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国宝-絵画|夜色楼台図(与謝蕪村筆)[個人蔵] | WANDER 国宝

筆を捨てたり、、、フム、、ところで、蕪村さんは、画かれたのでしょうか,天の橋立を!!
はい!! 蕪村は、天橋立を実際に描いています! しかも、安田さん、これは今までの推理に大きく関わる発見ですよ。(^.^)
与謝蕪村筆《天橋立図》
宝暦7年(1757)・個人蔵
蕪村が丹後を離れる際、宮津の真照寺で制作したとされる作品です。画面には、砂州と松林が簡潔な筆致で描かれています。
松本松栄堂
+1
しかも、制作の背景が面白い!
宮津市の解説によると、蕪村は丹後を離れる際に「天橋図賛」を描きました。そして、その制作には、蕪村が尊敬していた先輩画家・俳人の**彭城百川(さかき・ひゃくせん)**が関わっていたと考えられています。百川は蕪村より先に丹後を訪れ、真照寺で芭蕉像を描いた人物です。
宮津市ホームページ
つまり、ここにはすでに、
- 天橋立という実景
- それを描く画人
- 画人同士の師承・交流
- 宮津の寺院と俳諧文化
- 絵に添えられた言葉
がつながっています。
そして、先ほどの「雪舟も筆を捨てたり」という句とは、いったん分けて考える必要があります。蕪村が天橋立を描いた事実は確認できますが、雪舟の『天橋立図』を実見した事実は、これだけでは証明できません。
ここで私が特に注目したいのは、蕪村が天橋立を描いたのが1757年、丹後を離れるときだったということです。
天橋立は、蕪村にとって単に鑑賞する名所ではなく、丹後で過ごした時間や人々との交流を背負った風景でもあったのかもしれません。
雪舟は天橋立をどう描いたか。蕪村はどう描いたか。そして、蕪村は雪舟をどう見ていたのか。
この三つを比較できれば、安田さんが探している「人間が天橋立と出会い、感じ、表現する」というテーマに、ぐっと具体的な厚みが加わりますね!
いまいただいている橋立絵図は雪舟絵図ですね、蕪村さんの絵図はみつかりますか
見つかりました! しかも、蕪村自身の《天橋立図》が、作品目録に記録されています。 (^.^)
与謝蕪村《天橋立図》
江戸時代・18世紀/個人蔵
山口県立美術館の展覧会出品目録に、作者「与謝蕪村」、作品名「天橋立図」、所蔵「個人蔵」と記載されています。
山口県立美術館
ただし、今回確認できた資料では、作品画像そのものを確実に照合できませんでした。
宮津市の解説では、蕪村が宮津を離れる際に描いた「天橋図賛」についても紹介されています。これは、先輩画人・彭城百川の「天橋松自画賛」との関係が指摘されている作品です。
宮津市ホームページ
ここは、二つを区別しておく必要があります。
- 《天橋立図》――作品目録に記録された蕪村の絵。
- 「天橋図賛」――蕪村の丹後滞在と、百川からの影響を考えるうえで重要な作品。
この二つが同一作品なのか、別作品なのか、また現在確認できる画像がどちらに当たるのかは、所蔵情報や図録をさらに照合する必要があります。
そして、安田さんが追いかけている謎に戻ります。
雪舟の《天橋立図》と蕪村の《天橋立図》を並べて見比べることができれば、二人が同じ景色をどう捉えたのか、という大変面白い比較になります。
ただし、蕪村が雪舟の絵を実見したかどうかは、まだ別問題。まずは蕪村作品の現物・図版と所蔵履歴を確かめることが、次の一歩ですね。
ありがとう、、筆を捨てたり、、これをどう読みますか!!
いやあ、ここまで来ると、蕪村の一句が違って見えてきますねえ。(^.^)
雪舟も 筆を捨てたり 橋立は
私なら、まず「筆を捨てたり」を、三つの層に分けて読みます。
一、描くことを断念した
天橋立を前にして、雪舟ほどの画人でさえ描き切れなかった――。
これは、天橋立の美しさを最大級に讃える読みです。しかし、単に「美しすぎて描けない」というだけなら、よくある名所讃美にとどまります。
二、描くことを超えた
雪舟は、描けなかったのではなく、描く必要がないほど、その景色を見極めていたのかもしれない。
もちろん、これは史実ではなく、句から広げた解釈です。
筆を捨てるとは、表現の敗北ではなく、表現を極めた者が、その先にあるものを認めることでもある。
絵にすることと、絵にできないものを感じ取ること。その境目を、この一句は笑いながら突いているようにも読めます。
三、「雪舟も」と言った蕪村自身
ここが、私はいちばん面白いと思います。
蕪村自身も画人です。自分も筆を持つ人間でありながら、雪舟を持ち出して「筆を捨てたり」と言う。
そこには、画人としての敬意と、俳諧師としての機知が同居しています。
しかも、蕪村自身が天橋立を描いた作品も伝わっています。つまり、筆を捨てると詠んだ人が、実際には自ら筆を執って天橋立を描いている。
これは矛盾でしょうか。
私はむしろ、そこに表現する人間の面白さを感じます。描き尽くせないと知っていても、描かずにはいられない。言葉にならないと感じても、詠まずにはいられない。
人間は、自然を完全に表現できるから表現するのではない。完全には表現できないからこそ、何度でも表現しようとするのかもしれません。
ただし、一つだけ史料上の留保があります。蕪村がこの句を詠んだ際、雪舟の現存する『天橋立図』を実見していたかどうかは、まだ確認できていません。ですから、句の意味と、句が生まれた具体的な事情は分けて考えたいところです。
そして、安田さんが探している「アマノハシダテ」の価値に戻ります。
天橋立は、人間に表現を諦めさせるほどの場所でありながら、人間に表現せずにはいられなくさせる場所でもある。
この二つが同時に成り立つところに、私は深い意味を感じます。
雪舟が描いた。蕪村も描いた。蕪村はさらに、雪舟を引き合いに出して詠んだ。
絵が絵を呼び、句が絵を問い直し、後世の私たちがその関係を考える。
天橋立は、ただ鑑賞されてきただけではない。人間の表現を生み、その表現を通して、次の人間に考えさせてきた。
……さて、ここでまた「も」に戻りますね。
雪舟も、蕪村も。そして、いまこの一句を読み直している私たちも。
筆を捨てるどころか、話がますます広がってしまいました。ははは!(^.^)
絵にすることと、絵にできないものを感じ取ること。、、既成のイメージで画くなら画くのはやめだ、、というところに蕪村も共感したと読みたいですね!
いやあ、そこですね!!(^.^)
「絵にすること」と「絵にできないものを感じ取ること」。 この二つを分けて考えると、蕪村の句がぐっと深くなりますね。
雪舟も 筆を捨てたり 橋立は
私なら、安田さんの読みを、こんなふうに受け止めます。
雪舟が描いた天橋立の絵がある。けれども、目の前の天橋立を、その絵のイメージに当てはめて描くのなら、描く意味はどこにあるのか。
目の前にあるのは、松並木と砂州だけではない。山から海へとつながる地形、刻々と変わる光と風、海の広がり、そして、それを前にした自分の心の動き。絵に表せるものは確かにある。しかし、絵に表した瞬間に、そこからこぼれ落ちるものもある。
蕪村は、そこに共感したのではないか。
もちろん、これは蕪村の内心についての史実が確認できたということではなく、句を読む私たちが開くことのできる解釈です。
そして、安田さんの読みでとりわけ面白いのは、蕪村自身が画家だったということです。
絵を描くことを知らない人が「描けない」と言うのと、描くことを知り尽くそうとする人が「筆を捨てる」と言うのとでは、言葉の重みが違う。
しかも、蕪村は天橋立を絵に描いてもいる。だからこそ、単純に「天橋立は絵にできない」と言っているのではないのでしょう。
描くことを否定するのではない。既成のイメージをなぞるだけの表現を、いったん手放す。
そのうえで、もう一度、目の前の世界に出会い直す。
私は、安田さんの解釈の核心はここにあると思います。
そして、ここから私たちの「SSH」にもつながりますね。
- 掘る――目に映る景観の奥に、地形や歴史、人々の営みを探る。
- 繋ぐ――山・川・湾・砂州、絵・俳句・信仰・暮らしを結び直す。
- 問い返す――私たちは、天橋立を本当に見ているのか。それとも、知っているつもりの天橋立を見ているだけなのか。
観光写真で見た天橋立を、現地で確認するだけなら、旅は既成のイメージの答え合わせで終わってしまいます。
でも、現地に立って「なぜ、こんな地形が生まれたのか」「なぜ人は、ここを美しいと感じ、絵や句に表そうとしたのか」と問い始めたら、同じ景色が違って見えてくる。
ここで、先ほどの言葉に戻ります。
天橋立は、人間に表現を諦めさせるほどの場所でありながら、人間に表現せずにはいられなくさせる場所でもある。
まず、確認できることがあります。
一色氏は1392年に丹後守護となり、約200年にわたって丹後を支配しました。室町幕府の中核を担う家柄でもあり、宮津市の解説も、中世丹後の文化的繁栄に一色氏が大きな役割を果たしたとしています。雪舟の《天橋立図》には、一色氏の菩提寺だった慈光寺の立派な伽藍も描かれています。
宮津市ホームページ
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ここから、三つの可能性を分けて考えたいのです。
① 雪舟が自らの意思で描いた
天橋立と周辺の地形、寺社、信仰の場を見て、ひとつの壮大な景観図に組み上げようとした。現存作は、実際の眺望をそのまま写すのではなく、複数の場所から見た景色を再構成したものと考えられています。
京都国立博物館
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② 一色氏、あるいは丹後の有力者が依頼した
これは十分に検討する価値のある仮説です。守護の権威、領国の景観、寺社の配置を一幅の絵に収めることには、芸術的な意味だけでなく、政治的・宗教的な意味もあり得ます。ただし、誰が注文したかを示す確かな記録は、現在のところ確認されていません。
宮津市ホームページ
+1
③ 依頼を受けて描き始め、雪舟自身の構想が作品を超えていった
私は、この可能性も面白いと思います。仮に依頼があったとしても、完成した画面のすべてが注文主の意図だったとは限りません。現地を観察し、構図を組み替え、何を描き、何を省くか。その過程で、画家自身の世界観が入り込む余地があります。
では、「筆を捨てたり」は何を意味するのか
ここで、ひとつ慎重になりたいのです。
蕪村の句は、雪舟が実際に「もう描けない」と筆を置いたという記録ではありません。したがって、雪舟の制作動機を解明したうえで句を読む必要がありますが、逆に、句だけから制作動機を推定することもできません。
ただ、安田さんが指摘された一色氏の存在を踏まえると、別の問いが立ち上がります。
雪舟が描こうとした天橋立は、雪舟個人が見た景色だったのか。それとも、ある時代の権力・信仰・土地の記憶を背負った景色だったのか。
もし後者の要素があったなら、雪舟の絵は単なる絶景の記録ではありません。丹後という土地を、どのような世界として描き出すかという仕事だった可能性があります。
そして蕪村の句も、単純に「絶景すぎて描けない」という賛辞ではなく、どれほどの名画家であっても、天橋立という世界を一枚の絵に収めきれるのかという問いとして読む余地が生まれます。
もちろん、蕪村が一色氏の政治的背景を意識してこの句を詠んだ、という証拠はありません。そこは分けておきましょう。
私が次に調べたいのは、雪舟の《天橋立図》の制作年代と、当時の丹後守護・一色氏の具体的な活動時期との重なりです。さらに、注文主の候補として研究上どのような人物が挙げられてきたのか。
安田さんの「一色氏の影がちらつく」という感覚は、単なる連想ではなく、絵を生み出した社会的な背景へ踏み込む入口になりそうです。ここを掘ってから、もう一度「筆を捨てたり」に戻りたいですね。
この逆説こそ、面白い。
そして、ひょっとすると、天橋立の価値を考えるうえで大切なのは、名画や名句が残っていることだけではないのかもしれません。
天橋立が、時代を超えて、人間に「見ること」を問い直させてきた。
蕪村の「も」も、ここで効いてきますね。雪舟 でさえも 筆を捨てた――ならば、雪舟の絵を知っている人も、絵を描く人も、名もない旅人も、みな自分の目で見直すことになる。
ただし、それが蕪村の意図だったと断定はできません。けれども、句が私たちに開いてくれる読みとしては、実に豊かだと思います。
安田さん、これを天橋立の世界遺産運動に引き寄せるなら、ひとつ大事な問いが生まれます。
天橋立を「世界に誇れる景観」として説明するだけでなく、天橋立が人間の見る力、感じる力、表現する力に何をもたらしてきたのか。それを、証拠を掘りながら語れるだろうか。
これは、単に美しい景色を守るという話を超えていきますね。










