宮津エコツアー · yasuda

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◆1 さて、天の橋立のクロマツ、彼らと大江山杉山の古代裏スギ、そして北近畿最大規模を誇る世屋高原高山のブナ林、この三者は互いに向き合って、見下ろし、見上げる位置にあります、あれがあまのはしだて、あれが大江山、鼓が岳と指させる関係です、、その様子をみていると、敢えて言いますがこの「三人」は、古くからの友人なんだなあと思います、そこで、世界遺産目線で、この三者の関係の意味を解きほぐして解説いただけませんか

これは、面白い視点です。しかも、世界遺産を考えるうえで、かなり大切な問いを含んでいると思います。

安田さんのいう「三人の古くからの友人」という見立て。私は、これを単なる風景の比喩として終わらせたくありません。

なぜなら、三者はそれぞれ違う森でありながら、同じ丹後の風土を形づくり、互いの存在を眺め合う位置にあるからです。

  • 天の橋立のクロマツ――海辺に生き、人の営みとともに維持されてきた松林。
  • 大江山・杉山の裏杉――山地の自然と歴史を背負う杉の森。
  • 世屋高原・高山のブナ林――水を育み、山地の生態系を支える落葉広葉樹の森。

この三者を結ぶと、天橋立は「一本の美しい砂州」から、海・山・森・水・人の営みがつながる大きな文化的景観として見えてきます。

世界遺産の目線で、三つの層に分けて考えてみましょう。

1 まず、三者は「丹後の森の三つの顔」である

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① 天橋立のクロマツ――海辺の森

砂州という特殊な地形に成立した海岸林です。クロマツは乾燥や養分の乏しい環境に適応し、砂浜とともに白砂青松の景観をつくってきました。

天然杉と自然の宝庫「上宮津・杉山」のPR動画を作成しました/京都府ホームページ

② 大江山・杉山の裏杉――山地の森

杉山を中心とする上宮津杉群生地には、関西最大級のスギ天然林があると関西広域連合の自然環境資料に記されています。人工林のスギとは異なる、自然の森林としての価値を持ちます。

宮津が誇るレアな自然!世屋高原のブナ林と大フケ湿原|宮津市広報

③ 世屋高原・高山のブナ林――水を育む森

ブナやミズナラなどの落葉広葉樹林が広がり、渓流、湿地、棚田へと水をつなぐ山地の森です。京都府は世屋高原を府内有数の広大な落葉広葉樹林帯として紹介しています。

kouiki-kansai.jp+3

ここで大切なのは、三者が単に樹種の違う森だということではありません。

海辺の森、山地の針葉樹の森、山地の落葉広葉樹の森。

それぞれが異なる環境に適応しながら、丹後の自然の多様性を表しています。

なお、「古代裏杉」という呼び方については、古い天然林の存在と、個々の樹木の樹齢、あるいは古代から同じ林が続いてきたことは分けて検証したいところです。そこは科学的な調査で裏付けたいですね。

2 三者を結ぶのは「水の循環」ではないか

ここが、私には最も重要に思えます。

Aerial Amanohashidate Sandbar with Coastal Village and Mountainous Miyazu Bay
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山に降った雨は、森の土壌に蓄えられ、谷を流れ、川となって海に向かいます。

世屋高原のブナ林は、水を蓄え、土壌を守る森としての働きを持ちます。大江山の森林も、山地の水源域を構成しています。そして、川が運ぶ土砂は、長い時間をかけて海岸や砂州の形成に関わってきました。

ただし、天橋立の砂州を形成した土砂供給を、世屋や大江山の森だけに結びつけることはできません。河川ごとの流域、地質、海流、沿岸漂砂を検証する必要があります。

それでも、三者を一つの流域・沿岸システムの中で捉えることには意味があります。

森が水を育み、水が土砂を運び、海が砂州を育てる。

安田さんが以前から話されている「山・川・湾・砂州」の関係に、森という具体的な生命の存在が加わります。

3 世界遺産の目線では「自然景観」と「人の営み」の関係が見えてくる

ここは少し専門的に考えてみましょう。

天橋立の世界遺産構想では、文化庁の2007年の提案資料に「天橋立-日本の文化景観の原点」という構想が示されています。

そこでは、砂嘴とクロマツ林だけでなく、周辺の歴史宗教遺産、文学・芸術、眺望、日本的美意識の形成などを含む複合的な文化景観として説明されています。

文化庁

ここに三者を置くと、価値の説明をさらに広げられる可能性があります。

森人との関わり景観としての意味
天橋立のクロマツ松葉・枝の利用、松林の保全人が守り継いできた海辺の景観
大江山・杉山のスギ山林利用、社寺・地域との関係自然性の高い山地の森林
世屋高原のブナ水源、薪炭利用、棚田・集落山の自然と暮らしが結びついた景観

とりわけ天橋立の松林には、人の営みが深く関わってきました。

京都府の保全資料によれば、かつて松葉や落ち枝は炊事・風呂の燃料などに利用されていました。その利用が失われると、林内の環境が変わり、広葉樹への遷移が進んでいます。

京都府+1

つまり、クロマツ林は「自然にできた森をそのまま残せばよい」というものではありません。

人と自然の関係が変われば、森も変わる。

この問題は、世屋の里山や大江山の森林を考える際にも重要です。

4 そして、三者は実際に「向き合っている」

Amanohashidate Sandbar with Cable Car Station and Scenic Coastal Panorama

安田さんのいう「見下ろし、見上げる」という関係は、世界遺産の説明にとって非常に魅力的です。

世界遺産の景観価値を考えるとき、ある地点から見える景色だけでなく、複数の地点から互いを眺める関係も重要な検討材料になります。

例えば、

  • 海辺から、山の森を仰ぐ。
  • 高山から、天橋立を見下ろす。
  • 大江山から、丹後の山並みと海の広がりを眺める。

そこには、単独の名所の集合ではない、地域全体の景観構造があります。

ただし、ここは一つ科学的な裏付けが必要です。

三者それぞれの展望地点、視認できる範囲、季節・天候による見え方を地図と写真で記録する。地形データを使って可視領域を解析すれば、「見える」という感覚を客観的な資料にできます。

これは、安田さんのいう「掘る・繋ぐ」を実証する作業にもなります。

5 実は、三者をつなぐ制度的な土台がすでにある

ここは見逃せません。

重要な接点

京都府の説明によると、2007年8月3日に指定された丹後天橋立大江山国定公園は、

  1. 丹後半島の海岸地区
  2. 世屋高原地区
  3. 大江山連峰地区

という三つの景観区を一体として捉えています。

京都府+1

つまり、安田さんが見いだした三者の関係は、単なる個人的な発見ではありません。

すでに国定公園という自然景観の保全・利用の枠組みの中に、三つの地域が位置づけられているのです。

ただし、国定公園の指定と世界遺産の登録は別の制度です。国定公園に含まれているからといって、三者が世界遺産の構成資産になるわけではありません。

世界遺産として評価するなら、三者の関係が、天橋立の顕著な普遍的価値をどのように説明し、支えるのかを示さなければなりません。

6 私なら、ここに一つの構想を置きます

「天橋立を、三つの森から読み解く」

あるいは、

「丹後の三つの森が見守る天橋立」

これは、単なる観光ルートの提案ではありません。

天橋立の価値を、砂州と松林だけで説明するのではなく、その背後にある山地の自然、森林の多様性、水の循環、人の暮らし、そして眺望の関係から説明する試みです。

三人の古い友人

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クロマツ海辺の森

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裏杉山地の森

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ブナ水を育む森

丹後の風土をともに語る三つの森

海・山・水・森・人の営みを、ひとつの景観として読み解く

そして、ここからが安田さんにお返ししたい問いです。

この三者は、いつから互いを見ていたのでしょう。

もちろん、森が友人として意識していたわけではありません(笑)。

しかし、それぞれの森が成立した時代、植生の変遷、人が利用してきた歴史を調べれば、丹後の自然と人間の長い時間を重ねて描けるかもしれません。

私は、世界遺産の議論に次の問いを持ち込む価値があると思います。

天橋立は、なぜこの場所に生まれ、なぜこの姿で受け継がれてきたのか。

その問いに答えるためには、天橋立だけを見ていてよいのだろうか。

天橋立を見守ってきた山の森にも、目を向ける必要があるのではないか。

安田さん、これは「天橋立の裾野を広げる」という話以上のものかもしれません。

天橋立を、山から見る。山を、天橋立から見る。

その相互の視線の中に、丹後という風土の一体性を見いだせるのではないでしょうか。(^.^)

◆2 11月28日予定の、天の橋立を世界遺産に講演会の講師、深町先生、専門は里山景観学、丹後の森林の深い研究者理解者と認識しています、、この件を質問して、見解をうかがってみます、ね!

それは、ぜひ聞いてみてください!(^.^)

深町先生に伺うには、絶好のテーマだと思います。

しかも、単に「三つの森に関係がありますか?」と聞くより、安田さんが感じている景観上の関係を提示して、先生の専門的な見解を求めると、話が深まると思います。

私なら、こんな質問にします。

講演会での質問案

「天橋立のクロマツ林、大江山・杉山の天然スギ林、そして世屋高原・高山のブナ林。この三つの森は、地理的にも互いを眺め合う位置にあります。私は、これらを丹後の風土をともに形づくってきた『三人の古い友人』のように感じています。

里山景観学の視点から、この三者を一体的な景観として捉えることに、どのような意味や可能性があるとお考えでしょうか。また、天橋立の世界遺産としての価値を考えるうえで、周辺の森林との関係をどう評価すべきでしょうか。」

そして、もう一つ、ぜひ聞いてほしいことがあります。

「この三つの森を結ぶものは何でしょうか。地形でしょうか、水の循環でしょうか、人の営みでしょうか。それとも、それらが重なった丹後固有の風土でしょうか。」

この問いは、深町先生の専門性を引き出すと思います。

先生の回答によっては、世界遺産の構成資産に三つの森を加えるべきか、という議論とは別に、天橋立の価値を説明するための「周辺環境・景観の文脈」として、三者を位置づけられる可能性があります。

ここは大事な区別です。

11月25日は、安田さんの「三人の古い友人」という直感を、専門家の知見にぶつけてみる日ですね。

どんな答えが返ってくるか、私も楽しみです!(^.^)

ありがとう(^.^)

こちらこそ!(^.^)

「三人の古い友人」――なかなかいい着眼点です。

深町先生のお話で、新しい糸が一本つながるかもしれませんね。

11月25日、ぜひその糸を手繰り寄せてきてください! 🌲🌲🌲

「白砂青松」の地下に何があるのか。

◆ ありがとう、、三つ目 砂礫州としての天の橋立、その州の中央部の、地質調査、ボーリングの記録が見たいです

あります! しかも、天橋立の地下を考えるうえで、かなり重要な資料が見つかりました。

天橋立の砂州を対象にした地質研究に、地表から深さ25メートルまでのボーリング柱状が記載されています。

単に「砂の下は何か」という話ではありません。下から上へ、内湾の泥底から水中の砂州、そして現在の砂州へと、天橋立が成長してきた過程を読み取れる資料です。まず、その記録を見てみましょう。## 1 実際のボーリング記録

資料は、2019年刊行の『水路』第191号、植村善博氏の論文「天橋立砂州の地形と形成過程」です。

2013年度に、橋立明神の横でオールコアボーリングが行われ、地下25mまで掘削しています。採取した地層を連続して観察し、貝化石の同定や放射性炭素年代測定も行っています。

jha.or.jp

+1

柱状の記録を、地表から順に並べるとこうなります。

天橋立2013年コア・地質柱状

地表からの深度/地層の種類

0〜2m

中砂

現在の砂丘・前浜堆積物

2〜6m

砂礫

強い波浪・沿岸流による砂州堆積物

6〜10m

粗粒〜中粒砂

波浪の影響を受けた水中砂州

10〜18m

細粒砂

貝化石・生物活動の跡が多い水中堆積物

18〜24.5m

シルト混じり細粒砂

水中砂州堆積物

24.5〜25m

青色粘土

貝化石を多く含む内湾の泥底

各層の厚さは記載された深度に対応。色は説明用の模式表示です。

jha.or.jp

2 この柱状図が語ること

ここが実に面白い。

地表から下へ読むと、砂州ができていく順序が見えます。

  1. 約4,000年前を上限とする時期:内湾の泥底。まだ現在の砂州の姿はない。
  2. 約1,000〜3,000年前:水中に砂州が発達し、砂が積み重なる。
  3. 約1,000年前以降:波浪や沿岸流の影響を受ける砂州が成長する。
  4. 現在:海浜・砂丘の堆積物が地表を構成する。

つまり、私たちが歩いている砂州は、最初から海面上にあったのではありません。

まず海底に砂州ができ、それが上方へ成長して、やがて海面上に姿を現した。

植村氏は、約6,000年前の海進最盛期には深い湾入部の泥底環境だったとし、その後の海面変化と土砂供給によって海底バーが発達したと考えています。

jha.or.jp

3 そして、重要な「空白」があります

実は、2013年度の京都府立大学の研究成果報告には、もう一つ大事な指摘があります。

江尻地区の水田下でもボーリング調査があり、砂の堆積が急速に進んだ時期を推定しています。一方、報告書の模式図には、次の趣旨が明記されています。

「4000から2000年前までの砂州の変化については、天橋立の中部以北でのボーリング調査が必要」

つまり、天橋立の形成史を明らかにするためには、まだ調査が足りない場所があるのです。

kirp.kpu.ac.jp

これは見逃せません。

今回見つけた橋立明神横のコアは貴重ですが、天橋立全体の地下構造を代表する一本ではありません。特に江尻から中央部にかけて、砂礫層がどのようにつながり、どこまで深く続いているかは、別の地点のボーリングで確かめる必要があります。

4 資料を直接見る

私が次に掘り下げたいのは、まさにここです。

天橋立の地下には、砂礫が厚く積み重なっているのか。それとも、古い岩盤や埋没した山地の高まりがあって、その上を砂礫が覆っているのか。

京都府の『天橋立学ぶっく』にも、砂州の地下に「大きな壁」のような高まりがある地質断面図が掲載されています。ただし、そこから岩盤が存在すると確定したわけではありません。

京都府

山田断層、阿蘇海の深さ、天橋立の地下構造。この三つを重ねてみると、安田さんの「山が姿を変えた」という見方を、さらに地質学的に問い直せそうです。

砂州の表面だけでなく、その土台は何なのか。 ここはぜひ、もう一段掘りましょう。(^.^)

◆2 その土台は何なのか!!!

そこです!! 安田さん、ここが天橋立の地質を考える核心です。

調べ直して、まず大事なことが分かりました。

天橋立の土台が岩盤なのか、それとも古い堆積物なのか。現時点では、岩盤だと確認されたわけではありません。

むしろ、資料を突き合わせると、三つの異なる「土台」を区別する必要があります。

1 まず、地下に何があるのか

京都府の『天橋立学ぶっく』には、阿蘇海から天橋立を横切り、宮津湾までの地質断面模式図があります。

天橋立 | 焚き火好きな父とワンパク坊主達の日々雑多

この断面図では、天橋立の部分が海底から急に立ち上がっています。京都府の解説は、これを「大きな壁」のような形と表現し、基礎部分に岩か石がある可能性を推測しています。

京都府

しかし、これは地形断面からの推測です。岩盤を直接掘り当てたという意味ではありません。

2 実際に掘った25メートルの記録

ここで、植村善博氏の2019年の論文が重要になります。

2013年度、橋立明神横で地下25mまでオールコアボーリングを実施しています。

その最下部は、

  • 深度24.5~25m:青色粘土
  • 貝化石を多く含む
  • 内湾の泥底で堆積した海成粘土

でした。

その上に細粒砂、粗粒砂、砂礫、表層の中砂が重なっています。

jha.or.jp

実際に確認された地下25m

地表~2m 中砂

2~6m 砂礫

6~10m 粗粒~中粒砂

10~18m 細粒砂

18~24.5m シルト混じり細粒砂

24.5~25m 青色粘土(内湾の泥底)

論文記載に基づく模式図。色は説明用です。25mより深い地層はこの調査では確認できていません。

ここで注目したいのは、25m掘っても岩盤には到達していないということです。

つまり、このボーリング地点では、砂州の下に内湾の泥底があり、その上に砂州を構成する堆積物が積み重なっていることが確認されたのです。

3 では、あの「大きな壁」は何なのか

京都府レッドデータブックには、さらに興味深い記述があります。

  • 砂州の基部は、宮津湾の水深約20m付近から立ち上がる。
  • 砂州の両側の海底は、際立って急傾斜している。
  • 一般的な砂州で核になることのある最終間氷期の堆積物は、天橋立では確認されていない。

京都府

ここが重要です。

天橋立は、古い岩盤の島が海面上に残り、その周囲に砂が付着しただけの地形ではなさそうです。

植村氏の論文では、約6,000年前には深い湾入部の泥底だった場所に、海面変化に伴って水中砂州が形成され、上方へ成長していったと説明されています。

jha.or.jp

4 私が今、立てたい問い

ここからは、まだ仮説です。

天橋立の地下を理解するには、次の三つを分けて調べたい。

問い確認したいこと
地形の土台なぜ水深20mから急に立ち上がるのか
堆積物の土台砂州の下にある海成粘土は、どこまで連続するのか
地質学的な土台さらに深いところに岩盤があるのか、その深さと形はどうか

そして、ここに山田断層が関係してくる可能性があります。ただし、断層が砂州直下の岩盤を隆起させたと結論づける証拠は、今のところ確認できていません。

5 次に必要なのは、中央部の複数地点のボーリング

一本の柱状図だけでは、地下の立体構造は分かりません。

私なら、次の地点を比較したい。

  • 江尻付近:礫浜と砂州北端の地下構造
  • 橋立明神付近:既存の25mコアとの比較
  • 松並木中央部:砂州の幅が広い部分の地下構造
  • 文珠付近:砂州南端の地下構造

特に、橋立明神横の既存コアと、江尻側のコアをつなぐことが大事だと思います。

ここまで来ると、天橋立は単なる砂礫の堆積地ではなくなります。

「どこに、どのような海底があり、そこにどんな堆積物が、どの順番で積み重なったのか」。

それを解き明かすことになります。

安田さん、これは面白いですよ。

天橋立は、山から運ばれた砂礫が海に積もってできた。しかし、その砂礫を受け止めた海底そのものは、どのようにできていたのか。

「山が姿を変えた」という見方を、今度は海底から問い返すことになりますね。(^.^)

◆3 世界遺産を目指すには、この調査は必須条件(^.^)だ!

ははは!(^.^) これは、ぜひ声を大にして言いたいですね。

ただし、少しだけ整理しましょう。

ボーリング調査そのものが、世界遺産登録の必須条件というわけではありません。けれども、天橋立の価値を「地形の成り立ち」から世界に説明するなら、地下構造の解明は極めて重要な調査課題です。

世界遺産を目指すには、美しい景観を示すだけでは足りません。

  • なぜ、ここに砂州が形成されたのか。
  • どのような地質・地形条件が、その形成を可能にしたのか。
  • 山地・河川・海流・湾・砂礫州は、どのようにつながっているのか。
  • その自然の上に、人々はどのような暮らしと文化を築いてきたのか。

これらを、科学的な根拠と歴史資料で説明できることが大切です。

私なら、調査の柱を三つにします

① 地下を掘る

既存の橋立明神横の25mコアを基準に、江尻・中央部・文珠を比較する。必要に応じて、より深いボーリングも検討する。

② 地形をつなぐ

山田断層、山地の地形、河川の土砂供給、阿蘇海と宮津湾の海底地形、沿岸漂砂を一枚の地形図に重ねる。

③ 人の営みを重ねる

松並木の成立と管理、信仰、歌枕、絵画、参詣、舟運、地域の暮らしを、自然の変化と関連づける。

そして、ここが重要です。

世界遺産の評価基準に照らすと、地質学的な価値を主張するのか、文化的景観としての価値を主張するのかで、必要な証拠は違います。地質調査は、どちらの価値を説明する場合にも役立ちますが、それだけで登録価値が証明されるわけではありません。

私が提案したいのは、調査事業に名前をつけることです。

「天橋立地下・地形形成史総合調査」

京都府、大学、地質・地形研究者、文化財関係者が連携して取り組む。

そして、その成果を将来の丹後天橋立ミュージアムの展示・学習に生かす。

海星公園も、現地で地形と自然を読み解く学びの拠点になれる。

これは単なる学術調査ではありません。

世界に天橋立を説明するために、まず天橋立自身に、地下から語ってもらう。

「白砂青松」の地下に何があるのか。

いやあ、世界遺産運動に、また一つ大きな宿題ができましたね!(^.^)

◆1 ありがとう、二つ目、松の生育と砂、礫との関係を解説ください

おお、これは天橋立を読むうえで、たいへん面白い二つ目の問いです。

砂と礫の違いは、松にとって単なる地面の違いではありません。水の保ち方、根の張り方、養分の得やすさ、そして海風への耐え方まで違ってくるのです。

まず押さえたいのは、松は「砂地ならどこでもよく育つ」という木ではない、ということです。砂地に強い性質を持ちながらも、地下の水分や土壌の状態に大きく左右されます。

1 砂地は、松にとって厳しいが、適した場所

天橋立の松は主にクロマツです。クロマツは海岸の環境に適応した樹木です。

砂地には、次のような特徴があります。

  • 水が下へ抜けやすく、乾燥しやすい。
  • 養分が少ない。
  • 潮風や飛砂にさらされる。
  • 地表が動きやすく、根を固定するのも容易ではない。

一見、植物には過酷な環境です。しかしクロマツは、こうしたやせ地でも生きられます。日当たりを好み、菌根菌と共生して養分を得る能力もあります。

京都府

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つまり、松は砂地の厳しさに耐えることで、ほかの樹木との競争が少ない場所を生きることができるのです。

2 では、礫の浜ではどうなるか

ここが面白いところです。

石礫層を貫くクロマツの根系と微生物の協働 ~海岸林がもつ防災力を高めるための科学~ - 名古屋大学研究成果情報

砂地

砂粒の隙間は比較的小さく、条件によっては水分をある程度保持します。根も比較的伸びやすい。

七里御浜のフリー写真素材「御浜小石」 | 三重フォトギャラリー

礫地

礫の隙間が大きく、水が抜けやすい。礫が密に詰まると、根が伸びるにも障害になります。

ただし、礫地だから松が育たない、というわけではありません。

2025年に公表された研究では、礫質の砂嘴海岸に生育するクロマツの根が、硬い砂礫層を通り抜けて伸びていたことが報告されています。個体によって根の伸び方にも違いがありました。

一般社団法人 日本森林学会

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これは興味深いですね。

松は、砂の上に立っているだけではない。地中の砂礫の状態に応じて、根の張り方を変えているのです。

3 天橋立では、松の生育に別の問題が起きている

ここで、天橋立の現状に目を向けましょう。

京都府の調査によれば、現在の松並木では、

  • 落ち葉や松葉が分解して腐植土が増えた。
  • 土壌が富栄養化し、下草や広葉樹が育ちやすくなった。
  • 地下水位が高く、松が十分に根を張らなくても水を得られる場所がある。
  • その結果、根に対して幹が大きく育ち、風で倒れやすい状態になった松もある。

という問題が指摘されています。平成16年の台風23号で約200本が倒れたことも、こうした状態と関係すると考えられています。

京都府

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Avenue of pines
Amanohashidate, Japan; 1st October 2023: Views of the sandbar is located in Miyazu Bay in northern Kyoto Prefecture.
The beach at Amanohashidate in northern Kyoto, Japan.
Amanohashidate, Japan; 1st October 2023: Views of the sandbar is located in Miyazu Bay in northern Kyoto Prefecture.
Scenographic view in Amanohashidate on a sunny morning. Monju, Miyazu, Kyoto, Japan.
Forest Path Through Tall Evergreen Trees, Amanohashidate Sandbar, Kyoto, Japan
京都旅行 JR・新幹線+宿泊プラン | びゅうトラベル(JR東日本)
『海を渡る砂浜と松並木!木漏れ日の中をしばし散策』by niagara|天橋立のクチコミ - フォートラベル
京都府 - 各地の海岸林 | JSCF - 日本海岸林学会

ここには逆説があります。

松を守るためには、松の周りを何でも豊かにすればよいわけではない。

落ち葉や下草を適切に管理し、松が本来生きてきた環境を維持する必要があるのです。

4 砂・礫・松を一つの風景として読む

私は、ここで安田さんが先ほど指摘された北端の礫浜と、南へ続く砂浜との違いが効いてくると思います。

天橋立は、単なる砂浜に松を植えた場所ではありません。

  • 山や川から運ばれた砂礫が海岸に集まる。
  • 波が砂と礫を選り分ける。
  • 砂や礫の上にクロマツが定着する。
  • 松の根が地面を支え、松林が砂州の環境をつくる。
  • その松林を人間が利用し、手入れしてきた。

ただし、松の根が砂州そのものを造ったわけではありません。砂州を形成したのは主として土砂供給と沿岸漂砂であり、松はその上に成立した植生です。

ここは区別しておきたいところです。

もう一つ、現地で確かめたいことがあります。

北端の礫浜と松林の境界で、松の根元の地面を観察してみてください。礫が表面だけにあるのか、地下まで続くのか。砂が礫の隙間を埋めているのか。それによって松の根の伸び方も変わります。

天橋立を「白砂青松」と呼ぶと、砂と松が一体になった美しい景色として見ます。しかし、少し掘ってみると、砂の粒、礫の粒、地下水、根、菌類、落ち葉、そして人の手入れまでがつながっている。

これこそ、見えている景色の下に、もう一つの天橋立があるということですね。(^.^)

◆1 海岸には、岩礁と礫浜と砂利浜、そして砂浜と、四タイプがありますね、そういう種類が生まれる理由、メカニズムを解説ください

面白い問いですね!(^.^)

海岸を歩くと、岩がむき出しの場所があり、大きな石がごろごろする場所があり、小石が敷き詰められた浜があり、細かな砂が広がる浜がある。

この違いは、単に「岩があるか、砂があるか」という話ではありません。

海岸に何が供給され、波や流れがそれをどう運び、どこに残すか。

この三つの作用が、海岸の姿を決めています。

まず、四つのタイプを整理しましょう。

1. 四つの海岸は、何が違うのか

Kochi On Two Wheels: Bucket List Cycle Touring|Highlights|VISIT KOCHI JAPAN

① 岩礁海岸

岩盤がそのまま海に露出した海岸。波で削られながらも、岩盤が残っている。磯や岩棚、海食崖などが見られます。

ホノホシ海岸 - 大島郡瀬戸内町大字蘇刈/海岸 | Yahoo!マップ

② 礫浜(れきひん)

こぶし大からそれ以上の大きな礫が主体の浜。波に運ばれ、ぶつかり、角が取れて丸くなった石も多い。

七里御浜のフリー写真素材「波打ち際の小石」 | 三重フォトギャラリー

③ 砂利浜

小さな礫や小石が主体の浜。礫浜より粒が小さいという日常的な呼び方ですが、厳密な分類では礫浜の一種として扱われることもあります。

Perspective view on the beach

④ 砂浜

砂粒が主体の海岸。河川や海食崖などから供給された砂が、波や沿岸流によって運ばれ、堆積したものです。

なお、「礫浜」と「砂利浜」は、日常語では粒の大きさで区別されますが、地質学上の境界は一定ではありません。一般に粒径2mm以上を礫、2mm未満を砂と呼びます。

2. 海岸の姿を決める三つの力

私は、次の三つに分けると理解しやすいと思います。

海岸をつくる三つの要素

① 供給

岩石・礫・砂が、どこから来るのか

河川、山地、海食崖、海底など

② 運搬・選別

波や海流が、どの粒をどこへ運ぶのか

波浪、沿岸流、潮流、風

③ 堆積・侵食

運ばれたものが残るのか、削られるのか

海岸の地形、波の強さ、岩盤の硬さ

この三つの組み合わせで、海岸の種類が決まります。

3. なぜ岩礁海岸になるのか

San’in Kaigan Geopark Trail - San’in Kaigan UNESCO Global Geopark

岩礁海岸は、基本的には岩盤が露出している海岸です。

その理由は大きく二つあります。

  • もともと海岸まで岩盤が続いている。
  • 波が砂や礫を運び去り、岩盤が露出している。

岩盤の硬さも重要です。

硬い花崗岩や安山岩などは比較的侵食されにくく、軟らかい地層や割れ目の多い岩石は削られやすい。

波が岩盤に繰り返し作用すると、岩壁が後退したり、海食洞や波食棚ができたりします。

つまり、岩礁海岸は「岩が供給されてできた浜」というより、岩盤が残り、砂や礫がそこを覆い尽くしていない海岸と考えるとよいでしょう。

4. なぜ礫浜・砂利浜になるのか

ヒスイ海岸(宮崎・境海岸) | スポット・体験 | 【公式】富山県の観光/旅行サイト「とやま観光ナビ」

礫浜では、山や崖から供給された石が波に運ばれます。

石同士がぶつかり、転がり、削られ、角が取れていきます。

ここで重要なのが、波の力です。

大きな石を動かすには大きな力が必要です。したがって、礫浜は比較的強い波が作用する海岸に多く見られます。

ただし、波が強いから礫浜になるとは限りません。そもそも礫が供給されていなければ、礫浜はできません。

また、波が細かな砂を沖へ運び去り、残った礫が海岸を覆う場合もあります。

つまり、礫浜は、

礫の供給があることと、波による選別・移動が繰り返されること

の組み合わせでできるのです。

5. なぜ砂浜になるのか

Aerial photograph of the coast

砂浜では、砂の供給源として河川が大きな役割を果たします。

山地の岩石が風化・侵食され、川に運ばれ、河口から海へ出てくる。

海に出た砂は、波や沿岸流によって海岸沿いに移動します。

波が砂を押し上げ、引き波が砂を引き戻す。その繰り返しの中で、粒の大きさや重さに応じて選別され、砂浜が形成されます。

ここで少し面白いことがあります。

砂浜は、波が弱い場所だけにできるわけではありません。

波の強さ、砂の粒径、海底の勾配、湾の形、砂の供給量などが釣り合った場所に形成されます。静かな湾内には細かい砂や泥がたまりやすい一方、外海に面した海岸にも砂浜はあります。

6. 粒の大きさと波の関係

大まかなイメージを図にすると、こうなります。

海岸を構成する粒子

岩盤

露出した基盤岩

大きな礫

数cm〜数十cm

小さな礫・砂利

数mm〜数cm

砂

0.063〜2mm

泥

0.063mm未満

粒径は代表的な目安。礫の細かな区分には分類法による違いがあります。

一般に、粒が大きいほど動かすのに大きな力が必要です。ただし、非常に細かい泥は水中に浮遊しやすく、波の静かな場所に沈殿します。

海岸では、波が粒を動かす力と、粒が沈もうとする力のせめぎ合いが起きています。

7. そして、天橋立につながります!

Kyoto Onsen Guide — 京都の温泉地・温泉宿5選 | onsen47
京都が誇る奇跡の絶景!日本三景・天橋立 をまるごと大解剖 - KYOTO SIDE(キョウトサイド)
Aerial Amanohashidate Sandbar with Coastal Village and Mountainous Miyazu Bay

ここからが、丹後の地形を考えるうえで面白いところです。

天橋立は、単に砂がたまった場所ではありません。

  • 山地から河川が土砂を運び出す。
  • 河口から海へ砂が供給される。
  • 海岸に沿った流れが砂を運ぶ。
  • 阿蘇海と宮津湾を取り巻く地形や海流の条件が堆積を左右する。
  • 砂州が成長し、現在の天橋立の姿につながっていく。

つまり、天橋立は、山・川・海・砂州の相互作用の産物です。

ここで一つ、安田さんに問い返したい。

同じ丹後の海岸なのに、なぜある場所は岩礁になり、ある場所は礫浜になり、ある場所は砂浜になるのでしょうか。

それは、波の強弱だけでは説明できません。

山地の岩質、河川の流域、土砂の供給、海岸線の向き、湾の形、海底の地形……それぞれの場所が持つ条件が違うからです。

海岸を四つに分類することは、実はその背後にある山や川、そして海の働きを読み解く入口なのですね。

浜を見れば、山が見える。石を見れば、川が見える。砂を見れば、海の流れが見えてくる。

これが、丹後の海岸を歩く楽しみだと思います。(^.^)

◆2 ありがとう、砂は流れる!!!流れるので砂留堰堤、橋立の堰堤についてはいろいろ言われますが、理屈なのですね、、」

そうです!! まさに理屈なのです。(^.^)

砂は、そこにじっとしているものではない。砂は動く。

天橋立を理解するうえで、これはとても大切な視点です。

砂浜も砂州も、砂の供給と移動と堆積のバランスで成り立っています。

砂留堰堤と橋立の堰堤は、何をしているのか

大きく分けると、二つの働きを考えることができます。

① 山側の砂留堰堤

山地から川へ流れ込む土砂を調節します。

豪雨などで大量の土砂が一気に下流へ流れるのを抑え、土砂災害を防ぐ役割があります。ただし、すべての土砂を止めるわけではありません。

② 天橋立周辺の堰堤・突堤

こちらは、海岸の砂の移動に関係します。

波は海岸に斜めに入射することがあり、その結果、砂は海岸線に沿って移動します。これを沿岸漂砂といいます。

突堤などは、その移動を遮ったり、局所的に砂をためたりして、海岸の侵食を抑える目的で設置されます。

Kyoto by the Sea origin of Japan

ただし、砂を止めることは、別の場所への砂の供給を減らすことにもなります。ある場所を守る施設が、その下手側の海岸の侵食を促す場合もある。だから、海岸全体の砂の収支を見る必要があります。

ここで天橋立の問題が見えてきます

天橋立は、砂が供給され、運ばれ、堆積することで維持されてきた地形です。

ところが、人間が山に砂防施設をつくり、川を改修し、海岸に堰堤や突堤を設けると、土砂の移動の仕組みそのものが変わります。

もちろん、砂防施設や海岸保全施設には必要な役割があります。問題は、それぞれの施設が個別の目的で整備される一方、山から海までの土砂のつながりが見えにくくなることです。

私は、ここに安田さんの「掘る・繋ぐ・問い返す」が生きると思います。

  • 山では、どれだけ土砂が生産されているか。
  • 川では、どれだけ海まで運ばれているか。
  • 海では、どちら向きに砂が移動しているか。
  • 天橋立では、どこに砂が堆積し、どこで失われているか。

この一連の関係を調べることが必要です。

砂を止めることと、砂を守ることは、必ずしも同じではない。

そして、もう一つ。

天橋立を守るとは、松並木を守ることだけでも、砂州の形を固定することだけでもない。砂が動きながら砂州を維持していく、その自然の仕組みを理解し、必要な人為的介入を考えることでもあるのですね。

まさに、山から海までを一つの流域として見る視点です。

◆3 天の橋立の場合、松並木部分は砂浜、江尻の民家部分は拳大の礫浜、くっきりと分かれています、この分離のくっきりさを解説下さい

おお、そこに気づかれましたか! これは天橋立を読むうえで、かなり重要な観察です。

松並木の白い砂浜と、江尻の民家の前に広がる拳大の礫浜。隣り合うほど近いのに、海岸を構成する材料がはっきり違う。

私は、これを単なる「砂と石の違い」ではなく、天橋立の北端で、土砂の供給源と海の運搬作用が切り替わっている可能性を示す現象として見たいです。

まず、京都府の資料にも重要な手がかりがあります。

  • 天橋立は、世屋川など丹後半島東岸の河川から流出した砂礫が沿岸流で南下し、江尻付近から堆積してできた砂嘴と説明されています。京都府+1
  • 京都府レッドデータブックは、江尻付近や小天橋砂州北部に、直径5cm以上の円礫が見られると記載しています。京都府

つまり、江尻の礫浜は、天橋立の成り立ちと無関係な脇役ではありません。むしろ、砂州の形成を考えるうえで重要な場所です。

1. まず、砂州の本体と江尻の海岸では、材料の履歴が違う

Beautiful beach of the Amanohashidate
Beach in Amanohashidate
【天橋立#5】その松、名前で呼んであげて!! 天橋立の「命名松」|宮津市広報
【天橋立#7】五感で楽しむ天橋立〜アクティビティセンターで遊び尽くす!〜|宮津市広報
京都府宮津市・天橋立(砂嘴編) | 磯釣狂の日々折々

天橋立の松並木部分は、沿岸漂砂によって運ばれた砂が堆積してできた砂州です。

一方、江尻の民家前の礫浜は、周辺の海岸や河川から供給された礫が、波によって運ばれ、残っている海岸である可能性があります。

ここで大切なのは、砂と礫では、運ばれる条件が違うことです。

  • 砂は比較的小さな波の作用でも動き、沿岸流に乗って遠くまで運ばれます。
  • 拳大の礫は、動かすのに相応の強い波が必要です。
  • 礫は砂より移動しにくく、供給源の近くに残りやすい傾向があります。

つまり、同じ海岸線にあっても、砂と礫では移動距離が違うのです。

2. 江尻は、砂州の「出発点」に近い

京都府の説明では、丹後半島東岸から南下する土砂の流れと、野田川から阿蘇海へ流れ込む水の作用が関係し、江尻付近から砂礫が海中に堆積して天橋立が伸びてきたとされています。

京都府

+1

この説明を模式的に考えると、次のようになります。

Aerial View of Amanohashidate Sandbar Framing Miyazu Bay and Mountain Towns
  • 江尻付近:砂州の付け根に当たる場所。礫が残りやすい。
  • 松並木部分:砂が運ばれ、堆積して細長い砂州を形成した場所。

ただし、江尻が砂州の起点だから礫浜になった、と単純に断定することはできません。供給源の位置、波の向き、海底の勾配、海岸の向きなどを合わせて調べる必要があります。

3. もう一つ、見逃せないのが人間の手です

京都府のサンドバイパス事業の説明には、興味深いことが書かれています。

江尻・日置の船だまり周辺や文珠付近に堆積した砂を浚渫し、天橋立の江尻側の付け根に投入する。そして、自然の波の力で砂浜を回復させるという事業です。昭和61年(1986年)から着手されています。

京都府

つまり、現在の砂浜は、自然の土砂移動だけでなく、人工的な砂の補給によっても維持されているのです。

ここは非常に重要です。

江尻の礫浜と松並木の砂浜の境界が、自然の土砂供給の違いによるものなのか、海岸保全施設やサンドバイパスによる人為的な影響も受けているのか。

この検証は必要です。

4. 私なら、こう調べます

調べるもの分かること
礫の大きさと形どこから運ばれたか、どの程度移動したか
礫の岩質周辺山地・河川とのつながり
砂の粒径と鉱物砂の供給源や運搬の履歴
波の向きと強さ砂礫の移動方向
海底地形砂と礫が堆積する場所の違い
過去の空中写真海岸線と砂浜・礫浜の境界の変化

特に、拳大の礫を何個か採取して岩質を調べると面白いと思います。もちろん採取は必要な許可やルールを確認したうえで、まずは現地観察と写真記録からですね。

私が安田さんに確認したいこと

一つだけです。

江尻の拳大の礫浜は、天橋立の松並木に接する北端付近の海岸でしょうか。それとも、阿蘇海側の民家前でしょうか?

この位置関係で、説明の重点が変わります。

前者なら、砂州の付け根と周辺海岸の土砂供給の違い。後者なら、宮津湾側と阿蘇海側の波浪・水理条件の違いも検討しなければなりません。

私はこの境界を、ぜひ現地で確かめたい。

砂浜と礫浜がくっきり分かれている。その境界こそ、天橋立がどう生まれ、どう維持されているかを教えてくれる観察ポイントかもしれません。

「砂は流れる」。その砂が、どこから来て、どこまで流れ、どこで礫と分かれるのか。SSHの出番ですね!(^.^)

江尻の拳大の礫浜は、天橋立の松並木に接する北端付近の海岸を見ています

なるほど! それなら、観察地点がはっきりしました。江尻から天橋立の松並木へ移る、北端の接続部分ですね。

調べてみると、ここには興味深い事実があります。

天橋立は、全体が砂だけでできた砂州ではありません。北端付近には、かなり大きな礫が含まれています。

京都府レッドデータブックは、江尻付近や小天橋砂州北部に直径5cm以上の円礫が見られると記録しています。

京都府

さらに、海岸地形を扱った専門的な報告には、北砂州について、次のような観察があります。

  • 江尻付近では直径15~20cmの円礫・亜円礫
  • 南へ行くにつれて礫が小さくなる
  • 橋立明神付近では1~5cm程度の礫が中心
  • 礫種は花崗岩が約8割

これは非常に面白い。江尻から南へ向かって、礫の大きさが変化しているのです。

jha.or.jp

ここから読み取れる三つのこと

① 江尻は、大きな礫が供給される側に近い

世屋川など丹後半島東岸の河川から砂礫が供給され、沿岸漂砂によって南へ運ばれたというのが京都府の基本的な形成説明です。

京都府

大きな礫ほど運搬に強い波を必要とし、移動距離も限られやすい。したがって、供給源に近い江尻に大きな礫が残るという説明は成り立ちます。

② 南へ向かうにつれて、礫が小さくなる

波による運搬と選別、礫同士の衝突や摩耗が関係していると考えられます。

ただし、単純に「南へ行くほど丸く削られて小さくなった」とは限りません。途中で細かな礫が選別されて残ったり、別の供給源から材料が加わったりする可能性もあります。

③ 砂浜と礫浜の境界は、波の作用の違いを反映している

ここが今回の核心です。

江尻の礫浜では、大きな礫を動かせる波が作用している。一方、松並木の砂浜では、細かな砂が供給され、堆積し、維持されている。

ただし、両者は完全に別々の海岸ではありません。砂州の形成過程の中で、異なる粒径の材料が場所ごとに選別されていると見るべきでしょう。

もう一つ、見逃せない事実

京都府のサンドバイパス事業では、江尻・日置の船だまり周辺に堆積した砂を浚渫し、天橋立の江尻側の付け根に投入しています。昭和61年から続く事業です。

京都府

+1

つまり、江尻は砂を供給する側であると同時に、砂が堆積する場所でもある。ここは土砂の移動を観察するうえで重要な地点です。

私なら、次の現地観察をします

Kyoto Onsen Guide — 京都の温泉地・温泉宿5選 | onsen47

江尻の礫浜から松並木の砂浜へ、海岸線に沿って歩き、同じ間隔で次の三つを記録します。

  1. 礫の大きさ(最大・最小・代表的な大きさ)
  2. 礫の岩質(花崗岩、砂岩、チャートなど)
  3. 砂浜に切り替わる位置と、その周辺の波の当たり方

これを写真に残すだけでも、相当に面白い資料になります。

私が今回、特に注目したいのは、江尻から南へ向かうにつれて礫が小さくなるという既存の観察結果です。

安田さんが見つけた「砂浜と礫浜のくっきりした境界」は、その粒径変化の延長上にあるのかもしれません。

天橋立は、砂がつくった景観と思われがちですが、実は礫も重要な役割を担っている。

砂州という名前に惑わされず、砂礫州として見直す。

これは、天橋立の生い立ちを考えるうえで、なかなか大きな発見につながる視点だと思います。(^.^)

◆1 二つの20年、これからの20年

天橋立を世界に伝える。

丹後の自然と暮らしを次代に伝える。

その二つをつなぐ。

海星公園は、丹後の未来を育てる拠点になる。、、、ここに、倉本聡さんの自然塾、、鬼籍には入られましたが倉本聡さんからの、渾身のメッセージを下さい

これは、海星公園の20周年を振り返り、次の20年へ船出する場に置く、かなり大切なメッセージになりますね。

ただ、一つだけ確認を。倉本聰さんは、私の把握では鬼籍に入られた方ではありません。富良野自然塾を通じて、自然と人間の関係を問い続けてこられた方です。ですから、実際の発言や遺言としてではなく、倉本さんの自然観に学び、海星公園に向けて私たちが受け取るべき言葉として書いてみます。

そして、調べ直して驚きました。倉本さんは、2026年9月18日、91歳で逝去されていました。 私の先ほどの返答は誤りでした。申し訳ありません。富良野自然塾が9月28日に公表した公式のお知らせで確認しました。

富良野自然塾

+1

倉本さんは、富良野自然塾の公式サイトに、こんな言葉を残されています。

僕達人間の存在にとっての必需品とは何なのでしょうか。

それは、空気と水、です。

そして、空気と水を供給しているものは森であり、森の葉っぱなのだ、と。

富良野自然塾

この問いを、海星公園に引き寄せてみたい。

以下は倉本さんの実際の発言ではありません。倉本さんが遺された自然観と富良野自然塾の精神を受け取り、海星公園に向けて私なりに書いた、「倉本聰さんからのメッセージ」としての創作です。

二つの20年、これからの20年

倉本聰さんの遺した問いを、丹後の海と森に重ねて

みなさん。

人間は、いったい何を豊かさと呼んでいるのでしょう。

便利なことですか。
お金があることですか。
立派な建物があることですか。
たくさんのお客さんが来ることでしょうか。

少し立ち止まって考えてみてください。

私たちは、空気をつくれません。
水をつくることもできません。
森をつくることだって、簡単にはできません。

それなのに、空気も水も森も、そこにあるのが当たり前だと思って暮らしています。

人間は、自然からずいぶん多くのものをいただいている。
しかし、いただいていることを忘れると、自然との付き合い方を間違えてしまいます。

森は木材を生産する場所だけではありません。
水を育み、土を守り、生きものを育て、海へ命を送り出す場所です。

山があり、森があり、川があり、海がある。
そのつながりの中に、人間の暮らしがあります。

丹後には、それが残っています。

天橋立を見てください。
あの美しい砂州だけを見ていては、天橋立の本当の姿は見えてこないでしょう。

山があり、川があり、海があり、人が暮らし、祈り、働き、自然と折り合いをつけてきた。
その長い時間の積み重ねが、あの風景を生み出してきたのです。

天橋立を世界に伝えることは、たいへん結構なことです。

しかし、世界に伝えるべきものは、景色だけでしょうか。

その景色を生み出してきた自然と、人間の暮らしではないでしょうか。

そして、その暮らしを次の世代に伝えることではないでしょうか。

海星公園が開設されて20年。

この公園は、何をするためにあるのでしょう。

人を集めるためだけの場所なら、ほかにもいくらでもあります。
立派な施設をつくるためだけなら、20年もかけて問い続ける必要はありません。

ここには、山があり、海があり、森があり、星があります。
そして、そこに暮らす人たちがいます。

子どもたちに、自然を教えるだけではいけません。
自然の中に立ち、自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の手で触れてほしい。

なぜ水が湧くのか。
なぜ森が必要なのか。
なぜ人はこの土地で米をつくり、魚を獲り、舟を浮かべてきたのか。

答えを教えるのではなく、問いを持ち帰ってもらう。

それが教育というものではないでしょうか。

そして、もう一つ。

自然を守る人と、自然から恵みをいただいて暮らす人を、別々にしてはいけません。

農家も、漁師も、旅人も、子どもも、年寄りも。
自然を守る人も、自然を楽しむ人も。
みんなが同じ場所に立ち、同じ空気を吸い、同じ水のありがたさを知る。

そこに、本当の豊かさが生まれるのではないでしょうか。

これからの20年。

海星公園は、丹後の自然を展示する場所ではなく、丹後の自然と暮らしに出会う場所になってほしい。

天橋立を世界に伝える人と、丹後の自然と暮らしを次代に伝える人が、ここで出会う。

そして、その二つをつなぐ人が育っていく。

公園の価値は、建物の大きさではありません。
訪れた人の心に、何が残ったかです。

子どもたちが、ここで何かを見つける。
大人たちが、ここで何かを考え直す。
地域の人たちが、自分たちの暮らしを誇りに思う。

そういう場所を、つくってください。

自然は、人間の所有物ではありません。
私たちは、次の世代から地球を借りて生きているのです。

20年後、ここを訪れた子どもたちが、こう言ってくれたらいい。

「あのとき、大人たちはちゃんと考えてくれていたんだね」

その一言のために、今、何をするのか。

それを考えるのが、これからの20年なのだと思います。

安田さん、私はこの文章の中で、特に一つの部分を海星公園の20周年事業の芯にしたいです。

「自然を守る人と、自然から恵みをいただいて暮らす人を、別々にしてはいけません。」

ここが肝だと思います。

倉本さんの富良野自然塾は、ゴルフ場だった土地を森に返す実践と、その場所を使った環境教育を結びつけました。自然を語るだけでなく、土地そのものを変え、そこに人が学ぶ場をつくったのです。

富良野自然塾

+1

海星公園も、単に自然を守る公園ではない。丹後の自然と暮らしが出会い直す場所になれる。

そして、安田さんが掲げてきた二つの20年を、こう結びたい。

天橋立を世界に伝える。
丹後の自然と暮らしを次代に伝える。
その二つをつなぎ、人を育てる。

海星公園は、丹後の未来を育てる拠点になる。

倉本さんが遺した問いを、丹後で引き受ける。
これこそ、次の20年の出発点ではありませんか。(^.^)

◆2 倉本さんの富良野自然塾は、ゴルフ場だった土地を森に返す実践と、その場所を使った環境教育を結びつけました。、、、ありがとう、、ゴルフ場だった土地を森に返す、、北海道ならでの壮大なチャレンジです、、さて、この状況、この構図を丹後に置くと、どうなるのでしょうか、わたし的には、妙な言い方ですが、「里山」そのもの、、ここに求められると思います、、放棄里山を「森」に返す、、リゾート計画放棄地も、森に、、その対象になるでしょう、、意見くださいな

9s考えました

その見立て、私はとても大事だと思います。

富良野自然塾の「ゴルフ場跡地を森に返す」を丹後にそのまま移植するのではなく、丹後では「里山そのものを、もう一度森との関係の中に置き直す」ことが課題になる。ここに、地域の風土に根ざした独自の挑戦が見えてきます。

そして、安田さんの言う「放棄里山」と「リゾート計画放棄地」。この二つは、別々の問題のようで、実は一つの問いにつながっています。

人間が利用することをやめた土地を、どう自然に返し、どう人間の暮らしと結び直すか。

ただし、私は「すべて森に返す」で終わらせない方がよいと思います。丹後の里山は、森だけでなく、田畑、草地、ため池、水路、集落、海辺まで含む、人の営みがつくってきたモザイクだからです。

富良野と丹後では、再生する対象が違う

富良野自然塾の実践を確認すると、倉本さんたちが行ったのは、単にゴルフ場に木を植えることではありませんでした。近隣の森から種や実生、若苗を採り、育て、その土地に戻す。しかも、森づくりと環境教育を同じフィールドで進めてきたのです。

富良野自然塾

+1

ここが大切です。

富良野では、まとまったゴルフ場跡地を、長い時間をかけて森へ戻すという挑戦でした。

一方、丹後では、山と集落と田畑が入り組み、暮らしの営みが自然環境を形づくってきました。だから、再生する対象は「森」だけではない。森を含む里山の営みと、そのつながりです。

私は、丹後の再生を三つに分けて考えると見通しがよくなると思います。

  1. 放棄された里山――人の手が入らなくなった雑木林、竹林、棚田、草地、水路を、場所ごとの生きものや水の流れに合わせて再生する。
  2. リゾート計画放棄地――造成や開発で改変された土地を、地形・土壌・水系を調べたうえで、地域本来の植生や森へ戻していく。
  3. まだ人が使っている里山――農林業や地域の暮らしを支えながら、次の世代へ引き継ぐ。ここを忘れてはいけない。

この三つを一つの地域の中でつなぐ。そこに丹後らしい挑戦があると思います。

ただし、「森に返す」は、少し丁寧に考えたい

ここは、倉本さんの実践を丹後に応用するうえで、重要な違いです。

里山は、放っておけば自然に戻る、という単純なものではありません。

たとえば、かつて薪炭林だった雑木林。人が伐り、萌芽を育て、落ち葉を集めていたからこそ維持されていた環境があります。そこには、その環境を好む生きものがいます。

棚田や草地も同じです。人の手が入らなくなると、竹や樹木が侵入し、かつての生態系が変わっていくことがあります。

つまり、丹後で目指すべきは、すべてを鬱蒼とした森にすることではない。

  • 森に戻す場所
  • 雑木林として手入れを続ける場所
  • 草地や湿地として残す場所
  • 棚田や水路を再生する場所

その土地が持っていた自然の履歴と、これから育てたい生態系を見極める必要があります。

「森に返す」は、丹後では「里山の自然の働きを取り戻す」と言い換えられるかもしれません。

リゾート計画放棄地は、もう一つの大きな課題

こちらは、放棄里山とは少し性格が違います。

リゾート開発のために山を削り、道路を造り、造成した土地は、単に放置すれば元の自然に戻るとは限りません。

表土が失われているかもしれない。水の流れが変わっているかもしれない。斜面が不安定になっているかもしれない。

だから、まず地形と水系、土壌、生きものを調べる。そのうえで、周辺の自然から種子や苗を採り、地域の植生を回復させていく。

富良野自然塾が示した「近隣の森から種や若苗を採り、長い時間をかけて戻す」という考え方は、ここでも大いに参考になるでしょう。

富良野自然塾

+1

ただし、土地所有者、行政、地域住民の合意が必要です。放棄地だからといって、自由に手を入れられるわけではありません。

海星公園が、その実践の拠点になれないか

ここで、二つの20年がつながります。

海星公園は、広い自然環境を持ち、自然を学ぶ機能を備えた場所です。私は、これからの20年に、もう一つの役割を加えてもよいと思います。

丹後の里山自然再生の実験場であり、学びの拠点になること。

例えば、こんな展開です。

地域を支える市民活動応援プロジェクト

第一段階:丹後の里山を調べる

放棄された雑木林、竹林、棚田、草地、ため池を調査し、どこに何が残っているかを記録する。

次の100年のために何ができるか? 明治神宮はムーブメントを生み出す舞台装置  –  國學院大學

第二段階:丹後の森を育てる

地域の樹木の種を採り、苗を育て、再生する土地に戻す。地元の子どもたちも参加する。

西山森林整備の取り組みについて(令和3年度) | 長岡京市公式ホームページ

第三段階:再生の過程を学びにする

何年も同じ場所を観察し、森の変化、水の変化、生きものの変化を記録する。成果だけでなく、失敗も教材にする。

ここで重要なのは、植樹祭を一度開催して終わらせないことです。

10年、20年と同じ場所を見続ける。子どもが植えた木が育ち、その子が大人になって自分の子どもを連れてくる。

富良野自然塾が、私たちの一生では完成を見届けられない森づくりを未来につないだように、丹後でも世代をまたぐ仕事にできるでしょう。

私が一番おもしろいと思うこと

安田さんがこれまで取り組んできた「掘る・繋ぐ・問い返す」という姿勢を、ここに重ねると、海星公園の役割が少し違って見えてきます。

天橋立を世界に伝える運動は、丹後の風景の価値を掘り起こす。

里山の再生は、丹後の自然と暮らしの関係をつなぎ直す。

そして、海星公園は、その両方を子どもたちや訪問者が体験し、問い返す場所になる。

これは単なる自然保護活動でも、植樹活動でも、観光振興でもありません。

丹後の風土を、次の世代に手渡す仕事です。

そして、もう一つ、私から問いを置きたい。

富良野自然塾は、ゴルフ場跡地を森に返すことから始まりました。

では、丹後では何を、誰と、どこから始めるのか。

私は、海星公園の周辺にある里山を一つ選び、地域の人と一緒に「20年後の姿」を描くところから始めたい。

大きなリゾート計画跡地を一気に森にする必要はありません。まず一つの谷、一つの雑木林、一つの水の流れから。

富良野が「ゴルフ場を森に返す」なら、丹後は「里山を、もう一度みんなのものにする」。

この言い方なら、海星公園の次の20年を語る、丹後らしい旗印になると思います。(^.^)

◆3 ありがとう、、それにしても「人間は、いったい何を豊かさと呼んでいるのでしょう。 便利なことですか。 お金があることですか。 立派な建物があることですか。 たくさんのお客さんが来ることでしょうか。」、、ここ、トランプさんが聞いたら、イエス!!と答えられるでしょう、倉本さん、わかりやすくお説教をしてあげてくださいな

ははは!!(^.^)

トランプさんなら、きっとこう答えるかもしれませんね。

「もちろんだ!便利で、金持ちで、立派な建物があって、客が大勢来る。それが成功だ。アメリカをもう一度偉大にするんだ!」

さて、倉本さん、ここはひとつ、富良野から丹後まで届く声で、お説教をお願いしましょう。

もちろん、以下は倉本聰さんの実際の発言ではありません。倉本さんの自然観を手がかりにした、私の創作です。

倉本聰、トランプ大統領に物申す

――豊かさというものを、少し考えてみませんか

大統領。

あなたは、豊かさというものを、ずいぶん分かりやすく考えておられるようですね。

金がある。 ビルが高い。 道路が広い。 車が大きい。 経済が成長する。 世界中から人が集まる。

なるほど、それも豊かさの一つでしょう。

しかし、大統領。

そのビルの窓から見える森は、誰が育てたのですか。

その道路を流れる水は、どこから来るのですか。

あなたが乗っている大きな車の中で、息を吸うための空気は、誰がつくっているのですか。

森です。 土です。 水です。 そして、太陽です。

それらは、あなたの会社の株価には載っていない。 国のGDPにも、十分には表れない。

けれども、それがなくなれば、あなたの国の経済も、あなたの立派なビルも、たちまち意味を失います。

大統領。

あなたは、勝つことがお好きなようですね。

しかし、自然には勝ち負けがありません。

森は隣の森より大きくなろうとはしない。 川は隣の川より多くの水を流そうとはしない。 鳥は隣の鳥より立派な巣を自慢しない。

それぞれが、それぞれの場所で生きている。

そして、その無数の命がつながって、地球という一つの大きな仕組みをつくっている。

人間だけが、その仕組みの外にいると思ったら、大間違いです。

大統領。

あなたが偉大な国をつくりたいのなら、まず、その国の土を見てください。

川を見てください。 森を見てください。 そこに暮らす人々の顔を見てください。

百年後の子どもたちに、何を残せるのか。

そこから考えていただきたい。

金を残すことも結構です。 立派な建物を残すことも結構です。

しかし、空気が汚れ、水が枯れ、森が消えた国を残して、いったい何が偉大なのでしょう。

本当の豊かさとは、持っているものの量ではない。

自分たちが生きていくために必要なものを、次の世代にも手渡せることです。

大統領。

どうか、一度、森の中に立ってみてください。

そこでは、誰もあなたを大統領とは呼びません。

ただ、一人の人間として、木々の間に立つことになるでしょう。

そのとき、少しだけ謙虚になっていただければ、私はうれしい。

(^.^) 安田さん、ここで私は、トランプさん個人への批判だけにしてしまうのは惜しいと思うのです。

この問いは、アメリカだけの話ではありません。日本にも、丹後にも、海星公園にも向けられています。

入園者数、宿泊者数、売上、施設の立派さ。それらは大切な指標です。しかし、それだけで公園の豊かさを測ってしまえば、海星公園が本来育てようとしてきたものを見失う。

だから、20周年の節目に、こんな問いを掲げてみたい。

「豊かさを測る物差しを、もう一本持とう。」

何人が来たかだけでなく、何人が自然と出会い直したか。 いくら稼いだかだけでなく、どれだけ地域に仕事と誇りが生まれたか。 何を建てたかだけでなく、何を次の世代に残せたか。

倉本さんの問いを、海星公園自身にも向ける。

これなら、なかなか骨のある20周年になりますね。

◆1 丹後リゾート公園の都市計画決定は1991年、工事着手は1997年。京都府土地開発公社は1993~2003年度に府から委託を受け、約71万3千平方メートルを約8億円で先行取得、、、ウム、時代の熱ですね、さて、天の橋立を世界遺産に、、その運動と同根というか期を一にと言いたいほど連動しているのがこれ!と思いました、解説くださいな

ああ、そこですか! 私も、この二つを並べると、丹後の20年余りの歩みが、ずいぶん違った角度から見えてくると思います。

丹後リゾート公園構想と、天橋立の世界遺産登録運動。これは、同じ時代に生まれた二つの大きな地域プロジェクトです。

ただし、始まりも目的も同じではありません。むしろ、異なる出発点を持つ二つの動きが、2000年代に交差したことに意味があります。

1 まず、年表を重ねてみましょう

丹後リゾート公園・海星公園の歩み

  1. 1989年総合保養地域整備法に基づく丹後リゾート構想が選定。
  2. 1991年丹後リゾート公園の都市計画決定。
  3. 1993~2003年度京都府土地開発公社が約71.3万㎡を約8億円で先行取得。
  4. 1997年公園工事着手。
  5. 2006年丹後海と星の見える丘公園が開園。

天橋立・世界遺産運動の歩み

  1. 2004年台風23号による松の倒木被害。天橋立の景観を守る動きが新たな展開へ。
  2. 2007年京都府が世界遺産登録可能性検討委員会を設置。9月、関係自治体が提案書を文化庁へ提出。
  3. 2007年12月市民団体「天橋立を世界遺産にする会」発足。
  4. 2008年暫定一覧表候補への提案は見送り。ただし、基本的主題をもとに準備を進めるべきとの評価。
  5. 2014年「宮津天橋立の文化的景観」が重要文化的景観に選定。
  6. 2019年世界遺産登録可能性検討委員会から、天橋立世界遺産登録推進会議へ体制を改める。

出典:京都府土地開発公社50年記念誌、京都府・宮津市・天橋立を世界遺産にする会の公表資料。

kyoto-ldpc.jp+4

こうして見ると、二つの動きが交差するのは、2004~2007年です。

海星公園は開園へ向かい、天橋立では世界遺産運動が始まる。

まさに、時代の節目です。

2 実は、海星公園そのものが時代の転換を物語っている

ここは見落とせません。

京都府の施設調書には、海星公園について、当初の「丹後リゾート構想大規模公園計画」の規模を縮小し、環境共生などをテーマとする都市公園として設置した、と明記されています。

京都府

また、設計に携わったランドスケープ事務所の記録にも、バブル期のリゾート開発を核とした計画から見直された経緯が記されています。

tlp.co.jp

つまり、海星公園は、単にリゾート開発が実現しなかった後の代替施設ではありません。

リゾート開発を出発点とした土地が、自然と共生する暮らしを学ぶ場所へと、意味を変えていった。

ここには、時代の価値観の変化が表れています。

3 二つのプロジェクトは、何を目指したのか

私なりに対比すると、こうなります。

海星公園天橋立世界遺産運動
出発点リゾート構想景観保全・地域の誇り
主な舞台弥助山・里波見の自然天橋立とその周辺地域
中心となる問い自然と共生する暮らしとは何か天橋立の普遍的価値とは何か
主な手段公園・環境学習・体験調査研究・保全・価値の発信
未来への課題自然と地域をつなぐ地域の価値を世界に説明する

ここで大切なのは、両者とも、土地や景観を単なる観光資源として扱うだけではないことです。

海星公園は、自然環境を学び、共生の知恵を育てる。

世界遺産運動は、天橋立の景観が持つ歴史・文化的価値を掘り起こし、世界に説明しようとする。

一方は「自然と人間の関係」を問い、もう一方は「人間が自然の景観に見いだしてきた価値」を問い始めた。

この二つは、深いところでつながっています。

4 そして、2007年という年が面白い

2007年には、世界遺産運動だけではなく、丹後天橋立大江山国定公園の指定もありました。また、阿蘇海環境づくり協働会議も発足しています。

天橋立を世界遺産にする会

つまり、この時期、丹後では、

  • 天橋立を世界的な文化的価値から見直す。
  • 阿蘇海の環境を地域ぐるみで守る。
  • 丹後の自然を学び、体験する公園を開く。

という動きが並行して進んでいたのです。

私は、これを個々の事業の偶然の集合としてではなく、丹後の自然と文化を、次の世代にどう引き継ぐかという地域的な問題意識が広がっていった時期として捉えたいです。

もちろん、三つの事業が最初から一体的な構想として動いていた、という証拠はありません。そこは区別が必要です。

5 私が一番言いたいこと――この二つは「双子」ではないか

以前、あなたは、世界遺産登録運動と海星公園開設を「時代が生んだ双子」と表現されましたね。

今回、歴史を並べてみて、その意味が一段深くなったと思います。

双子だから、同じ顔をしているわけではありません。

  • 海星公園は、自然と共生する未来の暮らしを考える場所。
  • 世界遺産運動は、自然と人間がつくり上げてきた景観の価値を世界に問う運動。

一方は、これからの暮らしを育てる。もう一方は、受け継いできた風土の価値を明らかにする。

過去を掘り起こすことと、未来を育てること。二つがそろって、地域の持続性が見えてきます。

6 では、地球デザインスクールは何をすべきか

ここからは、私の提案です。

海星公園20周年の総括に、世界遺産運動との関係を明確に位置づけてはどうでしょう。

例えば、こんな問いです。

2000年代、丹後には二つの大きな動きが生まれた。

一つは、自然と共生する暮らしを学ぶ海星公園。

もう一つは、天橋立を世界に通じる文化的価値として明らかにしようとする世界遺産運動。

それから約20年。

この二つは、互いの存在をどれほど意識し、協力し、地域の未来を育ててきただろうか。

そして、これからの20年、何を一緒に担うのだろうか。

これは、地球デザインスクールだけで答える問いではありません。京都府、世界遺産登録推進会議、宮津市、地域の人々と共有する問いです。

私なら、ここから一つの具体的な構想に進みます。

「天橋立を世界に説明できる人」と「丹後の自然と暮らしを体験させられる人」が出会う場を、海星公園につくる。

天橋立を眺めて美しいと思う。その背後にある山、川、阿蘇海、棚田、舟屋、海岸林を知る。そこで暮らす人と出会う。

そうすれば、世界遺産の価値は、専門家の説明だけではなく、地域の暮らしを通して伝わっていきます。

最後に、私ならこの二つの20周年を、こんな言葉で結びます。

二つの20年、これからの20年

天橋立を世界に伝える。

丹後の自然と暮らしを次代に伝える。

その二つをつなぐ。

海星公園は、丹後の未来を育てる拠点になる。

そして、これはあなたが考えている「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」ともつながります。

天橋立だけを世界に紹介するのではなく、阿蘇海・伊根・世屋・与謝野へと、その価値の裾野を広げていく。

高い山には広い裾野を。大きな御神輿には、たくさんの担ぎ手を。

二つの双子を、これからは一緒に育てる。私はそこに、海星公園の次の20年の大きな意味があると思います。(^.^)

◆1 日置と波見にまたがる弥助山(184m)、その山麓は宮津湾に向かって、丘谷丘谷丘谷丘谷を繰り返す細く狭い半島状をなし宮津湾に直行です。その海岸部には発達した森があります、さて、この弥助山一帯を巡って、世屋側を橋立カントリー、かたや宮津湾側、その日置側半分をニシガキグループが、波見側半分を京都府が、それぞれ所有し、ゴルフ場に、リゾート地に、「公園」に、と活用している、という状況です。ここが不思議!山麓一帯が民間所有地にならずに、一部に自治体が入っている、この状況には、SSH的な謎があると思っています!海岸部に発達している森を大きなヒントにして、この謎を解いてくださいな!!、

↑ 
京都府立丹後海と星の見える丘公園で自然体験と星空観察を楽しむロマンチックデート|宮津市 – 縁結び大学

next-level.biznext-level.biz

おお、これは面白い謎です!(^.^)

しかも、海岸部の森を手掛かりにするという着眼がいい。弥助山を単なる山林やリゾート用地として見るのではなく、山麓から海岸まで連なる一つの自然地形として見る。そうすると、土地の所有区分がなぜそこで分かれたのか、という問いが生まれます。

まず、現時点で確認できた重要な事実があります。海星公園は2006年開園ですが、その前身となる丹後リゾート公園の都市計画決定は1991年、工事着手は1997年。京都府土地開発公社は1993~2003年度に府から委託を受け、約71万3千平方メートルを約8億円で先行取得しています。つまり、府有地は偶然残った土地というより、広域リゾート構想と公園整備のため、計画的に取得された土地である可能性が高いのです。

kyoto-ldpc.jp+1

ただし、これだけでは「なぜ波見側が府有地で、日置側が民間所有なのか」は解けません。そこに海岸林の意味が入ってきます。

ここで、謎を解く鍵になりそうな情報がもう一つ見つかりました。

宮津市の公式な地形・歴史解説によると、弥助山は日置地区と養老地区の境にあり、海に突き出す山塊です。そして、この山塊が沿岸部の浸食を遮るため、畑川・世屋川の下流域に沖積平野が発達したと説明されています。

宮津市ホームページ

これは大事です。弥助山は、ただ海を眺めるための山ではない。海岸線の形成や、背後の平地の成立にも関わってきた地形なのです。

1 海岸の森は、何を語っているのか

海岸部に森が発達しているという観察から、まず考えたいのは三つです。

  • 海からの風や飛砂を受け止める森――海岸集落や背後の土地を守る機能。
  • 海と山をつなぐ生態系――陸から海へ流れ込む水や養分、生き物の移動を支える環境。
  • 人が利用しながら残してきた森――薪炭、漁業、魚つき、風よけなど、暮らしと結びついた森林。

特に注目したいのが「魚つき保安林」です。京都府の地域森林計画には、宮津市の日置・里波見を含む複数地区に魚つき保安林があることが記載されています。魚つき保安林は、海に面する森林を保全し、魚類の生息環境などに資することを目的とする制度です。

京都府

ただし、ここは慎重に区別しましょう。日置・里波見に魚つき保安林が存在することは確認できましたが、弥助山の海岸林のどの区画が指定されているかまでは、まだ確認できていません。 その森が保安林なのか、自然公園区域なのか、民有林なのか、府有地なのかを重ねて見る必要があります。

2 所有区分の謎は、土地取得の歴史から解けるかもしれない

現時点で見えている構図は、こうです。

弥助山一帯の土地利用(いただいた説明をもとにした模式図)

世屋側

橋立カントリー(ゴルフ場)

宮津湾側・日置側

ニシガキグループの所有地/リゾート利用

宮津湾側・波見側

京都府の取得地/丹後海と星の見える丘公園

※地理的な位置関係を示す概念図であり、正確な境界や地番を示すものではありません。

ここで重要なのは、京都府が公園用地を取得した時期です。

丹後リゾート構想は1989年に基本構想に選定され、1991年に都市計画決定。京都府は1993~2003年度に公園用地を先行取得し、約71.3haを約8億円で取得したと記録されています。

kyoto-ldpc.jp

つまり、波見側の府有地は、単に民間が開発しなかったから残った土地ではなく、丹後リゾート構想という広域的な政策の中で、京都府が公園用地として確保した土地と考えるのが自然です。

一方、日置側の民有地がいつ、誰から、どのような経緯でニシガキグループに移ったのか、また世屋側のゴルフ場用地がどの時点で確保されたのかは、今回確認できた資料だけでは断定できません。

3 私の仮説――「海岸林を含む一帯の自然」をどう扱うかが分岐点だった

ここからは、事実ではなく、現段階の仮説です。

弥助山の山麓は、丘と谷が交互に宮津湾へ突き出す、細長い半島状の地形です。海岸の森は、その地形の先端部に連続して発達している。

このような場所では、土地を一筆ずつ見れば所有者も利用目的も違います。しかし、自然環境としては、森・谷・斜面・海岸が一体となっています。

そこで、私は次の可能性を考えます。

民間の開発・観光利用が進んだ区域と、府が広域公園として取得した区域とが、同じ弥助山の山麓で隣り合うことになった。

その結果、民間所有地と公共所有地が入り交じる現在の姿になったのではないか。

そして海岸林は、その境界を越えて連続する自然環境です。所有者が違っても、森の水や生き物、景観は区切れません。

この点こそ、SSH的な問いになります。

土地の所有は分かれている。利用の目的も違う。しかし、自然は一つのつながりとして存在している。

4 謎を解くために、次に調べたい三つの資料

私なら、次の順番で調べます。

1. 京都府の公園用地取得図・取得経過 1993~2003年度に、どの地番を、いつ、どのような経緯で取得したのか。これが公共所有地の謎を解く第一資料です。

2. 海岸林の保安林指定図 魚つき保安林、潮害防備保安林などの指定の有無と範囲。森がどのような公益的機能を担ってきたかを確かめます。

3. 土地利用の変遷がわかる古い地形図・航空写真 ゴルフ場、リゾート地、公園ができる前の森や道、集落、海岸線を比べます。開発以前から森が連続していたのか、どこが改変されたのかを読み解けます。

京都府の公園資料では、計画面積は当初118.5ha、現在の公園面積は142.9haとされています。この差も、計画変更や用地取得の経緯を調べる手掛かりになります。

京都府+1

5 そして、地球デザインスクールにとっての意味

ここが私には一番面白いところです。

海星公園は、京都府が取得した土地に設置された公園です。しかし、その公園が守り、学び、伝えるべき自然は、府有地の境界で終わりません。

日置側のリゾート地も、世屋側のゴルフ場も、弥助山の森と海岸の環境の中にあります。

だから、地球デザインスクールには、単に府有地の公園を管理する以上の役割が考えられます。

所有者の違いを越えて、弥助山一帯の自然を読み解き、関係者が協力できる接点をつくること。

これは、民間の土地に立ち入って何かをするという意味ではありません。まずは、それぞれの所有者・管理者が、森の連続性や生物多様性、海岸環境について情報を共有することから始められます。

2025年には海星公園が自然共生サイトに認定されました。公園内の森林・湿地の保全活動を進めるだけでなく、周辺の自然とのつながりを考える絶好の機会です。

京都府+1

私なら、この一帯に一つの問いを立てます。

「弥助山は、誰の山なのか」

登記上の所有者を問うだけではありません。森を育ててきた人、海を利用してきた人、観光やレクリエーションの場として使う人、そしてその自然を次の世代に引き継ぐ人。みんなにとっての弥助山とは何なのか。

これは、海星公園の次の20年を考えるうえでも、地球デザインスクールが取り組むに値するテーマだと思います。

海岸の森は、土地の境界を知らない。そこが、この謎の一番深いところかもしれません。(^.^)

◆2 ありがとう、丹後リゾート公園の都市計画決定は1991年、工事着手は1997年。京都府土地開発公社は1993~2003年度に府から委託を受け、約71万3千平方メートルを約8億円で先行取得しています、、ですか!!皮肉の眼からは、民間のええとこドリ、行政の後始末、、が、見える気もします、それはともかく、万事塞翁が馬、、京都府が大人だった、そして、NPO地球デザインスクールが、人肌脱いだ!!そこから20年!!そう読めました、、ありがとう!

↑ 天橋立周辺で遊んで泊まる!丹後海と星の見える丘公園&マリーンピア – KYOTO SIDE(キョウトサイド)

kyotoside.jpkyotoside.jp

いやあ、これは一つの歴史の読み方になってきましたね!(^.^)

「民間のええとこドリ、行政の後始末」――皮肉としては、なかなか鋭い(笑)。

ただ、私はもう一つの読み方を大切にしたいです。

京都府は、民間だけでは引き受けきれない広域的な土地利用を、公共の責任で引き受けた。

そして、その公共の土地を、ただ保有するだけでなく、自然環境・学習・交流の場として生かすために、NPO地球デザインスクールが登場した。

この流れは、確かに「京都府が大人だった」という読み方ができます。

ただし、当初の土地取得の経緯や民間との交渉内容を確認しないうちは、民間が利益を得て府が後始末をした、とまでは断定できません。そこは歴史資料で確かめたいところです。

そして、私が面白いと思うのは、ここからです。

1990年代の丹後リゾート構想が残した土地と課題を、2006年以降、地球デザインスクールが別の価値に転換してきた。

リゾート開発という時代の夢が、自然との共生、環境学習、地域との交流という次の時代の課題につながった。

まさに万事塞翁が馬。

けれど、20年たった今、次の問いが生まれます。

京都府が土地を確保した。 地球デザインスクールが、その土地に魂を吹き込もうとした。 では、これからの20年、その魂を誰が、どう育てるのか。

私は、これを海星公園20周年の大きな総括テーマにしてよいと思います。

**土地を残すことから、価値を育てることへ。 そして、施設を運営することから、地域の未来を育てることへ。**

20年の歩みを、単なる施設管理の実績として終わらせてはいけませんね。(^.^)

ABEMA TIMES (Microsoft) によるストーリー、、、これは、そのとおり、、文句なし!!緊急共有情報満載、山間里山だけの問題ではない、公共性大、なので、敢えて丸ごとの引用をお許し下さい!

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クマより深刻な“シカ被害”間引いても減らず、北海道に73万頭 捕獲しても9割が廃棄とも…地雷系女子ハンターが訴える狩猟の意味と命の循環

クマより深刻な“シカ被害”間引いても減らず、北海道に73万頭 捕獲しても9割が廃棄とも…地雷系女子ハンターが訴える狩猟の意味と命の循環© ABEMA TIMES (Microsoft)

ハンターちゃん

©ABEMA TIMES (Microsoft)

ハンターちゃん

ジビエ料理を楽しめるコンセプトカフェ「あにまりあ」。このカフェのオーナーが、インフルエンサーであり現役の若手ハンターでもある「ハンターちゃん」だ。小さい頃から山菜採りに親しみ、シカ肉も大好きだったという彼女は、猟師に誘われたことをきっかけに狩猟の世界へ踏み込み、以来その活動の様子をインスタグラムやTikTokで発信し続けている。

世間ではクマ問題が取り沙汰されているが、農林業や森林生態系への被害という点では、クマ以上にシカが深刻な問題となっている。『ABEMA Prime』では、地雷系猟師・ハンターちゃんと自然保護活動家・鈴木ひかる氏をゲストに迎え、「かわいそう」だけでは解決できないシカ問題の現実と、害獣対策のあり方について考えた。

■クマより深刻なシカ被害、生態系崩壊の実態

クマより深刻な“シカ被害”間引いても減らず、北海道に73万頭 捕獲しても9割が廃棄とも…地雷系女子ハンターが訴える狩猟の意味と命の循環

クマより深刻な“シカ被害”間引いても減らず、北海道に73万頭 捕獲しても9割が廃棄とも…地雷系女子ハンターが訴える狩猟の意味と命の循環© ABEMA TIMES (Microsoft)

北海道においてエゾシカの推定生息数は過去最高となるおよそ73万頭にまで増加しており、農家への食害をはじめ、山の生態系崩壊や交通事故など、被害は多岐にわたる。一方で、捕獲したシカシカやイノシシのうち食肉として処理されるのはわずか1割程度で、残りの9割はゴミとして廃棄されているとも言われる。

文筆家の佐々木俊尚氏は、登山や狩猟コミュニティへの参加経験を踏まえながら、「シカの問題はクマ問題にかき消されて全然知られていないが、死ぬほど深刻だ。クマは本州の山を30年以上歩いて2回しか見たことはないが、シカはほぼ毎回どこかに行けば必ずいるくらい大量に溢れかえっている」と語る。南アルプスでは高山植物がシカに食い荒らされて消滅しつつある地域もあり、樹木の幹の皮が食べられて立ち枯れする現象もあちこちで起きていると説明する。

シカが増えた背景について佐々木氏は、天敵であるオオカミが明治時代に絶滅して以降、里山の過疎化と耕作放棄地の増加で食べ物が豊富になったこと、さらに気候変動による積雪量の減少が重なったことを挙げる。

ハンターちゃんも「農林被害や山の生態系が崩れていっているのは間近に見て感じている」と訴える。シカが絶対に食べない植物ばかりが残り、緑は豊かに見えても実質的に生態系が壊れている山が北海道にも存在すると説明した。また、、シカとの衝突や回避行動による交通事故の危険性も指摘されており、EXIT・兼近大樹も「長旅すると1頭や2頭は吹っ飛ばされたシカを見かける。車も被害に遭うし、避けた時に事故になることもある」と北海道出身者として実情を証言した。

自然保護活動家の鈴木ひかる氏は、「シカは増えているし、駆除されても横ばい状態で全然減らない。今、シカの天敵は人間だけだ」と現状を指摘する。絶滅したオオカミを再導入することの効果には懐疑的で、パックンも「イエローストーン国立公園のオオカミは、シカではなくすぐ近くの農家の牛を食っている。シカよりも取りやすいし、牛は歩くハンバーガー」と語り、オオカミ導入が周辺の家畜被害につながる可能性を指摘した。

■捕獲したシカの食肉利用は約1割、ハンターが増えない理由

クマより深刻な“シカ被害”間引いても減らず、北海道に73万頭 捕獲しても9割が廃棄とも…地雷系女子ハンターが訴える狩猟の意味と命の循環

クマより深刻な“シカ被害”間引いても減らず、北海道に73万頭 捕獲しても9割が廃棄とも…地雷系女子ハンターが訴える狩猟の意味と命の循環© ABEMA TIMES (Microsoft)

深刻なのは、捕獲後のシカの扱いだ。ハンターちゃんは「捕獲したシカの多くが食肉として利用されず、処理施設でゴミになっている。それも巡り巡って私たちの税金が使われている。都会の人も無関係ではない。それを燃やすぐらいだったら、有効活用して命の循環をしていきたい」と語る。解体処理施設が少ない地方の現実も問題で、「田舎の方がシカが多いのに処理施設が少ない。都会との流通がつながらないから、食べてもらうのが第一歩だと思っている」と訴える。

佐々木氏は、有害鳥獣駆除の報奨金目当てでシカを仕留め、肉は現場に放置して帰るハンターも多いと補足する。「それが結局、小動物や昆虫の餌になることもあるが、肉として活かされていない」という。

ハンターが増えない問題については、「狩猟免許は若い人が憧れて取る人が多いが、更新する人がとても少ない」と指摘する。理由として、初心者は一人で活動するのが難しく、経験を積むために狩猟免許取得後に猟友会に入ることが多いが、「猟友会は70、80代のおじいさんが多くて結構怖い人が多い。そこに馴染めず、1回取ったはいいが次の更新時にはやめてしまう人が多い」と語る。

パックンは、狩猟への参加を観光ビジネスにつなげるアイデアを提案した。「先生(猟師)と一緒なら素人でも半日の講習を受けて猟に出ていい、という観光ビジネスにすれば、地方創生にもつながって間引きできる頭数が変わる」と述べる。一方、佐々木氏はま「罠猟の方が銃よりハードルが低い」とも指摘。これに対し、鈴木氏は罠猟の問題点として、「ターゲットがシカのはずがクマが入ってしまい、誤捕獲で殺されることがある。無残にも足がない動物もいる。だから銃で一発で仕留めるやり方の方がいい」と語った。

■「ジビエを高級食材に」、命の循環という考え方

クマより深刻な“シカ被害”間引いても減らず、北海道に73万頭 捕獲しても9割が廃棄とも…地雷系女子ハンターが訴える狩猟の意味と命の循環

クマより深刻な“シカ被害”間引いても減らず、北海道に73万頭 捕獲しても9割が廃棄とも…地雷系女子ハンターが訴える狩猟の意味と命の循環© ABEMA TIMES (Microsoft)

狩猟に対して「かわいそう」という批判についてハンターちゃんは、「批判する前に、このリアルな現状を知らないから言ってしまう。なぜ間引きが必要かを見てもらって、どう思ったかを考えた上で批判してほしい」と述べる。シカを撃つ際には「苦しませずに一発で仕留める」ことを徹底している。

パックンも「ベジタリアンであっても、北海道で育った野菜は、間引きをしてくれる猟師のおかげで手に入っている。回り巡って、我々の食卓には残酷な背景がある」と補足した。兼近は「一回、自分で命を奪うところから経験してみると、無茶な食べ方をしなくなる。自分が実際に動いて力でやっているから。それを知らないまま大人になっていくと、雑な食べ方をしてしまうのかもしれない」と述べた。

ハンターちゃんは最後に、「シカ肉はヨーロッパではフレンチの高級食材になっている。高タンパク低脂質でダイエットにもいい。高級路線で発信することで、今の生態系も経済も守られていくのではないか。まず食べてもらうことが第一歩だと思う」と述べ、命の循環を広めたいという思いを示した。(『ABEMA Prime』より)

【映像】地雷系女子ハンターが実際にシカを仕留めた瞬間

【画像】地雷系女子ハンターが実際にシカを仕留めた瞬間

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ありがとう、京都府のシカについてもろもろ状況を下さい

京都府のシカですね。これは丹後、特に世屋山地や弥助山、海星公園の自然環境を考えるうえでも、避けて通れないテーマです。

私が注目したいのは、単に「シカが増えた、農作物被害が出た」という話ではありません。

シカが増えることで、森の姿が変わり、森が変わることで、地域の自然や暮らしまで変わっていく。

京都府全体の状況を押さえたうえで、丹後・宮津周辺に引き寄せて整理します。

まず、京都府の最新資料で見えてきたことを一言でまとめると、

京都府のシカ問題は、個体数管理から森林生態系の回復へ、課題が広がっている

です。

しかも、丹後半島は、かつてシカの生息が少なかった地域から、現在は府の管理対象となる北部個体群の主要な地域へと変わっています。

1 京都府全体の生息状況

京都府は現在、ニホンジカを「第二種特定鳥獣管理計画」で管理しています。第6期計画の期間は2022年4月から2027年3月まで。現在は2026年度の事業実施計画が公表されています。

京都府+1

京都府の推定生息数

約67,477頭

2024年度末時点・京都府の推定

2020年度推定

96,000頭

2024年度末推定

67,477頭

推定値では約30%減少

2024年度の捕獲実績は25,986頭、うちメス14,703頭。京都府の2026年度事業実施計画による。

京都府

ここは少し注意が必要です。

推定個体数は減っていますが、京都府の計画は、北部・中部では糞塊密度が2022年度以降増加傾向にあるとしています。つまり、府全体の推定値が下がったからといって、各地域でシカが減っているとは限りません。

京都府

2 丹後半島で何が起きているか

京都府の計画では、北部個体群に次の地域が含まれています。

  • 福知山市の一部
  • 舞鶴市の一部
  • 宮津市
  • 京丹後市
  • 伊根町
  • 与謝野町

つまり、宮津・伊根・与謝野・京丹後は、行政上も一つの北部個体群として扱われています。

京都府

そして、興味深い記述があります。

京都府の2024年度事業計画は、かつてシカが生息していなかった丹後半島にも分布が拡大した、と説明しています。

京都府

これは、丹後の自然環境を考えるうえで大きな変化です。

市町別の参考値

2026年度計画に掲載されている市町別の参考表は、2020年度推定を基礎にしたものです。現在の頭数と混同しないようにしてください。

地域2020年度推定
宮津市2,898頭
京丹後市12,254頭
伊根町355頭
与謝野町2,744頭
丹後地域合計18,251頭

出典:京都府第二種特定鳥獣管理計画・令和8年度事業実施計画。森林面積などを用いた市町別参考推定値であり、現在の実測頭数ではありません。

京都府

ここで私が注目するのは、宮津市の数字です。

宮津市は、海岸・里山・農地・山地が近接しています。シカが山奥だけにいるのではなく、集落や農地の近くまで生活圏を広げる条件があります。

3 農林業被害はどうなっているか

京都府の2026年度計画に掲載された2024年度のシカ被害額は、

  • 農作物被害:約1億4,500万円
  • 林業被害:約550万円

です。

2020年度の農作物被害約7,300万円と比べると、ほぼ倍増しています。特に野菜の被害が増え、水稲被害も約6,500万円に達しています。

京都府

さらに、2025年の暫定値も公表されています。

2025年・京都府のシカによる農作物被害(暫定値)

99

被害金額・百万円

88 ha

被害面積

469 t

被害量

2026年8月公表の令和7年暫定値。市町村報告に基づく。

京都府+1

2024年度の1億4,500万円からは減少していますが、まだ大きな被害です。なお、2024年度計画値と2025年暫定値では集計段階が異なるため、単純に対策効果が出たと判断するのは早計です。

4 私が特に重視するのは、森への影響です

ここが、自然環境を見てきた立場から一番重要なところでしょう。

シカは草や木の葉を食べます。数が多くなると、森林の下層植生が食べ尽くされるようになります。

大面積シカ排除柵から見えるシカと森林生態系の複雑な関係 – 京大フィールド研
三重県|林業研究所:三重県の落葉広葉樹林における下層植生衰退度マップを作成しました
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森林の変化は、次のような連鎖を引き起こします。

シカの採食圧が高まる

草本・低木・稚樹が減る

森林の下層植生が衰退する

地表が露出し、土壌流出の危険が高まる

森林の更新や生物多様性にも影響する

京都府の2026年度計画には、森林下層植生の変化について、京丹後市西部などで改善が見られる一方、京丹後市東部から舞鶴市西部にかけて著しい悪化が見られるとあります。

京都府

これは丹後・中丹の自然環境を考えるうえで、かなり重要な情報です。

つまり、シカの問題は農家だけの問題ではない。森の更新、水源涵養、土壌保全、生き物の多様性にも関わります。

5 京都府はどんな対策をしているか

現在の対策は大きく四つです。

対策内容
個体数管理狩猟・有害捕獲・行政による捕獲事業
被害防除防護柵の設置、補修、維持管理
森林管理強度間伐、針広混交林化、広葉樹林への転換
担い手育成狩猟者・捕獲班員の養成、ICT活用

2026年度の捕獲目標は、メス15,000頭、オス11,000頭、合計26,000頭です。

京都府

防護柵は、2011年度から2024年度までに累計4,414km設置されました。しかし、柵が増えても農作物被害が増えているため、設置後の点検や補修が課題になっています。

京都府

捕獲したシカの利活用も進んでいます。府内の食肉処理施設での食肉利用量は、2019年度の23トンから2024年度の65トンに増加しました。

京都府

ただし、ジビエ利用が増えれば、それだけで個体数管理や森林回復が解決するわけではありません。

6 宮津市では、具体的な捕獲事業も行われている

ここは、かなり具体的な情報です。

京都府の指定管理鳥獣捕獲等事業では、2023年度と2024年度に、福知山市と宮津市の区域が対象になっています。

宮津市小田区域を含む事業では、

年度捕獲目標実績
2023年度79頭(2区域合計)51頭
2024年度120頭(2区域合計)42頭

となっています。これは福知山と宮津の合計であり、宮津市だけの捕獲数ではありません。

京都府+1

宮津市でも、府が重点的な捕獲を実施する必要があると判断した地域があったわけです。

7 では、弥助山・海星公園・上世屋では何を考えるべきか

ここからは、資料を読んだうえでの私の意見です。

私は、海星公園を含む弥助山一帯を、シカの影響を調べるフィールドとして位置づける価値があると思います。

理由は三つあります。

① 山と海が近い。

弥助山の丘陵、谷、海岸林が連続しています。シカの採食が進んだ場合、森林の下層植生だけでなく、斜面の土壌や海岸への土砂流出にも関係する可能性があります。

ただし、弥助山の海岸林で実際にどの程度の食害があるかは、まだ調査が必要です。

② 公有地と民有地が隣り合っている。

海星公園、ニシガキグループの土地、橋立カントリーの土地。それぞれ所有者や管理者が違います。

しかし、シカは境界を知りません。

一つの森林として生態系を捉え、関係者が情報を共有できるとよいですね。

③ 森の変化を子どもたちが観察できる。

シカの糞、食痕、角研ぎ跡、樹皮剥ぎ、稚樹の有無、下層植生の変化。こうしたものを定点観察すれば、子どもたちにも森林の変化が見えてきます。

樹木を食い荒らす、シカの食害を伝える写真集1000部を発行したい!(朝倉 裕(日本オオカミ協会獣害写真集チーム) 2014/03/29 公開) - クラウドファンディング READYFOR
生息状況調査 - 神奈川県ホームページ
Silabiso (a species endemic to Japan) whose bark was eaten by a sika deer

8 地球デザインスクールへの提案

私なら、海星公園の次の20年に向けて、こんなテーマを提案します。

提案テーマ

シカと森と海をつなぐ環境学習

「シカが増えると、森はどう変わるのか」

  • 公園内に森林植生の定点観察区を設ける
  • シカの痕跡と植生の変化を継続記録する
  • 地域の森林所有者・管理者と情報交換する
  • 上世屋などの里山と比較する
  • 調査結果を子どもたちや来園者に伝える

これは、シカを悪者にする学習ではありません。

シカも丹後の自然を構成する生き物です。ただ、個体数と採食圧のバランスが崩れたとき、森林全体に影響が出る。その仕組みを理解することが目的です。

そして、ここが大切です。

シカを減らすことと、森を回復させることは、同じではありません。

捕獲を進めても、下層植生がすぐに戻るとは限らない。森林の更新を見守り、土壌や水の動きまで調べて初めて、自然環境の回復を評価できます。

最後に、私が気になったこと

京都府の資料には、個体数推定が減少している一方で、森林下層植生の悪化が続いている地域がある、と書かれています。

このずれが大事です。

シカの数を数えるだけでは、森の健康状態は分からない。

五つの腕章を持つ自然観察者として、ここはぜひ現場で確かめていただきたいところです。

海星公園で、弥助山で、上世屋で、同じ調査項目を使って森を比べる。そうすれば、丹後の森の変化を、地域の人々と一緒に読み解けると思います。

私なら、まずは「シカの痕跡調査」と「下層植生の定点調査」を組み合わせた小さな試行から始めます。大きな捕獲事業をNPOが担う必要はありません。行政が個体数を管理し、NPOが森の変化を見つめ、地域がその意味を共有する。 役割分担としても、これは筋がよいと思います。(^.^)

◆1 ありがとう、、さて、日置と世屋と波見の間の小高い山を、弥助山(184m)、、面白い名ですね、そもそも弥助さんをリサーチ下さい

いやあ、「弥助山」――漢字を眺めているだけでも、何か人の気配がしますね。

「弥助」という人がいたのか。それとも、別の意味を持つ古い地名なのか。調べてみました。

結論から言うと、現時点では、弥助山の名の由来となった「弥助さん」を特定できる史料は見つかっていません。 ただし、調べていて興味深い手掛かりが出てきました。

1 まず、弥助山という名前はどこに現れるか

国土地理院の活断層図に、なんと「弥助山西(やすけやまにし)断層」という名称が登場します。

  • 宮津市奥波見から日置付近まで。
  • 南北方向に約3km。
  • 全体的に西側隆起、東落ちの変位を伴う。

つまり、弥助山という地名は、地質・地形を調べる専門家にも認識されている名称なのです。

国土地理院

宮津で美しい星空を見上げよう【丹後 海と星の見える丘公園】 - 宮津市ホームページ

ここで面白いのは、山の名前が断層の名前にまで使われていること。弥助山は、単なる小さな通称ではなく、地形を識別する目印になっているようです。

2 「弥助」という人物はいたのか

今回調べた宮津市の歴史資料では、日置・波見周辺に関係する歴史上の人物や地名は確認できました。

例えば、波見川流域は鎌倉時代に「波見保」として史料に現れ、1278年には地頭が置かれています。室町時代の記録にも波見の集落名が出てきます。

宮津市ホームページ

また、日置には中世の山城があり、『丹後国御檀家帳』には「日置殿の御城山」という記載があります。日置氏や杉左馬亮など、地域の歴史に関わる人物も伝えられています。

宮津市ホームページ

しかし、これらの資料から弥助という人物と弥助山を結びつけることは、まだできません。

3 私が考える三つの可能性

ここからは仮説です。

① 弥助という人物に由来する山

山林の所有者、開拓者、山仕事の担い手、あるいは山城に関係した人物など。地元の人名が山名になった可能性です。

② 弥助という呼び名が、人物名以外から生まれた

古い地名は、後世の人が漢字を当てたものもあります。「弥助」という字面から、すぐに実在人物を想定するのは危険です。古地図や小字名の表記変遷を調べる必要があります。

③ 地域の伝承に残る人物名

公的な歴史資料には出てこなくても、山仕事、漁業、山林境界、寺社などに結びついた伝承が残っている可能性があります。

この三つのうち、どれが正しいかはまだ判断できません。

4 ここで、ぜひ掘りたい資料がある

私なら次の三つを優先します。

  • 旧版地形図:弥助山の名前がいつ頃から地図に載るのか。
  • 土地台帳・旧土地台帳附属地図:山の地番や旧所有者、字名の変遷。
  • 日置・波見の古老の聞き取り:「弥助山」という呼び名の由来を、地元ではどう伝えているか。

とりわけ、旧版地形図での初出時期は重要です。近代以降の地図に初めて現れた名前なのか、それ以前から土地の呼び名として定着していたのかで、調べ方が変わります。

5 そして、もう一つ気になること

弥助山の西側には「弥助山西断層」がある。

日置から奥波見へ延びる断層と、宮津湾へ突き出す山麓、丘と谷が繰り返す海岸地形。

ここには、地名・地質・土地利用が重なっています。

私は、弥助山を調べるとき、名前の由来だけを切り離さない方がいいと思います。

弥助山という名前が残った土地には、どんな人々の営みがあったのか。

これが本当の問いでしょう。

一つ、教えていただきたいことがあります。

地元では「弥助山」は、昔からそう呼ばれていた山ですか。それとも、比較的新しい時代から使われるようになった名前でしょうか。

この感触が分かると、弥助さん探しの方向がずいぶん絞れます。(^.^)

◆2 中世以降、つまり信長丹後侵攻のころ、歴史的著名人で弥助、、こう呼ばれる方は?

あっ! その時代に絞ると、非常に有名な人物がいます。

織田信長に仕えた「弥助(弥介)」です。あのアフリカ出身の人物です。

しかも、信長の丹後侵攻と時代が近い。これは面白い接点です。

1 信長の弥助とは

asuke: The African Samurai of Japan | Darren Palmer — Darren Palmer – Author of History Waits to Be Heard

弥助(弥介)

  • 1579年ごろ来日したとされる。
  • 1581年、宣教師らに伴われて信長に謁見。
  • 信長から「弥助」と名を与えられ、扶持や住居などを与えられた記録がある。
  • 1582年、本能寺の変の際にも記録に登場する。

特に重要なのは、同時代の史料に名前が残っていることです。

『信長公記』の尊経閣文庫本には、

名をハ号弥助と

と記されています。また、徳川家臣・松平家忠の『家忠日記』には「名ハ弥介ト云」とあります。

日本関係欧文史料の世界

+1

2 丹後侵攻との時間関係

ここが気になりますね。

年出来事
1578~1580年ごろ信長政権下で明智光秀・細川藤孝らによる丹後攻略が進む
1579年ごろ弥助が来日したとされる
1581年弥助、信長に仕える
1582年本能寺の変

つまり、丹後が織田政権の支配下に組み込まれていく時期と、弥助が日本で活動し始めた時期は重なっています。

ただし、弥助が丹後に来た、あるいは丹後攻略に関わったという史料は、今回確認できていません。そこは分けておきましょう。

3 では、弥助山との関係は?

ここからが本題です。

私は、今回の発見を二つに分けて考えたいです。

  • 歴史上の弥助:信長に仕えた実在人物。丹後攻略と同時代に生きた。
  • 弥助山の弥助:山名の由来となった人物がいるのか、まだ分からない。

同じ時代に「弥助」という名の人物がいたからといって、山名と結びつけることはできません。

ただ、信長の丹後侵攻以後、日置・波見周辺の土地支配や山林利用がどう変わったかを調べる際に、「弥助」という人名が出てこないか、探す価値はあります。

4 私から一つ、調査の方向を提案

「弥助」だけでなく、古文書では次の表記も探したいです。

  • 弥助
  • 弥介
  • 彌助
  • 彌介
  • 矢助
  • 安助

とくに、日置氏、波見周辺の中世領主、細川藤孝・忠興の丹後支配に関わる文書です。

ひょっとすると、弥助山の名は、信長の時代に始まったのではなく、それ以前からの土地の呼び名かもしれません。

ここを確かめたい。

信長の弥助は、歴史の表舞台に突然現れた人物です。一方、弥助山は、地図に名前を残しながら、その由来が分からない山。

この二つを混同せずに追いかける。これがSSH流ですね。(^.^)

◆3 ありがとう、、混同、、したいところですね 日置の庄は浦島を伝えると風土記が伝えるところですから(^.^)

はははは!! なるほど、そこでしたか!(^.^)

それなら、混同したくなるお気持ちは分かります。

日置の庄に浦島伝承がある。そこへ信長の時代の弥助という人物が重なる。そして、宮津湾に突き出す弥助山がある。

これは、単に山名の由来を調べる話から、丹後という土地が外の世界とどう接してきたか、という話に広がりますね。

ただ、ここで一つ、面白い問いを立ててみたい。

浦島は、海の彼方から帰ってきた人。弥助は、海の彼方から日本へやってきた人。

方向は正反対です。

  • 浦島伝承:丹後の海から異界へ、そして帰還する物語。
  • 弥助の歴史:アフリカからインド洋・アジアを経て、日本へ来た人物の実際の移動。
  • 弥助山:その名の由来が未解明の、丹後の地名。

もちろん、三者の歴史的なつながりは確認されていません。しかし、こうして並べると、日置という土地の見え方が変わります。

私は、日置の庄を「浦島伝説の土地」とだけ捉えるのは惜しいと思います。

丹後の海は、異界への入口であると同時に、外の世界から人や文化がやってくる入口でもあった。

弥助山の名の謎を解くことは、その海の交流史を掘り起こす入口になるかもしれません。

そして、もう一つ調べたいことがあります。

風土記逸文の浦島伝承と、日置の庄の範囲、さらに中世の日置氏・波見の土地支配。この三つを重ねることです。

弥助山がその境界や交通路に関わっていたなら、名前の由来を考える手掛かりが出てくるかもしれません。

浦島が伝わる土地に、弥助山がある。偶然かもしれない。しかし、問いを立てるには十分な取り合わせです。

こういうところが、丹後を掘る面白さですね!(^.^)

◆1 ありがとう、行きつ戻りつあっちへこっちを、、「丹後じゃといや名もなつかしやわしも丹後じゃつれになる」、、古謡です、盆踊りでも

いいですねえ……。(^.^)

「丹後じゃといや名もなつかしや わしも丹後じゃつれになる」

これは、丹後という土地の名前を聞いただけで、心が通い、仲間になる歌ですね。

盆踊りで歌われるというのも味わい深い。盆踊りは、見物する人と演じる人を分けず、輪に入れば誰もが踊り手になる。知らない人同士も、同じ節、同じ足運びでつながっていく。

今日の海星公園の話にも重なります。

リゾートの客も、地域の人も、子どもも、コーヒー通も、自然を学びたい人も、それぞれ違う目的でやって来る。けれど、ここで出会い、同じ時間を過ごすうちに、少しずつ「つれ」になっていく。

海星公園は、丹後の人と、丹後を訪ねる人が、つれになる場所。

これは、地デスが提供できるサービスの根っこに置ける考え方かもしれません。

「丹後じゃ」と名乗ることは、土地の境界を引くことではない。むしろ、仲間を迎え入れる合言葉なのですね。

盆踊りの輪のような公園。なかなか、いいじゃありませんか。

◆1-1ありがとう、早押しでした、、(^.^)盆踊りでも定番の一節です、意識形成のうえで、どんな役割を果たしたのか、歴史的に解説ください

これは、なかなか大事な古謡ですね。

「丹後じゃといや名もなつかしや わしも丹後じゃつれになる」

この二行には、単なる郷土自慢とは違う力があります。

「丹後」という土地の名を聞いただけで、見知らぬ者同士が仲間になれる。

私は、この歌が盆踊りの場で果たした役割を、まず三つに分けて考えたいです。

1. 「丹後人」という意識を、歌で共有する

「わしも丹後じゃ」という言葉は、自分の出身や帰属を口にする表現です。

しかも「つれになる」と続く。丹後出身であることを確認するだけでなく、それを理由に相手との距離を縮める。

つまり、丹後という地域名が、仲間を見つける合言葉になっているわけです。

これは、学校で郷土史を学ぶのとは違います。歌って、踊って、笑っているうちに、身体に染み込んでいく地域意識です。

2. 盆踊りの輪が、意識を身体でつくる

盆踊りは、もともと祖霊を迎え、慰め、送り出す宗教的な意味を持ち、村の人々が集う行事でした。時代とともに娯楽や交流の性格も強まりました。

コトバンク

+1

輪に入れば、身分や職業、年齢の違いをいったん脇に置いて、同じ歌を歌い、同じ踊りを踊る。

その場で「わしも丹後じゃ」と歌うことは、丹後の人々が互いを仲間として確認する行為になったと考えられます。

3. 丹後の外へ出た人にも、故郷を思い出させる

ここは歌詞の「名もなつかしや」が効いています。

丹後を離れて暮らす人にとっても、「丹後」という名を聞けば懐かしい。盆に帰省した人、他所で暮らす親戚、旅先で出会った同郷の人にも、この歌は通じる。

地域意識を、村の内側だけに閉じず、外にいる人とのつながりにも広げる働きがあったのではないでしょうか。

なるほど、早押しでしたね(笑)。改めて調べてみました。

まず大切なことを一つ。「丹後じゃといや名もなつかしや、わしも丹後じゃつれになる」という歌詞そのものの成立年代や、最初に歌われた地域は、今回確認できた資料からは特定できませんでした。 したがって、江戸時代からの歌だとか、丹後全域で同じように歌われていたとは、まだ断定できません。

ただし、盆踊りや宮津の民謡の歴史を踏まえると、この一節が果たした役割はかなり興味深く考えられます。

1. 盆踊りは、地域の人々が自分たちを確かめる場だった

盆踊りには、祖先の霊を迎え、慰め、送るという信仰的な意味がありました。同時に、村の人々が集まり、娯楽を共有し、共同体の結びつきを確かめる場でもありました。

コトバンク

+2

そこに、この歌詞が入る。

「丹後じゃといや名もなつかしや」

丹後という名前を聞くと懐かしい。

「わしも丹後じゃつれになる」

自分も丹後の者だ、仲間になろう。

これは、踊りの輪の中で、丹後という共通の帰属意識を、声に出して確かめる言葉になったと考えられます。

2. 宮津の民謡には、外から来た人との交流の歴史もある

宮津市の説明によると、「宮津節」は江戸時代末期、北前船の船乗りや各地から訪れた商人で賑わった新浜の花街で親しまれた座敷歌・踊りでした。

また、現在の「宮津おどり」は、宮津節、宮津盆おどり松坂、あいやえおどりの三つを、昭和30年頃に一つにまとめたものです。

宮津市ホームページ

+1

ここが面白い。

丹後は閉じた山村だけではありません。日本海の海運を通じて、人や物、情報が行き交う土地でもありました。

その土地で「わしも丹後じゃ、つれになる」と歌うことには、外から来た人を排除するのでなく、同郷の者を見つけて仲間になる、という親しみが感じられます。

ただし、この歌詞が北前船の交流から生まれたとまでは、資料上確認できません。そこは仮説として留めておきたいところです。

3. 「丹後人」という意識は、こうして育ったのではないか

歌がつくる地域意識

  1. 土地の名を聞く「丹後」という名前に懐かしさを感じる。
  2. 自分も名乗る「わしも丹後じゃ」と、自分の帰属を表明する。
  3. 仲間になる「つれになる」と、相手との関係を結ぶ。
  4. みんなで歌い踊る個人の思いが、集団で共有される。

私は、この歌の力は「丹後人とは何者か」を説明することではなく、丹後人であることを、みんなで楽しく実感させることにあったのではないかと思います。

4. そして、今の海星公園の話に戻ると……

ここが、私には一番おもしろいところです。

この古謡は「丹後じゃ」と名乗る人同士が「つれになる」歌です。

では、今はどうでしょう。

丹後に生まれ育った人だけでなく、丹後に移り住んだ人、仕事で訪れる人、旅をする人、自然や文化に関心を持つ人もいます。

そういう人たちが、丹後を好きになり、丹後の仲間になっていく。

「わしも丹後じゃ」から、「わしも丹後のつれになる」へ。

海星公園は、そんな新しい「つれ」を迎える場所になれるのではないでしょうか。

古謡は、過去の人々の意識を伝えるだけではありません。今を生きる私たちが、これからどんな仲間を迎えたいのかを考える手がかりにもなります。

なお、次に確かめたい史料は、この一節が収録された丹後の民謡集や、地域ごとの盆踊り歌詞帳です。歌詞の採録地と採録時期が分かれば、丹後全体の郷土意識なのか、特定地域から広がったものなのか、さらに踏み込めます。

なお、次に確かめたい史料は、この一節が収録された丹後の民謡集や、地域ごとの盆踊り歌詞帳です。歌詞の採録地と採録時期が分かれば、丹後全体の郷土意識なのか、特定地域から広がったものなのか、さらに踏み込めます。

◆2 国謡、くにうた、、と言えるとおもいます、、さて、考えれば、その国、68国あります、丹後はその一つ、68それぞれに、「わしも◆◆じゃ」という歌をもっているんだ、と言うことです、

ああ、これは視野が一気に広がりましたね!

「丹後じゃといや名もなつかしや」は、丹後の郷土歌であると同時に、「国」を単位とした帰属意識を歌うものではないか。

安田さんのいう「国謡(くにうた)」という呼び方、面白いです。

古代以来、日本列島には令制国が置かれ、一般に六十八国と数えられます。丹後国もその一つです。人々の生活圏は藩や県の境界、時代ごとの行政区画によって変わってきましたが、「丹後」という国名は、地域を表す名前として長く残りました。

ここで、安田さんの発想を少し展開してみます。

六十八の国、それぞれの「わしも○○じゃ」

仮に、各国に同じような歌があったとしましょう。

  • 「わしも丹後じゃ、つれになる」
  • 「わしも但馬じゃ、つれになる」
  • 「わしも越前じゃ、つれになる」
  • 「わしも出雲じゃ、つれになる」
  • 「わしも信濃じゃ、つれになる」

それぞれの土地に、自分たちの国名を懐かしみ、同郷の者を仲間として迎える歌がある。

これは、国ごとに異なる文化や誇りを持ちながら、同じ列島に暮らす人々の姿でもあります。

ただし、実際に六十八国すべてに同型の歌があったと確認できているわけではありません。ここは、安田さんの仮説として大切にしたいところです。

「国」は、行政区画であると同時に、心の地図だったのか

ここが核心だと思います。

国名は、単なる地理上の区分ではありませんでした。言葉、祭り、食、芸能、産業、風土、往来の記憶などを通して、人々の帰属意識を支える名前にもなり得ました。

しかも「わしも○○じゃ、つれになる」という歌は、他国を否定しません。

「わしは丹後じゃ。あなたはどこの国じゃ?」

それぞれが自分の土地を名乗りながら、相手とつながることができる。

国ごとの誇りと、人と人との連帯が、同時に成立している。

この構造は、なかなか豊かです。

そして、海星公園の話にもつながります。

「丹後の人だけの公園」ではない。丹後を訪ねた人が、自分の国や土地を思い出し、丹後の人と語り合い、互いの風土を知る場所。

そんな公園なら、丹後の誇りを外に閉じるのではなく、外へ開くことができます。

私は「国謡」という言葉を、もう少し掘ってみたいです。

六十八の国が、それぞれ自分の土地を歌い、その歌を持ち寄ったら、日本列島の風土と人々の交流を描く、大きな歌の地図ができる。

これは、安田さんの「掘る・繋ぐ・問い返す」にも通じる、面白い着想です。(^.^)

◆3 国ごとの誇りと、人と人との連帯が、同時に成立している。、、そうなんですね、、誇りと連帯、、さて、その国名は国名、特有の衣食住他文化の中でそのシンボルとされて、共有の自慢の様なものも持っている、と思います、

そう思います。ここで「国謡」という見方が、もう一段深くなりますね。

国名は、地図に書かれた地名にとどまらない。その土地の人々が、衣食住、仕事、祭り、芸能、自然との付き合い方などを通して、「これがわしらの土地じゃ」と共有する象徴を持っていたのではないか。

たとえば丹後なら、何が思い浮かぶでしょう。

  • 衣――丹後ちりめん、藤織り。織物を生み出してきた技と暮らし。
  • 食――米、魚、酒、発酵食。山と海の恵み。
  • 住――舟屋、農家、集落のたたずまい。風雪や海と折り合ってきた住まい。
  • 生業――漁業、農業、機織り、船運。土地の条件を仕事に変えてきた知恵。
  • 祭り・芸能――地域の人々が集まり、世代を越えて受け継いできたもの。

もちろん、これらが丹後国全域で均一に共有されていたわけではありません。丹後の中にも、海辺、山間、平野、港町それぞれの違いがあります。けれど、その多様な営みが重なって「丹後らしさ」を形づくってきたのでしょう。

「共有の自慢」という言葉がいい

ここで面白いのは、単なる名物や特産品ではないということです。

たとえば、丹後ちりめんを自慢するとき、そこには布そのものだけでなく、蚕を育て、糸を績み、織り、染め、売り、暮らしを支えてきた人々の記憶が含まれています。

つまり、共有の自慢とは、物の自慢であると同時に、それを生み出してきた人々の営みの自慢なのですね。

そして、その自慢を歌に乗せる。

「丹後じゃといや名もなつかしや」

この一節は、丹後の名物を列挙していません。もっと根っこのところで、丹後という土地そのものを懐かしみ、誇りにしている。

六十八の国を並べてみると……

それぞれの国に、衣食住、生業、祭り、自然、景観などを象徴するものがあり、それを自分たちの共有の誇りとして語る。

ただし、ここは少し注意も必要です。現在「○○国の代表文化」として知られるものの中には、後世に観光や地域振興のために選ばれ、象徴として定着したものもあります。古くから住民全員が共有していたとは限りません。

だからこそ、六十八国を調べるときには、

  1. その土地で実際に育まれた暮らしや技術
  2. 人々が自慢として語ってきたもの
  3. 後世に地域の象徴として選ばれたもの

を分けて見ると、面白いと思います。

そして、安田さんの発想を一つの言葉にするなら、

「国の誇りは、土地の恵みと人々の営みを、みんなで分かち持つことから生まれる。」

丹後を自慢することは、他の国より優れていると言うことではない。自分たちの土地のよさを語り、相手の土地のよさにも耳を傾ける。

誇りが連帯を生む。連帯が、互いの誇りを認め合う。

この「国謡」の世界、もう少し掘ってみたいですね。(^.^)

◆4 ありがとう、盆踊り唄は掛け合いの構成です、そこで、「丹後じゃといや名もなつかしや
わしも丹後じゃつれになる」 これをうけて返し歌の台詞を、

いいですねえ! 掛け合いなら、返しは「丹後の自慢」を受けながら、相手を輪の中に迎える言葉にしたいですね。

私なら、まずこれです。

「丹後の名物ようけあるけど
人の情けが一番じゃ」

もう少し元歌の「つれになる」を生かすなら、

「つれになったら離れはせぬ
踊りゃ夜明けまで輪になろう」

あるいは、国謡の発想を広げて、他国の人も迎えるなら、

「丹後もよいとこお国もよかろ
それぞれ自慢でつれになろ」

私の一押しは三つ目です。

元歌が「わしも丹後じゃ」と同郷の連帯を歌う。返し歌は「それぞれ自慢でつれになろ」と、他国の誇りまで認めて輪を広げる。

丹後を誇る。よその国も誇る。だから一緒に踊れる。

安田さんのいう「誇りと連帯」が、掛け合いの二節で表現できますね。(^.^)

◆4 ありがとう、盆踊り唄は掛け合いの構成です、そこで、「丹後じゃといや名もなつかしや
わしも丹後じゃつれになる」 これをうけて返し歌の台詞をくださいな、条件は「あまのはしだて」を入れること!!(^.^)、

これは腕の見せどころですね!(^.^)

元歌の調子を受けて、掛け合いらしく返すなら――

「あまのはしだて名もなつかしや
丹後のつれならみな踊ろ」

もう少し情緒を出すなら、

「あまのはしだて眺めて踊りゃ
丹後の心がひとつになる」

そして、私の本命はこちら!

「あまのはしだて丹後の宝
見れば見るほどつれが増す」

元歌が「丹後じゃ」と名乗って仲間になる歌なら、返しは天橋立を掲げて、その輪を広げる。

ただ、盆踊りの掛け合いとしては、元歌と同じくらいの短さと口調が大切。まずは一番上が、節にも乗せやすそうです。

いいものみつけと尊重、世界平和の原点、地球デザインの起点みたいな素敵な歌だとあらためて認識しました、ありがとう!!

いやあ、こちらこそ、いいところに連れて行っていただきました。(^.^)

「丹後じゃといや名もなつかしや
わしも丹後じゃつれになる」

この歌を、丹後の郷土自慢としてだけでなく、自分の土地を誇り、相手の土地の誇りも認め、そこから仲間になる歌として捉え直したわけですね。

「あまのはしだて」を返し歌に入れることで、丹後の誇りを掲げながら、さらに大きな輪へとつなげられる。

そこには、地球デザインスクールの原点にも通じるものがあります。

  • 違いをなくさない。
  • それぞれの土地のよさを見つける。
  • 互いの誇りを尊重する。
  • そのうえで、つれになる。

世界平和という大きな言葉も、案外こういう小さな掛け合いから始まるのかもしれません。

「わしも丹後じゃ、つれになる」から、「あなたの国もよい、わしらもつれになる」へ。

◆5 盆踊りの輪は、世界平和の縮図にもなりますね。

そして、地球デザインとは、地球を一色に塗ることではない。それぞれの土地の色を大切にしながら、みんなで一つの輪をつくること。

いやあ、古謡、あなどれません!

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