◆1 ありがとう、時代をすすめます、その日本68カ国のイメージは大名には官位がつくように江戸時代にもひきつがれていきましたね、
そうですね!そこには、古代の「国」という地理的・行政的な枠組みが、江戸時代まで長く生き続けた姿が見えます。
ただし、少し整理すると、律令制の68か国と、江戸時代の大名の官位・国名は、つながりはあるものの、同じ制度がそのまま続いたわけではありません。
1. 江戸時代の大名に付いた「国名」
たとえば、
- 伊達政宗――陸奥守(むつのかみ)
- 細川忠興――越中守(えっちゅうのかみ)
- 島津家の当主――薩摩守(さつまのかみ)
- 前田家の当主――加賀守(かがのかみ)
といった具合に、国名に由来する官名が大名の称号として使われました。
これらは朝廷から授けられる官位・官職で、武家社会の格式や序列を示す役割も持っていました。
2. しかし、その国を実際に治めていたとは限らない
ここが面白いところです。
たとえば、ある大名が「○○守」と称していても、その国の領主だったとは限りません。
つまり、
- 国名:古代以来の地理的な区分
- 守(かみ)などの官名:朝廷から授けられる称号
- 藩:江戸時代の大名の領地・支配組織
この三つは、別々のものです。
江戸時代には、古代の国郡制が実際の地方行政の単位としてそのまま機能していたわけではありません。大名の領地は国境をまたぐこともありました。
3. 古代の国名は、江戸時代にも「共通の地図」だった
それでも、陸奥・出羽・丹後・但馬・播磨・備前といった国名は、人々の地理感覚や歴史認識の中に残りました。
大名の官名にも、相撲の四股名にも、文学や紀行文にも登場します。
古代の国名 → 中世の守護国 → 江戸時代の官名・地理認識
こうして見ると、律令国家が整えた「日本を国々に分けて把握する」という枠組みは、行政制度としての役割を変えながら、長く日本人の頭の中に残ったのですね。
そして、ここから丹後に戻ると、面白い問いが出てきます。
丹後国風土記が記録した「丹後」という地域の記憶は、国司の報告書から、守護大名の時代、そして江戸時代の宮津藩・田辺藩の時代へ、どのように受け継がれていったのか。
国名は残っても、支配する人も、行政の仕組みも変わる。その一方で、土地の伝承や神社、地名は生き続ける。
この「変わるもの」と「残るもの」を追うと、丹後の歴史が立体的に見えてきそうです。(^.^)
◆2 知りたいのは、徳川が実権を握った江戸時代、このときもやはり、和銅6年(713年)5月2日、『続日本紀』に、諸国への命令が記されています。大きく分けると、次の五項目です。
- 郡郷名に好字(縁起のよい漢字)を付ける。
- 銀・銅・顔料・草木・鳥獣・魚・虫など、産物を詳しく記録する。
- 土地の肥沃度を記す。
- 山・川・原野などの名称の由来を記す。
- 古老が伝える昔の話や珍しい出来事を記録し、報告する。
この命令が風土記編纂の出発点です。このようなことをおこなっていただろうと言うことです、その推定で質問です、江戸徳川幕府にあって、その仕事をしていた組織を特定、解説ください
ああ、今度こそ質問の核心が分かりました。
つまり、**江戸幕府も、奈良時代の風土記編纂と同じように、全国の土地・産物・地名・歴史・伝承を調査し、中央で取りまとめる仕事をしていたはずだ。その担当組織はどこか?**ということですね。
調べると、実は江戸時代後期に、かなり明確な答えがあります。
組織を特定
昌平坂学問所の「地誌調所」および、その後の地誌編纂を担った史局・地誌調所系統の組織です。
1. 江戸幕府の「風土記編纂事業」
文化7年(1810)――幕府が全国地誌の編纂を企画
江戸幕府は、大学頭・林述斎の建議を受けて、昌平坂学問所に史局を設け、幕府直轄の地誌編纂事業を開始しました。
東京大学史料編纂所の解説によれば、この事業では地誌・紀行・地図など約2,000点を収集し、各地の情報を調べて地誌を編纂しました。
東京大学史料編纂所
+1
中心人物は次の人々です。
林述斎(1768–1841)
大学頭。全国地誌編纂を幕府に建議し、事業を総裁として推進しました。
間宮士信
幕臣で、実際の編纂を取りまとめる総裁を務めました。各地の資料を集め、調査・編集を進めました。
2. 何を作ったのか
代表的な成果が『新編武蔵国風土記稿』です。
文政11年(1828)ごろに完成し、天保年間に幕府へ献上されました。武蔵国の村々を訪ね、村の歴史、寺社、名所旧跡、旧家などを調査してまとめています。
神奈川県立図書館
+1
これは、まさに奈良時代の風土記を意識した近世版の地誌編纂です。
さらに『御府内備考』『新編相模国風土記稿』なども編纂されました。
東京大学史料編纂所
3. ただし、江戸幕府の全国調査には二つの系統がありました
ここは区別しておきたいところです。
| 事業 | 主な担当・仕組み | 調査したもの |
|---|---|---|
| 国絵図・郷帳の作成 | 幕府の命令、勘定所など | 国境、村名、街道、河川、石高、領地 |
| 官撰地誌の編纂 | 昌平坂学問所・地誌調所 | 地名由来、歴史、寺社、名所、旧跡、伝承 |
国絵図・郷帳は、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で作成されました。これは幕府が全国の領地や石高を把握するための事業です。
レファレンス協同データベース
+1
一方、地誌編纂は、地域の歴史や文化を記録する事業でした。
奈良時代の風土記に、より直接的に対応するのは、後者の昌平坂学問所の地誌編纂です。
4. では、丹後国の江戸時代版風土記は?
ここが次の面白い調査になります。
江戸時代の丹後には宮津藩・田辺藩など複数の領主が存在し、国全体を一つの藩が治めていたわけではありません。
そのため、幕府が全国地誌を編纂する際、丹後の情報をどのように集めたのか。各藩や村から書上げを提出させたのか、幕府側の調査員が現地を訪れたのか。ここを確かめたいところです。
今回の調査で分かったことを一言でまとめます。
奈良時代には国司が風土記を編纂し、江戸時代後期には幕府の昌平坂学問所が官撰地誌を編纂した。
そして、安田さんが追いかけている天橋立・羽衣・浦島の伝承は、この二つの時代の記録を比較することで、どのように受け継がれ、書き換えられ、あるいは忘れられたのかを探れるわけです。
次は、江戸時代に丹後を対象とした官撰地誌が実際に作られたのか、そして浦島・羽衣・天橋立伝承がそこにどう記録されているかを調べるのがよいと思います。
◆3 ありがとう、林春斎さんの、奇観、という発想、三処という選考も、行われたのはここで、理解出来る様ですね
そうですね。かなり筋の通った理解になってきましたね。(^.^)
ただ、年代を一つ整理しておきましょう。
林春斎(林鵞峰)が『日本国事跡考』で「三処奇観」を記したのは、寛永20年(1643)です。 一方、昌平坂学問所の全国地誌編纂事業は文化7年(1810)に始まります。したがって、春斎が昌平坂学問所で三景を選んだ、ということではありません。
むしろ、こう捉えると面白いです。
- 林春斎の時代:儒学者・林家の知識人が、各地の地誌や名所情報を踏まえて、日本の景観を比較し、「三処奇観」という評価を示した。
- 江戸後期の幕府:昌平坂学問所などが、全国の地誌・歴史・名所・旧跡を組織的に収集・編纂した。
つまり、春斎の「三処奇観」は、江戸時代の知識人が全国の土地を比較し、価値づける文化の中に位置づけられます。後の幕府地誌編纂は、そのような全国的な知識の蓄積を、より制度的に進めた時代の仕事と見ることができます。
ここに、安田さんの問いが生きてきます
春斎は、なぜ数ある名所から松島・天橋立・厳島を選び、「三処」としたのか。
その選択基準を考えるには、
- それぞれの土地について、当時どのような地誌・紀行・詩歌が流通していたか。
- 春斎自身がどの資料に接していたか。
- 「奇観」という言葉に、どのような景観美の基準を込めたか。
- なぜ三つだったのか。ほかの名所はなぜ選ばれなかったのか。
を追う必要があります。
そして、今回の「月と水」の仮説もここに入ってきます。
春斎は、名所の知識を集めただけでなく、異なる土地に共通する何かを見つけて、三つを一組の景観として提示したのではないか。
その「共通する何か」が、月と水の織りなす夜の景観だったのかどうか。ここはまだ仮説ですが、調べる価値があります。
私は、春斎を「日本三景の命名者」としてだけでなく、日本の景観を比較し、共通の美を発見しようとした知識人として読み直すと、探究が一段深くなると思います。










