宮津エコツアー · 10月 2026

10月 2026

【①天橋立も里山も、わたしには、「小さな花の歌」なのです、なので,長江の浜も、本庄の浜も、。「小さな花の歌」は流域のソウルソング!!なのです。】
 IMG_20260912_223741[1]

ああ……そういうことでしたか。(^.^)

天橋立も、世屋の里山も、長江の浜も、本庄の浜も、みんな同じ歌を歌っている。

それが、安田さんのいう「小さな花の歌」なのですね。

浜辺に立てば、砂がある。

山に入れば、土がある。

川をたどれば、水がある。

田んぼには、人が手を入れてきた時間がある。

そして、その一つひとつに、小さな生きものや草花が暮らしている。

一見、別々の景色です。でも、流域という大きなつながりの中で見れば、どれも同じ物語の一節になる。

「小さな花の歌」は、花だけの歌ではない。

山の水も、川の石も、浜の砂も、そこに暮らす人も、みんなが参加する歌。

だから、天橋立の白砂青松も、上世屋の棚田も、長江の浜も、本庄浜も、単独の名所として切り取るのではなく、流域の歌として聴くことができる。

そして、ここが大事だと思うのです。

流域のソウルソングは、誰かが作曲したものではない。長い時間をかけて、自然と人が一緒に歌ってきたもの。

その歌は、いつも同じ旋律ではありません。山の荒れ方も、川の流れも、海岸の姿も、人の営みも変わる。

だからこそ、歌い継ぐには、耳を澄ませ、変化を感じ取り、次の世代に手渡す人が必要になる。

10月17日のツアーも、そう考えると、少し違って見えてきます。

伊根の舟屋で、海辺の暮らしの節を聴く。

世屋川をさかのぼり、山の水と田畑の節を聴く。

上世屋で、森や棚田に残る、人と自然の長い掛け合いを聴く。

ガイドは、歌の意味を一方的に解説する人ではなく、参加者がそれぞれの耳で、その歌を聴き始めるきっかけをつくる人なのかもしれません。

そして、安田さんの言葉を借りれば――

天橋立を守ることは、天橋立だけを守ることではない。 その歌が生まれ、今も歌われている流域を大切にすること。

うん。これは、単なる自然観察のテーマを超えていますね。

「小さな花の歌」――流域のソウルソング。

この言葉、10月17日のガイドの心の中に、そっと置いておくとよさそうです。 説明のための標語にするより、参加者と一緒に景色を見ているとき、ふと口をついて出る。そんな言葉として。(^.^)

 【②「小さな花の歌」――流域のソウルソング。 ,,この歌の作詞作曲は、シンガーソングライター黒坂正文さん。上世屋を見つめる子どもや青年の活動との出会いと交流でうまれたのです、もう50年も前のことです!! 】

ああ……それは、ものすごく大事な背景ですね。

つまり「小さな花の歌」は、安田さんが今になって流域の物語に重ねた比喩ではなく、半世紀前に、上世屋を見つめた若者たちとの出会いの中から、実際に生まれた歌なのですね。

そうなると、「流域のソウルソング」という言葉の意味が、ぐっと深くなります。

作詞作曲=黒坂正文さん。
舞台=上世屋。
出会い=上世屋を見つめる子どもや青年たち。
時間=約50年。

そして今、安田さんが天橋立から世屋川をさかのぼり、上世屋を見つめ直している。

なんだか、50年前の歌が、いまもう一度歌い始めているようです。

しかも面白いのは、これが「自然保護のために作られた歌」というだけではないところでしょう。

人が上世屋を見つめる。
上世屋が人に何かを返す。
その出会いから歌が生まれる。
歌が人から人へ渡る。
そして50年後、別の人がその土地を見つめ直す。

これはまさに、人と土地の交流そのものが文化になるという話です。

だから、

「小さな花の歌」――流域のソウルソング。

という言葉は、かなり強い。

天橋立を「地形」として見るだけでもない。
里山を「生物多様性」として見るだけでもない。
長江や本庄の浜を「砂浜」として見るだけでもない。

その全部を、

「この土地を見つめてきた人たちは、何を感じ、何を歌い、何を次の人に渡してきたのか」

という、人間の時間まで含めて読むことができる。

そして10月17日。

バスで伊根から世屋川を上って上世屋へ向かうとき、もしどこかでこの歌の話をされるなら、私はむしろ詳しい解説をしすぎない方がいいと思います。

例えば、

「実は、この上世屋を見つめた子どもや青年たちとの出会いから、50年ほど前に一つの歌が生まれました。
『小さな花の歌』という歌です。」

そして少し間を置いて、

「今日は、皆さんにも、この土地が何を歌っているのか、ちょっと耳を澄ませてもらえたらと思います。」

……これだけでもいい。

そこから車窓を見る。

山。
川。
田んぼ。
家。
森。
浜。

そして参加者が、

「ああ、これも歌の一節なのか」

と思ったら、もうSSHが始まっています。

そして何より――

50年前に上世屋を見つめた子ども・青年たち。
今、上世屋を見つめる私たち。
そして50年後、ここを見る子どもたち。

この三つの時間が一本につながります。

それこそ、安田さんがずっと言ってきた**「百年持つや否や」**という問いにも、静かにつながってきますね。

天橋立を百年同じ形に保存できるか、だけではない。

百年後の人が、この土地を見て、何かを感じ、何かを歌いたくなるか。

……「小さな花の歌」、思っていた以上に大きな歌ですね。(^.^)

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

《アーカイブ》

2012/09/26

「民俗学者故宮本常一氏の激励を受け、全国各地を歩き、地球環境や生活をテーマにした歌を歌い続ける。北は利尻島から、南は沖縄までその数は3,700回にのぼる。」というフォークシンガー黒坂正文さん。そのコンサートで必ず演奏される「小さな花の歌」は、1976年3月31日 上世屋・旧自治会公民館(寄宿舎)で誕生しました。
小さな花の歌 黒坂正文 詩・曲

小さな花こそ 大切に育てよう
小さな花こそ 美しく咲くのだから
ああ 僕の育った村は 小さな村だけど
ツリガネソウが 谷間に咲く 美しい村だった


小さな夢こそ 毎日あたためよう
明日は 今日よりは あたたかくなるのだから


ああ 僕の育った村は 何もない村だけど
みんな 日焼けした顔で とり入れを待っていたんだ

大きな言葉が 小さな言葉を踏みつけて
小さな命を 奪って逃げてった


ああ 僕の育った村は 何もない村だけど
メダカ ヌマエビ ミズスマシが 幸せに生きていたんだ

小さな花のついた ハンカチを君にあげよう
小さな花がいっぱい ここに育つように

ああ 僕の育った村は 小さな村だけど
ツリガネソウが 谷間に咲く 美しい村だった

楽譜は「http://kamiseya.main.jp/index.html」  「おいで一緒にイン上世屋」で検索いただけます

。、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

これは……かなり重要な一次資料に近い記録ですね。
しかも、先ほどの「流域のソウルソング」という私たちの言葉に、実際の歌詞と成立場所が入ってきたことで、意味が一段変わりました。

まず、この記録から確実に読めることがあります。

「小さな花の歌」は、上世屋そのものから生まれている

2012年の安田さんの記事によれば、黒坂正文さんの「小さな花の歌」は、

1976年3月31日、上世屋・旧自治会公民館(寄宿舎)で誕生した。

そして歌の中には、

  • 小さな花
  • 谷間のツリガネソウ
  • 小さな村
  • 稲の取り入れを待つ人々
  • メダカ
  • ヌマエビ
  • ミズスマシ
  • 小さな命
  • 小さな夢

が出てくる。

これ、ものすごく面白いです。

「自然保護」という言葉を前面に出した歌ではないのに、生物多様性・農・暮らし・人間の尊厳・小さな集落の価値が、全部一つの歌の中に入っている。

しかも、

大きな言葉が 小さな言葉を踏みつけて
小さな命を 奪って逃げてった

という一節がある。

ここまで来ると、「小さな花」は単なる植物の比喩ではないですね。

小さな村、小さな夢、小さな命、小さな花。

「小さいものこそ大切にする」という思想が、歌全体を貫いている。


そして「自然、人、生業」という10月17日のテーマに、そのまま重なる

京都府生物多様性センターの今回のテーマは、

丹後 伊根・上世屋に自然、人、生業を訪ねる

でしたね。

ところが、1976年に上世屋で生まれた歌を聴くと、

自然=ツリガネソウ、メダカ、ヌマエビ、ミズスマシ
人=日焼けした顔の人々
生業=稲の取り入れ
暮らし=小さな村

となっている。

つまり、

50年前の歌が、今回のツアーのテーマをすでに歌っている。

これはかなりすごい。


そして「流域のソウルソング」という言葉

ここで一つ、私は少し言い換えたくなりました。

「小さな花の歌」は、

上世屋の歌

であると同時に、

上世屋から世屋川を下って海まで届く歌

なのではないか。

もちろん、これは歌の成立史についての事実ではなく、今の私たちがこの歌を流域全体の物語として読むための解釈です。

でも、その読み方には地理的な根拠があります。

上世屋の谷間で咲く花。

そこに降る雨。

田んぼ。

小さな生きもの。

世屋川。

そして海。

その先には長江の浜も、本庄浜も、阿蘇海も、天橋立もある。

だから、

小さな花の歌は、上世屋で生まれたけれど、私たちはそれを流域全体で聴くことができる。

この言い方なら、とても自然です。


そして「SSH」とつながる

ここが、安田さんらしいところだと思います。

参加者に歌詞を「解説」する必要はない。

むしろ、

「1976年、今から50年前に、この上世屋で一つの歌が生まれました。」

と伝える。

そして、

「歌の中には、どんな生きものが出てくるでしょう?」

と問う。

メダカ。
ヌマエビ。
ミズスマシ。

では、

「なぜ、この三つが歌われたのでしょう?」

そこから、

田んぼなのか。
水路なのか。
湿地なのか。
当時の上世屋にはどんな水辺があったのか。
今はどうなっているのか。

……となる。

歌が、調査の入口になる。

これこそSSHです。


そして、最後にハンカチ。

小さな花のついた ハンカチを君にあげよう
小さな花がいっぱい ここに育つように

この「ここ」は、1976年には上世屋だった。

では50年後の2026年、私たちにとって「ここ」はどこなのか。

上世屋だけなのか。

世屋川流域なのか。

伊根まで含む丹後なのか。

あるいは、天橋立まで含む一つの流域・海域の世界なのか。

ここで参加者に答えを与えず、

「皆さんにとって、“ここ”はどこでしょうね。」

と残したら……

これはかなり強いガイドになると思います。

50年前に生まれた歌を、50年後の人間が聴き直す。

そして次の50年へ渡す。

「百年持つや否や」の問いまで、静かにつながりますね。(^.^)

【
をします、 「丹後  伊根・上世屋 に 自然、人、生業を訪ねる」がテーマです 、基点は海星公園、伊根は舟屋の里経由野室まで、戻って世屋川を上世屋まで。バス移動になります、移動中のバスからみえるものが大事と思います、ので役柄は、SSHする!!その点からアドバイスくださいな 】
 舟屋の里公園からの伊根湾夕暮れ 写真素材 [ 4148868 ] - フォトライブラリー photolibrary

(↑舟屋の里公園からの伊根湾夕暮れ 写真素材 [ 4148868 ] – フォトライブラリー photolibrary photolibrary.jp)

 おお、これはまさに**「バスをSSHの教室にする」**コースですね。(^.^)

しかもテーマが「自然、人、生業」。海星公園 → 伊根 → 野室 → 世屋川 → 上世屋なら、単なる名所案内ではなく、海から山へ一本の環境・暮らしのつながりを読み解く旅にできます。

私なら、10月17日は「たくさん説明する」より、参加者の頭の中に“問い”を仕込むことを中心にします。

まず、一本の問いを置く

出発時に、こんな問いを渡します。

「海の町・伊根と、山の上・上世屋は、ほんとうに別々の場所でしょうか?」

そして最後に上世屋で、

「今日、海と山がつながっている証拠を、いくつ見つけましたか?」

と返す。

これだけでも、バスから見えるものが全部「教材」になります。


バスの窓を「観察窓」にする

今回のコース、実はすごく面白いです。

海星公園 → 伊根湾 → 野室 → 世屋川沿い → 上世屋

という移動は、

海 → 海と山の境界 → 川 → 山 → 山の暮らし

を一本でたどります。

つまり地図を見せなくても、

「私たちは今、海から山へ移動しています」

というだけで、地形の授業が始まる。

そこで、車内では説明を詰め込まず、

「見つけてください」

を連発するのがいいと思います。

たとえば――

① 海が見えたら

「海を見てください。
では、海だけを見ないでください。
海の後ろに何があるでしょう?」

→ 山。

「では、その山から海まで、何が下っているでしょう?」

→ 川・沢・道路・集落。

ここで、

山 → 川 → 海

という最初の線を引く。


伊根では「舟屋」をゴールにしない

宮津エコツアー · 伊根舟屋の里でガイド研修

(↑ 舟屋の里から雪の高原 宮津エコツアー)

舟屋の説明をして終わると、普通の観光ガイドになります。

ここではむしろ、

「なぜ、ここに人は住んだのでしょう?」

と問いかける。

海がある。
山が迫っている。
平地が少ない。
湾がある。
魚がいる。
舟を使う。
そして家と海が直接つながる。

つまり、

自然条件 → 生業 → 住まい

という順番で見てもらう。

そして、

「この舟屋は、自然を克服して作ったのでしょうか。
それとも、自然に合わせて作ったのでしょうか?」

これ、かなりSSH的です。


野室への道では「人がいないこと」を教材にする

ここ、私はかなり重要だと思います。

伊根の舟屋は「人の営み」が目に入る。

ところが野室へ向かうと、だんだん人の気配が薄くなる。

そこで、

「さっきまで人の暮らしが濃かったのに、今は何が濃くなってきましたか?」

と聞く。

森林。
斜面。
沢。
谷。
植生。

すると、

人がいる/いない

ではなく、

人の暮らしと自然の境界がどう変化しているか

を見るようになる。

これは「自然、人、生業」という今回のテーマにぴったりです。


そして世屋川

ここからが、安田さんの真骨頂でしょう。(^.^)

世屋川を見つけたら、

「この川は、どこから来たでしょう?」

と聞く。

もちろん上世屋のさらに上。

そこで、

「では、私たちは今から、この川を逆上りしていきます」

と言う。

これだけで旅の意味が変わります。

伊根では海から山を見る。
世屋川では川を見ながら山へ入る。

そして最後は、

上世屋=川の源流側

に着く。

つまり、

海から山へ行く旅ではなく、
海から、川を逆流して、山の暮らしまで行く旅

になる。

これは相当強いです。

20220904_130844


バスから見える「変化」を5つだけ拾う

全部説明しようとしない方がいいと思います。

参加者に、

「今日は五つの変化を見つけてください」

と最初に言ってしまう。

例えば、

① 海の見え方

湾 → 外海 → 海が見えなくなる

② 山の距離

遠い山 → 迫る山 → 谷の山

③ 川

海 → 河口 → 川 → 沢

④ 土地利用

舟屋・漁業 → 集落・農地 → 森林

⑤ 人の気配

港 → 集落 → 道路沿いの暮らし → 山の暮らし

そして最後に、

「この五つは別々の話でしょうか?」

と聞く。

ここで参加者自身に、

「いや、全部つながっている」

と気づいてもらう。


さらに一歩、SSHするなら「変なもの」を探す

これ、安田さんらしくて面白いと思います。

車窓に、

  • 石垣
  • 石積み
  • 水路
  • 古い橋
  • 田んぼ
  • 放棄された農地
  • 杉林
  • 雑木林
  • 崩れた斜面
  • 防護柵
  • 堰
  • 小さな社
  • 道路脇の地蔵
  • 変わった地名

などが見えたら、

「あれ、何だと思います?」

で止める。

答えをすぐ言わない。

「分からない。だから調べる。」

これがSSH。


そして「上世屋」に着いたら、答え合わせをしない

ここが大事だと思います。

「今日見たものはこういう意味でした」

と先生が全部まとめてしまうより、

「伊根から上世屋まで来ました。
海から山まで、ずいぶん景色が変わりましたね。
でも、海と山は本当に別々だったでしょうか?」

と問い返す。

そして、

魚 → 人 → 舟 → 湾 → 川 → 田んぼ → 森 → 水

という循環を参加者自身に組み立ててもらう。


そして、最後に「砂」を一粒

これは安田さんのテーマにつなげられます。

上世屋で、

「ここにある土や石は、いつか川を下って海へ行くかもしれません。」

と。

さらに、

「伊根で見た海も、上世屋の山と無関係ではありません。」

ここで初めて、

山 → 川 → 海

を実感させる。

そして天橋立まで知っている人には、

「では、海へ出た土砂は、その後どうなるのでしょう?」

と次の問いを残す。

これで、

上世屋 → 世屋川 → 宮津湾・阿蘇海 → 天橋立

という、安田さんがずっと掘ってきた「山と海」の物語の入口まで持っていけます。

IMG_20260416_122723

ただし、ここでは**「世屋川が天橋立を作った」とは言わない**。
「山から海へ物質が運ばれる」という大きな仕組みを感じてもらうところまでで十分です。


そして、今回のツアーのタイトル、

「丹後 伊根・上世屋に自然、人、生業を訪ねる」

を、私はこう読み替えたいです。

「自然、人、生業を三つ別々に訪ねる」のではない。

むしろ、

自然が人の生業をつくり、
生業が景観をつくり、
人の営みがまた自然を変え、
その結果として今の丹後がある。

それをバスの窓から読み解く。

これなら、安田さんの役割は「伊根や上世屋を詳しく説明するガイド」ではなく、

「参加者が自分で丹後を読み始めるようにするガイド」

になります。

そしてこれ、昨日まで話していたカッパドキアにも直結します。

「岩がすごい」ではなく、
岩 → 水 → 人 → 暮らし → 生業 → 信仰 → 景観

を一つの風景として読む。

10月17日は、その丹後版SSHの実験日にできますね。(^.^)

【②天橋立も里山も、わたしには、「小さな花の歌」なのです、なので,長江の浜も、本庄の浜も、。「小さな花の歌」は流域のソウルソング!!なのです。】

IMG_9643

ああ……そういうことでしたか。(^.^)

天橋立も、世屋の里山も、長江の浜も、本庄の浜も、みんな同じ歌を歌っている。

それが、安田さんのいう「小さな花の歌」なのですね。

浜辺に立てば、砂がある。 山に入れば、土がある。 川をたどれば、水がある。 田んぼには、人が手を入れてきた時間がある。 そして、その一つひとつに、小さな生きものや草花が暮らしている。

一見、別々の景色です。でも、流域という大きなつながりの中で見れば、どれも同じ物語の一節になる。

「小さな花の歌」は、花だけの歌ではない。

山の水も、川の石も、浜の砂も、そこに暮らす人も、みんなが参加する歌。

だから、天橋立の白砂青松も、上世屋の棚田も、長江の浜も、本庄浜も、単独の名所として切り取るのではなく、流域の歌として聴くことができる。

そして、ここが大事だと思うのです。

流域のソウルソングは、誰かが作曲したものではない。長い時間をかけて、自然と人が一緒に歌ってきたもの。

その歌は、いつも同じ旋律ではありません。山の荒れ方も、川の流れも、海岸の姿も、人の営みも変わる。だからこそ、歌い継ぐには、耳を澄ませ、変化を感じ取り、次の世代に手渡す人が必要になる。

10月17日のツアーも、そう考えると、少し違って見えてきます。

img032

伊根の舟屋で、海辺の暮らしの節を聴く。 世屋川をさかのぼり、山の水と田畑の節を聴く。 上世屋で、森や棚田に残る、人と自然の長い掛け合いを聴く。

ガイドは、歌の意味を一方的に解説する人ではなく、参加者がそれぞれの耳で、その歌を聴き始めるきっかけをつくる人なのかもしれません。

そして、安田さんの言葉を借りれば――

天橋立を守ることは、天橋立だけを守ることではない。 その歌が生まれ、今も歌われている流域を大切にすること。

うん。これは、単なる自然観察のテーマを超えていますね。

「小さな花の歌」――流域のソウルソング。

この言葉、10月17日のガイドの心の中に、そっと置いておくとよさそうです。 説明のための標語にするより、参加者と一緒に景色を見ているとき、ふと口をついて出る。そんな言葉として。(^.^)

【①あいせよ天橋立丹後浦島ロードには天橋立の砂州の他に長江の砂浜、筒川の本庄浜があります、この形成過程についてそれぞれ気になっています、見当としては、長江の浜は背後の千石山との関係、本庄浜は太鼓山との関係、、とおもっていますが、解説いただけますか】
 宮津エコツアー · 海の京都・エコツアーガイドの初夢!

(↑ 宮津エコツアー 長江公民館から伊根、冠島 ※ 写真背後に千石山)

うむ……これは、かなり大事な視点だと思います。
そして調べてみると、安田さんの「長江浜―千石山」「本庄浜―太鼓山」という見立ては、少なくとも地形を読む仮説として筋がいいです。

ただし、ここでは一つだけ慎重にしたい。

「この山の砂が、その浜をつくった」と直ちに言うことはできない。

海岸の砂浜は、背後山地からの河川・小谷の土砂、海食崖からの供給、沿岸漂砂、波浪による再移動などが組み合わさってできます。
そのうえで、「背後の山―流域―浜」という一続きの系として見るのが面白いです。


まず三つを並べてみましょう

天橋立

世屋・波見・畑・野田川など
↓
河川による土砂供給
↓
宮津湾内の沿岸漂砂
↓
天橋立という大規模砂州

宮津市は、世屋川などから流出した砂礫が沿岸流で南下し、野田川の流れなどと関係して砂州を形成したと説明しています。京都府のレッドデータブックも、畑川・世屋川・波見川などからの砂礫供給を天橋立の維持に関係するものとして挙げています。

つまり天橋立は、「一つの山の前の浜」ではなく、かなり広い流域・湾のシステム。


では長江浜

ここが面白い。

長江は、宮津市養老地区の北側。

宮津市の資料には、かなりストレートに、

長江集落は千石山の東麓に位置し、東は若狭湾に面する

とあります。さらに、長江の背後の千石山は、かつて耕地として利用され、黍や豆などが栽培されていたことも記されています。

そして養老地区について宮津市は、

海岸部に砂浜が発達し、大島・岩ヶ鼻・長江集落が立地する

と説明しています。

ですから、まず地形として、

千石山
↓
山腹・谷
↓
長江の集落
↓
砂浜
↓
若狭湾

という「山―里―浜」の断面を考えることは十分できます。


ただし、ここで面白い問題が出ます

「千石山から出た砂が長江浜を作った」と言うには、

① 千石山の地質は何か?
② 山から海へ流れる小河川・沢はどこか?
③ そこに砂粒が実際に供給されているか?
④ 砂浜の砂の鉱物組成と山の岩石が一致するか?
⑤ 沿岸漂砂はどちら向きか?

まで調べなければなりません。

実は海上保安庁の環境脆弱性指標図を見ると、この長江周辺には砂浜・礫浜・砂礫混合浜が連続的に分布していることが読み取れます。千石山と長江・波見川の位置関係も一枚の地図で見えてきます。

だからここは、

「千石山が長江浜の“母山”なのか?」

という、非常に良いフィールドワークの問いになります。


そして本庄浜

道の駅 舟屋の里伊根 | 伊根町観光スポット | 海の京都観光圏

(↑ 本庄浜海水浴場 | 伊根町観光スポット | 海の京都観光圏 uminokyoto.jp|)

こちらはさらに面白いです。

本庄浜は、明確に筒川河口の砂浜です。

伊根町は、本庄浜について、

二級河川・筒川の河口に形成された漁港

と説明し、さらに

河口には砂浜が広がる

と明記しています。

つまり本庄浜の場合、

太鼓山
↓
筒川
↓
本庄沖積盆地
↓
筒川河口
↓
本庄浜
↓
若狭湾

という流れがかなり明瞭です。

しかも国土交通省の土地分類基本調査は、さらに重要なことを言っています。

筒川は太鼓山を源流とし、越山付近で支流と合流し、本庄浜で若狭湾に注ぐ。

そして筒川中流域には低位段丘が連続し、谷沿いに堆積地形が発達しています。

これは、安田さんの直感をかなり後押しします。


ただし「太鼓山→本庄浜」は、もう一段深くできます

単純に

太鼓山の砂が筒川を下って本庄浜になった

ではなく、

太鼓山という「集水域」

があって、

雨・雪
↓
太鼓山の斜面
↓
風化・崩壊
↓
細粒物・礫
↓
筒川
↓
本庄平野
↓
河口
↓
本庄浜

という地球の物質循環として見る。

伊根町の地域防災計画にも、本庄平野が**「筒川の堆積作用によってできた」沖積盆地**であることが記されています。

これは非常に重要です。

つまり本庄では、

太鼓山 → 筒川 → 本庄平野 → 本庄浜

という「山から海までの一連の堆積システム」がかなり見えやすい。


そして「砂」の正体を調べたくなる

ここからが、安田さんの「あいせよ」が本格的なSSHになってくるところです。

三つの砂を採って比べる。

① 天橋立の砂

→ 宮津湾・阿蘇海の漂砂系

② 長江浜の砂

→ 千石山・養老地区+沿岸漂砂系?

③ 本庄浜の砂

→ 太鼓山・筒川流域+若狭湾沿岸漂砂系?

そして、

「砂粒を見れば、どの山から来たのか分かるのか?」

を調べる。

顕微鏡で、

  • 石英
  • 長石
  • 黒雲母
  • 火山岩片
  • その他の岩片

などを比較する。

さらに可能なら、背後山地の岩石と比較する。


そうすると「あいせよ」が一段変わります

私はここがかなり好きです。

これまで、

あ=阿蘇海
い=伊根
せ=世屋
よ=与謝野

でした。

でも地形の側から見ると、

あ・天橋立

広域の砂のシステム

い・本庄浜

太鼓山―筒川―海

せ・長江浜

千石山―小河川・谷―海

よ・与謝野

大江山系―野田川―阿蘇海

と、

「山が違えば、海への砂の届け方も違う」

という読み方ができる。


そして、ここに「川裾さん」が効いてくる

さっきの話とつながります。

山で生まれたものが、

山
↓
川
↓
川裾
↓
浜
↓
海

へ行く。

自然科学では、

水・土砂・有機物の流れ

人間の文化では、

祓い・祭り・漁業・浦島・海上交通

が同じ「川の出口」に集まる。

だから私は、今回の三つの浜を、

「三つの砂浜」ではなく、「三つの山が海へ何を手渡しているかを見る窓」

として扱うのが、とても面白いと思います。


そして本庄浜には、もう一つ決定的なものがある

浦島です。

本庄浜は単なる「筒川の河口の砂浜」ではありません。

そこに、

太鼓山
↓
筒川
↓
本庄平野
↓
本庄浜
↓
浦島
↓
海の彼方

という文化の流れが重なる。

伊根町自身も、本庄浜を浦島伝承の地として説明していますし、浦島漁港の背後には浦嶋神社があります。

つまり、

太鼓山が筒川を生み、筒川が本庄浜をつくり、その浜に浦島の物語が置かれた。

――これは現時点では「形成原因と文化の因果」を断定できませんが、一つの景観を読む仮説としてはものすごく美しい。

そして長江なら、

千石山 → 長江 → 若狭湾

天橋立なら、

世屋・波見・野田川など → 宮津湾 → 天橋立

となる。

そうすると「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」は、観光ルートというより、

「山が海に砂を手渡す三つの物語を歩く道」

になってきます。

……いや、これは「天の真砂ライン」とかなり相性がいいですね。(^.^)

 【複合遺産として天橋立を世界遺産に、と言う場合、この二つを加えて、三つの砂浜を構成要素に出来ないか、とおもいました、その是非、可能性について意見くださいな】
IMG_20260311_143836

はい。私なら、かなり前向きに検討します。
ただし、「天橋立に二つの美しい砂浜を付け足す」では弱い。
逆に、

天橋立・長江浜・本庄浜という三つの砂浜を、山―川―海の地形形成過程と、それに重なった人間の信仰・生活・物語を示す“連続する構成資産”として提示する

なら、世界遺産論としてかなり面白い可能性があります。

そして重要なのは、これは通常の意味での「複合遺産」だけでなく、「シリアル・プロパティ(連続資産)」という考え方が非常に相性がよいことです。


まず、世界遺産制度上は「できる」

UNESCOには、離れた複数の場所を一つの世界遺産として扱うシリアル・プロパティがあります。

その場合、

  • 複数の構成資産がある
  • それらを結ぶ明確な関係がある
  • 各構成資産が全体の顕著な普遍的価値(OUV)に実質的に貢献する
  • 全体として一つの価値を示す
  • 一体的な管理ができる

ことが重要です。UNESCOの作業指針は、地質・地形形成、景観、生態系、文化・社会・機能的なつながりなどを、構成資産を結ぶ関係として認めています。

ですから、

天橋立
+ 長江浜
+ 本庄浜

という発想自体は、制度上まったく突飛ではありません。

むしろ、三つを入れる理由が科学的に明瞭なら、シリアル方式は理屈に合います。


そして、私は「三つだからこそ」意味が出ると思います

一つだけなら、

「天橋立は美しい砂州です」

で終わります。

ところが三つ並べる。

① 天橋立

広域的な砂のシステム

山地・河川から供給された土砂が湾内で移動し、沿岸漂砂などによって巨大な砂州を形成する。

↓

② 長江浜

千石山―谷―海という小規模な砂浜システム

↓

③ 本庄浜

太鼓山―筒川―河口―海という河川性の強い砂浜システム

すると、

「丹後の砂浜はどうやってできるのか?」

という比較研究ができる。

これが大きい。


特に本庄浜は「構成資産候補」として面白い

本庄浜については、筒川が太鼓山を源流とし、本庄浜で若狭湾に注ぐという地形的なつながりが確認できます。また、本庄平野自体が筒川の堆積作用による沖積地形として説明されています。

つまり、

太鼓山
↓
風化・侵食
↓
筒川
↓
土砂運搬
↓
本庄平野
↓
河口
↓
本庄浜
↓
若狭湾

という一本の地形システムがかなり見えます。

そしてその同じ場所に、

筒川
→ 本庄
→ 浦島
→ 浦嶋神社
→ 海

という文化・信仰・文学の系統が重なる。

これは、自然と文化の双方を説明できる構成資産になり得ます。


長江浜は、むしろ「比較対象」として価値がある

長江浜では、

千石山
↓
谷・小河川
↓
長江集落
↓
砂浜
↓
若狭湾

という小さな流域―海岸システムを検証できる。

ただし、ここは本庄浜より慎重に。

現時点では、

「千石山が長江浜の砂を供給した」

とまでは言えません。

だから世界遺産研究としては、

山の岩石
→ 河川・沢の堆積物
→ 浜の砂
→ 海岸漂砂

を粒径・鉱物組成・岩石種などで調べる必要があります。

もし、

「長江浜の砂の構成が、背後山地・流域の地質と明確につながる」

ことが示せたら、ぐっと強くなる。


そして天橋立が「親玉」になる

ここが一番重要でしょう。

三つを同格の「砂浜」として並べるのではなく、

長江浜

小さな流域 → 小さな砂浜

本庄浜

筒川流域 → 河口砂浜

天橋立

複数流域+湾内沿岸漂砂 → 巨大砂州

とする。

すると天橋立は、

「丹後の砂浜形成システムを理解する上で、極めて発達した代表例」

という位置づけになります。

つまり、

小 → 中 → 大

という比較ができる。

これ、世界遺産の説明としてかなり強いと思います。


さらに「複合遺産」にするなら、文化側が必要

ここが勝負です。

単に、

「三つとも砂浜です」

なら自然遺産の議論に近い。

ところが、

天橋立

白砂青松
籠神社・成相寺・智恩寺
絵画・文学
「日本三景」
海上他界観

本庄浜

筒川
浦島伝承
宇良神社
海上他界・異界

長江浜

山・海の暮らし
養老地域の生業
海岸集落・漁業

そしてさらに、

川裾信仰

を加える。

すると、

「山から海へ流れる水・土砂を、人々は自然現象として利用するだけでなく、祈り・伝承・生業・景観として文化化してきた」

というテーマが見えてきます。

これは文化景観の議論とも接続できます。UNESCOは、人間と自然環境との相互作用を示す文化的景観を世界遺産の対象として認めています。


実は、文化庁の過去の評価とも響きます

日本遺産取り消しの「西の都」 整備と観光事業化に課題 | 毎日新聞

(↑ 日本遺産取り消しの「西の都」 整備と観光事業化に課題 | 毎日新聞 mainichi.jp)

ここは重要です。

文化庁は過去に、

「天橋立-日本の文化景観の原点」

という提案を評価しています。

その際、

日本を代表する「白砂青松」の景勝地
日本人の美意識の形成過程
海浜の風致景観

という価値を認めつつ、顕著な普遍的価値を国際的に証明するには、さらに世界史的・国際的な研究が必要という評価をしています。

つまり、ここに安田さんの今回の発想を入れる余地がある。

従来、

「天橋立という日本的景観の価値」

を中心にしていたものを、

「丹後の海岸地形そのものと、それを読み、祈り、利用してきた人間の文化」

へ広げるわけです。


ただし、「複合遺産」と呼ぶには大きな壁が一つ

ここはかなり冷静に言っておきたいです。

三つの砂浜を加えれば複合遺産になる、というものではありません。

複合遺産なら、

  • 自然遺産としてのOUV
  • 文化遺産としてのOUV

の双方を、それぞれ国際比較の中で証明する必要があります。

自然側なら例えば、

criterion (viii)
顕著な地形形成過程・地質現象

あるいは、

criterion (ix)
沿岸・河川・海洋生態系の進化・生態過程

などの可能性。

文化側なら、

criterion (iii), (v), (vi)

などの検討が考えられます。

ただし、どの基準が本当に成立するかは、国際比較研究をしてからです。


だから私は「三つの砂浜」を最初から世界遺産の結論にしない方がいいと思う

むしろ、

「三つの砂浜比較研究」

を先にやる。

これが面白い。

例えば、

構成要素 背後 水系 海岸 文化
天橋立 世屋・野田川等 複数河川 宮津湾・阿蘇海 聖地・景観・文学
長江浜 千石山 小河川・谷 若狭湾 海村・生業
本庄浜 太鼓山 筒川 若狭湾 浦島・海上他界

そして、

「三つの砂浜は、それぞれどの山・どの川・どの海の作用によって形成されたのか?」

を科学的に解く。

さらに、

「その場所を人々はどう呼び、どう祈り、どう使い、どんな物語を与えたのか?」

を文化史で解く。

これが一本になった時、

「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」

そのものが、単なる観光ルートではなく、

「山から海へ――砂・水・生物・人・信仰が移動する一つの地域システム」

として説明できる。


そして私は、ここに「複合」以上の可能性を見る

安田さんがずっと言っている、

「この景色の中に、地球の物語がある」

ですよね。

三つの砂浜を入れると、天橋立だけを「見る」のではなくなる。

天橋立を見る
→ 本庄浜を見る
→ 長江浜を見る
→ 背後の山を見る
→ 川を見る
→ 河口を見る
→ 砂を見る
→ もう一度、天橋立を見る。

これができる。

しかもUNESCOのシリアル・プロパティは、まさに各構成資産が単独ではなく、全体としてOUVを形成するという考え方です。


私なら、現段階ではこう位置づけます

「天橋立を中心とする単独の文化景観」

から、

第一段階

天橋立+長江浜+本庄浜の三砂浜比較研究

↓

第二段階

山―川―浜―海の地形形成システムを科学的に証明

↓

第三段階

その自然システムと、信仰・生業・浦島・景観美・文学との関係を証明

↓

第四段階

「丹後の山と海が共同で生み出した文化・自然景観」というOUVを組み立てる

という順番がいいと思います。

そして面白いことに、日本の現在の正式な暫定一覧表には天橋立は入っていません。文化庁の現在の一覧は3件で、天橋立は2006~08年の追加提案の段階で「天橋立-日本の文化景観の原点」として検討された候補です。

だからこそ、もし将来もう一度「天橋立」を世界遺産候補として組み立て直すなら、

「天橋立そのものを世界遺産にしてください」

ではなく、

「なぜ丹後のこの海岸景観は、人類にとって重要なのか。その答えを、三つの砂浜から山へ遡って証明する」

というところから始める。

……私は、こちらの方が安田さんの「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」の思想にずっと忠実だと思います。(^.^)

そして次にやるなら、かなり具体的です。
「天橋立・長江浜・本庄浜」の3地点について、①砂の供給源、②河川、③沿岸漂砂の向き、④浜の形成年代、⑤砂粒の鉱物、⑥文化・信仰、⑦保全上の課題を一枚の比較表にする。
これをやると、世界遺産の「夢」が、かなり検証可能な研究計画に変わってきます。

 【天橋立を世界遺産に、それは宮津市、与謝野町、伊根町共同の運動としてスタートしています、宮津市の橋北地域、伊根町の本庄筒川地域の砂浜に着目すれば、運動の幅、深まりが期待できるのではないかと考えましたよ】

20221117_200359親分

はい。私は、その発想は「運動の幅を広げる」だけでなく、2007年に始まった共同運動の本来の地理的な意味を、もう一度掘り起こす提案になり得ると思います。

実際、京都府・宮津市・伊根町・与謝野町は2007年に共同で「天橋立-日本の文化景観の原点」を文化庁へ提案しており、文化庁も所在地をこの3市町にまたがる資産として評価しています。提案は暫定一覧表には入らなかったものの、「提案書の基本的主題を基に準備を進めるべきもの」とされ、その後も4者で取り組みが続いています。

ですから、安田さんの今回の考えは、

「天橋立を宮津市の一点から、三市町にまたがる“山―川―浜―海―人”の景観として再構成する」

ということですよね。

これはかなり筋が通っています。

特に「橋北」と「本庄筒川」を入れる意味

面白いのは、両方とも天橋立から離れた“別の観光地”を追加するのではないことです。

宮津市・橋北

  • 長江浜
  • 千石山
  • 山から海への小さな土砂供給系
  • 海村・暮らし

伊根町・本庄筒川

  • 太鼓山
  • 筒川
  • 本庄平野
  • 本庄浜
  • 浦島伝承・宇良神社
  • 海への出口

そして中央に、

天橋立

  • 複数流域
  • 宮津湾
  • 沿岸漂砂
  • 巨大な砂州
  • 白砂青松
  • 聖地・文学・絵画

がある。

つまり、

「三つの砂浜を守る」のではなく、「三つの砂浜を生み出した山と海の関係を一つの物語として守る」

わけです。

ここが決定的に違います。


さらに、三市町の共同運動との相性がいい

2008年の提案で文化庁が課題として示したのは、単に「天橋立が美しいか」ではなく、白砂青松が世界史的・国際的に見て顕著な普遍的価値を持つことの証明、さらに周辺の構成資産・要素の保護などでした。

だったら今度は、

天橋立だけを世界的に説明しようとする

のではなく、

「なぜ、この丹後北部に、このような砂浜・砂州が生まれ、それがなぜこれほど濃密な文化を生んだのか?」

という問いに変えてしまう。

これは「世界遺産登録のために範囲を広げる」のではなく、価値を説明するために範囲が必要になるという順番です。

私はこちらが大事だと思います。


そして「あいせよ」が、ここで効いてくる

これまで安田さんと話してきた

あ=阿蘇海
い=伊根
せ=世屋
よ=与謝野

という枠組み。

ここに今回の砂浜を置くと、

長江浜
→ 千石山
→ 海

本庄浜
→ 太鼓山
→ 筒川
→ 本庄浜
→ 浦島
→ 海

天橋立
→ 複数の流域
→ 宮津湾
→ 沿岸漂砂
→ 砂州

となる。

つまり「あいせよ」は、

天橋立を中心に周辺観光地を束ねる名前

ではなく、

丹後の山が、川を通して、どのように海と砂をつくってきたかを読むためのフィールド

になってくる。

これなら伊根町の本庄筒川地区の人にも、

「なぜ天橋立の世界遺産なの?」

ではなく、

「本庄浜も、自分たちの筒川も、その物語の一部なんだ」

という入口ができます。


ただし、私は「構成資産にする」と今すぐ決めない方がいいと思います

ここは研究として慎重に。

最初は、

「三つの砂浜を世界遺産構成資産候補として調査する」

くらいがちょうどいい。

そして、

  1. それぞれの浜の形成過程
  2. 背後山地の地質
  3. 河川からの土砂供給
  4. 沿岸漂砂の方向
  5. 砂粒の鉱物組成
  6. 浜の形成・変化の年代
  7. 河口・川裾信仰
  8. 海村の暮らし
  9. 浦島・聖地・文学などの文化
  10. 現在の保全問題

を比較する。

そこで本当に、

「三つの砂浜は、丹後の山―川―海システムを代表する三つの異なるタイプである」

と証明できたら、初めて世界遺産の構成資産としての議論が現実味を帯びてくる。


.trashed-1785229342-IMG_20260606_134411_1

そして、ここに私はもう一つ大きな意味があると思います。

今の「天橋立を世界遺産に」は、

「この美しい天橋立を、世界の宝に」

という方向が強い。

そこに、

「いや、天橋立は天橋立だけで生まれたんじゃない。
千石山から長江へ、太鼓山から筒川へ、世屋から宮津湾へ、山々が海へ砂を手渡してきた。その全体を見て初めて天橋立が分かる。」

という視点を入れる。

そうすると、世界遺産運動が**「天橋立を登録する運動」から「丹後の自然と文化を一緒に見直す運動」へ成長する**可能性があります。

これは、以前おっしゃっていた、

「天橋立を世界遺産にすることが目的ではなく、天橋立を入口に丹後の未来を考える」

という考え方とも、ものすごくきれいにつながります。

そして何より――

宮津・与謝野・伊根の三者が、実際の地形そのもので一本につながる。

これは単なる行政区域の「共同」より、一段深い共同になるんじゃないでしょうか。(^.^)

【、、!否定的な意味じゃないですよ、よっしゃあ、、あいせよ天橋立丹後浦島ロード、、、なら,,と言う意味の刺激ですよ(^.^)、】
사암 카파도키아 네 브 세 힐 성 터키의 아나톨리아 지역 아시아에서 협곡에 언덕의 인상적인 Fungous 모양 자연 컨셉 배경의 ...

(↑ 사암 카파도키아 네 브 세 힐 성 터키의 아나톨리아 지역 아시아에서 협곡에 언덕의 인상적인 Fungous 모양 자연 컨셉 배경의 …

いやあ、分かります。(^.^)
その「ぎょっ」は、カッパドキアがすごかっただけではないんですよね。

むしろ、

「あれ? これ、天橋立でもできるじゃないか」

という、ちょっと危険な(笑)刺激だったんだと思います。

そして、番組ディレクターの腕に「ぎょっ」とした、というのも重要です。

景勝地を「説明」していない

カッパドキアなら、

「奇岩があります」
「洞窟があります」
「世界遺産です」

だけでは終わらない。

なぜこの大地になった?
↓
人はなぜここに住んだ?
↓
岩をどう使った?
↓
信仰はどう生まれた?
↓
農業とどうつながった?
↓
今の人々はこの景観をどう生きている?

と、視聴者の頭の中に一本の因果関係を組み立てていく。

だから、見ている側は、

「へえ、奇岩ってすごい」

ではなく、

「待てよ……この景観そのものが、一冊の本じゃないか」

となる。

これが「ぎょっ」だったのではないでしょうか。


そして、ここで天橋立が急に怖くなる(笑)。

なぜなら天橋立も、本当は、

砂州

という一言では全然終わらない。

砂の供給源は?

山は?

川は?

海流は?

季節風は?

阿蘇海は?

与謝海は?

伊根の海は?

人はどう暮らした?

なぜ籠神社がここに?

なぜ真名井がここに?

なぜ冠島・沓島が神の島になった?

なぜ浦島が丹後にいる?

なぜ雪舟がここを描いた?

なぜ俳諧・和歌がここに集まった?

なぜ日本三景になった?

そして近代には、なぜ軍港・軍事景観がこの海域に重なった?

さらに現在、

山はどうなっている?
シカは?
川は?
砂は?
天橋立は100年後どうなる?

……。

おいおい、カッパドキアに負けてないぞ、となる。(^.^)


ただし、ここで安田さんの「あいせよ」が効いてくる。

天橋立だけを「カッパドキアのように磨こう」とすると、たぶん小さくなる。

でも、

あ 阿蘇海
い 伊根
せ 世屋
よ 与謝野

まで含めて、

天橋立を一つの入口にする。

さらに、

冠島・沓島
浦島
真名井
籠神社
成相寺

まで、見えたり見えなかったりする「仲間たち」としてつなぐ。

そうすると、

天橋立という景勝地

ではなく、

天橋立から丹後という巨大な自然・文化・歴史のシステムを読む

になる。

これなら、カッパドキアを見て受けた刺激を、そのまま天橋立に移植するのではなく、丹後版に翻訳できる。


そして、私は今回の「波せき地蔵」と「冠島・沓島」の話が、まさにその実例だと思います。

普通なら、

「真名井神社があります」
「地蔵があります」
「冠島があります」

で終わる。

ところが「あいせよ」なら、

701年、大地が揺れた。

海が押し寄せたという伝承がある。

一方、海の彼方には「沈んだ山の頂」と伝えられる二つの島がある。

本当に何が起きたのか?

地形学は何を言う?
古文書は何を言う?
神話は何を言う?
地名は何を言う?

となる。

「答え」を展示するのではなく、「謎」を展示する。

これ、世界遺産の見せ方としてもかなり違います。

有働イノッチの探険!世界遺産を観る | Prime Video


そして、安田さんが最初から言っていた、

「この景色の中に、地球の物語がある。」

が、ここで効いてくる。

カッパドキアを見て、

「すごい景色だ」

ではなく、

「この景色を、こんなふうに“読ませる”のか!」

とディレクターの腕に驚いた。

だから「天橋立を世界遺産に!」という発想そのものが刺激されたというより、

「世界遺産になるかどうか以前に、天橋立には、まだこんなに“読まれていない物語”があるじゃないか」

という刺激だったのではないでしょうか。

そして、そこから、

よっしゃあ――

あ・い・せ・よ・天橋立丹後浦島ロード!

なんですよね。(^.^)

これは「天橋立を世界遺産にするための観光ルート」ではなく、

世界遺産級の景観を、どうすれば人間が“考えながら歩ける”のか。

その実験場として見えてきた。

IMG_20260912_223741[1]

……そう考えると、8月の沖縄高校生SSH → 9月のカッパドキア → 今の「ひは火か、日か」→ 波せき地蔵 → 冠島・沓島。

全部、一本につながってきましたね。

「見えないものをみる」から始まったんじゃなくて、
「見えないものをみせるには、どう仕掛けるか」まで来ている。

そこが今回の「ぎょっ」の、本当の中身なのかもしれません。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

有働・イノッチの探検世界遺産

テレビ朝日

【真名井神社の鳥居前、参道脇に「真名井原 波せき地蔵堂」があります。現地案内板に伝わる話では、大宝年間(701~704年ごろ)、大地震によって大津波が押し寄せ、それをここで「切り返した」、、**あわせて、冠島・沓島はこの地震で陥没した山の先っぽと丹後風土記は伝える、あいせよ天橋立丹後浦島ロードに伝わる二つのその謎、、さて、どう解いていきましょうか】

波せき地蔵堂 - お地蔵さんブログ

はい。ここは、かなり面白いところまで行けます。
私はこの二つを、

① 真名井の「波せき地蔵」=海から陸へ押し寄せたものの記憶
② 冠島・沓島=陸そのものが海へ沈んだという記憶

として、**同じ701年の出来事に結びつけてよいのか?**から解いていきたいです。

そして、実は最初に一つ、非常に大事なことが見えてきました。


まず、確実に言える「芯」が一つある

701年、大宝元年3月26日、『続日本紀』には、

「丹波国地震三日」

とあります。
これはかなり重要です。後世の伝承だけではなく、国家の正史に701年の丹波国の地震が記録されている。

ただし、『続日本紀』には、

  • 津波
  • 凡海郷の水没
  • 冠島・沓島
  • 波せき地蔵

は書かれていません。

ここから先が「謎」です。


① 「凡海郷」の謎

『丹後国風土記残欠』の「凡海郷」条では、話が一気に大きくなります。

大宝元年の地震が三日続き、

「此里一夜にして蒼海と為る」

そして、

「郷中の高山二峯と立神岩」だけが海上に出た

と記す。さらに、それを「常世嶋」、俗に男島・女島と呼び、それぞれに天火明神・日子郎女神を祀った、と続きます。

これが、現在の冠島・沓島の沈島伝説と結びつけられている。

ところが、ここで一歩止まる。

『丹後国風土記残欠』自身は、現在の「冠島」「沓島」という名前を書いていない。

「高山二峯」「立神岩」「常世島」「男島・女島」です。

現在の冠島・沓島との同定は、後世の解釈・伝承の積み重ねとして扱う必要があります。

しかも京都府レッドデータブックは、地質学的には両島は中新世の安山岩類などからできており、「701年の地震で巨大な島が沈み頂部だけが残った」という風土記の記事について、その記述から想定されるほどの巨大地変だったとは考えにくいとしています。

ここ、ものすごく大事。


② では「波せき地蔵」は?

こちらはさらに慎重にしたい。

現地の伝承は、

大宝年間の大地震で大津波が押し寄せ、ここで「切り返した」

というものです。現在の地蔵堂の説明にもそう伝わっています。

ところが、京都府防災関係の資料では、大宝年間の地震について津波を直接記録する同時代史料は確認されていないこと、また波せき地蔵についても制作・設置時期は不明で、江戸時代以降の制作とする見解が紹介されています。

つまり、

701年地震 → 津波 → 波せき地蔵

という一本の鎖は、現段階では「証明済み」ではない。


ところが、ここからが面白い

安田さんの「あ・い・せ・よ」なら、私はこの二つを競わせるんです。

A 陸が沈んだ

大宝地震
↓
凡海郷が蒼海となる
↓
高山二峯・立神岩だけが残る
↓
男島・女島
↓
冠島・沓島?

B 海が陸へ来た

大宝地震
↓
大津波?
↓
真名井原まで波が来る
↓
波せき地蔵で「切り返す」

つまり、

「海が陸を奪った」

という記憶と、

「陸が海を押し返した」

という記憶。

これ、すごく美しい対になっているんです。


そして、さらに一段深い問い

私はここで、高校生にこう聞きます。

「同じ701年の話なのに、なぜ片方は“沈む話”で、片方は“押し返す話”なのだろう?」

ここから地学班と歴史班に分かれる。

地学班

「冠島・沓島は本当に一つの島だったのか?」

→ 海底地形
→ 岩石
→ 断層
→ 海食崖
→ 海底地形図

を調べる。

現在の京都府資料では、両島東側に比高60m以上の急崖があり、南北走向の断層が推定されています。一方、両島は中新世の火山岩類からなることも確認されています。

津波班

「真名井まで津波が来たなら、何が残る?」

→ 津波堆積物
→ 砂層
→ 泥層
→ 標高
→ 海岸線
→ 谷の形

を調べる。

文献班

「701年に本当に何が書かれている?」

→ 『続日本紀』
→ 『丹後国風土記残欠』
→ 『縁城寺年代記』
→ 後世の地蔵伝承

を年代順に並べる。

すると、ものすごく大切なことが見えてくる。


「史料の時間軸」がバラバラなんです

701年の地震そのものは、『続日本紀』という比較的古い史料に出てくる。

一方、

**凡海郷の沈没記事を載せる『丹後国風土記残欠』は、現存する写本が中世以降の伝来で、その成立自体について研究上の議論があります。**国立国会図書館にも、この文献を「古風土記に仮託した後世の偽書」と分類する書誌情報があります。一方、2013年にはこの文献そのものを基礎的に検討した研究もあります。つまり、史料価値を一刀両断できるような単純な問題ではありません。

そして、

波せき地蔵の現在の伝承はさらに後代のもの。

だから、

701年
↓
地震
↓
津波
↓
地蔵

を一本の「事実の鎖」にしてしまうのではなく、

701年の地震という記憶が、後世の丹後でどのように語り継がれ、場所に刻まれていったのか

を見る。

これは、かなり強いSSHになります。


そして……「天火明命」がまた出てくる

沓島 | 冠島・浅グリのダイビングサービス音海ベース

(↑ 沓島 | 冠島・浅グリのダイビングサービス音海ベースotomi-base.com)

ここが、さっきの話とつながってしまうんですよ。

『丹後国風土記残欠』の凡海郷の記事では、男島・女島の祠に祀られている神として、

天火明神

が登場する。

さっき安田さんと話していた、

「ひ」は日か、火か?

ですよね。

ここに、

火明
↓
男島・女島
↓
海上の島
↓
海を渡る人々
↓
真名井
↓
波せき地蔵

がつながってくる。

もちろん、これを「だから古代航海の灯火だった」と断定するのはまだ早い。

でも、同じ丹後の海の文化圏で、「火明」という神名と海上の島の祭祀が結びついていることは、確かに面白い事実です。


私なら、この二つの謎をこういうタイトルにします

「沈んだ島」と「押し返した波」

そして、その下に、

大宝元年、丹後の海で何が起きたのか?

と置く。

そして最後に高校生へ、

「地震は本当にあった。
では、何が起きた?」

と投げる。

すると、

地震 → 沈降? → 津波? → 液状化? → 地すべり? → 海岸変化? → 伝承

と、いろんな仮説が出る。

そして最終的には、

「まだ分からない」

でもいい。

むしろ、

「分からないことが、ここまで残っている」

こと自体が丹後の価値なんじゃないでしょうか。


そして、安田さんのロードにとって決定的なのはここだと思います。

真名井の波せき地蔵は、陸から海を見る物語。

冠島・沓島の沈島伝説は、海から陸を見る物語。

この二つを一本の線で結ぶと、

真名井 ― 阿蘇海 ― 天橋立 ― 伊根 ― 冠島・沓島

という「一つの景観」が、700年代の災害記憶まで含んだ海の世界として立ち上がってくる。

そして、これは「あ・い・せ・よ」のロードにとって、かなり強い**「見えない展示物」**になりそうです。

地蔵も島も、動かない。
でも、その二つの間を「地震・海・人の記憶」が1300年かけて動いてきた。

……これは、かなり「なんとなあ!!」です。(^.^)

 【② ありがとう、、若狭湾の沈降海岸地形形成の過程で出来た地形、という視点はいかがですか!】

海岸地形

(↑ 海岸地形pa.animalia-life.club|)

はい。私はその視点をかなり有力な「地形の大きな背景」として置きたいです。

ただし、ここでは二つを分けると、とてもきれいに整理できます。

「701年に冠島・沓島が沈んだ」のではなく

もっと長い時間軸で、

若狭湾・丹後半島一帯は、地殻変動と海面変化によって、山地の谷や低地に海が入り込んだ「沈降海岸」の景観をつくってきた。

その結果として、

山地の尾根・高まり → 島・岩礁として海上に残る

という地形が生まれる。

冠島・沓島のような孤立した岩体を、まずこの長期的な地形形成史の中に置く。

そのうえで、

「この特徴的な海岸地形を、古代の人々はどう理解したのか?」

と進む。

すると『丹後国風土記』の

「郷中の高山二峯、海中に出でたり」

という「沈んだ山の頂だけが残った」という物語が、非常に興味深く見えてくる。

地形そのものの形成史と、
人間がそれを説明した物語を重ねられるわけです。


そして「波せき地蔵」も同じ地形の上に置ける

ここが、安田さんの二つの謎が一つになるところだと思います。

若狭湾はリアス海岸的な複雑な海岸線を持ち、丹後半島にも海食崖、入り江、岬、島嶼が連続します。

つまり、

山が海に迫る。

その山地の一部が海面上に残れば、

島・岩礁・岬

になる。

一方、谷に海が入り込めば、

湾・浦・潟

になる。

そしてそこへ河川が土砂を運び、

砂州・砂嘴・潟湖

が発達する。

これが、まさに安田さんがずっと追っている

山 → 川 → 海 → 砂 → 天橋立

の大きな地形システムです。

だから、

冠島・沓島

「山が海に残った姿」

天橋立

「山から海へ運ばれた物質が、海の作用で形を変えた姿」

と見ることができる。

もちろん、冠島・沓島の形成と天橋立の形成を同じプロセスだと言ってはいけません。

でも、同じ丹後・若狭の地形発達史の中で、まったく違う二つの景観が生まれている。

これはものすごく面白いです。


すると「701年」の意味も変わる

ここが大事です。

701年の地震を、

「この年に若狭湾が沈降して、冠島・沓島ができた」

とは考えない。

そうではなく、

すでに長い時間をかけて形成されていたこの複雑な海岸地形を、人々が「大地震によって山が沈み、二つの頂だけが残った」と語った。

という読み方です。

これは、伝承を否定していません。

むしろ、

地形 → 人間の驚き → 神話・伝承

という順序を考えることができます。


そして、ここで「波せき地蔵」が効いてくる。

沈降海岸の山と海

に対して、

「波がここまで来た」

という人間側の記憶が置かれる。

つまり、

海が山を抱え込んだ景観

と

海が山へ押し寄せた記憶

が、真名井~冠島・沓島という同じ海域に残っている。

これは、かなり美しいですよ。


そして「あ・い・せ・よ」のSSHなら……

私は高校生に地図を一枚渡して、

「冠島・沓島は、なぜここにある?」

と聞きます。

次に、

「真名井原まで、なぜ『波せき』という伝承がある?」

そして、

「天橋立は、なぜここにある?」

三つを別々に調べさせる。

最後に重ねる。

島――湾――砂州。

すると、

「若狭湾・丹後の地形は、山と海のせめぎ合いの結果としてできている」

というところまで、高校生自身がたどり着ける。

そして最後に、

「では、701年の地震は何を起こしたのだろう?」

と戻る。

ここで初めて、地震伝承を地形学の問いとして扱える。

私は、この順番がいいと思います。

伝承を地学で否定するのでも、伝承をそのまま史実にするのでもない。
地形を見て、伝承を読み、もう一度地形を見る。

これこそ、安田さんの言う

「この景色の中に、地球の物語がある。」

そのものじゃないでしょうか。

 【① 見えないものをみる、それがSSH!さて、率直な疑問、鎖国政策をとった江戸幕府の日本三景は、殖産興業富国強兵を掲げる明治新政府にとって相性が良かった、それがために教科書に載せた、、とりわけ、富国強兵の部分、松島の近くに釜石鉄工所、天橋立に隣接する軍港舞鶴、さらに栗田飛行場、宮島の近くに広島みら江田島呉にも軍事基地、、セットとして扱われていた節を感じます、広島に原爆、舞鶴にも原爆模擬爆弾、さらに伊根湾では待避していた軍艦が攻撃されています、世屋高原や冠島、空山にもうけられていた特設見張り所も用をなさず、、そして、引き上げてこられた方々を最初に迎えたのが丹後の禿げ山と化した丹後の山々、、「あいせよ天橋立丹後浦島ロード、、、」構想は、その整理をどう図るか、あらためて意見を下さいな、 】
宮津空襲(宮津市)

はい。ここはまさに「見えないものを見る」SSHの核心だと思います。

ただ、まず一本だけ線を引きたいです。「日本三景そのものが明治政府の富国強兵政策のために選ばれ、教科書に載せられた」ことは、現段階ではそのまま史実として一本につなげない方がいい。江戸期以来の三景の評価、明治以降の国家的景勝地化、学校教育、軍事地理、産業立地が、重なっていったと見るのが堅いです。

そのうえで、安田さんの「セットとして扱われていた節」は、かなり面白い研究テーマになります。

私なら、こう整理します

① 江戸――「見る日本三景」

松島・天橋立・宮島は、近世までに「日本を代表する名勝」という文化的な枠組みを獲得した。

ここでは、

美しい国土を発見する視線

が中心です。


② 明治――「国土を表象する日本三景」

明治国家になると、学校教育・博覧会・旅行・鉄道・写真・地誌などによって、名勝が全国的に共有される。

ここで、

「日本には、これほど美しい場所がある」

という国土認識が、国家的な教育・観光・文化政策と接続していく。

ここまでは「富国強兵」を直接の目的と断定するより、近代国家が国土を可視化し、国民に共有させる過程として捉えるのがよいと思います。


③ ところが同じ地図の上に「富国強兵」が載ってくる

ここが、安田さんの発見です。

松島の近くには釜石という近代製鉄の重要拠点。

天橋立のすぐ西には、1901年開庁の舞鶴鎮守府。

その周辺には舞鶴の軍港・造船・兵站施設が形成される。

宮島の周辺には呉・江田島・広島という巨大な軍事・海軍拠点。

さらに丹後では栗田飛行場など、戦時下の軍事施設が加わる。

すると地図が、

「日本三景」

だけではなく、

「日本三景+近代国家の軍事・産業地理」

として見えてくる。

ここが「見えないものを見る」なんですね。


そして、私は「三景」を一本の線で結ぶより、「二重の地図」にしたい

表の地図

松島 ― 天橋立 ― 宮島

=

美・名勝・国土・日本文化

裏の地図

釜石 ― 舞鶴 ― 広島・呉・江田島

=

鉄・造船・軍港・兵器・兵站・航空・防衛

この二枚を重ねる。

すると、

「美しい国土を代表する場所」と、「近代国家が海を制するための場所」が、必ずしも別世界ではなかった

ことが見えてきます。

ただし、ここでも「三景だから軍事化された」という因果関係ではなく、近代国家の国土認識と軍事・産業政策が、同じ海岸・湾・港湾空間に重なったと考える方が強いです。


そして丹後では、さらに怖いほど具体的になる

舞鶴。

栗田。

伊根。

世屋。

冠島。

空山。

これを点で見ると、ただの「戦争遺跡」です。

ところが線で結ぶと、

軍港を守るため、海を監視し、湾を監視し、山から海を監視する

という軍事景観になる。

そして以前調べた特設見張所の話がここへ入る。

経ヶ岬
上世屋
冠島

などに置かれた見張りの仕組み。

ここには、非常に象徴的な方向があります。

戦時国家の視線

山 → 海を見る

です。

山に登り、海を監視する。

島に人員を置き、船を監視する。

空から見張る。

軍港を守る。


ところが1945年、全部が破綻する

ここは事実関係を一つずつ確認しながら扱うべきところですが、安田さんが挙げた事象は、別々に並べるより**「戦時景観の終焉」**として見ると非常に強くなります。

広島への原爆。

舞鶴にも投下予定だった原爆模擬爆弾による攻撃。

伊根湾に停泊・避難していた艦船への空襲。

そして、山や島に設けられた監視施設が、結果として戦争の帰趨を変えることはできなかった。

ここで、

「見張ること」と「見ること」は違う。

という問いが立つ。

軍事施設は「敵を見る」ために作られた。

しかしSSHは、

「その施設が置かれた土地そのものを見る」。


そして私は、「禿げ山」を最後に置きたいです

ここが、ものすごく重要です。

戦争が終わった。

兵士が帰ってくる。

海外から引き揚げてきた人々を迎える。

そのとき彼らが目にした丹後が、

軍港でも、見張り所でも、飛行場でもなく、
木を失った山々だった。

という記憶。

これは単なる「戦争遺跡」の話ではありません。

戦争が生態系に残した痕跡です。

木材需要、燃料、軍需、戦時の資源動員、生活物資不足……複数の要因を一つにまとめて「戦争で禿げ山になった」と断定するのは避けるべきですが、戦中・戦後の森林荒廃と、その後の復旧造林を含めて検証する価値があります。

そしてここで、安田さんの現在のテーマが突然つながる。


1945年の丹後の山 → 現在の世屋

昔の人が見たのは、

「木のない山」

だった。

今、私たちが見るのは、

「木のある山」

です。

しかし、その森には、

シカの食害
下層植生の消失
水源涵養
湿地の変化
土壌
土砂流出

という別の問題がある。

つまり、

戦争が終わったから「山の物語」も終わったわけではない。

むしろ、

軍事による山の利用
↓
戦後の復旧
↓
高度成長
↓
人工林
↓
人口減少・放置
↓
シカ増加
↓
現在の森林・水源問題

と続いている。

これは「暗い歴史を観光に利用する」という話ではなく、

土地利用の歴史を現在までつなげる

ということだと思います。


そして、ここで「あ・い・せ・よ」が効いてくる

私はむしろ、これを**「日本三景の裏面史」だけにしない方がいい**と思います。

「あ・い・せ・よ」なら、

あ――阿蘇海

景観・砂・港・軍事・暮らし

い――伊根

漁業・船・浦島・漂流・空襲

せ――世屋

水源・森林・見張り所・戦後の山

よ――与謝野

野田川・農業・古代から近代までの人の営み

そして中心に、

天橋立

名勝 → 日本三景 → 近代国家 → 軍事化 → 戦後 → 世界遺産を考える現在

を置く。

すると、

「美しい天橋立の裏側に軍事史があります」

という暗い話ではなくなる。

もっと大きな、

「この景観を、人間は時代ごとにどう利用し、どう意味づけ、何を壊し、何を守ってきたのか」

という問いになります。


そして、最後に「見る方向」を逆転させる

これは今回の話の中で、私は一番大事だと思います。

戦時中は、

山から海を見張った。

戦後の観光は、

海から美しい山を眺めた。

そしてこれからのSSHは、

海から山まで、一つの生態系・歴史系として見る。

さらに言えば、

山から海へ砂が来る。
海から山へ魚が上る。
海流が生きものを運ぶ。
風が漂流物を運ぶ。
人間は船で行き来する。
戦争は山と海を軍事システムに組み込む。
戦後、人々がその土地へ帰ってくる。

そうすると、「日本三景」という美の物語も、軍事という暗い物語も、世屋の森という現在の物語も、全部同じ地図の上に載る。

これなら「見えないものを見る」というSSHの意味が、かなりはっきりします。

そして一つだけ、ぜひ丁寧に調べたい。

「三景が明治の富国強兵とセットで教科書化された」という仮説は、面白いが、まだ仮説のままにしておく。

ここは次に、明治~昭和前期の国定教科書で「日本三景」が実際にどう記述されたか、そして松島・天橋立・宮島それぞれの周辺に軍事・産業施設がいつ入ってきたかを年表にして重ねると、かなり強い「見えない地図」になるはずです。

それをやると、安田さんの「節を感じます」が、印象から検証可能なSSH仮説へ一段上がります。

 【②この視点を意識したのは、8月に、沖縄の高校生の京都でのSSHを丹後で受け入れた、その探究コースをデザインしていた際、でしたね、】、
未来へ継ぐ沖縄戦の記憶を辿って | 沖縄観光情報WEBサイト おきなわ物語

(↑ 未来へ継ぐ沖縄戦の記憶を辿って | 沖縄観光情報WEBサイト おきなわ物語 okinawastory.jp)

ああ……それなら、かなり腑に落ちます。
**「見えないものをみる、それがSSH」**という今の発想は、9月のカッパドキアから突然出てきたものではなく、8月の沖縄の高校生を丹後で受け入れるために、探究コースを設計したところから既に始まっていたんですね。

しかも、ここが面白い。

高校生に「天橋立のことを教える」なら、普通は、

天橋立は日本三景です
白砂青松です
知恩寺があります
成相寺があります

となる。

でも、SSHとして受け入れるなら、そうはいかない。

「なぜ、ここにこんなものがあるの?」

から始める。

たとえば、

天橋立 → 砂
「この砂、どこから来た?」

↓

砂 → 川
「川はどこから流れてくる?」

↓

川 → 山
「では、山で何が起きている?」

↓

山 → 森・土・雨・シカ・人の暮らし

↓

そして再び

山 → 川 → 阿蘇海 → 天橋立

へ戻ってくる。

ここで高校生は、名所を「覚える」のではなく、一つの景観を分解して、もう一度組み立てることになる。

さらに沖縄の高校生だからこそ、

「沖縄から来た君たちは、海を知っている。
では、丹後の海と沖縄の海は何が違う?」

なんて問いも立てられる。

黒潮、対馬暖流、季節風、漂流、生きものの分布、島嶼文化、交易、漂着――
そうすると、丹後を説明することが、そのまま日本列島を考えることになる。

そして、ここから今の「軍事景観」の話まで伸びていくんですよね。

昔は、

山から海を見る。
――見張る。軍港を守る。敵船を探す。

ところがSSHでは、

海から山を見る。
――なぜこの砂がある?
――どの川が運んだ?
――森はどうなっている?
――人間は何をしてきた?

さらに、

海と山を一つにつなげて見る。

これは、かなり大きな転換です。

だから私は、8月の「沖縄の高校生を丹後で受け入れるSSH」が、今回の一連の思索の原点の一つだったのだと思います。

そして9月のカッパドキアで、

「あ、これだ!」

と、外からもう一度照らされた。

カッパドキアが41年かけて磨いてきたものを見て、
「丹後にも同じような可能性がある。ただし、丹後の場合は“岩”ではなく、山・川・海・砂・人・信仰・航海・戦争・暮らしがつながった一つの景観だ」と気づいた。

だから、

「あ・い・せ・よ・天橋立丹後浦島ロード」

も、観光ルートというより、

一つの景観を、高校生が歩きながら解いていく巨大なSSH教材

として見ると、急に意味が変わってきます。

そして成相寺・大観望は、その教材の**「目次」**になる。

ここから眺めて、

「あれは何だ?」
「なぜあそこにある?」
「あれとこれはどうつながっている?」

と問いを立てて、実際に「あ・い・せ・よ」を歩いて答えを探す。

……なるほど。
「見えないものをみる」って、実は高校生に丹後をどう見せるかを考えたところから生まれていたんですね。

これは、かなり大事な「原点発掘」だと思います。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

《伊根湾空襲は1945年7月30日、米軍艦載機によって潜水母艦「長鯨」を標的に行われ、100人以上の戦死者を出した攻撃です。Copilot 検索のブランド化》

空襲の概要

1945年7月30日、京都府伊根町の伊根湾に停泊していた旧海軍の潜水母艦「長鯨」(全長115~125メートル、5,160トン)が米軍の空襲を受けました。標的となったのは「長鯨」で、艦載機グラマン45機が編隊を組み、爆弾投下や機銃掃射を繰り返し行い、延べ200機以上が攻撃に参加したとされています FC2FC2+1。

京都:<戦後80年>漁村の眼前 「長鯨」貫く爆撃…伊根空襲:地域ニュース : 読売新聞

(↑ 京都:<戦後80年>漁村の眼前 「長鯨」貫く爆撃…伊根空襲:地域ニュース : 読売新聞 yomiuri.co.jp|)

被害状況

爆撃により艦内の指令塔が破壊され、一撃で約50人が死亡し、最終的に100人以上の乗員が戦死しました。艦の周囲にいた住民も爆風や瓦の落下などで危険にさらされました。戦死者の遺骸は近くの慈眼寺に葬られ、後に慰霊碑が建立されました 読売新聞オンライン+1。

背景と経緯

「長鯨」は潜水母艦として潜水艦の補給や修理、司令部機能を持ち、潜水戦隊の旗艦として指揮を執っていました。湾内には潜水艦も停泊しており、この潜水艦が米軍機に発砲したことが直接の攻撃動機となったと伝えられています FC2FC2。前日の7月29日夕刻に舞鶴から伊根湾に入港していました。

戦後の役割

戦後、「長鯨」は復員船として約1万人の引き揚げ者を輸送する任務を果たしました。空襲から80年を経た現在も、戦友会や記念誌を通じてその歴史が伝えられています 読売新聞オンライン読売新聞オンライン。

住民の体験

当時11歳だった住民は、艦上の乗員が戦闘配置に付く様子や、爆撃の衝撃を目の当たりにしました。舟屋造りの自宅で妹を守りながら、戦争の恐怖を体験した証言が残されています 読売新聞オンライン読売新聞オンライン。
伊根湾空襲は、終戦までわずか15日ほど前に起きた悲惨な出来事であり、地域の戦争史として今も語り継がれています kyoto.coopkyoto.coop。

Newer entries »