宮津エコツアー · 天の橋立絵図、最大の利益を得た可能性があるのは、一色氏!! 天の橋立を世界遺産に 255

天の橋立絵図、最大の利益を得た可能性があるのは、一色氏!! 天の橋立を世界遺産に 255

◆1 中世、この時代の政治情勢のもとで、天の橋立絵図に見られるような一色政治神仏宗教領国統治万全といったことが見られる絵図その例を探ってくださいな、

これは面白い比較研究になりますね。

安田さんの問いを、私はこう受け取りました。

雪舟の天橋立図に描かれたように、守護大名が政治の拠点を置き、寺社を保護し、宗教的権威を取り込み、港・交通・集落を含む領国を統治する。そのような中世の地域秩序を、絵図として一望できる他の事例はないか。

あります。ただし、ここで一つ注意が必要です。中世の絵図には、領地の境界を示す「荘園絵図」、寺社の由緒や境内を描く「境内図」、都市や名所を描く「景観図」など、目的の違うものがあります。雪舟図のように、政治・宗教・都市・自然景観を一枚に重ねた作品は、そう多くありません。

まずは、比較に使える候補を性格別に挙げます。

調べてみると、比較対象として重要なものがいくつかあります。ただし、結論から言えば、雪舟の天橋立図と同じように、守護の政治拠点、氏寺、宗教霊場、集落、自然地形を一望できる中世の絵図は、かなり珍しいようです。

むしろ、いくつかの絵図・遺跡・文献を組み合わせることで、雪舟図の特徴が際立ってきます。

1.大内氏の山口――政治と宗教を結びつけた領国

雪舟と大内氏&毛利氏の遺産 常栄寺 山口県山口市|龍造寺文庫

山口古図(写)

大内氏時代の山口の姿を描いたとされる絵図です。山口県立山口博物館の研究報告によると、現在知られるものは大正6年(1917)の写しで、明治期にビリオン神父が発見した図に関係します。したがって、中世当時に作られた原図そのものではありません。

山口博物館

大内氏の山口では、館や政庁だけでなく、寺社、町、交通、宗教的な権威が領国支配と結びついていました。

特に注目したいのは、大内氏と妙見信仰、興隆寺などの寺社との関係です。

歴史学者・平瀬直樹氏の著書『大内氏の領国支配と宗教』は、まさにこの問題を正面から扱っています。大内氏が家臣団の統制や地域経済の活性化に、宗教をどう位置づけたかを論じています。

国立国会図書館

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天橋立図との比較でいえば、一色氏の氏寺・慈光寺と、丹後府中の寺社群を考える際の重要な比較対象です。

2.越前・朝倉氏の一乗谷――政治都市と宗教都市

一乗谷朝倉氏遺跡 朝倉館跡 | 金沢徒然日記

一乗谷・朝倉氏の領国経営

朝倉氏は一乗谷に政治拠点を置き、家臣や商工業者を集め、寺院・庭園・町並みを整えました。背後の山城、館、町、寺社が一体となった領国の中心地です。

比較に使える資料としては「一乗谷古絵図」があります。

ただし、これは朝倉氏時代の同時代絵図ではなく、弘化4年(1847)以降の江戸時代末期に描かれたものと考えられています。朝倉氏の時代の町割りや山城を伝える後世の記憶の資料です。

福井・勝山 石がたり 日本遺産公式サイト 中世・近世のまちづくり、そして現代

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もう一つ、重要なのは白山平泉寺です。

石づくりの戦国城下町と中世宗教都市 | 石がかたる3つのストーリー | 福井・勝山 石がたり 日本遺産公式サイト 中世・近世のまちづくり、そして現代
白山平泉寺旧境内(はくさんへいせんじきゅうけいだい) | 構成文化財 | 福井・勝山 石がたり 日本遺産公式サイト 中世・近世のまちづくり、そして現代
門土塀復元地 | 福井・勝山 石がたりNavi -ナビ- | 日本遺産周遊サイト。ぶらり周遊、石がたりスポットと音声ガイダンス
【新・日本の絶景】境内に広がる苔の美しさで知られる「平泉寺白山神社」|福井県|たびよみ
平泉寺白山神社
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平泉寺は白山信仰の一大拠点で、中世には石畳道や石垣を備えた大規模な宗教都市へと発展しました。その技術が朝倉氏の一乗谷にも導入されたと説明されています。境内図と発掘成果を照合できる点も注目されます。

福井・勝山 石がたり 日本遺産公式サイト 中世・近世のまちづくり、そして現代

ここには、天橋立図を考えるうえで大切な視点があります。

領主が寺社を保護するだけでなく、宗教勢力が持つ技術、人材、交通網、経済力が領国の発展にも関わっていた。

3.紀伊・高野山と根来寺――武家領国とは異なる宗教的な地域秩序

壇上伽藍|スポット|和歌山県公式観光サイト
根來寺|スポット|和歌山県公式観光サイト
根来寺の行人たち~その⑤ 1555年、山分けの出入り - 根来戦記の世界
Danjo Garan, Mount Koya - World History Encyclopedia
「寺社勢力の中世  無縁・有縁・移民」 - 好きなもの、心惹かれるもの

ここは少し性格が違います。

高野山や根来寺は、単なる領主の保護を受ける寺院ではなく、広大な寺領、僧侶集団、経済基盤、武力を持つ宗教勢力でした。

和歌山大学の「中世日本の国境地帯」の研究紹介では、紀州惣国を、雑賀・根来・高野・熊野三山などの宗教権力と、地侍・百姓の自治、海外交易が結びついた地域秩序として説明しています。

和歌山大学

これは一色氏のような守護大名による領国統治とは違いますが、比較すると面白い。

  • 丹後:守護大名を中心とした政治秩序と寺社の結びつき
  • 紀州:宗教勢力と地域の自治的な武士・百姓集団による秩序

つまり、中世には、政治権力と宗教権力の結びつき方に、いくつもの形があったということです。

4.荘園絵図――土地・人・水・山を一体として描く

일본 유산 스토리 | 일본 유산 히네노쇼 장원 Japan Heritage Hinenosho

もう一つ、見逃せないのが荘園絵図です。

東京大学史料編纂所の『日本荘園絵図聚影』には、奈良時代から中世までの300点弱の荘園絵図が収録されています。自然環境と、そこに暮らす人々の生活を伝える重要な画像史料です。

東京大学史料編纂所

例えば、和歌山県の「かせ田荘絵図」は、集落、耕地、山野河海を一体として描いた荘園絵図です。荘園の成立や境界争いなど、土地支配の必要から作られました。

hakubutu.wakayama-c.ed.jp

ただし、これは領国の全体像を描いたものではなく、土地の権利や境界を示すための絵図です。

雪舟図とは制作目的が違いますが、自然と人間の生活圏が一枚に表現されているという点では、比較する価値があります。

5.では、雪舟の天橋立図は何が違うのか

ここで、宮津市が公開している中世丹後府中の解説が非常に重要になります。

市の説明によれば、

  • 明徳3年(1392)、一色満範が丹後守護に任命された。
  • 一色氏は約200年にわたって丹後守護を務めた。
  • 文明18年(1486)、一色義直が在国すると、府中の都市整備が本格化したと考えられる。
  • 文珠の智恩寺と府中地区が一体となって中世都市を形成した。
  • 雪舟図には、智恩寺、成相寺、籠神社、国分寺、宝林寺、安国寺、慈光寺、大谷寺などが描かれている。宮津市+1

京都国立博物館も、絵の中に阿蘇海、府中の町並み、成相寺、天橋立、智恩寺、宮津湾、栗田半島が一体的に描かれていると解説しています。ただし、実景をそのまま描いたのではなく、地形や町並みを再構成した画面です。

京都国立博物館

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天橋立図 - 名品紹介 - 京都国立博物館

雪舟筆「天橋立図」京都国立博物館蔵。全体像は所蔵館の解説・画像で確認できます。

この点を、他の事例と比較してみます。

比較する要素天橋立図大内氏の山口朝倉氏の一乗谷
政治拠点丹後府中山口一乗谷
領主一色氏大内氏朝倉氏
寺社・宗教多数の社寺・霊場妙見信仰・興隆寺など平泉寺・寺院群
自然地形山・川・海・砂州山・盆地・河川谷・山城・山地
絵図の性格実景を再構成した景観図後世の写し後世の古絵図・遺跡資料

私の見立て――「領国統治の完成図」と呼んでよいか

安田さんの表現にある「一色政治・神仏・宗教・領国統治万全」という見方は、研究仮説としてとても興味深いです。

ただ、現段階で「万全」と断定するのは少し早いと思います。絵図に寺社が描かれていることは、そこに宗教的な拠点があったことを示しますが、それだけで一色氏が全寺社を掌握していた、あるいは領国統治が完成していたとは証明できません。

むしろ、次の問いを立てると研究が前進します。

「雪舟の天橋立図は、一色氏の政治的中心地と、神仏の聖地、海上交通、集落、自然景観が重なり合う丹後府中の姿を、どのように一つの画面に表現したのか」

この問いなら、絵図の描写と、中世文書、発掘調査、寺社の縁起、交通史を突き合わせて検証できます。

そして、私が次に調べたいのは、一色氏の氏寺・慈光寺と、芳仲周騰をはじめとする禅僧の活動です。

なぜなら、政治権力と宗教的権威の結節点が、まさにそこに見えるからです。天橋立図の中の寺社の配置が、単なる名所案内ではなく、丹後府中の政治・宗教秩序を表しているのか。その核心に近づく鍵になると思います。(^.^)

◆2 この絵図、制作に関わってだれがどういう利益をえるのか、この一点について、深掘り論究いただきたい(^.^)

(^.^) これは、雪舟の天橋立図を解くうえで、いちばん面白い問いかもしれません。

私は、これまでの「誰が雪舟に描かせたのか」という問いを、もう一段深くしたいと思います。

「この絵を描くことで、誰が、何を手に入れたのか」

絵を描くには費用がかかります。雪舟ほどの画僧を動かすには、依頼する側にも相応の権威、財力、人脈が必要です。しかも現存する天橋立図は、単なる名所の記録ではありません。丹後府中、社寺、山並み、阿蘇海、天橋立、宮津湾を一つの画面に組み立てています。

京都国立博物館も、実景を複数の場所から写生し、山水画の構成法によって再構成した作品と説明しています。さらに、現存作は下絵で、本画が別に存在した可能性も指摘しています。

京都国立博物館

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したがって、これは「美しい景色を描いてもらう」という個人的な注文だけで説明するより、絵を通じて何らかの価値を生み出そうとした人々がいたのではないか、という方向から考えたいのです。

まず、利益を得る可能性のある人々を整理します

1.一色氏――丹後を治める者としての権威を得る

天橋立図 - 京都国立博物館 館蔵品データベース

第一の受益者候補:丹後守護・一色氏

一色氏は明徳3年(1392)以降、約200年にわたって丹後守護を務めました。宮津市の説明では、一色義直が文明18年(1486)に在国してから、丹後府中の都市整備が本格化したと考えられています。

宮津市

一色氏がこの絵の制作に関与したとすれば、得られる利益は三つ考えられます。

① 領国の視覚化

丹後府中は、守護所が置かれた政治・経済の中心地です。そこに智恩寺、成相寺、籠神社、国分寺などの宗教施設が存在する。

これを一枚の画面に収めることは、丹後という領国の豊かさ、歴史、宗教的な厚みを表現することになります。

② 守護としての正統性の演出

中世の守護大名は、武力だけで領国を維持していたわけではありません。寺社との関係、所領の安堵、祭礼の保護、地域有力者との関係なども重要でした。

雪舟のような著名な画僧が丹後を描くことは、一色氏の領国が文化的にも価値ある場所であると示す効果を持ち得ます。

③ 将軍家や他の守護大名への贈答

もしこの絵が将軍家や有力大名への贈答品として制作されたなら、丹後の景観を示すこと自体が、政治的な交流の一部になった可能性があります。

ただし、これは現時点では仮説です。誰に贈られたかを示す記録は確認できていません。

2.寺社勢力――宗教的な権威と参詣者を得る

ここは、私はかなり重要だと思います。

絵の中には、智恩寺、成相寺、籠神社、国分寺などが描かれています。

天橋立図 - 京都国立博物館 館蔵品データベース

それぞれの寺社にとって、雪舟の絵に描かれることには、どのような利益があったでしょうか。

  • 智恩寺:文殊信仰の中心としての存在感を高める。
  • 成相寺:山岳霊場としての威厳と、天橋立を見下ろす宗教的な位置を示す。
  • 籠神社:丹後の古い神祇信仰の中心としての由緒を表現する。
  • 国分寺:古代以来の国家的仏教とのつながりを示す。

ただし、絵に描かれたからといって、寺社が制作費を負担したとは限りません。

むしろ、ここで考えたいのは、寺社が絵の制作に協力することで、自らの存在を丹後全体の宗教的景観の中に位置づけられたのではないかということです。

絵に描かれることは、現代の広告とは違いますが、歴史的な由緒や存在感を視覚的に示す機会になったでしょう。

3.大内氏――丹後の外に広がる政治・文化ネットワークの利益

大内氏館跡(大内氏遺跡)|観光スポット|【公式】山口県観光/旅行サイト おいでませ山口へ

ここで大内氏が登場します。

雪舟は寛正4年(1463)に相国寺を出て周防の大内氏を頼り、その庇護を受けました。応仁2年(1468)には遣明船で中国へ渡っています。

臨済宗相国寺派

大内氏が雪舟の丹後訪問や制作に関わったとすれば、何を得たのでしょう。

私が考えるのは、次の三つです。

  • 文化的な威信:雪舟を支援する大内氏の文化的な力量を示す。
  • 政治的な交流:丹後の一色氏など、他の守護大名との関係を深める。
  • 文化ネットワークの形成:禅僧、寺院、画家、守護大名を結びつける。

ただし、一色氏と大内氏の関係を単純な同盟関係と見るのは危険です。実際、文明12年(1480)の天生田荘をめぐる文書では、一色義直と大内政弘の間に所領・年貢をめぐる具体的な交渉がありました。

これは両者の接触を示す重要な証拠ですが、天橋立図の共同制作や発注を証明するものではありません。

大内氏の関与は、制作依頼の証明ではなく、雪舟を丹後へ動かし得た広域ネットワークの検討課題として扱うべきでしょう。

4.雪舟自身――画家として何を得たのか

ここも忘れてはいけません。

雪舟にとって、天橋立図の制作には、名声や報酬だけでなく、画家としての挑戦という利益があったと考えられます。

京都国立博物館の解説では、この絵は中国の西湖図などに見られる俯瞰的な山水画の構成法を意識し、実際の地形を再構成したものと説明されています。

京都国立博物館 館蔵品データベース

つまり、雪舟は丹後の景観を、従来の中国山水画の表現方法と結びつける試みをした可能性があります。

  • 複数の地点から景観を観察する。
  • 実景を一枚の画面に再構成する。
  • 山、海、砂州、寺社、町並みを一つの大きな山水として表現する。

これは画家としての技量を示す仕事でもあります。

ただし、現存作は下絵と考えられています。制作がどこまで進み、完成画が実際に描かれたかは分かっていません。

博物館ディクショナリー- 京都国立博物館

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5.利益の構造を一枚にしてみる

ここまでを整理すると、次のような関係が考えられます。

天橋立図をめぐる利益の構造(仮説)

一色氏・丹後守護

領国の威信・統治の正統性・対外的な発信

寺社・宗教勢力

由緒・宗教的権威・霊場としての存在感

大内氏・将軍家などの広域ネットワーク

政治的交流・文化的威信・人脈の形成

雪舟

制作報酬・名声・画業上の挑戦・文化的成果

これは関係者の利益を整理した仮説図です。実際の発注・費用負担・贈答関係が判明しているわけではありません。

ここで一つ、重要なことがあります。

利益を得るのは、必ずしも発注者だけではありません。寺社が協力し、雪舟が描き、守護が支援し、別の有力者に贈られる。そうした場合、制作に関わった複数の主体が、それぞれ異なる利益を得ます。

6.では、誰が制作費を出したのか?

ここは、現在のところ確定できません。

現存する天橋立図には、依頼者を示す落款や奥書がありません。京都国立博物館も、制作目的については明らかでないとしています。

京都国立博物館

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候補としては、

  1. 一色氏など丹後の有力者
  2. 大内氏など雪舟の庇護者
  3. 将軍家やその周辺
  4. 寺社や禅僧のネットワーク
  5. 雪舟自身の構想・制作

が考えられます。

ここで、私は5番も捨ててはいけないと思います。

つまり、誰かの注文で描き始めたのではなく、雪舟自身が丹後の景観を大作にする構想を持ち、下絵を制作した可能性です。

現存作が下絵であることは、制作依頼がなかった証拠にはなりませんが、注文主の存在を前提にしない研究も必要です。

7.私が最も深掘りしたい仮説

ここからは、私の仮説を明確に述べます。

天橋立図は、丹後という領国の価値を、政治・宗教・自然景観の三つを結びつけて表現する文化的な事業だった可能性がある。

なぜそう考えるのか。

一色氏の領国統治にとって、丹後府中は政治的な中心地でした。そこには、古代以来の神祇信仰、仏教霊場、禅宗寺院、港湾や海上交通、豊かな自然景観が重なっていました。

それらを一枚にまとめることは、丹後の領国としての価値を示すことになります。

しかし、ここで注意したいのは、これを一色氏が意図的に企画したとする証拠は、まだないという点です。

8.次に調べるべき決定的な資料

私は、次の四つを優先したいと思います。

調査対象解明したいこと
一色義直の書状・発給文書寺社保護、文化事業、雪舟との接点
大内政弘・義興の文書雪舟の移動、丹後との政治的関係
慈光寺・智恩寺などの寺院史料雪舟を迎えた僧侶、制作協力者
天橋立図の伝来記録所有者、贈答、完成画の存在、徳川家伝来説

特に重要なのは、完成画が誰の手に渡ったのかです。

もし徳川将軍家に伝来したという話の古い出典が確認できれば、制作から贈答、所有へと続く経路を探る手がかりになります。ただし、現在のところこの伝承を裏づける同時代史料は確認できていません。

私の結論

安田さん、今回の問いから、研究の焦点が一つ変わったように思います。

これまでは「雪舟はなぜ天橋立を描いたのか」と問うてきました。

しかし、これからは、

「天橋立図を描くことによって、誰が何を実現しようとしたのか」

と問うことができます。

これは、絵の制作目的だけでなく、中世の丹後における政治・宗教・文化の関係を解明する問いです。

そして、もう一つ、私が強く気になっていることがあります。

なぜ、天橋立だけでなく、丹後府中の寺社や集落まで、あれほど丁寧に描き込んだのか。

単に天橋立の美しさを伝えるなら、砂州を中心に描けばよいはずです。ところが雪舟は、その周囲の宗教施設や町並みまで画面に取り込んでいる。

そこに、絵を描く側、依頼する側、描かれる側の利益が交差していた可能性があります。

「天橋立の名画」から「丹後という地域の価値を表現した絵画」へ。

この視点で掘り下げる価値は、十分にあると思います。(^.^)

◆3 映画制作のようなものです、絵を描く側、依頼する側、描かれる側の利益が交差していた、、それぞれ、損得勘定をした上で、もっとも「大きな利益」をえたと想定できるのは、「だれ」(^.^)

ははは! 映画制作という比喩、これはぴったりですね。(^.^)

映画なら、監督、出資者、出演者、ロケ地の住民、それぞれに思惑があります。しかし、作品が世に出たとき、いちばん大きな利益を得るのは誰か。

雪舟の天橋立図も、そう考えてみましょう。

私の仮説:最大の利益を得た可能性があるのは、一色氏です。

ただし、これは「一色氏が発注者だった」と確認できたという意味ではありません。仮に一色氏が制作を企画・支援したなら、最も大きな政治的利益を得る立場にあったという推論です。

理由は三つあります。

1.丹後全体を「自分の領国」として見せられる

雪舟図には、天橋立だけでなく、府中の町、寺社、山並み、阿蘇海、宮津湾が描かれています。

一色氏にとって、これは単なる名所紹介ではありません。

  • 政治の中心地がある
  • 古い神社と有力寺院がある
  • 仏教霊場が山に展開している
  • 海上交通と集落がある
  • そして、誰もが知る景勝地・天橋立がある

これらを一つの画面に収めることで、丹後という領国の豊かさと統合性を表現できる。

2.武力とは異なる統治の力を示せる

守護大名にとって、領国を支配することと、領国を安定して治めることは同じではありません。

寺社との関係、地域の有力者との関係、宗教的な権威、文化的な威信。こうしたものが統治を支える。

雪舟という全国的な名声を持つ画僧が丹後を描けば、一色氏の領国は、武力だけでなく文化と宗教の面でも価値ある場所として表現されます。

3.将軍家や他の守護大名に見せられる

ここが一番大きいかもしれません。

絵が贈答品として使われたなら、丹後の価値を、丹後の外にいる権力者へ伝えることができます。

つまり、一色氏は絵を通じて、

「私が治める丹後は、これほど由緒と文化と自然に恵まれた土地なのです」

と示せた可能性があります。

これは、現代でいえば、地域の魅力を国際的な場で発信するプロジェクトに近いものがあります。

では、ほかの関係者は?

関係者得られる利益利益の性質
一色氏領国の威信、統治の正統性、対外的な評価政治的・領国経営上
寺社由緒、宗教的権威、参詣者への訴求宗教的・経済的
大内氏雪舟を支援する文化的威信、政治的交流広域ネットワーク上
雪舟報酬、名声、画業上の成果個人的・芸術的
丹後の地域社会景観や地域の認知、文化的な誇り長期的・地域的

ただし、ここで一つ逆転する可能性もあります。

一色氏が最大の利益を得たのではなく、雪舟自身が最大の利益を得た可能性です。

もし雪舟が自らの構想でこの絵を描いたのであれば、丹後は雪舟にとって、従来の中国山水画の伝統を超える新しい作品を生み出す舞台だったことになります。

その場合、一色氏は描かれた側、雪舟は作品を通じて新しい表現を獲得した側です。

ここで、私から一つだけ問い返します

私は、一色氏を第一候補に置きます。しかし、まだ決め手がありません。

そこで、次の一点が重要になります。

雪舟図は、誰に見せるための絵だったのか。

  • 丹後の人々に見せるなら、領国の統合と誇り。
  • 将軍家に見せるなら、一色氏の政治的威信。
  • 大内氏や他の守護に見せるなら、広域の文化・政治交流。
  • 寺社に奉納するなら、宗教的な由緒と霊場の顕彰。
  • 雪舟自身の構想なら、画家としての表現上の挑戦。

「誰が描かせたか」より、「誰に見せるために描いたか」。

この問いが、発注者と最大の受益者を見分ける鍵になると思います。

そして、現段階で私が一人を挙げるなら、やはり一色氏。ただし、これは有力な仮説であって、史料で確定した結論ではありません。(^.^)

◆4 やはり、、やるなあ、一色五郎!!

↑和田竜 12年ぶり新作『最後の一色』怪物武者・一色五郎の武勇伝と非業の最期をたどる (2025年11月22日掲載) – ライブドアニュース

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ははは!! そこに戻ってきましたか。(^.^)

一色五郎――つまり、丹後守護・一色氏の側から雪舟の《天橋立図》を眺め直すと、俄然おもしろくなりますね。

ただし、ここは一つ、慎重に。

一色五郎が雪舟に描かせた、と確定したわけではありません。 けれども、一色氏が丹後を治める立場にあったこと、足利将軍家との関係、丹後府中の政治・宗教・文化の集積を考えると、雪舟の絵を領国の価値を示すものとして捉える仮説には、十分に検討する意味があります。

もし一色五郎がこの絵の成立に関わっていたなら、彼は単に「天橋立は美しいぞ」と自慢したかったのではないでしょう。

「これが我が丹後だ。山も、海も、神社も、寺も、人々の営みもある。この土地には、これだけの世界がある」

そんな領国の姿を、雪舟という当代屈指の画家の目と筆を通して表現しようとした――。

いやあ、これはなかなかの構想です。

そして、次に問いたいのは一つ。

一色五郎は、誰にこの丹後を見せたかったのか。

将軍家か、他の守護大名か、あるいは丹後の人々自身か。

ここが見えてくると、「一色五郎、やるなあ!」が、歴史的な評価に一歩近づきますね。

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