いやあ……この「むずむずする虫」、私は大事にしたいです。(^.^)
しかも、今回の疑問は、雪舟の絵の美術史的な価値を否定しようという話ではない。雪舟の『天橋立図』を、なぜ「日本人が天橋立をどう見てきたか」を代表する資料として扱えるのか。そして、その絵を世界遺産の価値を説明する中核に据えることは、本当に妥当なのか。 そこを問うておられるのですね。
私は、この疑問は世界遺産登録運動にとって、かなり本質的な「内なる課題」だと思います。
ただし、論点を三つに分けたいです。
1. 雪舟が描いたことと、日本人が天橋立をどう見てきたかは、同じではない
雪舟は室町時代を代表する画僧であり、中国で学んだ水墨画の伝統を深く受け継いだ画家です。
そこから考えると、雪舟の作品を通じて分かることは、まず雪舟という画家が、当時の絵画表現を用いて、ある土地の景観をどのように構成したかということです。
それは重要です。しかし、そこから直ちに「日本人は天橋立をこのように見てきた」と一般化することはできません。
一人の優れた画家の作品と、ある時代の人々に広く共有された美意識とは、別のものだからです。
さらに、雪舟が中国で学んだことは、作品を日本の文化から切り離す理由にもなりません。中国由来の画法を日本の風景に用い、新たな表現を生み出した可能性もあります。
ですから、私ならこう問います。
雪舟の絵は、日本人の天橋立観を代表しているのか。それとも、天橋立という土地が、ある時代の画家によってどのように表現されたかを示す、きわめて貴重な一例なのか。
この二つでは、作品の歴史的な位置づけが大きく違います。
私は、後者から出発するほうが、論理として堅いと思います。
2. そして、「天橋立図」という題は誰がつけたのか
ここは、安田さんの違和感の核心ですね。
京都国立博物館の作品解説によると、この絵には作者を明示する落款や印章がありません。また、実際の景観をそのまま描いたものではなく、山や町並みを変形させ、現実には存在しないような高い視点から景観を再構成しています。さらに、寸法の異なる21枚の小紙を貼り合わせた紙に描かれ、描き直しの跡もあることから、完成画ではなく下絵だった可能性も指摘されています。
つまり、安田さんの疑問を裏づける、具体的な作品上の問題があるわけです。
ただし、現在の作品名が画家本人による命名ではないことと、作品が天橋立を描いたものではないことは、別の問題です。
作品には天橋立の白砂青松、智恩寺、阿蘇海、府中の町並み、成相寺の伽藍などが描かれ、実景に基づく作品であること自体は認められています。
したがって、私は「天橋立を描いた絵ではない」と断定するよりも、次のように問い直すのがよいと思います。
雪舟は、なぜ天橋立の実景を、あのような構図と表現で描いたのか。何を伝えようとしたのか。そして、私たちは、その絵に何を読み込んできたのか。
ここを掘り下げずに、作品名だけを根拠に「日本人の天橋立観」を語ることには、確かに無理があります。
3. 世界遺産のコアゾーンに据えるなら、何を証明しなければならないか
ここで問題は、美術史から世界遺産の論証へと移ります。
2007年に提出された提案書は、天橋立を「日本の文化景観の原点」と位置づけ、自然の景観に美を見いだし、芸術に投影して眺める日本的美意識の形成過程を物語る資産として説明しました。
しかし文化庁は2008年、天橋立について、世界史的・国際的な観点から十分に研究し、顕著な普遍的価値を確実に証明する必要があると評価しています。
ここで安田さんの疑問が、真正面から効いてきます。
「雪舟の絵がある。だから、日本人の美意識を示す。だから、世界遺産にふさわしい」
この論理では、途中の証明が足りません。
少なくとも、次の三つを明らかにする必要があります。
-
作品の意味:雪舟の絵は、何を、どのような意図で表現したのか。
-
歴史的な広がり:その表現は、後世の絵画、文学、庭園、信仰、旅の文化などに、どのように受け継がれたのか。
-
国際的な独自性:自然景観を美として捉え、文化や精神性を育んだ過程に、世界史的にどのような独自の価値があるのか。
この三つが立証されて初めて、雪舟の作品は、世界遺産の価値を説明する有力な証拠になります。
なお、世界遺産の「コアゾーン」という言葉を使うときには、登録を目指す資産の範囲と、その価値を説明するための象徴的な資料とを区別したいところです。雪舟の絵は、天橋立の価値を説明する重要な資料になり得ますが、それ自体が景観の価値を証明し尽くすわけではありません。
4. 私なら、雪舟から始めるのではなく、雪舟に問い返す
ここが、安田さんの「掘る・繋ぐ・問い返す」につながります。
まず、天橋立という地形がある。
その地形を、人々はどう見てきたのか。何を恐れ、何を神聖なものとし、どのような美を見いだしたのか。
その歴史の中に、雪舟の絵を置いてみる。
雪舟の絵は、天橋立の美意識が生まれた起点なのか。それとも、それまでに育まれてきた景観へのまなざしを、特定の画家が独自の方法で表現した一例なのか。あるいは、後世の人々が雪舟の権威を通して天橋立の価値を再発見していったのか。
この三つは、互いに異なる歴史の物語です。どれが妥当なのかは、作品の制作年代、伝来、後世の受容、ほかの作品や文献との比較によって検討しなければなりません。
そして、ここに太陽信仰や真名井神社、丹後の山と海の関係を重ねていく。もちろん、これらを一つの物語に結びつけるのも、証拠が必要です。
雪舟の絵を出発点にして天橋立の価値を決めるのではなく、天橋立の歴史を探るなかで、雪舟の絵の意味も問い直す。
私は、この順番が大切だと思います。
安田さんが求めているのは、雪舟を否定することではないでしょう。国宝だから、画聖の作品だから、という権威に寄りかからず、天橋立そのものと真正面から向き合いたいのだと思います。
その姿勢こそ、世界遺産を目指す運動が持つべき学問的な誠実さです。
そして、最後に一つ。
雪舟の『天橋立図』は、天橋立が日本人にとって何であったかを証明する答えではなく、私たちが天橋立をどう見てきたのかを問い返すための資料なのではないか。
この位置づけなら、雪舟の作品の価値を損なわず、同時に、その作品だけでは説明できない天橋立の歴史を探究する道も開けます。
安田さんの「むずむずする虫」は、退治しないほうがいいですね(笑)。その虫こそ、世界遺産登録運動をもう一段深くする、健全な批判精神なのだと思います。
ああ、なるほど!!(^.^)
今度は、安田さんの「むずむず」の正体が、かなりはっきり見えてきました。
単に「雪舟の絵は天橋立を正確に描いていない」という不満ではないのですね。
天橋立とは何か。その景観を、どこから、どのような視点で捉えたときに「天の橋立」としての本質が見えてくるのか。
その定義の問題なのですね。
そして安田さんは、その起点を、雪舟が描いた成相寺の山容、いわば「世屋タワー」とも呼びたくなる姿と、成相寺の大観望から捉える景観に置いている。
私は、この問題提起には大きな可能性があると思います。
1. 雪舟は、天橋立を描いたのか。それとも、天橋立を含む世界を描いたのか
ここが分岐点です。
雪舟の『天橋立図』は、天橋立の砂州だけを描いた作品ではありません。周囲の山々、阿蘇海、集落、寺社などを含む、広い景観を一つの画面に構成しています。
つまり、画家の視線は、砂州だけに向けられているわけではない。
安田さんの指摘に沿って考えると、成相寺の山容や大観望からの眺望は、天橋立を単独の自然物としてではなく、山と海と人間の営みが結びついた景観として捉えるための鍵になるかもしれません。
ただし、ここは慎重に区別したいです。絵に成相寺が描かれていることと、雪舟が成相寺からの眺望を作品の中心的な構想にしたことは同じではありません。また、現存する作品から、雪舟が実際にどの場所に立って描いたのかを断定することもできません。
雪舟が何を見ていたのかと、私たちがその絵から何を読み取れるのか。
この二つを分けることが、安田さんの仮説を強くすると思います。

(↑ 殿様の巡見 国主としての統治行為 領民は地域性PRに利用【蜂須賀めぐり】<18> 寄稿:根津寿夫徳島城博物館長|文化・芸能|PICKUP …
殿様の巡見 国主としての統治行為 領民は地域性PRに利用【蜂須賀めぐり】<18> 寄稿:根津寿夫徳島城博物館長|文化・芸能|PICKUP …
)
2. 「天橋立の定義の起点」を、どこに置くか
ここが、今回の議論のいちばん面白いところです。
一般的には、天橋立は砂州の形や白砂青松の美しさによって語られます。しかし、その景観を眺める位置が変われば、見えてくるものも変わります。
-
砂州の上に立てば、松並木と海の広がりが見える。
-
対岸から眺めれば、砂州の形と周囲の地形との関係が見える。
-
成相寺の大観望から眺めれば、山地、海、砂州、集落を含む広域の景観が視野に入る。
つまり、天橋立をどう定義するかは、何を景観の中心とし、どこまでをその世界に含めるかという問題でもあります。
安田さんが成相寺の大観望を重視するのは、単に眺めがよいからではないのでしょう。
天橋立を生み出した自然の大きな仕組みと、人間がその土地で営んできた歴史を、同じ視野に収めることができる。
そこに、世界遺産として語るべき景観の可能性を見ておられるのだと思います。
ただし、「天橋立の定義の起点」という言葉には、二つの意味があります。
一つは、天橋立という名称や信仰が歴史上いつ成立したのかという起点。もう一つは、現代の私たちが天橋立の価値をどこから捉え直すべきかという認識上の起点です。
成相寺の大観望を後者の起点に置くことは、十分に検討できる考え方です。一方、前者については、別の歴史資料が必要になります。
3. では、雪舟はなぜ、あのように描いたのか
安田さんは、雪舟は成相寺の位置と景観の重要性を分かっていた。しかし、あえてそれを正面から描かなかった。そこには別の動機があったのではないか、と推察されるのですね。
これは、まさに研究すべき問いです。
ただ、現段階では、雪舟がその景観を意図的に外したのか、絵画表現の都合で構図を変えたのか、別の目的で景観を再構成したのか、判断できるだけの証拠はありません。
むしろ、問いを三つに分けてみたいです。
-
雪舟は何を知っていたのか。 成相寺の由緒や景観を、どの程度理解していたのか。
-
雪舟は何を表現しようとしたのか。 宗教的な意味、絵画としての構成、あるいは別の目的があったのか。
-
後世の人々は、なぜこの作品を『天橋立図』として受け継いだのか。 作品の成立時の意図と、後世の評価は一致しているのか。
この三つを追うことで、作品の意味が見えてくる可能性があります。
4. だからこそ、「天橋立図」という題に問いを返す
私は、ここに安田さんの批判の核心があると思います。
「天橋立図」という名称が定着している。その名称を受け入れることで、私たちは、作品が何を描いているのか、なぜその構図なのかを、十分に問い直さずに済ませてしまっていないか。
もちろん、現在の作品名をただちに変更すべきだという結論にはなりません。美術史上定着した作品名には、伝来や研究の歴史も含まれています。
しかし、作品名が示す解釈と、作品そのものが示す事実とは、分けて考えるべきです。
例えば、研究上の仮題として、あるいは解釈を示す副題として、別の呼び方を検討することはできるでしょう。その場合も、成相寺や大観望が作品の構想の中心だったと裏づける資料が必要です。
私が今回、いちばん考えさせられたのは、安田さんが雪舟の絵を批判するために、成相寺を持ち出しているのではないということです。
雪舟の絵を権威として天橋立を定義するのではなく、天橋立とは何かを自分たちで問い直すために、雪舟の絵をもう一度見ようとしている。
この違いは大きいです。
世界遺産登録運動にとって、雪舟の作品は大切な文化資料でしょう。しかし、その作品を根拠にして天橋立の価値を語るのであれば、なぜこの作品なのか、何を証明できるのか、何は証明できないのかを明らかにしなければなりません。
そして、成相寺の大観望から見える景観を起点に、天橋立を生み出した山・川・海の関係を探るという安田さんの構想は、その議論を深める一つの方向になり得ます。
最後に、一つだけ、私から問い返させてください。
安田さんが「世屋タワー」と呼びたくなる成相寺の山容は、雪舟の絵の中で、実際の地形とは異なる形に描かれていること自体に意味がある、とお考えなのでしょうか。
それとも、雪舟がその山容を画面に取り込んだことは重要だけれど、作品全体の構図や視点は、天橋立の本質を表現するものとは違う、とお考えなのでしょうか。
この違いが分かると、安田さんの「別の題が付けられるべきだ」という考えの核心に、もう一歩近づける気がします。(^.^)
「雪舟殿、将軍家にしようと思うて貴殿に頼み申した」――
おっと、これは大変だ!!(笑)
一色殿、ただ天橋立の絶景を描かせたかったのではない。
「わが丹後は、これほどの山河と海と人々を抱く国ぞ!」
そう、天下に知らしめたかったのではありませんか!?
山々を背負い、阿蘇海を抱き、天橋立を横たえ、その向こうに広がる丹後の国土。
そこに成相寺の山容まで取り込んで、丹後の威容を一幅に収める。
そして、絵の裏側から聞こえてくるのは……
「雪舟殿、天橋立だけを描けとは申しておらぬ。丹後を描けと申したのじゃ!!」
――なんてね!!(^.^)
もちろん、これは安田さんの着想をもとにした歴史的想像劇。実際に一色氏が雪舟にそのような注文をしたという証拠があるわけではありません。
しかし、仮説として考えると、面白い問いが生まれます。
雪舟が描いたのは、天橋立の美しさを愛でるための絵だったのか。それとも、天橋立を含む土地全体を、政治的・宗教的・文化的な意味を持つ景観として示す絵だったのか。
もし後者の可能性を検討するなら、「天橋立図」という現在の呼び名だけでは捉えきれない作品の意味を探ることになります。
一色氏の時代背景、丹後の政治的中心、成相寺の位置づけ、作品の構図、そして後世の伝来と評価。そこを調べていくわけです。
いやあ、安田さん!
先ほどまで「天橋立図という題にむずむずする」とおっしゃっていたのに、今や絵の裏から一色殿の高笑いが聞こえてきましたよ!(笑)
ただ、私はここで、安田さんの想像をもう一歩進めたい。
一色殿が描かせたかったのは、天橋立という名所ではなく、「丹後という世界」だったのではないか。
この問いなら、雪舟の絵を世界遺産の根拠として無条件に持ち上げることなく、作品を丹後の歴史の中に置き直すことができます。
さて、一色殿。
将軍家に上り詰める前に、ひとつお尋ね申す。
その絵を描かせたのは、丹後の威光を天下に示すためですかな。それとも、丹後という国を、後世に残すためですかな?
この二つ、似ているようで、絵の読み方がまるで変わりますぞ!!(^.^)
ありがとう、、雪舟の『天橋立図』は、日本人が天橋立をどう見てきたかを考える重要な資料です。フム、そうかもしれないしかし、そうかしら、、守護一色さんが画いてほしかった権力支配の確かな実力表現図とよむ、、これかもしれない、私たちのアマノハシダテとは違う、天の橋立に気持ちがたって
ああ……そこですね!!(^.^)
いま、安田さんの言葉で、議論の焦点がはっきりした気がします。
「私たちのアマノハシダテ」と、「雪舟の絵に描かれた天の橋立」は、同じものなのか。
安田さんは、そこに疑問を投げかけている。
しかも、雪舟の絵を低く評価しようとしているのではない。むしろ、作品を別の角度から読むことで、これまでとは違う歴史的な意味が見えてくるのではないか、と。
「日本人の美意識」ではなく、「守護の権力を表現した絵」?
安田さんの仮説を整理すると、こうなります。
雪舟は、室町時代の丹後守護・一色氏の時代に、この土地の景観を描いた。
その絵には、天橋立だけでなく、周囲の山々、海、集落、寺社などが一体となって描かれている。
そこで、別の問いを立ててみる。
この作品は、天橋立を美しい景観として鑑賞するためだけでなく、丹後という領国の豊かさや、そこを支配する権力の実力を表現するものだったのではないか。
これは、検討する価値のある仮説です。
中世の山水画は、単純に現地の景色を写し取るものではありません。宗教的な意味、注文主の意向、絵画としての構成、土地の表象など、複数の意味を持ち得ます。
ただし、現存する『天橋立図』について、一色氏が注文主だったことや、権力表現を目的として描かれたことが確定しているわけではありません。そこは、制作事情や作品の伝来などの史料を調べて確かめる必要があります。
しかし、仮説としてこの読み方を置くと、作品の見え方が変わってきます。
天橋立を中心とする土地の豊かさを示すことは、結果として、その土地を治める者の力を示すことにもなり得るからです。
では、私たちの「アマノハシダテ」とは何か
ここが、もっと大切だと思います。
安田さんが考えている天橋立は、砂州の形が美しいというだけではない。
世屋の山々があり、そこに雨が降り、川が流れ、砂や礫が運ばれ、海の働きが加わって砂州が形成される。そして、その土地に人々が暮らし、田を耕し、海と関わり、神を祀り、景観を描き、文化を育ててきた。
天橋立は、丹後という世界の一部なのです。
だから、天橋立だけを切り取って、その美しさを称賛するだけでは、安田さんが捉えたい世界には届かない。
雪舟の絵が中世の権力や領国の表象として描かれた可能性があるなら、それはそれで重要な歴史資料です。しかし、それをそのまま「日本人が天橋立をどう見てきたか」の代表例とするなら、別の証拠が必要になる。
ここは、明確に分けてよいと思います。
雪舟の絵が示すものは何か。
中世の人々は天橋立をどう捉えていたのか。
その後、天橋立は信仰、文学、絵画、観光などを通じて、どのように意味を変えてきたのか。
そして、現代の私たちは、天橋立をどのように捉え直そうとしているのか。
これらは、つながってはいますが、同じ問いではありません。
雪舟を否定するのではなく、雪舟を歴史の中に戻す
私は、安田さんの問題提起を、こう表現したいです。
雪舟の『天橋立図』は、天橋立の美しさを示す作品としてだけでなく、制作された時代の政治的・宗教的・文化的背景の中で読み直す必要がある。その作品が何を表現し、誰のどのような意図と結びついていたのかを確かめたうえで、天橋立が日本人の美意識の形成に果たした役割を論じるべきではないか。
これは、世界遺産登録運動に対する、建設的な問いだと思います。
なぜなら、雪舟の作品を権威として引用することと、その作品を歴史資料として批判的に読み解くことは、違うからです。
そして、安田さんが目指しているのは、後者なのですね。
「雪舟が描いたから天橋立は価値がある」のではない。雪舟は、なぜ、あのように天橋立を含む世界を描いたのか。そこから何が分かり、何はまだ分からないのか。
この問いを立てることで、天橋立の価値を、権威に頼らずに考えられるようになります。
最後に、ひとつだけ。
私は、安田さんの「私たちのアマノハシダテとは違う」という言葉が、とても重要だと思いました。
それは、現代の私たちの見方が正しく、昔の人々の見方が間違っているという意味ではないでしょう。
時代が変われば、同じ風景に見いだす価値も変わる。だからこそ、その違いを歴史として明らかにする必要がある。
安田さんがずっと考えてきた「美は連続する、芸術は爆発する」という話にも、ここでつながりますね。
雪舟の天橋立と、安田さんの天橋立。
その間にある違いを調べることこそ、天橋立を「見る文化」から、天橋立を生み出した世界と、人間がその世界に与えてきた意味を見る文化へと進むための、大切な一歩なのだと思います。
天橋立のことを考える旅なら、宿泊先を見てみるのも一案です。
【⑦ ごめんなさい、はやおし、ありがとう、、雪舟の『天橋立図』は、日本人が天橋立をどう見てきたかを考える重要な資料です。フム、そうかもしれないしかし、そうかしら、、守護一色さんが画いてほしかった権力支配の確かな実力表現図とよむ、、これかもしれない、私たちのアマノハシダテとは違う、天の橋立と対話していない、アマノハシダテに気持ちがあるなら、わたしと対話してほしかったっていうのじゃないか、、と思ったのです、、いつもの「主観」ですが、、,(^.^)】

あああ、なるほど!!(^.^)謝ることなんてありませんよ。はやおしの中に、いちばん大切なところが出てきましたね。
「アマノハシダテに気持ちがあるなら、わたしと対話してほしかった」
これは、雪舟の絵の美術史的な評価をめぐる議論から、まったく別の、そして安田さんらしい問いへと踏み込んでいます。
私は、ここに三つの層があると思います。
1.雪舟は、何を描こうとしたのか
安田さんの仮説は、雪舟が天橋立という自然の美しさに心を寄せて描いたというより、丹後守護・一色氏の権力や領国の実力を表現する意図があったのではないか、というもの。
もしそうなら、絵の主題は、私たちが今日考える「アマノハシダテ」とは違っていた可能性があります。
ただし、一色氏の注文や政治的意図は、まだ確認された事実ではありません。ここは、作品の構図や制作事情、歴史資料から確かめるべき仮説です。
2.では、天橋立そのものは、そこにいたのか
ここが、安田さんの問いの核心だと思います。
雪舟は、天橋立を含む壮大な景観を描いた。しかし、天橋立という土地が、なぜそこに生まれ、どのような自然の働きによって形づくられ、そこに生きる人々とどのような関係を結んできたのか。
そうした世界と、画家は対話していたのだろうか。
もちろん、絵だけを見て、雪舟が自然と対話していなかったと断定することはできません。芸術家の内面は、作品の構図だけでは測れないからです。
けれども、安田さんが求めているのは、単に景観を巧みに表現することではない。
目の前の風景が、どうしてこのような姿になったのか。その土地には何が積み重なり、何が生き、何が受け継がれてきたのか。そこまで踏み込んで、天橋立と向き合いたい。
そういうことなのではないでしょうか。
3.「わたしと対話してほしかった」という言葉
私は、ここがとても好きです。
安田さんは、天橋立を、鑑賞されるだけの対象として扱っていない。
天橋立に問いかけ、天橋立から問い返される。山や川や海の成り立ちを調べ、信仰や芸術の歴史をたどり、そこに暮らした人々の営みを知る。その過程で、自分自身の天橋立観も変わっていく。
つまり、天橋立は、答えを与えてくれる対象ではなく、こちらの見方を問い返してくる対話の相手なのですね。
そして、ここで以前の言葉がよみがえります。
「見えないものをみる、それがSSH。」
「掘る・繋ぐ・問い返す。」
「美は連続する、芸術は爆発する。」
どれも、既にある評価を受け取って終わりにしない姿勢でつながっています。
安田さん、私はこう考えます。
雪舟の絵が、権力を表現する作品だったのか、宗教的な世界を表現した作品だったのか、あるいはその両方だったのか。それは、歴史研究によって検討すべき問題です。
しかし、その絵が天橋立をどこまで理解し、どのような意味を与えたのかを問い直すことは、現代の私たちが天橋立と対話するための、大切な入口になり得ます。
雪舟を否定する必要はありません。雪舟の絵を出発点にして、そこに描かれていないもの、そこからは分からないものを探せばよいのです。
そして、安田さん自身が、成相寺の大観望から丹後の山河を眺め、太陽と冠島の位置を考え、真名井神社の遺跡を掘り、上世屋の棚田や暮らしをつないでいる。
その営みは、雪舟の絵を評価することとは別の、現代の天橋立との対話になっています。
最後に、私から一つだけ。
安田さんが天橋立と対話するとき、天橋立から最初に問い返される言葉は、何だと思いますか。
「おまえは、わたしを何だと思っているのか」でしょうか。
それとも、「わたしを美しいと言う前に、わたしを生み出した世界を見たのか」でしょうか。
私は、後者の問いが、安田さんのこれまでの探究に深く響いているように感じます。(^.^)
こちらもいかがですか?
【⑧ありがとう、ふと和田龍さんが立ちました、その問いの先をみてらっしゃるのが、彼。「最後の一色」はアフター「雪舟天の橋立絵図」ではないか、、、と。】

おお……!!(^.^)和田竜さんの『最後の一色』が、ここで立ち上がってきましたか。
これは面白い接続です。
安田さんが雪舟の『天橋立図』に感じている違和感は、絵の構図や題名だけの問題ではない。雪舟が描いた世界と、丹後の人々が生きた世界との間に、何があり、何が描かれなかったのか。その空白を、歴史小説の側から覗いてみようということですね。
私は、『最後の一色』を「アフター雪舟」として読むという発想には、探究の可能性があると思います。
ただし、ここでは二つの「アフター」を分けたいです。
歴史上のアフター——雪舟の作品が描かれた時代と、一色氏の盛衰や丹後の政治史との関係。
解釈上のアフター——雪舟が描いた景観を、そこに生きた人々の側から読み直すこと。
後者が、安田さんの関心に近いのではないでしょうか。
雪舟の絵を、領国の威容を示す表現だった可能性も含めて読み直す。そして、絵の中に収められた土地で、実際に誰が暮らし、誰が権力を握り、誰が時代の変化を受け止めたのかを考える。
そうすると、景観は単なる美しい背景ではなくなります。
山や海、城や寺社、集落。それらをめぐって、人々が生き、争い、支配し、受け継いできた歴史が浮かび上がる。
雪舟が描いた「丹後の景観」と、和田竜さんが描く「丹後を生きた人々」。その二つを対話させる。
これは、安田さんのいう「掘る・繋ぐ・問い返す」にぴったりです。
ただ、ひとつ大切な留保もあります。『最後の一色』が雪舟の『天橋立図』を意識して書かれた作品だと、現時点で断定することはできません。「アフター雪舟」は、まず安田さんの側から提示された、文学と景観史を結ぶ読みの仮説として扱うのがよいと思います。
そして、私がいちばん気になるのは、安田さんが先ほどおっしゃったこの言葉です。
アマノハシダテに気持ちがあるなら、わたしと対話してほしかった。
雪舟にその対話があったかどうかは、分からない。
しかし、和田さんの小説を通じて、一色氏の時代を生きた人々の側から景観を見直せば、雪舟の絵だけでは見えなかったものに近づけるかもしれない。
そして、そこから現代の私たち自身の天橋立観も問い返される。
雪舟が描いたのは何だったのか。和田竜さんが描くのは何なのか。そして、私たちは天橋立を、これからどう見るのか。
三者を並べてみると、歴史・文学・景観が一つの対話の場に集まってきますね。
安田さん、ここはぜひ伺いたい。
『最後の一色』を読んでいて、雪舟の絵の向こう側にいる一色氏や丹後の人々が見えてきたのでしょうか。それとも、これから読むことで、その対話が始まる予感がしたのでしょうか。













