◆1 林春斎さんの『日本国事跡考』での、日本三処奇観についての記述の原文がほしいです、可能ですか
可能です!そして、原文が見つかりました。
林春斎(林鵞峰)が寛永20年(1643年)に記した『日本国事跡考』の陸奥国の項にある文章です。
『日本国事跡考』原文
松島此島之外有小島若干殆如盆池月波之景境致之佳與丹後天橋立安藝嚴島爲三處奇觀
OpenHistory
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書き下し文
松島、此の島の外に小島若干あり。殆ど盆池月波の景の如し。境致の佳なる、丹後天橋立、安芸厳島と、此の三処を奇観と為す。
現代語訳
松島には、本島のほかに小島がいくつもある。その景色は、まるで水をたたえた庭池に月の光が波打つようである。景観のすぐれた丹後の天橋立、陸奥の松島、安芸の厳島、この三か所を奇観とする。
ここで注目したい三つのこと
①「日本三景」ではなく「三処奇観」
原文には「日本三景」という言葉はありません。「三処奇観」です。
三つの場所を選び、景観の素晴らしさを評価している。後世の「日本三景」という呼称の出発点とされます。
レファレンス協同データベース
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② 記述の中心は松島
文章は松島の島々の景色を描写してから、丹後天橋立と安芸厳島を挙げています。
つまり、三か所の特徴を均等に論じた景観比較論ではありません。松島の記述の中で、三つの奇観を並べたものです。
③「丹後天橋立」という表記
ここが私は気になります。
単に「天橋立」ではなく、「丹後天橋立」と記している。
天橋立が丹後という土地に属する名所として認識されていたことが読み取れます。
もう一つ、重要な史料があります
寛永20年の林春斎の記述から46年後、貝原益軒が元禄2年(1689年)に天橋立を訪れています。
『己巳紀行』には、成相寺へ登る坂の途中から、
此坂中より天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶ス、日本の三景の一とするも宜也
と記されています。
レファレンス協同データベース
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こちらは実際に現地を訪れ、天橋立、文殊、与謝の海、阿蘇の海を一望した人の評価です。
私は、この二つを並べることに意味があると思います。
- 林春斎:遠くから日本の名所を選び、三処を奇観と評価した。
- 貝原益軒:現地に立ち、山上から丹後の景観全体を眺め、その価値を実感した。
1643年の「三処奇観」から、1689年の「日本の三景」へ。
天橋立が全国的な名所として位置づけられていく過程を考えるうえで、重要な二つの記録です。
なお、今回確認できたのは原文の引用を掲載する資料です。『日本国事跡考』の初版本そのものの画像と、句読点・異体字を含む厳密な校訂本文までは未確認です。研究資料や正式な引用に使う場合は、『松島町史』資料編二などの翻刻と照合するのが確実です。
この原文、天橋立の文化史を語るうえで、ぜひ手元に置いておきたい一節ですね。(^.^)
※日本三処奇観めぐりの旅なら、日本語現地ツアーも選択肢です。
◆2 松島此島之外有小島若干殆如盆池月波之景境致之佳與丹後天橋立安藝嚴島爲三處奇觀、ですね、さらに、天の橋立と厳島について、寸評があるということです、そこを知りたいです探してくださいな
なるほど! 今回は、先ほどの「三処奇観」の一文だけでなく、林春斎が『日本国事跡考』の別の箇所で、天橋立と厳島そのものをどう記述しているか、ということですね。
調べてみると、まず大事な手掛かりが見つかりました。京都大学附属図書館には『日本国事跡考』のデジタル画像があり、問題の「三処奇観」の記述は、全80画像中の47頁に当たる箇所に確認できます。
tanamori.blog.shinobi.jp
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ただし、これは陸奥国の項にある松島の説明です。ここだけを読んでも、天橋立・厳島それぞれへの寸評までは分かりません。
追加調査で分かったこと
現時点で確認できた範囲では、次のように整理するのが正確です。
1. 松島については具体的な描写がある。 「此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景」――島のほかに小島がいくつもあり、その景色は、池に月の光が波打つようだ、と描いています。
2. 天橋立と厳島については、この一文では固有の景観描写がない。 「與丹後天橋立安藝嚴島爲三處奇觀」は、丹後天橋立と安芸厳島を松島と並べて、三か所を奇観とする、という評価です。天橋立の砂州や松並木、厳島の社殿や海上の鳥居について、ここでは何も説明していません。
tanamori.blog.shinobi.jp
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3. 別の箇所に個別の寸評があるかどうかは、まだ確認できていません。 京都大学のデジタル画像はこちらです。 京都大学附属図書館『日本国事跡考』47頁の画像
また、宮島側の歴史研究を紹介する国立国会図書館レファレンスには、林春斎の記述が「わずかな記述」であったことが、その後「日本三景」として独り歩きした、という研究者の指摘も紹介されています。
レファレンス協同データベース
ここが面白いところです
春斎は、松島については目に浮かぶような描写をしているのに、天橋立と厳島は名前を挙げるだけで、同じ「奇観」に並べています。
つまり、この文章だけからは、三つを同じ理由で評価したのか、それぞれ異なる魅力を認めたのかさえ分かりません。
私は、ここを曖昧にしたまま「日本三景の始まり」と片づけたくないですね。
春斎は、なぜこの三つを選んだのか。天橋立と厳島について、彼は何を知っていたのか。
ここを解くには、京都大学の原本画像で丹後国・安芸国の記述を直接確認する必要があります。今回の検索では、その個別の寸評を裏付ける原文までは発見できませんでした。もし「寸評がある」と書かれた資料や文章をお持ちなら、そこを手掛かりに原本の該当箇所を追いかけたいです。知りたいのは、むしろ次のことです。
- 天橋立をどこから眺め、何を見ていたのか。
- 成相寺、府中、文殊、阿蘇海、与謝の海をどう結びつけて記述したのか。
- 丹後の山や海、集落、産業について何を記録したのか。
- 旅人としての益軒の目に、丹後はどんな土地として映ったのか。
特に3番が面白い。景観だけでなく、そこで暮らす人々の営みまで記録しているなら、これは丹後の17世紀の姿を知る貴重な窓になります。、、ここをくださいな
これは面白い資料です。調べ直して、まず書名と旅の記録の関係を整理できました。
貝原益軒の元禄2年(1689)の旅については、研究論文では『西北紀行』と呼ばれ、天橋立の眺望を紹介する宮津市の資料では『己巳紀行』の「丹波丹後若狭紀行」として引用されています。神戸大学所蔵の版本は『諸州巡覧記 西北紀行』で、正徳3年(1713)刊、正徳6年(1716)印です。したがって、旅をした年と、現在読める版本の刊行年は区別しておきましょう。
貴重書・特殊コレクション
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そして、益軒の記録を読むうえで大切なのは、彼が単に「天橋立を見に来た観光客」ではなかったことです。地理・産業・自然・社寺・旧跡を観察し、記録する博物学的な旅人でした。研究論文も、益軒の紀行文には産業や地理の写実的な記述と、自然美・社寺旧跡の名所案内的な記述が併存すると評価しています。
武蔵野学院
1. 天橋立をどこから眺め、何を見たのか
益軒が感嘆したのは、府中から成相寺へ登る本坂道の途中です。
宮津市が紹介する本文は次のとおりです。
中村(成相乃麓也)より観音堂まで十六町の坂をのぼる。其路甚嶮峻にて、輿馬の往来也かたし。
(中略)
此坂中より、天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶す、日本の三景の一とするも宜也。
つまり、
- 天橋立
- 切戸の文殊
- 天橋立の東西に広がる与謝の海
- 阿蘇の海
この四つを、眼下に一望したのです。
宮津市ホームページ
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ここで大事なのは、益軒が天橋立の松並木だけを見ていないことです。
二つの海を隔てる砂州、その両側の水面、文殊の寺院、そしてそれらを取り囲む地形を一つの景観として見ている。
これは、安田さんが大切にされている「山・川・湾・砂州の関係から天橋立を見る」という考え方にも通じますね。
2. 成相寺・府中・文殊・二つの海の関係
益軒の旅の記述からは、景観だけでなく、参詣と交通の関係も読み取れます。
府中から成相寺へ登る道は、かなり険しい。
十六町の坂道で、輿や馬の往来も難しいと書いています。つまり、成相寺参詣は、簡単な物見遊山ではありませんでした。身体を使って山を登る旅だったわけです。
宮津市ホームページ
一方、宮津から文殊へ行く交通については、益軒の『己巳紀行』に、
宮津から文珠へ出るには、舟にてゆけば一里に近し、陸行すれば坂ありて遠し。
という記述が紹介されています。
宮津市ホームページ
これは興味深いですね。
文殊は、宮津の城下と天橋立を結ぶ水上交通の結節点だった。陸路より船の方が便利だったのです。
つまり当時の天橋立周辺は、
- 府中から成相寺へ向かう山の参詣道
- 宮津から文殊へ向かう船の道
- 文殊から天橋立へ渡る道
- 阿蘇海と宮津湾を行き来する水域
が重なり合う場所だったと考えられます。
天橋立は、眺めるだけの名所ではなく、参詣と交通の舞台でもあったのです。
3. 丹後の山・海・集落・産業について
ここは、安田さんが一番知りたいところですね。
まず、確認できたことと、まだ原文を確認できていないことを分けます。
益軒の紀行文についての研究では、自然景観や社寺旧跡だけでなく、産業や地理についても写実的な記述があることが特徴とされています。後世の名所図会に通じる案内的な性格も持っていたと評価されています。
武蔵野学院
また、江戸時代の旅日記を比較した宮津市の調査では、旅人がどの道を通ったか、何を食べ、どこに泊まり、何に関心を持ったかが分かるとされています。ただし、ここで紹介されているのは益軒の記録だけではなく、複数の旅日記を含む調査です。
宮津市ホームページ
現段階では、益軒の丹後の記述から、次の項目を個別に抜き出して確認する必要があります。
| 調べたい対象 | 読み取りたいこと |
|---|---|
| 山・峠・河川 | 地形、道の険しさ、移動の難所 |
| 海・港・船 | 船の往来、海上交通、港の役割 |
| 集落・町 | 家並み、人口の集まり、宿泊・商業 |
| 農業 | 田畑、作物、土地利用 |
| 漁業・海産物 | 漁の様子、魚介、加工・流通 |
| 社寺・信仰 | 参詣者、寺社の立地、地域との関係 |
ここは正直に言うと、今回確認できた二次資料だけでは、益軒が丹後でどの魚を見たとか、どの農産物を記したとか、具体的な産業の記述までは確定できません。
神戸大学の公開資料には、45丁の原本画像があります。書誌情報だけでなく、本文を一丁ずつ読んでいく必要があります。
貴重書・特殊コレクション
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4. 益軒の目に丹後はどう映ったのか
ここまでの記録から、私なりに三つの特徴を感じます。
第一に、丹後は遠いけれど、訪ねる価値のある土地だった。
益軒は京都から宮津まで約150キロを歩き、3泊4日で到達したと、宮津市の資料は紹介しています。60歳前後の旅です。
宮津市ホームページ
第二に、丹後は山と海が近接し、移動そのものが土地の特徴を教える場所だった。
成相寺への急坂、宮津から文殊への船路。陸と海で移動の仕方が変わります。地形が人々の暮らしや交通を決めていたことがうかがえます。
第三に、丹後は名所だけでなく、地理・産業・歴史を観察する対象だった。
益軒は単に景色に感動して終わる人ではありません。見たものを記録し、土地を理解しようとする知識人でした。
ここから、もう一段掘りたい
私が今回、特に面白いと思ったのは、益軒の記述を読むときに、天橋立を「景観」としてだけでなく、丹後の暮らしを結ぶ場所として見直せることです。
林春斎の「三処奇観」は、名所を選ぶ視線でした。
それに対して益軒の紀行は、道を歩き、坂を登り、船の便利さを知り、目の前の景色を記録する視線です。
そして、安田さんが関心を持っている3番――山・海・集落・産業――を本当に明らかにするには、神戸大学の45丁を読み通し、丹後に関する記述を拾い出すのが次の仕事です。
「絶景を見た人」の記録から、「その土地で人々がどう生きていたか」を読み取る。
これができれば、17世紀末の丹後を、天橋立を中心とした一つのエコミュージアムのように描けるかもしれませんね。(^.^)
日本三景を決定づけたのは貝原益軒さん、そのアングルは、成相ビューだった、文殊玄妙ビューではなかった、、これは大きいですよ(^.^)
これは大きい!!(^.^)
しかも、単に「どこから眺めたか」という話ではありません。天橋立を日本三景の一つとして評価した、その視点の位置が成相だったということです。
少し整理してみましょう。
- 成相ビュー:山上から、天橋立・文殊・与謝の海・阿蘇海を見渡す。砂州を二つの海や周囲の地形との関係で捉える俯瞰の視点。
- 文殊ビュー:砂州の入口に立ち、松並木や海、寺院、往来する人々との関係を感じる。天橋立の内部に身を置く視点。
益軒の記録で決定的なのは、次の一節ですね。
此坂中より、天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶す、日本の三景の一とするも宜也。
ここでは、天橋立だけでなく、文殊と二つの海を一望したことが評価の根拠になっています。
ただし、一点だけ慎重に。益軒が「日本三景」を最初に決定した、とまでは言い切れません。林春斎の1643年の「三処奇観」が先行しています。益軒の役割は、実際に現地に立ち、その眺望を「日本の三景の一」と明示的に評価したことにあります。
そして、ここから面白い問いが生まれます。
天橋立の価値を世界に説明するとき、私たちはどの場所から天橋立を見せているのか。
飛龍観、文殊、傘松、成相。眺める場所によって、見えてくる天橋立は違います。
益軒が選んだのは、成相からの俯瞰でした。
これは、安田さんが大切にしている「天橋立は山と海が育てた」という見方と響き合います。
私は、こんな言葉を置いてみたい。
「日本三景・天橋立は、松並木の美しさだけで選ばれたのではない。二つの海と、それを結ぶ砂州が織りなす大きな風景として見いだされた。」
成相ビューは、天橋立を「点」ではなく「関係」で見る視点だったのかもしれません。これは世界遺産を考えるうえでも、掘る価値がありますね。
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単純なことかもしれません、まだ開発されていなかった!!
ああ!! そこですか。(^.^)
それは、かなり重要な仮説ですね。
益軒が成相寺への坂道から眺めた17世紀末の天橋立は、まだ近代的な観光開発も、現在の道路網も、展望施設もない時代です。
つまり、彼の目に入ったのは、
- 人工的に整えられた展望空間ではない山の斜面
- 自然の地形の中に横たわる天橋立
- 阿蘇海と宮津湾(与謝の海)
- 府中や文殊の集落と寺社
- それらを結ぶ海と陸の交通
だったのでしょう。
ただし、当時も成相寺は信仰と参詣の場として成立していましたし、山道も人の手が入っていました。「人の手が入っていなかった」のではなく、現代の観光開発によって切り取られる前の、生活と信仰の中にある風景だった、と考えるのがよさそうです。
そして、ここが面白い。
益軒は、開発された展望台から天橋立を見たのではない。険しい参詣道を登り、その途中で、山・海・砂州・集落が一体となった風景に出会った。
もしかすると、成相ビューの価値は、眺望の高さだけではなく、そこへ至る道のりも含めて成立していたのかもしれません。
「まだ開発されていなかったからこそ、天橋立を取り巻く風土全体が見えた。」
この仮説、世界遺産を考えるうえでも大事にしたいですね。
天橋立方面の旅程づくりには、航空券+ホテルのセットが便利です。
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いえ、文殊側の現妙庵ビューが、開発されていなかった、知恩寺の墓山だったのでは内でしょうか!!
8s考えました
ああ、そういうことでしたか!! 私が取り違えていました。失礼しました。(^.^)
おっしゃっているのは、文殊側の現在の玄妙庵から見る眺望、その場所が益軒の時代には、観光用に整備された展望地ではなく、智恩寺の墓山だったのではないか、ということですね。
これは、成相ビューとの比較を考えるうえで大事な指摘です。
少し調べると、玄妙庵の由緒に興味深い記述があります。
玄妙庵の公式サイトによれば、明徳4年(1393)、足利義満が文殊参詣をした際、丹後守護の一色満範がこの地に亭舎を設けて迎えたと伝えられます。その後、禅行の修場に使われ、「玄妙庵」と呼ばれるようになったとのことです。また、成相寺古図には四阿の亭舎が描かれ、「古堂、座禅所なり」と記されているといいます。智恩寺古図にも亭舎が描かれているそうです。
genmyoan.com
つまり、少なくとも玄妙庵の場所は、益軒が訪れた1689年より前から、何らかの建物・宗教的な用途を持つ場所だった可能性が高い。
ただし、「智恩寺の墓山だった」という点は、まだ裏付ける史料を確認できていません。 ここは古図や寺領関係の資料で確かめたいところです。
ここで比較すると面白い
成相ビュー
益軒が実際に登った参詣道の途中からの眺望。山を登る身体経験と、眼下に広がる二つの海・砂州の大景観。
玄妙庵ビュー
文殊側の高台からの眺望。中世以来の亭舎・禅行の場という由緒が伝わる場所。
そして、ここに安田さんの仮説を重ねると、
益軒が日本三景の一つと評価したのは、文殊側の現在の観光展望地からではなく、成相寺への参詣道からだった。
この違いは大きいですね。
ただし、玄妙庵の場所が当時「墓山」であったか、また当時どの程度樹木や建物に遮られていたかは、別途確認が必要です。
私が次に見たいのは、智恩寺の古図と成相寺古図です。玄妙庵の亭舎の位置、墓地の位置、当時の地形・植生が分かれば、益軒がなぜ成相からの眺望を特筆したのか、もう一段踏み込めます。
眺望の優劣ではなく、17世紀の人が、どこから、どんな風景を見ることができたのか。
これは、天橋立の景観史を掘るうえで、実にいい問いです。
文殊側ビューの話に関連する宿泊施設の選択肢です。
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小旅慢行
¥8,361
4.25
慢 生活屋
¥3,800
4.13
小魷魚輕旅
¥6,038
4.52
御宿商旅 後驛館
¥4,561
4.02
步步精心
¥7,634
4.73
本坂コースこそ日本三景体感コース、、これはエコツアーには頂き物です(^.^)
ははは!! これは確かに、いいものを掘り当てましたね!(^.^)
「本坂コースこそ、日本三景体感コース」
単なる成相寺への参詣道ではなく、貝原益軒が実際に歩き、その眺望を「日本の三景の一とするも宜也」と評した道です。
エコツアーとしての魅力は、三段階にあります。
- 歩く――益軒と同じように、険しい坂道を自分の足で登る。
- 出会う――途中で天橋立、文殊、与謝の海、阿蘇海が視界に入る。
- 読み解く――なぜここからの眺めが、300年以上前の旅人を感嘆させたのかを考える。
そして、ツアーの決め手は、展望地に着いてからの一言でしょう。
ここが、貝原益軒が日本三景の一つとするのももっともだ、と記した眺望です。さて、皆さんには何が見えますか?
すぐに解説を始めない。まず自分の目で見てもらう。
これは、安田さんの「見えないものをみる、それがSSH」にも通じます。
ツアー名の案:
益軒の道を歩く
本坂・日本三景体感コース
歩いて、眺めて、300年前の旅人の目を追体験する。
ただし、実施に向けては本坂の現況、通行可否、危険箇所、所有・管理者、ガイドの安全体制を確認する必要があります。
いやあ、これは名所を案内するツアーではありませんね。
日本三景が生まれた視点を、参加者自身の身体で発見するツアーです。
「数珠珠」がまた一つ増えましたね!(^.^)
こちらもいかがですか?
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益軒さんは、さらに元成相寺、大観望まで上がられたのでしょうね、京から三泊の旅で見えた健脚ですから!!
いやあ、健脚ですねえ!!(^.^)
京都から宮津まで約150キロを3泊4日。しかも益軒は、宮津に着いて天橋立を眺めただけではありません。
宮津市の資料によると、益軒は府中から成相寺へ向かう本坂道を登り、途中の眺望に感嘆しています。記録には、中村(成相の麓)から観音堂まで十六町の険しい坂を登った、とあります。
宮津市ホームページ
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つまり、少なくとも成相寺の観音堂まで登ったことは、文章から読み取れます。
ははは、60歳前後で150キロ歩き、さらに成相山へ登る。まさに「夢老い人」の大先輩ですな!(^.^)
ただ、記録を読むと、もう少し面白いことが分かります。
益軒はどこまで登ったのか
『己巳紀行』の引用には、
中村(成相の麓なり)より観音堂まで十六町の坂をのぼる
とあります。十六町は約1.75キロ。しかも益軒は、その坂を「甚だ嶮峻」と記しています。ここから、観音堂、つまり成相寺の堂宇まで登ったことは確認できます。
宮津市ホームページ
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一方、現在の成相山山頂付近にあるパノラマ展望台は、成相寺からさらに約1キロ上がった場所です。
京都府観光連盟公式サイト
+1
したがって、現段階では、
- 本坂道を登り、益軒観展望所付近から眺望を得た。
- さらに成相寺の観音堂まで参詣した。
- その先の山頂や、現在の大観望に相当する場所まで行ったかは、記録からは未確認。
という整理が正確です。
ここでツアーの構想が広がります
本坂道を歩き、益軒観展望所で眺め、さらに成相寺まで登る。
これなら、益軒の旅をなぞるだけでなく、**「眺望に感動した旅人が、その先にある聖地へ向かった」**という体験になります。
そして、もし大観望まで足を延ばせば、益軒が見た景色と、現代の私たちが見る広域パノラマとの比較もできます。
私は、ツアーの中心はあくまで本坂道と益軒観展望所に置きたい。大観望は健脚組の追加コースにする。そうすれば、参加者の体力差にも対応できます。
ただし、益軒自身が大観望まで登ったかどうかは、原本の行程記述をさらに確認したいですね。ここは歴史の事実と、現代のツアーの楽しみを分けておきましょう。(^.^)










