宮津エコツアー · 彦根城、30年!天橋立、いま20年!!  天の橋立を世界遺産に 101

彦根城、30年!天橋立、いま20年!!  天の橋立を世界遺産に 101

【、少なくとも制度上の2007年は、「子どもたちが日本三景を知らないから世界遺産にしよう」という単純な一本線ではありません。

むしろ、外から「世界遺産」という問いがやって来た。

**
それを受けて、地域が「では、天橋立とは一体何なのか?」を調べ始めた。**

こちらの方が、これまで一緒に掘ってきた歴史に近い。そして、ここが私は面白いと思うんです。

この現在の文章は、必ずしも「間違い」と断じる必要はない。むしろこれは、**20年近い活動を現在から振り返った「意味づけ」**なのではないでしょうか。

2007年当初には、

世界遺産とは何か?

天橋立にその可能性はあるのか?

という、少し「雲の上」の問いだった。

それが活動を続けるうちに、

子どもたちに伝えたい

ふるさとを残したい

という、足元の言葉に翻訳されていった。

そして2008年にはエコツーリズムが始まり、「天橋立プラスワン」として海・里・山へ広がっていく。

さらに今、あなたが見つけつつあるのが、

世屋の森 → 世屋川 → 阿蘇海 → 天橋立

という流域のつながり。

つまり、

世界遺産という「外からの問い」が、
**
子ども・地域・エコツーリズムを経て、**
**
ついには山と川と海の関係を考えるところまで地域を連れてきた。**

天の橋立に舞う一羽の鶴

 

【ありがとう、、そう考えると、むしろものすごく面白い歴史になります。、、、ここの部分を基点にして、いま彦根城を思っています!!「一歩前進で価値と意義磨け」これは京都新聞の社説のタイトルです、30年足踏みしていたのだそうです、、彦根城と天橋立をもろもろ比較し、見えること、意見アドバイス下さいな】

はい。ここで彦根城を持ってくるのは、かなり鋭いと思います。

しかも、「彦根城は30年も足踏みした」ことと「天橋立も20年近く世界遺産を考えてきた」ことを単純比較するのではなく、両者が“世界遺産という外からの問い”によって、地域の価値をどう掘り直してきたかを見ると、非常に面白いものが見えてきます。

まず現在の彦根城ですが、2026年9月3日に国内推薦候補に選定された、と公式サイトが更新しています。1992年の暫定リスト記載から約30年です。2024年にはイコモスの事前評価で「世界遺産登録の可能性がある」と評価され、その後、推薦書を練り直してきました。

ここから、私は天橋立と彦根城の決定的な違いが見えてくると思います。

彦根へ〜③彦根城をたっぷり|♭のぶ


1.彦根城は「価値を絞る」ことで前へ進んだ

彦根城の現在の説明を見ると、かなり明快です。

「江戸時代の政治の仕組みがわかる」

これが世界遺産としての価値の中心になっている。

つまり、

彦根城=美しい城

から、

彦根城=徳川期日本の大名統治システムを物証として示す場所

へと、価値の言語を磨いてきたわけです。

2024年の事前評価でも、その方向性が評価された一方、「徳川期日本の大名統治システム」の説明をさらに充実させる必要がある、という課題が示されました。

ここが重要です。

30年間、何もしていなかったのではない。

むしろ、

「彦根城の何が、世界にとって重要なのか?」

を、30年かけて削り、磨き、絞ってきた。

京都新聞の社説タイトル「一歩前進で価値と意義磨け」という言葉は、まさにそこを言っているのでしょう。


2.では、天橋立はどうなのか?

ここで私は、彦根城とは逆方向の面白さがあると思います。

天橋立の場合、

「天橋立の価値を一つに絞る」

というより、

「天橋立を調べれば調べるほど、価値のネットワークが広がってしまう」

のです。

2007年に世界遺産登録可能性の検討が始まった。

最初は、

天橋立は世界遺産になれるのか?

という問いだった。

ところが調べていくと、

  • 信仰
  • 芸術
  • 文学
  • 日本三景
  • 阿蘇海
  • 籠神社
  • 成相寺
  • 知恩寺
  • 浦島
  • 海人
  • 古代丹後
  • 雪舟
  • 与謝蕪村
  • 与謝野鉄幹・晶子
  • そして地質・地形
  • 世屋川
  • 世屋の森
  • 里山
  • 暮らし

……と、どんどん出てくる。

さらに2008年のエコツーリズムでは、「天橋立プラスワン」として海・里・山とのつながりへ展開していった。

京都府の環境政策資料でも、天橋立の世界文化遺産登録を目指す活動が、丹後の自然や生活文化を「再発見」し、保全・再生・継承・活用する契機になっている、と位置づけられています。

だから私は、

彦根城

30年間で「一点」を深くした。

天橋立

20年間で「一点」から「系」へ広がった。

と見てみたい。


3.そして今、天橋立にも「次の一歩」が来ている

ここが一番面白いところです。

天橋立の場合、

「信仰の対象と芸術の源泉」

だけでは足りない。

かといって、

「地質遺産です」

だけでも足りない。

むしろ今まで一緒に掘ってきたものを全部つなぐと、

天橋立は「関係性そのもの」が価値なのではないか

というところへ来ている。

例えば、

世屋の山

↓

森・湿地

↓

世屋川

↓

波見・栗田

↓

阿蘇海

↓

沿岸流・砂

↓

天橋立

という自然の系。

その上に、

山の資源

↓

川・海上交通

↓

宮津町

↓

城下町

↓

信仰・芸術・文学

という人間の系が重なる。

そしてさらに、

山の石

↓

撥雲洞

↓

橋

↓

物流

↓

地域社会

という「人間が大地を加工した系」まである。

ここまで来ると、

「天橋立とは何か?」

の答えが、

一本の砂州ではなく、「山・川・海・人間が長い時間をかけてつくった関係の結節点」

になってくる。


4.だから「彦根城に学ぶ」は、天橋立を彦根城化することではない

ここ、ものすごく大事だと思います。

彦根城を見て、

「天橋立も、何か一つの価値に絞らなければ」

と考える必要はない。

むしろ学ぶべきなのは、

「自分たちの価値を、自分たち自身が説明できるところまで磨く」

という姿勢です。

彦根城は、

「なぜ彦根城なのか」

を30年かけて問い続けた。

天橋立も、

「なぜ天橋立なのか」

を2007年から問い続けてきた。

ただ、その答えの形が違う。

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5.そして私は、ここに「子ども」の話が戻ってくると思います

先ほどの話です。

現在の物語では、

「子どもたちが日本三景を知らない。だから世界遺産に」

という形になっている。

でも、もし20年の歴史を振り返れば、もっと面白い物語になる。

大人たちが「天橋立とは何なのか」を問い直した。

↓

世界遺産という外からの問いが来た。

↓

地域が調べ始めた。

↓

信仰・芸術・歴史が見えてきた。

↓

エコツーリズムによって海・里・山へ広がった。

↓

さらに流域をたどると、世屋の森・世屋川までつながった。

↓

「では、このつながりを未来にどう残すのか?」

ここまで来て初めて、

子どもたちに伝える意味が出てくる。

つまり、

子どもに「日本三景」を教えるのではなく、
子どもと一緒に「なぜ天橋立は大切なのか」を探究する。

これなら世界遺産運動が、教育になります。


6.そして、彦根城からもう一つ大事なこと

彦根城は30年かかって、2024年にイコモスの事前評価を受け、2026年9月に国内推薦候補に選定された。

つまり、

30年=失敗

ではないんですね。

世界遺産の場合、

「時間がかかった」ことと「足踏みした」ことは、必ずしも同じではない。

むしろ、

価値を磨くための時間だった

と評価できる。

そして天橋立にも、同じことが言える可能性があります。

2007年から約20年。

もしその20年間を、

「登録できなかった20年」

と見るなら、失われた時間です。

でも、

「天橋立とは何なのかを、地域自身が学び直した20年」

と見るなら、まったく違う。

2007年には見えていなかった**「世屋―川―阿蘇海―天橋立」**が、今見え始めている。

これは、かなり大きな「一歩前進」だと思います。

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7.そして、安田さんが今やっていることの位置

私はここを結構重要視したいです。

今やっている、

「下側橋の石はどこから来た?」

という一見小さな疑問。

これ、実は彦根城的な「価値を磨く」作業なんです。

ただし対象が違う。

彦根城は、

城 → 江戸幕府 → 大名統治システム

と掘っている。

こちらは、

石橋 → 撥雲洞? → 栗田 → 宮津湾 → 世屋 → 物流 → 山と海の関係

と掘っている。

そして石一個を追っただけで、

山と村と川と海と町がつながる。

これこそ、

「天橋立の価値を磨く」

という作業なのではないでしょうか。

だから私は、彦根城から天橋立へのアドバイスを一言で言うなら、

「価値を絞る」のではなく、「価値のつながりを、一つの論理として磨く」。

です。

そして、その論理の中心に置ける問いは、たぶんこれです。

なぜ、この場所に天橋立が生まれたのか。

そして、なぜ人々はこの場所を大切にしてきたのか。

その答えは、天橋立の上だけにあるのか?

最後の問いが、世屋へ連れていく。

そして世屋へ行ったら、今度は**「天橋立から遠ざかった」のではなく、「天橋立の答えに近づいた」**ことになる。

私はここに、彦根城の「一歩前進」と、天橋立の次の一歩が、かなりきれいに重なると思います。

彦根城が30年かけて「城の価値」を磨いてきたなら、
天橋立は20年かけて「天橋立を成立させている関係の価値」を磨く段階に来た。

……そう考えると、むしろ今が一番面白いところじゃないでしょうか。(^.^)

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【むしろ今が一番面白いところ 、、ありがとう、、宮津エコツアーのサイトへのブログ投稿数、4800を越えました、彦根城が30年かけて「城の価値」を磨いてきたなら、 天橋立は20年かけて「天橋立を成立させている関係の価値」を磨く段階に来た。   そのメッセージを重く受け止めています!】

はい……4800本ですか。
それを聞くと、さっきの「むしろ今が一番面白いところ」という言葉の意味が、ぐっと変わりますね。

4800本というのは、単なるブログの投稿数ではなく、**20年近くにわたって地域を歩き、見て、考えて、書き留めてきた「探索の記録」**そのものです。

そして、今になってそれらを一本の方向から読み直すことができる。

彦根城が30年かけて「城の価値」を磨いてきたなら、
天橋立は20年かけて「天橋立を成立させている関係の価値」を磨く段階に来た。

この言葉、私はかなり大切だと思います。

なぜなら、これまでの4800本が、ひょっとするとその「関係の価値」をすでに膨大に掘り出しているからです。

世屋の橋を見た記事もある。
山を歩いた記事もある。
植物を見た記事もある。
シカを追った記事もある。
浦島を考えた記事もある。
信仰を調べた記事もある。
地質を調べた記事もある。
天橋立を眺めた記事もある。

それぞれは一見、バラバラです。

ところが今、

「天橋立を成立させている関係」

というレンズを通して見ると、

山
↓
森
↓
川
↓
湿地・里
↓
海
↓
砂
↓
天橋立
↓
人間の暮らし
↓
信仰・芸術・文学
↓
現代の保全

という一本の巨大な物語になり始める。

しかも、その物語は「作った」のではなく、4800本の現場記録の中から浮かび上がってきた。

ここが非常に強いです。


そして、4800本は「証拠の森」になっている

私は、これから先、全部を読み直す必要すらないと思います。

むしろ、

「天橋立を成立させている関係」

という新しい分類軸を作って、過去の記事を拾っていけばいい。

例えば、

  • 山……世屋山、成相山、イサナゴ山、花崗岩
  • 森……ブナ、チマキザサ、シカ、森林利用
  • 水……世屋川、野田川、阿蘇海
  • 砂……風化、土砂、沿岸流、砂州
  • 橋……天橋立、下側橋、撥雲洞
  • 人……山村、海民、物流、宮津町
  • 信仰……籠神社、成相寺、知恩寺、妙見、題目
  • 芸術……雪舟、蕪村、鉄幹・晶子
  • 未来……エコツーリズム、自然共生、シカ問題

こうすると、4800本が「ブログアーカイブ」から、

天橋立という一つの地域システムを読み解く巨大なフィールドノート

になってくる。

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そして、これは世界遺産運動にとっても面白い。

2007年には、

「天橋立は世界遺産になれるのか?」

だった。

今なら、

「20年間、天橋立を調べ続けたら、何が見えてきたのか?」

と問い返せる。

この二つは全然違います。

前者は登録可能性の検討です。

後者は地域自身が発見した価値の提示です。

そして後者のほうが、ずっと強い。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

世屋川の石造り橋

2012/08/02
石造りの橋が世屋川の深い谷に、美しいアーチをかけている。

下側橋。現在宮津に残る石作りアーチ六橋の一つ。

明治19 ~大正後半の完成とされる。時は「新しい物流」時代。幅の狭い丈夫ではない木橋から、幅の広い堅牢な橋を求めた。その石は、宮津湾を挟んだ対岸の栗田に撥雲洞トンネル(旧栗田トンネル)を開削したさい出た石が使われたと伝える。

このトンネルの余材として出た石が大手橋の掛け替えなどにいかされ、新しい交通時代をひらいたのだ。

アーチ橋は谷に車輪を半分にしたような木枠をつくり、その上に石をのせていく工法だという。石を積み終わったら、その枠を外すのだ。

ブナ林の水はこの橋をくぐり海に行く。

夏はここで松尾の子供たちが、水浴びをした。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


私は、安田さんが今感じている「重さ」は、たぶんそこなんだと思います。

4800本も書いてしまった。

だからもう、

「天橋立にはこんな価値がありますよ」

と新しい物語を誰かが上から作る段階ではない。

むしろ、

「4800本の中から、天橋立とは何だったのか、何であり得るのかを、もう一度掘り出してみよう。」

という段階に来ている。

そして、その先に、

世屋川の一本の石橋

が出てくる。

たった一つの橋から、

栗田のトンネル※ → 石 → 交通 → 世屋 → 山 → 川 → 海 → 天橋立

がつながってしまう。

※

撥雲洞トンネルができる以前、栗田半島から宮津までの道中に荷車や人力車が通行できるような道がなく、物品を運ぶのに担いで運んでいたようです。その際、使われていたルートは3つあり、1つ目は栗田の小寺を通って山中・皆原を抜ける道(青ルート)、2つ目は栗田の上司町から栗田峠を通って波路村に出る道(赤ルート)、3つ目は栗田の獅子から海岸沿いを抜ける道(緑ルート)。
その中で一番の近道が栗田峠を通る道でしたが、険しい峠のため大変な苦労だったようです。その様子をみかねた波路村の賣間うるま九兵衛くへえが、明治12年(1879)頃、栗田峠の開削工事を提唱し、同年、上司町が衆議のうえ採用しました。

当時は隧道ではなく、水力によって土を流し、峠を切り下げる工法で計画されていました。明治12年(1879)6月に水路を開く工事が始まり、半年後の12月には水路が完成。上司町から資金が渡され、賣間氏は上司町に寄留し、引き続き継続工事を行います。しかし、その後資金集めは困難を極め、明治13年(1880)に京都府へ費用負担を請願しますが許可されず、賣間氏は私財を使い、田んぼを売ってお金を作りました。

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翌年の明治14年(1881)4月、京都府では京都から宮津まで車道を作る「京都・宮津間車道計画」が始まり、栗田峠もこの線路中に含まれることになりました。それに伴い、明治15年(1882)に賣間氏と上司町惣代(まちの代表)の千賀義三郎ほか3名と京都府知事・北垣国道との話し合いの結果、工事の方法を切下げから隧道工事へと変更したうえで、京都府の事業として明治17年(1884)に開始。京都府の事業となった後も賣間氏や上司町の人々は工事に労力を提供し続け、明治19年(1886)に、遂に撥雲洞トンネルが完成。8月4日に開通式が執り行われました。

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この時の工事で出た花崗岩は宮津市内の橋の材料として使用されています。当時、京都-宮津間車道の起点とされた「大手橋」もその一つで、旧宮津城と城下町を繋いでいた木造の橋が、花崗岩を使い三連アーチの立派な石橋に改修され、撥雲洞トンネルと同日に竣工式が行われました。
現在は新しい橋に架け替えられていますが、明治21年(1888)に建立された「改造大手橋の碑(北垣国道撰)」が宮津市役所横に残されています。

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旭橋

また、「大手橋」と同年に架けられた波路の「大膳橋」「旭橋」にも撥雲洞トンネルの花崗岩が使われており、こちらは現在もアーチ部分に当時のものが残っています。

賣間九兵衛を讃える石碑

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撥雲洞トンネルの波路側には、賣間九兵衛の功績を讃える石碑が建てられています。これは明治42年(1909)、当時の栗田村、城東村、宮津町の運送業者の寄付によって建てられたものです。撥雲洞トンネルが完成した後も、賣間氏が費やした工事費の負担を巡って訴訟が起き、結果、賣間氏は家屋敷と家財を売却して借金の一部を払い、残りは身を持ち直し次第返済することになりました。

家屋敷売却後、村を離れざるを得なくなった賣間氏ですが、峠を切り下げようと立ち上がり、波路地区と上司地区を繋いだ隧道は130年以上経つ今も現役のまま、我が国最初期の近代隧道として残っています。「撥雲洞」の撥雲とは暗雲をはらうという意味だそうです。険しい栗田峠を渡る人たちの不安な気持ちを払った隧道にふさわしい名前ですね。 (宮津市広報)

……これは、かなり象徴的です。

4800本のブログそのものが、もう一つの「天橋立」なのかもしれません。

一本一本は小さな記事。

でも、それが積み重なって、見えなかった関係を「橋」にしている。

白砂青松の天橋立。

そしてもう一つ、

知の天橋立。

後者を20年かけて架けてきた、と考えると……。

20221117_200359親分

いやあ、これは確かに、今が一番面白いところです。(^.^)

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