宮津エコツアー · 明境の謎!!山の異変、川の変化、鮭の道、砂州の誕生。四つを同じ時間軸に置いてみる! 天の橋立を世界遺産に 233

明境の謎!!山の異変、川の変化、鮭の道、砂州の誕生。四つを同じ時間軸に置いてみる! 天の橋立を世界遺産に 233

◆1 ありがとう、あけさい、、、明境、フム、頭の中でギルぶるごろがらすりつぶしています、そして、ポン!!境、、サカイかあ!!かって、阿蘇海と与謝野湖はつながった広い入り江だった、その入り江を大規模に崩れた山が二つに分けた、それが「サカイ・境」ができたと認識された、困ったことです、行き来が閉ざされるのですから、、その境を無くしたい、、その願いが明ける、開けるという言葉になった、、そう見立てました、ちなみに、この境の上を山田地区、下を石田地区、と命名されています、意見くださいな

おお、ポン!!ですね。(^.^)

「あけさい」から「明境」へ、さらに「境(さかい)」へ。言葉を転がしているうちに、地形の記憶と人の願いが重なってきたわけですね。

私は、この見立てには大きな魅力があると思います。ただし、地形としての境と、地名としての境と、神社名「明境」の意味を、いったん分けて考えると、もっと強い仮説になります。

まず、地形の話です。

京都府レッドデータブックによれば、阿蘇海はかつて宮津湾の一部で、天橋立砂州の成長によって湾から隔てられた潟湖です。また、阿蘇海北岸には山田断層崖と、その下に発達した複合扇状地があります。

京都府

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一方、あなたが言われる「阿蘇海と与謝野湖がつながった広い入り江を、大規模な山崩れが二つに分けた」という筋書きは、地形の成り立ちとして検証したい仮説です。現在確認できる資料だけでは、その山崩れの時期や、二つの水域を分けた過程までは確定できません。

ここは大事です。山田断層崖の存在は確認できますが、断層運動による地形形成と、大規模な山体崩壊による谷の閉塞とは別の現象です。両者を混同しないでおきたいですね。

そして、今回の見立てで私がいちばん面白いと思うのは、「境」を、分断の場所であると同時に、分断を越えようとする願いの場所として読んでいることです。

「境」は、こちらと向こうを分ける。しかし、人はそこを越えて行き来したい。道を通し、交流を取り戻したい。その願いを「明ける」「開ける」に重ねて、「明境」と読む。

これは、地名の語源を確定する話とは別に、明境神社の伝承を読み解く一つの魅力的な解釈だと思います。

地名についても、興味深い手がかりがあります。

平凡社『日本歴史地名大系』を引くコトバンクの「下山田村」の項には、北は弓木村の南、石田に境し、南は水戸谷口で上山田村に接するとあります。つまり、山田・石田・水戸谷という地名が、歴史的にも隣接する地域として記録されています。

コトバンク

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また、与謝野町の文化財保存活用地域計画によると、平安時代の『和名抄』には与謝郡の郷名として山田郷が記されています。山田という地名には、かなり古い歴史があります。

ただし、山田・石田という地名が、山崩れによって生じた境界を表すために付けられた、とはまだ言えません。ここは地名の成立時期と古い表記を調べたいところです。

私なら、こういう仮説に育てます

地形

山体の崩壊・堆積によって、かつての水の通路が変わった可能性

地名

境・山田・石田・水戸谷に残る土地の記憶

交通

境を越え、守護所と山里を結ぶ古街道

伝承

明境さんの松植樹と、明境神社の由緒

ここで一つ、私から問いを返します。

明境さんが植えた松は、天橋立のどのあたりに植えたという伝承なのでしょうか。

それが分かると、明境さんが「境を明けた人」だったという読みを、植樹の場所や時代、当時の交通との関係からさらに検討できます。

もちろん、これは語源の証明とは別です。

でも、私はこの見立てを捨てたくありません。

地形が境をつくり、人が道をつくり、祈りが境を越えようとする。

「あけさい」という音から始まった探究が、ずいぶん深いところへ来ましたね。(^.^)

◆2 この境をなす大地の異変、これは、困ったことです、まず、人、舟の行き来に支障、さらに生きもの、特に鮭!取り除いてほしい、明けよ!!もう一つ、この異変の時期、天の橋立形成と時期を一にしているのでは、同時多発事案とも思うのです、となると、石田、山田間の舌状の突き出しは、天の橋立形成の生き証人という意味も帯びてざわざわ感、半端なし!!いかがでしょうか(^.^)

7s考えました

いやあ、これは「ざわざわ感、半端なし」も分かります。(^.^)

今回の見立てで、私がとくに注目したのは、大地の異変を、人間だけでなく鮭の側からも考えていることです。

もし、かつて一続きだった水域や水路が大規模な山体崩壊によって分断されたのなら、困るのは人間だけではありません。

  • 舟の通行が妨げられる。
  • 集落間の往来や物資の輸送が変わる。
  • 海と川を行き来する魚の移動経路が変わる。
  • 鮭のように川を遡上する魚にとっては、繁殖場所への道が閉ざされる。

「境を取り除いてほしい。明けよ、開けよ!」

この願いを明境という名に重ねる。地名の語源として確定できるかどうかとは別に、土地の人々の経験や願いを読み解く仮説として、実に面白いと思います。

しかも、鮭は単なる想像上の登場人物ではありません。与謝野町は現在、野田川や岩屋川でサケの遡上が確認されていると紹介しています。野田川流域のサケは、古代の貢納を示す木簡とも関係づけられています。

与謝野町

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そして、天橋立との「同時多発」仮説

ここは、地形の時間を整理すると、さらに面白くなります。

京都府レッドデータブックによると、天橋立の砂州の基部は水深約20メートルの海底から立ち上がり、形成開始は約8,000~9,000年前の海面上昇停滞期にさかのぼる可能性があります。さらに、海底段丘には約2,000~3,000年前の低海面期に対応する可能性のある地形も認められています。

京都府

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一方、天橋立が海面上に現れた時期については、京都府の説明では約4,000年前、宮津市の紹介では約2,200年前と、資料によって異なる年代が示されています。これは形成開始、海面上への出現、砂州の成長をどう区別するかにも関係します。

京都府

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Aerial Amanohashidate Sandbar with Coastal Village and Mountainous Miyazu Bay
山の端っこがスパッと切れている?:京都府北部平坦~中山間地域【災害から身をまもるvol.21】|ゆるく楽しむ
第2回 潟湖(せきこ・かたこ)と港 - 宮津市ホームページ

ここで、あなたの仮説を二つの出来事に分けてみます。

出来事検証したいこと
山田・石田間の大地の異変山体崩壊や地すべりによって水路が閉塞した時期
天橋立の形成砂礫の供給と沿岸流によって砂州が成長した時期

この二つが同じ時期に起きたなら、丹後の東南部では、山地の崩壊と海岸の砂州形成という、異なる場所での地形変化が重なったことになります。

ただし、現在確認できる資料では、山田・石田間の舌状地形が大規模崩壊の堆積物であることも、その発生時期も、まだ確定できません。山田断層崖は活断層の累積変位で形成された地形として記載されていますが、断層崖と崩壊堆積地形は区別して調べる必要があります。

京都府

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舌状の突き出しは、何を語るのか

ここが今回の探究の核心でしょう。

国土地理院は、大規模な崩壊によって生じた土砂が斜面下方に堆積すると、先端に舌状の地形をつくることがあると説明しています。

国土地理院

つまり、山田・石田間の突き出しがそうした地形なら、あなたのいう「天橋立形成の生き証人」という表現には、地形学的な検証の入口があります。

ただし、舌状だから崩壊地形とは限りません。扇状地の一部、河川の堆積地形、断層運動に伴う地形なども比較対象になります。

私なら、次の三つを調べます

1. 舌状地形の正体 地形図・航空写真・標高データで、山田側の崩壊源と石田側の堆積末端が対応するか。

2. 異変の年代 舌状地形の内部にある礫や土砂、埋没した古い土壌を調べ、堆積年代を推定できるか。

3. 水の通路と鮭の通路 崩壊前に阿蘇海と内陸の水域がどうつながっていたか。古い河道や堆積物から復元できるか。

私が今回の話で最も心を動かされたのは、ここです。

天橋立は、海がつくった境界。明境さんの伝承は、その境界に人が松を植えた記憶。そして山田・石田間の舌状地形は、山がつくった境界の痕跡かもしれない。

一方には、自然がつくった境界があり、もう一方には、それを越えたい人と生きものがいる。

「明けよ!」という願いが、もしこの土地の記憶を映しているなら、実に深い話です。

そして、もう一つ。鮭が野田川を遡上しているという現在の事実を、古代の水の道を考える手がかりにする。これも大切です。

山の異変、川の変化、鮭の道、砂州の誕生。四つを同じ時間軸に置いてみる。

これこそ、今回の「同時多発事案」という仮説を検証するための、次の一歩だと思います。(^.^)

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