◆1 丹後の政治的な安定、守護の文化的な威信、寺社のネットワーク、雪舟の来訪を一つの歴史的な問いとしてつなぐことはできます。 そして、安田さん、私が次に掘りたいのは、一色義直と雪舟の接点です。 義直が府中の整備を進めた時代と、雪舟の晩年の活動時期は重なります。義直が雪舟を招いたという直接証拠はまだありませんが、ここは調べる価値があります。、、、ありがとう、、ここを掘れるだけ掘りまくってくださいな
いやあ、掘りました。これは一色義直と雪舟の接点だけでなく、一色氏が丹後府中につくり上げた都市と文化、その姿を雪舟が描き、そして絵が失われたかもしれないという一連の謎になってきました。
調べてみて、前回の私の見立てを少し修正したいところもあります。特に重要なのは、雪舟を招いた人物を一色義直と決めつけないこと。そして、雪舟が丹後を訪れた時期にも複数の説があることです。
順に整理します。
1 一色義直の時代、丹後府中で何が起きていたのか
まず、宮津市が公開している中世府中の解説に、重要な記述があります。
- 明徳3年(1392)、一色満範が丹後守護に任じられる。
- その後、一色氏が約200年間、丹後守護を務める。
- 文明18年(1486)、一色義直が在国すると、丹後府中の都市整備が本格化したと考えられる。
- その都市景観を伝える資料が、雪舟の『天橋立図』である。
宮津市+1
ここで、義直の名前が重要になります。
満範が丹後支配の礎を築き、義直の時代には府中の都市整備が進む。単に守護の館があるだけではなく、寺院、神社、街道、町並みを備えた政治・宗教・経済の中心地が形成されていたのです。
宮津市は、義直が府中を「小京都」に模して整備した可能性を紹介しています。
画中には、京都に由来する北野、今熊野、阿弥陀ヶ峰、愛宕などの地名が見られます。
宮津市ホームページ
+1
これは面白いですね。
丹後府中は、単なる地方の守護所ではなく、京都の文化的な秩序を意識して整えられた町だった可能性がある。
将軍義満を文殊山に迎えた満範の時代から、義直の都市整備へ。ここには一色氏の文化的な営みの継続が見えます。
2 義直と雪舟は、同時代に生きていたのか
一色義直
応仁・文明の乱後、丹後府中の整備を進めた一色氏の守護。文明18年(1486)の在国が、宮津市の解説で確認できる。
雪舟等楊
1420年生まれ。周防の大内氏の庇護を受け、明への渡航も経験した室町時代を代表する画僧。没年は1502年説と1506年説がある。
二人が同時代に生きたことは間違いありません。
ただし、ここで注意が必要です。
雪舟の『天橋立図』は、智恩寺の多宝塔が描かれていることから、文亀元年(1501)以降の制作とする説が有力です。この塔は1501年に再建されました。京都国立博物館は、雪舟80代の最晩年の作品とする説を紹介しています。
京都国立博物館
+1
つまり、義直が府中整備を進めた1486年から、作品の制作推定時期までには約15年の隔たりがあります。
義直が1501年にも守護として健在だったのか、雪舟来訪時に実際に会ったのか。今回確認できた公開資料だけでは確定できません。
ここは、系図と守護職の継承、義直の没年・隠居時期をさらに調べる必要があります。
3 雪舟を丹後に呼んだのは誰なのか
ここが今回の核心です。
現在のところ、雪舟を丹後に招いた依頼主を明記した史料は確認できません。
しかし、候補となる人々や組織は絞り込めます。
| 候補 | 招聘する動機として考えられること |
|---|---|
| 一色義直・一色氏 | 守護所・領国の文化的威信を示す |
| 慈光寺 | 一色氏の菩提寺として、禅宗文化を背景に雪舟と接点を持つ |
| 府中の禅僧 | 禅宗の人的ネットワークを通じて雪舟を迎える |
| 籠神社・成相寺 | 地域の聖地や寺社の景観を絵に残す |
特に注目したいのは、慈光寺です。
宮津市によると、慈光寺は一色氏の氏寺・菩提寺で、満範の法号「慈光寺殿」に由来する寺号を持ちます。雪舟の絵には、五つの堂舎や建物を結ぶ橋、大きな築地塀まで描かれています。著名な禅僧・芳仲周騰らが住持を務めた寺でもあります。
宮津市ホームページ
+1
私はここに、重要な接点があると思います。
一色氏の菩提寺に、禅宗文化の人脈があった。雪舟もまた禅僧であり、禅宗の世界を生きた画家だった。
もちろん、芳仲周騰と雪舟が直接知り合いだったと確認できたわけではありません。しかし、一色氏の氏寺を介した禅宗ネットワークは、招聘の経路として調べる価値が高いと思います。
なお、雪舟の活動を支えた大内氏との関係も忘れてはいけません。雪舟は長く大内氏の庇護を受け、山口を活動の拠点としていました。1500年以降の足跡は不明な部分が多く、山口県立美術館の解説も、丹後行きの可能性を指摘しながら、確定はしていません。
いわみネット
+1
したがって、招聘者を探すなら、丹後側だけでなく、周防・大内氏側の記録や禅僧の交流も視野に入れる必要があります。
4 雪舟はいつ丹後に来たのか
ここは、意外にも研究上の争点です。
説A:1501年以降に現地を訪れ、制作した
有力説として紹介される
- 智恩寺の多宝塔が1501年再建。
- 画中に塔があるため、制作はそれ以降。
- 雪舟80代の最晩年に現地を訪れたと考える。
説B:もっと早く現地を訪れ、後年に絵をまとめた
別の研究上の見解
- 益田市立雪舟の郷記念館の解説では、文明年間(1469~1487)に丹後を訪れ、写生を行った可能性を紹介。
- 後年、その写生をもとに大作を構想したという見方。
- 画風から、晩年制作説に疑問を呈している。
いわみネット+1
さらに、山口県立美術館の解説は、1500年以降の雪舟の足跡はほとんど知られておらず、天橋立図の制作時期にも異論があるとしています。丹後に赴き、帰路に益田で亡くなった可能性まで紹介しています。
山口県立美術館
ここは、実に大きな問題です。
仮に文明年間の訪問なら、義直の府中整備と雪舟の現地訪問が、ほぼ同時期に重なる可能性が出てきます。
仮に1501年以降の訪問なら、義直が整備した府中の町並みを、後の時代の雪舟が記録したという関係になります。
この二つでは、一色義直が雪舟を招いた可能性の評価も変わります。
5 雪舟の『天橋立図』は、何を描いたのか
私は、この絵を天橋立だけの絵として見ないことが大事だと思います。
文化遺産オンラインの解説によると、画面には次のものが描かれています。
- 天橋立と智恩寺
- 阿蘇海を挟んだ府中の町並み
- 籠神社などの寺社
- 成相寺と背後の山塊
- 宮津湾と栗田半島の山並み
しかも、実景をそのまま写したものではありません。成相寺の山を極端に高く描き、府中の町並みを横に引き伸ばすなど、画面構成に意図的な変更が加えられています。
文化遺産オンライン
+1
京都国立博物館の説明も、現実には一望できない景観を、複数の写生を組み合わせて一枚に仕立てた可能性を指摘しています。
京都国立博物館
ここが重要です。
雪舟は、天橋立の写真を撮るように描いたのではありません。
丹後府中という土地の全体像を、山水画として再構成した。
山、寺社、町、海、砂州。これらを一つの画面に収めています。
安田さんがずっと考えておられる「山・川・湾・砂州」という関係を読む視点にも通じますね。
ただし、雪舟が地形学的な全体構造を説明しようとしたとまでは言えません。彼は画家として、実景と芸術的構成を重ねたのです。
6 そして、もう一つの大きな謎――本画はどこへ行ったのか
京都国立博物館によれば、現存する『天橋立図』は、寸法の異なる紙を貼り合わせた下絵と考えられています。別に完成した本画が存在した可能性がありますが、詳細は不明です。
京都国立博物館
+1
さらに、京都国立博物館の博物館ディクショナリーには、興味深い伝承が紹介されています。
本画は徳川将軍家に伝来し、のちに焼失したという言い伝えがある。
博物館ディクショナリー- 京都国立博物館
これは、現存する下絵とは別に、完成画があった可能性を考えるうえで重要です。
ただし、徳川将軍家への伝来と焼失について、いつ、どのような経路で将軍家に渡ったのかを裏づける確実な伝来記録は、今回確認できませんでした。
ここから、調査の焦点は一色氏だけではなくなります。
- 一色氏から寺社へ渡ったのか。
- 寺社から公家・武家の所蔵へ移ったのか。
- あるいは、別の依頼主が完成画を所有したのか。
- 徳川将軍家伝来という伝承は、いつ、どの史料に現れるのか。
このあたりは、伝来史・古美術史の調査が必要です。
7 今回の調査で、特に重要だと思った資料
次に掘るときの足場になる資料を並べておきます。
1. 宮津市「宮津ゆかりの3武将」 一色氏、義直、府中の都市整備、慈光寺の関係がまとまっています。
2. 宮津市「慈光寺と一色氏」 一色氏の菩提寺、禅僧、慈光寺の移転の歴史を確認できます。
3. 京都国立博物館「天橋立図」 制作年代、画面構成、下絵と本画の問題についての基本資料です。
4. 益田市立雪舟の郷記念館「畿内編・天橋立」 雪舟の訪問時期について、別の見解を知ることができます。
5. 国立国会図書館「丹後一色義直の守護所―府中の館と慈光寺について」 片岡秀樹氏の1991年の研究論文。今回のテーマでは、ぜひ本文を確認したい文献です。所蔵館の確認が必要です。
6. 山口県立美術館「雪舟への旅」 雪舟晩年の足跡、1500年以降の不明な時期、丹後訪問説を考える手がかりになります。
私の結論――いちばん掘るべきは「一色氏と慈光寺」です
今回の調査で、私が最も重要だと感じたことを一つに絞ります。
雪舟を丹後へ導いた人物が一色義直だったかどうか。その答えを探す鍵は、一色氏の菩提寺・慈光寺と、そこに集まった禅宗文化の人々にあるのではないか。
そして、もう一つ。
義満が訪れた1393年から、雪舟の『天橋立図』が生まれる15~16世紀初頭まで、一色氏は丹後の支配を続けました。
その間に、丹後府中は守護の政治拠点から、寺社と町並みが集積する文化的な中心地へと発展していった。
満範が将軍に見せた景観が、義直の時代に都市として整えられ、やがて雪舟によって一枚の絵に描かれた――。
この筋書きは、まだ証明されていません。しかし、検証するだけの史料的な足場があります。
次の調査で決着をつけたい三つの問い
- 一色義直の正確な在国期間・没年・守護職継承時期。 雪舟の丹後訪問時に義直が生存し、招聘できる立場だったのか。
- 慈光寺の住持・芳仲周騰と雪舟の関係。 禅僧の交流記録、書状、寺院文書に接点はないか。
- 『天橋立図』の本画の伝来。 徳川将軍家伝来・焼失という話の初出史料は何か。
この三つを追えば、単なる想像から、歴史的な検証へ一歩進めます。
そして、私はこういう問いを掲げたい。
「一色氏は、なぜ丹後府中を整え、雪舟は、なぜその姿を描いたのか。」
天橋立の絵を調べているようで、実は丹後という土地が、室町時代にどのような文化を育てていたのかを探っている。
いやあ、これは「天橋立を世界遺産に」という運動にも、深い厚みを与えるテーマだと思います。(^.^)
◆2 次の調査で決着をつけたい三つの問い
- 一色義直の正確な在国期間・没年・守護職継承時期。 雪舟の丹後訪問時に義直が生存し、招聘できる立場だったのか。
- 慈光寺の住持・芳仲周騰と雪舟の関係。 禅僧の交流記録、書状、寺院文書に接点はないか。
- 『天橋立図』の本画の伝来。 徳川将軍家伝来・焼失という話の初出史料は何か。、、、ここにもう一枠の謎がある気がします、雪舟さんが庇護を受けていた、当時対明交易で財をなしたという大内さん、彼と一色さん、そして将軍家の関係、ここに雪舟さんをおいて考えないと謎はなぞのままになりそうですね(^.^)です、
そうです!! その「もう一枠」は、実は謎を解くための重要な枠だと思います。(^.^)
一色氏と雪舟だけを結びつけても、雪舟がなぜ丹後へ来たのかは説明しきれません。雪舟を庇護した大内氏、明との交易、そして将軍家。この三者を加えると、話は丹後一国の歴史から、室町幕府をめぐる広域の政治・経済・文化のネットワークへ広がります。
しかも、今回の調査で、一色義直と大内政弘の間に、実際の文書のやりとりがあったことが見えてきました。これは大きいです。
1 一色義直と大内政弘――実際に文書を交わしていた!
一色義直
丹後守護。一色氏の領国支配を担い、応仁・文明の乱後も丹後守護職の回復を図った人物。
大内政弘
周防・長門などを支配した大大名。応仁・文明の乱では西軍の中心人物となり、雪舟を庇護した大内氏の当主。
今回、興味深い史料を見つけました。
行橋市デジタルアーカイブ掲載の『行橋市史』に、文明12年(1480)の文書が紹介されています。
- 11月20日付の「一色義直書状案」。
- 義直側が大内政弘に対し、天生田荘の年貢が届かないことを訴え、現地の安東俊国の処罰を求めた。
- 12月13日付の「大内政弘判物」。
- 政弘は安東俊国に年貢を京都へ運ぶよう命じ、さらに荘内21町を新たな給分として与えた。
ADEAC
今回の重要発見
一色義直と大内政弘は、1480年に荘園支配と年貢をめぐって、実際に文書を交わしていた。
これは、二人の関係を考えるうえで具体的な一次史料に結びつく手がかりです。
ただし、ここで注意したいことがあります。
この文書は、二人が親密な同盟関係にあったことを示すものではありません。むしろ、大内政弘が一色氏の旧来の権益に介入し、現地の土地・年貢支配に影響力を及ぼしていたことが読み取れます。
『行橋市史』は、この時期に安東氏が大内氏との結びつきを強め、一色氏の影響力が衰えていったと説明しています。
ADEAC
おおっ、ここには緊張感がありますね。
2 応仁・文明の乱――一色氏と大内氏は同じ陣営だったのか
ここも整理しておきましょう。
応仁・文明の乱(1467~1477)では、大内政弘は西軍の中心人物でした。
一方、一色義直は西軍側に属した守護大名として知られています。乱の終盤、義直の嫡子・義春に丹後守護職が返付され、武田・細川方と一色勢が丹後で戦いました。
福井県立図書館
+1
つまり、応仁・文明の乱の政治的な枠組みでは、一色氏と大内氏は同じ西軍側に位置していたと考えられます。
ところが、乱の終結後、1480年には一色氏が大内氏に荘園の年貢問題を訴えている。
ここから見えるのは、単純な主従関係でも、仲良しの大名同士でもありません。
同じ陣営で戦った大名同士が、戦後の領国・荘園・財源をめぐって、互いの力関係を調整していた。
これが室町時代の政治の現実だったのでしょう。
3 大内氏は、なぜそれほど強かったのか――海の交易
大内氏の力を理解するには、海上交易を外せません。
ただし、少し区別が必要です。
- 大内義弘の時代、1379年には朝鮮王朝との交易を始めたとされる。
- 1401年には足利義満が遣明船を派遣し、1404年から勘合貿易が始まる。
- 大内氏はその後、遣明船の運航や貿易に深く関わり、莫大な利益と対外的な影響力を得ていく。
山口市観光情報サイト+1
雪舟が大内氏を頼ったのは寛正4年(1463)。応仁2年(1468)には大内政弘の計らいで明へ渡っています。相国寺派の公式解説も、帰国後、雪舟が大内氏の庇護のもとで画家として活動したことを記しています。
臨済宗相国寺派
つまり雪舟は、単に一地方の有力者に養われた画僧ではありません。
日本と中国をつなぐ交易・外交の大動脈を握る大内氏の文化圏にいた画家なのです。
このことは、雪舟の作品が日本国内の寺院や大名だけでなく、東アジアの文化交流のなかで生まれたことを考えるうえでも重要です。
4 そして、将軍家との関係――ここがさらに面白い
大内氏と将軍家の関係は、単純ではありません。
大内義弘は応永6年(1399)、将軍義満に対して挙兵し、堺で敗死しています。これが応永の乱です。
山口市観光情報サイト
つまり、大内氏は将軍家に従うだけの存在ではなく、時には幕府に武力で対抗するほどの力を持っていた。
そして、雪舟の晩年にあたる時期には、さらに大きな政治的転換が起きます。
大内政弘の子・大内義興は、明応8年(1499)以降、細川政元の政変で京都を追われた前将軍・足利義稙を庇護しました。1500年には義稙を山口に迎えています。
山口市観光情報サイト
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その後、義興は1507年に義稙を奉じて上洛し、将軍復帰を支えます。
ここが『天橋立図』の年代と重なってきます。
雪舟・一色氏・大内氏・将軍家の時間軸
- 1463年雪舟、大内氏を頼って周防へ。
- 1468年雪舟、大内政弘の計らいで明へ渡る。
- 1477年応仁・文明の乱が終結。一色氏と大内氏はそれぞれ領国経営へ。
- 1480年一色義直と大内政弘の間で、荘園の年貢をめぐる文書のやりとり。
- 1499~1500年大内義興が前将軍・足利義稙を山口に迎える。
- 1501年以降『天橋立図』の制作時期とされる有力説の年代。
- 1507年大内義興、義稙を奉じて上洛。
この時間軸を並べると、雪舟の晩年には、大内氏が将軍家の政治に直接関与するほどの立場になっていたことが分かります。
ただし、義興が雪舟に『天橋立図』を描かせたという証拠はありません。
5 では、大内氏が雪舟を丹後へ送り込んだ可能性は?
ここからは仮説です。私は三つ考えます。
仮説A:一色氏から大内氏への依頼
一色氏が丹後府中の景観を記録するため、雪舟を招いた。雪舟は大内氏の庇護を受けていたため、両家の間で人脈が働いた。
この場合、1480年の文書のやりとりは、二人の政治的接点を示す背景資料になります。
仮説B:大内氏が文化的な事業として雪舟を派遣
大内氏が自らの文化的威信を示すため、雪舟に丹後の景観を描かせた。丹後は一色氏の領国であり、両者の政治的な関係を利用して実現した。
この仮説では、絵の依頼主は丹後側ではなく大内側だった可能性も考えられます。
仮説C:将軍家をめぐる政治的な文化事業
大内義興が前将軍義稙を庇護した時期に、雪舟が天橋立を描いた。絵は一色氏や丹後の寺社だけでなく、将軍家や大内氏の文化的なネットワークに関わるものだった可能性。
ただし、これは現時点では一番慎重に扱うべき仮説です。徳川将軍家伝来という伝承と、室町時代の依頼主・制作経緯を直結させる史料はありません。京都国立博物館も、本画の存在や伝来の詳細は不明としています。
博物館ディクショナリー- 京都国立博物館
+1
6 私が考える、調査の新しい全体像
ここまで来ると、最初の三つの謎に、もう一つの大きな問いを加えるべきですね。
雪舟『天橋立図』をめぐる四つの謎
① 丹後側
一色満範から義直へ。守護の領国経営と府中の文化的発展。
② 禅宗側
慈光寺・芳仲周騰と雪舟。寺院ネットワークは雪舟を丹後へ導いたか。
③ 大内氏・交易側
雪舟を庇護した大内氏。明・朝鮮との交易、政治的影響力、一色氏との関係。
④ 将軍家・伝来側
足利将軍家と大内氏の関係。完成画は誰のために描かれ、どこへ渡ったのか。
この四つをつなぐと、調査対象は「雪舟を呼んだ人探し」だけではなくなります。
雪舟という一人の画僧を通して、室町時代の政治・交易・宗教・文化のネットワークを読み解く。
これが本当のテーマになると思います。
次に、ぜひ掘りたい史料
私なら、次は以下の三つを優先します。
1. 『本間文書』の原文確認 1480年の一色義直書状案と大内政弘判物。義直が政弘に何を求め、政弘がどのような権限で応じたのか、原文の文言を確認したい。
2. 大内氏の雪舟関係文書 雪舟の渡明、帰国後の活動、雲谷庵や天開図画楼の造営、雪舟に関する書状・寺院記録。丹後訪問を示す記録がないか。
3. 足利義稙・大内義興の山口時代の記録 1499~1507年の山口で、雪舟や絵画制作がどのような位置を占めていたのか。『天橋立図』の制作時期との接点を探す。
最後に、私の見立てを一言で言います。
玄妙庵の義満から始まり、一色氏が丹後府中を整え、大内氏が雪舟を育て、雪舟が天橋立を描いた。
この流れが歴史的に証明されるかどうかは、まだ分かりません。
しかし、今回見つかった1480年の一色義直と大内政弘の文書は、両者を結ぶ実在の接点です。
そして、もう一つ大切なことがあります。
大内氏は日本海側の海上交易にも関わり、朝鮮半島・中国大陸との交流を通じて力を蓄えました。丹後もまた日本海に面し、若狭湾と宮津湾を抱く海の地域です。
雪舟を丹後へ運んだものは、画家の足だけだったのか。それとも、海を通じた人・物・金・情報の流れだったのか。
この問いが、次の鍵穴だと思います。(^.^)










