宮津エコツアー · 時代の状況の中で、修験道、山岳信仰、修験の僧たちはどんな役割を果たしていたのか、、成相寺を掘る!  天橋立を世界遺産に 221

時代の状況の中で、修験道、山岳信仰、修験の僧たちはどんな役割を果たしていたのか、、成相寺を掘る!  天橋立を世界遺産に 221

◆1 伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯耆の大山、丹後の成相とか……この歌には、成相寺だけでなく、走湯、戸隠、富士山、大山など、各地の著名な霊場が並びます。ここが重要です。
成相寺は、丹後の人々だけが信仰する山寺ではなかった。平安時代末期には、各地の霊験所と肩を並べる場所 さて、、、丹後へ行くならまず、、天の橋立へ、、ではなかったのですね、、、ははははははははは、、、、、、たんごへいくなら、成相寺、、、だった、、すり替わった、、すり替えている、、 山伏は消された 「あかんじゃん」(^.^)

↑ 上世屋 銚子の滝 ブラ丹後花鳥風月

はははははは!! これは、丹後人としては笑って済ませられない発見かもしれませんね!(^.^)

「丹後へ行くなら天橋立」ではなく、平安時代末期の歌の世界では「丹後の成相」だった。

少なくとも『梁塵秘抄』が記録した当時、成相寺は全国の霊験所と並ぶほど知られていた。しかも、山上には寺院の建物跡や中世墓群が見つかっています。これは後世の観光宣伝ではなく、史料と考古学の両方から確かめられる歴史です。

国指定文化財データベース

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ただし、ここは一つ、面白い問い返しをしたいのです。

「すり替わった」のか、それとも「見えなくなった」のか

『梁塵秘抄』の歌は、天橋立を名指ししていません。成相寺という山岳霊場を名指ししています。

その後、成相寺は観音霊場として信仰を集め、雪舟の《天橋立図》や「成相寺参詣曼荼羅」にも登場します。つまり、中世にも成相寺と天橋立は、まったく無関係だったわけではありません。

国指定文化財データベース

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ここから先は、まだ仮説ですが――

  • 中世の視線:山岳修行、観音信仰、霊験を求めて成相寺へ。
  • 近世以降の視線:名所、和歌、絵画、遊覧の対象として天橋立へ。
  • 現代の視線:日本三景、観光地、そして世界遺産を目指す景観として天橋立へ。

このような重心の移動があったのではないか。

山伏が文字どおり「消された」とまでは言えません。でも、山伏や修行の歴史が、天橋立を語る現代の観光物語の中で、目立たなくなっているのだとすれば、それは検証する価値のある問題です。

そして、安田さんの「あかんじゃん!」は、ここに効いてきます。

天橋立の美しさを否定する必要はない。むしろ、天橋立を見下ろす山に、かつて全国に知られた霊場があり、修行する人々がいて、山と海を一体の世界として生きていた可能性を、もう一度物語に戻す。

「天橋立の歴史」だけでなく、「天橋立を生み、その景観を見つめてきた山の歴史」も語る。

これなら、観光の看板を取り替える話ではありません。天橋立の見え方そのものを、もう一段深くする話です。

そして最後に、ぜひ確かめたいことがあります。

『梁塵秘抄』の時代に、成相寺を訪れた人々は、山上から天橋立を眺めていたのでしょうか。それとも、彼らにとって大切だったのは、眺望よりも観音の霊験や山中での修行だったのでしょうか。

この問いを解かずに、現代の「絶景」という価値観を過去に重ねてしまうと、今度は私たち自身が歴史をすり替えてしまいますからね。(^.^)

◆2 平安時代に、日本の山伏世界を統括されていたかたはどなたでしたか、その組織形態について解説くださいな

安田さん、ここは歴史の大きな分かれ目ですね。(^.^)

先に結論をいうと、平安時代の日本全国の山伏を、一人の最高指導者が統括していたわけではありません。 後世に成立する本山派・当山派の二大組織を、平安時代にそのまま当てはめないことが大切です。

1. 平安時代、山伏の頂点にいたのは誰か?

「全国の山伏を統括した人物」という意味では、該当する一人を挙げることはできません。ただし、修験道の歴史を考えるうえで、重要な人物がいます。

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役小角(えんのおづぬ/役行者)

7世紀後半に活動したとされ、後世に修験道の開祖と仰がれた人物です。山岳修行の祖としての宗教的権威は大きいものの、平安時代に全国の山伏を統括する組織の長だったわけではありません。

コトバンク

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九州国立博物館 | 特別展:京都・醍醐寺 ―真言密教の宇宙―

聖宝(しょうぼう、832–909)

真言密教の僧で、後世に修験道中興の祖として尊崇されました。醍醐寺や金峰山との関係から、山岳修行の歴史を考える際に重要な人物です。ただし、彼も全国の山伏を一元的に統括した人物ではありません。

Adeac

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増誉(ぞうよ、1032–1116)

聖護院の歴史と本山派の成立を考えるうえで重要な人物です。白河上皇の熊野参詣に関わり、のちに聖護院門跡となりました。ただし、これも全国の修験者を統括する近世的な組織が、すでに平安時代に完成していたという意味ではありません。

立正大学リポジトリ

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この三人は同じ役割ではありません。役小角は開祖としての伝承、聖宝は修験の中興とされる宗教的系譜、増誉は後世の本山派につながる組織形成の系譜に位置づけられます。

2. 平安時代の山伏世界は、どんな組織だったのか

現代の宗教法人のように、全国に本部・支部が整然と置かれ、指導者が全国の修行者を指揮していたわけではありません。

おおまかには、次のような重なり合う世界だったと考えると分かりやすいです。

朝廷・貴族・有力寺院

祈願の依頼、保護、経済的支援

大峰・熊野・金峰山などの霊場

山岳修行、峰入り、宗教儀礼

各地の行者・山林修行者・山寺

地域の信仰、祈祷、霊場間の往来

これは模式図で、当時の正式な組織図ではありません。朝廷や貴族からの保護を受ける僧、特定の寺院に属する行者、山中で修行する者、各地を巡る宗教者など、さまざまな立場がありました。修験道そのものも、山岳信仰と仏教・密教などが結びつきながら、平安時代末期から中世にかけて宗教体系として整えられていきました。

コトバンク

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3. 本山派と当山派は、いつ成立したのか

後世の二大組織を整理すると、次のようになります。

系統中心となった寺院・霊場大まかな特徴
本山派聖護院、熊野系の修験天台系の修験者を中心に組織化
当山派醍醐寺三宝院、吉野・金峰山系の修験真言系の修験者を中心に組織化

この二派の組織化は、中世を通じて進みました。全国の山伏を本山派・当山派のどちらかに属させる統制が制度として強化されるのは、江戸時代初期です。1613年の修験道法度は、その大きな節目でした。

ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−

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したがって、平安時代の成相寺を「本山派の傘下だった」と、根拠なしに説明することはできません。当時の成相寺の宗教的な系譜や、どの霊場・寺院と人的なつながりがあったのかを、個別の史料から確かめる必要があります。

4. ここで成相寺に戻りましょう

安田さんが最初に注目された『梁塵秘抄』の「丹後の成相」は、平安時代末期に成相寺が全国的な霊験所の一つとして知られていたことを示します。

しかし、そこから直ちに「成相寺は全国の修験道組織の支部だった」とは言えません。

むしろ、調べるべきは次の三点です。

  1. 成相寺は、どの寺院・高僧とつながっていたのか。
  2. 成相寺の行者は、大峰・熊野・金峰山などへ出向いていたのか。
  3. 成相寺の山中で修行する人々は、丹後のほかの山寺・行場とどのような関係を持っていたのか。

ここが解明できれば、成相寺が単独の霊場だったのか、それとも広域的な修験のネットワークの一部だったのか、具体的に論じられます。

安田さんの問いの核心は、全国を統括する「誰か」を見つけること以上に、平安時代の山伏たちが、どのような人間関係と霊場のつながりによって動いていたかを明らかにすることなのだと思います。

その視点で見れば、成相寺と金剛童子山の間に、歴史的な「紐」があったのかを調べることも、単なる山道探しではなく、丹後の宗教史を解く仕事になりますね。

◆3 あらためて、チェックくださいな!!成相寺は、どの寺院・高僧とつながっていたのか。

  1. 成相寺の行者は、大峰・熊野・金峰山などへ出向いていたのか。
  2. 成相寺の山中で修行する人々は、丹後のほかの山寺・行場とどのような関係を持っていたのか。

安田さん、改めて史料を照合しました。今回は、成相寺と他の霊場とのつながりを、確認できる事実・可能性・未確認事項に分けて整理します。結論からいうと、成相寺が全国的な山岳霊場だったことは確かですが、成相寺の修験者が大峰・熊野・金峰山を巡ったことや、丹後の山々を結ぶ修行ルートまでは、現時点で確認できていません。

1. 成相寺は、どの寺院・高僧とつながっていたのか

まず、史料に現れる具体的な接点です。

年代人物・史料確認できること
平安時代末期『今昔物語集』「丹後国成合観音霊験語」を収録。成相寺の観音信仰と霊験譚が広く知られていた。
平安時代末期『梁塵秘抄』成相が全国の霊験所と並べて歌われている。
1161年覚忠後に天台座主となる覚忠が成相寺を訪れた。
1348年覚如本願寺第三世の覚如が訪れ、その足取りが『慕帰絵詞』に記されている。

文化庁の「成相寺旧境内」の解説で確認できる内容です。

国指定文化財データベース

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ここから言えるのは、成相寺が地域の小さな山寺にとどまらず、著名な僧侶が訪れるほどの宗教的な名声を持っていたことです。

ただし、覚忠が天台座主になったことは、成相寺が天台宗の組織に属していた証拠にはなりません。 また、覚如の参詣も、本願寺との組織的な所属関係を直接証明するものではありません。

現段階では、訪問者の記録と、寺院同士の所属・師弟関係を区別する必要があります。

2. 成相寺の行者は、大峰・熊野・金峰山へ出向いていたのか

ここは、今回の調査では直接の証拠を確認できませんでした。

大峰・熊野・金峰山は修験道の重要な霊場ですが、一般に修験者がこれらの霊場を巡ったことと、成相寺の行者が実際に巡ったことは別の話です。成相寺の行者について、峰入りの記録、道中日記、修行者名簿、他山の寺院との往来記録などが見つかれば、具体的なつながりを示せます。

一方、成相寺が山岳霊場として全国的に知られていたことは、すでに『梁塵秘抄』などから確認できます。つまり、成相寺の名声は確かだが、行者の移動経路はまだ立証されていないという整理が適切です。

国指定文化財データベース

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3. 丹後のほかの山寺・行場との関係――ここに重要な発見があります

今回、特に注目したいのが、京都府立大学などによる調査報告です。

『丹後半島における修験場等山寺跡に関する調査報告』

この報告では、宮津市上世屋の慈眼寺に伝わる古文書を調査し、成相寺との関係を示す資料を確認しています。

kpu-his.jp

具体的には、次の内容です。

  • **1677年の「狭屋山縁起」**には、慈眼寺の由緒と真応上人・観音菩薩の霊験が記されています。
  • 同縁起の末尾には、慈眼寺が成相寺の「奥の院」である旨の記述があります。
  • 1889年には、慈眼寺の本尊開帳に際し、「成相寺奥ノ院」という名称の使用条件について、成相寺側と取り決めた資料が残っています。kpu-his.jp

これは、成相寺と上世屋の慈眼寺との関係を考えるうえで、具体的な文献上の手がかりです。

ただし、年代に注意が必要です。確認された縁起は江戸時代のものですから、この記録だけで奈良・平安時代から両寺が一体だったとまでは言えません。関係がいつ始まり、どのように変化したのかは、さらに検討する必要があります。

また、同じ調査では、上世屋の銚子の滝でかつて修行が行われたという地域の聞き取り記録や、雨乞いの儀礼も報告されています。成相寺の奥の院という寺伝と、滝での修行、観音堂での雨乞いが同じ地域に残っているのです。

kpu-his.jp

これは興味深いですね。山中の信仰は、修行者だけのものではなく、村の暮らしや水への祈りとも結びついていた可能性があります。

4. 金剛童子山との関係は?

同じ調査報告は、京丹後市弥栄町野間の金剛童子山や、宮津市府中・大垣の行者堂にも注目しています。

研究者たちは、成相寺と密接に関わる修験者の行場跡が丹後半島に点在することを指摘する一方、半島全体が修験の行場だったとする説については、まだ全容が明らかでないとしています。

kpu-his.jp

したがって、現時点での整理はこうです。

問い現在の確認状況
成相寺と上世屋・慈眼寺の関係江戸時代以降の縁起・寺務資料で確認できる
成相寺の行者が大峰・熊野・金峰山へ出向いたか直接の証拠は今回未確認
成相寺と金剛童子山の行者が同じ修行路を使ったか未確認
丹後半島に修験の行場が広く分布したか複数の行場跡が確認され、研究が進められている

5. 次に掘るべき資料

私は、次の順番がよいと思います。

  1. 慈眼寺の「狭屋山縁起」と寺籍資料をさらに読む。成相寺との関係をどのような言葉で説明しているか、奥の院という位置づけがいつ加わったかを調べる。
  2. 成相寺側の古記・寺領文書・塔頭関係資料を調べる。慈眼寺だけでなく、成相寺側から見た関係を確かめる。
  3. 金剛童子山と味土野周辺の山寺跡・行場の調査成果を、上世屋の資料と比較する。
  4. 大峰・熊野方面の修験関係史料に、成相寺や丹後の行者の名が現れるかを探す。

今回の調査で、安田さんの問いに対して一歩進んだのは、成相寺と上世屋の慈眼寺との関係を示す具体的な資料が見つかったことです。

まだ丹後半島を一周する「奥駆けの道」は復元できません。しかし、成相寺と上世屋のあいだには、少なくとも後世の文書に残る関係があります。次はその関係の年代を遡り、金剛童子山などの行場との接点を探す段階です。

「丹後の山々に修験の道があったのか」という問いは、伝承だけでなく、文書・遺構・地域の記憶を重ねて検証できる研究課題になってきましたね。

◆4 文部省が統括し独立と相互交流、を図って存在した、旧帝国大学のような位置づけだったきがします、

ああ、なるほど! 安田さんの「旧帝国大学のような位置づけ」という比喩は、各地に独自の拠点があり、それぞれの伝統と自立性を持ちながら、より広い宗教世界の中で交流していたというイメージですね。これは検討に値する見方です。

ただし、時代を分けると、かなり整理できます。

  • 平安時代:全国の山伏を一元的に統括する本部があったとは確認できません。僧侶をめぐる国家の制度として僧綱などはありましたが、それが全国の山岳修行者を直接統括していたわけではありません。国立国会図書館+1
  • 中世:熊野・吉野金峰山などの大きな霊場を中心に修験者の集団が形成され、地方の霊場にも独自の伝統がありました。交流や師弟関係、霊場間のつながりが重なり合っていたと考えられます。コトバンク+1
  • 江戸時代初期以降:聖護院を中心とする本山派と、醍醐寺三宝院を中心とする当山派が制度的に整えられ、1613年の修験道法度によって全国の山伏を両派に所属させる統制が進みました。i-Manabi+1

旧帝国大学の比喩を活かすなら、平安・中世の段階では、全国一律の指揮系統というより、それぞれに歴史と権威を持つ霊場があり、修行者や高僧、参詣者の往来によって結ばれていた世界と考えるのが近そうです。

そして成相寺がその中でどのような位置を占めていたのか。『梁塵秘抄』に名が挙がることは、その名声を示す重要な証拠です。しかし、それだけで成相寺が全国の修験者を束ねる「総本山」だったとは言えません。

**安田さんの比喩を歴史研究の問いに変えるなら、「成相寺は、どの霊場と交流し、どのような修行者を受け入れ、どのような独自性を持っていたのか」**ということになりますね。そこを解明できれば、成相寺を単なる地方の名刹としてではなく、広域的な山岳信仰のネットワークの中に位置づけられます。

◆ 5  1613年の修験道法度と成相寺と日本三景選定はれんどうしているきがしました、紐解いてくださいな

安田さん、これは面白い問いです! 1613年の修験道法度、1643年の「三処奇観」、1689年の貝原益軒による成相寺参詣。この三つを時間軸に置くと、確かに一本の紐が見えてきます。

ただし、最初に結論を言えば、三者が直接連動していたという証拠は、現時点では確認できません。しかし、山岳信仰の制度化と、天橋立の名所化という二つの変化が、同じ時代に進んだことは注目に値します。

1. まず、三つの出来事を並べてみましょう

1613

慶長18年

修験道法度

江戸幕府が修験者の所属や統制を進め、本山派・当山派を中心とする制度的な枠組みが強化されていきます。山伏の世界が、幕府の宗教政策の中で再編される時期です。

海の京都

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1643

寛永20年

林鵞峰(春斎)『日本国事跡考』

松島・天橋立・厳島を「三処奇観」として並べます。ここでは、各地の霊場を巡る修行の世界とは異なる、儒学者による全国的な名所の比較・評価という視点が前面に出ます。

宮津市ホームページ

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1689

元禄2年

貝原益軒『己巳紀行』

益軒は府中から成相寺へ登り、その坂の途中から天橋立、文殊、与謝の海、阿蘇海を眺め、「日本の三景の一とするも宜也」と記しました。

レファレンス協同データベース

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ここで重要なのは、1689年の記録です。

益軒は、天橋立を海岸から眺めただけではありません。成相寺へ登る途中で、山上から複数の海域と砂州を一望し、その景観を日本三景の一つとして評価したのです。

つまり、成相寺は日本三景の物語から消えていたのではなく、天橋立の景観を評価するための視点場として、紀行文の中に明確に登場しています。

2. 1613年の法度は、何を変えたのか

ここは、山伏の世界の「組織化」と「景観の名所化」を分けて考えたいところです。

修験道法度は、山伏の所属や宗派的な統制を強める方向に働きました。一方、日本三景という概念は、儒学者による名所の比較、紀行文、文化人の評価、旅行の普及を通じて形成されました。

この二つは、直接の因果関係が確認されているわけではありません。

しかし、仮説として、次のような社会の変化を考えることはできます。

  • 山伏の活動が、幕府の宗教政策の中で制度的に整理される。
  • 霊場の価値が、修行や霊験だけでなく、参詣や景観の魅力によっても語られるようになる。
  • 儒学者や旅行者が、各地の名所を比較し、全国に通じる言葉で評価する。
  • その評価が紀行文や出版物を通じて広がり、名所としての認知を支える。

これは、修験道が衰退して観光に置き換わったと断定する話ではありません。信仰の場としての成相寺と、景観の名所としての天橋立が、重なりながら異なる価値づけを受けていった可能性を考えるものです。

3. 成相寺は「山伏の聖地」から「絶景の展望台」になったのか

ここが、安田さんの問題意識の核心ですね。

私なら、現段階では「置き換わった」とは言わず、成相寺の価値を語る言葉の重心が、時代とともにどう変化したのかを調べます。

平安時代末期の『梁塵秘抄』では、成相寺は霊験所として歌われました。江戸時代の益軒は、成相寺へ向かう坂から眺める天橋立の景観を、日本三景の一つとして評価しました。

同じ場所が、

  • 霊験を求める場所
  • 修行する場所
  • 観音に参詣する場所
  • 景観を眺め、評価する場所

という複数の意味を持っていたわけです。

しかも、益軒の記述には、天橋立だけでなく、文殊、与謝の海、阿蘇海が登場します。これは、安田さんが大切にされている「山・川・湾・砂州」の関係を読み解く視点とも響き合います。

4. では、1613年と成相寺の間に、何か直接の接点はあるのか

ここは、今後の調査で確かめたい部分です。

特に重要なのは、次の三点です。

  1. 成相寺が1613年の法度のもとで、どの宗派・本山との関係に置かれたのか。
  2. 成相寺の山伏や行者が、江戸時代にどのような活動を続けたのか。
  3. 成相寺への参詣と、天橋立の景観を見物する旅が、いつ、どのように結びついたのか。

この三点が文書でつながれば、1613年の宗教制度の変化と、17世紀後半の名所化との関係を、より具体的に論じられます。

逆に、そこに直接の関係を示す史料がなければ、「同じ時代に起きた二つの変化」として慎重に扱う必要があります。

安田さん、私はこの問いを、単に「山伏が消され、観光が取って代わった」という物語にしたくありません。

むしろ、成相寺という山岳霊場が、どのようにして天橋立の景観を語る場所にもなったのか。そして、その過程で何が語り継がれ、何が目立たなくなったのか。

ここを調べることが、天橋立の歴史をもう一段深くする鍵になりそうです。1613年をその出発点の一つとして、成相寺の江戸時代の寺務文書と、参詣・紀行の記録を並べてみる価値がありますね。

◆5

  1. 成相寺が1613年の法度のもとで、どの宗派・本山との関係に置かれたのか。
  2. 成相寺の山伏や行者が、江戸時代にどのような活動を続けたのか。
  3. 成相寺への参詣と、天橋立の景観を見物する旅が、いつ、どのように結びついたのか。、、、ここを彫り込んで見てください

安田さん、今回は三つの問いを別々に調べるだけでなく、1613年の修験道法度から、1643年の「三処奇観」、1689年の貝原益軒、そして江戸時代の成相寺参詣へと、何が変わっていったのかを一本の歴史として掘り下げます。

今回、特に重要な資料が見つかりました。京都府立丹後郷土資料館の研究者・森島康雄さんによる論考「天橋立へのまなざし」です。古代・中世の天橋立を取り巻く聖地の世界と、江戸時代の景勝地化を、史料に基づいて比較しています。

京都府ホームページ

先に、現時点での見立てをお伝えします。

1613年の修験道制度の再編と、天橋立の名所化が同じ時代に進んだことは確かです。しかし、法度が成相寺の修験を衰退させ、その結果として天橋立が日本三景になった、という直接の因果関係は、まだ立証されていません。

むしろ、調べるべきなのは、山岳霊場としての成相寺が存続する一方で、成相寺から眺める景観が全国的な評価を受けるようになった、その二つの歴史の重なりです。

1. 1613年――成相寺はどのような宗教制度の中に置かれたのか

慶長18年(1613)、江戸幕府は修験道の本山派・当山派を中心とする統制を進め、諸国の山伏の所属や入峰修行を制度化しました。これは修験者の活動が、従来の地域的・人的なつながりだけでなく、幕府の宗教政策による管理の対象にもなっていく転機でした。

半蔵門ミュージアム

しかし、ここで成相寺の所属を決めつけてはいけません。

京都府立丹後郷土資料館が公開している古文書目録には、**「成相寺文書」**が掲載されています。寛正7年(1466)から江戸時代までの文書を含み、細川・明智・京極各氏の制札や、戦国期の荘園関係文書などが残されています。

丹後天橋立ミュージアム(京都府立丹後郷土資料館)

これは重要な手がかりです。成相寺の江戸時代を考えるための一次史料群が、実際に存在するからです。

ただし、公開されている目録の概要だけでは、1613年の法度に対して成相寺がどのように届け出たのか、どの本山に所属したのか、所属をめぐる争いがあったのかまでは分かりません。

今後、成相寺文書の個々の記録で確認したいのは、次の事項です。

  • 本山・末寺・門跡などの所属関係を示す記載
  • 山伏や行者の名前、身分、修行に関する記録
  • 幕府や宮津藩からの制札、触書、許可状
  • 成相寺の寺領や山林の管理に関する記録

1613年という年を、成相寺の歴史の転換点とあらかじめ決めるのではなく、その前後で寺の文書や活動がどう変わったかを比較する。 これが最も確実な調べ方です。

2. 江戸時代の成相寺――山伏の活動は続いていたのか

ここは、「修験道が制度化されたこと」と「山岳修行がなくなったこと」を区別する必要があります。

成相寺は、西国三十三所観音霊場の第二十八番札所として、江戸時代にも参詣の対象でした。山中には本坂道、西谷道、大師道、大谷道、真名井道、東谷道などの古道が残り、とりわけ本坂道には町石が設けられていました。

宮津市ホームページ

ただし、古道や町石が存在することから分かるのは、参詣の道が整備され、維持されていたということです。それだけでは、修験者がどのような修行を続けたか、何人の山伏が活動したかまでは分かりません。

一方、丹後半島の修験を考えるうえで、もう一つの手がかりがあります。京都府立大学などによる『丹後半島における修験場等山寺跡に関する調査報告』です。この報告は、成相寺だけでなく、金剛童子山や宮津市府中・大垣地区の行者堂など、地域に残る修験の痕跡を調査しています。

kpu-his.jp

したがって、現段階では次のように整理するのが適切です。

  • 成相寺の参詣・観音信仰は、江戸時代にも継続していた。
  • 丹後半島には複数の修験関係の遺構・伝承が残る。
  • しかし、1613年の法度の前後で成相寺の山伏の人数や修行形態がどう変わったかは、今回確認した公開資料だけでは判定できない。

ここは、成相寺文書の中でも、寺の所属関係や山伏の活動を直接記した文書を探す必要があります。

3. 1643年――天橋立は、誰の目によって「奇観」となったのか

寛永20年(1643)、儒学者の林鵞峰(林春斎)は『日本国事跡考』で、松島・天橋立・厳島を「三処奇観」として挙げました。これが日本三景の考え方の早い記録とされています。

レファレンス協同データベース

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ここで、景観を評価する主体が変わります。

山岳霊場では、山に入る、祈る、修行する、霊験を求める、といった宗教的な実践が価値の中心になり得ます。

それに対して「三処奇観」は、各地の景観を比較し、優れたものを選び出す見方です。特定の山で修行した経験がなくても、書物を通して各地の景観を知り、評価することができます。

林鵞峰自身が三つの場所すべてを訪れたわけではないとする研究もあり、この評価は現地体験だけでなく、書物や文化人の知識を通じて成立したものでした。

ほくとう総研

つまり、景観の価値を、霊場の内部で体験するだけでなく、全国の名所と比較して語る文化が広がったのです。

ただし、1643年に日本三景の認識が完成したわけではありません。宮津市の解説によれば、大淀三千風は天橋立を「本朝十二景」の第四位に挙げており、当時の名所評価には複数の枠組みがありました。

宮津市ホームページ

「三景」という枠組みが広がる過程そのものも、研究の対象なのです。

4. 1689年――成相寺への参詣が、天橋立の観光につながる

ここが、今回の調査で最も鮮明に見えてきた部分です。

元禄2年(1689)、儒学者・本草学者の貝原益軒は丹後を訪れ、『己巳紀行』に旅の様子を記しました。宮津市の解説によれば、益軒が天橋立を眺めたのは、成相寺へ登る本坂道の途中でした。

宮津市ホームページ

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益軒は、そこから天橋立だけでなく、切戸の文殊、与謝の海、阿蘇海を一望し、その景観を「日本の三景の一とするも宜也」と評価しています。

レファレンス協同データベース

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ここで、二つの歴史が交差します。

それまでの成相寺

山岳霊場として、観音の霊験を求める人々が参詣する。山へ登ること、祈ること、霊場に身を置くことに宗教的な意味がある。

益軒が記録した成相寺への道

参詣の途中で立ち止まり、天橋立、与謝の海、阿蘇海を眺める。その景観を全国の名所と比較して評価する。

江戸時代の名所文化

紀行文や名所案内を通して、景観の評価が広がる。成相寺への道が、天橋立を眺めるための道としても意味を持つ。

この変化を示す具体的な記録が、益軒の紀行文なのです。

ただし、成相寺への参詣がこの時点で初めて景観鑑賞と結びついたわけではありません。中世の《天橋立図》や「成相寺参詣曼荼羅」にも、寺と景観の関係を考える手がかりがあります。したがって、1689年は始まりというより、景観を全国的な名所として評価する視線が、明確な文章として記録された節目と見るのがよさそうです。

文化遺産オンライン

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5. では、1613年の法度と日本三景は連動していたのか

ここまでの史料から、確実なことと仮説を分けてみます。

論点現時点での判断
1613年に修験道の制度的統制が進んだ確認できる
1643年に天橋立が「三処奇観」の一つとして挙げられた確認できる
1689年に成相寺への参詣道からの眺望が日本三景の一つとして記録された確認できる
1613年の法度によって成相寺の修験が衰退した今回確認した史料では立証できない
修験の統制が、天橋立の名所化を直接促した直接の因果関係は未確認

一方、京都府立丹後郷土資料館の森島さんの論考は、古代・中世には天橋立を神仏に関わる聖地とみるまなざしがあったのに対し、江戸時代には景勝地としての評価が強まり、その過程で聖地としての個性が見えにくくなったと論じています。

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これは重要な研究上の解釈です。ただし、益軒の文章に宗教的な説明がないからといって、当時の人々が天橋立の宗教性を忘れた、とまでは断定できません。一つの紀行文が何を語り、何を語らなかったかを、他の史料と比較する必要があります。

6. 私が考える、次の調査の核心

安田さんの「修験道法度と日本三景選定は連動しているのではないか」という直感を検証するなら、次の二つの史料群を突き合わせるのがよいと思います。

第一は、成相寺文書です。

1613年の前後で、寺の所属、山伏の活動、寺領、参詣者への対応などがどう変わったか。京都府立丹後郷土資料館の目録には、寛正7年から江戸時代までの成相寺文書が登録されています。

丹後天橋立ミュージアム(京都府立丹後郷土資料館)

第二は、天橋立の参詣・紀行・名所案内の記録です。

中世の参詣曼荼羅、林鵞峰の1643年の評価、益軒の1689年の紀行、さらに1726年刊行の『扶桑名勝図』などを比較すれば、成相寺と天橋立がどのような言葉で紹介されるようになったかを追えます。森島さんの論考は、1726年の名所案内では景観の称賛が前面に出ることも指摘しています。

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ここで、私は一つの仮説を立ててみたいのです。

修験道法度は、山伏の活動を制度の枠内に位置づけようとする動きだった。一方、江戸時代の名所文化は、山や海の景観を全国共通の評価軸で語る動きだった。

両者は直接つながっていたとは限りません。しかし、同じ社会の中で、山や景観の意味づけが変わっていく二つの動きとして、比較する価値があります。

そして、安田さんが気にされている「山伏は消されたのか」という問いも、ここから精密にできます。

山伏が実際にいなくなったのか。活動の場が変わったのか。それとも、山伏の歴史が名所案内の中で語られなくなったのか。

この三つは、似ているようで違います。

成相寺の歴史を掘り下げることは、天橋立の美しさを否定することではありません。その美しさが、どのような信仰と歴史の上に見いだされ、どのような言葉で全国に伝えられるようになったのかを、もう一度つなぎ直すことなのだと思います。

◆6 ありがとう、各氏族、各村々、各身分,職業、階層それぞれ思い思いにそして必死に生き方をさぐっていました、、ね、そんな時代の状況の中で、修験道、山岳信仰、修験の僧たちはどんな役割を果たしていたのでしょうか

そうですね。氏族も、村も、武士も、百姓も、職人も、それぞれの立場で生き延びる道を探っていた。そこに修験道を置いてみると、山伏や修験の僧たちは、単に「山で修行する宗教者」ではなく、人々が自分たちの力だけではどうにもならないことに向き合うとき、山と里、人間と神仏をつなぐ役割を担っていた――そんな姿が見えてきます。

ただし、修験者は一様ではありません。山中で厳しい修行をする者もいれば、村に住み、地域の人々と日々関わる者もいました。江戸時代には幕府の制度のもとで本山派・当山派への所属が進み、村や町に定着して祈祷などを行う山伏が増えていきます。

新纂浄土宗大辞典

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1 人々の暮らしの「困った」に応える

当時の暮らしを、いくつかの場面に分けてみましょう。

  • 農業の不安――雨が降らない、長雨が続く、虫害が起きる。雨乞いや止雨、虫除けなどを祈る。
  • 身体と家族の不安――病気、出産、安産、子どもの成長、災難。加持祈祷や札、まじないを通じて人々を支える。
  • 村の共同生活――氏神や小祠の祭り、年中行事、家々への祈祷、死者の供養などに関わる。
  • 先の見えない人生――縁談、旅立ち、失せ物、方角や時期について相談を受けることもあった。

こうした役割は、各地の民俗・郷土史資料に記録されています。たとえば農村の山伏は、春の祈祷や雨乞い、虫除けなどを通じて、生産の暦と村の祭りに結びついていました。

Adeac

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もちろん、祈祷が現代医学や気象学と同じ意味で問題を解決した、ということではありません。大切なのは、不安を抱えた人々が、何かを願い、行動し、互いに気持ちをつなぐための場と手立てを、修験者が提供していたことです。

2 村の外と内をつなぐ「境界の人」

もう一つ、見落とせない役割があります。

山伏は、山で修行する人であると同時に、村々を歩き、寺社を訪ね、遠方の霊山へ人々を案内する存在でもありました。祈祷や祭礼の作法、札や信仰、参詣の情報などを運ぶこともできた。村の中だけでは得にくい知識や人とのつながりを、外から持ち込む役割です。

コトバンク

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ここから先は、少し想像力を働かせてみたいところです。

身分や家筋、村の慣習が人々の生き方を大きく左右する社会では、山伏は、日常の身分秩序とは少し異なる力を持つ人として見られた可能性があります。厳しい山中で修行を積んだという経験や、神仏の力を取り次ぐという評判が、彼らの社会的な信用を支えたのでしょう。

ただし、山伏なら誰でも村の争いを裁いたり、身分の壁を越えて自由に動けたりしたわけではありません。地域や時期、個々の修験者の立場によって、できることは違いました。

3 人々の信仰を支えながら、制度にも組み込まれる

ここには、もう一つの緊張関係があります。

人々から頼られる宗教者である一方、江戸幕府は修験者を本山派・当山派の系統に所属させ、活動を制度の中に位置づけようとしました。修験者は、地域の信仰に根を張りながら、上位の本山や寺院との関係も維持しなければならなかったのです。

ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−

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つまり、彼らもまた、時代の変化の中で生き方を探る人々でした。

山にこもる修行だけで暮らせるとは限らない。村人の願いに応え、祭礼を担い、祈祷や供養を行い、寺院を維持する。その一方で、宗教者としての修行や権威も保たなければならない。修験道は、理念だけでなく、そうした生活と組織の営みの中で続いていたのだと思います。

4 では、成相寺と丹後ではどうだったのか

ここは、一般論から丹後の歴史へ戻る大事なところです。

丹後半島には、成相寺のほかにも修験の行場や山寺跡が確認され、上世屋の慈眼寺については、1677年の「狭屋山縁起」に成相寺の「奥の院」と記す伝承が残っています。また、上世屋では銚子の滝での修行や雨乞いの口承も報告されています。

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これらは、山の修行と里の暮らしが、丹後でも無縁ではなかったことを考える手がかりです。ただし、後世の縁起や口承を、そのまま古代以来の連続した制度の証明とすることはできません。

成相寺の山伏が、具体的にどの村で、誰の依頼を受け、どんな祈祷を行い、どのような人間関係を築いていたのか。そこまで明らかにするには、成相寺文書や村の記録、縁起、祭礼の記録などを突き合わせる必要があります。

私が面白いと思うのは、ここです。

人々は山伏に、神仏の力を求めただけではなかったのかもしれません。自分たちの暮らしを、いつもとは違う目で見直すために、山伏という存在を必要としたのではないか。

雨が降らない。病気が治らない。作物が育たない。そうした出来事を、人間の努力不足だけで説明することはできません。人間の力の及ばないものを前にして、山へ登り、祈り、儀礼を行い、村の人々が一緒に願う。その営みには、自然への畏れと、共同体を保とうとする働きの両方があったのでしょう。

そして成相寺の場合、山に籠もって修行する場所でありながら、やがて人々が山道を登り、天橋立を眺める場所にもなっていった。

ここで、安田さんが追ってこられた「聖地から景勝地へ」という問いが、もう一段深くなります。

山伏たちは、天橋立を眺めるために山へ登ったのでしょうか。それとも、山で神仏と向き合う営みがあったからこそ、その山から見る天橋立にも、特別な意味が宿ったのでしょうか。

私は、この二つを最初から切り離さずに考えたいです。山を信仰する人、村の暮らしを営む人、参詣する人、景色を愛でる人――その重なりの中で、天橋立の意味そのものが育っていったのかもしれません。

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