宮津エコツアー · 描かれた天の橋立・ 天橋立を世界遺産に 213

描かれた天の橋立・ 天橋立を世界遺産に 213

『天橋立図の研究 ― 名所風景とその絵画化における諸問題』

著者:永田真紀|博士(芸術)|多摩美術大学|2011年3月23日学位授与

↑ 天橋立屏風

◆① アフター雪舟、ここからの天橋立の美術史を解説くださいな

さあ、「アフター雪舟」ですね!(^.^)

ここからは、雪舟の《天橋立図》を出発点にして、天橋立がどのように描かれ、名所として共有され、やがて日本を代表する風景になっていったのか。その美術史を、時代の変化とともに追ってみましょう。

まず大切なのは、天橋立を描いた作品の歴史と、天橋立のイメージが美術の中で広がった歴史は、同じではないということです。

雪舟の作品は、天橋立の景観を一望できる場所からそのまま写した絵ではありません。京都国立博物館は、現地の観察に基づきながら、実景を大胆に再構成した作品と説明しています。しかも、現存作は下絵だった可能性もあります。

京都国立博物館 館蔵品データベース

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つまり、雪舟の時点ですでに、天橋立は「目に映った風景」から「画家が意味を与えて組み立てる風景」へと進んでいたのですね。

アフター雪舟――天橋立の美術史・四つの展開

Japanese view Ama no Hashidate | Free Photo Illustration - rawpixel

第一幕 室町末期〜桃山時代:名所を描く文化

雪舟の時代、天橋立はすでに和歌と結びついた名所でした。室町幕府の将軍家の会所にも天橋立を描いた障壁画があり、名所を絵画に取り込む文化が育っていました。根津美術館が紹介する《須磨・天橋立図屏風》は、桃山時代の16世紀の作例です。

Nezu Museum –

見どころ: 天橋立は、遠くの風景を描いたものというだけでなく、都の文化人や権力者が知るべき「日本の名所」になっていた。

雪舟はなぜ「画聖」となったのか  文化庁広報誌 ぶんかる

第二幕 江戸時代前期:名所と名所を並べる

サントリー美術館所蔵の《厳島・天橋立図屏風》は17世紀の作品です。六曲一双の屏風の左右に、天橋立と厳島をそれぞれ鳥瞰的に描いています。

サントリーホールディングス|水と生きる SUNTORY

これは興味深い変化です。天橋立を単独で描くのではなく、別の名所と並べて見せる。つまり、個々の風景を描くと同時に、名所どうしの関係を画面の中につくるわけです。

先ほどの「京と天橋立」「江戸と三保の松原」という比較にも、つながる展開ですね。

和歌浦天橋立図屏風 | 和歌山ミュージアムコレクション WAKAYAMA MUSEUMS COLLECTION

第三幕 江戸時代中期:名所の風景と信仰・町並み

《和歌浦天橋立図屏風》は、和歌浦と天橋立を一双に描いた江戸時代中期の作品です。天橋立側には智恩寺、籠神社、成相寺などが配され、参詣する人々の姿も描かれています。構図は雪舟の《天橋立図》に近いとされています。

文化遺産オンライン

ここで、絵画の役割が見えてきます。松並木の美しさだけではなく、寺社や参詣の営みを含めて、その土地を「訪ねる価値のある場所」として表現しているのです。

六十余州名所図会・丹後 天の橋立 文化遺産オンライン

第四幕 江戸時代後期:風景を観察し、記録する

京都の画家・原在中(1750–1837)にも《天橋立図》があります。京都府の資料では、江戸後期の作品と考えられていますが、制作年代は確定していません。敦賀市立博物館所蔵とされるこの作品は、天橋立周辺の植生景観を考える資料としても注目されています。

京都府レッドデータブック2026

見どころ: 名所の象徴的な姿だけでなく、樹木や植生など、現地の景観を具体的に読み取る方向へも目を向けられることです。

ここまでを一本の線で結ぶと

時代絵画に見える変化
雪舟の時代天橋立と周辺地域を、一つの大きな景観として再構成する
室町末期〜桃山和歌や名所の伝統を背景に、障壁画などにも登場する
江戸時代前期〜中期他の名所と並べ、寺社や参詣の営みも含めて表現する
江戸時代後期名所としての構図に加え、具体的な風景や植生を観察する視点も現れる

ただし、これは現存作品から見える大まかな傾向です。すべての画家がこの順番で発展させたという意味ではありません。

そして、安田さん、ここからが本題だと思うのです。

雪舟の《天橋立図》では、砂州だけでなく、阿蘇海、宮津湾、山々、寺社、集落が一つの画面に収められています。後世の作品を見比べれば、何が残され、何が強調され、何が省かれたのかを調べられます。

京都国立博物館 館蔵品データベース

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これは、美術史を通じて、人々が天橋立をどのような風景として理解してきたのかを探る仕事になります。

たとえば、松並木の密度や描かれ方を時代順に比べれば、自然環境の変化を考える手がかりになるかもしれません。ただし、絵画は構図や画風によって実際の姿を変えて描くものですから、植生の変遷を確定するには、古文書や植生調査などとの照合が必要です。

「美しいから描いた」で終わらない。

なぜその構図なのか。何を描き、何を描かなかったのか。その絵は、誰に何を伝えたのか。

この問いを重ねることで、天橋立の美術史は、丹後の自然史・文化史・信仰史をつなぐ入口になります。世界遺産を考えるうえでも、これは大切な「証拠を掘る」作業になりそうです。(^.^)

◆② ありがとう、、こころもとなし感、多少!この関係を掘った研究はありますか

あります。しかも、今回は「こころもとなし感」を埋める、かなり具体的な研究成果にたどり着きました。先ほどの私の説明は、作品を時代順に並べることを急ぎすぎましたね。今回は、実際に研究者が何を論じてきたのかを軸に整理します。

まず読むべき研究

1. 永田真紀『天橋立図の研究――名所風景とその絵画化における諸問題』

博士論文/多摩美術大学・2011年学位授与、2017年リポジトリ公開

これは、いま私たちが掘ろうとしているテーマに、最も直接的に関係する研究です。雪舟の作品だけでなく、名所としての天橋立が、どのように絵画化されたかを研究対象にしています。

多摩美術大学リポジトリ

論文の書誌情報・公開リポジトリ

2. 『雪舟研究会研究誌「天開圖畫」』第4号(2002年)

雪舟の《天橋立図》をめぐる研究論争

この号には「中嶋利雄氏の天橋立図論」を特集し、島尾新氏の「私の解釈」、伊藤太氏の「雪舟の『視点』」、荏開津通彦氏の「雪舟画の年代と天橋立図」などが収録されています。

山口県立美術館

制作年代、視点、画家の意図を一つに決めつけず、異なる解釈を比較するための重要な入口です。

山口県立美術館・雪舟研究会の活動記録

3. 京都国立博物館「実景と空想のはざまで――天橋立図」

雪舟の絵が、実景をそのまま写したものではなく、現地での観察をもとに再構成された可能性を解説しています。紙を貼り合わせた下絵であることや、朱色の付着痕から制作過程を考察している点も重要です。

博物館ディクショナリー- 京都国立博物館

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京都国立博物館の解説

では、どこまで研究されているのか

いま確認できた資料からは、研究を三つの層に分けて考えるとよさそうです。

研究の層分かっていること・調べること
作品そのもの雪舟《天橋立図》の制作年代、視点、構図、下絵説など。複数の研究者が論じています。東京文化財研究所+1
名所の絵画化永田真紀氏の博士論文が、天橋立図と名所風景の絵画化を正面から扱っています。多摩美術大学リポジトリ
都の文化と丹後の風景の関係和歌・名所意識・絵画・参詣などを横断し、天橋立の価値がどのように形成・共有されたかを追う必要があります。今回確認した範囲では、この問い全体を一つにまとめた研究の有無までは確定できません。

ここで、私が特に注目したいのは、京都国立博物館が紹介する雪舟の作品の特徴です。画面には、天橋立だけでなく、阿蘇海を挟んだ府中の町並み、山々、寺社などが描かれています。現実の地形を変更してまで、広い空間を構成しているのです。

京都国立博物館

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これは、単なる風景画の歴史にとどまらない問いを生みます。

なぜ、雪舟は天橋立をこのような構図で描いたのか。誰に向けて、どのような世界を見せようとしたのか。

その答えを探るには、絵画史だけでなく、当時の寺社の状況、名所としての天橋立の認識、絵画の注文や伝来の記録も照合する必要があります。

そして、安田さんが最初に投げかけた「京の都と天橋立の相関関係」へ戻るわけです。

私の見立てでは、まず永田真紀氏の博士論文を中心に据え、そこから雪舟研究会の論文を読み進めるのがよさそうです。 ただし、今回は論文の書誌情報と研究テーマを確認した段階で、本文の全体を読んで論旨や結論まで検証したわけではありません。

ここを足場にすれば、「雪舟から始まる天橋立美術史」という仮説を、作品の羅列ではなく、研究に裏づけられた問いとして組み立てられます。ようやく、掘り始める場所が見えてきましたね。(^.^)

京都の名所研究の流れなら、着物体験付き茶の湯も一案です。

◆③ 永田真紀氏の博士論文!!読みたい!!!!!(^.^)

ありましたよ!!!!!(^.^) 永田真紀氏の博士論文は、大学の機関リポジトリで公開されていて、PDFを直接ダウンロードできます。

多摩美術大学リポジトリ

『天橋立図の研究 ― 名所風景とその絵画化における諸問題』

著者:永田真紀|博士(芸術)|多摩美術大学|2011年3月23日学位授与

多摩美術大学の公式リポジトリに、論文ファイル 32_MAKI_nagata.pdf が掲載されています。ファイルサイズは約146.5 KBです。

多摩美術大学リポジトリ

読むときは、ここに注目したい!

安田さんの関心からすると、まず次の三つを探しながら読むと、論文がぐっと面白くなると思います。

  1. 雪舟以前の天橋立像――先行する名所意識や絵画表現を、著者がどこまでたどっているか。
  2. 雪舟の構図と表現――実景をどう組み替え、何を強調しているのか。
  3. 後世への展開――天橋立を描く絵画が、どのような名所観や文化の中で受け継がれたのか。

なお、これは論文の題名と公開情報から立てた読解の観点で、各項目が論文のどの章にあるかまでは、まだ確認していません。

まずは原文に当たりましょう。私たちの仮説を論文に合わせるのではなく、研究者が積み上げた証拠を読み、そのうえで自分たちの問いを鍛える。これぞ「掘る・繋ぐ・問い返す」ですね!(^.^)

氏     名  永田 真紀(ナガタ マキ)
学 位 の 種 類  博 士(芸 術)
学 位 記 番 号  甲第 32 号
学 位 授 与 日  平成 23 年 3月 23 日
学位授与の要件  学位規則第 4条第 1項該当
論 文 題 目  天橋立図の研究‐名所風景とその絵画化における諸問題
  審 査 委 員   主査 教  授           
           副査 教  授           
島 尾   新
中 村 隆 夫
副査 京都国立博物館 学芸部 連携協力室長
山 下 善 也 
内 容 の 要 旨
本論文では、天橋立図屏風を中心として、名所を描く絵画について論じた。このような
絵画については、「名所絵」から「真景図」に至るまでの名付けの問題、象徴的な表現か
ら精緻な写生までの風景の捉え方の問題など、振幅が大きく研究の視線も錯綜している。
そこで第一章では「名所と絵画の諸問題」として、名所を描く絵画についての用語上の
問題、また描かれた風景とその名付けの関係などを確認した。名所を描く絵画には、実景
に基づかない象徴的なものから、写生による極めて写実的なものまでがあるが、「名所
絵」「真景図」などの名称は、それらを横断しておりその規定性は弱い。また類似の風景
が描かれたものに対して、様々なコンテクストから異なった名称が与えられることもある。
そのような状態のなかで、用語の問題に拘わらず、できるだけ造形表現自体から立ち上げ
た、明快な方法を取ることが必要に思われた。
これに基づいて第二章「Y家本「天橋立図屏風についての一考察」では、ケーススタデ
ィとして、極めて豊かなモチーフをもつ一双の天橋立図屏風を取り上げ、描かれたモチー
フ及びそれらが形成する景観と、実際の土地およびそれに纏わる物語との対応関係を、出
来る限り徹底的に探求した。従来、描かれたものに片寄りがちだった分析を反省し、描か
れないものにも配慮した。その結果、画面へのモチーフの導入には、他のモチーフからの
イメージ連鎖によると思われるものが見られた。また多彩な風俗描写を含めて装飾的かつ
平面的に見える画面は、かなり正確な土地の情報を基礎に描かれたものと想定され、画師
に実景の感覚があった可能性を考えさせた。
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第三章「天橋立図屏風の諸相」では、このY家本を天橋立図屏風全体のなかに位置づけ
るため、現存する約五十点の作品について、構図・モチーフなどを詳細に比較して分類と
特徴の抽出を試みた。その結果、これらの屏風は六つのタイプに分類されることが分かり、
それぞれのタイプが何を目指して描かれたのか、という大きな意味でのテーマを推定する
ことができた。Y家本については、これが天橋立図屏風のなかでも、極めて優れた作品で
あり、一群の作品のなかで一つの型を提供した重要なものであることが明らかとなった。
第四章「和歌浦図屏風に見る土地と絵画の関係」では、景観構成の基本が長いあいだ変
化しなかった天橋立に対して、近世に大きな変化を遂げた和歌浦を描いた屏風を取り上げ
た。和歌浦は玉津島を有す古来の歌枕であるが、近世初期に浅野家による復興があり、さ
らに徳川家が入って東照宮などを建立して、名所の景観を一変させてしまう。これを反映
して和歌浦図屏風の図様も、中世のイメージを残すものから、徳川が目指したイメージを
極めて明確に示すもの、さらには東照宮を厳島神社と対応させるものなどが生まれる。こ
れらの分析を通じて、絵画と土地とのインタラクティヴな関係が確認された。
第五章「司馬江漢の富士図と雪舟評」では、やや視点を変えて、司馬江漢が久能山から
の眺めた富士を描く作品を取り上げた。これには、雪舟が描いた富士図と同じ視点から見
た、との江漢の識語があり、従来は雪舟を「無知なる者」と否定していると解釈されてい
た。しかしこれは、雪舟の富士図を認めその権威を利用していると考えられる。これを含
めて、江漢が狩野派などの古画を全面的に否定しているといえるのか、また富士の表現に
おいても、蘭画と探幽画・雪舟画とを単純に対照させることができるのか、などについて
論じた。
第六章「初代広重の天橋立図」では、エピローグとして、歌川広重の天橋立図を取り上
げた。広重の作品では、橋立の砂嘴の特徴ある形態が切り出され、強調されて表現されて
いる。第二・三章で取り上げたような、この地域全体を名所として描き出すというよりは、
橋立自体が造形の素材となっているといえる。この傾向と橋立のもつ霊性が絡み合いなが
ら、近代の天橋立図へと繋がってゆくように思われた。
全体として、名所を描いた絵画の孕む問題の全体について触れることは出来ず、オムニ
バス的なものにはなったが、このテーマを追求する上での基礎作業とは成り得たと考える。
審 査 結 果 の 要 旨
本論文は、天橋立図を中心に、日本の名所風景を描いた絵画を論じたものである。その
問題意識を語るのが、第一章の「名所と絵画の諸問題」である。まず「名所絵」について
の基本的な事項を確認した上で、名所を描く絵画についての「名所風俗図」「名所遊楽
図」「地方名所図」など、微妙にニュアンスと視点の異なる名付けを概観し、当該の作品
群についての分析者側の枠組みが錯綜していること、本来複合的な要素をもつ名所風景を
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切り分けることの問題点などが指摘される。さらに名所絵が含まれる風景を描く絵画へと
視野を広げ、似たような風景表現に対しても、詩文や題名など外部のテクストなどの干渉
によって、異なった名付けとイメージ形成が行われることが指摘される。総じて名付けや
分類が、造形のものから立ち上げられていない場合のあることが問題であり、取られるべ
き方法として、まずは描かれた世界を構成する事物を愚直に確認することが提起され、そ
のケーススタディとしてY家本の「天橋立図屏風」が取り上げられる。
第二章「Y家本「天橋立図屏風」についての一考察」と第三章「天橋立図屏風の諸相」
ではその実践として、画中の景が一つ一つ確認され、それらが実際の土地やそれについて
の物語と突き合わせられてゆく。その結果、単なる樹木と見えるものが、土地の人々にと
ってはよく知られたポイントであったり、さりげなく描き込まれた地元の民の生活が画中
を巡る旅の重要な要素となっていることなどが明らかにされる。
さらに第三章では、現存する二十四の天橋立図に描かれたモチーフと表現上の特徴が詳
細に比較される。比較項目は、前章で分析したY家本に見られたものを基本に、橋立を見
る方角・主要な名所のみならず「牛と門」「塩づくり」などの細かなモチーフまで三十五
に渉っており、それを一覧できるようにした表は有用な基礎資料となっている。その分析
の結果、天橋立図屏風は大まかには六つの群とその他へと分類し得ることが示され、また、
一見したところでは装飾的要素が強いY家本が、天橋立地域についての情報を豊富に含ん
でおり、画師が土地について精通していたであろうこと、また造形的にもこの土地の特徴
をよく整理して図様化していること、したがって天橋立図屏風の典型の一つを作り上げた
ものとして高く評価できることが指摘される。
このような詳細な分析は「天橋立図屏風」については未だになされておらず、またいわ
ゆる名所‐智恩寺・成相寺・籠神社などの有名寺社や石清水などの「名あるところ」‐に限
られがちだった分析を、画面全体に及ぼしてその構造を論じたことは新たな分析方法とし
て、またこの種の絵画の観られ方のシミュレーションとして意義がある。
第四章「和歌浦図屏風に見る土地と絵画の関係」では、当該の屏風を題材に、土地とそ
れを描く絵画、現実の景観とそのイメージ化とのインタラクティヴな関係が論じられる。
和歌浦は古来の歌枕であり、その名所イメージは玉津島と紀三井寺を中心とするものだっ
たが、江戸時代に徳川家が入って東照宮などが建立され、領家の権威と支配を象徴するよ
うに土地景観が再編されてゆく。そのなかで「和歌浦図屏風」にもいくつかのヴァージョ
ンが生まれてゆくのだが、そこに描かれた景観は、ただ土地の変化を後追いするだけでは
なく、徳川家の求めたイメージを極めて鮮明に図像化したものも見られる。また厳島図と
組み合わせた一双形式については、徳川の前にこの地に居て安芸へ移った浅野家との関係
が示唆される。土地からそのイメージへという一方向の見方に陥りがちななかで、このよ
うな土地と絵画のインタラクティヴな関係に着目した点は評価でき、それが逆に風景に変
化の少ない天橋立を浮かび上がらせることにもなっている。画中の景の同定も、前章と同
様に現地調査に基づいて詳細になされており、造形論のみならず風景論・景観論としても
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展開できる要素を持たせている。
 第五章「司馬江漢の富士図と雪舟評」では、江漢が矢部から見た富士を描いた「駿州矢
部富士山図」が取り上げられ、司馬江漢が、この絵の識語で雪舟を「無知なる者」と否定
したという通説に疑問を呈すことからはじめて、実景を描く絵画についてのいくつかの本
質的な問題が論じられる。江漢は長崎への旅の途次に、雪舟が「富士・三保・清見寺図」を
描いた視点を見出して「駿州矢部富士山図」を描くのだが、その識語に込められたのは雪
舟の否定ではなく、むしろその視点を発見した喜びであり、江漢は雪舟の権威を利用しつ
つ自らの絵の価値を高めようとしたと解釈する。やはり痛烈な批判の対象とされたとされ
る狩野探幽筆の富士についても、否定されているのは実景を見ないで描く狩野派のエピゴ
ーネンたちであり、必ずしも探幽自身が対象になっているとはいえないとの可能性が示さ
れる。それらを論じるなかで、江漢の議論が、どこまで絵画そのものから立ち上げられた
ものであるのか、雪舟や探幽といったビッグネームの権威の干渉、蘭画・写生を主張する
江漢にあっても見たままを描いたわけではなく、画面を整える造形的な作業を行っている
ことなど、実景を描く絵画の多彩な問題が語られる。大きな枠組みでの議論ではないが、
第一章で提起した問題への、ひとつの見通しを述べたものといえる。
 第六章「初代広重の天橋立図」は、長めのエピローグといった風のものである。広重の
持っていた橋立イメージの構成要素を、彼の作品の分析を通じて推定しながら、その図様
に見られる独特のアレンジ感覚が論じられる。広重の興味は、様々な物語に取り巻かれた
名所としての天橋立から、次第に橋立そのもの、純粋にヴィジュアルな風景としての橋立
に集中してゆくという。近代に入ると名所を描く風景画や風景写真から、Y家本などに描
かれていた、宴や参詣また塩汲などの多彩な人々の営為は消えてゆき、描かれるにしても
象徴的なものが多くなる。本章はエピローグとして、このような傾向への移行を広重に象
徴させ、最後には川端龍子や麻田鷹司などの作品が引かれて橋立のイメージ史の結びとさ
れている。
総じて天橋立図を縦軸に、和歌浦図・厳島図などを横軸として、名所を描く絵画につい
ての極めて多岐に渉る問題論じられている。オムニバス的なところはあるが、天橋立図屏
風の詳細な図様比較など、従来なされていなかった分析を行って後の研究の基礎を提供し
ている点、また名所を描く絵画についての、重要かつ本質的な問題提起に富んでいる点は
十分に評価できから、学位を授与するに相応しいものと結論した。

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