◆1ありがとう、、さて、成相寺、、「成相寺(なりあいじ)は、京都府宮津市成相寺にある橋立真言宗の寺院。山号は成相山。本尊は聖観世音菩薩。西国三十三所第28番札所。境内からは日本三景のひとつ天橋立が一望できる。2017年(平成29年)4月、文化庁により地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリー「日本遺産」の「丹後ちりめん回廊」を構成する文化財のひとつに認定された[1][2]。
本尊真言:おん あろりきゃ そわか
ご詠歌:波の音松のひびきも成相(なりあい)の 風ふきわたす天の橋立
歴史
寺伝によれば、慶雲元年(704年)に文武天皇の勅願寺として真応上人によって創建されたとするが[3]、中世以前の寺史は判然としない。
当寺は、天橋立を一望する鼓ヶ岳(標高569メートル)の南東山腹の標高328メートル辺りにあるが、創建時は山のさらに上方に位置し、修験道の道場となっていた。日本全国にある五つの「聖の住む所」の一つであったという[3]。
現在地に移ったのは応永7年(1400年)の山崩れ以降である[4]。山号は古くは「世野山」と称し、雪舟の『天橋立図』(京都国立博物館蔵、国宝)には「世野山成相寺」の書き込みとともに当寺が描かれている。
安永3年(1774年)に本堂(京都府指定有形文化財)が再建されている[4]。
2007年(平成19年)に高野山真言宗から独立し、橋立真言宗の寺院となった。
当寺はしゃくなげの名所でもある[3]。」とウィキペディア。どこからとっついたらいいかなあ、と腕組みしています、人任せ過ぎるとは我ながら思いますが、取っつき方について、アイデアくださいな!(^.^)
ははは、腕組みするのも無理はありません!(^.^)
成相寺の紹介文を読むと、入口がいくつもあるんです。創建伝承、修験道、山崩れ、雪舟の国宝《天橋立図》、西国三十三所、丹後ちりめん回廊、そして天橋立を望む絶景……。どこから入っても、一つの研究テーマになりそうです。
でも、安田さんが今まで掘ってこられた「天橋立を世界遺産に」という大きな問いから考えるなら、私は成相寺を単独で調べ始めるより、「なぜ成相寺は天橋立を見下ろす山腹にあり、その景観と結びついてきたのか」から入るのがよいと思います。
成相寺を調べることが、天橋立の自然・信仰・芸術・人々の移動をつなぐ入口になるからです。
まず、四つの入口を用意する
入口① 山そのものを調べる――成相寺は、なぜ山の上にあったのか
ここが、私なら最初に入るところです。
宮津市の調査紹介によると、現在の本堂より約70m高い場所に旧境内があり、奈良時代から平安時代とみられる石垣や礎石、寺院関連の平坦地が確認されています。つまり、単なる寺伝ではなく、考古学的に調査できる山岳寺院なのです。
宮津市ホームページ
+1
問い:人々は、なぜこれほど高い場所に寺院を築いたのか。 信仰、修行、地形、水、交通、眺望。それぞれの可能性を、証拠と照らして考えられます。
入口② 雪舟の《天橋立図》から入る――なぜ成相寺が描かれたのか
国宝《天橋立図》には、天橋立、智恩寺、阿蘇海、府中の町並み、そして山上の成相寺が描かれています。しかも、実際には存在しない視点から景観を再構成した絵だと考えられています。
文化遺産オンライン
+1
問い:雪舟にとって、成相寺は天橋立の景観を構成するうえで、どんな意味を持っていたのか。
これは安田さんが追いかけている「天橋立の自然景観と文化的価値の関係」に直結します。ただし、描かれたことだけで、雪舟の意図や寺の重要性まで断定しないことが肝心です。
入口③ 参詣する人々から入る――成相寺は誰に知られていたのか
成相寺旧境内は、平安時代末期の『今昔物語集』や『梁塵秘抄』にも登場します。また、1161年や1348年に著名な僧侶が訪れた記録も、文化庁の史跡解説に紹介されています。
文化遺産オンライン
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問い:山中の霊場は、どのようにして丹後の外にまで知られ、参詣する人を集めたのか。
ここから、巡礼路、寺社間のつながり、宿泊や物資の供給、海や陸の交通へと調査を広げられます。具体的な経路や経済的な影響は、別途史料で確かめる必要があります。
入口④ 伝説と信仰から入る――なぜ「成り相う」寺なのか
本尊の観音が、飢えた僧を救うために身代わりになったという説話が、寺名の由来として伝えられています。
nariaiji.jp
+1
問い:この説話は、どのような信仰を伝え、参詣者に何を語りかけてきたのか。
伝説を事実か否かの二択で片づけず、説話が記録された時代、語られた意味、信仰との関係を調べる入口です。
私なら、最初の調査は「成相寺旧境内」から始めます
理由は明快です。現地に物証があり、歴史を問い直せるからです。
文化庁の「成相寺旧境内」の解説には、旧境内の発掘成果、古代・中世の建物跡、中世墓群、文献資料、雪舟の絵画がまとまって登場します。ここを起点にすれば、調べるべきことを具体的に絞れます。
文化遺産オンライン
+1
まず、次の三つだけを確かめてみてはどうでしょう。
- 山崩れの前後で、寺院の位置や伽藍はどう変わったのか。 1400年の山崩れという寺伝と、発掘調査の成果を照合する。
- 成相寺は、いつ、どのように山岳霊場として知られるようになったのか。 『今昔物語集』『梁塵秘抄』など、年代の分かる史料を追う。
- 成相寺と天橋立の結びつきは、いつ、どのような資料に現れるのか。 雪舟の絵、参詣曼荼羅、巡礼の記録を見比べる。
そして現地に行くなら、現在の境内だけでなく、旧境内の位置関係も意識して歩く。山の傾斜、平坦地、水の流れ、眺望、府中との位置関係を見ておくと、文献を読むときの問いが変わります。
最後に、安田さんに一つだけ、少し大きな問いを置いておきます。
成相寺は、天橋立を見下ろすためにそこにあるのか。それとも、成相寺という山岳霊場が長く存在してきたことによって、私たちは天橋立を違う目で見るようになったのか。
もちろん、どちらか一方と決める必要はありません。けれど、この問いを持っておくと、成相寺を単なる「天橋立の展望所」や「古いお寺」として終わらせずに済みます。
そして、ここから天橋立の世界遺産としての価値を考え直せるかもしれません。
最初から全部を調べようとしない。まず一本、いや、まず一つの遺構から。
3800本の巨樹調査の教訓が、ここでも生きそうですね。(^.^)
◆2 おお、、パーツにくずしてもらったというか、レントゲンをあててもらたというか、なるほど、、!とおもえました、、ありがとう、まず反応したのは山崩れ、、この言葉ですねそうなんだよなあと!、
おおお!!そこでしたか!!(^.^)
「山崩れ」――この四文字が、安田さんの中で引っかかった。
私は、ここに大きな入口があると思います。
成相寺の歴史を読むと、704年の創建伝承、修験道、観音信仰、雪舟、巡礼……と、どうしても人間の営みを追いかけたくなります。
ところが、「1400年ごろ、山崩れによって寺が現在地へ移った」という話に目を向けると、突然、自然の側から歴史を読み直すことになる。
山が動けば、寺の歴史も動く
7
仮に山崩れが寺院の移転を引き起こしたのなら、そこにはいくつもの問いが生まれます。
- 何が崩れたのか。 寺院の敷地なのか、背後の斜面なのか。どの範囲で、どのような地形変化が起きたのか。
- なぜ崩れたのか。 豪雨、地下水、地質、斜面の構造など、どんな要因が考えられるのか。
- 移転はどのように進んだのか。 寺院の建物や参詣路はどう変わり、信仰の場はどのように受け継がれたのか。
- その出来事は、天橋立を取り巻く山地の歴史を考える手がかりになるのか。
ただし、ここは慎重に。1400年の山崩れという伝承があることと、その崩壊の地質学的な原因や規模が実証されていることは、別の話です。まず史料と発掘成果を確認し、地形・地質の調査と照合したいところです。
そして、安田さんが追ってきたテーマにつながる
天橋立は、山・川・湾・砂州の関係から生まれた景観です。
その山地も、ずっと動かない背景ではありません。崩れ、土砂が動き、川が運び、海岸の地形が変わる。人間は、その変化する大地の上に寺を建て、道を通し、信仰を育ててきました。
ここに、安田さんのいう「自然美と文化的価値の関係」を読み解く手がかりがありそうです。
自然が歴史の舞台をつくるだけではない。自然の変化そのものが、人間の歴史を動かすこともある。
成相寺の「山崩れ」は、その可能性を具体的に問い直せる出来事なのですね。
それにしても面白い。3800本の巨樹を「しらみつぶし」に調べた人が、今度は寺の歴史を読んでいて、たった四文字の「山崩れ」に足を止める。
これもまた、長く土地を見てきた人の目線でしょう。(^.^)
次に掘るなら、私はまず、旧境内と現在の境内が地形上どのような位置関係にあるのかを見たいです。そこから始めれば、「山崩れ」が単なる寺伝なのか、具体的な地形変化を伴う歴史的な出来事なのかを、少しずつ確かめていけます。
◆3 成相寺のある山は、鼓が岳といって山田断層にそって形成された花崗岩を山体とする山で、風化してくずれやすいのです、今もくずれ続けています、くずれる、承知でたてたのでしょうね、では、なぜあえてここだったか!!ですね
あああ、そこですね!!(^.^)
安田さんは、すでに山の成り立ちをご存じなのですね。山田断層に沿う花崗岩の山体、風化して崩れやすく、今も崩壊が続いている。その山に、長い歴史を持つ成相寺がある。
すると、問いが変わります。
「なぜ山崩れが起きたのか」だけではない。「なぜ、崩れる危険を抱えたこの山が、信仰の場に選ばれたのか」ですね。
私は、ここに三つの仮説を置いてみたいです。
① 人里から離れた、修行にふさわしい山だったのか
山岳修行では、険しさや人里からの隔たりが、修行の場としての意味を持つことがあります。
成相寺の旧境内は、現在の境内よりさらに高い場所にあったとされ、修験道との関係が伝えられています。
ただし、険しい山だったから成相寺が選ばれた、とすぐに結論づけることはできません。周辺の山岳霊場との比較や、旧境内の遺構が必要になります。
② 天橋立を望む山だからこそ、特別な意味を持ったのか
ここは、安田さんの世界遺産への問いとつながります。
天橋立は海辺の景観ですが、それを見下ろす山には寺院がある。山と海、信仰と景観が、一つの場所に重なっています。
ただし、現在の眺望が創建時にも同じように見えていたのか、また眺望そのものが立地選択の理由だったのかは、別々に確かめる必要があります。
景色が美しいから寺を建てたのか。それとも、信仰の場として選ばれた山が、後世に天橋立を眺める特別な場所にもなったのか。
この順序を見極めるのは面白いですね。
③ 崩れる山も含めて、聖なる場所だったのか
これは、さらに慎重に扱いたい仮説です。
現代の私たちは、崩壊しやすい山と聞くと、まず危険性を考えます。しかし、古代の人々がその地形をどのように認識し、山にどんな意味を見いだしたかは、現代の防災意識からは決められません。
崩れやすさそのものが聖地選定の理由だったという証拠は、今のところ示せません。
一方で、山岳信仰を考えるなら、山の形、岩場、湧水、眺望、隔絶性など、土地の具体的な特徴を一つずつ検討する価値があります。
そして、私が最も知りたいこと
安田さんの指摘を踏まえると、成相寺の立地を考えるには、「なぜこの山か」と「なぜこの山の、この場所か」を分ける必要がありそうです。
- なぜ鼓ヶ岳という山が選ばれたのか。
- なぜ山頂ではなく、さらに高い旧境内や現在の山腹に寺院が置かれたのか。
- 山崩れによる移転は、信仰の場を変えたのか、それとも信仰を保つために場所を変えたのか。
ここで、704年という創建伝承と、発掘調査で確認できる旧境内の年代を混同しないことも大切です。寺伝の創建年が、そのまま現在の場所の成立年代を示すとは限りません。
安田さん、ひとつ伺いたいです。
成相寺の旧境内からも、天橋立を望むことができるのでしょうか。
もし旧境内の眺望が確認できれば、立地の意味を考えるうえで重要な手がかりになります。眺望が主な理由だったとはまだ言えませんが、山岳信仰と天橋立の景観がどのように結びついていたのか、問いを具体化できそうです。
◆4 (^.^)成相寺の旧境内から望む天橋立景観を成相山大観望と言います!
あっはっはっは!!(^.^)
成相山大観望!!
そうでしたか。私が「旧境内から天橋立を望めるのでしょうか」と尋ねたら、安田さんから答えが返ってきた。しかも、ちゃんと名前までついている!
これは一本取られましたね(笑)。
でも、ここからが面白い。
「なぜ、あえてこの山だったのか」
いま、私たちの前には三つの事実・論点が並んでいます。
- 地質――山田断層に沿う花崗岩の山体。風化・崩壊が続いている。
- 信仰――成相寺は山岳修行の場として伝えられ、旧境内は現在の境内より高い場所にあった。
- 景観――旧境内から天橋立を望む場所が、成相山大観望として知られている。
この三つを重ねると、成相寺を単なる「天橋立の展望所」として見るのではなく、山の地質・山岳信仰・天橋立の景観が交わる場所として考えられます。
ただし、ここで急いで「眺望を得るために寺を建てた」と結論づけてはいけません。寺院の成立が先で、眺望が後世に評価された可能性もあります。
そこで、次の問いが浮かびます。
成相寺の人々は、天橋立を見ていたのか。それとも、天橋立を含むこの山と海の世界の中で、信仰を営んでいたのか。
両者は似ているようで、ずいぶん違いますね。
前者なら眺望の価値が中心になります。後者なら、山そのもの、修行の場、海と陸のつながり、そして天橋立までを含む風土全体が、信仰を支えた可能性を考えることになります。
安田さんが探しているのは、きっと後者も含めた、もっと立体的な理解なのでしょう。
そして、山崩れの問題に戻る。
崩れやすい山だった。それでも、この場所に寺が営まれ、山崩れの後も場所を移して信仰が続いた。
もし史料や地形調査でその経緯を確かめられれば、成相寺の歴史は、自然が人間の営みを制約するだけでなく、人間がその変化にどう応じてきたかを示す事例になります。
いやあ、成相山大観望から始めると、天橋立の見方そのものが変わってきますね。(^.^)
◆5 山岳信仰山岳宗教、山岳修行について、ポイントを解説くださいな
安田さん、成相寺を読み解くうえで、この三つの言葉を区別しておくと、ずいぶん見通しがよくなります。(^.^)
山岳信仰・山岳宗教・山岳修行。 互いに関係していますが、同じ意味ではありません。成相寺を考えるときは、信仰が生まれ、宗教として形づくられ、人が山で実践する――その重なりを見ていきたいのです。
1. 山岳信仰――なぜ山を敬うのか
日本では古くから、山は神霊が宿る場所、神そのものとして崇められる場所、水や生命をもたらす場所、祖霊とつながる場所などと考えられてきました。こうした山への畏敬や祭祀を、広く「山岳信仰」と呼びます。
National Parks of Japan
+1
山は、人間に恵みを与える一方、土砂崩れや洪水などの脅威にもなります。
ここで大切なのは、山岳信仰を単に「昔の人は山を神様だと思った」と説明して終わらせないことです。
- 山から流れる水が、里の暮らしを支える。
- 山の頂や岩場が、日常とは異なる神聖な場所と受け止められる。
- 山に入ることが、特別な祈りや修行になる。
- 山の恵みと危険の両方が、人々の山との関係を形づくる。
ただし、これらがすべての山、すべての時代に当てはまるわけではありません。具体的な山ごとに、どのような信仰があったのかを確かめる必要があります。
2. 山岳宗教――山への信仰が、宗教の仕組みになる
「山岳宗教」は、山を聖なる場所とする信仰が、仏教などの教えや儀礼、寺院、修行者、巡礼の仕組みと結びついたものを考えると理解しやすいです。
日本では、仏教が伝来した後、山への信仰と仏教、とりわけ密教などが重なり、山を修行の場とする宗教文化が発達しました。その代表的なものが修験道です。
Japan Tourism Agency,Japan Tourism Agency
+1
ここで注意したいのは、山岳信仰が最初から修験道だったわけではない、ということです。
山への信仰には長い歴史があり、修験道はその信仰が仏教などと結びつき、独自の実践体系を発達させたものです。また、成相寺が古くから山岳霊場だったことと、創建当初から後世と同じ修験道の制度が整っていたことも、分けて考えなければなりません。
3. 山岳修行――なぜ、わざわざ山に入るのか
山岳修行は、山を単に礼拝するだけでなく、自ら山に入り、身体を使って修行することです。
修験道では、山中を歩く、峰々を巡る、滝や水で身を清める、断食や祈りを行うなどの実践を通じて、心身を鍛え、宗教的な力を得ようとしました。山中での修行によって得た力を、人々の救済や祈願に役立てることも重要な要素でした。
Japan Tourism Agency,Japan Tourism Agency
+1
つまり、山は信仰の対象であると同時に、修行を行う場所でもあったのです。
4. では、成相寺はどう位置づけられるのか
ここで、成相寺に戻りましょう。
成相寺旧境内について、文化庁は、奈良時代の遺物が出土し、平安時代から室町時代にかけての寺院関連遺構や中世墓群が確認された、重要な山林寺院跡と説明しています。また、『今昔物語集』や『梁塵秘抄』にも成相寺に関する記述があり、平安時代末期には山岳霊場として広く知られていたことがうかがえます。
文化遺産オンライン
+1
ここから、調査すべき問いが見えてきます。
| 視点 | 成相寺で確かめたいこと |
|---|---|
| 山岳信仰 | なぜ、この山が聖なる場所として選ばれたのか |
| 山岳宗教 | いつ、どのような教えや儀礼を持つ寺院として発展したのか |
| 山岳修行 | 旧境内や周囲の山々が、修行の場としてどう使われたのか |
| 地形・地質 | 山の地形や崩壊は、寺院の立地や移転にどう関係したのか |
| 景観・芸術 | 成相山大観望や雪舟の《天橋立図》は、山と海の関係をどう伝えているのか |
最後の二つは、安田さんが取り組んでいる自然景観と文化的価値の探究に、特に深くつながります。
ただし、成相寺の旧境内が天橋立を望む場所にあったという事実だけで、その眺望を求めて寺が建てられたとは言えません。信仰が先だったのか、眺望が立地選択に関係したのか、あるいは後世に景観の意味が深まったのか。史料と現地の地形を照らし合わせる必要があります。
私なら、成相寺の調査を「山を信仰した人々は、山に何を求めていたのか」という問いから始めます。
そして、その問いを成相寺の旧境内、山崩れ、成相山大観望へと具体化していく。
山を崇めること、山に宗教の場をつくること、山に入って修行すること。この三つの違いを押さえると、成相寺が単なる古刹ではなく、山と人間の関係を長い時間の中で考えるための場所として見えてくると思います。
◆6 修行僧のかぶり物をヤマボウシ、そのやまぼうしの名付けられたやまぼうし、四照花ともよばれているんですって(^.^)
おお、そこにも「山」が出てきましたね!(^.^)
ヤマボウシ――山法師。 白い総苞片を、比叡山などの僧兵・山法師がかぶった頭巾に見立てた、というのがよく紹介される名前の由来です。
そして「四照花(ししょうか)」という別名もあるのですね。中国ではヤマボウシの仲間を「四照花」と呼びます。日本の植物名と漢名では、同じ植物を見ていても、名前の由来や見立てが異なることがあります。
ここで、成相寺の山岳信仰とつなげてみると面白い。
- 山で修行する人々がいる。
- その人々の装束や頭巾が、植物の姿を表現する言葉になる。
- 植物の名前を通して、山で暮らす人間の姿が自然の中に残る。
もちろん、ヤマボウシの名が成相寺や修験道に直接由来するということではありません。でも、人間が山で営んできた文化が、自然を観察し、名づけるときの物差しにもなっている。そこが面白いのです。
安田さんが巨樹を3800本も調べてこられたこととも、つながりますね。
木を一本見つける。名前を調べる。その名前の背景をたどると、人間の歴史や信仰が顔を出す。
山は、地質や生態系だけでできているのではない。人間が山をどう見てきたかという記憶も、重なっている。
いやあ、成相寺の山から植物の名前へ。こうして話が横に伸びるのが、丹後を掘る面白さですね。(^.^)
◆7 成相寺山麓にもおおい木です、全木が花、夕暮れの遠目では、法師が山駆けしてらっしゃるとおもうほどですよ!
ああ、それは見事な光景でしょうねえ!(^.^)
成相寺の山麓を覆うヤマボウシが、一本一本、木全体に花をつける。昼間なら白い花の集まりと見えるものが、夕暮れの遠目には、山を駆け上がる法師たちの姿に見えてくる……。
ここで、ヤマボウシという名前が、ただ植物の形を説明する言葉ではなくなりますね。
成相寺は、かつての山岳修行の場。山を行き来した修行僧たちの記憶が、土地の歴史として残っている。その山麓で、法師の頭巾を思わせる花が一斉に咲く。もちろん、花と修行の歴史が直接つながっているとまでは言えません。でも、土地の記憶を知った目には、自然の景色が別の姿を見せてくれる。
しかも、夕暮れという時間がいいですね。一本の木を見分ける昼間の目から、山全体に動くものを感じる目へ。
「見えないものをみる、それがSSH」――まさに、そんな景色ではありませんか。
ところで、ひとつ気になりました。ヤマボウシが山麓一帯で咲くのは、もともと自生していた木々なのでしょうか。それとも、植栽されたものも多いのでしょうか。そこにも、成相寺と人々の暮らしとの関係を読み解く手がかりがありそうです。










