◆どうでもいいことです、、与謝野寛・晶子ご夫妻歌碑 2.17 km 観光案内パンフにありました!
ははは、安田さん、「どうでもいいこと」とおっしゃりながら、これはちょっと引っかかりますねえ!(^.^)
観光案内パンフレットに「与謝野寛・晶子ご夫妻歌碑 2.17 km」!
歌碑そのものより、この 2.17 kmという数字が何を表しているのか、ということでしょうか。
天橋立観光協会の公式案内では、歌碑は宮津市文珠の天橋立公園内にあり、寛・晶子夫妻が天橋立を訪れて多くの歌を残したことが紹介されています。
天橋立観光協会
+1
でも、観光パンフレットの「2.17 km」は、距離の起点と終点、あるいは掲載地点との位置関係を確認しないと、意味を決められません。
安田さん、これは パンフレットのどこから歌碑までが2.17 kmと表示されていたのでしょう?
その数字の出どころが分かれば、何気ない観光案内に潜んでいる問題なのか、単なる距離表示なのか、一緒に確かめられます。(^.^)
◆いえ、この夫婦にかぎって、ご夫妻!!そんなにありがたがらなければいけない方たちなのでしょうかねえ!(^.^)
あっはははは!!!(^.^)
そこでしたか!!「2.17 km」ではなく、「ご夫妻」!!
なるほど、安田さんの引っかかりは、言葉の選び方にあるのですね。
与謝野寛・晶子。たしかに、お二人とも文学史に名を残す歌人です。晶子は『みだれ髪』や『君死にたまふことなかれ』で知られ、寛は歌人・詩人として、また『明星』を通じて近代短歌の革新に関わりました。天橋立を訪れた二人の歌が残されていることにも、文化的な意味はあります。
しかし……。
「与謝野寛・晶子夫妻」ではなく、「与謝野寛・晶子ご夫妻」!
この「ご」は、何に対する敬意なのでしょうねえ。
もちろん、現代の日本語では「ご夫妻」は一般的な敬称です。二人を特別に神格化しているわけではありません。でも、観光案内という公的な場で、誰にどのような敬称をつけるのか。そこには、知らず知らずのうちに人物の格付けや、文化的権威への敬意が表れることがあります。
そして、安田さんが問い返しているのは、きっとそこだけではない。
天橋立には、名の知られた歌人の足跡もあれば、名も残さず松を植え、砂州を守り、田畑を耕し、山と海の暮らしをつないできた人々の歴史もある。
文学者には「ご」をつける。でも、名もなき地域の人々が築いてきたものには、どれほどの敬意を払っているのか。
そう考えると、たった一文字の「ご」が、観光案内の価値観を問い返す入口にもなります。
ただ、私は「ご夫妻」という表現そのものを悪いとは思いません。問題は、その敬称があるかないかよりも、誰の足跡を大切なものとして取り上げ、誰の営みを見えないままにしているか、でしょうね。
安田さん流に言えば、著名人の歌碑を訪ねて終わるのではなく、そこから天橋立を育んできた土地と人々へ、目線を広げたい。
名歌人を敬うことと、名もなき人々の営みを敬うこと。その両方があってこそ、天橋立の文化が見えてくる。
……いやあ、安田さん、今度は「ご」の一文字から、天橋立の文化観光のあり方を掘り始めましたな!(^.^)
与謝野蕪村様御句碑、、になりますよ!
あっはっはっは!!!🤣
「与謝野蕪村様御句碑」!!
もう、敬意の大渋滞ですなあ!!(^.^)
与謝野寛・晶子ご夫妻に対抗して、蕪村さんにも「様」をつけ、「御句碑」と呼ぶ。これで釣り合いが取れますかねえ(笑)。
でも、安田さんのおっしゃりたいことは、よく分かります。
「ご夫妻」は敬称として自然な表現ですし、「御句碑」も敬意を示す言い方ではあります。ただ、観光案内が著名人を紹介するとき、敬称を重ねてありがたみを演出する必要があるのか。そこは問い返せますね。
蕪村の句が天橋立をどう見たのか。寛・晶子が何を感じ、何を歌にしたのか。そこを味わうことこそ大切です。
そして、その歌や句が生まれた風景を、誰が守り、どんな暮らしが支えてきたのか。
人物をありがたがる観光から、土地と人間の関係を深く味わう観光へ。
安田さんの「掘る・繋ぐ・問い返す」にも通じますね。
しかし、ひとつだけ……。
「与謝野蕪村」ではなく、「与謝蕪村」さんですよ!🤣
与謝野寛・晶子ご夫妻と、与謝蕪村さん。名字が合体してしまいましたなあ!!(^.^)
◆そら、天の橋立讃歌を頂いたわけですから、ご夫妻、、まあよしとしましょう!!
ははははは!!!(^.^)
なるほど、安田さん、天橋立を讃える歌を残してくださったお二人ですから、「ご夫妻」でよろしい! ということですね。
敬称への違和感も、天橋立への敬意を考えれば、ちゃんと落としどころが見つかりましたね。🐸
ただ、ここに面白い問いが残ります。
与謝野寛・晶子夫妻は、天橋立を歌に詠んだ。 蕪村は、天橋立を俳句に詠んだ。 そして、名も残さない無数の人々が、松を植え、道を歩き、景観を守り、暮らしを営んできた。
天橋立を讃えた人々と、天橋立をつくり、守り、受け継いできた人々。
どちらも、この土地の物語には欠かせません。
歌碑を訪ねて歌を味わい、さらにその歌が生まれた風土へ目を向ける。そこまで案内できたら、観光案内板も歌碑も、単なる名所紹介を超えますね。
そして安田さんの「天橋立はふるさと」という目線からすれば、歌人への敬意は、天橋立そのものへの敬意につながっているのでしょう。
◆ご夫妻、まあよし! ただし、讃歌を味わうだけでなく、その讃歌を生んだ土地まで掘り下げること!
天のカエル、今度は異議なしでございます。🐸🌲
鉄幹さんと丹後との由来をください
安田さん、鉄幹と丹後の縁をたどると、これがなかなか深いのです!(^.^)
単に「天橋立を訪れ、晶子と一緒に歌を詠んだ有名歌人」というだけではありません。鉄幹にとって丹後は、父の故郷であり、自分自身のルーツを確かめる土地でもあったのです。
1.鉄幹と丹後を結ぶ、父・与謝野礼厳
与謝野鉄幹(与謝野寛)(1873–1935)
近代短歌の革新に関わり、歌誌『明星』を主宰した歌人です。本名は寛(ひろし)。父は僧侶・歌人の与謝野礼厳でした。
父・礼厳は、現在の京都府与謝野町加悦にあたる地域の出身です。つまり、鉄幹の姓「与謝野」は、丹後の与謝郡と深く結びついています。晶子も結婚後、この姓を名乗りました。
丹後の地名
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さらに興味深いのは、鉄幹が丹後を単に先祖の土地として訪れたのではないことです。父の故郷を歩き、地域の人々と交流し、歌を詠み、その土地の歴史や風景を自分の文学に取り込んでいます。
2.1930年、寛・晶子夫妻の丹後吟行
昭和5年(1930)5月、鉄幹と晶子は丹後を訪れました。宮津では旅館「対橋楼」に2泊し、天橋立を散策。傘松公園や成相寺なども巡り、地元の人々との交流を重ねました。宮津市の紹介によれば、滞在中には短期間に100首以上もの歌を詠んだとされています。
宮津市ホームページ
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この旅で詠まれた作品の一つが、天橋立を横一文字に望む大内峠の歌です。
与謝野鉄幹
たのしみは 大内峠に きはまりぬ
まろき入江と ひとすぢの松
大内峠一字観公園・歌碑
「まろき入江」と「ひとすぢの松」。阿蘇海の丸みを帯びた水面と、横たわる天橋立の松並木。その眺望を、鉄幹は簡潔に捉えています。与謝野町観光協会も、この歌を大内峠で詠んだ作品として紹介しています。
与謝野日々是 与謝野町観光協会
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3.鉄幹は翌年、父の顕彰碑のために再び丹後へ
ここが、鉄幹と丹後の関係を考えるうえで、私にはとりわけ重要に思えます。
昭和6年(1931)11月、鉄幹は再び加悦を訪れました。目的は、父・礼厳を顕彰する追念碑の除幕式に出席することでした。このときは晶子を伴わず、一人で故郷の地を訪ねています。
丹後の地名
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鉄幹は、その碑に父の名が刻まれたことを詠んでいます。
岩に彫り我父の名を光らしむ 情けあるかな与謝の里人
この歌には、父の名を後世に残そうとした地域の人々への感謝が込められています。
つまり、丹後は鉄幹にとって、歌の題材となる美しい景色の土地であると同時に、父の人生を受け止め、父の名を守り伝えようとする人々がいる土地だったのです。
ここで、歌人と地域の関係が逆転するようにも見えます。
有名な歌人が丹後を訪れて土地を称賛する。それだけではありません。丹後の人々が父・礼厳の生涯を顕彰し、その息子である鉄幹を迎えた。鉄幹もまた、その人々の営みを歌に残したのです。
4.「与謝野」という姓から見えてくるもの
もう一つ、安田さんが関心を持たれそうなことがあります。
与謝野町の公式資料は、町が与謝野鉄幹・晶子や与謝蕪村ら、文学者ゆかりの土地であることを紹介しています。
与謝野町
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ただし、ここでは区別が必要です。
- 与謝野鉄幹――父・礼厳の出身地が丹後の与謝郡にある。
- 与謝野晶子――堺に生まれ、鉄幹と結婚して与謝野姓を名乗った。
- 与謝蕪村――鉄幹・晶子とは別の時代を生きた俳人で、丹後との関係も別個にたどる必要がある。
姓が同じ「与謝」を含むからといって、三者が同じ土地との関わり方をしていたわけではありません。
しかし、ここには面白い文化史があります。土地の名が人の名に入り、その人が全国を旅し、作品を通して再び土地の名を世に広める。
丹後の「与謝」が、文学者の名前を介して全国へ出ていった。そして文学者が丹後に帰ってくると、今度はその土地の人々が彼らを迎え、作品や記念碑を残していく。
地名と人名、土地と文学が、互いを照らし合う関係ですね。
安田さん、私はこの鉄幹と丹後の関係を、天橋立の文化観光に生かすなら、こう捉えたいです。
鉄幹は、天橋立を詠んだ歌人であると同時に、父の故郷と、そこに生きる人々とのつながりを歌にした人でもある。
天橋立の景観だけを見せるのではなく、大内峠から眺め、加悦の里を歩き、父の碑を訪ねる。そうすれば、天橋立と丹後の内陸部が、一人の文学者の人生を通して結ばれます。
これこそ、安田さんのいう「掘る・繋ぐ」ではありませんか。名所を点で訪ねる観光から、土地と人のつながりをたどる旅へ。
そして、最後に一つ。
鉄幹の父・礼厳を顕彰したのは、鉄幹本人だけではなく、地元の人々でした。文化遺産は、著名人が生み出すだけでなく、それを大切にしようとする地域の人々によっても生まれる。
このことは、天橋立を世界遺産にする運動を考えるうえでも、見落とせない視点だと思います。
◆父・礼厳さんについて紹介ください
5.礼厳自身も、丹後を歌った歌人だった
ここは、ぜひ紹介しておきたいところです。
与謝野町観光協会の資料には、礼厳自身が故郷の温江を訪れたときの歌が掲載されています。
与謝野日々是 与謝野町観光協会
見も聞きも 涙ぐまれて 帰るにも 心ぞ残る 与謝のふるさと
明治25年(1892)春、礼厳は久しぶりに丹後の与謝を訪れました。何を見ても、何を聞いても、少年時代を過ごした故郷への思いがこみ上げてくる。帰るときにも心はそこに残ってしまう――そんな望郷の歌です。
安田さん、ここに鉄幹とのつながりを感じませんか。
父は故郷を離れて京都で暮らしながら、与謝の里を忘れなかった。息子の鉄幹もまた、父の故郷を訪れ、丹後の風景や人々を歌にした。
父が故郷を懐かしみ、息子が父の故郷を訪ね、里人が父の名を石に刻む。
この三つが重なって、与謝野家と丹後の関係が見えてきます。
礼厳を知ることは、鉄幹・晶子夫妻の歌碑を、単なる文学者の記念物として眺めるだけでは見えてこない、丹後の人々と文学の関係を知ることでもあるのですね。
◆お寺関係の方、?庄屋さん!
あっ、そこです!(^.^) 与謝野礼厳の生家は、お寺の家ではなく、庄屋格の農家だったということですね。
与謝野町温江の細見家に生まれた礼厳は、細見儀右衛門の次男とされています。13歳ごろに加悦の浄福寺に入り、仏門に進みました。つまり、生まれは庄屋格の農家、歩んだ道は僧侶・歌人ということです。
与謝野日々是 与謝野町観光協会
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ここは、ちょっと面白いところです。
- 細見家――丹後の村社会に根を下ろした家。
- 浄福寺・西本願寺――礼厳が仏門に入り、学び、活動した世界。
- 与謝野礼厳――故郷の地名から「与謝野」を名乗り、幕末・明治の社会事業にも関わった人物。
そして、その四男が鉄幹です。
ですから鉄幹と丹後との縁は、単に「父親の出身地」というだけではありません。庄屋格の農家から出た少年が僧侶となり、京都の政治・文化の世界で活動し、その名を息子が受け継いで、父の故郷へ戻ってくる。そこに地元の人々が父の碑を建て、鉄幹が感謝の歌を詠む――。
庄屋の家から始まった縁が、寺を通り、歌を通り、ふたたび丹後の里へ戻ってきた。
こう見ると、鉄幹の丹後とのつながりが、ぐっと立体的になりますね。(^.^)
- 幕末・明治の社会事業にも関わった人物。
そして、その四男が鉄幹です。、その、社会事業について情報を下さい
これは、かなり重要な仕事をしていますよ!(^.^)
与謝野礼厳の社会事業について調べると、中心に浮かび上がるのが、京都療病院の創設への協力です。現在の京都府立医科大学・附属病院につながる事業でした。
1. 京都療病院――明治初期の近代医療をつくる
明治維新直後の京都は、東京への遷都などで活気を失い、社会も大きく揺れていました。一方、旧来の寺院制度も廃仏毀釈の風潮の中で厳しい状況にありました。
その時期に、蘭方医の明石博高らが西洋医学を取り入れた病院の設立を構想します。ここで協力したのが、岡崎の願成寺住職だった与謝野礼厳ら僧侶たちでした。
京都府立医科大学
+1
経緯を整理すると、次のようになります。
1868年
病院構想が動き始める
明石博高らが、京都に病院を設ける構想を進めました。
1871年
礼厳らが設立運動を支える
礼厳、東山天華、佐々間雲巌らが発起人となり、京都府へ病院建設を願い出ました。僧侶たちは「療病院勧論方」などとして資金集めにも奔走しました。
1872年
京都療病院が開院
京都療病院が開かれ、西洋医学による診療と医学教育が始まりました。現在の京都府立医科大学・附属病院の源流です。
出典:京都府立医科大学「沿革」、同大学の京都療病院創設に関する研究。
京都府立医科大学
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つまり礼厳は、単に寺の住職として病人を救済したという話ではありません。新しい医療制度を京都につくるため、寺院の人的ネットワークを生かし、社会から資金を集め、行政と医療関係者をつなぐ役割を担ったのです。
2. もう一つの仕事――鉱泉場の開設
与謝野町観光協会の紹介では、礼厳は京都療病院だけでなく、鉱泉場の開設など、各種の公益事業にも従事したとされています。
与謝野日々是 与謝野町観光協会
ただし、今回確認できた資料だけでは、鉱泉場の所在地や具体的な運営方法、礼厳がどこまで主導したかまでは十分に確定できません。ここは、さらに町史などの一次資料にあたって確かめたいところです。
3. ここで、丹後の庄屋格の家に生まれたことが気になってきます
礼厳は、丹後国与謝郡温江村の細見家に生まれ、幼くして出家し、京都で願成寺の住職となりました。その後、京都の近代医療の創設に関わっています。
丹後の地名
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ここから先は、少し慎重に考えたいところですが、礼厳の人生には、
- 丹後の村社会に生まれたこと
- 寺院を通じた人々とのつながり
- 幕末・維新期の政治や社会の変化
- 医療という新しい公共事業への参加
が重なっています。
そして、1873年に京都で生まれた四男・寛が、のちの与謝野鉄幹です。
鉄幹の父は、歌人であるだけでなく、時代の変わり目に「社会に必要なものを、仲間を集めて実現する」仕事にも携わった人だった。
これは、鉄幹と丹後との縁を考えるうえでも、見逃せない背景ですね。
なお、もう一歩掘るなら、京都療病院の創設は「僧侶が近代医療を支えた」というだけではありません。明石博高らの医学構想と、礼厳ら僧侶の組織力・募金活動が結びついた事業でした。異なる立場の人々が、それぞれの力を持ち寄って新しい公共の仕組みをつくった――ここが、礼厳の仕事の面白いところだと思います。
こちらもいかがですか?
◆鉄幹さん、府会議員に立候補されていますね
そうなんです! ここで鉄幹の人物像が、また違って見えてきますね。(^.^)
ただ、確認できた記録では、鉄幹が立候補したのは府会議員選挙ではなく、1915(大正4)年3月の衆議院議員選挙です。与謝郡から出馬しましたが、当選には至らなかったと、与謝野町議会の会議録に記されています。
与謝野町
+1
つまり、鉄幹は歌人としてだけでなく、政治の世界にも踏み出そうとしていたのです。
ここで父・礼厳とのつながりを考えると、面白い問いが生まれます。
- 父・礼厳は、僧侶として京都療病院の創設など、公共的な事業に関わった。
- 息子・鉄幹は、文学の世界で活動する一方、国政への進出を試みた。
- そして鉄幹は、父の故郷である丹後・与謝の人々との縁を持ち続けた。
ただし、父の社会事業が息子の立候補に直接影響した、とまでは資料から断定できません。
父は社会事業を通して、息子は文学と政治への挑戦を通して、社会に働きかけようとした。
そう並べてみると、与謝野家を文学者の家系としてだけ見るのでは、少しもったいない気がします。
ちなみに、立候補した1915年は、鉄幹が晶子とともに文学活動を続けていた時期です。なぜ彼は国政を目指したのか、どんな政策や主張を掲げたのか――そこを掘ると、さらに興味深い話になりそうです。
◆単に先祖の土地として訪れたのではないことです。父の故郷を歩き、地域の人々と交流し、歌を詠み、その土地の歴史や風景を自分の文学に取り込んで、、、この目的は、選挙活動だった!
なるほど!! そこが、今回の丹後をめぐる話の核心なのですね。(^.^)
鉄幹は、父の故郷を訪ねた。それは単なる郷愁の旅ではなく、政治家として与謝郡の人々に働きかける旅でもあった。
そう捉えると、1930年に晶子とともに天橋立や大内峠を訪れた旅と、翌1931年に父・礼厳の碑の除幕式に出席したこと、そして鉄幹が1915年に与謝郡から衆議院議員選挙に立候補したこと――これらを一つの線で結びたくなります。
ただ、ここは年代をきちんと押さえる必要があります。1915年の立候補と、1930年の丹後訪問は15年の隔たりがあります。 したがって、1930年の旅そのものを選挙活動と呼ぶことはできません。一方で、選挙への立候補を念頭に置くなら、1915年以前の丹後訪問や地元との交流が、どのような政治的意味を持っていたのかが重要になります。
1915年の選挙宣言に、決定的な手がかりがあります
調べてみると、鉄幹は立候補に際して、自分は「輸入候補者」ではないと訴え、父が与謝郡温江村の出身であること、一族が丹後に根を持つことを有権者に語っていました。さらに、与謝郡だけでなく中郡、愛宕郡などを訪ね、各地で演説したとする郷土史資料もあります。
丹後の地名
+1
これは大事ですね。
鉄幹は、父の故郷とのつながりを、単なる家系の話としてではなく、自分が京都府郡部の代表にふさわしいことを説明する根拠として、選挙の場で明示していたわけです。
そして、選挙の際に詠んだとされる歌には、こんな一首があります。
与謝郡あちえの里に鍬とりて 世の嗤ひよりのがれなんかも
この歌は、郷土史資料に選挙時期の作品として紹介されています。表記や解釈には原資料の確認が必要ですが、農村や土地との関係を歌に託した点は注目されます。
丹後の地名
一方、1930年の夫妻の訪問では、岩滝小学校で講演し、大内峠で歌を詠み、地元の人々との交流を深めています。これは選挙から15年後の別の訪問です。
与謝野日々是 与謝野町観光協会
+1
ですから、安田さんの着眼点を歴史的に整理するなら、こうでしょう。
鉄幹にとって丹後は、父の故郷であると同時に、自分の出自を示し、政治的な支持を求める場でもあった。
ここからさらに知りたいのは、1915年の選挙で鉄幹が何を公約し、与謝郡の有権者に何を訴えたかです。そこまで分かれば、文学者が故郷の歴史や風景を詠むことと、地域の代表になろうとすることが、鉄幹の中でどう結びついていたのかを、もっと具体的に考えられます。
◆ああ、なるほど、、石川啄木はこの同人の一員でした、理想主義指向、、彼のそれは鉄幹晶子ご夫妻の目にとまるはずですね
そう、そこがつながってくるんですね!
石川啄木は、鉄幹が主宰した『明星』に作品を発表し、若いころから鉄幹・晶子夫妻と接点を持ちました。1902年、16歳の啄木は上京して新詩社の集まりに参加し、夫妻と初めて会っています。鉄幹は啄木の才能を認め、詩集『あこがれ』には序ではなく跋文を寄せました。
Lics SaaS
+1
ただ、「理想主義」という言葉は、少し丁寧に捉えたいです。『明星』は、浪漫主義を背景に、個人の感情や生命、自由な表現を重視した文学運動の中心でした。芸術至上主義・唯美主義の色彩もあり、政治的な理想主義とそのまま同じではありません。
ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−
+1
それでも、安田さんの見立てには大事な視点があります。
鉄幹は、文学の才能を見いだす人であると同時に、文学を通して新しい時代をつくろうとした人だった。 そして啄木も、文学を自分一人の表現に閉じ込めず、社会の矛盾や貧困、人間の生き方へと問いを広げていきました。
ただし、啄木の社会意識が夫妻の目にとまったことと、鉄幹が丹後から選挙に出たことを、直接結びつける証拠はまだありません。ここは、二人の文学的な交流と鉄幹の政治活動を、それぞれの資料で確かめていく必要があります。
面白いのは、鉄幹の周りに集まった人々が、歌や詩をつくるだけでなく、社会に向けて言葉を発しようとしていたことです。啄木はのちに雑誌『スバル』の創刊にも関わり、1909年の創刊号では発行人を務めました。
百科事典
+1
ここで丹後に戻ると、問いが一つ生まれます。
鉄幹は、文学者として人の才能を見いだし、政治家として地域の人々に支持を求めた。その二つの活動を、本人の中ではどうつないでいたのか。
父・礼厳の社会事業、鉄幹の文学運動、与謝郡からの選挙出馬。別々に見える三つの糸が、ここで少しずつ交わってきますね。(^.^)
◆天橋立を世界遺産に、あいせよ天橋立丹後浦島ロードの大変なキーマンだと再認識しましたよ、夫妻から、あいせよ天橋立丹後浦島ロードに、激励メッセージを頂いてもらえないでしょうか!
うわあああ!!(^.^)
これは、面白いお願いですねえ!
与謝野鉄幹・晶子夫妻から、現代の「天橋立を世界遺産に」と「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」へ、時空を超えた激励メッセージ。もちろん、本当にお二人から新たなメッセージを受け取ることはできません。でも、お二人が残した歌と、丹後との歴史的な縁を踏まえて、夫妻ならどんな言葉を寄せてくれるだろうか。その想像なら、心を込めて形にできます。
時空を超えて届く、夫妻からの激励メッセージ
以下は、夫妻の実際の発言ではなく、残された作品と丹後との縁を手がかりに創作したメッセージです。
与謝野寛(鉄幹)から
丹後の山河と、人々の志をつなぐ皆さんへ。
私の父が生まれた与謝の里。その山々、その海、その地に生きる人々との縁は、私にとっても忘れがたいものです。
故郷を語るとは、ただ昔を懐かしむことではない。そこに生きる人々の営みを見つめ、その土地の価値を、次の時代へ伝えることではないでしょうか。
天橋立だけを仰ぎ見るのではなく、山を歩き、田を見つめ、海に学び、人々の暮らしに耳を傾けてください。
世界遺産を目指す志と、地域を愛し、守り、つなぐ実践とを、ひとつの道にしてください。
丹後の未来を拓く皆さんの歩みを、心から応援します。
与謝野晶子から
天橋立を愛し、その先に広がる丹後を愛する皆さんへ。
美しいものに出会ったとき、人は心を動かされます。
けれども、美しさは眺めているだけでは、そのすべてを知ることができません。山の水が田を潤し、川が海へ注ぎ、松の緑が人々の暮らしとともにある。そのつながりに気づいたとき、風景は新しい意味を語り始めます。
阿蘇海、伊根、世屋、与謝野。そこに暮らす人々も、訪れる人々も、互いの物語を知り、心を寄せ合ってください。
愛するとは、見つめること。そして、見つめ続け、次の世代へ手渡すこと。
天橋立から始まるその愛が、丹後の山にも、田にも、海にも、人々の心にも届きますように。
そして、安田さんの構想に重ねるなら
私は、この夫妻からの架空のメッセージの核心を、こんな一文にしたいです。
天橋立を愛することから、丹後を愛することへ。
美を見いだし、命のつながりを知り、地域の未来をともにつくる。
あいせよ天橋立丹後浦島ロード!
鉄幹には、父・礼厳の故郷である丹後との縁があり、晶子とともに天橋立を訪ね、夫妻それぞれの歌を残しました。鉄幹は与謝郡から政治の世界にも挑戦しました。
だからこそ、夫妻をこの構想の「キーマン」として再発見することには、歴史的な意味があります。ただし、それは夫妻を世界遺産運動の賛同者だったと断定することではなく、夫妻が残した文学と丹後との縁を、いまの地域づくりへ受け継ぐということですね。
そして、もうひとつ。
安田さんが目指しているのは、天橋立を世界遺産にすることだけではない。天橋立を入口に、山・田んぼ・海・人々の営みを結び直し、未来へ渡すことです。
鉄幹の父の故郷への思い、夫妻の歌、そして現代の丹後人の実践。
百年を超えて、土地への思いが次の仕事を生む。
これこそ、「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」に夫妻を迎える意味ではないでしょうか。(^.^)










