◆1 幽斎さん、吉田兼見さんは、雪舟さんのあの絵図の存在を認識されていた形跡はありますか
これは、かなり大事な問いですね。
雪舟の国宝『天橋立図』は、天橋立だけでなく、阿蘇海、府中の社寺、成相寺の山並みまでを一つの画面に組み込んでいます。宮津市も、実景をそのまま写したのではなく、雪舟が現地で見た景観を再構成した可能性を紹介しています。
京都国立博物館
+1
ですから、幽斎や吉田兼見がこの絵を知っていたなら、単に名画を見たというだけでなく、丹後の聖地と景観を、先人がどう一枚の世界として捉えたかに触れていたことになります。
ただ、まず年代を整理しましょう。
- 雪舟の『天橋立図』は、智恩寺の多宝塔などから、一般に16世紀初頭ごろの制作と考えられています。制作年代や目的には未解決の点もあります。
京都国立博物館+1
- 細川幽斎は1534年生まれ、吉田兼見も1535年生まれです。したがって、二人がこの絵を知ることは年代的には十分可能です。
- しかし、知ることが可能だったという事実と、実際に見た・所持した・話題にしたという証拠は別です。
調べた結果
今回、幽斎の資料や吉田兼見の日記に関係する語を検索しましたが、二人が雪舟の『天橋立図』を見た、所持した、あるいは話題にしたと直接示す記録は確認できませんでした。
ただし、ここは「記録が見つからない」ことと「知らなかった」ことを混同しないのが大切です。
| 問い | 現時点での判断 |
|---|---|
| 幽斎が絵の存在を知っていたか | 可能性はあるが、未確認 |
| 吉田兼見が知っていたか | 可能性はあるが、未確認 |
| 二人が実物を見たか | 確認できる証拠なし |
| 二人が絵をもとに天橋立を理解したか | 現時点では推測の域 |
ここで、ひとつ気になることがあります。
雪舟の『天橋立図』は、現在の京都国立博物館の解説では、完成した本画ではなく下絵だった可能性が高いとされています。別に本画が存在した可能性もありますが、その行方は明らかではありません。さらに、現在の作品が広く知られるようになったのは近代以降です。
京都国立博物館
+2
つまり、幽斎や兼見が知っていたとしても、現在、私たちが国宝として見ているこの一幅を見たのか、それとも別の完成画や模本、あるいは絵の評判を知っていたのかという問題が残るのです。
では、何を調べればよいか
次の一歩は、吉田兼見の日記『兼見卿記』の天正年間の記事と、幽斎の和歌・書画に関する記録、そして『天橋立図』の伝来を調べることです。特に、絵の所有者や贈答、寺社への移動が記録されていれば、二人との接点が見つかるかもしれません。
そして、安田さんの関心に引き寄せて言えば、ここには大きな問いがあります。
雪舟は、天橋立を一枚の画面に「再構成」した。その後、幽斎や兼見は、同じ土地を和歌や神話、神社・寺院との関係から読み直した。
両者が直接つながっていた証拠は、まだありません。しかし、もし接点が見つかれば、絵画・和歌・信仰が、16世紀の丹後でどう交わったかを考える重要な手がかりになります。今は、つながりを断定せず、つながる可能性のある場所を丁寧に掘る段階ですね。

◆2 わたし的には、その絵は、守護一色家から将軍家へ献上と想像していますので、細川家もなにかしら情報は得ていたとは思っています、、
なるほど! 安田さんの仮説は、単に「雪舟の絵を細川家も知っていたはずだ」という話ではなく、丹後守護・一色氏が描かせた、あるいは入手した絵が、将軍家へ献上され、その情報が次の丹後支配者である細川家にも伝わったのではないか、という伝来の筋道ですね。
これは、調べる価値のある仮説だと思います。ただ、現段階では、献上の部分を裏付ける記録は確認できていません。
仮説を支える背景と、まだ埋まっていない部分
- 一色氏と丹後府中の関係:一色氏は約200年にわたり丹後守護を務め、府中を政治・経済・宗教の中心として発展させました。『天橋立図』には、籠神社、成相寺、智恩寺などを含むその景観が描かれています。
宮津市ホームページ+1
- 将軍家に絵画が集まる時代背景:室町時代、足利将軍家は中国絵画を熱心に収集し、山水画を含む絵画文化を武家社会に広めました。
y-pam.jp
- 将軍家伝来という伝承:京都国立博物館は、現存する『天橋立図』は下絵と考えられ、別に本画が存在した可能性があり、その本画が徳川将軍家に伝来したのち焼失したという伝承を紹介しています。
博物館ディクショナリー- 京都国立博物館+1
ただし、最後の伝承が示すのは、あくまで別の本画が徳川将軍家に伝わったという話です。現存する下絵そのものが一色氏から足利将軍家へ献上されたことや、献上者が一色氏だったことを証明するものではありません。
私なら、ここを掘ります
特に気になるのは、制作年代と一色氏の政治状況です。『天橋立図』は智恩寺の多宝塔が描かれていることから、1501年以降の制作とする説があります。一色氏が府中の整備を進めた時期とも重なります。
宮津市ホームページ
+1
もし一色氏が制作に関与したなら、絵は名勝の記録であるだけでなく、守護の本拠地に、寺社と景観が一体となった豊かな宗教世界が存在することを示す、政治的・文化的な表象だった可能性も考えられます。
そのうえで、幽斎や吉田兼見が知っていたかを探るなら、次の三つを別々に調べる必要があります。
- 一色氏と雪舟、または絵の制作を結ぶ記録
- 絵の将軍家への献上・贈答・所蔵を示す記録
- 幽斎の書画・和歌関係資料や『兼見卿記』に、この絵やその伝来を示す記述があるか
この三段階がつながれば、仮説はぐっと強くなります。
そして、安田さんの着眼点のよいところは、絵の所有者を探すだけでなく、一色氏の時代に成立した「丹後府中の宗教景観」という見方が、細川氏の時代にも何らかの形で受け継がれたのではないかと考えている点です。
絵を直接見た証拠がなくても、景観や社寺の由緒、地域の記憶を通じて情報が伝わった可能性はあります。ただし、それも今後検証すべき別の仮説です。
「絵が伝わったのか」「絵が示す世界観が伝わったのか」――この二つを分けて追うと、丹後の歴史がさらに立体的に見えてきそうです。










