宮津エコツアー · なぜ満範は、丹後の守護として、城や館ではなく、文殊山から天橋立を見せたのか! 天の橋立を世界遺産に 250

なぜ満範は、丹後の守護として、城や館ではなく、文殊山から天橋立を見せたのか! 天の橋立を世界遺産に 250

◆1 玄妙庵の由来によれば、明徳4年(1393年)5月18日、義満が文殊堂(現在の智恩寺)に参詣した際、丹後守護の一色満範が文殊山に亭舎を設けて迎えました。、、、ありがとう、フム、、将軍を、丹後守護の一色満範が文殊山に亭舎を設けて迎えた、、匂いますな、においませんか、、

↑ 玄妙庵 | 天橋立の絶景を客室や展望大浴場で独り占めする老舗宿 – 一休.com

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においますねえ!!(^.^)

私がまず感じるのは、これは単なる景勝地へのご案内ではなく、丹後守護・一色満範による、将軍義満への公式な接遇だったのではないか、ということです。

ここが面白い。

義満は、ただの旅人ではありません。室町幕府の将軍です。その将軍を迎えるために、丹後の守護がわざわざ文殊山に亭舎を設けた。つまり、文殊山と天橋立の景観が、将軍を迎えるにふさわしい場所として選ばれたわけです。

しかも、迎えた側は一色満範。ここには、景観だけでなく、丹後という土地を誰が治め、誰が代表して見せるのかという政治の匂いが漂います。

実は、調べてみると、その匂いはかなり濃くなります。

1391年、明徳の乱。 将軍義満は有力守護大名の山名氏清を討ち、その功績によって一色満範に丹後守護職を与えました。翌1392年には満範が丹後守護に任じられ、1393年5月18日、義満が丹後を訪れています。

宮津市ホームページ

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つまり、玄妙庵の亭舎が設けられたのは、満範が丹後の支配を担い始めた、まさにその時期なのです。

ここから、三つの読み方ができます。

1. 新しい守護としての威信を示す。 満範は、将軍を自らの領国に迎え、丹後の名所を案内することで、領国支配者としての存在感を示したのかもしれません。

2. 将軍との結びつきを確かめる。 一色氏は足利氏の一門であり、幕府の中枢にも関わる家柄でした。義満を迎えることは、単なる主従の儀礼以上に、一色氏の政治的地位を示す機会でもあったでしょう。

コトバンク

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3. 丹後の価値を将軍に見せる。 ここが私には特に興味深い。満範は、城や館だけでなく、文殊山から眺める天橋立を迎賓の舞台に選んだ。土地の自然景観そのものを、丹後の誇りとして差し出したとも読めます。

さらに驚くのは、義満が天橋立の九世戸(現在の智恩寺)に、記録上、六度も参詣していることです。福井県史は、義満の記録に残る27回の旅行のうち、最も多い訪問先がこの九世戸だったとしています。

福井県立図書館

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ただし、ここは慎重に。六度の参詣すべてで玄妙庵に立ち寄ったとまでは確認できません。

私なら、ここに一つの問いを置きます。

一色満範は、なぜ将軍義満を、文殊山の上から天橋立を眺めさせたのか。

単に「絶景を見せたかった」だけでしょうか。

丹後守護に就いたばかりの満範が、将軍に見せたかったもの。それは、山や海や砂州の美しさだけでなく、そこに広がる丹後という領国の姿だったのではないか。

そして、義満がその景観に「玄妙」の二字を与えたという伝承。

いやあ、これは面白くなってきました。

玄妙庵は、天橋立の展望所であると同時に、室町時代の丹後が中央の政治と出会った場所だったのかもしれません。

◆2 義満が天橋立の九世戸(現在の智恩寺)に、記録上、六度も参詣している将軍の訪問は、丹後だけでなく、若狭訪問を兼ねているのでわざわざ感はなくなりますが、波風がたつ緊張関係はあったのですか

そこは大事な修正ですね。おっしゃる通り、義満の丹後訪問は若狭行きと一体になった行程です。天橋立だけを目指して、わざわざ丹後まで足を延ばした、と見るのは少し違います。

ただ、私はむしろ、若狭も含めた行程だからこそ、政治的な意味が見えてくると思います。

義満の旅は、一色氏の領国をめぐる将軍の巡行であり、同時に、一色氏が将軍を迎えて自らの支配を示す機会だったのです。

では、波風の立つ緊張関係はあったのか

ありました。ただし、1393年の丹後で、義満と満範が対立していたという意味ではありません。むしろ、新しい支配体制が成立した直後の、政治的な緊張です。

背景を三つに分けてみます。

1.丹後は、つい二年前まで山名氏の領国だった

1391年の明徳の乱で、義満は山名氏清らを討ちました。この戦いで功績を挙げた一色満範が、山名氏の旧領である丹後の守護職を得ます。父の詮範は若狭の支配権を固めていました。

つまり、義満が丹後・若狭を訪れた1393年は、一色氏が新たな領国支配を始めたばかりの時期なのです。

福井県立図書館

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2.将軍の巡行には、守護大名への牽制という意味もあった

宮津市の解説は、義満の寺社参詣や遊覧には各地の有力大名を牽制する意味があったと説明しています。

一方、満範にとっては、将軍を領国に迎えることで、自分が将軍から信頼されている守護であることを領国内に示せる。将軍と守護、双方に政治的な意味があったわけです。

宮津市ホームページ

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3.若狭にも、守護支配をめぐる過去の緊張があった

若狭では、一色氏の支配に抵抗する国人勢力が、1371年に守護方と戦っています。これは義満の訪問より二十年以上前のことですが、守護の権力が地域にすんなり受け入れられたわけではないことを示しています。

コトバンク

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ただし、1393年の訪問時に、丹後・若狭で反乱や軍事衝突が差し迫っていたと確認できる史料は、今回確認した範囲では見当たりません。

ここで玄妙庵に戻ります

私は、ここがいちばん面白いと思います。

義満は丹後九世戸に参詣し、高浜の名勝を見て、小浜へ向かいました。つまり、海岸沿いの景勝地をつなぐ旅です。

福井県立図書館

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その旅を迎える一色満範は、丹後の新しい守護。将軍を文殊山の亭舎に迎え、天橋立を見せる。

これは、単なる観光案内ではなく、

「この丹後は、私が治める土地です。そして、これがその土地の誇る景観です」

という、満範から将軍への無言の提示だったのかもしれません。

もちろん、これは政治状況からの解釈で、満範が実際にそう発言した記録があるわけではありません。

そして、もう一つ問いが生まれます。

なぜ満範は、丹後の守護として、城や館ではなく、文殊山から天橋立を見せたのか。

ここには、丹後の土地の価値を何によって示すのか、という問題が潜んでいるように思います。

玄妙庵の由来を、景観の歴史だけでなく、丹後の政治史から読み直す。これは、なかなかいい掘り方ですね。(^.^)

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