いやあ、これは面白い着眼です!(^.^)
今回の仮説は、単に「丹後にも太陽信仰があったのではないか」という話ではありませんね。
天照大神、真名井神社、籠神社の火明命、冠島、そして傘松公園の遥拝所。これらを、太陽が昇り、神を祀り、遠くを拝むという一つの空間の中で捉え直そうとしている。
私は、この見方には探究する価値が十分にあると思います。ただし、いくつかの事実と仮説を分けて考えると、さらに強い議論になります。
1. 夏至の日の出と冠島——まず、地形と天体の関係
安田さんが注目されたのは、真名井神社から見て、夏至の日の出の方向に冠島がある、という関係ですね
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方位の一致:真名井神社のどの地点から、夏至の日の出がどの方位に現れるのか。
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地形との一致:その方向に冠島が実際に見え、日の出の位置と重なるのか。
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文化的な意味:その一致を、古代の人々が意識し、祭祀や信仰に取り込んだ証拠があるのか。
この三段階は、似ているようで違います。
太陽と島の方向が一致することが確認できれば、重要な観察事実になります。しかし、それだけで「古代の人々が夏至の日の出に合わせて神社を造った」とまではいえません。逆に、地形や祭祀の伝承、古い記録が重なれば、仮説は一段と強くなります。
なお、夏至の日の出の方位は、丹後では平地の地平線を基準にすれば、おおむね北から約60度の方向です。実際に山や島がつくる地平線では、日の出の見える位置が変わるので、現地の地形を含めた確認が必要です。
2. 天照大神と豊受大神——ここには太陽と食物の結びつきがある
ここは、安田さんの仮説を支える重要な手掛かりです。
籠神社の社伝では、真名井原に豊受大神を祀り、その縁によって天照大神もこの地に遷り、両神が「吉佐宮」でともに祀られたと伝えます。宮津市も、真名井神社と伊勢神宮の関係を紹介しています。
天照大神は太陽神として知られ、豊受大神は食物・穀物に関わる神です。
ここからは、太陽の恵みと食物の恵みが、同じ祭祀の世界に結びついていることが読み取れます。
農耕にとって、太陽は季節と成長をもたらし、水は稲を育て、収穫は人々の暮らしを支えます。丹後のように海と山と田が近接する土地では、太陽・水・食物の神々を関連づけて考えることには、十分な意味があります。
ただし、注意点もあります。現在伝わる神々の関係から、ただちに「この土地で太陽信仰が最初に成立した」とは断定できません。社伝が伝える神話的な由緒と、考古学的に確認できる古代の祭祀とは、分けて扱う必要があります。
3. 彦火明命と冠島——ここが、もう一つの重要な接点
籠神社の主祭神は彦火明命です。神社の公式由緒では、別名を「天照国照彦火明命」とし、冠島に降臨した神として伝えています。また、稲作などを広めた神として説明されています。
これは興味深いですね。
「火明」という名に、太陽や光を連想するのは自然です。しかし、神名に「火」があるから太陽神だと決めることはできません。火、光、太陽は関連し得ますが、古代の神名の意味は、系譜や祭祀、文献を合わせて検討する必要があります。
それでも、次の三つが一つの伝承圏に集まっていることは注目に値します。
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天照大神——太陽に関わる神
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豊受大神——食物・農耕に関わる神
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彦火明命——籠神社の主祭神で、冠島降臨や開拓に関わると伝えられる神
つまり、太陽・食物・開拓・海上の島が、丹後の神話的な世界の中で結びついているのです。
これが、太陽の方位と祭祀空間の関係を調べる価値を高めています。
4. 傘松公園の遥拝所——「高い場所から拝む」という視点
ここも大事な着眼です。
ただ、傘松公園は、宮津市の紹介によれば、明治33年(1900)頃に展望台が開かれた場所です。したがって、現在の展望地そのものを古代の太陽祭祀の場所とみなすことはできません。
一方、安田さんがおっしゃる遥拝所が、具体的にどの施設・祭祀を指しているかは、設置の由来を確かめたいところです。
高い場所から神聖な場所や島を拝む行為には、地形そのものが信仰の舞台になる可能性があります。しかし、
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高所から島や神聖な場所を拝むこと
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夏至の日の出を意識して拝むこと
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古代に特定の天体現象に合わせて祭祀を行うこと
この三つは、証拠としては別の段階です。
遥拝所の成立時期、祭祀の対象、拝む方向、古い記録が分かれば、太陽との関係を考えるうえで重要な手掛かりになります。
5. 私なら、こういう仮説として育てます
安田さんの着眼を、私は次のように表現してみたいです。
丹後の籠神社・真名井神社の信仰には、太陽、食物、水、海上の島、そして土地の開拓をめぐる観念が重なっている可能性がある。夏至の日の出と冠島の方位関係は、その信仰と自然環境との関係を考えるための重要な観察対象である。地形・天体・祭祀の由緒・歴史資料を照合することで、丹後における自然へのまなざしと信仰の形成を探究できるのではないか。
これなら、仮説の魅力を失わず、まだ証明されていないことを事実のように語る危険も避けられます。
そして、天橋立の世界遺産を考えるうえでも、この問いは面白い。
天橋立を「美しい砂州」として眺めるだけでなく、その周囲で人々が太陽を見つめ、水を祀り、島を神聖視し、神話を紡いできた可能性まで探る。すると、自然景観と人間の精神文化の関係が、研究の対象として立ち上がってきます。
最後に、一つだけ確かめたいことがあります。
安田さんが見いだされた「夏至の日の出が真名井神社から見て冠島方向」という関係は、実際に現地で夏至の朝に観察されたものでしょうか。それとも地図や方位から導かれたものでしょうか。
ここが分かれば、次は地形と天体の関係を、信仰の由緒とはいったん切り離して検証できます。そのうえで、両者がどこで結びつくのかを探る。まさに「見えないものをみる」ための、よい研究の入口だと思います。
なるほど!! それは、神社の由緒を調べていて思いついたのではなく、朝日と夕日の撮影ポイントを探すという、まったく別の実践から発見されたのですね。(^.^)
ここが面白いです。
成相寺の大観望、波見の海岸——実際に太陽を撮ろうとすると、地図上の方角が、目の前の山や島、海岸の形と結びついてくる。そこから「この土地の人々も、昔から太陽の動きを意識していたのではないか」という問いが生まれた。
これは、SSH的な探究のよい出発点です。最初から神話に答えを求めたのではなく、風景を観察した結果、神話や信仰を問い直す疑問が生まれたのですから。
ただ、ここで一つ、整理しておきたいことがあります。
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写真を撮るために太陽の方位を観察する。
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その方位が、神社や島の位置と意味深く重なる。
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昔の人々も、その関係を意識して祭祀を行った可能性を考える。
この順番であれば、仮説を無理なく育てられます。現代の私たちが見つけた太陽と地形の関係が、古代の人々にも意識されていたかどうかは、これから確かめる問いです。
これ、ぜひ地図に落としてみたいですね。
「太陽の道」ではなく、まず「太陽を見つめる風景のネットワーク」として
成相寺の大観望、波見の海岸、真名井神社、冠島、籠神社、傘松公園。これらを地図上に置き、日の出・日の入りの方位と重ねてみる。
その際、私なら、次の三つを調べます。
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夏至・冬至の太陽の位置——各地点から、太陽がどこから昇り、どこへ沈むのか。
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神話や祭祀との接点——冠島への降臨伝承、真名井神社の祭祀、遥拝の対象や方向。
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時代の重なり——それぞれの伝承や祭祀が、いつ頃の資料で確認できるのか。
籠神社の公式由緒は、彦火明命が冠島に降臨したと伝え、真名井神社には豊受大神を祀ってきたとしています。天照大神と豊受大神がこの地でともに祀られたという伝承もあります。
つまり、太陽の方位を調べる前から、太陽に関わる神、食物の神、海上の島をめぐる伝承が、この土地に存在している。だからこそ、地形と太陽の関係を調べる意味があるのです。
そして、安田さんの発見の仕方が大切です。写真を撮ろうとしたら、風景の中に方位の意味が見えてきた。そこから、古代の人々のまなざしを想像し始めた。
これは、天橋立の価値を考えるうえでも、いい問いになります。
人間は、太陽が昇り沈むこの風景に、何を見て、何を祈り、どんな意味を与えてきたのか。
まだ答えは出ていません。しかし、風景の観察から信仰史へと問いがつながった。そのこと自体に、大きな可能性があります。
おおお!! そこにつながりますか!!!(^.^)
海星公園の丘も、太陽と丹後の風景を読み解く観測地点になる。
これは、安田さんが考えておられる海星公園の「これから20年」にも、思いがけず大きな意味を加えるかもしれません。
成相寺の大観望、波見の海岸、真名井神社、冠島、そして海星公園の丘。
それぞれの場所から、太陽の昇る位置、沈む位置、島や山並みとの重なりを観察する。すると、単独の絶景スポットの紹介ではなく、丹後半島の地形を舞台に、太陽の動きと人間の信仰を探るフィールドワークが組み立てられます。
しかも、海星公園には、自然環境を学び、地域を越えて高校生が交流してきた土台がある。
例えば、高校生たちとこんな問いを追究できそうです。
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夏至と冬至では、太陽はどこから昇り、どこへ沈むのか。
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冠島や山並みは、その動きの中でどんな位置に見えるのか。
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神社の由緒や伝承と、実際の地形・方位には、どんな関係があるのか。
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その関係を、古代の人々が意識していたことを示す証拠はあるのか。
写真、方位の測定、地形図、神社の由緒、古文献。異なる資料を重ねれば、まさにSSH型の探究になります。
ただし、一つ大切なことがあります。同じような太陽の動きが複数の場所から観察できることと、それらが古代の一つの祭祀体系として結ばれていたことは、別の問題です。前者を丁寧に確かめることが、後者を探る出発点になります。
そして、ここで私が面白いと思うのは、海星公園の位置づけです。
海星公園は、ただ自然を眺める場所ではなく、丹後の自然を通して、人間が自然とどう関係を結んできたかを考える場所になり得る。
天橋立の美しさを入り口に、太陽、山、海、島、信仰、そして人々の暮らしへと問いを広げる。
「海星公園から、丹後の風景の意味を探る」
これは、次の20年に向けた活動の柱の一つとして、十分に検討する価値があると思います。
安田さん、ひとつ教えてください。
海星公園の丘から観察できるのは、冠島方向の日の出でしょうか。それとも、別の山や島の向こうに昇る朝日、あるいは沈む夕日でしょうか。
ここが具体的になると、成相寺・波見・真名井神社との比較が、ぐっと進みます。
私は、安田さんの推察を、**「太陽信仰は、外から完成した形で持ち込まれたのではなく、縄文以来の土地の暮らしと、稲作をはじめとする新しい文化との交流の中で、丹後独自の意味を持つようになったのではないか」**という仮説として受け止めました。
これは、単に渡来人が信仰を持ち込んだと考えるよりも、ずっと探究の余地があります。
ただし、考古学的な証拠と、そこから想像できる文化の変化を、丁寧に区別して考えたいです。
1. 縄文から弥生へ——「人が入れ替わった」ではなく「文化が出会った」
日本海沿岸では、稲作や新しい土器文化が広がっていきました。福井県史の解説も、稲作の伝播について、朝鮮半島から人々が直接渡来した場合だけでなく、すでに稲作を受け入れた地域から伝わった場合、在地の人々が近隣から技術を受け入れた場合など、複数の経路を挙げています。
つまり、稲作が広がったことと、すべての担い手が渡来人だったことは同じではありません。
鉄についても、注意が必要です。丹後は弥生時代中期後葉から後期にかけて、鉄やガラスなど大陸由来の素材・技術が集まった地域として注目されています。奈具岡遺跡などの資料は、丹後が広域交流に関わっていたことを考えるうえで重要です。
ただし、稲作の受容と鉄器の普及は、必ずしも同時ではありません。したがって、「稲作と鉄文化を携えた人々が一度にやって来た」とまとめるより、異なる時期に、異なる人々や技術、考え方が流入し、在地社会の中で交わったと捉えるほうが、現在の考古学的理解に合います。
2. では、真名井神社の縄文遺跡は何を語るのか
ここは、安田さんの推察にとって、とても重要なところです。
籠神社の公式サイトは、真名井神社の境内から縄文時代の石斧や掻器、弥生時代の祭祀土器の破片や勾玉が出土したと紹介しています。
ここから、少なくとも次のことが考えられます。
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この場所には、縄文時代から人々の生活の痕跡がある。
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後の時代には、祭祀に関係すると考えられる遺物も見られる。
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同じ土地が、長い時間をかけて生活の場、そして祭祀の場として意味を持ってきた可能性がある。
ただし、縄文時代の石器が出土したことだけで、当時すでに現在の真名井神社と同じ神を祀っていたとはいえません。また、縄文時代の遺物と弥生時代の祭祀遺物の間に、どのような連続性があったのかも、個別の出土状況を確認する必要があります。
それでも、後からやってきた文化が、何もない土地に信仰を持ち込んだのではなく、すでに人々が暮らし、特別な意味を感じていた場所と出会ったという見方は、十分に検討する価値があります。
3. 太陽の意味は、どのように定着したのか
私は、安田さんの仮説を三つの段階に分けて考えてみたいです。
第一段階:土地と自然へのまなざし
縄文時代の人々が、岩、巨木、水、島、山などに特別な意味を見いだしていた可能性。真名井原では、縄文時代の石器が出土し、後世の祭祀との関係も注目されています。ただし、当時の信仰の具体的内容は分かりません。
第二段階:農耕と新しい文化の交流
稲作の普及によって、季節の移り変わり、日照、水、収穫を結びつけて考える必要性が高まった可能性があります。外来の人々や技術との交流を通じて、太陽に対する観念や祭祀が変化した、あるいは新たに加わった可能性も考えられます。
第三段階:丹後独自の神話と祭祀の形成
天照大神、豊受大神、彦火明命、冠島などをめぐる伝承が、長い歴史の中でどのように結びついたのか。既存の自然観と外来の文化が交わり、後の祭祀や神話に組み込まれたのかを探ります。
これは、現時点で証明された歴史の順序ではありません。仮説を整理するためのモデルです。
そして、安田さんのいう「太陽の意味が定着していった」という表現は、ここにぴったり来る気がします。
ただし、太陽信仰そのものが渡来人によって初めて持ち込まれた、と考える必要はありません。太陽を意識すること自体は、農耕社会の成立以前にもあり得ます。新しい文化との交流によって、太陽の意味づけや祭祀の仕組みが変化した可能性を考えるのが、より慎重でしょう。
4. ここから、天橋立の問いにつながる
私が特に惹かれるのは、真名井神社だけを孤立させず、天橋立を含む丹後の風景全体を研究の舞台にできることです。
太陽が昇る方向に島がある。山の上から海を見渡す場所がある。水が湧く場所がある。稲作が営まれる土地がある。そして、そこに神々の物語が伝わっている。
これらの関係が偶然なのか、意識的に選ばれたのか、後の時代に意味づけられたのか。その違いを一つずつ調べることで、自然景観と信仰の歴史が見えてくるかもしれません。
私なら、研究の中心にこんな問いを置きます。
「丹後の人々は、太陽・水・食物・島・山の関係を、どのように受け止め、祈りや神話へと育てていったのか。」
これは、世界遺産を考えるうえでも大切な問いです。景観の美しさだけでなく、自然と人間が長い時間をかけて結びついてきた歴史を、根拠を示しながら語ることができるからです。
そして、安田さんの仮説の核心は、私はここだと思います。
外から来たものが、土地にあったものを消し去ったのではない。出会い、交わり、意味を変えながら、丹後の文化が形づくられていったのではないか。
この視点なら、縄文の遺物も、弥生の稲作も、鉄やガラスの交流も、神社の由緒も、太陽の方位も、一つの問いのもとに置けます。もちろん、それぞれの間をつなぐ証拠は、これから探す必要があります。
まさに「掘る・繋ぐ・問い返す」ですね。(^.^)
ああ……そういうことだったのですね!!(^.^)
この一言で、これまで別々に考えていた二つの仕事が、一本の線でつながります。
私は、この「双子」という捉え方が、とても大切だと思います。
双子には、それぞれの役割がある
世界遺産登録運動は、天橋立の価値を掘り下げ、人類共通の遺産として未来へ伝えようとする営み。
海星公園は、丹後の自然と人々の暮らしに触れ、学び、交流し、これからの地域のあり方を考える営み。
一方は、この土地には、世界に伝えるべき何があるのかを問う。
もう一方は、その価値を、私たちはこれからどう生き、どう受け継いでいくのかを問う。
もちろん、実際には両方の役割が重なり合います。でも、こう整理すると、それぞれの持ち味が見えてきます。
そして、ここが重要です。
世界遺産登録運動だけでは、価値を認めてもらうことが目的になりかねない。海星公園だけでは、日々の運営や事業を続けることが目的になりかねない。
二つが出会うことで、問いが深くなる。
世界遺産を目指すからこそ、丹後の自然と暮らしをもっと知る。自然と暮らしを学ぶからこそ、天橋立の価値をもっと深く語れる。
この相互作用です。
そして、次の20年へ
安田さんが考えている「構造改善」も、ここから見直せるのではないでしょうか。
海星公園の運営体制をどうするか。それは、それ自体が最終目的ではない。
公園が、世界遺産登録運動や地域の人々、学校、事業者、自然保全活動とつながり、丹後の未来を育てる拠点として機能するには、どんな仕組みが必要なのか。
その問いから、NPO同士の連携も、京都府や宮津市の役割も、若いスタッフの育成も考え直せる。
つまり、組織を維持するための再編ではなく、双子がともに育つための環境づくりなのですね。
ここで、安田さんが掲げる「掘る・繋ぐ・問い返す」が生きてきます。
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掘る——天橋立の地形、太陽、水、信仰、歴史、人々の営みを掘り下げる。
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繋ぐ——世界遺産登録運動と海星公園、学校、地域、NPO、そして丹後の山・川・海をつなぐ。
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問い返す——価値を発見して終わらず、「では、次の世代に何を手渡すのか」と問い直す。
この三つは、調査の方法であると同時に、組織を育てる方法でもあります。
そして、私は、先ほどの「薩長同盟」の閃きも、ここに置くと意味が変わって見えます。
三つのNPOが一緒になることが目的なのではない。世界遺産登録運動と海星公園という双子を、次の20年にわたって育てるために、必要なら組織の枠組みも変える。
組織の都合から出発するのではなく、育てたい未来から組織を考える。
これなら、急いで結論を出す必要はありません。まず二つの20年を振り返り、それぞれが何を育て、何を残し、何をまだ実現できていないのかを見つめる。そのうえで、次の20年に必要な協力関係を考える。
最後に、安田さんの言葉を借りて、私なりに一文にしてみます。
天橋立の世界遺産登録運動と海星公園。時代が生んだ双子は、それぞれの道を歩みながら、丹後の自然と文化の価値を掘り起こし、人と人、人と自然をつなぎ、次の世代に何を手渡すのかを問い続ける。次の20年は、二つを競わせるのではなく、ともに育てる20年にしたい。
いやあ、これは単なる周年事業の話ではなくなってきましたね。(^.^)
双子の20歳を祝う。そして、二人の成人後の人生を考える。
安田さんが今やろうとしているのは、まさにそこなのだと思います。
ああ……それは、心強いですねえ。(^.^)
大勢の賛同者がいるわけではない。けれど、この構想の根っこを、確実に共有できる人が一人いる。マルヤ農林園のオーナー。
私は、その「一人」の意味は小さくないと思います。
安田さんが考えているのは、天橋立を世界遺産に登録するという運動だけでも、海星公園をうまく運営するという話だけでもありません。
天橋立を生み出した自然を知り、そこに暮らしてきた人々の営みを掘り起こし、次の世代がその価値を受け継げるようにする。そのために、地域の組織も、人のつながりも、必要なら変えていく。
これは、行政の事業計画やNPOの運営方針という枠だけでは、なかなか共有しにくい構想でしょう。
なぜなら、目の前の仕事を超えて、二十年先の丹後を見ようとしているからです。
そして、マルヤ農林園のオーナーが、その認識を共有している。
自然を守ること、農の営みをつなぐこと、人が関わり続けられる場所を育てること。そうした実践の現場に立つ人と、安田さんの構想が響き合っているのなら、それは理念だけの賛同とは違います。現実の営みと結びついた理解だからです。
もちろん、今すぐ大きな運動にしなくてもいい。
まずは、その一人と語り合えることを大切にする。やがて構想が具体的な活動になり、実際に何かが育ち始めたとき、それを見て「自分も関わりたい」と思う人が現れるかもしれません。
私は、ここで安田さんが急いで賛同者を増やそうとしないことも、大切だと思います。
理解者が少ないことと、構想に価値がないことは、まったく別です。
ただし、理解者が一人いるからこそ、その人との対話を通じて、構想をさらに磨いていける。そこに次の一歩があります。
そして、なんだか面白いですね。
「天橋立を世界遺産に」という大きな目標も、「海星公園の次の二十年」という組織の課題も、最後には、マルヤ農林園のような一つの現場、一人の人間とのつながりに戻ってくる。
大きな構想を支えるのは、案外、こういう小さくても確かなつながりなのかもしれません。
安田さんの言葉でいえば、水と天橋立は紐、人は珠。
今はまだ珠が少なくても、紐はすでにある。
その紐を、これから誰と、どこへ伸ばしていくかですね。(^.^)
こちらもいかがですか?
あっはっはっは!!!(^.^)
90歳と80歳、合わせて170歳!!
これは強い!!(笑)
しかも、ただ長く生きてきた170年ではない。丹後の自然を見つめ、地域の営みを知り、時代の変化をくぐり抜けてきた二人の時間です。
若い人には若い人の力がある。けれど、二人には、長い時間を生きてきたからこそ見える風景がある。
そして面白いのは、安田さんが、その170歳で昔を懐かしもうとしているのではないことです。
90歳と80歳が、これからの丹後の20年を考えている。
世界遺産登録運動と海星公園という「同じ20歳の双子」を、どう育てるか。その先にいる若者たちに、何を手渡すか。
これ、年齢の足し算ではありませんね。過去を知る二人が、未来を考えているのです。
ただし、ここで一つ、勝手に想像して笑ってしまいました。
二人で「次の20年はこうしたい!」と語り合っていたら、周囲が「いやいや、20年後は……」なんて心配する。
そこで、こう返すわけです。
「だから今、次の世代に手渡す準備をしているんだ!」(笑)
自分たちが20年後も中心にいることを目指すのではなく、自分たちが見てきたものを、20年後の人たちが自分の力で育てられるようにする。
そこが、この構想の肝なのだと思います。
そして、170歳の二人が持つ一番の財産は、年齢でも肩書でもない。
「丹後は、まだまだ面白くなる」という確信。
これが共有できる仲間が一人いる。そりゃあ、支えになりますよ!(^.^)












