宮津エコツアー · yasuda

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【~思いつくままに行きつ戻りつです~出雲と越の国が、大国主と翡翠を介してつながる話がありますね、その行き来のさいには、冠島、沓島もランドマークとされたと想像します、その痕跡としてみとめられるものはありますか!】

【神の住居】西を向く大国主命【出雲大社】 - はっさくの「いずも今昔物語」

(↑ 【神の住居】西を向く大国主命【出雲大社】 – はっさくの「いずも今昔物語」hassaku01.net|)

はい。これはかなり慎重に、しかし「ある!」と言えるところまで来ました。
ただし、「出雲―越の人々が冠島・沓島を航海標識として使った」という直接史料は、今のところ確認できません。 一方で、後世の航海記録、古代伝承、地形そのものを合わせると、「ランドマークとして認識されていた」と考える余地はかなりあります。

そして何より、冠島は京都府自身が**「若狭湾西部では海上に浮かぶ重要なランドマーク」**と明記しています。これは大きいです。

 冠島調査に参加してきました。 | 近畿環境局 | 環境省


(↑ 冠島調査に参加してきました。 | 近畿環境局 | 環境省

まず、先生の想像は地形的には非常に合理的です

冠島は若狭湾西部に単独で立つ高さ約169mの島。沓島はその北約2.5km。周囲には海食崖があり、海から見れば非常に目立つ岩島です。京都府の地形資料は、冠島を明確に「重要なランドマーク」としています。

つまり、

出雲から東へ航海する人が、丹後沖へ近づいたとき、冠島・沓島を目印にする

というのは、航海地理としては十分あり得ます。

ただし、ここから「実際に古代出雲人がそうした」とするには、もう一段証拠が必要です。


そして、古代伝承が妙に「海の島」を重要視している

ここが面白い。

籠神社の公式由緒では、主祭神の彦火明命が

「海の奥宮である冠島に降臨した」

とされています。さらに、そこから丹後・丹波を開拓した神として語られています。

つまり冠島は、

海上の目印

であるだけではなく、

海から丹後へ入ってくる神の到着点

として記憶されています。

もちろんこれは神話・社伝ですから、

「古代航海の記録だ」

とは言えません。

でも、

なぜ「海上の孤島」が降臨地点として選ばれたのか?

という問いは残ります。


さらに重要なのが「凡海息津嶋」

籠神社関係の古伝承では、彦火明命が**「凡海息津嶋(おおしあまのおきつしま)」**に降臨したとされ、これを冠島・沓島に比定する説があります。

ここで「息津(おきつ)」という言葉が目を引きます。

沖つ島=沖にある島

という、日本古代の海上認識そのものです。

つまり、ここでは島が「陸地の延長」ではなく、

沖の海上世界にある特別な地点

として認識されている。

これは航海文化を考えるうえで、とても重要な手掛かりです。

ただし、「凡海息津嶋=現在の冠島・沓島」という比定自体は伝承・研究上の議論を含むので、ここも断定は避けます。


そして、後世になると「航海のランドマークだった」ことがはっきりしてくる

これはかなり面白い資料があります。

『宮津府志』を紹介する地名資料には、冠島について、

**「諸国廻船」**が難風に遭ったとき、この島へ乗り付け、順風を待った

とあります。

さらに島には臼や鍋などがあり、船が必要な用を足せた、と記されています。

これは江戸時代の資料ですが、非常に重要です。

つまり冠島は、

ただ遠くから眺める島

ではなく、

船乗りが位置を認識し、場合によっては避難・待機する場所

だった。

そして京都府も現代の地形資料で「重要なランドマーク」と認定している。

ですから、

「冠島・沓島は航海上の目印だった」

という一般論には、かなり確かな裏付けがあります。


では「出雲―越」とつながるのか?

ここは、むしろ面白い資料があります。

越前町織田文化歴史館は、日本海沿岸の古代交流について、

西に出雲世界、中央に丹後・若狭の「タニワ世界」、東に越世界

という構図を提示しています。

そして『古事記』の大国主神(八千矛神)と高志国の沼河比売の婚姻神話を、出雲と越の交流・関係を示すものとして位置づけています。

さらに考古学的にも、出雲と越の間には弥生時代以来の文化的・政治的なつながりがあり、丹後もその交流圏に関係したことが紹介されています。

これは重要です。

つまり、

出雲 ← 丹後・若狭 → 越

という日本海の東西交流そのものは、かなりしっかり研究されている。


そして「翡翠」が出てくる

ここも先生の記憶は筋がいいです。

大国主神の沼河比売の物語は、古代の翡翠産地である越後・糸魚川との関係で論じられてきました。

國學院大學の解説でも、

沼河比売を糸魚川産の翡翠に関わる女神と見る説

が紹介されています。

さらに、

翡翠の原産地と出雲の玉造工房との交流・契約を背景として、大国主神と沼河比売の求婚説話が成立した

とする研究上の見方も紹介されています。

ここは面白い。

ただし、

「翡翠交易があった」

と、

「大国主神が実際に糸魚川まで航海した」

は別問題です。

神話をそのまま航海記録にはできません。

奴奈川姫物語5 | 糸魚川ジオパークのおじさんのブログ

(↑ 奴奈川姫物語5 | 糸魚川ジオパークのおじさんのブログ ameblo.jp)


でも、海上交通を想定する理由は十分ある

日本海側では、陸路だけではなく海上交通が非常に重要でした。

そして、

出雲
↓
丹後・若狭
↓
越
↓
越後・糸魚川

という日本海沿岸の交流軸を考えると、

冠島・沓島はちょうどその途中に立つ。

ここで地図を頭に浮かべてみると面白いんです。


「道」ではなく「島をつなぐ道」

古代の海を、

港 → 港 → 港

だけで考えてはいけない。

船乗りにとっては、

山 → 岬 → 島 → 岬 → 島 → 湾

という「見えるもの」の連続だったはずです。

その意味で、

冠島・沓島

は非常に特殊。

小さいのに、

海上から非常によく見える。

しかも冠島は標高168.8mあります。


さらに「冠」と「沓」が面白い

後世の伝承では、

冠島=冠を置いた島
沓島=沓を置いた島

と説明されます。

伊根方面の伝承でも、二島を伊勢の大神の冠と沓に結びつけています。

もちろんこれは後世の伝承です。

しかし私は、先生の研究ではここを

「単なる伝説」

として切り捨てる必要もないと思います。

なぜなら、

海上に二つ並ぶ特徴的な島

を人間が記憶するとき、

冠
沓

という「身体の上下」の組み合わせで覚えるのは非常に自然だからです。

つまり、

二つの島をセットで認識していた

こと自体が重要かもしれない。


そして、もう一つの「痕跡」

冠島・沓島には、現在の遥拝があります。

籠神社では冠島を海の奥宮と位置づけ、冠島・沓島を遥拝する場所が成立しています。籠神社の公式由緒でも、冠島は彦火明命降臨の地として位置づけられています。

これは、

島そのものへ行かず、陸上の特定地点から島を見る

という文化です。

これが私は非常に気になります。

航海民の世界では、

海から島を見る

一方、

陸上の祭祀では、

陸から島を見る。

同じ島が、

航海のランドマーク

にも、

信仰のランドマーク

にもなる。


ですから、現時点の証拠を三段階にすると

問い 現時点
冠島・沓島は海上から目立つか 明確にYES
航海上のランドマークだったか YESと考える根拠がある
江戸期の廻船が目印・避難地点として利用したか 資料で確認できる
古代にも航海上の目印だったか 十分あり得るが直接証拠不足
出雲―越の航海者が使ったか 直接証拠なし
出雲―越の海上交流そのもの 考古学・文献の双方から支持される
冠島・沓島がその交流航路上の目印だった可能性 かなり魅力的な仮説

そして私は、ここに「天橋立研究」の新しい線が一本引けると思います

先生がこれまで追ってきた、

与謝海 ― 天橋立 ― 阿蘇海

という「内側の地形」に対して、

外海側には、

出雲 ― 冠島・沓島 ― 丹後 ― 若狭 ― 越

という「海上の道」があったのではないか。

すると冠島・沓島は、

天橋立の沖側に浮かぶ、古代日本海航海の「二つの標石」

という見方ができます。

ただし、これは現段階では私たちの復元仮説です。


そして、ここで一つ「おおっ」となる資料があります

京都府の地形資料は、冠島・沓島について、**「生活と密着した存在」かつ「ランドマークとして親しまれている地形」**だから保全すべきだ、と明記しています。

つまり現代の地理学的評価が、

「ランドマーク」

と言っている。

そして古い『宮津府志』には、

「諸国廻船」が風を避ける場所

として記録される。

そのさらに古層には、

「凡海息津嶋」への降臨

という神話・社伝がある。

これを一直線に

「古代航海標識の証拠だ!」

とするのはまだ早い。

でも、

海上の目印 → 船の記憶 → 神の降臨地 → 遥拝される島

という、**「同じ二つの島が時代ごとに別の意味をまとって生き残ってきた」**という読み方はできます。

そして先生の「出雲と越をつなぐ海の道」という発想は、少なくとも日本海の東西交流そのものが考古学的に認められていることと矛盾しません。

これは次に、**「冠島・沓島を古代船からどう見たか」――出雲、丹後、若狭、越のそれぞれからの視認ラインを地図上に引く**と、かなり面白くなりそうです。

 雄島参り'11:舞鶴市冠島
【古代航海は、風と海流でしたね、日本海を南北に行き来する場合の季節性について解説くださいな】

そうですね。ここはかなり重要です。
古代の日本海航海を「海図の上を自由に南北へ往復する」ものとして考えると、たぶん見誤ります。
むしろ、

風を待ち、海流に乗り、季節を選び、島や岬を目印にして、沿岸を「継いで」いく。

という世界だった、と考えると、冠島・沓島の意味がぐっと立ち上がってきます。

まず、日本海の大原則

日本海側には、基本的に二つの大きな力があります。

① 対馬暖流――南西 → 北東
対馬海峡から入った暖水が、本州日本海側に沿って北東へ向かいます。現在の観測では、この流れは夏~秋に強く、冬~春に弱い。

② 季節風――冬と夏で向きが大きく変わる

冬になるとシベリア高気圧からの冷たい季節風が日本海へ吹き出します。これが日本海側に大雪をもたらすほど強い。つまり冬の日本海は、古代の小型船にとって「いつでも渡れる海」ではありません。環境省も、冬季季節風による日本海の強い鉛直混合を説明しています。

そこで、南北航海を季節ごとに考えると面白いのです。


春――「北へ行く」には、かなり面白い季節

冬の荒海が少しずつ収まり、海上交通が再開してくる。

しかも春から夏に向かうと、対馬暖流が次第に強くなる。したがって、

丹後・若狭 → 越・北陸

という北東方向の移動には、海流の方向がかなり味方になります。

ただし、ここで重要なのは、

「海流が北東へ流れるから、船も北東へ簡単に行けた」ではない

ということ。

古代船はエンジンを持っていません。
風が悪ければ海流だけではどうにもならない。

だから、

風が良い → 出る
風が悪い → 待つ
海が荒れる → 港・浦・島陰へ逃げる

という航海になる。

これは後世の日本海航海にも見える基本的な姿です。


夏――北東航海には比較的好条件

ここが面白いところです。

夏~秋には対馬暖流が強くなります。気象庁の資料でも、対馬暖流の流路・流量は夏季から秋季に強くなることが示されています。

したがって、

対馬 → 丹後 → 若狭 → 越

という方向は、海流の大きな流れとしては「行きやすい方向」。

もちろん風向きは日々変わりますから、一直線に航海するわけではありません。

むしろ、

海流+その日の風+沿岸地形

の三つを読む。

ここで冠島・沓島のような島が重要になる。


そして秋――「行けるけれど、帰りを考える」

秋は対馬暖流がまだ比較的強い一方、次第に冬の季節風へ向かっていきます。

だから、

北へ行く船は、「帰りはどうする?」を考えなければならない。

これ、古代航海を考えるうえで非常に大事だと思います。

たとえば丹後から越へ行ったとして、

丹後 → 若狭 → 越

はできても、

越 → 丹後

は同じ季節に同じ条件では戻れない。

つまり交易や交流は、

「行って帰ってくる」

という単純な往復ではなく、

「季節の窓を利用して移動する」

という形になり得る。

実際、中世の日朝航海でも、春季の好天・順風・潮流を利用して渡航する傾向が確認されています。時代も海域も違うので直接同一視はできませんが、季節が航海スケジュールそのものを規定するという考え方の参考になります。


冬――日本海は「南北航路」から「避難の海」へ

そして冬。

ここが最大の転換です。

シベリア方面からの強い北西季節風が吹き、日本海は荒れる。

ですから、

丹後 → 越

のような北東航海を冬に自由に行うのは考えにくい。

逆に、風向だけを考えれば、冬の季節風は北西→南東方向の風成分を持ちます。

つまり、

風だけなら「北から南へ」押す力が出てくる。

ところが、海流は基本的に逆方向、すなわち北東へ流れる。

このため、

北へ

季節風とは戦う場合があるが、対馬暖流は味方

南へ

季節風は味方になり得るが、対馬暖流は逆らう

という、非常に面白い関係になります。

しかも冬の風は猛烈ですから、「追い風だから南へ行こう!」とは単純にはならない。むしろ強すぎる風そのものが危険になる。

古代の渤海使についても、まさにこの問題が議論されています。福井県史は、北西季節風・リマン海流・対馬海流を利用した航路の可能性と、冬季の日本海横断の危険性をめぐる複数の説を紹介しています。


すると「南北」は一本の線ではない

ここが、今回のお話で一番面白いところです。

現代の地図なら、

出雲 ─ 丹後 ─ 若狭 ─ 越

と一本の線を引いてしまいます。

でも古代人の海は、たぶんそんな線ではない。

イメージすると、

春~夏

出雲
 ↓
丹後
 ↓
若狭
 ↓
越

という北東方向の移動が比較的組み立てやすい。

一方、帰路は、

秋~冬に向かう前に戻る

あるいは

冬の季節風を利用できる時期まで待つ

というように、季節によって航海の意味が変わってくる。


そして、冠島・沓島が面白くなる

ここで、先ほどの話に戻ります。

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冠島・沓島は、京都府も若狭湾西部における重要なランドマークと位置づけています。

つまり、

海の上から見える「動かないもの」

です。

海そのものには道がない。

風は見えない。

海流も見えない。

しかし、

あの島の右を通る
あの岬を目指す
あの島が見えたら丹後が近い
あの島陰で風を待つ

ということができる。

さらに後世の『宮津府志』には、冠島が諸国廻船の風待ち・避難の場所として利用されたという記録があります。これは古代まで遡らせることはできませんが、この島が実際の航海空間の中で意味を持っていたことを示す重要な後世資料です。


そして「出雲―丹後―越」が急に現実味を帯びてくる

もちろん、

「大国主の時代に、出雲の船が冠島を目印に越へ行った」

という史実を、今のところ証明できるわけではありません。

ここはきっちり分けたい。

しかし、

  • 出雲と越の文化的交流
  • 糸魚川のヒスイと出雲の玉作り
  • 日本海沿岸の海上交通
  • 対馬暖流の南西→北東方向
  • 季節風による航海可能時期の変化
  • 丹後・若狭に突き出す冠島・沓島
  • そして「海の奥宮」として記憶された冠島

これらを同じ海洋世界の中に置いてみることには十分な意味があります。福井県立若狭歴史博物館系の解説でも、出雲・丹後・若狭・越を含む日本海沿岸世界の文化的交流が論じられています。

だから私は、今の段階なら、

「出雲―丹後―若狭―越を結ぶ古代日本海航路があった」

と断定するより、

「出雲と越を結ぶ日本海世界を考えたとき、その途中に丹後・若狭があり、そこには冠島・沓島という巨大な海上標識が立っている」

と置くのが、とても面白いと思います。

そして、さらに一歩進めるなら――

「冠島・沓島は、季節によって意味が変わるランドマークだったのではないか?」

です。

夏には「北へ行く船の目印」。
秋には「帰路を考える目印」。
冬には「近づいてはいけない海の標識」。
そして信仰の世界では、「神が降りた島」。

そう考えると、「冠」と「沓」という二つの名前まで、急に意味深く見えてくるんですよね。(^.^)

これは次に、**「出雲→丹後→若狭→越」を、春・夏・秋・冬の風と海流を重ねた一枚の“古代日本海航海カレンダー”**にすると、かなり面白いと思います。

【鳥取県の三徳山投入堂、ここも、国内リスト入りを目指していらっしゃいますね、天橋立も。地形と文化、参考にできる部分もあるかとおもいました、両者を比較しながら、分析解説くださいな】
三徳山三佛寺・投入堂 (国宝)(鳥取県) | 【ロケ地 検索】全国ロケーションデータベース

はい、これはかなり参考になります。
しかも両者を並べると、「世界遺産を目指すとき、地形と文化をどう一つの価値にするか」という問題が、かなり鮮明に見えてきます。

まず現在の位置関係を確認すると、三徳山-信仰の山と文化的景観-も、天橋立-日本の文化景観の原点-も、文化庁の現在の正式な暫定一覧表そのものには入っていません。ただし両者とも、2000年代の文化庁審査で「暫定一覧表候補」として扱われた経緯があります。三徳山は2008年に「候補の文化資産」とされ、天橋立も同じく候補案件として位置づけられてきました。

そして、ここからが面白い。

三徳山と天橋立は、「逆向き」の世界遺産候補に見える

私はこう整理すると、とても分かりやすいと思います。

三徳山・投入堂 天橋立
地形 急峻な山・断崖・岩窟 砂州・湾・海岸・河川
人間の行為 岩壁に建築を置く 砂州を眺め、渡り、利用する
宗教 修験・神仏習合 籠神社・成相寺・智恩寺など
景観 「山そのもの」が聖地 「山・海・砂州」の関係が景観
身体性 登る・這う・岩を越える 歩く・眺める・股のぞき
核となる問い なぜ、ここに建てたのか? なぜ、ここに砂州が生まれたのか?
文化の発生源 地形が修行を規定する 地形が信仰・芸術・暮らしを誘発する

三徳山は、地形が極端に強い。

標高約900m、安山岩・凝灰角礫岩からなる急峻な北斜面。その岩質の境界にできた天然の窪みを利用して投入堂が建てられています。つまり、あの建築は「美しい山にたまたま建った」のではなく、地質・岩盤・断崖そのものが建築の形を決めている。

これは非常に強い。

地形 → 行場 → 建築 → 信仰

という一本の因果線が見えるんです。


一方、天橋立は「地形 → 景観 → 文化」が広がっていく

「日本三景」 ― 浮世絵に描かれた「松島」「天橋立」「宮島」を比較してみた | Goin’ Japanesque!

(↑「日本三景」 ― 浮世絵に描かれた「松島」「天橋立」「宮島」を比較してみた | Goin’ Japanesque!)

天橋立では逆に、

山から流れてきたもの
↓
河川
↓
阿蘇海・宮津湾
↓
沿岸漂砂
↓
砂州
↓
人が見る
↓
神話・信仰・絵画・文学・観光

という、広域のシステムになります。

だから投入堂のように、

「この岩窟、この建築、この行場」

と一点へ収束させるのが難しい。

天橋立はむしろ、

「この景観はいったい、どこから来たのか?」

と問うと、どんどん外へ広がってしまう。

世屋へ行く。
野田川へ行く。
阿蘇海を見る。
籠神社へ行く。
成相寺へ行く。
伊根へ行く。

……そして「バッファゾーン、どうする?」問題が発生する。(^.^)


ここで、三徳山の世界遺産検討がものすごく参考になります

文化庁が2008年に三徳山について指摘した課題が、実は重要です。

三徳山について、

「山岳修験の場として急峻な地形と独特の意匠・構造を持つ建築との調和」

は高く評価しました。

しかし同時に、

顕著な普遍的価値の証明が不十分

として、

世界史的・国際的な視点から、修験道や「聖なる山」の全体像を比較研究し、主題設定や資産構成を検討する必要がある

としています。

これ、天橋立にもかなり響きます。

つまり、

「投入堂はすごい!」

だけでは世界遺産の論理にならない。

「日本の修験の山とは何なのか。その中で三徳山は何が違うのか」

まで言わなければならない。


これ、天橋立にもそのまま置き換えられます

「天橋立は美しい!」

では足りない。

さらに、

「日本三景だから重要!」

でも足りない。

では、

「日本の文化景観の原点として、天橋立には何があるのか?」

となる。

ここで安田さんがずっと掘っている、

地球・山・川・海・砂・信仰・絵画・文学・暮らし

が効いてくる。

つまり、

三徳山

「聖なる山」という世界的なテーマの中で三徳山を位置づける。

天橋立

「自然が生んだ景観が、人間の信仰・芸術・文学・暮らしをどう生み出したか」というテーマの中で天橋立を位置づける。

という比較ができます。


そして、三徳山には「身体で理解する」という強みがある

ここ、安田さんには特に参考になると思います。

三徳山の日本遺産ストーリーは、投入堂を「見る」だけにしていません。

行者道を、

宿入橋
↓
カズラ坂
↓
願掛けの石段
↓
馬の背・牛の背
↓
文殊堂
↓
地蔵堂
↓
投入堂

と身体で進む道として構成しています。

そしてその全体を「六根清浄」という宗教的意味につないでいる。

これ、天橋立の観光・教育に置き換えると、かなり面白い。

天橋立も、

見る → 歩く → 渡る → 股のぞき → 寺社 → 海を見る

だけでなく、

見る
↓
歩く
↓
砂を見る
↓
海を見る
↓
川を知る
↓
山へ上がる
↓
湿地を見る

という**「天橋立を逆向きに歩く行」**ができる。

これはまさに安田さんの構想ですよね。


そして「コア・バッファ問題」にもヒントがあります

三徳山は、実は「投入堂だけ」を世界遺産的価値として扱っているわけではありません。

三徳山全体が、

山岳地形
+ 行場
+ 建築群
+ 森林
+ 信仰
+ 三朝温泉

という関係で語られています。

文化庁の文化遺産データベースでも、三徳山は史跡・名勝として、山岳・岩石・洞穴・峡谷・滝・河川などを含む面的な資産として指定されています。

そして日本遺産ではさらに、三朝温泉、行者道、精進料理、三徳豆腐などまで物語につないでいます。

ここに、安田さんが先ほど気づかれた、

コアとバッファをどう結ぶか

のヒントがあります。

「外側だからバッファ」ではなく、
「コアの意味を成立させる関係だから外側にも価値がある」

という考え方です。


だから、投入堂と天橋立を比較すると……

私はこういう一行にします。

投入堂は「地形の中に建てられた文化」。

天橋立は「地形そのものが文化を生んだ景観」。

これはもちろん比較のための私の整理ですが、かなり核心を突いていると思います。

投入堂では、

岩が建築を受け止めた。

天橋立では、

山と川と海が砂を生み、人間がそこに意味を見いだした。

だから三徳山は、

「この岩壁だから、この建築、この修行、この信仰」

という垂直型の文化景観。

天橋立は、

「この山、この川、この海、この砂州だから、この景観、この信仰、この芸術、この暮らし」

という水平・流域型の文化景観。

……と見えてきます。

そしてここからが、私は一番大事だと思います。

三徳山が天橋立の先生になるのではない。

むしろ、

三徳山の世界遺産検討が「地形と文化をどう一つの価値にするか」の教材になる。

天橋立は、その教材を使って、自分自身の「山―川―海―砂―人」という別の構造を発見する。

そして、文化庁が三徳山に課した「比較研究」「主題設定」「資産構成」という宿題は、天橋立にもそのまま効いてくる。

ここで安田さんの

「世界遺産・天の橋立と仲間たち!」

が、急に世界遺産論としても意味を持ってきます。

「仲間たち」は単なる周辺観光地ではない。

天橋立というコアの意味を成立させる、山・川・海・信仰・暮らし・人の関係そのもの。

……つまり、三徳山を見れば見るほど、先ほどの「バッファゾーンの霧」が、少しずつ晴れてくる気がします。(^.^)

【閑話休題、、、、指名手配のかかっているアメリカザリガニ、自然共生サイト棚田跡交園&マルヤ農林園の湿地生態系でも、最大の脅威です、さて、それはそれ!同じ生きものです、この生きものの生物としての能力について、純粋に分析、評価、解説くださいな】
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はい。これはかなり面白い生きものです。
今回は「外来種だから悪い」という評価をいったん横に置いて、アメリカザリガニという生物そのものの性能・能力を見てみましょう。

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一言でいうと

アメリカザリガニは「環境の悪化に強い」というより、「環境が悪化しても使える場所を見つけて生き延びる能力が非常に高い動物」です。

環境省も、高水温・低酸素・水質汚濁への耐性があり、河川、池、農業水路、水田など非常に多様な水域に定着できるとしています。

そして、ここからが面白い。

① 「呼吸」の能力が強い

普通、水生動物は、

水が悪くなる → 酸素が減る → 生きられない

となりやすい。

ところがアメリカザリガニは、低酸素環境にもかなり耐える。

さらに水温や水質への許容範囲も広い。海外資料では、かなり広いpH範囲や塩分条件にも耐えることが報告されています。

つまり、

「きれいな水でないと生きられない」という制約が小さい。

これは生物として非常に大きな武器です。


② 「水がなくなったら終わり」ではない

ここが、とんでもなく重要です。

アメリカザリガニは巣穴を掘ります。

しかも単なる隠れ家ではありません。

乾燥や高温の時期には、巣穴を地下水面近くまで伸ばすことがあります。USGS資料では40~90cm程度まで達する例が示されています。

つまり、

池が干上がる
↓
水面から消える
↓
地下へ逃げる

という戦略を持っている。

環境省も、水田の水がなくなっても巣穴に潜り、地下水を利用したり、別の水域へ逃げたりできるとしています。

これはかなり凄い。

「水生動物なのに、乾燥期を陸上・地下空間でやり過ごせる」

わけです。


③ 「食べ物を選ばない」

これも強烈です。

植物だけではありません。

  • 水草
  • 藻類
  • 落ち葉
  • 水生昆虫
  • オタマジャクシ
  • 魚類
  • 死骸

などを利用します。環境省も明確に雑食性としています。

これは単純に「何でも食べる」というだけではなく、

食物網のどこか一つに依存しない

ということです。

植物が減れば動物性の餌へ。
動物が少なければ植物へ。
生きたものが少なければ死骸へ。

環境変化に対して、食料源を切り替えられる。


④ 「繁殖能力」もかなり高い

成熟した雌は、条件が整えば繁殖します。

1回の産卵で抱える卵は約200~1,000個。温暖な時期には産卵個体が増え、地域によっては秋に産卵して抱卵したまま越冬する個体もいます。

しかも、

母親が卵や幼生を保護する。

これは小型の幼生にとって大きなメリットです。

「卵を産んだら、あとは運任せ」

ではない。


⑤ 「移動能力」も侮れない

これもアメリカザリガニの恐ろしいところです。

水路を使って移動するだけではありません。

環境省は、雨の夜などに陸上を歩いて移動する個体を確認しており、数百m離れた池への移動が陸上移動によるものと考えられる例も紹介しています。

つまり、

水系が切れている=完全に孤立している

とは限らない。

雨が降る。

夜になる。

ザリガニが歩く。

……という「抜け道」があるわけです。


⑥ そして、もっと面白い能力――「自分で環境を変える」

ここが私は一番重要だと思います。

アメリカザリガニは単に環境に適応するだけではありません。

穴を掘る。

巣穴を掘ることで、岸辺の土壌を動かします。

USGSでは、巣穴によって岸辺の浸食や崩壊が起こること、水路・堤防などへの影響も報告されています。

つまり、

環境に適応する生物

↓

環境そのものを改変する生物

になっている。

生態学では、こういう生物を**「生態系エンジニア(ecosystem engineer)」**と呼びます。

これは面白い概念です。


⑦ ハサミも「武器」だけではない

ザリガニのハサミを見ると、どうしても「攻撃用」と思います。

もちろん防御や捕食にも使います。

しかし同時に、

掘る、つかむ、切る、運ぶ、操作する

ための万能な道具でもある。

つまり、

「口だけで環境を利用する動物」ではなく、前方に二本の操作器具を持った動物

なんですね。

人間でいえば、

口 + 手 + スコップ

を前方に装備しているようなものです。(^.^)


⑧ では、この生物の「強さ」を分解すると……

私はこう整理すると分かりやすいと思います。

能力 アメリカザリガニ
水質悪化への耐性 ◎
低酸素への耐性 ◎
高水温への耐性 ◎
乾燥への対応 ◎ 巣穴
食性の柔軟性 ◎ 雑食
繁殖力 ◎
幼生保護 ◎
水中移動 ◎
陸上移動 ○
巣穴形成 ◎
環境改変能力 ◎
生息場所の選択肢 ◎

これを生物学的な言葉にまとめると、

「環境耐性 × 食性の幅 × 移動性 × 繁殖力 × 行動による環境改変」

の組み合わせが強い。

一つ一つが突出しているというより、複数の能力が同時に備わっていることが強さの本質でしょう。

IMG_20260923_142834_1[1]


そして、もう一つ重要なこと

アメリカザリガニは、日本で突然「超生物」になったわけではありません。

原産地ではもちろん捕食者がいます。

ところが日本では、地域によっては、

大型の在来捕食魚などによる捕食圧や競争相手が比較的小さい

ことも定着を助ける要因として指摘されています。

つまり、

生物そのものの能力

+

移入された環境側の条件

この二つが組み合わさっている。

ここは非常に大事です。


そして、安田さんの「自然観察」の目で見ると……

私はアメリカザリガニを、

「悪い生きもの」

として見るより、

「これほどの環境変化に対応できる能力を持った生物が、なぜこの水田・湿地・ため池で成功したのか?」

と見るほうが、ずっと面白いと思います。

しかも、世屋高原のような場所を考えると、問いが変わります。

水田がある。
湿地がある。
水路がある。
池がある。
乾湿が変化する。

そこへ、

「水が減ったら地下へ」
「餌が変われば食べ物を変える」
「水が悪くても耐える」
「雨が降れば歩いて移動する」
「自分で穴を掘る」

という生きものが入ってくる。

そりゃあ、強い。(^.^)

そして私は、ここに**「生物としての能力」と「生態系にとっての影響」を分けて考える意味**があると思います。

アメリカザリガニそのものは、かなり高度に環境へ適応した、非常に成功度の高い生物です。

しかし、その能力が日本の湿地生態系では、水草を減らしたり、在来の水生昆虫・両生類などへ影響を及ぼしたり、環境そのものを変えてしまう。環境省もこうした複数の影響を確認しています。

だからこそ、

「すごい生物だ」

と

「この場所では困る生物だ」

は、同時に成立するんですよね。

この二つを混ぜないことが、生物そのものを純粋に観察するという意味では、とても大切だと思います。

はい、その直感はかなり当たっています。
ただし、ここは「360度」と「360度を同じ解像度で見ている」を分けると、ものすごく面白くなります。

まず、アメリカザリガニの眼柄(目の突き出た部分)にある複眼は、眼柄を動かせるうえ、眼柄に複眼を載せること自体が、頭部に直接眼を置くより視野を広げる利点があります。十脚類の複眼については、この「眼柄=小さな潜望鏡」のような構造が視野拡大に役立つことが知られています。

ただ、私が今回確認できた文献では、アメリカザリガニ Procambarus clarkii について「片眼が360°の視野を持つ」と直接測定した値は確認できませんでした。一方、同じ甲殻類の眼柄を持つワカレイ(シオマネキ類)では、片眼が水平方向にほぼ360°のパノラマ視野を持つことが実測されています。

ですから、

「飛び出した眼だから、ほぼ全周を見ることができるのでは?」

という安田さんの着眼は、構造として非常に筋がいいです。

ただし「360°」でも、人間の360°とは全然違う

ここが複眼の面白いところ。

人間の眼なら、

一枚の像を作る → 脳が見る

という感じですが、複眼はたくさんの**個眼(ommatidia)**が、それぞれ異なる方向から光を受け取ります。

だから、

一つの眼=一台のカメラ

というより、

一つの眼=無数の小さな方向センサーを並べたパノラマ・センサー

に近い。

しかもアメリカザリガニの Procambarus clarkii については、青系と赤系に感度を持つ受容系が確認されており、少なくとも単純な「明暗だけの眼」ではありません。


そして、眼柄が「飛び出している」ことが決定的に面白い

これ、ザリガニを横から見てください。

頭の左右に、

** ○   ○
 │   │
 **

と眼が突き出ています。

頭の上に埋め込まれた眼なら、自分の頭や甲羅が視界を遮ります。

ところが眼柄を外へ出すと、

前・横・後ろ・上

を見やすくなる。

さらに眼柄そのものを動かせる。

つまり、

眼を「頭から離す」ことで視野を広げ、
眼を「動かす」ことで視野を走査する。

これはかなり合理的な設計です。眼柄は実際、複眼を頭部から離して視野を広げるとともに、眼を動かす自由度を与える構造として進化したと考えられています。


そして、ここで先ほどの嗅覚の話とつながります。

ザリガニの世界は、

眼 → 光・動き・方向
小触角 → 化学物質・匂い
〰 触角 → 水流・振動
☀ 体の光受容器 → 明暗・光環境

という、かなり多重なセンサー世界です。

だからザリガニを観察するとき、

「ザリガニは何を見ているのか?」

だけではなく、

「ザリガニは、自分の周囲をどの方向から、どんな感覚で感じ取っているのか?」

と考えると、一気に面白くなります。

そして安田さんの「飛び出した眼」に戻ると、私はここに一つ、とても美しい表現ができると思います。

「ザリガニは、眼を頭の外へ出した。」

人間は頭を動かして周囲を見る。

ザリガニは、

眼そのものを外へ突き出し、しかも動かして周囲を探る。

……これはまさに、小さな潜望鏡を二本持っている生きものなんですよ。(^.^)

なお、アメリカザリガニについて実際に視野角を測定した論文まで掘ると、今回の「ほぼ360°」をどこまで正確に言えるかがはっきりします。ここは種を限定して、もう一段調べる価値があります。

挟まれるとかなり痛いです、そのハサミの力の測定など、研究はありますか

あります。しかも、まさにアメリカザリガニそのもの(Procambarus clarkii)の「挟む力」を実測した研究があります。
そして、かなり面白い結果が出ています。

まず結論

2008年の研究で、アメリカザリガニのハサミ(chela)の閉じる力=pinching/closing forceを測定しています。体の大きさやハサミの大きさ・形との関係まで調べています。

さらに2018年の研究では、オスとメスで力が違うか、ハサミの形状がどの程度力に関係するかまで調べています。結果として、オスのほうが大きなハサミを持ち、強く挟むことが確認されています。


では、何ニュートンなのか?

ここがちょっと注意です。

2008年の研究では、アメリカザリガニについて体重やハサミの長さ・高さと挟む力の関係を測定しており、個体によってかなり変動します。

別の2020年の比較研究では、アメリカザリガニ P. clarkii の実測値として、

  • メス:およそ 3.3 N
  • オス:およそ 3 N前後

という中央値レベルの値が報告され、個体によっては10 Nを超える値もあります。

ただし、ここは「○kgのザリガニなら必ず○N」と単純には言えません。

ハサミの大きさ、形、性別、測定位置、体温、個体差などで変わります。


そして、安田さんの「痛い!」には理由があります

面白いのは、力そのものだけではなく、力が非常に小さな面積に集中することです。

ハサミの先端で、

数ニュートンの力 ÷ ごく小さな接触面積

となる。

だから「ザリガニの体重からすると大した力ではない」と単純に考えてはいけない。

さらにハサミは、

筋肉 → 関節 → 外骨格 → ハサミの先端

という**てこ(lever)**になっています。

つまり、筋肉が発生した力を、ハサミの構造によって効率よく先端へ伝える。


しかも、ハサミは「武器」だけではありません

ここが先ほどの話とつながります。

ザリガニのハサミは、

  • 餌を捕まえる
  • 餌を切る
  • 外敵から身を守る
  • 他個体と争う
  • 巣穴を掘る
  • 物体を操作する

など、多目的な道具です。

実際、ザリガニではハサミの大きさや挟む力が、個体間の争い・順位形成にも関係します。P. clarkii についても、ハサミを組み合わせる「interlocking」が優位関係の形成に重要だという研究があります。


さらに面白いことに、「大きなハサミ=必ず強い」ではない

2018年の P. clarkii 研究が面白いところです。

オスはメスより大きなハサミを持ち、平均的には強く挟みます。

ところが、

ハサミの大きさや形だけでは、挟む力を十分には予測できない。

という結果も出ています。特にメスでは、ハサミの形状が力に有意に関係していました。

つまり、

「筋肉が強い」
+「ハサミが大きい」
+「てこの形がいい」

の組み合わせで性能が決まる。

これは工学的に見ても面白いですね。


そして、ちょっと意外な比較

同じ研究分野では、ザリガニ・カニ類の挟む力を、脊椎動物の**咬合力(bite force)**と比較しています。

つまり研究者は、

「ハサミは、甲殻類にとっての『顎』のようなものではないか?」

という考え方をするわけです。

これは自然観察としても非常に分かりやすい。

人間:歯で噛む。
ザリガニ:ハサミで挟む。

しかもザリガニの場合、口とは別に巨大な外部操作器官を二本持っている。


そして私は、ここまで来ると最初の質問に戻りたくなります。

安田さんが最初におっしゃった、

「挟まれるとかなり痛い」

これは単なる感想ではなく、

「この動物は、体の大きさに対してどの程度の機械的能力を持っているのか?」

という、生物学・生体力学の入口なんですね。

次に掘るなら、私はかなり面白いテーマとして、

「アメリカザリガニのハサミは、なぜあの形なのか?」

をおすすめします。

つまり、

筋肉 → 腱(腱索) → 関節 → てこ → ハサミの先端

を追っていく。

そうすると、単なる「痛いハサミ」が、小さな生物が自分の体重をはるかに超える機械的仕事をどう実現しているのかという、生体工学の話になってきます。(^.^)

山のシカ、湿地でザリガニ、アキアカネが里山から消えそうです、駆除に特効薬はありますか!!

はい……ここは、かなり大事な問いだと思います。

**「シカ、アメリカザリガニ、アキアカネが消えそう」**という現象を一つの里山で見ると、実は「3種類の駆除問題」ではないんですよね。

そして結論から言えば、

三者に効く一つの「特効薬」はありません。

ただし、**三者を別々に駆除するより効くかもしれない「環境側の特効薬」**はあります。

それは、私は 「里山の状態を戻すこと」 だと思います。

まず三者を並べてみる

生きもの 問題の構造
シカ 多すぎて植物を食べ、森林・草地の構造を変える
アメリカザリガニ 水草・水生動物を食べ、水辺そのものを改変する
アキアカネ 水田・湿地・草地など、複数の環境がつながって初めて生活できる

つまり、

シカ=陸上の植生を変える
ザリガニ=水辺の植生・水生生態系を変える
アキアカネ=その両方を含む里山のモザイクが必要

なんです。

アメリカザリガニについては、環境省自身、低密度まで防除した水域でカエル類、魚類、水生昆虫、水生植物などが回復した事例を紹介しています。つまり、「駆除すれば生態系が戻る」ことが実際に確認されているケースもある。

一方、アキアカネのような生きものは、単純に「トンボを増やす」ではなく、産卵できる水田・幼虫が育つ水域・羽化後に利用できる草地や林縁というモザイクを維持する必要があります。環境省の重要里地里山の事例でも、棚田とため池を適切に維持することでアキアカネなど里地里山性の生物が生息しています。


だから「三種同時防除」という発想は危ない

例えば、

シカを徹底的に減らす。
ザリガニを徹底的に減らす。
農地を徹底的に整備する。

だけでは、アキアカネにとって必ずしも良いとは限りません。

逆に、

「アキアカネを守ろう」

と言って水田を昔の形に固定してしまっても、今の地域社会では維持できない。

ここが里山の難しいところです。


私なら「駆除」ではなく「三段階」で考えます

① シカは「密度を下げる」

シカの場合は、植物が再生できる密度まで下げることが重要。

これは「シカをゼロにする」という話ではありません。

チマキザサが再生する。
林床が戻る。
天然更新が始まる。

そこまで戻せるか。


② ザリガニは「水域単位で低密度化」

アメリカザリガニは特にこれが重要です。

環境省の手引きも、地域ごとの目標を設定して防除計画を立てる考え方を採っています。

しかもアメリカザリガニは、一度入った場所でも防除によって水草や水生生物が戻ることがある。

だから、

「もういるから仕方ない」

ではない。

むしろ、小さな湿地・池を一つ選んで、徹底的に低密度化してみる。

これは非常に良い環境実験になります。


③ アキアカネは「数える」

これ、私は一番やりたいです。

「減った気がする」ではなく、

6月:幼虫
7月:羽化
8月:高地・林縁
9月:里へ戻る
10月:産卵

というように追跡する。

そして、

シカ密度
ザリガニ密度
水田の管理状態
湿地面積
アキアカネ個体数

を同じ場所で記録する。

すると初めて、

「何がアキアカネを減らしているのか?」

という問いに近づけます。


そして、ここが世屋で面白い

安田さんが以前おっしゃっていた、

「世屋高原湿原・棚田跡交園&マルヤ農林園」

ですよね。

あそこを単なる「保全場所」にしない。

むしろ、

「里山の特効薬を探す実験場」

にしてしまう。

例えば、

実験区A

シカ対策あり/ザリガニ防除なし

実験区B

シカ対策あり/ザリガニ防除あり

実験区C

水田・湿地管理を継続

実験区D

できるだけ自然遷移に任せる

そして、

植物・水生昆虫・カエル・アキアカネ・鳥類

を追う。

高校生がこれをやったら、ものすごく良い環境実習になります。

「シカを何頭捕った」という活動ではなく、

「シカを減らすと、山はどう変わった?」
「ザリガニを減らすと、水はどう変わった?」
「その結果、アキアカネは戻った?」

という因果関係を自分たちで検証する授業になる。

これはまさにSSH的です。


そして、以前の話ともつながります。

上世屋は「昔の里山を保存する場所」ではない。

むしろ、

「過去の里山の知恵を材料にして、未来の里山を実験する場所」

にできる。

シカも、ザリガニも、アキアカネも、敵役に固定しない。

シカは森林圧の指標。
ザリガニは水域改変の指標。
アキアカネは里山全体の健全性を見る指標。

と考える。

そうすると、

山

湿地

里

の三つが一本につながる。

そして「駆除の特効薬」を探していたら、最後に見つかるのはひょっとすると、

「生きものを一匹ずつ退治する薬」ではなく、
「生態系を測り、手を入れ、戻り具合を確かめる人間の仕組み」

なのかもしれません。

環境省も現在、外来種対策を「入れない・捨てない・拡げない」に加えて、地域ごとの防除と生物多様性保全を組み合わせる方向で進めています。

「駆除」から「生態系の回復実験」へ。

これは、世屋でやる意味がかなりあると思います。(^.^)

ヒガンバナ

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(↑ 京丹後市 五十河 9/24)

【ヒガンバナの開花がおそくなっているという状況、さらに深めてくださいな】

おお、これはかなり面白いところです。
しかも今の話は、単に「今年は彼岸花が遅いですね」ではなく、ヒガンバナを“気候計”として読むところまで深められます。

まず、今年の状況にはかなり強い背景があります。気象庁によると、2026年夏(6~8月)は北・西日本でかなり高温でした。さらに気象庁は9月14日、2026年夏の世界平均気温が統計開始以降1位となる見込みと速報しています。

そして面白いことに、ヒガンバナについては、すでに実験研究があります。

2006年の研究では、夏から秋口まで高温条件に置いたヒガンバナでは、夏の高温によって「開花可能温度」が上昇することが示されています。つまり、

暑かったから、秋になってもすぐ咲けない

という仕組みがあり得るのです。

これは非常に重要です。


️ 「彼岸だから咲く」植物ではなかった

名前があまりにも強烈なので、

彼岸 → ヒガンバナ

という印象がありますが、生理的にはそう単純ではない。

ヒガンバナは地下の球根で一年を過ごし、夏を越したあと、一定の条件が整うと一斉に花茎を伸ばします。花が先に咲き、葉はその後に出てきます。

だから面白いんです。

私たちが見ている赤い花は、

「今の気温」だけで咲いているのではなく、
夏をどう過ごしたかの“履歴”を持って咲いている。

ここがポイントです。


そして「彼岸」が動き始める

昔は、

暑い夏
↓
秋になる
↓
気温が下がる
↓
ヒガンバナが咲く
↓
秋彼岸

という、人間の暦と植物の季節感がかなり重なっていた。

ところが気候が変わると、

夏が長い
↓
地温・気温がなかなか下がらない
↓
開花条件に入るのが遅れる
↓
ヒガンバナが彼岸からずれる

ということが起こり得る。

実際、ヒガンバナの開花日について、8月下旬~9月上旬の気温との間に正の相関があるという研究もあります。つまりその時期の気温が高いほど開花が遅れる方向です。

山口県の農政局の記録でも、2024年は記録的な夏の猛暑の影響と考えられる形で、ヒガンバナの開花が例年より約1週間遅れたと報告されています。

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ここからが、安田さんの「里山」の話になります

私はここがかなり重要だと思います。

ヒガンバナは、単なる野草ではありません。

田んぼの縁、土手、墓地、道端、屋敷の境界。

つまり、人間が長い時間をかけて作ってきた里山の境界線に非常に多い植物です。国立科学博物館も、田畑の縁や堤防など人家に近い場所に多い植物として説明しています。

だから、

ヒガンバナの開花期が動く

ということは、

「一種類の植物の開花が遅れた」

だけではない。

むしろ、

人間の暦と、里山の生物季節との同期がずれてきている

と見ることができます。

これは面白いですよ。


「彼岸」という名前そのものが、季節のセンサーだった?

ここからは仮説です。

昔の人は気象台を持っていなかった。

しかし、

  • 稲が出穂する
  • 赤トンボが飛ぶ
  • ススキが出る
  • ヒガンバナが咲く
  • モズが鳴く
  • 木の実が熟す
  • 紅葉する

そういう生物現象を通して、

「季節がここまで来た」

と読んでいた。

つまり生物季節は、

人間の暮らしに組み込まれた「自然暦」

だったわけです。

ところが現在、

気象の暦
農業の暦
学校の暦
観光の暦
生物の暦

が少しずつズレ始めている。


そして、ここでアキアカネとつながります

安田さんが以前言われた、

「山のシカ、湿地でザリガニ、アキアカネが里山から消えそう」

という話と、実は同じ大きなテーマにできます。

シカ

植生を変える。

アメリカザリガニ

湿地の構造・水生植物・水生生物群集を変える。

アキアカネ

水田・湿地・草地・山際というモザイク環境の変化を受ける。

ヒガンバナ

気候と里山管理、そして人間の季節感を映す。

つまり、

「一種類ずつ守る」

より、

里山という“季節の生態系”そのものがどう変わっているのかを見る

ほうが面白い。


そして「彼岸」という言葉が、ちょっと怖いくらい面白くなる

彼岸は、春分・秋分という太陽の暦ですよね。

一方、ヒガンバナは、

太陽の運行による暦そのものではなく、気温・地温などの環境条件に反応して咲く生物暦。

昔はこの二つがかなり近かった。

ところが温暖化によって、

太陽の暦は動かない。
植物の暦は動く。

ここにズレが生じる。

これは、安田さんが最近追っておられる**「夕日の浦」「夏至」「暦」**の話とも、ものすごくきれいにつながります。


☀️ 「太陽の暦」と「生きものの暦」

私はこの二本立てで整理すると、とても面白いと思います。

太陽の暦

夏至
↓
秋分
↓
冬至

これは天体の運行なので基本的には動かない。

一方、

生きものの暦

発芽
↓
開花
↓
結実
↓
渡り
↓
冬眠

こちらは気温、水、日照、積雪などによって動く。

そして今、

天体の暦と生物の暦の間隔が変わり始めている。

これは、かなり大きな「地球環境の変化の見せ方」になります。


だから、ヒガンバナを観測してみたいですね

世屋でも宮津でもいい。

毎年、

同じ場所・同じ群落・同じ数地点で、

  • 最初の一輪
  • 10%開花
  • 50%開花
  • 満開
  • 終花
  • その年の8~9月の気温
  • 地温
  • 降水量
  • 日照
  • 草刈り時期
  • シカの食害
  • 土壌の乾湿

を記録する。

すると10年後、

「今年は遅かった」

という感覚が、

「この場所では開花開始日がこれだけ動いた」

というデータになります。

気象庁自身も、生物季節観測を「季節の遅れ進みや気候の違い・変化をとらえる」ためのものと位置づけています。

そして、これはまさに安田さんのやっている自然観察です。

「彼岸花が彼岸に咲かなくなった。」

という一見小さな変化から、

「太陽の暦と、生きものの暦がずれ始めている。」

さらに、

「私たちは、季節を何によって知ってきたのだろう?」

まで行ける。

そして最後に、

「この景色の中に、地球の物語がある。」

へ戻ってくる。

……いやあ、ヒガンバナ、なかなか侮れませんね。(^.^)

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30by30アライアンス参加者の皆様

茜色(Madder Red)× 雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)

暦の上では「雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)」。激しかった夏の雷がようやく収まり、空が一段と高く澄み渡るころを迎えました。……とはいえ、すっきりとしない長雨が続いて、どこか落ち着かない日々を過ごされている方も多いかもしれませんね。そんな今の季節、ふとした雨上がりの夕暮れに心をじんわりと満たしてくれるのが、深く温かい「茜色(あかねいろ)」の夕焼けです。すべてを包み込むような赤い空を見上げていると、「今日も一日がんばったな」と、自分を優しく褒めてあげたくなります。まもなく迎える秋分の日。茜色の空を眺めながら、心と体のバランスを優しく整えてみませんか。自然の穏やかなリズムを感じながら、健やかでホッとする日々を過ごせますように。

【さて、「日本三景と世界遺産思想の関係 世界遺産思想(1972年)は、自然 × 文化 × 歴史 × 景観 × 生活 を統合して価値を認定する仕組み。 驚くべきことに、日本三景はこの価値体系を200年以上前に先取りしている。 ① 日本三景は“世界遺産の価値基準”を先取りしていた 世界遺産の価値基準(抜粋): 顕著な自然美 地形の特異性 文化的伝統 信仰・精神性 歴史的連続性 景観と生活の統合 天橋立はこれらをすべて満たす。 つまり、 日本三景=世界遺産価値の先駆的モデル。 ② 日本三景は“国家による景観選定”という世界遺産の前史 世界遺産はユネスコによる国際的選定だが、 日本三景は 国家(幕府・明治政府)が景観を選定した世界でも珍しい例。 世界遺産思想の前史として位置づけられる。」、、、以前に頂いたこの解説、ブログにアップしたところ、大きな賛同をいただいきました、ありがとう!!】

日本三景・天橋立(主に自然編)

(↑ 日本三景・天橋立(主に自然編)tangonotimei.com|580 × 386 jpeg|7 年前 ※ 天からはこう見えている(^.^))

おお、それは嬉しいですね!!(^.^)こちらこそ、ここまで一緒に掘ってきた甲斐があります。しかも、賛同が大きかったのは、たぶん「日本三景はすごい」という話ではなく、日本三景を別の角度から読み直したことにあるのだと思います。

ただ、今になってここまで議論を積み重ねてきたからこそ、あの文章にはさらに一段深くできるところがあります。

特に、「日本三景=世界遺産価値の先駆的モデル」は、非常に面白い仮説ですが、厳密には「世界遺産の価値基準を先取りした」と断定するより、

「後の世界遺産思想と響き合う価値観を、近世日本が独自に形成していた」くらいにすると、歴史的にもかなり強くなります。

なぜなら、1972年の世界遺産条約が日本三景を直接継承したわけではないからです。


でも、もっと面白いところがあります

日本三景が

松島・天橋立・厳島

だったことです。

これ、以前話したように、三つとも単なる「美しい場所」ではない。

松島

島嶼景観
+海
+瑞巌寺などの宗教文化
+歌枕・文学
+海上交通

天橋立

砂州
+海
+神話・神社・寺院
+文学・絵画
+参詣
+地域の暮らし

厳島

島
+海
+厳島神社
+信仰
+芸術
+海上交通

つまり、

自然景観そのものと、人間がその場所に積み重ねてきた意味が分離していない。

ここが共通している。


そして「三景」という形式が面白い

1643年、林春斎が『日本国事跡考』で松島・天橋立・厳島を「三処奇観」として並べた。

これは、

「日本で一番美しい景色を三つ選びました」

というだけの話として読むより、

「日本列島には、これほど異なる海の景観がある」

という全国的な景観認識の成立として見ると、俄然面白くなります。

松島は島々。

天橋立は砂州。

厳島は島と社殿。

三つとも海ですが、海の地形が違う。

そこに人間の信仰・芸術・文学が重なる。


だから私は、今ならこう言いたいです

日本三景は、近代的な「景勝地ランキング」の先祖ではない。

自然の特異性と、人間がその場所に与えてきた意味とを、一つの景観として捉える日本独自の景観認識だったのではないか。

これはかなり慎重な言い方ですが、強いと思います。

そして、ここに1972年を置く。


1643年

三処奇観

↓

近世を通じて
名所・歌枕・参詣・絵画・遊覧

↓

明治以降
名勝・公園・国家的景観保護

↓

1972年
世界遺産条約

↓

現在
自然 × 文化 × 歴史 × 景観 × 人間

こうして見ると、

日本三景から世界遺産へ

という「制度の直系譜」ではなく、

人間が自然景観の価値をどう発見し、共有し、守ってきたかという思想史

としてつながってくる。

これは、かなり面白いです。


そして、これを天橋立に戻すと、最初の問いが変わるんですよね。

「天橋立は世界遺産になれるか?」

ではなく、

「なぜ日本人は、300年以上前から天橋立を『特別な景観』として認識してきたのか?」

さらに、

「その『特別さ』とは、砂州の形だけだったのか?」

と問える。

すると、

地形 → 神話 → 信仰 → 文学 → 絵画 → 名所 → 日本三景 → 名勝 → 自然公園 → 世界遺産

という、ものすごく長い「価値の発見史」が見えてくる。

關西一日遊|天橋立、美山 大阪/京都出發天橋立+伊根舟屋遊船 票券產品介紹 - colatour 票券當地遊


そして、安田さんがずっと追っている

「この場所は、なぜ人類にとって大切なのか」

という世界遺産の問い。

実はその前に、

「人間は、なぜこの場所を大切だと思うようになったのか」

という問いがあるんですね。

私は、こちらのほうが天橋立学の入口としてずっと面白いと思います。(^.^)

IMG_20260509_082630

そして今回のブログへの反響は、その問い方そのものが、ちゃんと人に届いたということなのかもしれません。

 

【橋が倒れて横になって、、そんなのは、いまの子どもは信じません、しかし、観光番組では、龍が一晩で!(^.^)いったいなにがあったのですか、きちんとお話しください。】
 飛龍觀﹅從跨下窺看 - 天橋立 view land

(↑ 飛龍觀﹅從跨下窺看 – 天橋立 view land)

ははは、そこです!!(^.^)
「神様が昼寝していたら梯子が倒れました」では、子どもでも「なんでやねん」です。

しかも、ここは前の私の説明が少し飛躍していました。
『丹後国風土記逸文』が実際に書いていることと、そこから私たちが想像することを分けて、きちんと見ましょう。

まず、原文は意外に具体的です

『丹後国風土記逸文』の「天椅立」は、

伊射奈芸命が「天に通ひ行でまさむとして」、椅(はし)を作り立てた。
だから「天の椅立」と呼んだ。
ところが神が寝ている間に、仆れ伏した。
神はそれを「久志備(くしび=神異・不思議)」と思った。

という話です。しかも、その場所を東の海=与謝海、西の海=阿蘇海と明確に説明しています。

つまり、ここで重要なのは、

「橋が壊れた」

ではなく、

「天に向かって立っていたものが、仆れ伏した」

ということなんです。

そして「仆れ伏しき」という言葉は、まさに倒れて横たわったという意味です。


では、「何があったのか?」

ここからが本題です。

私は、少なくとも三つの層を考えるべきだと思います。

① 神話としての説明

まず一番素朴には、

「海上に異様に長い陸地がある。これは何だ?」

という問いに対して、

「昔、天へ通うための梯子があった。それが倒れたのだ」

と説明した。

現在の京都府も、この伝承を「天界と下界を結ぶために立てた梯子が海上に倒れ、そのまま細長い陸地になった」と紹介しています。

ただし……

これだけなら、たしかに「子どもでも信じない」です(笑)。


② 実は「橋」ではなく、「天へ通じるもの」という発想

ここが大事です。

古代の「ハシ」は、現在のような単なる橋だけではありません。

国立国会図書館のレファレンスが『国史大辞典』を引いて説明しているように、古い「ハシ」には中間・媒介という意味もあり、天浮橋も橋梁や階梯だけに限定されない観念だったとされています。

つまり、

天
↓
何かが両世界を媒介する
↓
地

という発想です。

「橋」という物体を作った、というより、

「天と地の間に、行き来を可能にする媒介物が立っていた」

と考えた方が、古代の世界観には近い。


③ そして私は、ここに「地形そのもの」が入っていると思う

ここが「あいせよ天橋立」の本丸です。

風土記は、実はかなり冷静に地形を記録しています。

長さ1229丈。
幅は場所によって9丈以下から20丈以下。
そして東に与謝海、西に阿蘇海。

つまり、現代の言葉にすれば、

「二つの海の間に、非常に細長い陸地がある」

と観察している。

だから私は、

「梯子が倒れた」という神話は、

地形を説明するための“古代人の地質学”だったのではないか

と考えたい。

もちろん、これは解釈です。

でも、

「なぜこんなものが海の上にある?」

という驚きに対して、

「天へ立っていたものが、倒れてここに横たわっている」

と答える。

これは、単なる子どもだましではなく、

見えている異常な地形を、当時の宇宙観で説明した

と考えると、かなり筋が通ります。


ところが、もう一つ重大なことがあります

ユーザーさんが今おっしゃった、

「通行が立たれる」

です。

これ、実は非常に面白い問いです。

もし「天に通う梯子」が立っていたなら、

倒れた瞬間に、

天と地の交通が断たれた

ことになります。

しかし、風土記は、

「通行できなくなった!」

とは書いていません。

ここは非常に重要。

つまり、「交通遮断の物語だった」とまでは言えない。

風土記が強調しているのは、

倒れたことそのものと、それを神が「久志備」と怪しんだこと

です。


では、なぜ「倒れる」必要があったのか?

ここからは、かなり大胆な仮説です。

私は、

「橋が落ちた」のではなく、「天へ立っていたものが、地上の景観になった」

という変換ではないかと思うのです。

つまり、

神話以前

天へ向かうもの

↓

「仆れ伏す」

↓

地上に横たわる巨大なランドフォーム

↓

人間が見る

↓

「天椅立」と呼ぶ

↓

人間がその上を歩く

という変化です。


ここで「天橋立」という名前がものすごく面白くなる

普通なら、

橋 → 渡るもの

ですよね。

ところが天橋立は、

橋 → 倒れる → 地上に横たわる → 人間が歩く

です。

だから、

神のための「天への道」が、倒れることによって人間の「地上の道」になった。

という読みが可能になる。

これは風土記がそう解釈しているわけではありません。

私たちが伝承の構造から読み取れる仮説です。


そして、さらに一歩進めると……

ここで私は、ユーザーさんの「世屋まで遡る」という発想が効いてくると思います。

現在、私たちは天橋立を、

砂州

と知っています。

京都府の説明では、世屋川など丹後半島東岸の河川が運んだ砂礫が沿岸流で南下し、阿蘇海側の流れとの関係で堆積し、約4000年前に天橋立が海面上に現れたとされています。

つまり本当は、

天へ立っていた梯子

ではなく、

山から運ばれた砂礫が海で組み立てられた陸地

です。

でも古代人には、その地質学的メカニズムは分からない。

だから、

「これは何だ?」

となる。

そして、

「天へ通うためのものだったのではないか」

という物語になる。


すると、「倒れた」はむしろ凄い言葉なんです

もし単純な創作なら、

「神が作った橋が海上に残った」

でもいい。

ところが、

「立っていた」→「倒れた」→「伏した」

とした。

これは、

垂直 → 水平

という地形の変換を、神話の動詞で表現しているとも読めます。

ここは確証のある「古代人の意図」ではありません。

しかし、

現在の天橋立という水平な砂州を見て、「かつては垂直だったものが倒れた」と説明した

と考えると、ものすごく自然です。


そして、もう一つ見逃せない

風土記には、

「仍ち久志備ますことを恠みたまひき」

とある。

つまり神自身が、

「なんじゃ、これは?」

と驚いているんです。

ここ、ユーザーさんが最近ずっと言っている、

「なあんじゃこれ、どうして出来たのじゃああ????」

と、ほとんど同じではありませんか(笑)。

古代人も、

「なんじゃ、これは?」

だった。

だから神話を、

「古代人が信じた荒唐無稽な話」

として片付けるのではなく、

「目の前にある、とんでもなく奇妙な地形を見て、人間が『これは何だ?』と問い続けた痕跡」

として読む。

私は、この読み方が「あいせよ天橋立」には非常に合うと思います。


そして最後に、一つ訂正しておきたいです

先ほど私は「天と地の交通が失われた」というところまで少し踏み込みすぎました。

風土記そのものは、交通が断絶したとは言っていません。

確実に言えるのは、

① 天へ通うために椅を立てた
② それが倒れ伏した
③ 神がそれを神異として怪しんだ
④ その場所を天椅立/久志浜と呼んだ

ここまでです。

その上で、

「なぜ倒れたという形で語ったのか」
「垂直な天への道が、水平な地上の道になったのではないか」

を、これから考える。

これはかなり良い研究テーマです。

そして、ひょっとすると――

「天橋立は、天と地をつなぐ橋」だけではない。

「天と地が、かつてつながっていたが、その接続が“倒れる”ことで、私たちの世界に残された場所」

なのかもしれません。

……このあたりまで来ると、いよいよ**「なぜ古代人は“砂州ができた”ではなく、“天へ立っていた梯子が倒れた”と言ったのか?」**を、本気で追いたくなりますね。(^.^)

 日本三景・天橋立と舞鶴市 – JAXA 第一宇宙技術部門 Earth-graphy
【一夜にして、、の自然現象としたら、豪雨、地震、地滑り、、のような、巨大災害しか思い浮かびませんね!!】

そうなんです。そこを真面目に考えると、かなり面白いところへ行きます。(^.^)

ただ、まず一つだけ整理すると、「一夜にして」は、現存する『丹後国風土記逸文』の天橋立記事には明記されていません。一方、現在よく語られる「龍が一夜で土を積んで天橋立を造った」という話は、別系統の九世戸縁起・龍神伝承として発達しています。ここは二つの伝承を混ぜない方がいいです。

そのうえで、

「もし“一夜にして”巨大な地形ができた、という自然現象の記憶だったら?」

と考えると、確かに候補はかなり限られます。

あり得る「一夜の大地変動」

① 地震+地滑り

丹後は活断層・地震の多い地域です。大地震によって山体崩壊や土砂移動が起きれば、谷や海岸の姿が一晩で大きく変わることはあります。

ただし、それで3.6km級の砂州そのものが一夜で形成された、とする地質学的証拠はありません。


② 豪雨+山崩れ+洪水

こちらは世屋川を考えると、非常に面白い。

山が崩れる
↓
大量の土砂が川へ入る
↓
洪水が土砂を海へ運ぶ
↓
海岸流がそれを横方向へ運ぶ

という連鎖なら、

「山が崩れる → 川が運ぶ → 海が組み立てる」

という大地の大仕事になります。

ただし、これも一夜で現在の天橋立が完成したわけではないでしょう。


③ 津波・高潮

これも忘れてはいけません。

大地震
↓
津波
↓
砂礫の大移動
↓
海岸線が変わる

ということは実際にあります。

ただ、天橋立の場合、現在の砂州の形成史は基本的に長期間の土砂供給と沿岸漂砂の積み重ねとして説明されています。

だから、

「天橋立そのものが一晩でできた」

というより、

長い時間をかけてできた地形を、ある一度の大変動が大きく姿を変えた

という可能性なら、自然科学的にも考える余地があります。


そして「倒れた」という言葉が、急に怖くなる

ここですよね。

もし古代人が、

「昨日まで違っていた海岸の姿が、ある大災害の後に変わっている」

のを見たなら、

「天に立っていたものが、倒れた」

という神話的表現が生まれても、私はそれほど不思議ではないと思います。

もちろん、

「天橋立伝承は○○地震の記憶である」

とは言えません。年代も、対応する災害の証拠も必要です。

でも研究仮説として、

「倒れる」という神話的動詞の背後に、古代人が経験した地形変動の記憶があるのではないか

という問いは立てられます。


さらに面白いのは「龍」です

こちらの伝承では、

龍が一夜で土を積み上げて天橋立を造った

という形になります。

これを自然現象の言葉に翻訳すると、

龍=巨大な水の力

と考えたくなります。

豪雨
↓
山地から大量の土砂
↓
河川
↓
海
↓
沿岸流
↓
砂州形成

つまり、

「龍が一夜で土を積んだ」

という物語を、

「山から海へ、一晩で大量の土砂が動いた」

という自然現象の記憶として読む可能性です。

ただし、これも現時点では仮説です。


そして、ここで「世屋」が登場する

これが「あいせよ」の強烈なところです。

天橋立だけを見ていると、

「橋が倒れた」

で終わってしまう。

ところが世屋へ遡ると、

山崩れ
→ 土砂
→ 世屋川
→ 阿蘇海
→ 沿岸漂砂
→ 天橋立

という物理的な因果関係が見えてくる。

だから、

「天橋立が倒れた」のではなく、「天橋立をつくった大地が動いた」

という見方ができる。

そして神話は、それを

「天へ立っていた梯子が、倒れ伏した」

と語ったのかもしれない。

ここはまだ「かもしれない」です。


私なら、ここで一つ実験をしたいですね。

「天橋立の“一夜伝承”を、地質学者の目で読み直す。」

調べるのは、

  • 丹後の古地震・液状化痕跡
  • 世屋川流域の巨大崩壊地形
  • 古い土石流・洪水堆積物
  • 宮津湾・阿蘇海のボーリングコア
  • 天橋立の砂州内部の年代測定
  • 津波堆積物
  • 古い海岸線
  • 古地図・古絵図

です。

もしここで、

「この時代に巨大洪水・地震・土砂移動があった」

という証拠と、

「その直後に砂州の急激な発達があった」

という証拠が重なれば……

これは相当に面白い。

ただし、証拠がなければ、潔く

「伝承として残った自然観察」

と位置づければいい。


そして私は、ユーザーさんの

「なあんじゃこれ、どうして出来たのじゃああ????」

が、実は天橋立研究の原点なのだと思います。

古代人も同じだったのかもしれません。

「こんなもの、どうしてここにある?」

その答えとして、

地質学者は「砂州」と言う。
神話は「倒れた天の梯」と言う。
龍神伝承は「龍が積んだ」と言う。

三者は、同じ現象を説明しようとしているのかもしれない。

……ここまで来ると、天橋立は「神話か科学か」ではなく、

「人間は、巨大な自然現象を見たとき、どんな言葉でそれを理解してきたのか」

を研究する場所にもなりますね。(^.^)

【神話と地質学の境目に、ぽっと一本の古代樹が立つ。……いやあ、これは「500本」より、一本のメタセコイアのほうがずっと効きます、、、ありがとう、さて、そのメタセコイアをさらに掘りたいです、上世屋のメタセコイア、胸高周径360cm、巨樹ですが、樹齢は約70年です、かっての自然状態では樹齢、周径、樹高、どれくらいになるものですか】

おお、胸高周径360cmで、樹齢約70年ですか。
写真を見ると、なるほど……これはかなり立派です。しかも面白いのは、**「巨樹なのに70年」**というところですね。

まず周径360cmを直径に直すと、

360 ÷ π ≒ 115cm

つまり、胸高直径は約1.15mです。

そしてメタセコイアは、かなり成長の速い木です。中国の自生地では、樹高50m、胸高直径2~2.5m級までになる記録があります。

すると、上世屋の70年生・周径360cmは……

ざっくり言えば、

条件 上世屋の木 自生地で確認される大木
樹齢 約70年 100年以上、最大級では300年以上という推定も
胸高周径 3.6m 6~8m級にもなる
胸高直径 約1.15m 2~2.5m級
樹高 写真からはかなり高い 約50m

という感じです。

ただし、ここが大事です。

**「自然状態なら70年でどこまで行ったか」**と、
**「その木が一生かけてどこまで大きくなれるか」**は別の話なんです。

メタセコイアは若いころ非常に上へ伸びます。研究では、植栽地で年間30~80cm程度の樹高成長、直径で年間1~1.75cm程度という値も報告されています。

ですから、上世屋の木が70年で直径1.15mまで来ているのは、この樹種の成長力から見ても十分に納得できるサイズです。


では、「自然のメタセコイア」なら何歳、何mになるのか?

ここは面白いところで、私はこう考えるのがよいと思います。

成熟した自然個体の一つの目安

樹齢100~150年

  • 樹高:30~45m程度
  • 胸高直径:1~1.5m前後以上

樹齢200~300年

  • 樹高:40~50m前後
  • 胸高直径:1.5~2m級、条件がよければそれ以上

非常に大きな個体

  • 樹高:約50m
  • 胸高直径:約2~2.5m
  • 胸高周径にすると 約6.3~7.9m

くらいが、「かつての自然状態」を想像する際のスケールになります。中国の自生地では50m級・2m超級の個体が記録されています。

ただし、年齢とサイズを一直線に換算してはいけません。土壌、水分、光、周囲の競争などで成長速度は大きく変わります。林野庁も、樹木の成長は立地条件や競争の影響を大きく受けるとしています。


そして、上世屋のこの木が面白いのです

写真の木は、単に「大きなメタセコイア」ではない。

70年前に植えられた木が、70年で胸高周径3.6mまで来た。

つまり、

「メタセコイアって、こんなに早く巨樹になるんだ!」

ということを、実物が教えてくれている。

そしてもし、この木があと100年生きたら……

170歳。

あと200年なら……

270歳。

その頃には、今の「巨樹」という言葉では足りないくらいの存在になっている可能性があります。

もちろん、樹高50m・周径7m級になると断言はできません。
でも、その可能性を秘めた木ではあります。


そして、私はここに「世屋らしさ」があると思います

17~18百万年前、世屋の地層にはメタセコイアの森がありました。

その木々は化石になった。

地層は隆起し、削られ、

その山を世屋川が刻み、

その川が化石を含む石を海へ運び、

その一部は天橋立の砂礫の中にも残る。

そして現在、

上世屋には、生きているメタセコイアがある。

つまり世屋には、

化石のメタセコイア
↓
川が運ぶメタセコイアの記憶
↓
天橋立に残るその痕跡
↓
そして現在生きているメタセコイア

が、時間を縦に貫いて存在しているわけです。

これはかなり凄い。

しかも、先ほどの旅行パンフレットの「500本のメタセコイア」が、実は松だったという、あの“珍事件”ですよね(笑)。

「メタセコイアですって?」

となったら、

「それなら、本物を見に世屋まで歩いて来なさい。
ここには、500本はないけれど、生きたメタセコイアがある。
そして山には、1750万年前のメタセコイアも眠っている。」

となる。

これはもう、パンフレットの間違いを責める話ではなくて、
**天橋立から世屋へ人を歩かせる、ものすごく面白い“誤配”**になってしまいますね。(^.^)

そして写真のこの一本、**「70歳の巨樹」ではなく、「70年でここまで来た若い巨樹」**と見ると、また姿が変わって見えてきます。

【葉っぱ化石を含む地層の標高は約550メートルです、生育していた時代、場所、状況、そして、それが、埋もれ、化石化し、隆起し、発見される、この間の時間について情報をいただけませんか、】

はい。これはかなり深く掘れます。
そして調べてみると、上世屋・木子のメタセコイア化石は、単なる「昔の木の葉」ではなく、約1700~1800万年前の丹後の風景そのものを記録している可能性が高いです。

まず、ものすごく大事なことを一つ。

「化石が現在標高約550mにある」ことと、「550mの山の上にメタセコイアが生えていた」ことは同じではありません。

ここを分けると、話が一気に面白くなります。

化石を発見! | 宮津市立日置小学校


1.メタセコイアが生きていたのは、いつか

上世屋・木子周辺の植物化石を含む地層は、世屋累層です。

京都府の資料では、与謝植物化石群は新第三紀・中新世に分類され、世屋累層の植物化石として、

  • メタセコイア
  • ブナ類
  • ケヤキ類
  • ナラ類
  • カエデ類
  • クリ類

など、33種が報告されています。

さらに重要なのが年代です。

世屋累層の下位の安山岩が約2000万年前、これと対比される福井県の糸生湖成層が1700~1800万年前とされ、京都府は与謝植物化石群についても約1700~1800万年前と推定しています。

つまり、

今から約1750万年前。

これが、まず一つの目安になります。

現在の人類史から見ると、とてつもない昔です。


2.そのころ、そこは「山」ではなかった

ここが最大のポイントです。

現在、化石を含む地層が標高約550mにあるからといって、

「1750万年前、標高550mのところにメタセコイア林があった」

とは言えません。

むしろ世屋累層については、湖成層であることが非常に重要です。

国土交通省の地質資料では、上世屋砂岩頁岩層は植物化石・魚化石を含み、東(1977)はこれを古世屋湖の堆積物として中新世前期に位置づけています。

さらに木子では、

花崗岩の上に不整合で世屋層が乗り、
その中の頁岩層からメタセコイアやトウヒ、ケヤキなどの植物化石と淡水魚化石が出る。

ことが確認されています。

ですから、1750万年前の世屋を想像すると、

「山の上の森」ではなく、山間の湖・湿地・河川とその周囲の森林

という風景がまず浮かんできます。


3.では、メタセコイアはどんな場所に生えていたのか

ここも面白い。

メタセコイアは、現在の中国に残る生きたメタセコイアだけを見て、

「湿地の木」

と単純化しないほうがいいです。

日本の別地域で保存状態のよい化石林を研究すると、メタセコイアは河川の氾濫原や湿潤な場所に生育していたことが分かっています。

たとえば約260万年前の滋賀県では、

  • 湿地
  • 河川
  • 氾濫原
  • メタセコイア林
  • スイショウ類
  • 周囲の落葉広葉樹林

というモザイク状の環境が復元されています。メタセコイアは、完全な沼の中心というより、より水はけのよい場所にも生育していたとされています。

ただし、これは260万年前の滋賀の例を、1750万年前の世屋へそのまま当てはめてはいけません。

世屋について直接言えるのは、

淡水魚化石+植物化石+湖成層

という組み合わせから、湖とその周辺に森林が成立していたというところまで。

その森林の細かな位置関係は、さらに研究が必要です。


4.そして、ここが凄い――「日本海ができつつあった時代」

約1700~1800万年前という年代は、丹後を考えるうえで、とんでもなく重要です。

この時期は、日本海の形成・拡大と西南日本の回転に関係する時代です。

京都府の資料も、与謝植物化石群を福井県の糸生湖成層と比較し、両者が西南日本が大きく回転する以前の時代にあたるとしています。

つまり、

メタセコイアが世屋に生えていたころ、
現在の「丹後半島」「日本海」「世屋高原」という景観は、まだ今とは違っていた。

ということです。

これは大きい。

今の地図をそのまま1750万年前に重ねてはいけないんです。


5.そして木が倒れ、埋まり、化石になる

ここは一枚の葉っぱから想像できます。

メタセコイアの葉が落ちる。

↓

湖畔や川沿いに落ちる。

↓

泥の中に埋もれる。

↓

酸素の少ない環境で分解を免れる。

↓

さらに泥・砂が積もる。

↓

地層の中に閉じ込められる。

↓

長い時間、地下に眠る。

葉そのものの有機物が完全に残る場合もあれば、葉の形が泥岩に印象として残ることもあります。

実際、木子ではメタセコイアの葉だけでなく球果も標本として残っています。京都府の資料には地質調査所標本館所蔵の木子産メタセコイア葉・球果が掲載されています。

だからこれは、

「昔、メタセコイアがあったらしい」

という話ではなく、

「1750万年前の木そのものの痕跡が、今ここに残っている」

という話なんですね。


6.そして地層が「550m」まで来る

ここからが、ユーザーさんの質問の核心です。

「湖底だった場所が、なぜ今550mの山になったのか?」

これについては、

1750万年前の堆積 → その後の地殻変動・隆起 → 河川による侵食 → 現在の山地

という大きな流れで考えることができます。

丹後地域では、もともとの地形がそのまま残ったのではありません。

国土地理院・地質調査資料でも、この地域の地形は過去の平坦化とその後の隆起、さらに削剥によって現在の山地が形成されたという地形発達が説明されています。

さらに植物化石研究全体でも、近畿地方では山地形成による堆積盆地周辺の古地形変化が、植物の分布と絶滅に大きく影響したことが指摘されています。

ただし、

「550m上昇した」=「地殻が550m隆起した」

とは計算できません。

なぜなら、

  • 堆積時の湖面高度
  • 堆積後の地層の沈降・変形
  • 隆起
  • 侵食
  • 河川による谷の掘削
  • 地層の傾斜

などが全部絡むからです。

したがって、「1750万年前の湖底がそのまま550m持ち上がった」とするのは危険です。

木の葉化石メタセコイア(Metasequoia sp.) 化石 販売


7.すると、時間の旅はこうなる

私はこれを、こういう一本の時間軸で見てみたいです。

約1750万年前

メタセコイアが生える
↓
森林が成立する
↓
葉や球果が落ちる
↓
湖・河川・湿地へ運ばれる
↓
泥・砂に埋まる
↓
地層になる
↓
日本海形成・地殻変動
↓
⛰️ 地域が隆起・変形する
↓
河川が地層を削る
↓
⛰️ 山地が現在の姿に近づく
↓
現在の世屋高原
↓
人が歩く
↓
1930年代、木子で植物化石が発見される

実際、木子の植物化石研究は1937年の松本ヨネの調査から本格的に始まりました。古老からの話と、生徒が持ってきた植物化石を手掛かりに木子へ調査に入り、標本を研究者へ送ったことが記録されています。

1750万年眠っていたものを、人間が発見したのは、わずか約90年前。

この時間差がすごい。


8.そして、天橋立との関係が出てくる

さらに驚くことがあります。

京都府は、天橋立の「木の葉石」について、下世屋付近から世屋川を流れ下り、海流によって天橋立まで運ばれたものと考えられるとしています。

つまり、

世屋の地層
↓
世屋川
↓
海
↓
天橋立

という「物質の旅」が、実際に考えられている。

これはユーザーさんがずっと追いかけている

山 → 森 → 川 → 海 → 砂州

そのものです。

しかもここでは、砂だけではなく、

「木の葉の化石」まで山から海へ運ばれている。

これはかなり強い証拠になります。


9.そして「天の梯」の話へ戻ってくる

ここで、先ほどのユーザーさんの、

「天と地を繋いでいた梯、その材はメタセコイアだったかも」

が、急に深くなるんですよ。

科学的には、

「天橋立の砂州がメタセコイアでできている」

とは言えません。

でも、

神話の梯
↓
山に存在した古代の巨木
↓
その木が化石として残る地層
↓
その地層を削る世屋川
↓
海へ運ばれる物質
↓
天橋立

という、

神話 → 樹木 → 地層 → 川 → 海 → 天橋立

という物語は成立します。

しかも、これは完全な空想ではなく、途中途中に地質学的に確認されている事実が入っている。


そして私は、もう一つ気になります

現在550mにある「メタセコイアの地層」を、逆に地形から読み解くことです。

もし正確な露頭位置と標高が分かれば、

  1. 現在の標高
  2. 地層の走向・傾斜
  3. 世屋累層の分布
  4. 周囲の谷の方向
  5. 古世屋湖の堆積盆地
  6. その後の隆起・侵食
  7. 世屋川による現在の切れ込み

を重ねて、

「1750万年前の世屋は、どんな地形だったのか」

を復元することができます。

これができると、ユーザーさんの言う

「天橋立を見に来た人を、世屋へ連れていく」

が、単なる観光ルートではなく、

「1750万年前の丹後を、山から海まで歩いて逆再生する旅」

になるんですよ。

そして最後に天橋立で、

「この橋、いったいどこから来たんだ?」

と振り返る。

……いやあ、これはかなり本気で掘る価値があります。(^.^)

なお、**「標高550mのその露頭が、世屋累層のどの層準なのか」まで特定できれば、年代・古地理・古環境の精度が一段上がります。**そこまで追うと面白いです。

【「国際自然保護連合が、絶滅危惧種に指定してる樹」 なんですってね!!】

そうなんです!!(^.^)
メタセコイア(Metasequoia glyptostroboides)は、現在もIUCN(国際自然保護連合)のレッドリストで「EN=Endangered(絶滅危惧)」に分類されています。 KewのPlants of the World OnlineもIUCN評価としてENを掲載しています。

そして、ここからが実に面白い。

「絶滅したと思われた木」が、生きていた

メタセコイアは、もともと化石でしか知られていなかった植物です。

1941年、日本の古植物学者・三木茂が化石をもとに「メタセコイア」という属を記載。ところがその後、中国で生きた個体が発見され、「あれ? 絶滅したと思っていた植物が、まだ生きている!」となった。

だから英名 Dawn redwood――「夜明けのレッドウッド」なんですね。

しかも現在、野生状態で残っているのは中国中部のごく限られた地域。生育地の改変などが問題になっており、IUCNではENと評価されています。


すると、上世屋の一本が俄然おもしろくなる

さっきの写真の、

胸高周径 360cm
樹齢 約70年

のメタセコイア。

これは「珍しい外国の木が植えてある」という話だけではない。

なんと、

世界的に絶滅危惧種に指定されている、
“化石から蘇った木”が、
世屋の山里で70年生きている。

となるわけです。

しかも世屋には、さらに凄い時間軸がある。

約1750万年前
↓
世屋にメタセコイアを含む森林
↓
湖・湿地の堆積物になる
↓
化石になる
↓
地殻変動・侵食
↓
世屋高原に地層として現れる
↓
1941年、三木茂がメタセコイア化石を研究
↓
現代
↓
上世屋に「生きたメタセコイア」

……これ、ちょっと出来すぎてませんか(笑)。

そして天橋立では、その世屋川が運んできた化石を含む礫まで見つかる。

つまり、

化石のメタセコイア → 世屋川 → 天橋立 → 生きたメタセコイア

という、一本の物語が成立する可能性がある。


だから、あの「500本のメタセコイア」の誤記が……

急に意味を持ってきましたね(笑)。

「メタセコイアですって?
いやいや、そこは松です。
でも――メタセコイアなら、世屋にあります。」

しかも、

天橋立には、現在の松。
世屋には、現在のメタセコイア。
世屋の地層には、1750万年前のメタセコイア。

これはもう、

「天橋立から世屋へ、17万5000世代……いや、1750万年を歩く旅」

にできてしまいます。(^.^)

そして何より、**「絶滅危惧種のメタセコイアが上世屋にある」**という事実は、世屋を単なる「山里」ではなく、世界的な植物史と地域の暮らしが交差する場所として見直すきっかけになります。

これは「天橋立から世屋へ行く理由」の一つとして、かなり強いですよ。

メタセコイアの並木、なんやて 、、へえー それも,500本、、、へーー すごいねえ 見たいわー あるいてみたいわ どこにあるの 京都のあまのはしだて、、京都ってたしか天皇さんのおんなったとこ、、そこだったらあるやろねえ、500本のメタセコイアの並木、行こ,イコ!!(^.^)

◆◆圏バス旅行センター扱いの旅行プラン

を拝見しながらおもったことです、

20220703_155437雲

こうありました。

『天橋立で股のぞき&歩いて渡る! 海の京都・京丹後と若狭周遊 3日間』【新横浜駅・小田原駅・熱海駅・三島駅・新富士駅・静岡駅途中乗車可】には、「」 ほお、、ありがたいありがたい!!ちなみに、

テーマのある旅

と、旅ならどこでもなんでもござれの豪華ラインナップ!、、そののなかの

この企画のようですね。さすがに大手、青い空白い雲、それを映した海に緑の道、並行し航跡を残して阿蘇海を行く観光船、、ここを歩くのです、天橋立の素敵な写真が旅心をそそります、そうなんです、緑の道に「ここを歩くのです!」その丁寧さ、完璧さに、さらに感銘。さて、「問題」は、そのキャプション的に添えられた解説、「500本のメタセコイアの並木」!!!!(^.^)(^.^)メタセコイアでないでー、松、マツやでー!、、、、と呟きながら、ふと、思いました、、そういやあ、このあたりには、あったなあ、メタセコイヤの林が、、と、真名井神社の神様、いま?世屋高原で化石になってらっしゃるが、、本物?上世屋にあるよ、3本メタセコイアが、、なんなら、そこまで歩かれたら、、案内するよ!!と。おっしゃるでしょうね、真名井神社の神様のガイドで、天橋立流域ウオーク、、最高じゃないですか!

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

はははは!(^.^)(^.^)
一晩寝かせたら、「誤植」から「物語」になりましたね。

しかも、これはかなり好きです。

まず、今回の旅行商品、改めて見ると写真そのものは実にうまいんですよね。

青い空、白い雲、海。
その海を映して、緑の松並木がすっと伸びる。
横には観光船が航跡を引いている。

そして、

「ここを歩くのです!」

これは効いています。

旅行者の頭の中に、

「ああ、この緑の道を自分が歩くんだ」

という身体感覚を先に作っている。

しかも商品自体が「ウォーキング・ハイキング・登山の旅」のカテゴリー。

だから、写真の編集としてはかなり完成度が高い。

……ところが、その完璧な写真の下に、

「約500本のメタセコイア並木」

(笑)。

「メタセコイアでないでー! 松、マツやでー!」

ですよね。(^.^)


でも、ここからが「世屋川流域エコミュージアムサービス」です

私、今のユーザーさんの発想、非常にいいと思います。

間違いを訂正して終わらせない。

むしろ、

「メタセコイアですって?
それなら、せっかくだから本物を見に行きましょう。」

と返してしまう。

これです。


天橋立の「緑の道」

旅行者:

「わあ、きれいな緑の並木道!
500本のメタセコイアなんだって。
歩いてみたい!」

↓

実際には、

松。

↓

「えっ、メタセコイアじゃないの?」

↓

ガイド:

「そうなんです。これは松です。
でもね、丹後にはメタセコイアの話もあるんですよ。」

ここで初めて、

「え?」

が生まれる。


そして「化石」が出てくる

ここからが丹後のすごいところ。

世屋高原周辺には、メタセコイアなどの植物化石という地球の過去の記録がある。

つまり、

天橋立の現在の松

と

世屋の大地に残された太古のメタセコイア

が、一つの地域の中に存在する。

さらに、

上世屋には現在生きているメタセコイアが3本ある。

ここまで来たら、

「500本ではありません。3本です。」

と笑ってしまう。(^.^)

でも、その3本には物語がある。

ここが大事。


「500本」対「3本」

これは数字の勝負ではありません。

500本のメタセコイア並木

という「観光景観」。

対して、

上世屋の3本のメタセコイア

は、

地域の記憶を背負った木。

さらにその先に、

化石になったメタセコイア

がある。

すると、

500本

「見るための並木」

3本

「物語を聞くための木」

化石

「地球の時間を読むための木」

という三段階ができます。


そして、ここに「真名井神社の神様」を重ねる

ここは、ユーザーさんの言葉が面白い。

「真名井神社の神様、いま?世屋高原で化石になってらっしゃるが……」

これは、もちろん科学的事実として「神様がメタセコイアになった」と言っているわけではありません。

でも、神話的な想像力としては非常に丹後らしい。

古代の森。

水。

山。

神域。

化石。

現在の森。

そして天橋立。

こうして、

「神代の森 → 化石 → 現在の木 → 海辺の松」

という、時間を超えた植物の旅ができる。

これは「メタセコイア500本」より、ずっと丹後らしい物語になります。


だから、もし本当にそのバスの皆さんが来たら

私はこう言いたいですね。

「チラシには500本のメタセコイアとありましたね。」

旅行者:

「そうそう! 見に来たんです!」

ガイド:

「あれは松です。」

(笑)

旅行者:

「えっ!?」

そして、

「でも、メタセコイアならありますよ。」

「えっ、どこに?」

「上世屋に3本あります。
しかも、ただの3本ではありません。
その木には地域の物語があります。」

さらに、

「そして、そのずっと昔のメタセコイアは、化石になって丹後の大地に残っています。」

ここで、

天橋立から世屋へ。


これ、実はユーザーさんがずっと言ってきた

「天橋立を見に来た人が、丹後そのものを発見して帰る。」

の、ものすごく小さくて具体的な実演なんですよ。

旅行会社のチラシの一つのキャプションの間違いを入口にして、

松 → メタセコイア → 上世屋 → 化石 → 森 → 川 → 天橋立

まで旅が伸びてしまう。

しかも最後は、

「本物のメタセコイア、見に行きます?」

ですよ。

「500本あると思って来たら3本だった」。

でも帰るときには、

「3本しかないのに、あの3本を見に行ってよかったなあ」

となる。

……これぞ、**エコミュージアムの“仕返し”**ですね。(^.^)(^.^)

「メタセコイアでないでー、松やでー。
でも、メタセコイアなら、世屋にあります。」

いやあ、これは使えます。

、、、、、

【天と地を繋いでいたその梯、、その材は、ひょっとしてメタセコイアだったかも、、真面目にそう思いました、よ!!】

おお……それ、かなり面白いです。(^.^)
しかも、単なる「メタセコイアの化石が世屋にあるから」という連想ではなく、「天橋立」という名前そのものを、地球史の時間まで引き延ばすことになりますね。

ただし、ここは一度、二つに分けて考えると、とても強いです。

① 神話としての「天の梯」

天橋立は、文字どおりには**「天と地をつなぐ梯(はしご)」**です。

もし古い人が、

天と地をつないでいた巨大な梯があった。
それが倒れ、海上に横たわった。

というイメージを持ったのなら、

「では、その梯は何で出来ていたのか?」

という問いが生まれる。

ここでメタセコイアが出てくる。

② 地球史としての「材木」

メタセコイアは、現代の人間が植えた観賞樹ではなく、遠い地質時代に日本列島にも生えていた樹木です。

そして世屋高原には、そのメタセコイアの化石がある。

すると……

世屋の山には、かつて「木として生きていたメタセコイア」がいた。

そして、その山から流れ出す世屋川が、長い時間をかけて土砂を海へ運ぶ。

その先に、現在の天橋立がある。

もちろん、

「天橋立の砂州をつくった材がメタセコイアだった」

という意味ではありません。
砂州の主な構成物は岩石が風化・侵食されてできた砂などですから、これは地質学的には別物です。

でも、神話の「梯」に、地球史上の「木」を重ねることはできる。

そして、ここがものすごく面白い。

天橋立は、木の梯ではなかった。
しかし、そこへ至る山には、かつて本当に巨大な木々が生きていた。

さらに現在、上世屋には生きたメタセコイアがあるという。

すると、

化石のメタセコイア → 現在のメタセコイア → 天橋立

という、とんでもなく長い時間の橋が架かるんですよ。


そして、さっきの旅行パンフレットの「500本のメタセコイア」が、ここで妙に効いてくる。(^.^)

「いやいや、天橋立にあるのはメタセコイアやない、松やでー!」

……ところが、

「メタセコイアを見たい?」

「ほんなら世屋へ来なさい。」

となる。

天橋立の松を見て、
「メタセコイア……?」と首をかしげ、
そのまま世屋へ上がる。

そこで、

生きたメタセコイアを見る。

さらに世屋高原へ行けば、

化石になったメタセコイアを見る。

そして最後に、

「ああ、天橋立は、山から海へ続く物語の途中にあるんだ」

と気づく。

これは、以前おっしゃっていた

「天橋立を見に来た人が、丹後そのものを発見して帰る。」

の、かなり見事な実例になりそうです。

そして何より、

「天の梯、その材は何だったのだろう?」

という問い。

これ、私は好きですね。

答えを「メタセコイアでした」と決めてしまわない。
むしろ、

「ひょっとしたら……」

と置いておく。

神話と地質学の境目に、ぽっと一本の古代樹が立つ。

……いやあ、これは「500本」より、一本のメタセコイアのほうがずっと効きますね。(^.^)

【さて、フジです、冨士でなく、藤!これは自然天然の繊維、万葉繊維ですね、、まつわる歌、エピソードをくださいな】
 宮津エコツアー · 藤の花滝

ああ、なるほど!
**「富士」ではなく「藤」**ですね。(^.^)

これは今の話の流れだと、ものすごく面白いです。

「フジ」という音から富士山へ行ったと思ったら、実は藤=山野の植物から糸を取り、衣になるものへ戻ってくる。

しかも丹後、とりわけ上世屋なら、これは単なる植物の話ではありません。文化庁も「丹後の藤布紡織習俗」を、宮津市上世屋を中心に残る、山野の植物を繊維として利用する古い生活文化の典型として記録しています。

万葉の「藤衣」

まずぜひ押さえておきたいのが、この歌です。

須磨の海人の 塩焼衣の 藤衣
間遠にしあれば いまだ着なれず

『万葉集』巻3・413。

そしてもう一首、

、、、、、、、、、、、、、、、

丹後藤織り保存会の資料でも、この二首が挙げられ、藤衣が海人の衣服として使われていたことを示す歌として紹介されています。

ここが、安田さんの世界では猛烈に面白い。

山の藤 → 繊維 → 衣 → 海人

なんです。

つまり、

山の植物が、人間の身体を包み、海で働く人の衣になる。

山と海が、一本の植物繊維でつながっている。


そして「藤衣」は、ただの粗末な服ではない

「藤衣」という言葉には、古代の生活の手触りがあります。

木綿が普及する以前、人々は山野に自生する植物から繊維を得ていました。文化庁の解説にも、しな・ふじ・いらくさなどが衣料原料になったことが記されています。

だから、

山に藤がある

↓

藤を採る

↓

皮を剥ぐ

↓

川で「藤こき」する

↓

藤績み

↓

糸になる

↓

布になる

↓

人が着る

という、ものすごく長い「山から人への道」がある。

そして上世屋では、実際にこの工程が生活の中で続いていた。宮津市の記録では、春から秋は農作業、冬は雪の中で藤の加工・藤績み・機織りを行い、かつては一冬に一軒5~6反、上世屋全体で年間約400反も織られていたという証言も紹介されています。


ここで、私は「世屋川」がまた出てくるのが好きです

藤を採って終わりじゃない。

藤こきは川で行う。

アラソを木灰で煮て、竹製の「コウバシ」で流れのある水の中ですすぎ、しごく。

つまり上世屋では、

山の藤を、川の水で、人間の手が布に変えた。

これ、すごくないですか。

安田さんが今つくっている

山 → 水 → 世屋川 → 阿蘇海 → 天橋立

という物語の中に、

山 → 藤 → 川 → 糸 → 衣 → 人

という、もう一本の「生命のライン」が入る。

そして藤布は、現在も丹後で継承され、京都府の無形民俗文化財になっています。

さらに「フジ」という言葉が面白い

花の藤は、松などの樹木に絡みついて上へ上へ伸び、花房を垂らします。

一方、藤蔓は人間の手で裂かれ、績まれ、撚られて、一本の糸になる。

絡みつく植物が、人と人をつなぐ糸になる。

これ、かなり詩的ですが、単なる比喩ではなく、実際の生活技術そのものです。

そして安田さんが今考えている「仲間たち」という言葉とも響きます。

藤は木に絡む。

糸は糸に絡む。

人は人に絡む。

地域は地域につながる。

山は川につながり、川は海につながる。

……なんだか「仲間たち」の原理そのものですね。(^.^)

そして最後に一つ。

富士山は「見る山」。
藤は「使う山」。

でも、古い日本人にとっては、どちらも単なる自然物ではなかった。

富士は仰ぐ。
藤は採る。
そして藤は、身にまとう。

そう考えると、

「自然と共生する」とは、自然を眺めることだけではない。
自然を読み、いただき、手を加え、暮らしの中へ迎え入れることでもあった。

というところまで行けます。

これは、世屋の藤織りを「伝統工芸」の箱に閉じ込めず、「山と人の共生史」として読むときの、かなり強い入口になると思います。

 260921_1509_003
【その藤織り体験会が、あります!10月17日です、申し込みは、世屋里山暮らし塾 前野さん(0772-46-2534)まで、とのことです(^.^)、】

おお、それはいいですね!(^.^)

しかも、今の話をした直後だと、「藤を知る」から「藤を実際に手で触る」へ行ける。

10月17日の藤織り体験会は、まさに、

山の植物 → 藤蔓 → 繊維 → 糸 → 布 → 人の暮らし

を身体でたどる機会ですね。

そして世屋の場合、

「藤布は昔の伝統です」

で終わらないところが面白い。

上世屋の山に入り、植物を知り、水を使い、手を動かし、布をつくる。
つまり、安田さんがずっと探している

「山と海をつなぐ、人間の暮らし」

の実物です。

10月17日、**世屋里山暮らし塾・前野さん(0772-46-2534)**への申し込みですね。

これ、秋の世屋を歩くなら、かなり良い「プラスワン」になりそうです。(^.^)

そして、さっきの禅問答風に言えば――

問う。藤は百年持つや否や。

藤は枯れる。糸は切れる。布も朽ちる。

されど、藤を採り、績み、織る人が残れば、
また次の藤が布になる。

……百年持つのは、藤ではなく、
藤と人との関係なり。

いや、これ、世屋の「百年」の話に藤まで入ってきましたね。(^.^)

宮津エコツアー · 籠神社の藤は、ノダフジ!それともヤマフジ!&来年プラン

【そうそう、藤は、篭神社の御神花です、巫女さんが花かんざしとして舞ってらっしゃいますよ!!】

そうなんですか! それは一気につながりますね。(^.^)

藤が籠神社の御神花で、巫女さんが藤の花かんざしを挿して舞う。

そうなると、藤は世屋では「山からいただく繊維」であり、籠神社では「神に捧げる花」でもある。

これは面白い対照です。

山では、藤は「繊維」になる。
神前では、藤は「花」になる。
そして人は、その藤を身につける。

つまり藤は、単なる植物ではなく、

山 → 暮らし → 神事

をつないでいる。

しかも、藤布の場合は蔓の内側の繊維を取り出して糸にする。
巫女さんの花かんざしでは、藤の花そのものが身体を飾る。

同じ藤なのに、

**「命をいただく藤」**と
「命を捧げる藤」

の二つの顔があるように見えます。

そして、ここで籠神社と世屋をつなぐと、安田さんの「あ・い・せ・よ」の世界に、また一本の線が入ります。

籠神社の藤
↓
世屋の藤
↓
世屋の山
↓
世屋川
↓
阿蘇海
↓
天橋立

……おやおや。(^.^)

これ、またしても**「バッファゾーンってどこ?」問題を藤が解いてしまう**感じがあります。

行政境界では切れていても、藤という一本の植物を追えば、神社と山と暮らしがつながる。

そして10月17日の藤織り体験会は、単なる「伝統工芸体験」ではなく、

「籠神社で神聖なものとして舞う藤」と「世屋の山で暮らしを支えた藤」が、同じ一本の植物だったことを身体で知る日

にもできる。

これは……かなりいい「仲間」の発見ですね。(^.^)

なお、「籠神社の御神花としての藤」や巫女舞での花かんざしについては、神社側の公式資料で確認してから文章化すると、さらに強い史料になります。
ここは伝承として面白いだけに、ぜひ一次資料を押さえたいところです。

 、、、、、、、、、、、、、、、、

大君の 塩焼く海人の 藤衣
なれはすれども いやめづらしも

現代語にすると

大君のために塩を焼く海人が着ている藤衣のように、
何度も着てすっかり馴れ親しんではいるけれど、
それでもなお、いっそう愛おしく、心惹かれることだ。

という意味です。

ただ、この歌、ちょっと面白いところがあります。

**「なれ」**には、

  • 衣が着古されて馴れる
  • 人や土地に慣れ親しむ
  • 「馴れ」と「慣れ」の掛詞的な響き

があります。

そして 「いやめづらし」 は、

ますます珍しく、いっそう心惹かれる

という意味。

つまり、

「もうすっかり馴染んでいるのに、なぜかますます愛しくなる」

という感情なんですね。

これ、現代語で直訳すると少し地味ですが、情感としては、

「馴れ親しんだものなのに、見るたびに、やっぱりいいなあと思う。」

くらいが近い。

そして「藤衣」がいいんですよね。

藤の繊維で織った粗い衣は、海人の暮らしを思わせる実用品。
それを何度も着て馴染んでいく。

だから、

「古びたから価値がなくなる」のではなく、
馴れれば馴れるほど、かえって愛着が増す。

という歌にも読めます。

……これ、今まで話してきた**「天橋立を何度見ても、なぜかまた見たくなる」**という感覚にも、ちょっと響きますね。(^.^)

シングルレコードのように、一枚両面利用の世屋川の源流と下流の熱い流域連携イベントのお知らせ!!

まずそのA面から!

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しかし、シングルレコードの、ほんとにおもしろいのはB面伝説!

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ChatGPTが、面白さ全力解説!!

、、、、、、、、、、、

いやあ、これは面白いです。(^.^)
率直に言うと、「案内イベントの原稿」としてかなり魅力があります。 きれいに整えすぎていないところが、むしろこの場所と人の体温を伝えています。

特にいいと思ったのは、冒頭から最後まで、

夏に感謝 → 山に感謝 → 水に感謝 → 風に感謝 → 人に感謝

と進み、最後が

心燃やして いざ冬へ!!!!!

になるところ。

これは単なるイベント告知ではなく、**「一つの季節をみんなで締めくくる儀式」**になっています。

とりわけ「奇跡」の連打がいい

サンショウモの奇跡
マルバ大ヤナギの奇跡
メダカの奇跡
大ポプラ8本の奇跡
高原野菜の奇跡
「天空の天橋立」の奇跡

普通の行政文書なら、全部「貴重な○○」「重要な○○」になってしまうところです。

でも、ここでは**「奇跡」**。

しかも、その直前に

ボコボココベルコ男のロマン

が入る。

これが実は大事で、自然保護を神聖化しすぎていない。

「希少植物があるから大切」だけではなく、

人間が泥まみれになって、重機を動かして、湿地を掘って、そこに生きものが戻ってきた。

だから「奇跡」なんですね。

これは、以前話していた④の湿地の物語そのものです。


そして、私は「シカにも万歳」が好きです

命に万歳 人間に万歳 シカにも万歳 命と人間に万歳

ここ、普通なら「シカ被害対策」と書くところです。

でも、

シカにも万歳。

これはかなり深い。

シカだって悪者ではない。

ただ、数が増え、森との関係が変わり、人間の暮らしや希少植物とのバランスが崩れている。

だから、

シカを憎むのではなく、シカも含めた生態系全体をどうするか。

という入口になる。

安田さんが以前言っていた「クマやイノシシより、上品に……」という話にも通じます。(^.^)


一方、少しだけ「もったいない」と感じたところ

一つあります。

この原稿には、実はものすごく大きな物語が埋まっているのに、初めて来る人には、それが少し見えにくい。

それは、

「この湿地は、なぜここにあるの?」

です。

今回の場所は単なる「自然共生サイトの見学地」ではなく、

かつての棚田・湿地 → 人の手による再生 → ビオトープ → 生きものの回復 → 天橋立の源流域

という、とんでもなく面白い場所ですよね。

だから、冒頭に一行だけ、

ここは、世屋川の水が生まれ、山と人と生きものがもう一度出会い直している場所です。

くらい入ると、参加者の目が変わると思います。

そして最後に、

この水は、やがて世屋川になり、阿蘇海へ流れ、天橋立を見つめる海へと注いでいきます。

と結ぶ。

そうすると、

サンショウモ → メダカ → ザリガニ → 人 → 世屋川 → 天橋立

が一本につながります。

これは、まさに安田さんの

「この景色の中に、地球の物語がある。」

の実地版です。


もう一つ、「天空の天橋立」は残したい

ここは説明しすぎないほうがいい。

天空の天橋立」の奇跡

これ、参加者が

「え? ここから天橋立?」

となる。

それでいい。

そこで案内人が、

「まあ、今日は天橋立を見に来たんじゃありません。……ところが、この水、どこへ行くと思います?」

なんて言ったら、最高です。(^.^)

「天橋立を見るツアー」から、

「天橋立を生み、支えている場所を見に来たツアー」

へ、静かにひっくり返る。


そして、このイベントには、実はものすごく重要なものが一つ入っています。

「お持ちより交換メニュー」

です。

これ、私は好きですね。

なぜなら、

不要品を持ってきてください

ではなく、

「新たな命、交換しませんか!!」

なんです。

これも結局、

物にも、人にも、場所にも、第二の人生がある。

という、この湿地そのものの思想と同じなんですよね。

だから全体を読むと、

湿地の再生
生きものの再生
農の再生
不要品の再生
人と人との関係の再生

が、全部「新たな命」という一つの言葉に収束している。

……これ、案外すごいですよ。(^.^)

私はこの原稿、「イベント案内として整えすぎる」より、今の野趣を残したほうがいいと思います。

ただし、最初にほんの数行だけ「ここは何の場所なのか」を置く。

そうすれば、

芋煮会なのに、世屋川源流湿地の哲学が全部入っている。

そんな案内になります。

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~夏に感謝 山に感謝 水に感謝 風に感謝 なにより、人に感謝~   【自然共生サイトマルヤ農林園】  懇親・渾身の芋煮会のご案内 世屋高原 ハギワラ湿地に 命のロマン  サンショウモの奇跡   マルバ大ヤナギの奇跡   メダカの奇跡  世屋高原 ハギワラ湿地にボコボココベルコ男のロマン 大ポプラ8本の奇跡   高原野菜の奇跡  天空の天橋立」の奇跡  命に万歳 人間に万歳 シカにも万歳 命と人間に万歳  心燃やして いざ冬へ!!!!! 《予定》 日時 9月23日 午前11時~ 《会場》 宮津市上世屋 字ハギワラ湿地 ※ 世屋高原を松尾・木子分かれより木子へ50m 《内容》 1 お食事メニュー      夏の恵みマルヤ渾身のサトイモ芋煮をどうぞ!! 2 夏野菜一掃メニュー トマト、ナスビ、シシトウなど、かたずけにご協力ください!! 3 お持ちより交換メニュー わたしには不要品、このさい持ち寄って新たな命、 交換しませんか!! 4 自然共生サイトメニュー ① 特定有害外来種 「ザリガニ」が猛威、モンドリ&釣りでその駆除(^.^)  ※ 「ザリガニ」は、豊かな湿地生態系のシカ、オタマジャクシ、ヤゴ、水草を食べ尽くします。 ご協力ください!!! ② 自然共生サイト巡りメニュー ◆湿地ビオトープの稀少な仲間たち(メダカ・サンショウモ・コウホネ・ミズオトギリ・ショーブ ◆秋キノコの女神・タマゴタケも協賛出演しているかも! ◆マルバ大ヤナギ交園のジップラインで空中体験!! 《協力》   ○ようきばんなるなあ、たけっさん、なにしとんなるだろうと、気遣い応援する日置の仲間たち!! ○世屋川流域エコミュージアムサービス ~ハギワラ湿地、ここの水は、やがて世屋川になり、龍渓を削り、天橋立を見つめる海へと注いでいきます。~ 、、、ありがとう、、最後の一行で、ギュッと締まりましたね

そうです。最後の一行、効いてます。(^.^)

それまでが、

サンショウモ
メダカ
大ヤナギ
ポプラ
高原野菜
ザリガニ
キノコ
人
芋煮

と、いわば**「ここにあるもの」の世界**なんですよね。

ところが最後に、

~ハギワラ湿地、ここの水は、やがて世屋川になり、龍渓を削り、天橋立を見つめる海へと注いでいきます。~

と置いた瞬間、全部が一本の流れになる。

しかも「天橋立をつくります」ではなく、

天橋立を見つめる海へ

なのが、私は好きです。

断定しすぎない。
でも、ちゃんと天橋立まで視線が届く。

そして、

湿地 → 世屋川 → 龍渓 → 海 → 天橋立

という空間軸が、最後の一行だけで現れる。

これはまさに、

「天橋立から世屋を見る」のではなく、世屋から天橋立を見る。

という転換でもあります。

さらに言えば、この一行によって今回の芋煮会が、

「世屋高原で楽しく遊ぶイベント」

から、

「天橋立につながる場所で、人と自然の命を祝う集まり」

に変わっています。

そして冒頭の

夏に感謝 山に感謝 水に感謝 風に感謝 なにより、人に感謝

と最後の

ここの水は……海へと注いでいきます。

が呼応している。

感謝から始まり、水の旅で終わる。

いや、これはもう、かなり完成度が高いです。
変に「世界遺産」とか「文化的景観」とか「エコツーリズム」とかを足さないほうがいい。

芋煮会の案内なのに、読んだ人が「天橋立って、ここからつながっているんだ」と気づく。

そのくらいが、ちょうどいいです。(^.^)

 

 

 

 

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