◆1 創建時は山のさらに上方に位置し、修験道の道場となっていた。日本全国にある五つの「聖の住む所」の一つ 、、この意味は大きいですね、深掘りください!!
これは、成相寺を深掘りするうえで、まさに大きな手がかりです!
安田さん、ここで大切なのは、「成相寺は古いお寺だった」という話にとどめないことだと思います。なぜ山の上に修行の場が生まれ、なぜ平安時代には遠く離れた人々に知られる霊場となり、なぜその場所が後世まで記憶されたのか。 そこを追うと、成相寺は天橋立を眺めるお寺から、丹後の山と海、信仰と交通、人々の交流を読み解く場所に変わってきます。
まず、史料から確かめましょう。
1. 「聖の住む所」とは、どこまで特別だったのか
成相寺の公式説明は、成相寺が「日本古来の山岳宗教の修験場」であり、「日本全国にある五つの『聖の住む所』の一つ」として信仰を集めた、と紹介しています。
nariaiji.jp
+1
ただし、ここには大事な注意があります。「五つ」という表現の出典や、五か所を選んだ基準までは、この説明だけでは確定できません。 ですから、現時点では「全国の聖地のうち、成相寺が公式に五つの一つと紹介されている」と押さえ、誰が、いつ、何を根拠に五つとしたのかを、次の調査課題にしたいところです。
一方、成相寺が中世に全国的な山岳霊場として知られていたことには、具体的な史料があります。
2. 『梁塵秘抄』に残された、成相寺の全国的な名声
平安時代末期の歌謡集『梁塵秘抄』には、霊験あらたかな場所を列挙する歌があります。文化庁の史跡解説に引かれている一節です。
四方の霊験所は、伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯耆の大山、丹後の成相とか……
この歌には、成相寺だけでなく、走湯、戸隠、富士山、大山など、各地の著名な霊場が並びます。
国指定文化財データベース
+1
ここが重要です。
成相寺は、丹後の人々だけが信仰する山寺ではなかった。平安時代末期には、各地の霊験所と肩を並べる場所として、歌に詠まれるほど知られていたのです。
ただし、これは現代のランキングのように「全国五大霊場」を定めたものではありません。歌には五か所を超える地名が登場します。「五つの聖の住む所」という説明と、この歌の霊場群は、まず別の表現として扱う必要があります。
3. 山の上に何があったのか――考古学が動かした成相寺史
ここからが、安田さんの好きな「掘る」部分です。
① 奈良時代にさかのぼる遺物
山頂付近から奈良時代後半の土師器・須恵器などが出土しています。寺伝の創建年は704年ですが、考古資料からも奈良時代にこの山中で人々が活動していたことが裏づけられます。
国指定文化財データベース
+1
② 山中に築かれた堂宇
現本堂より山頂側の平坦地では、石垣を伴う造成面や礎石の可能性がある石が確認されています。規模や出土遺物から、11~12世紀の中心的な堂跡である可能性が指摘されています。
国指定文化財データベース
+1
③ 修行や信仰の場を支えた人々
山中では13世紀後半~14世紀のものと考えられる火葬墓・土坑墓なども確認されています。山寺は堂だけで成立していたのではなく、そこで暮らし、祈り、亡くなった人々の痕跡を伴っていたのです。
国指定文化財データベース
+1
これらは文化庁の指定解説に記載された調査成果です。成相寺旧境内は2016年に国の史跡に指定されました。
国指定文化財データベース
+1
ここから見えてくるのは、山中にぽつんとお堂があった、という単純な姿ではありません。造成された平坦地、堂宇、墓域、複数の活動場所が広がる、山を利用して組み立てられた宗教空間です。
4. では、なぜ山の上だったのか
ここは、史料で確かめられることと、私たちが考える仮説を分けましょう。
山岳修行では、山に入ること自体が宗教的な実践になり得ます。里の日常から離れ、険しい地形や天候に身を置き、山中を歩き、祈り、修行する。山は信仰の背景ではなく、修行を成立させる場所そのものだったのです。
成相寺の旧境内については、修験の道場だったと伝えられています。ただし、発掘された建物や墓の存在だけで、個々の建物でどんな修行が行われたかまで確定できるわけではありません。
それでも、次の問いは立てられます。
- なぜ山頂近くに堂宇を設けたのか。
- 水や食料、薪などをどう確保したのか。
- 山中の堂宇と、ふもとの集落や海上交通はどう結ばれていたのか。
- 天橋立や阿蘇海を望む地形は、信仰の世界観とどのように関係したのか。
安田さんが先ほど教えてくださった成相山大観望も、ここにつながります。景観が美しいから寺を建てた、と結論を急ぐのではなく、山上の宗教空間から海と砂州を望むことに、どのような意味があったのかを考えるのです。
5. 成相寺を訪れた人々――山の信仰は閉じていなかった
成相寺の歴史を、修行僧だけの物語にしてしまうのも惜しいところです。
文化庁の解説によると、1161年には後の天台座主・覚忠が、1348年には本願寺の覚如が成相寺を訪れています。また、中世の様子は国宝・雪舟の《天橋立図》や「成相寺参詣曼荼羅」にも描かれています。
国指定文化財データベース
+1
つまり、成相寺は山中の修行の場であると同時に、遠方の高僧も訪れ、参詣者を迎え、絵画に描かれるほどの存在でした。
ここには、山に籠もる信仰と、山の外へ広がる信仰という二つの面があります。
山に入ることで聖性を求める。そして、その聖性を求めて人々が山を訪れる。
成相寺は、その両方を考えることのできる場所です。
6. 「五つの聖地」を、どう深掘りするか
ここから先は、私は次の順で調べたいです。
- 『梁塵秘抄』の原文と研究解説を確認する。 成相がどのような霊験所の一つとして詠まれ、当時の人々にどう理解されていたか。
- 「聖の住む所」という表現の出典を探す。 成相寺の公式説明が何を根拠としているのか、いつからこの表現が使われているのか。ここはまだ確認が必要です。
- 成相寺旧境内の発掘成果を追う。 堂宇の配置、墓域、出土遺物から、山中の宗教空間がどのように展開したかを考える。
- 他の山岳霊場と比較する。 戸隠、大山、富士などとの共通点だけでなく、成相寺ならではの地形、信仰、海との関係を探る。
私が特に注目したいのは、「全国的に有名だった」という結論よりも、なぜ丹後の成相寺が全国的な霊場として認識されるに至ったのか、という問いです。
山があったから寺ができた、だけではありません。修行する人が山を選び、信仰が育ち、訪れる人が増え、物語や歌に記録される。その積み重ねが、山の意味を変えていったのかもしれません。
そして、天橋立を眼下に望む成相寺の山上からは、海、砂州、集落、航路へと視野を広げられます。
安田さんの言葉でいえば、ここはまさに「掘る・繋ぐ・問い返す」場所ですね。まず次の一歩は、『梁塵秘抄』の「丹後の成相」が、当時の霊場としての成相寺をどこまで語っているのか。そこから入ると、伝承だけに頼らず、史料から成相寺の全国的な位置づけを深められます。
◆2 修行には奥山駆けもあると聞きます、丹後半島山地と想定しますが、具体的なコースなど名研究されていますか
あります。ただし、調べてみると、安田さんの問いには大事な区別が必要です。
成相寺へ参詣する道は、具体的な古道名まで伝わっています。一方、丹後半島の山々を縦走する「奥山駆け」の修行コースについては、今回確認できた資料だけでは、歴史的なルートを確定できません。
この違いが、調査の出発点になりそうです。
1. 成相寺へ登る古道は、かなり具体的に分かっている
宮津市の解説によれば、府中から成相寺へ向かう山中には、次のような古道が残っています。
宮津市ホームページ
- 本坂道 — 中野を登り口とし、町石が一町ごとに置かれた主要な参詣道
- 西谷道
- 大師道
- 大谷道
- 真名井道
- 東谷道
これらは、まず成相寺という霊場へ人々が向かうための道です。とりわけ本坂道の町石は、参詣の道筋を具体的にたどる手がかりになります。
しかし、ここで慎重にしたいのは、成相寺への参詣道が、そのまま修験者の奥山駆けのコースだったとは限らないということです。参詣道と、山中で修行するための道は、重なっていた可能性もありますが、史料で確認する必要があります。
2. 丹後半島全体では、まさに研究が進められている
今回見つかった、特に重要な資料があります。
**『丹後半島における修験場等山寺跡に関する調査報告』**です。京都府立大学の研究者らが執筆し、2021年の研究報告として公開されています。
kpu-his.jp
報告では、次の場所に注目しています。
① 成相寺と周辺の行場
丹後を代表する山寺と、その周辺に残る修験者の修行場所。成相寺だけでなく、山中に点在する行場跡を含めて考える視点です。
② 金剛童子山(標高613.4m)
丹後半島中央部の山です。役行者が修行したという伝承があり、古い地誌『丹哥府志』にも修験の行場に関する記述があります。ただし、同書自身も確かな記録がないことに注意を促しています。
コトバンク
+1
③ 府中・大垣地区の行者堂
地域に残る行者堂も、修験の活動を考える手がかりとして調査対象になっています。山中の行場だけでなく、山麓の集落との関係も重要です。
kpu-his.jp
この報告の重要な指摘は、丹後半島一帯が修験者の行場だったという説があるものの、その全容はまだ明らかになっていない、という点です。
kpu-his.jp
つまり、「奥山駆けのコースが分かっているか」という問いに対しては、研究が存在する一方、半島全体を結ぶ歴史的なルートが確定したとは言えない、というのが現在の慎重な答えです。
3. 私なら、ここから「線」を復元します
安田さんの「数珠紐と数珠珠」の発想が、ここでも使えますね。
- 数珠珠:成相寺、金剛童子山、行者堂、山寺跡、岩屋、磐座など
- 数珠紐:それらを結んだ山道、尾根道、谷道、参詣道
- 人のつながり:修験者、寺院、山麓の集落、物資を支えた人々
ただし、地図上で山寺跡を結べば、それだけで修行ルートが復元できるわけではありません。古文書、地名、道標、石造物、発掘成果、地域の伝承を照合する必要があります。
研究の入口としては、京都府立大学の調査報告が最も直接的です。
次に掘りたいのは、金剛童子山です。 成相寺とは別の山岳霊場が丹後半島中央部に存在したこと、そして吉野山から金剛童子山へ向かう修行路の伝承があること。この二つを追えば、成相寺一山の歴史から、丹後半島の山岳信仰のネットワークへと視野を広げられそうです。
ただし、現段階では「成相寺から金剛童子山まで一続きの奥駆けコースがあった」とは言えません。そこを証拠で確かめること自体が、これからの研究課題ですね。
◆3 おお金剛童子山、、行者山とも呼ばれ、女人禁制、白龍が守る聖山と伝えられている山、つながりますね!
つながりますねえ!(^.^) しかも、単に「修験道の山が二つある」というだけではなさそうです。
今回の資料を重ねると、成相寺を丹後半島北端の海を望む山岳霊場、金剛童子山を半島中央部の山岳霊場として、両者を結ぶ修験の世界を探るという見取り図が浮かびます。
金剛童子山は地元で「行者山」「熊野山」とも呼ばれ、役行者の修行伝承があり、山への道筋には「休堂」「かねかけの行場」「御手洗の池」「行者堂」「西の行場」などの名が伝えられています。これらは、山を登るだけでなく、途中の場所ごとに修行を行った可能性を考える手がかりです。
youtampou.sakura.ne.jp
+1
そして、安田さんが挙げられた 女人禁制と白龍の伝承。ここは、さらに丁寧に掘りたいところです。
- 女人禁制は、山を日常世界と異なる聖域として区切る仕組みだった可能性があります。ただし、金剛童子山でいつから、どの範囲に、どのような禁制があったのかは、個別の史料で確かめる必要があります。
- 白龍は、水や池、山の霊力と結びつく伝承なのかもしれません。ただし、龍の伝承があることだけで、修験道の特定の儀礼や水神信仰があったと断定はできません。
- 行場の名前は、実際に行われた修行を記憶している可能性があります。地元の伝承、古地誌、現在の地形を照らし合わせれば、修行の場の配置が見えてくるかもしれません。
ここで面白いのは、金剛童子山周辺について、古地誌『丹哥府志』が役行者の修行伝承を記す一方、確かな記録がないことにも注意を促している点です。伝承をそのまま史実とせず、古い記録として残っていること自体を研究対象にする姿勢が必要です。
tangonotimei.com
私なら、次の三つを地図上に重ねます。
- 成相寺旧境内と、成相山大観望を含む山中の宗教空間
- 金剛童子山の行場群と、吉野山から続いたと伝えられる修行路
- その間にある山寺跡、行者堂、古道、集落
京都府立大学の調査報告も、丹後半島には成相寺と関わる修験者の行場跡が点在し、半島全体が修験の行場だったとする説があるものの、その全容は未解明だとしています。
kpu-his.jp
ひょっとすると、丹後半島の山々は、個々の霊場が孤立していたのではなく、複数の山と里を行き来することで意味を持つ宗教的な地域だったのかもしれません。 ただし、成相寺と金剛童子山を直接結ぶ奥駆けルートがあったかどうかは、まだ別途立証が必要です。
安田さんの「掘る・繋ぐ・問い返す」でいえば、いまは珠が二つ見つかり、珠の間に紐があったのかを調べ始める段階ですね。ここから先は、白龍伝承の採録地と、女人禁制を示す具体的な石碑・結界跡の有無を探ると、金剛童子山の信仰の実像に近づけそうです。










