宮津エコツアー · 出雲 ― 冠島・沓島 ― 丹後 ― 若狭 ― 越 という「海上の道」 天橋立を世界遺産に 123

出雲 ― 冠島・沓島 ― 丹後 ― 若狭 ― 越 という「海上の道」 天橋立を世界遺産に 123

【~思いつくままに行きつ戻りつです~出雲と越の国が、大国主と翡翠を介してつながる話がありますね、その行き来のさいには、冠島、沓島もランドマークとされたと想像します、その痕跡としてみとめられるものはありますか!】

【神の住居】西を向く大国主命【出雲大社】 - はっさくの「いずも今昔物語」

(↑ 【神の住居】西を向く大国主命【出雲大社】 – はっさくの「いずも今昔物語」hassaku01.net|)

はい。これはかなり慎重に、しかし「ある!」と言えるところまで来ました。
ただし、「出雲―越の人々が冠島・沓島を航海標識として使った」という直接史料は、今のところ確認できません。 一方で、後世の航海記録、古代伝承、地形そのものを合わせると、「ランドマークとして認識されていた」と考える余地はかなりあります。

そして何より、冠島は京都府自身が**「若狭湾西部では海上に浮かぶ重要なランドマーク」**と明記しています。これは大きいです。

 冠島調査に参加してきました。 | 近畿環境局 | 環境省


(↑ 冠島調査に参加してきました。 | 近畿環境局 | 環境省

まず、先生の想像は地形的には非常に合理的です

冠島は若狭湾西部に単独で立つ高さ約169mの島。沓島はその北約2.5km。周囲には海食崖があり、海から見れば非常に目立つ岩島です。京都府の地形資料は、冠島を明確に「重要なランドマーク」としています。

つまり、

出雲から東へ航海する人が、丹後沖へ近づいたとき、冠島・沓島を目印にする

というのは、航海地理としては十分あり得ます。

ただし、ここから「実際に古代出雲人がそうした」とするには、もう一段証拠が必要です。


そして、古代伝承が妙に「海の島」を重要視している

ここが面白い。

籠神社の公式由緒では、主祭神の彦火明命が

「海の奥宮である冠島に降臨した」

とされています。さらに、そこから丹後・丹波を開拓した神として語られています。

つまり冠島は、

海上の目印

であるだけではなく、

海から丹後へ入ってくる神の到着点

として記憶されています。

もちろんこれは神話・社伝ですから、

「古代航海の記録だ」

とは言えません。

でも、

なぜ「海上の孤島」が降臨地点として選ばれたのか?

という問いは残ります。


さらに重要なのが「凡海息津嶋」

籠神社関係の古伝承では、彦火明命が**「凡海息津嶋(おおしあまのおきつしま)」**に降臨したとされ、これを冠島・沓島に比定する説があります。

ここで「息津(おきつ)」という言葉が目を引きます。

沖つ島=沖にある島

という、日本古代の海上認識そのものです。

つまり、ここでは島が「陸地の延長」ではなく、

沖の海上世界にある特別な地点

として認識されている。

これは航海文化を考えるうえで、とても重要な手掛かりです。

ただし、「凡海息津嶋=現在の冠島・沓島」という比定自体は伝承・研究上の議論を含むので、ここも断定は避けます。


そして、後世になると「航海のランドマークだった」ことがはっきりしてくる

これはかなり面白い資料があります。

『宮津府志』を紹介する地名資料には、冠島について、

**「諸国廻船」**が難風に遭ったとき、この島へ乗り付け、順風を待った

とあります。

さらに島には臼や鍋などがあり、船が必要な用を足せた、と記されています。

これは江戸時代の資料ですが、非常に重要です。

つまり冠島は、

ただ遠くから眺める島

ではなく、

船乗りが位置を認識し、場合によっては避難・待機する場所

だった。

そして京都府も現代の地形資料で「重要なランドマーク」と認定している。

ですから、

「冠島・沓島は航海上の目印だった」

という一般論には、かなり確かな裏付けがあります。


では「出雲―越」とつながるのか?

ここは、むしろ面白い資料があります。

越前町織田文化歴史館は、日本海沿岸の古代交流について、

西に出雲世界、中央に丹後・若狭の「タニワ世界」、東に越世界

という構図を提示しています。

そして『古事記』の大国主神(八千矛神)と高志国の沼河比売の婚姻神話を、出雲と越の交流・関係を示すものとして位置づけています。

さらに考古学的にも、出雲と越の間には弥生時代以来の文化的・政治的なつながりがあり、丹後もその交流圏に関係したことが紹介されています。

これは重要です。

つまり、

出雲 ← 丹後・若狭 → 越

という日本海の東西交流そのものは、かなりしっかり研究されている。


そして「翡翠」が出てくる

ここも先生の記憶は筋がいいです。

大国主神の沼河比売の物語は、古代の翡翠産地である越後・糸魚川との関係で論じられてきました。

國學院大學の解説でも、

沼河比売を糸魚川産の翡翠に関わる女神と見る説

が紹介されています。

さらに、

翡翠の原産地と出雲の玉造工房との交流・契約を背景として、大国主神と沼河比売の求婚説話が成立した

とする研究上の見方も紹介されています。

ここは面白い。

ただし、

「翡翠交易があった」

と、

「大国主神が実際に糸魚川まで航海した」

は別問題です。

神話をそのまま航海記録にはできません。

奴奈川姫物語5 | 糸魚川ジオパークのおじさんのブログ

(↑ 奴奈川姫物語5 | 糸魚川ジオパークのおじさんのブログ ameblo.jp)


でも、海上交通を想定する理由は十分ある

日本海側では、陸路だけではなく海上交通が非常に重要でした。

そして、

出雲
↓
丹後・若狭
↓
越
↓
越後・糸魚川

という日本海沿岸の交流軸を考えると、

冠島・沓島はちょうどその途中に立つ。

ここで地図を頭に浮かべてみると面白いんです。


「道」ではなく「島をつなぐ道」

古代の海を、

港 → 港 → 港

だけで考えてはいけない。

船乗りにとっては、

山 → 岬 → 島 → 岬 → 島 → 湾

という「見えるもの」の連続だったはずです。

その意味で、

冠島・沓島

は非常に特殊。

小さいのに、

海上から非常によく見える。

しかも冠島は標高168.8mあります。


さらに「冠」と「沓」が面白い

後世の伝承では、

冠島=冠を置いた島
沓島=沓を置いた島

と説明されます。

伊根方面の伝承でも、二島を伊勢の大神の冠と沓に結びつけています。

もちろんこれは後世の伝承です。

しかし私は、先生の研究ではここを

「単なる伝説」

として切り捨てる必要もないと思います。

なぜなら、

海上に二つ並ぶ特徴的な島

を人間が記憶するとき、

冠
沓

という「身体の上下」の組み合わせで覚えるのは非常に自然だからです。

つまり、

二つの島をセットで認識していた

こと自体が重要かもしれない。


そして、もう一つの「痕跡」

冠島・沓島には、現在の遥拝があります。

籠神社では冠島を海の奥宮と位置づけ、冠島・沓島を遥拝する場所が成立しています。籠神社の公式由緒でも、冠島は彦火明命降臨の地として位置づけられています。

これは、

島そのものへ行かず、陸上の特定地点から島を見る

という文化です。

これが私は非常に気になります。

航海民の世界では、

海から島を見る

一方、

陸上の祭祀では、

陸から島を見る。

同じ島が、

航海のランドマーク

にも、

信仰のランドマーク

にもなる。


ですから、現時点の証拠を三段階にすると

問い 現時点
冠島・沓島は海上から目立つか 明確にYES
航海上のランドマークだったか YESと考える根拠がある
江戸期の廻船が目印・避難地点として利用したか 資料で確認できる
古代にも航海上の目印だったか 十分あり得るが直接証拠不足
出雲―越の航海者が使ったか 直接証拠なし
出雲―越の海上交流そのもの 考古学・文献の双方から支持される
冠島・沓島がその交流航路上の目印だった可能性 かなり魅力的な仮説

そして私は、ここに「天橋立研究」の新しい線が一本引けると思います

先生がこれまで追ってきた、

与謝海 ― 天橋立 ― 阿蘇海

という「内側の地形」に対して、

外海側には、

出雲 ― 冠島・沓島 ― 丹後 ― 若狭 ― 越

という「海上の道」があったのではないか。

すると冠島・沓島は、

天橋立の沖側に浮かぶ、古代日本海航海の「二つの標石」

という見方ができます。

ただし、これは現段階では私たちの復元仮説です。


そして、ここで一つ「おおっ」となる資料があります

京都府の地形資料は、冠島・沓島について、**「生活と密着した存在」かつ「ランドマークとして親しまれている地形」**だから保全すべきだ、と明記しています。

つまり現代の地理学的評価が、

「ランドマーク」

と言っている。

そして古い『宮津府志』には、

「諸国廻船」が風を避ける場所

として記録される。

そのさらに古層には、

「凡海息津嶋」への降臨

という神話・社伝がある。

これを一直線に

「古代航海標識の証拠だ!」

とするのはまだ早い。

でも、

海上の目印 → 船の記憶 → 神の降臨地 → 遥拝される島

という、**「同じ二つの島が時代ごとに別の意味をまとって生き残ってきた」**という読み方はできます。

そして先生の「出雲と越をつなぐ海の道」という発想は、少なくとも日本海の東西交流そのものが考古学的に認められていることと矛盾しません。

これは次に、**「冠島・沓島を古代船からどう見たか」――出雲、丹後、若狭、越のそれぞれからの視認ラインを地図上に引く**と、かなり面白くなりそうです。

 雄島参り'11:舞鶴市冠島
【古代航海は、風と海流でしたね、日本海を南北に行き来する場合の季節性について解説くださいな】

そうですね。ここはかなり重要です。
古代の日本海航海を「海図の上を自由に南北へ往復する」ものとして考えると、たぶん見誤ります。
むしろ、

風を待ち、海流に乗り、季節を選び、島や岬を目印にして、沿岸を「継いで」いく。

という世界だった、と考えると、冠島・沓島の意味がぐっと立ち上がってきます。

まず、日本海の大原則

日本海側には、基本的に二つの大きな力があります。

① 対馬暖流――南西 → 北東
対馬海峡から入った暖水が、本州日本海側に沿って北東へ向かいます。現在の観測では、この流れは夏~秋に強く、冬~春に弱い。

② 季節風――冬と夏で向きが大きく変わる

冬になるとシベリア高気圧からの冷たい季節風が日本海へ吹き出します。これが日本海側に大雪をもたらすほど強い。つまり冬の日本海は、古代の小型船にとって「いつでも渡れる海」ではありません。環境省も、冬季季節風による日本海の強い鉛直混合を説明しています。

そこで、南北航海を季節ごとに考えると面白いのです。


春――「北へ行く」には、かなり面白い季節

冬の荒海が少しずつ収まり、海上交通が再開してくる。

しかも春から夏に向かうと、対馬暖流が次第に強くなる。したがって、

丹後・若狭 → 越・北陸

という北東方向の移動には、海流の方向がかなり味方になります。

ただし、ここで重要なのは、

「海流が北東へ流れるから、船も北東へ簡単に行けた」ではない

ということ。

古代船はエンジンを持っていません。
風が悪ければ海流だけではどうにもならない。

だから、

風が良い → 出る
風が悪い → 待つ
海が荒れる → 港・浦・島陰へ逃げる

という航海になる。

これは後世の日本海航海にも見える基本的な姿です。


夏――北東航海には比較的好条件

ここが面白いところです。

夏~秋には対馬暖流が強くなります。気象庁の資料でも、対馬暖流の流路・流量は夏季から秋季に強くなることが示されています。

したがって、

対馬 → 丹後 → 若狭 → 越

という方向は、海流の大きな流れとしては「行きやすい方向」。

もちろん風向きは日々変わりますから、一直線に航海するわけではありません。

むしろ、

海流+その日の風+沿岸地形

の三つを読む。

ここで冠島・沓島のような島が重要になる。


そして秋――「行けるけれど、帰りを考える」

秋は対馬暖流がまだ比較的強い一方、次第に冬の季節風へ向かっていきます。

だから、

北へ行く船は、「帰りはどうする?」を考えなければならない。

これ、古代航海を考えるうえで非常に大事だと思います。

たとえば丹後から越へ行ったとして、

丹後 → 若狭 → 越

はできても、

越 → 丹後

は同じ季節に同じ条件では戻れない。

つまり交易や交流は、

「行って帰ってくる」

という単純な往復ではなく、

「季節の窓を利用して移動する」

という形になり得る。

実際、中世の日朝航海でも、春季の好天・順風・潮流を利用して渡航する傾向が確認されています。時代も海域も違うので直接同一視はできませんが、季節が航海スケジュールそのものを規定するという考え方の参考になります。


冬――日本海は「南北航路」から「避難の海」へ

そして冬。

ここが最大の転換です。

シベリア方面からの強い北西季節風が吹き、日本海は荒れる。

ですから、

丹後 → 越

のような北東航海を冬に自由に行うのは考えにくい。

逆に、風向だけを考えれば、冬の季節風は北西→南東方向の風成分を持ちます。

つまり、

風だけなら「北から南へ」押す力が出てくる。

ところが、海流は基本的に逆方向、すなわち北東へ流れる。

このため、

北へ

季節風とは戦う場合があるが、対馬暖流は味方

南へ

季節風は味方になり得るが、対馬暖流は逆らう

という、非常に面白い関係になります。

しかも冬の風は猛烈ですから、「追い風だから南へ行こう!」とは単純にはならない。むしろ強すぎる風そのものが危険になる。

古代の渤海使についても、まさにこの問題が議論されています。福井県史は、北西季節風・リマン海流・対馬海流を利用した航路の可能性と、冬季の日本海横断の危険性をめぐる複数の説を紹介しています。


すると「南北」は一本の線ではない

ここが、今回のお話で一番面白いところです。

現代の地図なら、

出雲 ─ 丹後 ─ 若狭 ─ 越

と一本の線を引いてしまいます。

でも古代人の海は、たぶんそんな線ではない。

イメージすると、

春~夏

出雲
 ↓
丹後
 ↓
若狭
 ↓
越

という北東方向の移動が比較的組み立てやすい。

一方、帰路は、

秋~冬に向かう前に戻る

あるいは

冬の季節風を利用できる時期まで待つ

というように、季節によって航海の意味が変わってくる。


そして、冠島・沓島が面白くなる

ここで、先ほどの話に戻ります。

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冠島・沓島は、京都府も若狭湾西部における重要なランドマークと位置づけています。

つまり、

海の上から見える「動かないもの」

です。

海そのものには道がない。

風は見えない。

海流も見えない。

しかし、

あの島の右を通る
あの岬を目指す
あの島が見えたら丹後が近い
あの島陰で風を待つ

ということができる。

さらに後世の『宮津府志』には、冠島が諸国廻船の風待ち・避難の場所として利用されたという記録があります。これは古代まで遡らせることはできませんが、この島が実際の航海空間の中で意味を持っていたことを示す重要な後世資料です。


そして「出雲―丹後―越」が急に現実味を帯びてくる

もちろん、

「大国主の時代に、出雲の船が冠島を目印に越へ行った」

という史実を、今のところ証明できるわけではありません。

ここはきっちり分けたい。

しかし、

  • 出雲と越の文化的交流
  • 糸魚川のヒスイと出雲の玉作り
  • 日本海沿岸の海上交通
  • 対馬暖流の南西→北東方向
  • 季節風による航海可能時期の変化
  • 丹後・若狭に突き出す冠島・沓島
  • そして「海の奥宮」として記憶された冠島

これらを同じ海洋世界の中に置いてみることには十分な意味があります。福井県立若狭歴史博物館系の解説でも、出雲・丹後・若狭・越を含む日本海沿岸世界の文化的交流が論じられています。

だから私は、今の段階なら、

「出雲―丹後―若狭―越を結ぶ古代日本海航路があった」

と断定するより、

「出雲と越を結ぶ日本海世界を考えたとき、その途中に丹後・若狭があり、そこには冠島・沓島という巨大な海上標識が立っている」

と置くのが、とても面白いと思います。

そして、さらに一歩進めるなら――

「冠島・沓島は、季節によって意味が変わるランドマークだったのではないか?」

です。

夏には「北へ行く船の目印」。
秋には「帰路を考える目印」。
冬には「近づいてはいけない海の標識」。
そして信仰の世界では、「神が降りた島」。

そう考えると、「冠」と「沓」という二つの名前まで、急に意味深く見えてくるんですよね。(^.^)

これは次に、**「出雲→丹後→若狭→越」を、春・夏・秋・冬の風と海流を重ねた一枚の“古代日本海航海カレンダー”**にすると、かなり面白いと思います。

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