◆1 フム 少し調べると、玄妙庵の由緒に興味深い記述があります。
玄妙庵の公式サイトによれば、明徳4年(1393)、足利義満が文殊参詣をした際、丹後守護の一色満範がこの地に亭舎を設けて迎えたと伝えられます。その後、禅行の修場に使われ、「玄妙庵」と呼ばれるようになったとのことです。また、成相寺古図には四阿の亭舎が描かれ、「古堂、座禅所なり」と記されているといいます。智恩寺古図にも亭舎が描かれているそうです。、、、フム、益軒さん、この情報をえていなかった!としたら、おもしろいことですね、まずは成相ビュー、次に、では対岸からはどうだろう、となってもよかったでしょうに、、残念!!ところで、益軒さんの旅はお伴、お連れははいらっしゃったのですか、また、続いて若狭へということ、ここは船旅でしたか、また、若狭はどこを訪れられましたか、情報をください

↑貝原益軒『養生訓』に学ぶ養生の本質|東洋医学にも通じる“未病を防ぐ”暮らしの知恵 – 日本鍼灸大学
nihonshinkyu.jp
つまり、少なくとも玄妙庵の場所は、益軒が訪れた1689年より前から、何らかの建物・宗教的な用途を持つ場所だった可能性が高い。
29s考えました
確認した整理方法
26件のウェブサイトを検索しました
いやあ、玄妙庵の話から、益軒の旅そのものへ関心が広がりましたね。これは丹後だけでなく、若狭・近江までつながる旅です。
調べてみると、益軒の旅は、宮津で終わっていません。丹後から若狭へ、さらに近江へ抜け、琵琶湖の竹生島にも渡る周遊の旅でした。
そして、船旅だったのかという点は、少し意外な答えになります。若狭への移動の主軸は陸路です。船が登場するのは、少なくとも確認できる行程では、竹生島への渡航です。
ogu-tec
+1
1. お伴はいたのか?
ここは慎重に見たいところです。
益軒は39歳のとき、東軒夫人と結婚しています。夫婦で諸国を見聞した記録もあると、益軒の生涯を扱う研究資料に紹介されています。
武蔵野学院
ただし、元禄2年(1689)の『己巳紀行』の旅に、妻や特定の同行者がいたと確認できる記録は、今回の調査では見つかりませんでした。
益軒が一人旅だったと断定することもできません。宿や道中で案内人・土地の人と行動を共にした可能性もありますが、そこも未確認です。
面白いのは、益軒が旅先で土地の人から話を聞き、伝承や地理を記録していることです。益軒の紀行文を分析した研究も、訪問地の人々との会話や、土地の話を聞くことを旅の楽しみの一つとして指摘しています。
国立国会図書館
つまり、同行者がいたかどうかとは別に、益軒は各地の人々を「旅の知識を得る相手」としていたようです。
2. 丹後から若狭へ、そして近江へ
旅の大きな流れを整理すると、こうなります。
元禄2年・丹波丹後若狭紀行の行程
- 京都から丹波へ南丹方面を経て福知山へ。山陰道方面の陸路を進む。
- 福知山から宮津・天橋立へ約150キロの京都―宮津間を3泊4日で歩いた行程。成相寺本坂道の眺望を記録。
- 宮津から舞鶴へ丹後の海岸地域を移動。
- 舞鶴から小浜へ若狭へ陸路で入る。
- 小浜から永坂峠を越えて今津へ若狭から近江へ。峠越えの陸路。
- 今津から竹生島へ琵琶湖を船で渡り、竹生島を訪ねる。
- 大原を経て京都へ帰る
行程は『己巳紀行』の「丹波丹後若狭紀行」の紹介・解説に基づく概略です。細かな立寄り順は原本での照合が必要です。
ogu-tec
+1
ここで重要なのは、宮津から小浜までを船で移動したのではない、ということです。
若狭への道は、舞鶴から小浜へ陸路で進み、小浜からさらに永坂峠を越えて近江の今津へ向かっています。
今の地図で見ると、丹後半島の東側から若狭湾沿岸を経て琵琶湖へ抜ける、実に興味深いルートです。
3. 若狭ではどこを訪ねたのか
まず、確実に押さえられるのは小浜です。
小浜については、町の様子だけでなく、土地の伝承も記録しています。
特に興味深いのが、八百比丘尼伝説です。
柳田國男は、益軒の『西北紀行』が小浜の熊野山にある神明社に伝わっていた八百比丘尼の由来を記録していることに注目しています。人魚の肉を食べた少女が長寿を得たという話です。
読む書く歌う旅をする by 姜信子
+1
これは、単なる名所案内ではありません。
益軒は、若狭の人々が伝えてきた物語を、土地の記録として残しているのです。
また、小浜から今津への道中については、今津の町を次のように記録しています。
今津は湖中に出たる町にて西の方僅に陸に続く。島の如し。民家四百余戸有り。
前夜は小浜に泊まり、九里半街道を通って今津へ到着したとする解説があります。
Lics SaaS
今津の町を「島のようだ」と観察し、民家の戸数まで記録している。まさに地理と暮らしを見る目ですね。
4. 竹生島では、船で渡り、仙境を感じた
若狭を抜けた益軒は、近江の今津から竹生島へ渡っています。
竹生島での感動を、益軒はこう記しています。
社前より遠く望めば、湖水渺茫として人遠く隔たり、境地潔浄にして俗塵をはなれ、恰浮世の外に出たる心地して、仙境に入りたるように覚え侍る。
社前から遠くを眺めると、広大な湖水の向こうに人里が遠ざかり、俗世間を離れた仙境に入ったような気持ちになった、ということです。
ogu-tec
+1
ここは、成相寺の眺望と比較すると面白いですね。
- 成相寺では、山上から二つの海と天橋立を見渡す。
- 竹生島では、湖上の島に渡り、周囲の広大な水面を眺める。
益軒は、異なる水辺の風景を、それぞれ身体を運んで体験しているのです。
5. もう一つ、益軒の旅で見逃せないこと
益軒の紀行文を研究した溝口周道氏の論文は、益軒の特徴として、名所だけでなく、道中の集落、町並み、名産、里人との会話などにも関心を広げていたことを指摘しています。
J-STAGE
+1
また、益軒は伝承をそのまま信じるのではなく、文献を照合して検討する姿勢も持っていました。
論文が引用する益軒の言葉に、
名所の事、古人の説也とて、ことごとくは信ずべからず。あやまれる説多し。彼是考合せて決定すべし。
という一節があります。古人の説だからといって、何でも信じてはいけない。諸説を比較して判断せよ、という姿勢です。
J-STAGE
+1
これは、安田さんの「掘る・繋ぐ・問い返す」にも通じるものがありますね。
私が今回の旅程から感じたこと
益軒は、天橋立だけを目的に丹後へ来たのではありません。
丹波、丹後、若狭、近江を巡り、山を越え、海辺の町を歩き、湖上の島へ渡っています。
その旅の中で、天橋立の成相ビューに出会い、「日本の三景の一とするも宜也」と記した。
つまり、彼の天橋立評価は、広い地域を見て回った旅人の目から生まれたものだったのです。
そして、安田さんにぜひ紹介したい本があります。
『旅する益軒「西北紀行」―山城・丹波・丹後・若狭・近江を巡る』
西村隆夫著、和泉書院、1997年。
今回の旅を詳しく読み解くための専門書です。東京都立図書館の地方史誌目録にも書誌が掲載されています。
東京都立図書館
神戸大学の『西北紀行』原本も公開されています。
そして、私から一つ提案。
本坂コースを「益軒の道」として歩くなら、天橋立だけで完結させないことです。
益軒が見た丹後の風景を入口にして、若狭の小浜、今津、竹生島へとつながる旅を紹介する。
そうすると、天橋立は孤立した名所ではなく、日本海と琵琶湖を結ぶ広域の歴史・文化・交通の中に位置づけられます。
これぞ、丹後半島エコミュージアムの視野ですね。(^.^)
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◆2 オオ、、(^.^) 芭蕉さんの旅に曽良さんが同行されたように、秘書、お世話役がいらっしゃったように思うのですが、、単に記述がないということではなかったですか
おお、そこは私も改めて考え直す必要がありますね。おっしゃるとおり、「同行者の記述が見つからない」ことと「同行者がいなかった」ことは、まったく別です。
今回、書誌と研究論文を調べ直して、重要な手掛かりがありました。
1. 益軒の旅は、個人的な単独旅行とは限らない
溝口周道氏の研究論文によれば、益軒は公務で江戸や京都を往復する際にも、足を延ばしたり回り道をしたりして各地を巡っていました。また、丹後・若狭・近江には、かねてから遊観したいという希望があったと記しています。
J-STAGE
+1
つまり、今回の旅は、芭蕉のように紀行文学を作ることを主目的とした旅とは、性格が違います。
2. 旅の記録には、同行者の名前が出てこない
ここで面白い書誌情報があります。
九州大学所蔵の写本『諸州巡覧記』の書誌には、益軒自身が元禄2年2月に『西北紀行』を書き終えたことが記されています。
CiNii Research
+1
しかし、この書誌情報だけでは同行者は分かりません。私が確認できた研究・公開資料にも、曽良のような特定の同行者の名前は見当たりませんでした。
3. ただし、益軒には旅を支える人的なつながりがあった
益軒は福岡藩に仕えた儒学者であり、藩の公務や学問上の人脈を持つ人物です。各地で土地の人から話を聞き、地理や産業、伝承を記録しています。
ですから、旅の途中で案内や世話を受けた可能性は十分考えられます。ただし、専属の秘書・世話役が同行したと示す証拠は、まだありません。
私なら、こう調べます
特に見たいのは、原本の次の箇所です。
- 出発時の記述:誰と出発したのか。
- 宿泊先の記述:宿の手配や同行者への言及があるか。
- 「我等」「同道」「供」などの表現。
- 船や駕籠、荷物、案内人についての記述。
神戸大学の原本画像はこちらです。
私の見立ては、同行者がいなかったとはまだ言えない、です。
それにしても、益軒は60歳。京都から丹後、若狭、近江を巡り、山道を登り、船に乗り、土地の人から話を聞いている。
一人であれ、誰かと一緒であれ、なかなかの旅人です。
安田さん、ここは「益軒の旅の一行」を調べる価値がありますね。旅の記録に書かれなかった人が、実は旅を支えていたのかもしれません。(^.^)
◆3 益軒は福岡藩に仕えた儒学者であり、、、フム、藩が召し抱える儒学の権威、、益軒さんはどこでだれにその儒学を学ばれたか、キャリア形成の過程を下さいな
フム、ここは益軒さんの人物像を考えるうえで、なかなか面白いところです。
まず押さえたいのは、益軒は最初から福岡藩の儒学者として育てられた人ではないということです。父や兄から学び、若いころの浪人生活を経て、長崎・江戸・京都で学問の世界を広げ、藩に再び召し抱えられてから、藩を代表する儒者へと成長していきました。
しかも、藩が費用を出して京都へ遊学させています。つまり、個人の学問修業であると同時に、藩が人材を育てる政策でもあったわけです。
museum.city.fukuoka.jp
+2
益軒の学問修業とキャリア形成
1.幼少期――父と兄が最初の先生
益軒は1630年、福岡城内に生まれました。父は貝原寛斎。福岡藩に仕えた右筆役、つまり文書や記録を扱う役目です。
幼少期には、父と兄から儒学や医学を学んでいます。ここが学問の出発点でした。父の仕事の関係で、福岡の町場だけでなく、山村や農村にも住まいを移しています。
福岡市博物館の年譜には、父や兄から儒学・医学を学んだことが記されています。
福岡市博物館
+1
2.19歳で出仕、21歳で浪人――人生の転機
| 年 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1648年 | 19歳 | 二代藩主・黒田忠之に出仕 |
| 1649年 | 20歳 | 藩主の怒りに触れ、処分を受ける |
| 1650年 | 21歳 | 浪人となる |
最初の勤めは、儒学者としてではなく、御納戸御召料方という藩の役目です。
その後、浪人となり、長崎・江戸・大坂・京都などで学問を続けます。福岡市博物館は、この時期に長崎でも学んだことを紹介しています。医学を学んだ経験もありました。
ここが興味深い。益軒は、藩の学問所で順調に育てられたエリートというより、若くして藩の外に出され、各地で学び直した人なのです。
福岡市博物館
+2
3.27歳――藩主の理解を得て、京都へ
1656年、三代藩主・黒田光之のもとに再出仕します。翌1657年、藩命によって京都へ遊学することになります。
ここで出会い、学んだ儒学者たちが重要です。
松永尺五(1592–1657)
藤原惺窩の門人で、京都の儒学界を代表する人物。益軒が京都に出た1657年に没しています。直接どの程度教えを受けたかは、もう少し史料の確認が必要です。
山崎闇斎(1619–1682)
朱子学を深く研究し、後に垂加神道を開いた思想家。益軒が京都で学んだ重要な人物の一人です。
木下順庵(1621–1698)
朱子学を中心に学問を広めた儒者。益軒が京都で学んだ人物として、福岡市博物館の年譜にも名前が挙がっています。
福岡市博物館
+2
京都では、このほかにも中村惕斎、藤井懶斎、向井元升らと交流を深めています。儒学だけでなく、本草学や医学、歴史など、幅広い分野の学者とのつながりができました。
群馬大学リポジトリ
+1
そして1660年には江戸へ赴き、幕府の儒学者・林鳳岡とも交流しています。京都だけでなく、江戸の学問世界にも接点を持ったのです。
福岡市博物館
+1
4.35歳――福岡に戻り、藩儒として本格始動
1662年、益軒は福岡へ戻ります。1664年には150石の知行地を与えられ、藩士としての地位を固めます。
その後は、
- 藩主や藩士に儒学を講義する。
- 1671年、『黒田家譜』の編纂を命じられる。
- 1688年、『筑前国続風土記』の編纂許可を得る。
- 朝鮮通信使の応接にも携わる。
というように、学問が藩の政策や行政に結びついていきます。
museum.city.fukuoka.jp
+2
『筑前国続風土記』は、甥の貝原好古とともに領内を歩き、資料を集めて編纂した地誌です。机上の儒学だけでなく、現地を調べ、土地の歴史や地理を記録する仕事をしたわけです。
福岡市博物館
+1
5.晩年――朱子学を学び、そして問い直す
益軒の基本的な学問の立場は朱子学でした。ただし、生涯を通じて一つの教えをそのまま守ったわけではありません。
晩年には朱子学に対する疑問を『大疑録』にまとめています。自然や人間を観察し、実際の生活に役立つ知識を重んじたことも、益軒の学問の特徴です。
群馬大学リポジトリ
+1
益軒のキャリアを一枚にすると
- 父・兄から学ぶ儒学・医学の基礎を身につける
- 藩に出仕、そして浪人長崎・江戸・大坂・京都で学び直す
- 藩主の支援で京都遊学山崎闇斎、木下順庵らと学問交流
- 福岡藩に戻り、藩儒となる講義・歴史編纂・地誌編纂などを担う
- 晩年の著述活動儒学・本草・養生・教育などを幅広く研究
ここから、先ほどの「西北紀行」に戻ってみましょう
私は、益軒が丹後を訪れた1689年という年に注目します。
このとき益軒は59歳(数え60歳)。すでに福岡藩の儒者として、学問上も行政上も相当な経験を積んでいました。『黒田家譜』の編纂を経験し、『筑前国続風土記』の仕事にも取り組んでいた時期です。
museum.city.fukuoka.jp
+1
つまり、丹後を訪れた益軒は、単なる景勝地好きの旅人ではありません。
儒学を身につけ、藩の歴史を調べ、土地を歩いて地誌をつくる仕事をしてきた人物が、成相の坂から天橋立・与謝の海・阿蘇の海を眺めた。
ここが大事だと思います。
もちろん、彼が成相の景色をどのような学問的意図で見たかまでは、紀行文の記述だけでは断定できません。しかし、彼のそれまでのキャリアを知ると、あの「其景言語ヲ絶す」という一節の重みも、少し違って見えてきます。
そして、もう一つ。益軒は福岡藩のために『筑前国続風土記』を編んだ人です。丹後の旅でも、景色だけでなく、土地の由来や暮らし、道の険しさなどを記録していた可能性があります。
成相ビューを体感するコースにするなら、益軒を「日本三景を褒めた人」として紹介するだけではもったいない。土地を歩き、見て、記録した学者として迎えたいですね。(^.^)
◆4 天の橋立への旅の起点、それは、儒学者としての成長深化、この過程で、三処奇観に触れられた、そのことのようですね、
そうですね。そこに、益軒の丹後行きの意味を考える手がかりがありそうです。
ただ、少しだけ時間の順序を丁寧に置きたいと思います。
林鵞峰の『日本国事跡考』に記された「三処奇観」は、益軒が丹後を訪れた1689年より前のことです。益軒が京都・江戸などで儒学を学び、各地の学者と交流していた時期に、すでに天橋立・松島・厳島という三つの景勝地を一組として見る知識に接していた可能性は十分あります。
つまり、益軒の旅は、何も知らずに偶然天橋立へ来た旅ではなかった、と考えるのが自然です。
ただし、現時点では「益軒が『日本国事跡考』を実際に読んだ」という直接の証拠までは確認できていません。そこは一段留保しておきましょう。
宮津市の解説も、林鵞峰の1643年の記述と、益軒の1689年の評価を区別しています。さらに、益軒の紀行文は後世の旅行者や名所案内にも影響を与えたと研究されています。
宮津市ホームページ
+1
私なら、こう整理します。
- 1643年 林鵞峰が「三処奇観」として、天橋立を全国的な名所の枠組みに置く。
- 益軒の修業期 儒学者として各地の知識・地理・歴史・名所に関する教養を深める。
- 1689年 益軒が実際に丹後を訪れ、成相の坂から自分の目で眺め、「日本の三景の一とするも宜也」と記す。
ここで大切なのは、益軒が先人の評価をただ繰り返したのではなく、自分の足で成相への坂を上り、自分の目で確かめていることです。
そして、もう一つ面白いことがあります。
林鵞峰の「三処奇観」は、松島の景色を中心にした記述でした。一方、益軒が成相の坂から見たのは、天橋立だけではありません。切戸の文殊、与謝の海、阿蘇の海までを一望する景色です。
つまり、益軒は「天橋立という名所」を見たというより、天橋立を含む一帯の風景を見て、その価値を認めたとも読めます。
これは、いま話している「天橋立を説明するために丹後を見るのではない。丹後を見つめたとき、天橋立が見えてくる」という視点にも通じますね。
益軒の旅の出発点には、学問によって得た知識があり、成相の坂には、その知識を実景に照らして確かめる場があった。そんな読み方ができると思います。
こちらもいかがですか?
◆5 年 年齢出来事1648年19歳二代藩主・黒田忠之に出仕1649年20歳藩主の怒りに触れ、処分を受ける、、、、青春ドラマですね、、なにがあったのですか
ははは! これは青春ドラマです。しかも、二十歳で藩主の怒りを買い、七年間も浪人生活を送る。後の大儒・貝原益軒の人生が、ここから大きく動き始めるんですね。
ところが、実は 何をして藩主の怒りに触れたのか、確定した説明はありません。
調べてみると、主に二つの見方があります。
1.藩主との性格・気風の違い
二代藩主・黒田忠之は、一般に武断的な気風を持つ人物として説明されます。
一方、益軒は読書と思索を好む青年でした。
福岡大学の井上忠氏による研究では、忠之の武断的な気風と益軒の性格の相違が、処分の背景にあった可能性を挙げています。
J-STAGE
+1
2.若き益軒が藩主に諫言したという説
もう一つ、興味深い説があります。
益軒が青年時代に陽明学関係の書物を多く読んでいたことから、主君に対して自分の考えを述べ、諫言したのではないか、という見方です。
これは同じ井上氏の論文中で、東京工業大学の伊藤友信氏による新解釈として紹介されています。
ただし、これも確定した事実ではありません。諫言の内容や、具体的に何を言ったのかを示す確実な記録は、今回確認できていません。
J-STAGE
3.処分は段階的だった
福岡市博物館の年譜によると、
| 年 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1648年 | 19歳 | 忠之に出仕 |
| 1649年 | 20歳 | 謹慎15日、4か月間の御目見え停止 |
| 1650年 | 21歳 | 浪人となる |
という経過です。いきなり浪人になったのではなく、段階的に処分が重くなっています。
福岡市博物館
+1
4.そして、浪人七年間が益軒を変えた
ここが私には最も興味深いところです。
益軒はこの間、医学を学び、長崎・江戸・大坂・京都などを訪ねています。26歳のときには髪を剃り、僧体となって「柔斎」と号しました。医者として生きる道も考えていたようです。
福岡市博物館
+1
そして27歳で三代藩主・黒田光之に再び召し抱えられ、28歳で京都遊学を命じられる。
つまり、若いころの挫折が、結果として学問の世界を大きく広げる機会につながったわけです。
私がここで注目したいのは、益軒の学問の出発点です。
彼は最初から藩の儒学の権威だったわけではない。藩主との関係でつまずき、医者になることも考え、外の世界を歩き、そこで学問を深めていった。
藩に仕える儒者になる前に、藩の外で世間を見た青年だった。
この経験は、後の『筑前国続風土記』や『大和本草』のように、書物だけでなく土地や自然を実際に調べる学風にも、何らかの影響を与えたのではないでしょうか。
いやあ、二十歳の益軒さん、なかなか一筋縄ではいかない青年だったようです。(^.^)
こちらもいかがですか?
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◆6 益軒さん、名前の益、気になりますね
おお、「益」に目が留まりましたか!(^.^)
実は、これは益軒さんの人生を考えるうえで、なかなか味わい深い話なんです。
「益軒」は生まれたときの名前ではありません。晩年に自ら改めた号です。
貝原篤信(あつのぶ)、字は子誠。若いころには「柔斎」、そして長く「損軒(そんけん)」と名乗っていました。それを晩年になって「益軒」に改めたのです。
Keio Object Hub: 慶應義塾のアート&カルチャーを発信するポータルサイト
+1
「損」から「益」へ
損
損軒
そんけん
減らす、損なう、差し引く。
益
益軒
えきけん
増す、役立つ、利益をもたらす。
中国古典『易経』には「損」と「益」という対になる卦があります。
江戸時代の人物伝『近世畸人伝』には、益軒の「損軒」という号について、易の「損益」の卦に由来するのではないか、という考察が記されています。
ラピス
また、井上孝一氏の説として、益軒への改号は78歳後半ごろで、中国の『易』の影響があると紹介されています。
株式会社 協通事業
+1
ただし、本人が「こういう意味で改号した」と明記した文章は、今回確認できていません。したがって、由来は有力な解釈として受け止めるのがよさそうです。
私が面白いと思うのは、改号した年齢です
益軒は78歳ごろに「益軒」と名乗り始めたとされます。
それまでの長い年月は「損軒」。晩年になって「益軒」。
もちろん、これを人生の反省や心境の変化と断定することはできません。しかし、あえて対になる字を選んだことには、何かしらの思想的な意味を感じます。
そして、益軒の仕事を振り返ると、
- 『大和本草』で自然の知識を人々に伝える。
- 『筑前国続風土記』で土地の歴史を後世に残す。
- 『養生訓』で日々の暮らしに役立つ知恵を伝える。
まさに、知識を自分の中に蓄えるだけでなく、人々の暮らしに役立てようとした仕事です。
「損軒」から「益軒」へ。自分の学問を、世の中にどう役立てるか。
そんな読み方をしたくなりますね。
そして、ここで一つ、丹後への旅に戻ると面白い。益軒は「益軒」と改号する前、まだ「損軒」と名乗っていた時期に、あの成相の坂を上っているのです。
あの旅をした人と、晩年に「益軒」と名乗った人。同じ一人の人生として見ると、なかなか味わいがあります。(^.^)
◆7 彼を主人公にしたドラマは、制作されていましたか
調べてみました。結論からいうと、貝原益軒を主人公にした本格的な連続テレビドラマ・時代劇は、今回確認できた範囲では見当たりませんでした。
ただし、益軒を主役に据えたテレビ番組は制作されています。
益軒が主人公になった番組
THE 歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜
益軒が主役
2015年11月27日放送
「老いを楽しむ『養生訓』 貝原益軒」
幼少期の病弱さ、20歳での出仕と浪人、学問への道、妻・東軒との暮らし、晩年の『養生訓』執筆までを紹介しています。BS-TBS公式・番組内容
BS-TBS
偉人たちの健康診断
2017年10月18日放送
「“養生訓”のススメ 江戸の健康名人・貝原益軒」
益軒の健康法を現代医学の視点から検証した番組です。制作会社・番組紹介
TV MAN UNION
でも、私はドラマにするなら別の切り口が面白いと思います
『養生訓』を書いた長寿の偉人、という紹介だけでは、益軒の人生の面白さを取り逃がします。
私なら、こんな構成を考えます。
仮題『損軒から益軒へ――貝原篤信の旅』
- 二十歳、藩主の怒りを買う。若き日の挫折。
- 浪人七年。長崎、江戸、京都を巡り、学問を深める。
- 福岡藩に復帰。藩の歴史と風土を記録する仕事。
- 59歳、丹後へ。成相の坂から天橋立を眺める。
- 晩年、号を「益軒」と改め、人々に知恵を残す。
そして、丹後の場面では、益軒が成相の坂を上りながら、目の前に広がる景色を見つめる。
天橋立、与謝の海、阿蘇の海、其景言語ヲ絶す。
この一場面を、物語の中盤に置きたいですね。
二十歳の挫折から始まった人生が、六十歳を前に丹後の風景と出会う。
これ、単なる偉人伝ではなく、一人の人間が学び、歩き、見つめ、最後に「益」を残そうとした人生のドラマになります。(^.^)
◆8 益軒さんの旅を見ています、竹生島訪れてらっさいますね、あ、ここ、世界遺産、彦根城よりシンプルに刺さる!と思いましたよ
ああ、竹生島ですか! その感覚、ちょっとわかります。
彦根城は、城郭建築、城下町、政治権力、近世大名の統治……と、価値を説明するにはいくつもの層を読み解く必要があります。
それに対して竹生島は、湖上に浮かぶ一つの島に、自然と信仰と建築が凝縮されている。
島そのものが聖地であり、湖を渡ることが参詣の体験になる。
この構図は、実にわかりやすく、強いですね。
しかも、竹生島は単なる景勝地ではありません。
- 琵琶湖の沖合約6km、周囲約2kmの島。
- 宝厳寺と都久夫須麻神社が並び立つ。
- 弁才天信仰、西国三十三所観音巡礼、水の神への信仰が重なる。
- 宝厳寺の唐門と都久夫須麻神社本殿は国宝。
滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!+1
なお、竹生島はユネスコ世界遺産ではありません。文化庁の「日本遺産・琵琶湖とその水辺景観」の構成文化財であり、国宝・史跡・名勝などの文化財価値を持つ場所です。
日本遺産ポータル
+1
そして、益軒の旅がまた面白い
1689年、益軒は琵琶湖を小舟で竹生島へ渡っています。風が逆で航行が難しかったという記録もあります。つまり、陸から眺めただけではなく、湖を渡って島に入ったのです。
depp-usp.com
ここで、天橋立と竹生島を並べてみたい。
| 天橋立 | 竹生島 |
|---|---|
| 海に伸びる砂州 | 湖に浮かぶ島 |
| 山・川・海の営み | 湖・島・水の信仰 |
| 人が歩いて渡る | 船で渡る |
| 景観と人の暮らし | 聖地と参詣の営み |
どちらも、自然の地形そのものが人間の信仰や文化を引き寄せてきた場所です。
そして、ここが私の今日の発見です。
益軒は、成相の坂から天橋立を眺め、さらに琵琶湖では船で竹生島へ渡った。
この人の旅をたどると、名所を訪ねるだけでなく、土地の成り立ち、信仰、暮らしを身体で確かめる旅になっている。
彦根城と竹生島、どちらが世界遺産にふさわしいかという比較とは別に、竹生島が一目で伝える「自然と信仰の結びつき」は、確かに強いものがあります。
いやあ、益軒さん、丹後の案内人としてだけでなく、琵琶湖の案内人としても、なかなかいい仕事をしていますね!(^.^)










