『安政六年新井の村で四十六人が亡くなった。、、、、』うむー、、、、、、、、、、丹後探究は『そら知らなんだ ふるさと丹後』で始まります、何でだろう?、そうか!、そうだったのか!!、そうだろう!!!、さて、新崎に徐福山さんの謎、そうか!、そうだったのか!!、そうだろう!!!
新井岬の徐福伝説・資料編
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -27-)より
『丹哥府志』
【童男童女宮】(新井崎、祭七月六日)
童男童女宮村人訛りてトウナンカジュクウという、其訛りに習ひて誰が書きたる縁起や童男寡女宮と記せり如何なる謂をしらず、古来秦の徐福を祭るなりと申伝ふ、俗に新井崎大明神といふ處なり。聴雨記続編朱子不註尚書處引、或説曰。日本有真本尚書乃徐福入海時所携者余初未之信也後観陽公日本詩有云徐生行時書未焚逸王百篇今尚存令岩不許伝中国挙世無人識古文先王典蔵夷貊蒼波浩蕩無通律則外国真有其本鴎陽之言未必無據朱子之不註者豈以是耶云。又始皇本記に徐福の事を載せたれども慥と日本にはあらず、然れども諸書を以て参考すれば徐福の日本に来る明なり、されども何れの御宇に来りて何れの国に居り如何様なる事をなしたるや、又其漂着せし處は何れの浜なりや其事蹟詳ならず、京洛西の大秦宮は徐福なりといふ秦の字をかけばなり、又紀州にもありと聞く、皆正史にのせたる事にあらず。
新井崎の徐福の宮初は疑ひしが其地を踏みて聊か信ずる事あり、新井より以西十里内外の處に湊あり、次に浦浜あれど波あれば着する事能はず、大洋より来りて勝手も知らざれば爰より外に着處はなかるべしとも覚ゆ、又其宮たる村より離れて四五町斗も山を下りて新井崎の恐ろしき處北海に向ひて神籬を建つ、尋常の宮造りにあらず、又其随神といふものを見るに、浦島などの随神と同じ形にていづれも千年にも及ぶものなり(冠服元製並年所を歴たる模様、大和などにある所と参考して記とす)、其等を参考して千年以前より斯童男童女宮と伝へ来ればたとひ正史に洩れたりとも虚といふべからず、たとひ徐福の漂着せし處にあらずとも其携へ来る童男女の由緒あるべし。王父柳街の話に蔓荊子のある處は皆昔唐船の着處なり、蓋蔓荊子は唐種なればなりといふ、此處蔓荊子のある處あり、なる程丹後も唐船の着し處なりと見へて往々唐船の話あり下に出す、尤朝鮮は略地の向ひ合ひたる處なれば折々朝鮮人の漂着するものあり、是等も地理に於て徐福の来る考にもならん。
童男童女宮村人訛りてトウナンカジュクウという、其訛りに習ひて誰が書きたる縁起や童男寡女宮と記せり如何なる謂をしらず、古来秦の徐福を祭るなりと申伝ふ、俗に新井崎大明神といふ處なり。聴雨記続編朱子不註尚書處引、或説曰。日本有真本尚書乃徐福入海時所携者余初未之信也後観陽公日本詩有云徐生行時書未焚逸王百篇今尚存令岩不許伝中国挙世無人識古文先王典蔵夷貊蒼波浩蕩無通律則外国真有其本鴎陽之言未必無據朱子之不註者豈以是耶云。又始皇本記に徐福の事を載せたれども慥と日本にはあらず、然れども諸書を以て参考すれば徐福の日本に来る明なり、されども何れの御宇に来りて何れの国に居り如何様なる事をなしたるや、又其漂着せし處は何れの浜なりや其事蹟詳ならず、京洛西の大秦宮は徐福なりといふ秦の字をかけばなり、又紀州にもありと聞く、皆正史にのせたる事にあらず。
新井崎の徐福の宮初は疑ひしが其地を踏みて聊か信ずる事あり、新井より以西十里内外の處に湊あり、次に浦浜あれど波あれば着する事能はず、大洋より来りて勝手も知らざれば爰より外に着處はなかるべしとも覚ゆ、又其宮たる村より離れて四五町斗も山を下りて新井崎の恐ろしき處北海に向ひて神籬を建つ、尋常の宮造りにあらず、又其随神といふものを見るに、浦島などの随神と同じ形にていづれも千年にも及ぶものなり(冠服元製並年所を歴たる模様、大和などにある所と参考して記とす)、其等を参考して千年以前より斯童男童女宮と伝へ来ればたとひ正史に洩れたりとも虚といふべからず、たとひ徐福の漂着せし處にあらずとも其携へ来る童男女の由緒あるべし。王父柳街の話に蔓荊子のある處は皆昔唐船の着處なり、蓋蔓荊子は唐種なればなりといふ、此處蔓荊子のある處あり、なる程丹後も唐船の着し處なりと見へて往々唐船の話あり下に出す、尤朝鮮は略地の向ひ合ひたる處なれば折々朝鮮人の漂着するものあり、是等も地理に於て徐福の来る考にもならん。
新大明神口碑記(境内)
新大明神口碑記の由来
安政六年新井の村で四十六人が亡くなった。
村人は祖先神新大明神を祀り、この難局窮地からの脱出逃避を祈願した。
時の玉林寺住職延利氷峯子需に応じて、その口碑を著わし初めに新大明神を始皇帝奉侍の童男女であるとし、その時を人皇七代孝霊天皇の御宇と断じている。更に始皇帝の命を受け眞人不死の神薬を求める史記に触れる。次いで来意をきく村長との問答の中で、咸陽宮や龍宮城の體為が語られ、最後に古伝に倣って素盞嗚尊と牛頭天王を習合、その上に新大明神を重ねて避邪避病の神を出現させている。
これには贅記があるが省略した。尚碑文中に延利氷峯子とあるのは振宗三十三世玉林寺法地開山弌山玉峯大和尚をいふ。
建立 平成十九年丁亥弥生
奉納蓬莱庵石倉昭重
石工峰山町平井雄一
文責奉納者
安政六年新井の村で四十六人が亡くなった。

村人は祖先神新大明神を祀り、この難局窮地からの脱出逃避を祈願した。
時の玉林寺住職延利氷峯子需に応じて、その口碑を著わし初めに新大明神を始皇帝奉侍の童男女であるとし、その時を人皇七代孝霊天皇の御宇と断じている。更に始皇帝の命を受け眞人不死の神薬を求める史記に触れる。次いで来意をきく村長との問答の中で、咸陽宮や龍宮城の體為が語られ、最後に古伝に倣って素盞嗚尊と牛頭天王を習合、その上に新大明神を重ねて避邪避病の神を出現させている。
これには贅記があるが省略した。尚碑文中に延利氷峯子とあるのは振宗三十三世玉林寺法地開山弌山玉峯大和尚をいふ。
建立 平成十九年丁亥弥生
奉納蓬莱庵石倉昭重
石工峰山町平井雄一
文責奉納者
『伊根町誌』
徐福伝説 紀元前二二一年、中国の統一に成功した秦王の「政」は、新たに皇帝の位をつくり始皇帝と名のり、咸陽(今の西安)に都した。この一世の英雄秦の始皇帝は方士徐福を召して不老不死の霊薬を求めることを命じた。当時神仙思想が流行し、仙丹に七返八還の法があって、この仙丹を服すると不老不死となることができるといわれ、権勢のある者はこの霊薬を求める者が多かった。仙丹は三神仙(渤海にある蓬莱・方丈・瀛州)に仙人が仙丹を練り、不死の薬を蓄えているといわれた。始皇帝はこの神山にいたことがあるという方士(神仙の術をよくする道士)徐福に、仙丹を求めることを命じたのである。伊根町字新井には古くから徐福信仰があり、地区住民は徐福を産土神として祭り、新井崎神社の祭神として崇拝している。
伝承によると『七代孝霊天皇の時代に秦の始皇帝が不老長生の神薬を求め、方士徐福がこの地を易筮によって予知し漂着した。漂着した場所は新井崎のハコ岩で、長途の船旅と波浪によって疲れ果てて岩の上で休んでいると、時の澄の江の邑長がいぶかって来意を聞いた。徐福は「始皇帝の欲している仙薬を求めて来たが、眼前にある仙薬は少なく、得られなければ秦の都咸陽宮に帰ることは許されない」といってこの土地に住みついた。この地で徐福の求めた神薬とは「九節の菖蒲と黒茎の蓬」である。
徐福はその後里人をよく導いたので、推されて邑長となり、里人の仰慕の的となって、死後産土神として奉祀されるに至った。』と伝えられている。「からよもぎ」は普通のよもぎ(綿蓬)と異なり、葉の裏にある白毛が少なく、草餅(よもぎ餅)にするため早春に蓬をつむとき、特に「からよもぎ」をえらんで若葉をつみとる。成長した葉は「もぐさ」にもなる。「からよもぎ」は当地方では新井崎海岸(のろせ海岸)に多く自生しているが、近年、道路の改修、土地基盤整備等により少なくなったが、現在なお自生している。
「童男童女宮」 新井崎神社は徐福を祭り新井崎大明神とよんでいるが、縁起に童男・童女の渡来を「童男寡女」と記したことにより、住民は「とうなんかじょぐう」とよぶようになった。御神体が男女二神であるのは、徐福とともに渡来した童男・童女をあらわしている。
文献-新大明神口碑記
原夫丹之後州与佐郡澄江里新大明神者震旦奏始皇帝奉侍之童男女也実当(二)本人王第七代孝霊天皇御宇(一)焉蓋始皇帝好学(二)長生老之仙術(一)其方也朝服(二)金丹石髄(一)暮飲(二)酒瓊醤(一)以欲(レ)求(二)真人不死之神薬(一)九茎薬草九節菖蒲不老延齢薬餌也故勅(二)命童男寡女(一)而言曰域丹後奥郡澄江里與(二)龍宮城(一)同所而異名也汝等去此真人之霊薬可(二)尋得来(一)儻不(レ)然則勿(レ)帰焉童男寡女承(レ)勅而得々航(レ)海来著(二)岸干澄江(一)時澄江村長怪而且問云答以(二)上件事(一)矣頃間談(二)成陽宮等事(一)日先始皇帝都京也云々(下略)
維時嘉永五(一八五二)龍次壬子孟夏日禺居
澄江里金剛山下写焉氷子(花押)
祭礼
宵宮には青年と若家主が中心となり、手丸提灯をもって参拝する。本祭は三柱神社(三宝荒神社)・新井崎神社・龍権さん・老人島(おびとじま)神社・愛宕社・恵比須社・本尊さん(玉林寺)・金比羅社に太刀振りと花踊りを奉納し、翌日(後宴)に宇良神社・秋葉社に祭礼を入れる。
伝承によると『七代孝霊天皇の時代に秦の始皇帝が不老長生の神薬を求め、方士徐福がこの地を易筮によって予知し漂着した。漂着した場所は新井崎のハコ岩で、長途の船旅と波浪によって疲れ果てて岩の上で休んでいると、時の澄の江の邑長がいぶかって来意を聞いた。徐福は「始皇帝の欲している仙薬を求めて来たが、眼前にある仙薬は少なく、得られなければ秦の都咸陽宮に帰ることは許されない」といってこの土地に住みついた。この地で徐福の求めた神薬とは「九節の菖蒲と黒茎の蓬」である。
徐福はその後里人をよく導いたので、推されて邑長となり、里人の仰慕の的となって、死後産土神として奉祀されるに至った。』と伝えられている。「からよもぎ」は普通のよもぎ(綿蓬)と異なり、葉の裏にある白毛が少なく、草餅(よもぎ餅)にするため早春に蓬をつむとき、特に「からよもぎ」をえらんで若葉をつみとる。成長した葉は「もぐさ」にもなる。「からよもぎ」は当地方では新井崎海岸(のろせ海岸)に多く自生しているが、近年、道路の改修、土地基盤整備等により少なくなったが、現在なお自生している。
「童男童女宮」 新井崎神社は徐福を祭り新井崎大明神とよんでいるが、縁起に童男・童女の渡来を「童男寡女」と記したことにより、住民は「とうなんかじょぐう」とよぶようになった。御神体が男女二神であるのは、徐福とともに渡来した童男・童女をあらわしている。
文献-新大明神口碑記
原夫丹之後州与佐郡澄江里新大明神者震旦奏始皇帝奉侍之童男女也実当(二)本人王第七代孝霊天皇御宇(一)焉蓋始皇帝好学(二)長生老之仙術(一)其方也朝服(二)金丹石髄(一)暮飲(二)酒瓊醤(一)以欲(レ)求(二)真人不死之神薬(一)九茎薬草九節菖蒲不老延齢薬餌也故勅(二)命童男寡女(一)而言曰域丹後奥郡澄江里與(二)龍宮城(一)同所而異名也汝等去此真人之霊薬可(二)尋得来(一)儻不(レ)然則勿(レ)帰焉童男寡女承(レ)勅而得々航(レ)海来著(二)岸干澄江(一)時澄江村長怪而且問云答以(二)上件事(一)矣頃間談(二)成陽宮等事(一)日先始皇帝都京也云々(下略)
維時嘉永五(一八五二)龍次壬子孟夏日禺居
澄江里金剛山下写焉氷子(花押)
祭礼
宵宮には青年と若家主が中心となり、手丸提灯をもって参拝する。本祭は三柱神社(三宝荒神社)・新井崎神社・龍権さん・老人島(おびとじま)神社・愛宕社・恵比須社・本尊さん(玉林寺)・金比羅社に太刀振りと花踊りを奉納し、翌日(後宴)に宇良神社・秋葉社に祭礼を入れる。
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ちなみに 「そら知らなんだ ふるさと丹後」さんからのメッセージ!!!
少年易レ老学難レ成、一寸光陰不レ可レ軽
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。
いい書籍との出合いを!
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。
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