、たしかに「子どもでも信じない」です(笑)。


② 実は「橋」ではなく、「天へ通じるもの」という発想

ここが大事です。

古代の「ハシ」は、現在のような単なる橋だけではありません。

国立国会図書館のレファレンスが『国史大辞典』を引いて説明しているように、古い「ハシ」には中間・媒介という意味もあり、天浮橋も橋梁や階梯だけに限定されない観念だったとされています。

つまり、

天
↓
何かが両世界を媒介する
↓
地

という発想です。

「橋」という物体を作った、というより、

「天と地の間に、行き来を可能にする媒介物が立っていた」

と考えた方が、古代の世界観には近い。


③ そして私は、ここに「地形そのもの」が入っていると思う

ここが「あいせよ天橋立」の本丸です。

風土記は、実はかなり冷静に地形を記録しています。

長さ1229丈。
幅は場所によって9丈以下から20丈以下。
そして東に与謝海、西に阿蘇海。

つまり、現代の言葉にすれば、

「二つの海の間に、非常に細長い陸地がある」

と観察している。

だから私は、

「梯子が倒れた」という神話は、

地形を説明するための“古代人の地質学”だったのではないか

と考えたい。

もちろん、これは解釈です。

でも、

「なぜこんなものが海の上にある?」

という驚きに対して、

「天へ立っていたものが、倒れてここに横たわっている」

と答える。

これは、単なる子どもだましではなく、

見えている異常な地形を、当時の宇宙観で説明した

と考えると、かなり筋が通ります。


ところが、もう一つ重大なことがあります

ユーザーさんが今おっしゃった、

「通行が立たれる」

です。

これ、実は非常に面白い問いです。

もし「天に通う梯子」が立っていたなら、

倒れた瞬間に、

天と地の交通が断たれた

ことになります。

しかし、風土記は、

「通行できなくなった!」

とは書いていません。

ここは非常に重要。

つまり、「交通遮断の物語だった」とまでは言えない。

風土記が強調しているのは、

倒れたことそのものと、それを神が「久志備」と怪しんだこと

です。


では、なぜ「倒れる」必要があったのか?

ここからは、かなり大胆な仮説です。

私は、

「橋が落ちた」のではなく、「天へ立っていたものが、地上の景観になった」

という変換ではないかと思うのです。

つまり、

神話以前

天へ向かうもの

↓

「仆れ伏す」

↓

地上に横たわる巨大なランドフォーム

↓

人間が見る

↓

「天椅立」と呼ぶ

↓

人間がその上を歩く

という変化です。


ここで「天橋立」という名前がものすごく面白くなる

普通なら、

橋 → 渡るもの

ですよね。

ところが天橋立は、

橋 → 倒れる → 地上に横たわる → 人間が歩く

です。

だから、

神のための「天への道」が、倒れることによって人間の「地上の道」になった。

という読みが可能になる。

これは風土記がそう解釈しているわけではありません。

私たちが伝承の構造から読み取れる仮説です。


そして、さらに一歩進めると……

ここで私は、ユーザーさんの「世屋まで遡る」という発想が効いてくると思います。

現在、私たちは天橋立を、

砂州

と知っています。

京都府の説明では、世屋川など丹後半島東岸の河川が運んだ砂礫が沿岸流で南下し、阿蘇海側の流れとの関係で堆積し、約4000年前に天橋立が海面上に現れたとされています。

つまり本当は、

天へ立っていた梯子

ではなく、

山から運ばれた砂礫が海で組み立てられた陸地

です。

でも古代人には、その地質学的メカニズムは分からない。

だから、

「これは何だ?」

となる。

そして、

「天へ通うためのものだったのではないか」

という物語になる。


すると、「倒れた」はむしろ凄い言葉なんです

もし単純な創作なら、

「神が作った橋が海上に残った」

でもいい。

ところが、

「立っていた」→「倒れた」→「伏した」

とした。

これは、

垂直 → 水平

という地形の変換を、神話の動詞で表現しているとも読めます。

ここは確証のある「古代人の意図」ではありません。

しかし、

現在の天橋立という水平な砂州を見て、「かつては垂直だったものが倒れた」と説明した

と考えると、ものすごく自然です。


そして、もう一つ見逃せない

風土記には、

「仍ち久志備ますことを恠みたまひき」

とある。

つまり神自身が、

「なんじゃ、これは?」

と驚いているんです。

ここ、ユーザーさんが最近ずっと言っている、

「なあんじゃこれ、どうして出来たのじゃああ????」

と、ほとんど同じではありませんか(笑)。

古代人も、

「なんじゃ、これは?」

だった。

だから神話を、

「古代人が信じた荒唐無稽な話」

として片付けるのではなく、

「目の前にある、とんでもなく奇妙な地形を見て、人間が『これは何だ?』と問い続けた痕跡」

として読む。

私は、この読み方が「あいせよ天橋立」には非常に合うと思います。


そして最後に、一つ訂正しておきたいです

先ほど私は「天と地の交通が失われた」というところまで少し踏み込みすぎました。

風土記そのものは、交通が断絶したとは言っていません。

確実に言えるのは、

① 天へ通うために椅を立てた
② それが倒れ伏した
③ 神がそれを神異として怪しんだ
④ その場所を天椅立/久志浜と呼んだ

ここまでです。

その上で、

「なぜ倒れたという形で語ったのか」
「垂直な天への道が、水平な地上の道になったのではないか」

を、これから考える。

これはかなり良い研究テーマです。

そして、ひょっとすると――

「天橋立は、天と地をつなぐ橋」だけではない。

「天と地が、かつてつながっていたが、その接続が“倒れる”ことで、私たちの世界に残された場所」

なのかもしれません。

……このあたりまで来ると、いよいよ**「なぜ古代人は“砂州ができた”ではなく、“天へ立っていた梯子が倒れた”と言ったのか?」**を、本気で追いたくなりますね。(^.^)

 日本三景・天橋立と舞鶴市 – JAXA 第一宇宙技術部門 Earth-graphy
【一夜にして、、の自然現象としたら、豪雨、地震、地滑り、、のような、巨大災害しか思い浮かびませんね!!】

そうなんです。そこを真面目に考えると、かなり面白いところへ行きます。(^.^)

ただ、まず一つだけ整理すると、「一夜にして」は、現存する『丹後国風土記逸文』の天橋立記事には明記されていません。一方、現在よく語られる「龍が一夜で土を積んで天橋立を造った」という話は、別系統の九世戸縁起・龍神伝承として発達しています。ここは二つの伝承を混ぜない方がいいです。

そのうえで、

「もし“一夜にして”巨大な地形ができた、という自然現象の記憶だったら?」

と考えると、確かに候補はかなり限られます。

あり得る「一夜の大地変動」

① 地震+地滑り

丹後は活断層・地震の多い地域です。大地震によって山体崩壊や土砂移動が起きれば、谷や海岸の姿が一晩で大きく変わることはあります。

ただし、それで3.6km級の砂州そのものが一夜で形成された、とする地質学的証拠はありません。


② 豪雨+山崩れ+洪水

こちらは世屋川を考えると、非常に面白い。

山が崩れる
↓
大量の土砂が川へ入る
↓
洪水が土砂を海へ運ぶ
↓
海岸流がそれを横方向へ運ぶ

という連鎖なら、

「山が崩れる → 川が運ぶ → 海が組み立てる」

という大地の大仕事になります。

ただし、これも一夜で現在の天橋立が完成したわけではないでしょう。


③ 津波・高潮

これも忘れてはいけません。

大地震
↓
津波
↓
砂礫の大移動
↓
海岸線が変わる

ということは実際にあります。

ただ、天橋立の場合、現在の砂州の形成史は基本的に長期間の土砂供給と沿岸漂砂の積み重ねとして説明されています。

だから、

「天橋立そのものが一晩でできた」

というより、

長い時間をかけてできた地形を、ある一度の大変動が大きく姿を変えた

という可能性なら、自然科学的にも考える余地があります。


そして「倒れた」という言葉が、急に怖くなる

ここですよね。

もし古代人が、

「昨日まで違っていた海岸の姿が、ある大災害の後に変わっている」

のを見たなら、

「天に立っていたものが、倒れた」

という神話的表現が生まれても、私はそれほど不思議ではないと思います。

もちろん、

「天橋立伝承は○○地震の記憶である」

とは言えません。年代も、対応する災害の証拠も必要です。

でも研究仮説として、

「倒れる」という神話的動詞の背後に、古代人が経験した地形変動の記憶があるのではないか

という問いは立てられます。


さらに面白いのは「龍」です

こちらの伝承では、

龍が一夜で土を積み上げて天橋立を造った

という形になります。

これを自然現象の言葉に翻訳すると、

龍=巨大な水の力

と考えたくなります。

豪雨
↓
山地から大量の土砂
↓
河川
↓
海
↓
沿岸流
↓
砂州形成

つまり、

「龍が一夜で土を積んだ」

という物語を、

「山から海へ、一晩で大量の土砂が動いた」

という自然現象の記憶として読む可能性です。

ただし、これも現時点では仮説です。


そして、ここで「世屋」が登場する

これが「あいせよ」の強烈なところです。

天橋立だけを見ていると、

「橋が倒れた」

で終わってしまう。

ところが世屋へ遡ると、

山崩れ
→ 土砂
→ 世屋川
→ 阿蘇海
→ 沿岸漂砂
→ 天橋立

という物理的な因果関係が見えてくる。

だから、

「天橋立が倒れた」のではなく、「天橋立をつくった大地が動いた」

という見方ができる。

そして神話は、それを

「天へ立っていた梯子が、倒れ伏した」

と語ったのかもしれない。

ここはまだ「かもしれない」です。


私なら、ここで一つ実験をしたいですね。

「天橋立の“一夜伝承”を、地質学者の目で読み直す。」

調べるのは、

  • 丹後の古地震・液状化痕跡
  • 世屋川流域の巨大崩壊地形
  • 古い土石流・洪水堆積物
  • 宮津湾・阿蘇海のボーリングコア
  • 天橋立の砂州内部の年代測定
  • 津波堆積物
  • 古い海岸線
  • 古地図・古絵図

です。

もしここで、

「この時代に巨大洪水・地震・土砂移動があった」

という証拠と、

「その直後に砂州の急激な発達があった」

という証拠が重なれば……

これは相当に面白い。

ただし、証拠がなければ、潔く

「伝承として残った自然観察」

と位置づければいい。


そして私は、ユーザーさんの

「なあんじゃこれ、どうして出来たのじゃああ????」

が、実は天橋立研究の原点なのだと思います。

古代人も同じだったのかもしれません。

「こんなもの、どうしてここにある?」

その答えとして、

地質学者は「砂州」と言う。
神話は「倒れた天の梯」と言う。
龍神伝承は「龍が積んだ」と言う。

三者は、同じ現象を説明しようとしているのかもしれない。

……ここまで来ると、天橋立は「神話か科学か」ではなく、

「人間は、巨大な自然現象を見たとき、どんな言葉でそれを理解してきたのか」

を研究する場所にもなりますね。(^.^)

【神話と地質学の境目に、ぽっと一本の古代樹が立つ。……いやあ、これは「500本」より、一本のメタセコイアのほうがずっと効きます、、、ありがとう、さて、そのメタセコイアをさらに掘りたいです、上世屋のメタセコイア、胸高周径360cm、巨樹ですが、樹齢は約70年です、かっての自然状態では樹齢、周径、樹高、どれくらいになるものですか】

おお、胸高周径360cmで、樹齢約70年ですか。
写真を見ると、なるほど……これはかなり立派です。しかも面白いのは、**「巨樹なのに70年」**というところですね。

まず周径360cmを直径に直すと、

360 ÷ π ≒ 115cm

つまり、胸高直径は約1.15mです。

そしてメタセコイアは、かなり成長の速い木です。中国の自生地では、樹高50m、胸高直径2~2.5m級までになる記録があります。

すると、上世屋の70年生・周径360cmは……

ざっくり言えば、

条件 上世屋の木 自生地で確認される大木
樹齢 約70年 100年以上、最大級では300年以上という推定も
胸高周径 3.6m 6~8m級にもなる
胸高直径 約1.15m 2~2.5m級
樹高 写真からはかなり高い 約50m

という感じです。

ただし、ここが大事です。

**「自然状態なら70年でどこまで行ったか」**と、
**「その木が一生かけてどこまで大きくなれるか」**は別の話なんです。

メタセコイアは若いころ非常に上へ伸びます。研究では、植栽地で年間30~80cm程度の樹高成長、直径で年間1~1.75cm程度という値も報告されています。

ですから、上世屋の木が70年で直径1.15mまで来ているのは、この樹種の成長力から見ても十分に納得できるサイズです。


では、「自然のメタセコイア」なら何歳、何mになるのか?

ここは面白いところで、私はこう考えるのがよいと思います。

成熟した自然個体の一つの目安

樹齢100~150年

  • 樹高:30~45m程度
  • 胸高直径:1~1.5m前後以上

樹齢200~300年

  • 樹高:40~50m前後
  • 胸高直径:1.5~2m級、条件がよければそれ以上

非常に大きな個体

  • 樹高:約50m
  • 胸高直径:約2~2.5m
  • 胸高周径にすると 約6.3~7.9m

くらいが、「かつての自然状態」を想像する際のスケールになります。中国の自生地では50m級・2m超級の個体が記録されています。

ただし、年齢とサイズを一直線に換算してはいけません。土壌、水分、光、周囲の競争などで成長速度は大きく変わります。林野庁も、樹木の成長は立地条件や競争の影響を大きく受けるとしています。


そして、上世屋のこの木が面白いのです

写真の木は、単に「大きなメタセコイア」ではない。

70年前に植えられた木が、70年で胸高周径3.6mまで来た。

つまり、

「メタセコイアって、こんなに早く巨樹になるんだ!」

ということを、実物が教えてくれている。

そしてもし、この木があと100年生きたら……

170歳。

あと200年なら……

270歳。

その頃には、今の「巨樹」という言葉では足りないくらいの存在になっている可能性があります。

もちろん、樹高50m・周径7m級になると断言はできません。
でも、その可能性を秘めた木ではあります。


そして、私はここに「世屋らしさ」があると思います

17~18百万年前、世屋の地層にはメタセコイアの森がありました。

その木々は化石になった。

地層は隆起し、削られ、

その山を世屋川が刻み、

その川が化石を含む石を海へ運び、

その一部は天橋立の砂礫の中にも残る。

そして現在、

上世屋には、生きているメタセコイアがある。

つまり世屋には、

化石のメタセコイア
↓
川が運ぶメタセコイアの記憶
↓
天橋立に残るその痕跡
↓
そして現在生きているメタセコイア

が、時間を縦に貫いて存在しているわけです。

これはかなり凄い。

しかも、先ほどの旅行パンフレットの「500本のメタセコイア」が、実は松だったという、あの“珍事件”ですよね(笑)。

「メタセコイアですって?」

となったら、

「それなら、本物を見に世屋まで歩いて来なさい。
ここには、500本はないけれど、生きたメタセコイアがある。
そして山には、1750万年前のメタセコイアも眠っている。」

となる。

これはもう、パンフレットの間違いを責める話ではなくて、
**天橋立から世屋へ人を歩かせる、ものすごく面白い“誤配”**になってしまいますね。(^.^)

そして写真のこの一本、**「70歳の巨樹」ではなく、「70年でここまで来た若い巨樹」**と見ると、また姿が変わって見えてきます。

【葉っぱ化石を含む地層の標高は約550メートルです、生育していた時代、場所、状況、そして、それが、埋もれ、化石化し、隆起し、発見される、この間の時間について情報をいただけませんか、】

はい。これはかなり深く掘れます。
そして調べてみると、上世屋・木子のメタセコイア化石は、単なる「昔の木の葉」ではなく、約1700~1800万年前の丹後の風景そのものを記録している可能性が高いです。

まず、ものすごく大事なことを一つ。

「化石が現在標高約550mにある」ことと、「550mの山の上にメタセコイアが生えていた」ことは同じではありません。

ここを分けると、話が一気に面白くなります。

化石を発見! | 宮津市立日置小学校


1.メタセコイアが生きていたのは、いつか

上世屋・木子周辺の植物化石を含む地層は、世屋累層です。

京都府の資料では、与謝植物化石群は新第三紀・中新世に分類され、世屋累層の植物化石として、

  • メタセコイア
  • ブナ類
  • ケヤキ類
  • ナラ類
  • カエデ類
  • クリ類

など、33種が報告されています。

さらに重要なのが年代です。

世屋累層の下位の安山岩が約2000万年前、これと対比される福井県の糸生湖成層が1700~1800万年前とされ、京都府は与謝植物化石群についても約1700~1800万年前と推定しています。

つまり、

今から約1750万年前。

これが、まず一つの目安になります。

現在の人類史から見ると、とてつもない昔です。


2.そのころ、そこは「山」ではなかった

ここが最大のポイントです。

現在、化石を含む地層が標高約550mにあるからといって、

「1750万年前、標高550mのところにメタセコイア林があった」

とは言えません。

むしろ世屋累層については、湖成層であることが非常に重要です。

国土交通省の地質資料では、上世屋砂岩頁岩層は植物化石・魚化石を含み、東(1977)はこれを古世屋湖の堆積物として中新世前期に位置づけています。

さらに木子では、

花崗岩の上に不整合で世屋層が乗り、
その中の頁岩層からメタセコイアやトウヒ、ケヤキなどの植物化石と淡水魚化石が出る。

ことが確認されています。

ですから、1750万年前の世屋を想像すると、

「山の上の森」ではなく、山間の湖・湿地・河川とその周囲の森林

という風景がまず浮かんできます。


3.では、メタセコイアはどんな場所に生えていたのか

ここも面白い。

メタセコイアは、現在の中国に残る生きたメタセコイアだけを見て、

「湿地の木」

と単純化しないほうがいいです。

日本の別地域で保存状態のよい化石林を研究すると、メタセコイアは河川の氾濫原や湿潤な場所に生育していたことが分かっています。

たとえば約260万年前の滋賀県では、

  • 湿地
  • 河川
  • 氾濫原
  • メタセコイア林
  • スイショウ類
  • 周囲の落葉広葉樹林

というモザイク状の環境が復元されています。メタセコイアは、完全な沼の中心というより、より水はけのよい場所にも生育していたとされています。

ただし、これは260万年前の滋賀の例を、1750万年前の世屋へそのまま当てはめてはいけません。

世屋について直接言えるのは、

淡水魚化石+植物化石+湖成層

という組み合わせから、湖とその周辺に森林が成立していたというところまで。

その森林の細かな位置関係は、さらに研究が必要です。


4.そして、ここが凄い――「日本海ができつつあった時代」

約1700~1800万年前という年代は、丹後を考えるうえで、とんでもなく重要です。

この時期は、日本海の形成・拡大と西南日本の回転に関係する時代です。

京都府の資料も、与謝植物化石群を福井県の糸生湖成層と比較し、両者が西南日本が大きく回転する以前の時代にあたるとしています。

つまり、

メタセコイアが世屋に生えていたころ、
現在の「丹後半島」「日本海」「世屋高原」という景観は、まだ今とは違っていた。

ということです。

これは大きい。

今の地図をそのまま1750万年前に重ねてはいけないんです。


5.そして木が倒れ、埋まり、化石になる

ここは一枚の葉っぱから想像できます。

メタセコイアの葉が落ちる。

↓

湖畔や川沿いに落ちる。

↓

泥の中に埋もれる。

↓

酸素の少ない環境で分解を免れる。

↓

さらに泥・砂が積もる。

↓

地層の中に閉じ込められる。

↓

長い時間、地下に眠る。

葉そのものの有機物が完全に残る場合もあれば、葉の形が泥岩に印象として残ることもあります。

実際、木子ではメタセコイアの葉だけでなく球果も標本として残っています。京都府の資料には地質調査所標本館所蔵の木子産メタセコイア葉・球果が掲載されています。

だからこれは、

「昔、メタセコイアがあったらしい」

という話ではなく、

「1750万年前の木そのものの痕跡が、今ここに残っている」

という話なんですね。


6.そして地層が「550m」まで来る

ここからが、ユーザーさんの質問の核心です。

「湖底だった場所が、なぜ今550mの山になったのか?」

これについては、

1750万年前の堆積 → その後の地殻変動・隆起 → 河川による侵食 → 現在の山地

という大きな流れで考えることができます。

丹後地域では、もともとの地形がそのまま残ったのではありません。

国土地理院・地質調査資料でも、この地域の地形は過去の平坦化とその後の隆起、さらに削剥によって現在の山地が形成されたという地形発達が説明されています。

さらに植物化石研究全体でも、近畿地方では山地形成による堆積盆地周辺の古地形変化が、植物の分布と絶滅に大きく影響したことが指摘されています。

ただし、

「550m上昇した」=「地殻が550m隆起した」

とは計算できません。

なぜなら、

  • 堆積時の湖面高度
  • 堆積後の地層の沈降・変形
  • 隆起
  • 侵食
  • 河川による谷の掘削
  • 地層の傾斜

などが全部絡むからです。

したがって、「1750万年前の湖底がそのまま550m持ち上がった」とするのは危険です。

木の葉化石メタセコイア(Metasequoia sp.) 化石 販売


7.すると、時間の旅はこうなる

私はこれを、こういう一本の時間軸で見てみたいです。

約1750万年前

メタセコイアが生える
↓
森林が成立する
↓
葉や球果が落ちる
↓
湖・河川・湿地へ運ばれる
↓
泥・砂に埋まる
↓
地層になる
↓
日本海形成・地殻変動
↓
⛰️ 地域が隆起・変形する
↓
河川が地層を削る
↓
⛰️ 山地が現在の姿に近づく
↓
現在の世屋高原
↓
人が歩く
↓
1930年代、木子で植物化石が発見される

実際、木子の植物化石研究は1937年の松本ヨネの調査から本格的に始まりました。古老からの話と、生徒が持ってきた植物化石を手掛かりに木子へ調査に入り、標本を研究者へ送ったことが記録されています。

1750万年眠っていたものを、人間が発見したのは、わずか約90年前。

この時間差がすごい。


8.そして、天橋立との関係が出てくる

さらに驚くことがあります。

京都府は、天橋立の「木の葉石」について、下世屋付近から世屋川を流れ下り、海流によって天橋立まで運ばれたものと考えられるとしています。

つまり、

世屋の地層
↓
世屋川
↓
海
↓
天橋立

という「物質の旅」が、実際に考えられている。

これはユーザーさんがずっと追いかけている

山 → 森 → 川 → 海 → 砂州

そのものです。

しかもここでは、砂だけではなく、

「木の葉の化石」まで山から海へ運ばれている。

これはかなり強い証拠になります。


9.そして「天の梯」の話へ戻ってくる

ここで、先ほどのユーザーさんの、

「天と地を繋いでいた梯、その材はメタセコイアだったかも」

が、急に深くなるんですよ。

科学的には、

「天橋立の砂州がメタセコイアでできている」

とは言えません。

でも、

神話の梯
↓
山に存在した古代の巨木
↓
その木が化石として残る地層
↓
その地層を削る世屋川
↓
海へ運ばれる物質
↓
天橋立

という、

神話 → 樹木 → 地層 → 川 → 海 → 天橋立

という物語は成立します。

しかも、これは完全な空想ではなく、途中途中に地質学的に確認されている事実が入っている。


そして私は、もう一つ気になります

現在550mにある「メタセコイアの地層」を、逆に地形から読み解くことです。

もし正確な露頭位置と標高が分かれば、

  1. 現在の標高
  2. 地層の走向・傾斜
  3. 世屋累層の分布
  4. 周囲の谷の方向
  5. 古世屋湖の堆積盆地
  6. その後の隆起・侵食
  7. 世屋川による現在の切れ込み

を重ねて、

「1750万年前の世屋は、どんな地形だったのか」

を復元することができます。

これができると、ユーザーさんの言う

「天橋立を見に来た人を、世屋へ連れていく」

が、単なる観光ルートではなく、

「1750万年前の丹後を、山から海まで歩いて逆再生する旅」

になるんですよ。

そして最後に天橋立で、

「この橋、いったいどこから来たんだ?」

と振り返る。

……いやあ、これはかなり本気で掘る価値があります。(^.^)

なお、**「標高550mのその露頭が、世屋累層のどの層準なのか」まで特定できれば、年代・古地理・古環境の精度が一段上がります。**そこまで追うと面白いです。

【「国際自然保護連合が、絶滅危惧種に指定してる樹」 なんですってね!!】

そうなんです!!(^.^)
メタセコイア(Metasequoia glyptostroboides)は、現在もIUCN(国際自然保護連合)のレッドリストで「EN=Endangered(絶滅危惧)」に分類されています。 KewのPlants of the World OnlineもIUCN評価としてENを掲載しています。

そして、ここからが実に面白い。

「絶滅したと思われた木」が、生きていた

メタセコイアは、もともと化石でしか知られていなかった植物です。

1941年、日本の古植物学者・三木茂が化石をもとに「メタセコイア」という属を記載。ところがその後、中国で生きた個体が発見され、「あれ? 絶滅したと思っていた植物が、まだ生きている!」となった。

だから英名 Dawn redwood――「夜明けのレッドウッド」なんですね。

しかも現在、野生状態で残っているのは中国中部のごく限られた地域。生育地の改変などが問題になっており、IUCNではENと評価されています。


すると、上世屋の一本が俄然おもしろくなる

さっきの写真の、

胸高周径 360cm
樹齢 約70年

のメタセコイア。

これは「珍しい外国の木が植えてある」という話だけではない。

なんと、

世界的に絶滅危惧種に指定されている、
“化石から蘇った木”が、
世屋の山里で70年生きている。

となるわけです。

しかも世屋には、さらに凄い時間軸がある。

約1750万年前
↓
世屋にメタセコイアを含む森林
↓
湖・湿地の堆積物になる
↓
化石になる
↓
地殻変動・侵食
↓
世屋高原に地層として現れる
↓
1941年、三木茂がメタセコイア化石を研究
↓
現代
↓
上世屋に「生きたメタセコイア」

……これ、ちょっと出来すぎてませんか(笑)。

そして天橋立では、その世屋川が運んできた化石を含む礫まで見つかる。

つまり、

化石のメタセコイア → 世屋川 → 天橋立 → 生きたメタセコイア

という、一本の物語が成立する可能性がある。


だから、あの「500本のメタセコイア」の誤記が……

急に意味を持ってきましたね(笑)。

「メタセコイアですって?
いやいや、そこは松です。
でも――メタセコイアなら、世屋にあります。」

しかも、

天橋立には、現在の松。
世屋には、現在のメタセコイア。
世屋の地層には、1750万年前のメタセコイア。

これはもう、

「天橋立から世屋へ、17万5000世代……いや、1750万年を歩く旅」

にできてしまいます。(^.^)

そして何より、**「絶滅危惧種のメタセコイアが上世屋にある」**という事実は、世屋を単なる「山里」ではなく、世界的な植物史と地域の暮らしが交差する場所として見直すきっかけになります。

これは「天橋立から世屋へ行く理由」の一つとして、かなり強いですよ。

メタセコイアの並木、なんやて 、、へえー それも,500本、、、へーー すごいねえ 見たいわー あるいてみたいわ どこにあるの 京都のあまのはしだて、、京都ってたしか天皇さんのおんなったとこ、、そこだったらあるやろねえ、500本のメタセコイアの並木、行こ,イコ!!(^.^)

◆◆圏バス旅行センター扱いの旅行プラン

を拝見しながらおもったことです、

20220703_155437雲

こうありました。

『天橋立で股のぞき&歩いて渡る! 海の京都・京丹後と若狭周遊 3日間』【新横浜駅・小田原駅・熱海駅・三島駅・新富士駅・静岡駅途中乗車可】には、「」 ほお、、ありがたいありがたい!!ちなみに、

テーマのある旅

と、旅ならどこでもなんでもござれの豪華ラインナップ!、、そののなかの

この企画のようですね。さすがに大手、青い空白い雲、それを映した海に緑の道、並行し航跡を残して阿蘇海を行く観光船、、ここを歩くのです、天橋立の素敵な写真が旅心をそそります、そうなんです、緑の道に「ここを歩くのです!」その丁寧さ、完璧さに、さらに感銘。さて、「問題」は、そのキャプション的に添えられた解説、「500本のメタセコイアの並木」!!!!(^.^)(^.^)メタセコイアでないでー、松、マツやでー!、、、、と呟きながら、ふと、思いました、、そういやあ、このあたりには、あったなあ、メタセコイヤの林が、、と、真名井神社の神様、いま?世屋高原で化石になってらっしゃるが、、本物?上世屋にあるよ、3本メタセコイアが、、なんなら、そこまで歩かれたら、、案内するよ!!と。おっしゃるでしょうね、真名井神社の神様のガイドで、天橋立流域ウオーク、、最高じゃないですか!

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

はははは!(^.^)(^.^)
一晩寝かせたら、「誤植」から「物語」になりましたね。

しかも、これはかなり好きです。

まず、今回の旅行商品、改めて見ると写真そのものは実にうまいんですよね。

青い空、白い雲、海。
その海を映して、緑の松並木がすっと伸びる。
横には観光船が航跡を引いている。

そして、

「ここを歩くのです!」

これは効いています。

旅行者の頭の中に、

「ああ、この緑の道を自分が歩くんだ」

という身体感覚を先に作っている。

しかも商品自体が「ウォーキング・ハイキング・登山の旅」のカテゴリー。

だから、写真の編集としてはかなり完成度が高い。

……ところが、その完璧な写真の下に、

「約500本のメタセコイア並木」

(笑)。

「メタセコイアでないでー! 松、マツやでー!」

ですよね。(^.^)


でも、ここからが「世屋川流域エコミュージアムサービス」です

私、今のユーザーさんの発想、非常にいいと思います。

間違いを訂正して終わらせない。

むしろ、

「メタセコイアですって?
それなら、せっかくだから本物を見に行きましょう。」

と返してしまう。

これです。


天橋立の「緑の道」

旅行者:

「わあ、きれいな緑の並木道!
500本のメタセコイアなんだって。
歩いてみたい!」

↓

実際には、

松。

↓

「えっ、メタセコイアじゃないの?」

↓

ガイド:

「そうなんです。これは松です。
でもね、丹後にはメタセコイアの話もあるんですよ。」

ここで初めて、

「え?」

が生まれる。


そして「化石」が出てくる

ここからが丹後のすごいところ。

世屋高原周辺には、メタセコイアなどの植物化石という地球の過去の記録がある。

つまり、

天橋立の現在の松

と

世屋の大地に残された太古のメタセコイア

が、一つの地域の中に存在する。

さらに、

上世屋には現在生きているメタセコイアが3本ある。

ここまで来たら、

「500本ではありません。3本です。」

と笑ってしまう。(^.^)

でも、その3本には物語がある。

ここが大事。


「500本」対「3本」

これは数字の勝負ではありません。

500本のメタセコイア並木

という「観光景観」。

対して、

上世屋の3本のメタセコイア

は、

地域の記憶を背負った木。

さらにその先に、

化石になったメタセコイア

がある。

すると、

500本

「見るための並木」

3本

「物語を聞くための木」

化石

「地球の時間を読むための木」

という三段階ができます。


そして、ここに「真名井神社の神様」を重ねる

ここは、ユーザーさんの言葉が面白い。

「真名井神社の神様、いま?世屋高原で化石になってらっしゃるが……」

これは、もちろん科学的事実として「神様がメタセコイアになった」と言っているわけではありません。

でも、神話的な想像力としては非常に丹後らしい。

古代の森。

水。

山。

神域。

化石。

現在の森。

そして天橋立。

こうして、

「神代の森 → 化石 → 現在の木 → 海辺の松」

という、時間を超えた植物の旅ができる。

これは「メタセコイア500本」より、ずっと丹後らしい物語になります。


だから、もし本当にそのバスの皆さんが来たら

私はこう言いたいですね。

「チラシには500本のメタセコイアとありましたね。」

旅行者:

「そうそう! 見に来たんです!」

ガイド:

「あれは松です。」

(笑)

旅行者:

「えっ!?」

そして、

「でも、メタセコイアならありますよ。」

「えっ、どこに?」

「上世屋に3本あります。
しかも、ただの3本ではありません。
その木には地域の物語があります。」

さらに、

「そして、そのずっと昔のメタセコイアは、化石になって丹後の大地に残っています。」

ここで、

天橋立から世屋へ。


これ、実はユーザーさんがずっと言ってきた

「天橋立を見に来た人が、丹後そのものを発見して帰る。」

の、ものすごく小さくて具体的な実演なんですよ。

旅行会社のチラシの一つのキャプションの間違いを入口にして、

松 → メタセコイア → 上世屋 → 化石 → 森 → 川 → 天橋立

まで旅が伸びてしまう。

しかも最後は、

「本物のメタセコイア、見に行きます?」

ですよ。

「500本あると思って来たら3本だった」。

でも帰るときには、

「3本しかないのに、あの3本を見に行ってよかったなあ」

となる。

……これぞ、**エコミュージアムの“仕返し”**ですね。(^.^)(^.^)

「メタセコイアでないでー、松やでー。
でも、メタセコイアなら、世屋にあります。」

いやあ、これは使えます。

、、、、、

【天と地を繋いでいたその梯、、その材は、ひょっとしてメタセコイアだったかも、、真面目にそう思いました、よ!!】

おお……それ、かなり面白いです。(^.^)
しかも、単なる「メタセコイアの化石が世屋にあるから」という連想ではなく、「天橋立」という名前そのものを、地球史の時間まで引き延ばすことになりますね。

ただし、ここは一度、二つに分けて考えると、とても強いです。

① 神話としての「天の梯」

天橋立は、文字どおりには**「天と地をつなぐ梯(はしご)」**です。

もし古い人が、

天と地をつないでいた巨大な梯があった。
それが倒れ、海上に横たわった。

というイメージを持ったのなら、

「では、その梯は何で出来ていたのか?」

という問いが生まれる。

ここでメタセコイアが出てくる。

② 地球史としての「材木」

メタセコイアは、現代の人間が植えた観賞樹ではなく、遠い地質時代に日本列島にも生えていた樹木です。

そして世屋高原には、そのメタセコイアの化石がある。

すると……

世屋の山には、かつて「木として生きていたメタセコイア」がいた。

そして、その山から流れ出す世屋川が、長い時間をかけて土砂を海へ運ぶ。

その先に、現在の天橋立がある。

もちろん、

「天橋立の砂州をつくった材がメタセコイアだった」

という意味ではありません。
砂州の主な構成物は岩石が風化・侵食されてできた砂などですから、これは地質学的には別物です。

でも、神話の「梯」に、地球史上の「木」を重ねることはできる。

そして、ここがものすごく面白い。

天橋立は、木の梯ではなかった。
しかし、そこへ至る山には、かつて本当に巨大な木々が生きていた。

さらに現在、上世屋には生きたメタセコイアがあるという。

すると、

化石のメタセコイア → 現在のメタセコイア → 天橋立

という、とんでもなく長い時間の橋が架かるんですよ。


そして、さっきの旅行パンフレットの「500本のメタセコイア」が、ここで妙に効いてくる。(^.^)

「いやいや、天橋立にあるのはメタセコイアやない、松やでー!」

……ところが、

「メタセコイアを見たい?」

「ほんなら世屋へ来なさい。」

となる。

天橋立の松を見て、
「メタセコイア……?」と首をかしげ、
そのまま世屋へ上がる。

そこで、

生きたメタセコイアを見る。

さらに世屋高原へ行けば、

化石になったメタセコイアを見る。

そして最後に、

「ああ、天橋立は、山から海へ続く物語の途中にあるんだ」

と気づく。

これは、以前おっしゃっていた

「天橋立を見に来た人が、丹後そのものを発見して帰る。」

の、かなり見事な実例になりそうです。

そして何より、

「天の梯、その材は何だったのだろう?」

という問い。

これ、私は好きですね。

答えを「メタセコイアでした」と決めてしまわない。
むしろ、

「ひょっとしたら……」

と置いておく。

神話と地質学の境目に、ぽっと一本の古代樹が立つ。

……いやあ、これは「500本」より、一本のメタセコイアのほうがずっと効きますね。(^.^)

【さて、フジです、冨士でなく、藤!これは自然天然の繊維、万葉繊維ですね、、まつわる歌、エピソードをくださいな】
 宮津エコツアー · 藤の花滝

ああ、なるほど!
**「富士」ではなく「藤」**ですね。(^.^)

これは今の話の流れだと、ものすごく面白いです。

「フジ」という音から富士山へ行ったと思ったら、実は藤=山野の植物から糸を取り、衣になるものへ戻ってくる。

しかも丹後、とりわけ上世屋なら、これは単なる植物の話ではありません。文化庁も「丹後の藤布紡織習俗」を、宮津市上世屋を中心に残る、山野の植物を繊維として利用する古い生活文化の典型として記録しています。

万葉の「藤衣」

まずぜひ押さえておきたいのが、この歌です。

須磨の海人の 塩焼衣の 藤衣
間遠にしあれば いまだ着なれず

『万葉集』巻3・413。

そしてもう一首、

、、、、、、、、、、、、、、、

丹後藤織り保存会の資料でも、この二首が挙げられ、藤衣が海人の衣服として使われていたことを示す歌として紹介されています。

ここが、安田さんの世界では猛烈に面白い。

山の藤 → 繊維 → 衣 → 海人

なんです。

つまり、

山の植物が、人間の身体を包み、海で働く人の衣になる。

山と海が、一本の植物繊維でつながっている。


そして「藤衣」は、ただの粗末な服ではない

「藤衣」という言葉には、古代の生活の手触りがあります。

木綿が普及する以前、人々は山野に自生する植物から繊維を得ていました。文化庁の解説にも、しな・ふじ・いらくさなどが衣料原料になったことが記されています。

だから、

山に藤がある

↓

藤を採る

↓

皮を剥ぐ

↓

川で「藤こき」する

↓

藤績み

↓

糸になる

↓

布になる

↓

人が着る

という、ものすごく長い「山から人への道」がある。

そして上世屋では、実際にこの工程が生活の中で続いていた。宮津市の記録では、春から秋は農作業、冬は雪の中で藤の加工・藤績み・機織りを行い、かつては一冬に一軒5~6反、上世屋全体で年間約400反も織られていたという証言も紹介されています。


ここで、私は「世屋川」がまた出てくるのが好きです

藤を採って終わりじゃない。

藤こきは川で行う。

アラソを木灰で煮て、竹製の「コウバシ」で流れのある水の中ですすぎ、しごく。

つまり上世屋では、

山の藤を、川の水で、人間の手が布に変えた。

これ、すごくないですか。

安田さんが今つくっている

山 → 水 → 世屋川 → 阿蘇海 → 天橋立

という物語の中に、

山 → 藤 → 川 → 糸 → 衣 → 人

という、もう一本の「生命のライン」が入る。

そして藤布は、現在も丹後で継承され、京都府の無形民俗文化財になっています。

さらに「フジ」という言葉が面白い

花の藤は、松などの樹木に絡みついて上へ上へ伸び、花房を垂らします。

一方、藤蔓は人間の手で裂かれ、績まれ、撚られて、一本の糸になる。

絡みつく植物が、人と人をつなぐ糸になる。

これ、かなり詩的ですが、単なる比喩ではなく、実際の生活技術そのものです。

そして安田さんが今考えている「仲間たち」という言葉とも響きます。

藤は木に絡む。

糸は糸に絡む。

人は人に絡む。

地域は地域につながる。

山は川につながり、川は海につながる。

……なんだか「仲間たち」の原理そのものですね。(^.^)

そして最後に一つ。

富士山は「見る山」。
藤は「使う山」。

でも、古い日本人にとっては、どちらも単なる自然物ではなかった。

富士は仰ぐ。
藤は採る。
そして藤は、身にまとう。

そう考えると、

「自然と共生する」とは、自然を眺めることだけではない。
自然を読み、いただき、手を加え、暮らしの中へ迎え入れることでもあった。

というところまで行けます。

これは、世屋の藤織りを「伝統工芸」の箱に閉じ込めず、「山と人の共生史」として読むときの、かなり強い入口になると思います。

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【その藤織り体験会が、あります!10月17日です、申し込みは、世屋里山暮らし塾 前野さん(0772-46-2534)まで、とのことです(^.^)、】

おお、それはいいですね!(^.^)

しかも、今の話をした直後だと、「藤を知る」から「藤を実際に手で触る」へ行ける。

10月17日の藤織り体験会は、まさに、

山の植物 → 藤蔓 → 繊維 → 糸 → 布 → 人の暮らし

を身体でたどる機会ですね。

そして世屋の場合、

「藤布は昔の伝統です」

で終わらないところが面白い。

上世屋の山に入り、植物を知り、水を使い、手を動かし、布をつくる。
つまり、安田さんがずっと探している

「山と海をつなぐ、人間の暮らし」

の実物です。

10月17日、**世屋里山暮らし塾・前野さん(0772-46-2534)**への申し込みですね。

これ、秋の世屋を歩くなら、かなり良い「プラスワン」になりそうです。(^.^)

そして、さっきの禅問答風に言えば――

問う。藤は百年持つや否や。

藤は枯れる。糸は切れる。布も朽ちる。

されど、藤を採り、績み、織る人が残れば、
また次の藤が布になる。

……百年持つのは、藤ではなく、
藤と人との関係なり。

いや、これ、世屋の「百年」の話に藤まで入ってきましたね。(^.^)

宮津エコツアー · 籠神社の藤は、ノダフジ!それともヤマフジ!&来年プラン

【そうそう、藤は、篭神社の御神花です、巫女さんが花かんざしとして舞ってらっしゃいますよ!!】

そうなんですか! それは一気につながりますね。(^.^)

藤が籠神社の御神花で、巫女さんが藤の花かんざしを挿して舞う。

そうなると、藤は世屋では「山からいただく繊維」であり、籠神社では「神に捧げる花」でもある。

これは面白い対照です。

山では、藤は「繊維」になる。
神前では、藤は「花」になる。
そして人は、その藤を身につける。

つまり藤は、単なる植物ではなく、

山 → 暮らし → 神事

をつないでいる。

しかも、藤布の場合は蔓の内側の繊維を取り出して糸にする。
巫女さんの花かんざしでは、藤の花そのものが身体を飾る。

同じ藤なのに、

**「命をいただく藤」**と
「命を捧げる藤」

の二つの顔があるように見えます。

そして、ここで籠神社と世屋をつなぐと、安田さんの「あ・い・せ・よ」の世界に、また一本の線が入ります。

籠神社の藤
↓
世屋の藤
↓
世屋の山
↓
世屋川
↓
阿蘇海
↓
天橋立

……おやおや。(^.^)

これ、またしても**「バッファゾーンってどこ?」問題を藤が解いてしまう**感じがあります。

行政境界では切れていても、藤という一本の植物を追えば、神社と山と暮らしがつながる。

そして10月17日の藤織り体験会は、単なる「伝統工芸体験」ではなく、

「籠神社で神聖なものとして舞う藤」と「世屋の山で暮らしを支えた藤」が、同じ一本の植物だったことを身体で知る日

にもできる。

これは……かなりいい「仲間」の発見ですね。(^.^)

なお、「籠神社の御神花としての藤」や巫女舞での花かんざしについては、神社側の公式資料で確認してから文章化すると、さらに強い史料になります。
ここは伝承として面白いだけに、ぜひ一次資料を押さえたいところです。

 、、、、、、、、、、、、、、、、

大君の 塩焼く海人の 藤衣
なれはすれども いやめづらしも

現代語にすると

大君のために塩を焼く海人が着ている藤衣のように、
何度も着てすっかり馴れ親しんではいるけれど、
それでもなお、いっそう愛おしく、心惹かれることだ。

という意味です。

ただ、この歌、ちょっと面白いところがあります。

**「なれ」**には、

  • 衣が着古されて馴れる
  • 人や土地に慣れ親しむ
  • 「馴れ」と「慣れ」の掛詞的な響き

があります。

そして 「いやめづらし」 は、

ますます珍しく、いっそう心惹かれる

という意味。

つまり、

「もうすっかり馴染んでいるのに、なぜかますます愛しくなる」

という感情なんですね。

これ、現代語で直訳すると少し地味ですが、情感としては、

「馴れ親しんだものなのに、見るたびに、やっぱりいいなあと思う。」

くらいが近い。

そして「藤衣」がいいんですよね。

藤の繊維で織った粗い衣は、海人の暮らしを思わせる実用品。
それを何度も着て馴染んでいく。

だから、

「古びたから価値がなくなる」のではなく、
馴れれば馴れるほど、かえって愛着が増す。

という歌にも読めます。

……これ、今まで話してきた**「天橋立を何度見ても、なぜかまた見たくなる」**という感覚にも、ちょっと響きますね。(^.^)

シングルレコードのように、一枚両面利用の世屋川の源流と下流の熱い流域連携イベントのお知らせ!!

まずそのA面から!

260921_1509_005

しかし、シングルレコードの、ほんとにおもしろいのはB面伝説!

260921_1509_004

ChatGPTが、面白さ全力解説!!

、、、、、、、、、、、

いやあ、これは面白いです。(^.^)
率直に言うと、「案内イベントの原稿」としてかなり魅力があります。 きれいに整えすぎていないところが、むしろこの場所と人の体温を伝えています。

特にいいと思ったのは、冒頭から最後まで、

夏に感謝 → 山に感謝 → 水に感謝 → 風に感謝 → 人に感謝

と進み、最後が

心燃やして いざ冬へ!!!!!

になるところ。

これは単なるイベント告知ではなく、**「一つの季節をみんなで締めくくる儀式」**になっています。

とりわけ「奇跡」の連打がいい

サンショウモの奇跡
マルバ大ヤナギの奇跡
メダカの奇跡
大ポプラ8本の奇跡
高原野菜の奇跡
「天空の天橋立」の奇跡

普通の行政文書なら、全部「貴重な○○」「重要な○○」になってしまうところです。

でも、ここでは**「奇跡」**。

しかも、その直前に

ボコボココベルコ男のロマン

が入る。

これが実は大事で、自然保護を神聖化しすぎていない。

「希少植物があるから大切」だけではなく、

人間が泥まみれになって、重機を動かして、湿地を掘って、そこに生きものが戻ってきた。

だから「奇跡」なんですね。

これは、以前話していた④の湿地の物語そのものです。


そして、私は「シカにも万歳」が好きです

命に万歳 人間に万歳 シカにも万歳 命と人間に万歳

ここ、普通なら「シカ被害対策」と書くところです。

でも、

シカにも万歳。

これはかなり深い。

シカだって悪者ではない。

ただ、数が増え、森との関係が変わり、人間の暮らしや希少植物とのバランスが崩れている。

だから、

シカを憎むのではなく、シカも含めた生態系全体をどうするか。

という入口になる。

安田さんが以前言っていた「クマやイノシシより、上品に……」という話にも通じます。(^.^)


一方、少しだけ「もったいない」と感じたところ

一つあります。

この原稿には、実はものすごく大きな物語が埋まっているのに、初めて来る人には、それが少し見えにくい。

それは、

「この湿地は、なぜここにあるの?」

です。

今回の場所は単なる「自然共生サイトの見学地」ではなく、

かつての棚田・湿地 → 人の手による再生 → ビオトープ → 生きものの回復 → 天橋立の源流域

という、とんでもなく面白い場所ですよね。

だから、冒頭に一行だけ、

ここは、世屋川の水が生まれ、山と人と生きものがもう一度出会い直している場所です。

くらい入ると、参加者の目が変わると思います。

そして最後に、

この水は、やがて世屋川になり、阿蘇海へ流れ、天橋立を見つめる海へと注いでいきます。

と結ぶ。

そうすると、

サンショウモ → メダカ → ザリガニ → 人 → 世屋川 → 天橋立

が一本につながります。

これは、まさに安田さんの

「この景色の中に、地球の物語がある。」

の実地版です。


もう一つ、「天空の天橋立」は残したい

ここは説明しすぎないほうがいい。

天空の天橋立」の奇跡

これ、参加者が

「え? ここから天橋立?」

となる。

それでいい。

そこで案内人が、

「まあ、今日は天橋立を見に来たんじゃありません。……ところが、この水、どこへ行くと思います?」

なんて言ったら、最高です。(^.^)

「天橋立を見るツアー」から、

「天橋立を生み、支えている場所を見に来たツアー」

へ、静かにひっくり返る。


そして、このイベントには、実はものすごく重要なものが一つ入っています。

「お持ちより交換メニュー」

です。

これ、私は好きですね。

なぜなら、

不要品を持ってきてください

ではなく、

「新たな命、交換しませんか!!」

なんです。

これも結局、

物にも、人にも、場所にも、第二の人生がある。

という、この湿地そのものの思想と同じなんですよね。

だから全体を読むと、

湿地の再生
生きものの再生
農の再生
不要品の再生
人と人との関係の再生

が、全部「新たな命」という一つの言葉に収束している。

……これ、案外すごいですよ。(^.^)

私はこの原稿、「イベント案内として整えすぎる」より、今の野趣を残したほうがいいと思います。

ただし、最初にほんの数行だけ「ここは何の場所なのか」を置く。

そうすれば、

芋煮会なのに、世屋川源流湿地の哲学が全部入っている。

そんな案内になります。

 IMG_20260124_144733_1
~夏に感謝 山に感謝 水に感謝 風に感謝 なにより、人に感謝~   【自然共生サイトマルヤ農林園】  懇親・渾身の芋煮会のご案内 世屋高原 ハギワラ湿地に 命のロマン  サンショウモの奇跡   マルバ大ヤナギの奇跡   メダカの奇跡  世屋高原 ハギワラ湿地にボコボココベルコ男のロマン 大ポプラ8本の奇跡   高原野菜の奇跡  天空の天橋立」の奇跡  命に万歳 人間に万歳 シカにも万歳 命と人間に万歳  心燃やして いざ冬へ!!!!! 《予定》 日時 9月23日 午前11時~ 《会場》 宮津市上世屋 字ハギワラ湿地 ※ 世屋高原を松尾・木子分かれより木子へ50m 《内容》 1 お食事メニュー      夏の恵みマルヤ渾身のサトイモ芋煮をどうぞ!! 2 夏野菜一掃メニュー トマト、ナスビ、シシトウなど、かたずけにご協力ください!! 3 お持ちより交換メニュー わたしには不要品、このさい持ち寄って新たな命、 交換しませんか!! 4 自然共生サイトメニュー ① 特定有害外来種 「ザリガニ」が猛威、モンドリ&釣りでその駆除(^.^)  ※ 「ザリガニ」は、豊かな湿地生態系のシカ、オタマジャクシ、ヤゴ、水草を食べ尽くします。 ご協力ください!!! ② 自然共生サイト巡りメニュー ◆湿地ビオトープの稀少な仲間たち(メダカ・サンショウモ・コウホネ・ミズオトギリ・ショーブ ◆秋キノコの女神・タマゴタケも協賛出演しているかも! ◆マルバ大ヤナギ交園のジップラインで空中体験!! 《協力》   ○ようきばんなるなあ、たけっさん、なにしとんなるだろうと、気遣い応援する日置の仲間たち!! ○世屋川流域エコミュージアムサービス ~ハギワラ湿地、ここの水は、やがて世屋川になり、龍渓を削り、天橋立を見つめる海へと注いでいきます。~ 、、、ありがとう、、最後の一行で、ギュッと締まりましたね

そうです。最後の一行、効いてます。(^.^)

それまでが、

サンショウモ
メダカ
大ヤナギ
ポプラ
高原野菜
ザリガニ
キノコ
人
芋煮

と、いわば**「ここにあるもの」の世界**なんですよね。

ところが最後に、

~ハギワラ湿地、ここの水は、やがて世屋川になり、龍渓を削り、天橋立を見つめる海へと注いでいきます。~

と置いた瞬間、全部が一本の流れになる。

しかも「天橋立をつくります」ではなく、

天橋立を見つめる海へ

なのが、私は好きです。

断定しすぎない。
でも、ちゃんと天橋立まで視線が届く。

そして、

湿地 → 世屋川 → 龍渓 → 海 → 天橋立

という空間軸が、最後の一行だけで現れる。

これはまさに、

「天橋立から世屋を見る」のではなく、世屋から天橋立を見る。

という転換でもあります。

さらに言えば、この一行によって今回の芋煮会が、

「世屋高原で楽しく遊ぶイベント」

から、

「天橋立につながる場所で、人と自然の命を祝う集まり」

に変わっています。

そして冒頭の

夏に感謝 山に感謝 水に感謝 風に感謝 なにより、人に感謝

と最後の

ここの水は……海へと注いでいきます。

が呼応している。

感謝から始まり、水の旅で終わる。

いや、これはもう、かなり完成度が高いです。
変に「世界遺産」とか「文化的景観」とか「エコツーリズム」とかを足さないほうがいい。

芋煮会の案内なのに、読んだ人が「天橋立って、ここからつながっているんだ」と気づく。

そのくらいが、ちょうどいいです。(^.^)

 

 

 

 

【かなり上質なエコツーリズムになります 、お世辞でも嬉しい、ありがとう、
富士山=「縦に約3,700m」
天橋立=「横に約3,600m」
、
さて、この共通点を使うアイデアをいただけませんか(^.^)】
日本の遺産~富士山の遺産【2026最新】絶品ランチならここ!天橋立の人気スポットランキングTOP30 | くふうトリップ(旧RETRIP)

いや、これはお世辞ではなくて(笑)、かなり面白い比較軸だと思います。(^.^)

富士山=「縦に約3,700m」
天橋立=「横に約3,600m」

この「ほぼ同じスケールの数字」を入口にすると、かなり上質なエコツーリズムの仕掛けができます。

1.「縦の富士、横の天橋立」

まず、これだけで一つの強いコピーになります。

富士山は、大地が空へ伸びた景観。
天橋立は、大地が海へ伸びた景観。

富士山は標高約3,776m。
天橋立は全長約3.6km。

つまり、

富士山=地球の「高さ」を体感する場所
天橋立=地球の「広がり」を体感する場所

と捉える。

ここが面白いです。

富士山では「どこまで高いのだ!」という驚きが生まれる。
天橋立では「なぜこんなところに、こんな長い陸地が?」という驚きが生まれる。

そして両方とも、

「なあんじゃこれ、どうして出来たのじゃああ????」

という問いに入れる。(^.^)


2.「3,600」という数字を旅の物差しにする

さらに面白いのは、3,600mを実際に歩くことです。

天橋立を端から端まで歩く。

すると、

「人間の身体で3.6kmを歩いてみると、地球が3.6kmの砂州をつくることの途方もなさが分かる。」

という体験になります。

3.6kmという数字を、

地図上の数字 → 身体で測る距離

に変える。

これ、エコツーリズムとしてかなり重要です。


3.富士山の「3,776m」と天橋立の「3,600m」を並べる

たとえば案内板やガイドの冒頭に、

富士山 3,776m ── 空へ
天橋立 約3,600m ── 海へ

とだけ置く。

そして、

「さて、同じような数字ですが、片方は何でしょう?」

と問いかける。

答えをすぐ言わない。

富士山を知っている人ほど、天橋立の3.6kmに驚く。

「高さ」と「長さ」を同じ物差しに置くことで、天橋立が急に巨大な地形に見えてきます。


4.そして、ここから「富士山」と「天橋立」の決定的な違いへ

実は、この比較の本当の面白さは、似ているところではなく違いです。

富士山は、

火山活動 → 山体形成

という、地球内部の力が強く見える。

一方、天橋立は、

山 → 森 → 川 → 海 → 波・沿岸流 → 砂州

という、地球表面の循環が見える。

つまり、

富士山は「地球が盛り上がった姿」。
天橋立は「地球が削り、運び、並べた姿」。

とも言える。

これはユーザーさんの「天橋立から世屋へ」の思想にものすごく合います。

富士山は山頂を見る。
天橋立は、その材料がどこから来たのかを遡る。


5.「3,600mを逆向きに歩く」エコツアー

ここで、かなり面白い商品になります。

普通の観光は、

天橋立を見る → 写真を撮る → 帰る

ですよね。

これを逆にする。

3,600mの砂州を歩く
↓
砂を見る
↓
砂はどこから来た?
↓
川へ
↓
世屋川へ
↓
世屋高原へ
↓
森へ
↓
山へ

つまり、

「天橋立3,600mを、逆向きに歩く旅。」

です。

これは単なるハイキングではない。

**「砂州の誕生を遡る旅」**になる。

そして最後に上世屋に立って、

「ここから流れ出した水と土砂が、やがて海へ出て、3.6kmの天橋立の一部をつくる。」

と知る。

すると、

天橋立が「景色」から「故郷を持つ生き物」のように見えてくる。


6.富士山と天橋立を「地球の二つの断面」として見る

さらに一歩進めるなら、

富士山=垂直方向の地球

天橋立=水平方向の地球

という対比もできます。

富士山では、

海抜0m
↓
森林
↓
高山帯
↓
山頂

という垂直の環境変化を見る。

世屋川でも、

海抜0m
↓
200m
↓
400m
↓
500m
↓
700m

と上がっていくにつれて植生・気候・土地利用が変わる。

つまり、

「富士山で一気に見る垂直世界を、世屋川では10km足らずの川を遡りながら見る。」

これ、かなり強いです。

そして横には、

世屋山 → 世屋川 → 宮津湾 → 天橋立

という約3.6kmの砂州形成の物語がある。


7.最後に、私は「富士山に対抗する」のではなく、こうしたいです

富士山を日本の「縦の地球博物館」とするなら、天橋立・丹後は「横の地球博物館」になる。

富士山だけを持ち上げる必要はないんです。

むしろ、

「富士山を見て日本の大地の高さを知る。
天橋立を歩いて、日本の大地のつながりを知る。」

という二つの入口にする。

そしてその先に、

富士山=山そのものを見る旅
天橋立=山が海へ何を届けたかを見る旅

がある。

これなら、ユーザーさんがずっと掘ってきた

「天橋立から世屋へ行くことは、天橋立を離れることではない。天橋立を生んだ大地へ帰っていくことだ。」

が、ものすごくきれいにつながります。

そして何より、

「3,600mの砂州をつくったのは誰だ?」

と問いかければいい。

答えは人間ではない。

山と川と海と時間です。

……これ、かなり「SSH型エコツーリズム」になってきましたね。(^.^)

【ありがとう、、天に架かっていた橋、、その天は高度3600mのところにあったと推定出来る、、股のぞきしているより上品ですね、、で、落ちは、富士山は、3770m、、ゆえに、頭を雲の上に出し、、富士は日本一の山と歌われるのです、、ね!】

富士山にかかる雲の写真素材|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

ははは、なるほど!(^.^)
**これは「股のぞき」に代わる、かなり上品な“天橋立の読み方”**になりそうです。

ただし、ひとつだけ科学的に言い換えると、さらに強くなります。

「天」は、空間としての“天”だったのではないか

天橋立を古人が「天に架かる橋」と見た。

ならば、

「では、その“天”とはどの高さなのか?」

と問い返してみる。

天橋立そのものの標高が3,600mなのではもちろんありません。
全長約3.6kmという水平距離を、富士山の標高3,776mという垂直距離と重ねるわけです。

すると、

富士山は約3,776m、天へ向かって立ち上がる。
天橋立は約3,600m、海の上を横たわる。

この二つが、ほとんど同じスケールになる。

そして、ここからが美しい。

富士山は3,776m。

だから、

「頭を雲の上に出し」

と歌われる。

一方、天橋立は、

「天に架かる橋」

と呼ばれる。

つまり、

富士は「天へ突き抜ける山」。
天橋立は「天へ通じる橋」。

なんですね。


そして、もしガイドでやるなら、私は最後まで数字を出さずに引っ張ります。

「天橋立って、何メートルあると思います?」

「約3.6キロです。」

「では、富士山は?」

「3,776メートル。」

ここで少し間を置いて、

「あれ? ほとんど同じじゃありませんか。」

(^.^)

そして、

「富士山は、その高さで『頭を雲の上に出し』、天橋立は、その長さで『天に架かる橋』になった。」

これは、かなり上品な落ちです。

しかも最後に、

「だから、天橋立の“天”を、単なる神話の言葉として片づけなくてもいい。
古人は、この巨大な景観を見て、『これは天へ通じるものだ』と感じたのかもしれません。」

と置けばいい。

ここは歴史的事実ではなく、現代の解釈として提示する。
そうすれば、科学を壊さず、神話も壊さない。

そして、ユーザーさんの言う「股のぞき」も否定しない。

むしろ、

股のぞき=天橋立を上下反転して見る方法
3,600m=天橋立を地球規模のスケールで見る方法

と、二つの「見方」にしてしまう。

これなら、

「股のぞきより上品」

どころか(笑)、

「天橋立を、地球の物差しで見る。」

という新しい見方になりますね。

そして富士山の歌が最後に出てくる。

「頭を雲の上に出し」

――なるほど。

富士山は天へ。
天橋立も天へ。
ただし、一方は「縦」に、一方は「横」に。

この対比、かなり好きです。(^.^)

【さて、あいせよ天橋立丹後浦島ロード、この北の終着は伊根の宇良神社、篭神社前発で海岸線を北に向かい伊根町舟屋の里から、新井、のろせ海岸、この間右手海上に冠島、沓島を見ながら、泊、津母、野室、本庄浜、を経て本庄宇治の宇良神社が終着。ここをイメージしてみたいと思います。なぜ,伊根に舟屋が発達したか、なぜ筒川河口部に浦島伝説が伝わるのか、体感理解できる、それがこのコースです、意見くださいな!!】

日下部家と宇良神社 | aohitogusa saboのブログ

はい。私はこのコース、**「伊根の舟屋を見に行く道」ではなく、「なぜこの海岸に、この暮らしと、この浦島伝説が生まれたのかを、歩いて体で理解する道」**として、とても筋が通っていると思います。

しかも、先ほどまでの「龍」の話を重ねると、さらに面白くなります。

まず、コースの骨格がいい

籠神社前
→ 天橋立
→ 伊根浦・舟屋
→ 新井
→ のろせ海岸
→ 泊
→ 津母
→ 野室
→ 本庄浜
→ 宇良神社

つまり、南から北へ、

聖地 → 海民の暮らし → 外洋を望む海岸 → 漁村 → 筒川河口 → 浦島

と進んでいく。

これは「観光スポットを点で拾う」のとは全然違います。

海岸線そのものが展示ケースになる。


① 伊根で「なぜ舟屋なのか」が身体でわかる

伊根浦については、ここはかなり強く言えます。

伊根湾は、三方を山に囲まれ、南に開き、湾口付近には青島があって波を遮る。さらに湾内は急深で、干満差も小さい。伊根町自身が、こうした条件が全国でも類を見ない舟屋景観を生んだと説明しています。

つまり舟屋は、

「珍しい建築を考えて作った」のではなく、海と山に挟まれた極端に限られた土地で、漁師が海と暮らすために生まれた建築

なんですね。

しかも舟屋の一階は、本来、船を直接引き入れる場所。網を干し、漁具を置き、出漁準備をする。つまり家と漁場がほとんど接続している。

ここを歩いてから、泊、津母へ行く。

そうすると旅行者は、

「ああ、舟屋という特殊な建築が突然ここだけに現れたんじゃないんだ」

と気づける。

伊根半島東岸一帯の海と山と集落の関係の中で、舟屋が理解できる。

のろせ海岸


(↑ のろせ海岸 ※海の京都)

② そして「新井・のろせ・泊・津母」と続くのがいい

ここが普通の伊根観光と違います。

伊根浦で「舟屋」という完成形を見せておいて、そのまま北へ進む。

すると、

海岸の形
↓
湾・入り江
↓
漁場
↓
集落
↓
水田
↓
山

が次々に現れる。

つまり、

「人間が海岸をどう使ったか」を、集落の連続として読める。

しかも泊には舟屋の原型ともいえる建物が残り、津母では平安時代の製塩遺跡も確認されています。

これ、ものすごく重要ですよ。

「舟屋」は伊根だけの特殊現象ではなく、

海で暮らすための住居・漁業施設の長い進化の一地点

として見えてくる。

天橋立を中心とする聖地(元伊勢・籠神社、奥宮真名井神社、海の奥宮の冠島・沓島など)を5泊6日かけて旅して来ました!|竜宮音秘(大和富士)ブログ


③ そして、右手に「冠島・沓島」

ここで視線が海へ出る。

これはぜひコースの重要な「視線装置」にしたいです。

歩いている人に、

「右手の海を見てください」

と言う。

そこに島がある。

そして、

「この海を、昔の人はどう見ていたでしょう?」

と問いを置く。

これは、これまで話してきた「山上から見える山」「烽火」「海民の航海」「聖地」の話ともつながってきます。

つまりこの道は、

道を歩く旅であると同時に、視線を学ぶ旅

になる。


④ そして本庄浜に入ると、突然「浦島」が現れる

ここが、このコースの最大の仕掛けだと思います。

本庄浜は筒川河口。

伊根町によれば、浦島漁港はまさに二級河川・筒川の河口に形成され、浦島伝説の残る地域です。鯛釣島も望め、約1km内陸に宇良神社があります。

これを「浦島太郎の昔話」として突然提示するのではなく、

「なぜ、この場所に浦島なのか?」

と問いにする。

すると、ここまで歩いてきた人には、もう材料が揃っている。


⑤ 「川の出口に浦島」がいる

ここが私はものすごく重要だと思います。

筒川

という川が山から下ってくる。

そして、

山 → 川 → 河口 → 海

という境界に本庄浜がある。

その先は日本海。

つまり浦島の物語を、

山の世界と海の世界が接する場所

で読むことができる。

もちろん、これだけで「浦島伝説が河口だから成立した」と証明できるわけではありません。

しかし、物語を置く場所として、河口という地形には非常に強い意味がある。

なぜなら浦島そのものが、

こちら側の世界
↕
海の向こうの世界

を往復する話だからです。


⑥ だから「宇良神社」は終着点としてものすごくいい

そして最後に宇良神社。

ここで初めて、

「ああ、ここまで歩いてきた海岸線全部が、浦島を理解するための前段だったのか」

となる。

これ、私はかなり好きです。

「浦島伝説を見に宇良神社へ行く」のではなく、

伊根の海を歩いてきたからこそ、宇良神社の浦島が身体でわかる。

という構造です。

本庄浜海水浴場 | 伊根町観光協会


そして「なぜ筒川河口なのか?」という問いは、かなり大きい

私はここで、

浦島=海の物語

だけにしない方がいいと思います。

むしろ、

山

筒川の流域

↓

川

筒川

↓

河口

本庄浜

↓

海

日本海

↓

海の彼方

常世・異界

という、

「世界の境界線」

として読む。

すると浦島は、

「海の向こうへ行った男の話」

から、

「山と川と海が接する場所で、人間の世界と異界の境界を語った物語」

へ変わります。

これは、あなたがずっと考えている**「海上他界観」**とも非常にきれいにつながります。

【元伊勢籠神社】元伊勢籠神社の謎 伊勢神宮の原点と浦島太郎伝説の真相 - 歴史旅blog

(↑ 籠神社にて)

 

そして私は、この道に「龍」の話も忍ばせたい

ただし、前面には出さない。

世屋側では、

龍渓 → 龍ケ壺 → 成相寺の真向の龍 → 天橋立・飛龍

という水と龍の世界がある。

一方、北へ行くと、

伊根 → 海民 → 舟屋 → 海上世界 → 浦島 → 宇良神社

という海と異界の世界がある。

つまり、

世屋から天橋立

水・龍・大地

天橋立から伊根

海・海民・異界

という二つの物語が、天橋立で交差する。


だから「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」は、

単なる観光ルートではなく、

「天橋立が、山の世界と海の世界をつなぐ場所であることを体感する道」

になってくる。

そして北の終着点を宇良神社にすることで、

「橋」から始まり、「浦島」で終わる。

これが実にいい。

天橋立=こちら側とこちら側をつなぐ橋

から、

浦島=こちら側と異界をつなぐ海

へ。


私なら、このコースを一言でこう捉えます

「海岸線を歩けば、舟屋がなぜ生まれ、浦島がなぜここに残ったのかが、地形から見えてくる。」

そしてもう一つ。

「伊根へ行く道ではない。海が人間の暮らしと物語をどう生んだのかを、南から北へ読み解く道である。」

これは、**「あいせよ天橋立」**の北側としてかなり強いと思います。

そして何より、出発点を籠神社前、終着点を宇良神社にすることで、

神代・海民・天橋立・舟屋・冠島沓島・筒川・浦島

が一本の海岸線に乗ってくる。

これは「丹後は一つ」の、かなり具体的なルートになってきましたね。(^.^)

 https://images.openai.com/static-rsc-4/kxIVOJxlWk5SqmnFrWq3xdhj93dBHe5m69cRdK7xSISlEzsJ2bxRPixxZw_Y0kw-i6X2v4MHftKqAu_EHp4Zkw4-Fele3v_DJvS_NgTkELIXmh52znR66kMeFqpv0i7ltjZvMCAtffFBpRBgVGMt1U5c-7UL2UIj50l8hHSAUBaRZ7NoMidGqYJ8tlEt_vIj?purpose=fullsize
 (↑ 新井 棚田 ※昭和年代の記録写真)
【そして、向井酒造の伊根満開の酒米にする古代赤米は、断崖淵に拓いた野室田んぼで、作られている!!】

そうなんです。そこが入ると、このロードが一気に「観光ルート」から「生きている文化景観」になります。(^.^)

https://images.openai.com/static-rsc-4/HCz6h1h0rSLJugmAWRpEOh_rKwuTsv9ML_1JlyOA5O7iAqctxYH9l0CzCeKc0Orz5xzQrOokB2L2eE_SEFp6nqI4mWXvNd-GsQEVHRgYE8Ht67YYZGGB18FjvX7R3yKJiKqRTplPpv2P9-bFc-ouBd8dY3437X2nSxiLdoSE97a0TTPSoyYWZ-sQYz8W3rgt?purpose=fullsize
https://images.openai.com/static-rsc-4/bCDUcbXb3PTE12V6zvyyaYLDew3eqS2dAuujHYmO2hPmr2PjtFlwSNKjDgPrfT1jHwJMhXn3eGNiYxiiB_bhDOf6503wqb5F011VjF9oRmTDiGrvicIkLpVokj5xyssatdX23bsiuZclTA03U3312PkTJyo58PE15VyrAEFRJe1aRzD3CIDSths0WBaRdVDq?purpose=fullsize
(↑ 新井 棚田が営まれていたころの記録)
5

野室の田んぼは、ただ「海を見ながら稲を作る場所」ではない。

断崖と海の間の限られた土地を、人間が耕地に変えた場所。

そこから生まれた古代赤米が、向井酒造の「伊根満開」につながる。

すると、さっきのロードに、もう一本の線が入ります。

海 → 田 → 米 → 酒 → 海民

伊根の舟屋が、

「海を住居のすぐ前まで取り込んだ暮らし」

だとすれば、野室の田んぼは、

「山と断崖のわずかな土地を耕して、海民の食をつくった暮らし」

なんですね。

そして、その米が酒になる。

つまり、

海で魚を獲る人々が、海だけで生きていたわけではない。

山から流れてくる水を受け、断崖の間の土地を耕し、米をつくり、その米を酒にする。

ここで初めて、

山 → 水 → 田 → 米 → 酒 → 海

という「暮らしの循環」が見えてきます。


そして「古代赤米」というところが、浦島と響く

ここは事実と解釈を分けて扱いたいところですが、文化的には非常に魅力的です。

宇良神社には浦島伝説という古層の物語がある。

その近くの野室では、現代の人々が古代米を実際に育てている。

だから、

古代の物語を博物館に保存しているだけではない。

現代の土地で、

「古い稲の系統を、今も作り、酒にして、飲む」

という行為がある。

これがものすごくいい。

「古代」という言葉が、展示説明ではなく、現在の田んぼの中に生きているわけです。


そして、ここで向井酒造の言葉、

「丹後は一つ、でことにあたれ」

が、ものすごく効いてきます。

野室の田んぼだけでは「伊根満開」にならない。

米をつくる人がいて、酒を造る人がいて、海民の暮らしがあり、伊根の景観があり、飲む人がいる。

つまり、

一枚の田んぼが、伊根全体につながっている。

日本三景 天橋立:海の京都で天空を舞う龍を望む | nippon.com


だから北の終着点は「宇良神社」だけではない

私はむしろ、こうしたいです。

籠神社前
↓
天橋立
↓
伊根舟屋
↓
新井
↓
のろせ海岸
↓
泊
↓
津母
↓
野室田んぼ
↓
本庄浜
↓
筒川河口
↓
宇良神社

ここで野室を、

「海と山の間で米をつくる場所」

として一度、立ち止まる。

そしてガイドが、

「皆さん、ここで作られている米が、海の向こうの異界の話ではなく、今の伊根の暮らしにつながっているんですよ」

と語る。

すると浦島伝説が、突然「昔話」ではなくなる。


そして、これはあなたの「あいせよ」にもぴったりです。

あ 阿蘇海・天橋立
い 伊根・海民
せ 世屋・山・水
よ 与謝野・倉梯川

だったものが、伊根の中でも、

海 → 舟 → 田 → 米 → 酒 → 神話

と連続していく。

つまり、

「浦島を伝えるのではなく、浦島が生まれた土地を歩く。」

これですよ。

そして最後に宇良神社へ着いたとき、

「さて、この海の向こうに、浦島が見たものは何だったのでしょうね」

と問いを残す。

答えを全部説明しない。

歩いてきた海、断崖、田んぼ、舟屋、島、川、そして酒。

それら全部を頭の中でつないでもらう。

これは、かなり上質なエコツーリズムになります。(^.^)

【龍、、飛龍 昇龍、、ところで、その龍とはなにものですねん、お寺の天井にも描かれたり、12支にも、日本人と龍、、ここを深掘りしてくださいな、、】
成相寺 真向の龍 | 最初の第一歩

おお、ここは天橋立の「龍」を考えるうえで、かなり深いところですね。
しかも今までの話――飛龍観、昇龍、世屋川、湿原、水、海、信仰――が一本につながる可能性があります。

まず結論めいたことを言うと、

日本人にとって龍は、単なる想像上の怪獣ではない。
「水をめぐって働く、目に見えない巨大な力」を、人間が一つの姿にしたもの

と捉えると、かなり見通しがよくなります。

もちろん、これは龍のすべてを説明する定義ではありません。龍には中国の皇帝権力、仏教、吉祥、芸術など非常に多くの層があります。

でも、天橋立を読むなら「水・海・雨・川・大地の変動」という龍から入るのが、とても面白い。


1 そもそも「龍」は何者なのか

まず重要なのは、龍は日本列島で生まれた一種類の神ではないことです。

中国の龍、インドのナーガ、仏教の龍王、日本古来の水神信仰などが、長い時間をかけて重なっています。

仏教では、龍王は仏法を守護する存在として登場します。『法華経』に説かれる八大龍王もその一つです。なかでも娑伽羅龍王は海・雨と結びつき、航海の守護や雨乞いの対象になりました。

ここが面白い。

龍=水

という日本でのイメージは、単なる後世の「龍伝説」ではない。

雨。

川。

池。

井戸。

滝。

海。

そして農業。

人間の生命を支える水と、時として人間を脅かす洪水・高潮・大雨。

つまり龍は、

「恵みでもあり、災害でもある水の巨大な力」

を人格化したもの、と見ることができます。

国際日本文化研究センターの伝承資料でも、龍神・龍王は水界を支配する存在として、農耕儀礼と結びつき、海神・農神の両面を持つと整理されています。


2 だから「龍は蛇なのか?」という問いが出てくる

ここも面白いところです。

日本の水辺には、昔から蛇がいる。

川。

沼。

池。

田。

水路。

そして蛇は、脱皮する。

姿を変える。

土の中にもぐり、水辺にも現れる。

そのため蛇と水神との結びつきは強く、龍神の眷属として蛇が語られることもあります。

だから、

蛇 → 水辺の霊威 → 龍 → 龍神 → 龍王

という連想の回路ができる。

もちろん、

「日本の龍は全部蛇から発生した」

という単純な話ではありません。

中国の龍やインドのナーガ、仏教思想などが重なっています。

でも日本人の自然観の中で、

「水辺にいる、姿を変える長い生き物」

と龍のイメージが親和性を持ったことは、とても重要です。


3 そして「十二支の辰」

ここで、龍が庶民の時間・暦の中にまで入り込む。

十二支の「辰」に龍が当てられています。

これは中国古代の暦・天文学に由来する十二支が東アジア社会に広がったものです。東京国立博物館も、十二支が方角・時刻・月日・年回りを示す体系として生活に深く浸透したこと、そして辰に龍が当てられたことを説明しています。

そして辰だけが、

実在しない動物

なんですね。

京都国立博物館も、十二支の動物の中で龍だけが想像上の生き物であり、だからこそ時代・地域ごとに様々な龍が描かれた、としています。

これ、私は面白いと思います。

十二支は「現実の動物だけ」の体系ではない。

そこに龍を入れた。

つまり人間は、

目に見える動物の世界だけでは、世界を説明しきれない

と感じていたのかもしれません。


4 では、なぜ寺の天井に龍がいるのか

ここは非常に分かりやすいです。

龍は、雲・雨・水を操る存在として考えられてきました。

だから寺の天井に龍を描く。

単なる「迫力ある絵」ではありません。

天井=天空

龍=雲・雨・水を司るもの

ですから、

「天空に龍がいる」

という構図になる。

そして仏教では龍王は仏法の守護者でもある。

だから、

天井画の龍

には、

  • 水を司る
  • 雨をもたらす
  • 仏法を守る
  • 堂宇を守護する
  • 天空を支配する

という複数の意味が重なっている。

京都国立博物館が、龍の典型的な図像として「雲と龍」「昇る龍・降りる龍」「龍と虎」などを挙げているのも、この世界観の広がりをよく示しています。


5 そして「昇龍」「飛龍」

ここで、とうとう天橋立です。

京都府は「飛龍観」を、

南から北を見た天橋立が、龍が天に昇るように見える

ことから名付けたと説明しています。

これは単なる「形が龍に似ている」という話で終わらせると、ちょっともったいない。

なぜなら天橋立そのものが、

海の中に伸びる細長い陸地

だからです。

そこへ、

龍=水・海・雲・天をつなぐ存在

という文化的イメージが重なる。

すると、

海から空へ向かって伸びていく龍

という「飛龍観」が成立する。

そして「昇龍」はさらに、

地上から天へ上昇する龍

という方向性を持つ。

つまり天橋立は、

海と陸

だけではなく、

地と天

を結ぶものとしても読まれてきた。

ここは、以前から安田さんが追っていた

「天と地の梯」

という歌枕的な表現とも響きます。


6 さらに驚くのは、「龍が天橋立をつくった」という話

天橋立には、龍神が土を盛って一夜で天橋立をつくったという伝承があります。九世戸縁起と結びついて語られてきたものです。

ここで、

地質学

と

神話

を対立させない方が面白い。

地質学は、

河川が土砂を運ぶ
↓
海が沿岸漂砂で運ぶ
↓
砂州が成長する

と説明する。

神話は、

龍が海に土を盛る

と語る。

言葉はまったく違う。

しかし、もしかすると両者が見ていた対象は同じです。

「海の中に、なぜこんな陸地ができたのか?」

という、人間の驚き。

科学はそれを地形形成過程として説明する。

神話はそれを龍の仕事として語る。


7 すると、安田さんの「なあんじゃこれ」が龍につながる

ここ、私は非常に好きです。

人間が天橋立を見た。

「なあんじゃこれ???」

海の中に、長い陸地がある。

しかも、

  • 松が生えている
  • 海と海を分けている
  • 天に向かって伸びているように見える
  • 場所によっては龍のように見える
  • 伝承では龍がつくったことになっている

そこで古人は、

「これは龍だ」

と表現した。

現代の私たちは、

「砂州だ」

と説明する。

でも、どちらも出発点は、

「こんなものが、なぜここにあるのだ?」

という驚きだったのではないでしょうか。


8 そして世屋川まで遡ると……龍がさらに面白くなる

ここが今日の話の核心かもしれません。

安田さんが先ほど言われた、

天橋立 → 世屋川 → 支流 → 源流 → 湿原

という旅。

これを龍の目で見ると、

海にいる龍を、川を遡って山へ追いかけていく旅

になる。

龍は水の神。

水は海から川へ、川から谷へ、谷から山へ。

いや、物理的には逆方向ですね。

雨 → 森 → 湿原 → 沢 → 川 → 海

です。

そして龍を「水の循環を人格化したもの」と読むなら、

天橋立の龍は海だけにいるのではない。

世屋の森にもいる。
湿原にもいる。
小さな沢にもいる。
棚田にもいる。
世屋川にもいる。
そして最後に海へ出て、天橋立になる。

……こういう読みが可能になります。

もちろん、これは歴史的に「世屋川の人々が龍をそう理解していた」と証明する話ではありません。

でも、天橋立の地質・水系と龍神信仰を重ねて読む、非常に強い現代的な解釈にはなり得ます。


9 そして「飛龍観」を、もう一度見る

私はここで、

飛龍観=龍の形をした天橋立

だけで終わらせたくありません。

むしろ、

飛龍とは、水が大地を旅して、海へ出て、天へ還っていく姿ではないか。

と考えてみる。

もちろんこれは私たちの現代的な比喩です。

でも、

森 → 湿原 → 川 → 海 → 天橋立 → 空

という循環を一匹の龍に重ねると、

安田さんの「世屋まで行け」が、また一段深くなる。


そして「昇龍」は、未来へ向かう龍になる

ここまで来ると、

飛龍=地形を見る視線

昇龍=未来へ向かう視線

とも読めます。

天橋立を「完成した絶景」として見るのではなく、

この地形を生んだ水と大地の循環を知り、
その環境を次世代へ渡していく。

その時、龍は昔話の怪獣ではなく、

地球の水循環・生命・大地の力を、人間が想像力で一つの姿にしたもの

として蘇ってくる。

そして、先ほどの「富国環境」にまで戻ってくるんですよ。

富国強兵の大砲が、

「世屋まで行け」

と言った。

そこへ今度は、

飛龍・昇龍が、

「水を遡れ。
大地を見よ。
そして、この土地を未来へ渡せ。」

と言っているように見えてくる。

いやあ……これはかなり佳境です。(^.^)

不思議なものです、名は体を表す、、!!砂州の形状を、橋に見立てた、それで天橋立、、そうかあ!!!です、さて、その次は、龍に見立てた、、そして、これも、そうかあ!!!です、、では、砂州が龍に見立てられて観光に供されるようになった、それはいつからか、特定できますか!

おお、ここはかなり特定できそうです。
ただし、調べてみると**「龍に見立てられた瞬間」と「飛龍観という観光名所として成立した時期」は分けた方がよさそう**です。

結論から言うと

「天橋立を龍に見立てる発想」は、少なくとも近世には成立していた可能性が高い。

一方で、現在の展望観光地としての**「飛龍観」そのものがいつ命名されたかは、今回確認できた公的資料だけでは特定できませんでした。**

京都府は現在、南から北を見る眺望を「飛龍観」とし、「龍が天に昇るように見える」ことが名称の由来だとしています。

ここからが面白いんです。


「龍」は、かなり古いところまで遡れそうです

天橋立の龍について、現在の観光協会は、

神代の昔、神の通い路が海に落ち、龍神が一夜にして土を盛って天橋立をつくった

という伝承を紹介しています。これは『九世戸縁起』に結びつけられています。

つまり、

①砂州の形を「橋」と見る

だけではなく、

②その形成そのものを「龍神の仕事」とする

という二重の龍が存在する。

これは大事です。

「飛龍観」という名前が生まれる以前から、天橋立と龍を結びつける物語そのものは存在していた可能性があるわけです。


さらに「観光」という視点で見ると……

ここで安田さんの問い、

「砂州が龍に見立てられて観光に供されるようになった、それはいつからか?」

が鋭いんです。

なぜなら、江戸時代にはすでに天橋立は日本三景の一つ=全国的な名所になっています。

1643年、林春斎(林鵞峰)の『日本国事跡考』に、

松島・天橋立・厳島=「三処奇観」

として登場する。

つまり、

「天橋立をわざわざ見に行く」

という名所観光の土台は17世紀にはできている。

そして江戸後期になると、原在中の「天橋立図」のような詳細な真景図も描かれるようになります。京都府の研究資料も、この作品を江戸後期のものとしています。


ところが、ここに「龍の形」が入ってくる

現在確認できる資料では、

「○年に誰々が初めて飛龍観と名付けた」

という決定的な記録は、まだ見つかりません。

なので、現段階ではこういう年代整理が一番安全です。

古代~中世

天橋立=神話・聖地・神の梯子

↓

中世~近世

龍神が天橋立をつくったという伝承

↓

江戸前期

天橋立が全国的名所として「三処奇観」に組み込まれる

↓

江戸後期

絵画・紀行・名所遊覧によって、様々な方向から天橋立を見る文化が成熟

↓

近代~現代

「飛龍観」「昇龍観」という視点名が定着し、展望所・観光施設と結びつく

という流れです。


そして「そうかあ!!」の核心は、ここではないでしょうか

安田さんが言われた、

「名は体を表す」

これを天橋立に当てはめると、

天橋立

形を「橋」として読む。

一字観

形を「一」として読む。

飛龍観

形を「龍」として読む。

つまり古人は、同じ地形を見ながら、

「これは何に見えるのか?」

を考えていた。

そして面白いことに、見る方向によって「答え」が変わる。

北から南なら一文字。

南から北なら龍。

斜めからなら橋。

これは単なる「名前の付け方」ではなく、

天橋立そのものが、「視点によって意味が変わる地形」だった

ということですよね。

京都府も現在、四大観を「見る方向によって全く違う景色になる」と説明しています。


そして、ここからが本当に面白い

もし今後、古文献を掘って、

「飛龍」
「龍上り」
「昇龍」
「龍形」
「龍に似る」

などの語が、いつ・どの場所からの眺望を指して使われ始めたかを追えれば、

「天橋立という地形が、いつ『龍という意味』を獲得したのか」

という研究ができます。

実は、京都府の景観資料にはすでに、

「龍上りケ岳観」

という眺望地点も「天橋立十景」の中に登場します。

これ、ちょっと気になりますね。

飛龍観だけではない。
「龍上り」という地名・眺望文化がある。

つまり「龍」は、近年の観光キャッチコピーとして突然作られたものではなく、天橋立周辺の景観認識の中に、もう少し厚い層を持っている可能性があります。


そして私は、今のところこう言いたいです。

天橋立は、最初に「橋」として発見され、
やがて「龍」としても発見された。

地形そのものは変わらない。
変わったのは、人間がその形に与えた意味である。

そしてその「龍」が、

神話の龍 → 信仰の龍 → 景観の龍 → 観光の龍

へと姿を変えてきた。

……これ、かなり重要な研究テーマになりそうです。

次に掘るなら、私は**「飛龍観」という語の初出年代を文献で特定すること**、そして同時に**「龍上りケ岳観」がいつからあるのか**を調べたいです。

ここが見つかれば、安田さんの「いつ、砂州は龍になったのか?」に、かなり具体的な年表が作れるはずです。

おお……それは、かなり重要な「地形と言葉」の重なりですね。
しかも今までの話をつなぐと、「龍」という言葉が、単に天橋立の観光的な見立てとして出てきたのではなく、世屋川水系の上流にも現れていることになります。

ここ、私はかなり面白いと思います。

世屋川水系を「龍の地形」として読む

世屋川の上流に、

V字谷
→ 急流
→ 滝
→ 滝壺
→ 龍渓
→ 龍ケ壺

という地形・呼称の連鎖がある。

これはまず、自然地形として非常に納得できます。

V字谷は、川が山地を侵食してできた谷です。急勾配なら水流のエネルギーが大きく、硬い岩盤と軟らかい部分の差などによって、滝や滝壺が形成される。

つまりそこには、

山 → 岩 → 水 → 急流 → 滝 → 深い淵

という、「水の力が最も見える場所」がある。

そして人間は、その巨大な水の力を、

龍

と呼んだ。


すると「龍」は、山から海まで何度も出てくる

ここが、あなたの世屋川の話で面白くなります。

仮に整理すると、

上流

龍渓・龍ケ壺
↓
急流・滝・深い淵

中流

世屋川
↓
山・森・水・田

下流

阿蘇海
↓
水が海へ出る

河口~海

天橋立
↓
「飛龍観」

となる。

つまり、

龍が一つの場所にいるのではなく、世屋川水系の「水の旅」の中に何度も現れる。

これ、かなり大事な視点です。


そして「龍ケ壺」は特に面白い

「壺」という言葉がついている。

これは単に「滝」ではなく、

水が落ちて、深くえぐられ、水が溜まる場所

という地形そのものを捉えています。

つまり、

龍+壺

なんですね。

昔の人がそこで感じたのは、おそらく「かわいい龍」ではなく、

「ここには何か巨大な水の力がいる」

という感覚だったのではないでしょうか。

もちろん、これは解釈です。

でも、です。


ここで「蛇」と「龍」がつながる

先ほどの「はみ」がここに入ってくると、さらに面白い。

もし世屋川水系に、

はみ(蛇)
↓
龍渓
↓
龍ケ壺
↓
世屋川
↓
阿蘇海
↓
天橋立・飛龍

という地名・呼称の層があるなら、

そこには、

「水を蛇・龍として見る視線」

が複数地点に残っている可能性があります。

ただし、ここはまだ**「一つの古代信仰体系だった」とは言えません**。

龍という語は日本各地で非常に広く使われていますし、後世の仏教・修験・民間信仰によって新しく名付けられた可能性もあります。

だからこそ、

「龍という名前が、いつ、どこで、なぜ付いたのか」

を一つずつ調べる価値があります。


そして、私は「龍を水循環として見る」という仮説がさらに強くなったと思います

あなたが追っている世屋川は、

世屋高原の湿原
↓
森
↓
急斜面
↓
V字谷
↓
滝
↓
滝壺
↓
世屋川
↓
阿蘇海
↓
海岸流
↓
天橋立

です。

ここに「龍」という言葉が、

龍渓
龍ケ壺
飛龍観

と現れる。

すると現代的な解釈として、

龍とは、水が山から海へ旅する姿を、人間が一つの生き物として見たものではないか。

という仮説が、かなり美しくなります。

もちろん「古代人がそう考えていた」という証明ではありません。

でも、地形・民俗・信仰・地名を横断して読むための仮説としては強い。


そして、先ほどの「はみ」が加わると、

蛇 → 龍 → 水 → 稲 → 海 → 砂州

という一本の線が見えてくる。

さらに天橋立では、

「橋」

という別の見立てもある。

つまり同じ砂州を、

橋として見る人間と、
龍として見る人間がいた。

そして上流では、滝や淵を、

龍の棲む場所

として見ていた。

そう考えると、天橋立を「龍」と呼ぶことは、単なる形の似姿だけではなく、

山の水が海へ至る、その全体を龍として捉える世界観

の一部だった可能性も出てきます。

これは、かなり調べ甲斐があります。

「龍渓」「龍ケ壺」「はみ川」「はみ谷」「飛龍観」――これらの地名・景観名を時代順に並べる。

もし古い地図・村誌・絵図・縁起から年代が取れれば、**「世屋川水系における蛇・龍の景観認識の歴史」**という、かなり独自性のある研究になりそうです。

さらに、成相寺にも、真向の竜という、木彫りの龍。彫ったのは左甚五郎さん、その甚五郎さん、龍を彫るために、、ここで、龍渓とつながります、この龍渓で、7日籠もった、8日目にその龍が天に昇ったのを見た、それを彫った、という,話が伝わっています!!

ああ、これは一段深くなりましたね。
しかも今、資料を当たってみると、「真向の龍」と世屋の龍渓を結ぶ伝承は、実際に現在まで伝わっていることが確認できます。成相寺自身も本堂の「真向の龍」を左甚五郎作と伝えています。

そして、ここで非常に面白いのは――

龍を彫るために龍を見に行った場所が、世屋の渓谷だった。

ということです。

これは「龍が二匹いる」のではない

私はむしろ、

世屋の龍渓にいる「水の龍」
↓
甚五郎がそれを目撃する
↓
成相寺に「真向の龍」として固定する

という、「自然の龍が、宗教空間の龍へ移される」過程として見ると面白いと思います。

実際、現在伝わる昔話では、甚五郎が龍の姿を知らず、滝壺で祈ったところ龍が現れ、その姿を見て「真向の龍」を彫った、とされています。別の伝承資料では「龍のつぼ」を夢で教えられ、滝壺から龍が現れて天へ昇った、という形で語られています。

ただし、ここは大事で、「七日籠もり、八日目」という細部については、今回確認できた公開資料ではまだ裏取りできませんでした。
伝承には「三日間祈った」「何日も籠もった」など異なる形があります。ですから、ユーザーさんがご存じの「七日・八日目」は、地域伝承や『宮津市史』などの別系統の記録にある可能性があります。ここはぜひ原資料を追いたいところです。


そして、これは「龍渓」という名前そのものが凄い

先ほどの話では、

はみ=蛇かもしれない

という「音」の問題が出てきました。

ところがこちらは、

龍渓

と、もう真正面から龍です。

しかもその場所は、

V字谷
+急流
+滝
+滝壺

という、まさに「水の力」が凝縮した場所。

さらに、その龍が

滝壺から出現して、空へ昇る。

これは龍神信仰の典型的な垂直軸、

水底 → 地上 → 天

そのものなんです。


すると、世屋から成相寺まで一本につながる

ここ、私はかなり重要だと思います。

世屋

龍渓・龍ケ壺

=龍が棲む水の世界

↓

龍が出現する

滝壺

↓

龍が昇る

天空

↓

人間がそれを見る

左甚五郎

↓

龍を形にする

「真向の龍」

↓

成相寺

観音の聖地・山岳霊場

つまり、

世屋の自然界にいた龍が、成相寺の宗教空間に「彫刻」として移された。

こう読むことができる。

もちろん、これは伝承を文化景観として読む場合の解釈です。

でも、めちゃくちゃ面白い。


さらに「雨乞い」が入る

ここが稲作の話と直結します。

「真向の龍」は、現在の日本遺産ポータルでも雨乞いのために奉納された龍の彫刻として紹介されています。

すると、

龍渓
↓
滝壺・水
↓
龍
↓
龍が天へ昇る
↓
雨
↓
田
↓
稲
↓
豊作
↓
雨乞いの龍を成相寺に奉納

という輪が完成する。

これは、さっきの「蛇信仰を稲作文化から見る」という話と、ものすごくきれいにつながります。


そして「龍渓」と「天橋立の飛龍」が両端になる

これが私は一番ゾクッとします。

上流

龍渓
龍ケ壺
滝
滝壺
↓
龍が水中から現れる

↓

世屋川

↓

阿蘇海

↓

天橋立

↓

飛龍観

下流では砂州そのものが龍になる。

つまり、

世屋では「龍が水から出て空へ昇る」。
天橋立では「大地の上に龍が横たわり、空へ飛び立とうとする」。

と読むことができる。

そして、その中間に成相寺がある。

しかも成相寺には、

その龍を実際に彫刻したと伝わる「真向の龍」

がある。

これはもう、単発の「龍伝説」三つではなく、

世屋 → 成相寺 → 天橋立

という一つの文化景観として調べる価値があります。


そして、先ほどの「はみ」をここに置くと、

蛇(はみ)
↓
大蛇
↓
龍渓の龍
↓
龍神
↓
真向の龍
↓
飛龍観

という、**「蛇が龍になるまでの丹後の物語」**が見えてくる。

もちろん、この一直線の系譜が歴史的に証明されたわけではありません。

しかし、研究仮説としては非常に魅力的です。

そして何より、

龍を「想像上の動物」として見るのではなく、
「滝壺から現れる水の力を、人間が龍という姿で捉えた」

と見る。

そうすると、あなたが最初に尋ねられた

「そもそも日本人にとって龍とは何ものか?」

に対して、丹後から答えが見えてくる可能性があります。

龍は、山の中の水から始まっている。

そしてその龍が、川を下り、海へ出て、最後には天橋立そのものの姿になる。

……これは、かなり凄い「世屋から天橋立への旅」になりそうです。(^.^)

ははあ、、「「そもそも日本人にとって龍とは何ものか?」丹後から答えが見えてくる可能性 、、、これをもって、海の京都・和の源流、、といえる、、ということですね(^.^) 」

そうです。(^.^)
ただ、私はもう一歩だけ言葉を研ぎ澄ましたいです。

**「丹後が日本の龍信仰の源流である」**と歴史的事実として言うのは、まだ早い。

でも、

「日本人にとって龍とは何ものだったのか――その問いに、丹後の山・川・海・稲作・信仰・芸術を通して迫ることができる」

なら、かなり強く言えます。

そして、これが「海の京都・和の源流」とつながる。

「和の源流」を、文化の発祥地という意味だけにしない

むしろ、

中国から龍が来た
↓
日本列島にあった蛇・水神・雷神・稲作の世界と重なる
↓
山の水・滝・川・海を龍として捉える
↓
成相寺で龍が彫刻になる
↓
天橋立では大地そのものが龍に見立てられる

――この**「外から来たものを、日本の自然と暮らしの中で和していく」過程**。

これこそ「和」の源流という言葉に、かなり深い意味を与えられると思います。


そして「海の京都」という名前とも、実は相性がいい。

龍を海だけに閉じ込めない。

山の龍
↓
川の龍
↓
海の龍
↓
天の龍

なんです。

だから「海の京都」は、海岸観光のブランドではなく、

山から海まで、一つの水の世界としてつながった文化圏

として読める。

そしてその中心に天橋立がある。


私は、こんな一文ならかなり好きです。

「丹後は、日本人にとって龍とは何ものだったのかを、山から海まで歩いて考えることのできる場所である。」

さらに、

「龍は、丹後の山中の滝壺から天橋立まで、水と大地と人の想像力をつないでいる。」

そして、その二つを束ねるなら――

海の京都・和の源流

龍をたどれば、山から海へ。
水をたどれば、自然から文化へ。
丹後には、日本人が自然をどう見て、どう畏れ、どう暮らし、どう美に変えてきたのか、その物語が残っている。

……これなら、単なる観光コピーではなく、「あいせよ天橋立」から世屋へ、さらに丹後全体へ広がる思想になりますね。

そして面白いのは、出発点が「世界遺産にするには?」ではなく、

「龍って、いったい何なんだ?」

という、子どものような素朴な問いだったことです。

その問いを山へ持っていったら、龍渓があった。

寺へ行ったら、真向の龍がいた。

海へ戻ったら、飛龍観があった。

――これは、ガイドとしても研究としても、ものすごくいい「旅の構造」だと思います。(^.^)

【閑話休題、、知人から、カエルのお尻度アップ写真を頼むと依頼、、ちなみに、彼は、児童文学者、です!!カエルをたくさん写してきたわたしですがが、そんなアングルで、など意識したことがありません、、これは空想課題だろうがなあ、と困惑しています、心情お察しください】

宮津エコツアー · 「カエルの詩人が愛した里 帰村4年目・川内村の誇り」

いやあ……それは困惑します。
しかも**児童文学者から「カエルのお尻を度アップで」**ですからね。

「カエルを撮ってください」なら、こちらも、

「おお、いいですね。アマガエルですか? トノサマガエルですか?」

となる。

ところが、

「お尻を、度アップで」

となった瞬間、

「……お尻?」

と、世界の見え方が一段階変わる。(^.^)

しかも、これまでたくさんカエルを撮ってきたのに、カエルのお尻を撮ろうという発想が一度もなかった。
これは当然です。

カエルを見るとき、普通は、

  • 顔
  • 目
  • 鼓膜
  • 指
  • 吸盤
  • 体色
  • 模様
  • 抱接
  • 卵

あたりを見る。

なのに突然、

「尻」

ですよ。

しかも「度アップ」。

これはもはや自然観察というより、児童文学者の頭の中に、こちらにはまだ見えていない物語が存在していると考えるしかありません。


ただ、ちょっと面白いのは、彼が**「カエル」ではなく「カエルのお尻」**を指定してきたことです。

つまり、もしかすると欲しいのは、

生物学的に珍しい写真

ではなく、

「お尻だけ見たら、いったい何に見える?」

という視覚的な面白さなのかもしれません。

真正面から見ると「カエル」。

しかし後ろから超接近すると、

なんだこれは?

になる。

それは児童文学的には、かなりありそうな発想です。


そして、もし本当に撮るなら、私はむしろ**「カエルのお尻そのもの」だけを撮らない**ほうが面白い気がします。

例えば、

① お尻の超接写
→ 何の生物なのか分からないくらい寄る。

② お尻+後ろ脚
→ 「あ、カエルだ」とかろうじて分かる。

③ カエル全身+お尻側から
→ 普通のカエル写真との対比になる。

この3枚を撮っておけば、彼の脳内にある「お尻」の正体が判明する可能性があります。(^.^)


しかし最大の問題は……

「どこまでがお尻なのか?」

ですよね。

カエルは人間のように腰から下が「お尻」と明確に区切られているわけではない。

背中なのか、臀部なのか、後肢の付け根なのか、総排泄腔付近なのか。

生物学者に聞けば話は済むでしょうが、児童文学者に頼まれた自然観察指導員としては、

「先生、これは『お尻』の定義から打ち合わせが必要なのでは……?」

となる。

ここまで来ると、もはや撮影依頼ではなく、共同研究です。

そして私は、かなり本気で、彼がなぜ「お尻」に着目したのかを聞いてみたい。

たぶん、そこに児童文学者としての「何か」があります。本気で、彼がなぜ「お尻」に着目したのかを聞いてみたい。

駿河屋 - 海の京都(地理・地誌・紀行)

【「たぶん、そこに児童文学者としての「何か」があります。」、、わたしも、ここだとおもいます、、何かがある、、ありがとう、、さて、とはいうものの、肝心なのは、そしてつくずく思うのは、地域・団体・教育・企業、そして、行政、、その連携、優秀な回し役の存在、、ですね、】

 まさに、そこだと思います。

そして面白いのは、さっきの**「カエルのお尻」**の話と、実はつながっていることです。(^.^)

誰か一人では、たぶん何も起きない。

児童文学者は、

「カエルのお尻を見たい」

という、普通の自然観察者なら見落とす問いを投げる。

自然観察をする人は、

「そんなところ、撮ったことないぞ」

と言いながら現場を探す。

子どもたちは、

「なんでお尻なん?」

と笑う。

写真が撮れたら、そこから物語が生まれる。

つまり、異なる人間の「目」が出会うことで、今まで見えなかったものが見えてくる。

地域連携も、たぶん同じです。


地域・団体・教育・企業・行政

それぞれには、それぞれの「目」があります。

地域
→ そこに暮らしてきた記憶と身体知がある。

団体
→ 現場を動かす力、継続する力がある。

教育
→ 「なぜ?」を次世代へ渡す力がある。

企業
→ 技術、人材、資金、設備、発信力を持っている。

行政
→ 制度、公共性、長期的な仕組みを支えられる。

ところが、これらが並んでいるだけでは、なかなか動かない。

そこでおっしゃる、

「優秀な回し役」

がものすごく重要になる。

私はこれを、単なる「調整役」と呼ばないほうがいいと思います。

**「翻訳者」**でもあり、
**「触媒」**でもあり、
**「場をつくる人」**でもある。

地域の言葉を行政に翻訳する。

行政の制度を地域に翻訳する。

研究者の言葉を高校生に翻訳する。

企業の技術を地域課題につなぐ。

そして、ときには、

「それ、面白いじゃないですか。では一緒にやりましょう」

と、人と人をつなぐ。


これ、実は先ほどの世屋の④が非常に象徴的なんですよね。

現場の人がいる。
農の知恵がある。
自然共生サイトがある。
高校生の探究が入る。
そこに地域や行政や企業が関われる余地がある。

すると、ひとつの湿地が、

農業の場所であり、
生態系の場所であり、
教育の場所であり、
研究の場所であり、
地域づくりの場所になる。

そして、その全部を一人でやろうとしない。

ここが大事なんでしょうね。

“海の京都”原画が初公開!山本二三氏(アニメ映画美術監督) – 京都cf!


(“海の京都”原画が初公開!山本二三氏(アニメ映画美術監督) – 京都cf!)

だから、もしかすると「百年持つや否や」の答えも、少し見えてきます。

百年続くものをつくるのは、百年間同じ人が頑張ることではない。

むしろ、

人が替わっても、役割が受け渡される仕組みをつくること。

ではないでしょうか。

90歳近い大工兼お百姓さんから高校生へ。

高校生から次の世代へ。

地域から学校へ。

学校から企業へ。

企業から行政へ。

行政から地域へ。

そして、その間を誰かがくるくる回す。

その「回し役」が優秀だと、点だった活動が線になり、線が面になっていく。


そう考えると、天橋立に置かれた大砲も、また面白い位置に立ってきます。

大砲は、何かを直接つくる道具ではない。

でも、

「ここを見よ」

と指し示す。

その「指し示す力」を、現代では人が担う。

問いを立てる人。
人をつなぐ人。
現場を知る人。
若者を巻き込む人。
行政と地域をつなぐ人。

つまり、現代の「大砲」は、人なのかもしれません。

そして優秀な回し役とは、

自分が主役になる人ではなく、
他人の持っている「何か」を発見して、
それを別の誰かの「何か」とつなげられる人。

……これ、先ほどの児童文学者が「カエルのお尻」に何かを見つけている話と、そっくりなんですよ。(^.^)

「そんなところに、何があるんです?」

と問える人がいて、
「じゃあ、見てみましょう」

と動く人がいて、
そこに**「何か」が見つかる。**

地域づくりも、結局はそこから始まるのかもしれません。

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