◆1 ありがとう、さて、細川玉、、後のガラシャさんの、本能寺の変、父明智光秀のクーデターのさいの幽閉先に、二論!金剛童子山山麓の味土野と丹波の水土野。丹後の人たちは圧倒的に前者、弥栄町教育委員会がそう言っていたのですから、一方後者は,学者、研究者が支持!丹後鄕土資料館の学芸員さん、和田龍さんも。地元丹後の元校長の歴史愛好家北風氏も精査して、残念ながら丹波説!!、、では、あなたはどちら?(^.^)
ははは! これは私にも、どちらか選べということですね。(^.^)
私の判断は、現時点では「丹波の三戸野(水戸周辺)」説です。
ただし、「丹波説で決着」とまでは言いません。玉が実際にどこへ移されたかを示す同時代史料が見つかっていないからです。
そして、安田さんが挙げられた丹後郷土資料館の森島康雄さんの論考を読み直すと、丹波説に傾く理由はかなり明確です。
1.決め手は、江戸時代の二つの記録
森島さんの2020年の論考『細川ガラシャの味土野幽閉説を疑う』では、まず二つの史料を検討しています。
京都府公式サイト
『明智軍記』
元禄年間に刊行された軍記物ですが、玉子の行き先を、
丹波ノ国三戸野ト云フ山里
と記しています。
『綿考輯録』
こちらは細川家の公式家史で、18世紀に編纂されたものです。
丹波之内山中三戸野
と記す一方、割注に「一書丹後国上戸村の名」とあります。
つまり、細川家の記録にも丹後説に見える記述はある。しかし森島さんは、その「丹後国上戸」という記述が、別の江戸時代の書物『本朝武林傳』からの孫引きである可能性を指摘しています。
ここは重要です。丹後説を支持する記述が複数あるように見えても、実は同じ情報源にさかのぼるなら、独立した複数の証拠とは数えられません。
京都府公式サイト
2.味土野説が広まった経緯も興味深い
森島さんの論考によれば、丹後の味土野説が大きく広まる転機は昭和10年(1935)ごろです。
ヘルマン・ホイヴェルスが『細川ガラシア夫人』で、丹波三戸野ではなく丹後の味土野だと主張しました。その根拠は、現地を訪れた際の地形の印象や、野間村出身者から聞いた伝承でした。
その後、地元の冊子や顕彰碑の建立を通して、味土野説は地域に定着していきます。森島さんは、女城・男城などの伝承も後から増えていった経緯を追っています。
京都府公式サイト
ここは丹後の人々にとって、少々耳の痛い話かもしれませんね。
しかし、私はこれを「地元の人が間違っていた」と単純化したくありません。
地域の伝承が、顕彰活動や観光、郷土への誇りと結びついて、歴史的な確信へ育っていく。その過程自体が、丹後の近現代史として研究する価値を持っています。
3.森島さんが示した、丹波説の地理的な根拠
もう一つ、私が重く見るのは、森島さんが当時の行政区分と光秀の行動を調べている点です。
- 味土野は当時、与謝郡野間村に属していた。
- 味土野を含む野間村の大半が竹野郡になったのは、昭和23年(1948)以降。
- 光秀が丹後に滞在したことが確認できる時期と行動範囲から、味土野に明智家の茶屋を設けていた可能性は低いと論じている。
- 味土野の女城・男城についても、当時の警護施設だったとするには遺構上の疑問がある。
これらを積み重ねて、森島さんは丹波説のほうが自然だと結論づけています。
京都府公式サイト
4.それでも、丹後の味土野伝承を捨てる必要はない
ここが私の考えのもう一つの部分です。
史実の所在地
丹波説を支持する史料的理由が強い。
地域の記憶
丹後・味土野には、玉の隠棲地として語り継がれ、顕彰されてきた歴史がある。
この二つは両立します。
京丹後市は現在も味土野の女城跡を市指定文化財として紹介し、玉の隠棲地としています。これは自治体の文化財・地域史の説明として重要ですが、1582年の所在地を同時代史料で証明するものとは区別しておきたいところです。
京丹後市
+1
では、安田さんに一つ返したい問い
先ほどから、私たちは幽斎、吉田兼見、成相寺の山岳信仰、元伊勢、そして丹後の聖なる景観をつないできました。
その流れで味土野を見ると、玉が実際にそこにいたかどうかとは別に、なぜ丹後の人々が、玉の物語を金剛童子山の山懐に置いたのか、という問いが残ります。
私は、そこに丹後の人々の土地への思い、山への畏敬、玉という女性への共感が重なった可能性を感じます。ただし、それらが伝承成立の直接の原因だったかは、まだ調べる必要があります。
所在地の歴史は丹波説に傾く。けれども、玉の物語を受け止めてきた地域の歴史は、丹後にも確かにある。
これが、今の私の答えです。
そして、地元丹後の歴史愛好家である北風さんまで史料を精査して丹波説に至ったというお話は、安田さんにとっても複雑だったでしょうね。地元を愛することと、地元に都合のよい説を採らないこと。その二つを両立させるのが、まさに「掘る・繋ぐ・問い返す」なのだと思います。(^.^)
◆2 ありがとう、夜陰に宮津城を舟で宮津湾に出て、天の橋立を左にみて日置に上陸、世屋谷を越えること陸路約12キロの味土野へ、、下世屋の前野家には食料、警護にあたったという長男限定口伝があると言うことですから、『麒麟が来る』の際は、盛り上がっていましたよ!
ああ、それは盛り上がりますよ! 『麒麟がくる』の時期に、丹後の人たちが味土野説に熱を込めたのもよく分かります。(^.^)
そして、今のお話で私が注目したのは、**下世屋の前野家に伝わる「長男限定の口伝」**です。
これは、一般に流布した味土野伝説とは、少し性格が違いますね。
1.その逃避行の道筋は、地形に即している
安田さんのお話を整理すると、こうなります。
- 夜陰に宮津城を出る。
- 舟で宮津湾へ出て、天橋立を左手に見ながら日置へ向かう。
- 日置に上陸する。
- 世屋谷を越え、下世屋を通って味土野へ向かう。
- 前野家が食料や警護に関わったという口伝が残る。
宮津城から海路で日置へ、そこから陸路で山間部へ入る。これは、城下から山奥へ人を移す経路として、地理的には考えられる道筋です。
ただし、地理的に通行可能だったことと、玉が実際にこの経路を通ったことは別です。移動の時期、舟の手配、同行者、警護の人数などを示す記録があれば、さらに検証できます。
2.「長男限定の口伝」が気になります
前野家の長男だけに伝えられてきたという点は、民俗学的にも興味深いですね。
なぜ長男だけなのか。
- 家の由緒として、家督を継ぐ者にだけ伝えたのか。
- 外部に漏らさないための家伝だったのか。
- 食料の提供や警護という役割を、家の責任として伝えたのか。
- ある時代に、家の歴史として整理され、長男に継承されるようになったのか。
いずれも可能性であって、今の段階では理由は分かりません。
ただ、ここで大切なのは、口伝を「証拠にならない」と切り捨てないことです。口伝は、伝承がいつ、誰から誰へ、どのように伝わったかを調べる対象です。前野家の家文書、古い地図、土地の呼称、家の記録と照合できれば、価値のある手がかりになります。
3.丹後説を検証するなら、前野家の口伝は重要な調査対象
私は、ここを次のように整理したいです。
| 調べる対象 | 確認したいこと |
|---|---|
| 前野家の口伝 | いつ、誰から、どのような言葉で伝わったか |
| 家の文書・記録 | 食料や人の出入りを示す記録がないか |
| 宮津湾・日置の海路 | 夜間の舟移動が可能だったか |
| 日置から下世屋・味土野 | 当時の道筋、所要時間、集落間のつながり |
| 味土野の伝承 | 玉の隠棲伝承と前野家の口伝が、いつ結びついたか |
とりわけ、前野家の口伝が、昭和10年ごろの味土野説の広まりより前から存在していたのか、それともその後に形成されたのか。ここは重要な分岐点になります。
そして、安田さん。ひとつ、私から聞いてみたいことがあります。
前野家の口伝は、「玉が来た」という話だけでしょうか。それとも、玉が来たときの様子、同行者、食料の運び方、警護の仕方など、具体的な情景まで伝わっているのでしょうか。
そこが分かると、単なる「味土野に玉がいた」という伝承と、実際に家が何らかの役割を担ったという家伝を、もう少し丁寧に区別して考えられます。
天橋立を左手に見て日置へ上がり、世屋谷を越える――この道筋そのものが、丹後の海と山をつなぐ歴史の舞台になっていますね。
◆3 玉さんには、チョウという娘がいました、彼女にもやはり政争の受難、、そこがダブっている可能性、わたしはこれかなと読んでいます(^.^)
ああ、なるほど! 安田さんの仮説は、玉本人の味土野幽閉伝承に、娘の「チョウ」をめぐる別の受難や移動の記憶が重なったのではないか、ということですね。
これは、味土野説と丹波説の対立を考えるうえで、検討する価値のある視点です。伝承は、必ずしも一人の人物の一つの出来事だけを保存するとは限りません。親子二代の出来事や、似た境遇の女性の記憶が、後世に一つの物語へ重なっていくことはあり得ます。
ただ、まず「チョウ」が誰なのか、そして彼女がどの政争に巻き込まれたのかを正確に確認したいところです。
ああ! その「チョウ」は、細川玉と忠興の長女、**長(ちょう/蝶)**のことですね。
調べると、細川家の系譜資料では、長は天正7年(1579)生まれで、前野景定に嫁いだとされています。
名刀幻想辞典
安田さんの仮説は、こういうことですね。
玉本人の幽閉伝承に、娘・長をめぐる政争と受難の記憶が重なり、味土野の物語が形づくられたのではないか。
これは興味深い。ただ、現時点で私が確認できた資料からは、長自身が味土野に幽閉された、あるいは丹後へ逃れたという事実までは確認できません。
ここで、もう一つ調べたい点があります。長の夫とされる前野景定の家は、豊臣政権下の政争と関わりを持つ前野一族です。もし長の婚姻後の境遇に、夫や実家をめぐる政治的な危機があったなら、玉の幽閉伝承との混同・重層化を検討する余地が出てきます。
ただし、「前野家の政争」と「下世屋の前野家の口伝」が、同じ前野家を指すと決めてはいけません。 同姓であることだけでは系譜上のつながりは証明できません。
私がこの仮説を追うなら
| 調べること | 確かめたい点 |
|---|---|
| 玉の長女・長の生涯 | 婚姻、夫の処遇、居所、没年 |
| 前野景定の生涯 | どの政争に関与し、どのような処遇を受けたか |
| 味土野伝承の成立 | 玉の幽閉と長の受難を結びつける記録があるか |
| 下世屋・前野家の口伝 | 伝承の対象は玉なのか、長なのか、あるいは両者なのか |
最後の点は、とりわけ大切です。
安田さん、ひとつ確認させてください。長(チョウ)の受難というのは、前野景定との婚姻後、豊臣政権下の前野一族をめぐる政争に巻き込まれたことを指しておられますか?
そこが分かれば、玉の味土野幽閉伝承との重なりを、もう一段具体的に検討できます。(^.^)
◆4 下世屋前野一族は細川時代に尾張から移ってきたということです、長(チョウ)の受難というのは、前野景定との婚姻後、豊臣政権下の前野一族をめぐる政争に巻き込まれたこと、、ガラシャは、その前野を頼って娘を「味土野」に託したと、、!
おお、そこまでつながるのですね! これは、味土野伝承を考えるうえで、ずいぶん重要な手がかりです。
いまのお話を整理すると、こういう筋書きですね。
- 下世屋の前野一族は、細川氏の丹後入国期に尾張から移ってきた。
- その前野一族を頼りに、ガラシャは娘の長(チョウ)を味土野に託した。
- 長は後に前野景定(長重)と婚姻する。
- ところが豊臣政権下の秀次事件により、夫側の前野一族が政争に巻き込まれ、長自身も受難を経験する。
ここで、史料上の確認と、仮説としての面白さを分けてみます。
まず、長の婚姻相手と秀次事件です。
今回確認できた情報では、長の夫は「前野出雲守長重」と記されています。長重は前野長康の子で、長康と長重は文禄4年(1595)の秀次事件に連座して切腹し、長は剃髪して難を逃れた、という系譜・家伝に基づく説明があります。
note(ノート)
+1
したがって、先ほど私が「前野景定」と書いたのは、少なくとも今回確認した資料との照合が必要です。長重と景定が同一人物なのか、別名・通称なのか、あるいは系譜上の混同なのか、ここは保留しておきたいところです。
また、長が秀次事件で受難したという筋は、ガラシャの娘の生涯を考えるうえで重要です。ただし、いま見つかる情報だけでは、長が味土野にいたことや、下世屋の前野家に身を寄せたことまでは証明できません。
そして、ここに一つ、時間の問題があります。
ガラシャが味土野に移ったとされるのは1582年。長の婚姻と前野家の政争は、その後のことです。つまり、もしガラシャが味土野の前野一族を頼ったのなら、それは長が前野家に嫁ぐ前の、別の縁や信頼関係だったことになります。
ここがむしろ面白い。
- 1582年以前から、細川家と下世屋前野家の間に何らかのつながりがあったのか。
- 尾張から丹後へ移った前野一族が、細川家の家臣団や周辺ネットワークに属していたのか。
- その関係が、のちに長と前野家との婚姻につながったのか。
この順序が確認できれば、単に「ガラシャが味土野にいた」という伝承に、下世屋の前野一族と細川家の人的なつながりという、別の歴史的な軸が加わります。
ただし、現時点では「ガラシャが娘を下世屋の前野一族に託した」という部分は、まだ仮説です。味土野伝承そのものも、同時代史料で確定できないことは森島康雄さんの論考が指摘しています。
Handbook4Cs
+1
一方、京丹後市の観光公社が紹介する「野間・世屋の村々が玉を守った」という長男相伝の口伝は、まさに調べる価値のある地域伝承です。
「京丹後ナビ」京丹後市観光公社 公式サイト
私が次に確かめたいのは、一点です。
下世屋の前野家に伝わる「尾張から移ってきた」という話には、長(チョウ)やガラシャに関する言い伝えも一緒に残っているのでしょうか?
もしそこに接点があるなら、味土野の女城・男城だけでなく、世屋谷から味土野へ越える道、そして下世屋の前野家までを一つの歴史の舞台として読み直せるかもしれません。まさに「数珠紐と数珠珠」ですね。(^.^)
◆5 玉幽閉先については、微妙に悩んでらっしゃいましたね、司馬遼太郎さんも!
ははは!そこに目をつけられましたか!(^.^)
司馬遼太郎さんも、歴史の謎を前にすると、筆がすんなりとは進まないことがあるんですね。
「玉幽閉先」というのは、単に誰がどこにいたかという所在地の問題ではありません。人物の移動、婚姻、政治的な力関係、そして土地に残された伝承が絡み合います。
特に丹後の前野一族、長(チョウ)の受難という話と重ねると、なかなか興味深い。
調べてみると、司馬作品や関連資料では、味土野を「水戸野」と表記している例が確認できます。
武士道美術館
+1
ただ、ひとつ確認させてください。
おっしゃる「玉幽閉先」は、細川ガラシャ(玉)の幽閉地・丹後の味土野について、司馬遼太郎が所在地や表記に迷いを見せていた、というお話でしょうか。
それとも、幽閉先をめぐる歴史的な解釈そのものに悩んでいた、ということでしょうか。
ここは丁寧に掘りたいですね。味土野と下世屋、そして前野一族の話がどうつながるか。面白いところに来ています!(^.^)
こちらもいかがですか?
ええ、丹波説と丹後説と、でです!
ああ、なるほど!そこですね。(^.^)
細川ガラシャ(玉)の幽閉先をめぐる、丹波説と丹後説のせめぎ合いです。
これは、なかなか面白い問題です。というのも、現在の京丹後市弥栄町味土野という場所が、観光案内などでは定説のように扱われていますが、歴史資料を検討すると、実はそう簡単ではないのです。
そして、司馬遼太郎さんが微妙なところで筆を慎重にしていたというのも、理解できる気がします。
ここで決定的に面白い資料があります。
**2020年、京都府立丹後郷土資料館の森島康雄さんが発表した論考『細川ガラシャの味土野幽閉説を疑う』**です。
京都府公式サイト
史料を年代順に並べると、次のようになります。
| 年代 | 史料・出来事 | 所在地の記述 |
|---|---|---|
| 1679年 | 『本朝武林傳』 | 丹後国上戸 |
| 1693年以降 | 『明智軍記』 | 丹波国三戸野 |
| 1752~78年 | 『綿考輯録』 | 本文は丹波、割注に丹後上戸 |
| 1758~63年頃 | 『丹後州宮津府志』 | 丹後三戸野・味土野 |
| 1841年 | 『丹哥府志』 | 丹後の味土野 |
| 1939年 | ホイヴェルス | 丹後味土野説を主張 |
| 1968年 | 司馬遼太郎『胡桃に酒』 | 丹波・水戸野峠 |
| 2004年 | 同作品の新装版 | 丹後・味土野峠 |
京都府公式サイト
+1
そして、司馬さんの記述が変わっている!
1968年の初出では丹波。2004年の新装版では丹後。
しかも、丹後に変更した結果、宮津城を舞台にした場面で「隣国の丹後」という地理的な矛盾まで生じてしまった、と森島さんは指摘しています。
京都府公式サイト
私が特に注目したいのは、次の三点です。
- 丹波の三戸野には、室町時代に遡る地名の記録がある。
- 丹後の味土野には、江戸時代の地誌に幽閉伝承が現れる。
- しかし、玉の移動を直接証明する同時代史料は、現在確認されていない。
森島論文は、丹波説の方が史料上は自然だと結論づけています。ただし、幽閉先を確定できないことも明記しています。
京都府公式サイト
さて、ここからが安田さんとの対話で面白いところ。
私は、この問題を単なる丹波対丹後の郷土史争いにしたくありません。
なぜなら、玉の移動先を考えることは、当時の細川家・明智家・一色家の領地と政治的な関係、さらには山間部の交通路を読み解くことでもあるからです。
そして、以前から話している下世屋、前野一族、伊根、宮津を結ぶ丹後の歴史地理にもつながってくる。
ひとつの疑問を置きましょう。
玉は、なぜそこへ送られたのか。
場所の特定だけでなく、誰が、何を守るために、誰の目から遠ざけようとしたのか。
ここを掘ると、ずいぶん違う歴史の景色が見えてくる気がします。(^.^)
◆6 三浦綾子さんは丹後説、取材にも訪れられ、その際、宮津から味土野までを案内したタクシーの運転手さんもいらっしゃいます!
おお、それは大事なお話ですね!!(^.^)
三浦綾子さんの細川ガラシャを扱った作品『細川ガラシャ夫人』ですね。三浦さんは丹後説に立ち、実際に味土野まで取材に訪れている。
しかも、宮津から味土野まで車で案内したタクシー運転手さんがいらっしゃる!
これは、歴史研究とは別の意味でも貴重な証言です。
少し整理しておきたいことがあります。
- 歴史史料の証拠:玉が実際に味土野に幽閉されていたことを証明できるか。
- 作家の現地取材:三浦綾子さんが、丹後の地形や土地の伝承をどう受け止めたか。
- 地域の記憶:取材時の案内者や地元の人々が、どのような話を伝えたか。
この三つは、同じものではありません。しかし、互いに重ねて読む価値があります。
私が気になるのは、三浦さんがなぜ丹後説を採ったのか、という点です。
そして、もう一つ。
そのタクシー運転手さんは、三浦さんに味土野までの道中、どんな話をされたのでしょうね。
もしその方が今もご存命なら、ぜひ聞いてみたい証言です。
丹波説か丹後説かという二者択一だけでなく、作家が現地に立ち、土地の人と出会い、何を感じたか。これもまた丹後の歴史を掘り起こす大切な手掛かりですね。(^.^)
◆7 味土野の夜空に光秀・玉の二つ星 永遠に輝け 世が鎮まるように!!わたしの一節です、、空が広いのですよ、高原の味土野は(^.^)
いやあ……これは、いい一節ですねえ!!(^.^)
「味土野の夜空に光秀・玉の二つ星 永遠に輝け 世が鎮まるように!!」
私が惹かれたのは、最後の「世が鎮まるように」です。
光秀と玉。父と娘。 歴史の中では、戦乱と政争に翻弄された二人です。
その二人を、味土野の広い夜空に星として置く。
そこには、歴史上の勝者も敗者もありません。丹波説も丹後説もありません。
ただ、二つの星が並んで輝き、世の平穏を願っている。
そして、もう一つ、味土野が高原であるという安田さんの指摘が効いています。
山に囲まれた谷底ではなく、空が広い。地形そのものが、物語の舞台装置になっているんですね。
私は、この一節を歴史論争への答えにする必要はないと思います。
むしろ、歴史論争を越えて、味土野という土地に人が訪れる理由をつくる言葉です。
幽閉の地から、星を仰ぐ地へ。
これは、味土野の新しい物語の入口になるかもしれません。(^.^)










