宮津エコツアー · 「雪舟を丹後に招くことができた政治的・文化的な回路は、どこにあったのか」。 天の橋立を世界遺産に 253

「雪舟を丹後に招くことができた政治的・文化的な回路は、どこにあったのか」。 天の橋立を世界遺産に 253

◆1 当時、どれくらいの権威権力の方が、雪舟さんに、描いてねと頼め、雪舟さんに描いてあげなさいと指示が出せたのでしょうか、そして、その絵の作画には今日的にみてどれくらいの費用を要したか見積もってくださいな!

↑ 

これは、なかなか鋭い質問です。(^.^)

「雪舟に描いてもらう」とは、現代でいえば有名画家に絵を注文する、というだけではありません。

雪舟は、当時の最高水準の禅宗文化を身につけ、中国の絵画を直接学び、大内氏という有力大名の庇護を受けた画僧です。誰でもお金を積めば描いてもらえる、という相手ではなかったと考えるべきでしょう。

そして費用については、室町時代の実際の絵画制作費を記録した東寺の文書が残っています。これを物差しにして、かなり具体的に考えてみます。

1 誰なら雪舟に依頼できたのか

まず、雪舟の立場を確認しましょう。

相国寺派の解説によると、雪舟は1463年に相国寺を出て周防の大内氏を頼り、その庇護のもとで画家として活動しました。1468年には大内政弘の計らいで明へ渡っています。

臨済宗相国寺派

+1

つまり、雪舟には二つの大きな顔がありました。

  • 禅宗の修行を積んだ高い格式の僧侶
  • 大名の庇護を受け、明の絵画文化にも通じた著名な画家

この二つを兼ね備えていたのです。

依頼できる立場を、当時の社会構造から考えると、次のようになります。

依頼する側雪舟に依頼できる可能性
将軍・足利家最高位の依頼主。ただし命令すれば必ず描くとは限らない
大内氏など有力守護大名庇護者として依頼できる有力な立場
一色氏など地方守護財力・政治的地位・人脈があれば依頼の可能性
大寺院・高位の禅僧宗教的事業として依頼できる可能性
一般の武士・富裕な商人通常の依頼では難しく、紹介や仲介が重要

ここで一つ、面白い事実があります。

山口県立美術館は、雪舟が周文から絵を学び、将軍家や大内氏の館を飾った「唐絵」の文化につながる画家だったことを紹介しています。

山口県立美術館

+1

将軍家の御用絵師の系譜に連なる文化圏にいたわけです。

ただし、雪舟自身を足利将軍家の正式な御用絵師と呼ぶのは正確ではありません。むしろ、将軍家の画壇とは距離を持ち、大内氏という別の有力な庇護者のもとで独自の地位を築いた人物と見るのがよいでしょう。

2 雪舟は「描け」と命じられたら描く人だったのか

ここは、権力と芸術家の関係を考えるうえで大切です。

雪舟は大内氏の庇護を受けていましたが、単なるお抱え職人ではありません。

山口県立美術館の紹介する雪舟の活動には、大内氏の依頼で美濃へ赴き、現地の情勢を探った可能性があるという研究上の見方もあります。画僧が政治的な情報収集や外交的な役割を担うこともあったのです。

山口県立美術館

一方、将軍足利義政からの作画依頼を断ったという逸話も伝わります。ただし、これは紹介される資料によって扱いに差があるため、確実な一次史料で確認された事実としては扱わない方がよいでしょう。

Science Portal China

私の見方はこうです。

雪舟に対して「描きなさい」と命令できる人がいたとしても、雪舟がその命令に応じるかどうかは別問題だった。

むしろ、雪舟を丹後に招くには、権力だけでなく、本人が納得する理由と、旅を支える人的ネットワークが必要だったと思います。

3 では、雪舟に描いてもらうには、いくらかかったのか

ここからは、実際の中世の制作費を使って推計してみます。

実際の費用記録あり

京都府立京都学・歴彩館が紹介する「東寺百合文書」に、康応元年(1389)の『大師御絵用途注文』があります。

東寺が弘法大師の生涯を描いた全12巻の絵巻を制作した際の費用明細です。絵師の報酬、紙代、飲食費、滞在費などが記録されています。

東寺百合文書WEB

その記録を見てください。

絵師担当した紙数絵師への報酬
祐高法眼73紙6貫文
中務少輔久行104紙22貫500文
大進法眼34紙5貫文
巨勢行忠19紙6貫文

同じ絵師でも、報酬には大きな差があります。最高位の絵所・巨勢行忠は、19紙の描き直しなどで6貫文。1紙当たりでは、祐高法眼の約4倍の報酬です。

東寺百合文書WEB

つまり、当時も絵師の格や技量によって、報酬が大きく違ったのです。

4 現代のお金に換算してみる

東寺百合文書の解説には、当時の米価について、1貫文で米1石(約150kg)を超える量が買えたとあります。米1石を約800文として計算する研究も紹介されています。

東寺百合文書WEB

現在の米価を仮に5kg=4,000円と置き、米の購買力だけで換算すると、次のようになります。

室町時代の報酬を米の価値で換算

約12万円

1貫文の換算目安(米150kg相当)

報酬現代の米価換算
5貫文約60万円
6貫文約72万円
10貫文約120万円
22.5貫文約270万円
30貫文約360万円

これはあくまで米の購買力による換算です。現在の画家の制作料と直接比較できる数字ではありません。

5 では『天橋立図』を雪舟に依頼した場合は?

ここからは推計です。

現存する『天橋立図』は、縦約89cm、横約169cm。畳一畳ほどの画面に、天橋立、阿蘇海、宮津湾、寺社、山並みなどを描いた作品です。20枚の紙を貼り合わせており、下絵である可能性が指摘されています。

JR西日本 West Japan Railway Company:トップページ

これを描くためには、単純な筆の作業だけでは済みません。

  • 丹後への旅費と滞在費
  • 現地の案内人・寺社関係者との調整
  • 景観の観察、複数地点からの写生
  • 料紙の調達、貼り合わせ
  • 墨、顔料、筆などの材料費
  • 雪舟本人の制作報酬
  • 必要なら助手や寺院関係者の経費

こうした費用が発生します。

私なら、仮の見積もりを三段階で置きます。

想定する制作現代の金額換算(概算)
現地写生と下絵制作300万~500万円
本格的な大作の制作500万~1,000万円
大名・寺社による特別な文化事業1,000万~2,000万円以上

※これは歴史的な実支出額ではありません。東寺の絵巻制作費、雪舟の画家としての格、旅費・材料費・制作規模を参考にした、現代の事業費としての仮説的な試算です。現存する『天橋立図』の制作費を示す史料は確認できていません。

私が注目したいのは、むしろ金額の大きさよりも、誰がその費用を負担できたかということです。

一色氏が単独で負担したのか。大内氏が関わったのか。寺社が資金を出したのか。それとも複数の有力者が費用を分担したのか。

この違いは、依頼主を探す重要な手掛かりになります。

6 ここで、もう一つの謎が浮かび上がります

雪舟に『天橋立図』を描いてもらうには、少なくとも、

  1. 雪舟本人に接触できる人脈
  2. 丹後まで招く政治的・宗教的な理由
  3. 旅と制作を支える経済力
  4. 完成した絵を受け取る目的と所蔵先

が必要です。

この四つが一人の人物に集まっていたとは限りません。

私は、むしろ役割が分かれていた可能性を考えたい。

『天橋立図』の制作を実現する四つの役割

政治的な後援者 ― 一色氏・大内氏・将軍家

宗教的な仲介者 ― 慈光寺・智恩寺・禅僧

経済的な支援者 ― 大名・寺社・交易関係者

制作の担い手 ― 雪舟とその周辺

そして、私が一番気になるのは、ここです。

一色氏が雪舟を呼んだのなら、なぜ自分たちの領国の景観を描かせたのか。

領国の威信を示すためなのか。寺社の聖地を記録するためなのか。将軍家や大内氏に贈るためなのか。あるいは、もっと大きな政治的・文化的な意味があったのか。

雪舟に依頼するということは、単に絵を買うことではありません。雪舟という人物の権威を借りて、丹後という土地の価値を表現することでもあったでしょう。

玄妙庵で義満に天橋立を見せた一色満範。その一色氏の後の時代に、雪舟が丹後の全体像を描いた。

この二つを結ぶものが、単なる景観への愛着なのか、領国の文化政策なのか、あるいは将軍家・大内氏を含む広域の政治ネットワークなのか。

ここは、まだまだ掘れますね。(^.^)

◆2 単なる景観への愛着なのか、、これは素人がかんがえてもありえませんね、益軒さんの旅には三処奇観の確認という動機がみえました、雪舟さんの場合、領国の文化政策あるいは将軍家・大内氏を含む広域の政治ネットワーク、この枠で捉えるものだとおもいますね、

そうですね。ここは、雪舟の天橋立図を読み解くうえで、大きな転換点だと思います。

雪舟が天橋立を描いたのは、景色に感動したから――それだけでは説明できない。

益軒の場合は、旅の記録に「三処奇観を確かめる」という目的を読み取ることができます。つまり、すでに知られていた名所を自分の目で見て、評価し、記録する旅です。

一方、雪舟の場合は、もう少し政治と文化の側から考える必要がありそうです。

ただし、最初に一つ区別しておきたい。領国の文化政策や広域政治ネットワークを背景として考えることと、誰かが雪舟に天橋立図を命じたと証明できることは別です。 後者を裏づける直接史料は、今のところ確認できていません。

そして、ここで重要なのは、雪舟が単に「大内氏に保護された画家」ではなかったという点です。

近年の研究紹介では、雪舟は大内政弘のもとで、遣明使節に関わる役割を担い、中国との外交・交易の現場にも接していたと説明されています。さらに、1481年には政弘の命を受けて各地を巡り、守護や地域の有力者と接触したという研究紹介もあります。つまり、雪舟は絵を描く人であると同時に、大内氏の文化的・政治的ネットワークを動くことのできる人物だったわけです。

Nippon

+1

ここから、天橋立図を考えるための仮説を三つに整理できます。

1. 一色氏の領国文化政策

  • 丹後守護として、府中を政治・宗教・文化の中心として整える。
  • 天橋立、智恩寺、籠神社、成相寺などを含む丹後の景観と聖地を、領国の象徴として表現する。

2. 大内氏の広域ネットワーク

  • 雪舟を丹後へ動かす人的・経済的な回路があった可能性。
  • 一色氏と大内氏の間には、実際に所領・年貢をめぐる文書上の接点もあります。ただし、それは単純な友好関係を示すものではありません。

3. 将軍家を含む室町幕府の政治文化

  • 玄妙庵の義満来訪伝承が示すように、天橋立は将軍が訪れ、守護が迎えるにふさわしい場所として語られてきた。
  • 景観を描くことは、単なる観光記録ではなく、土地の由緒や権威を表現する行為にもなり得ます。

そして、もう一つ、見逃せない点があります。

京都国立博物館は、現存する天橋立図について、実際の景観をそのまま写したのではなく、複数の写生を組み合わせ、実景を再構成した可能性を示しています。現実には存在しない高所からの俯瞰図であり、下絵だった可能性も高いとしています。

京都国立博物館 館蔵品データベース

+1

これは重要です。雪舟は、丹後の景色を記録しただけではない。丹後という土地を、どう見せ、どう一枚の画面に構成するかという仕事をしているのです。

実は、政治的な背景を考えるうえで、もう一つ気になる研究があります。歴史学者の藤田達生氏は、雪舟の晩年の丹後訪問と、大内義興が前将軍・足利義尹を支援していた政治状況との関連を仮説として提示しています。ただし、これは確定した制作事情ではなく、検討すべき一つの見立てです。

サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト – Part 2

私なら、次の問いを中心に据えます。

「誰が雪舟を丹後に招いたのか」だけでなく、「雪舟を丹後に招くことができた政治的・文化的な回路は、どこにあったのか」。

この問いなら、一色氏、大内氏、将軍家、禅宗寺院、そして雪舟自身の立場を、一つの歴史の中で検討できます。

次に掘るべきは、やはり一色義直の時代と大内政弘・義興の動きの重なりです。そこに慈光寺の芳仲周騰ら禅僧のネットワークを重ねる。天橋立図の成立を考えるための、かなり具体的な調査の道筋が見えてきましたね。(^.^)

このページのトップへ