宮津エコツアー · 春斎さん、芭蕉さん、益軒さん、三処奇観を巡って三つ巴  天の橋立を世界遺産に 267

春斎さん、芭蕉さん、益軒さん、三処奇観を巡って三つ巴  天の橋立を世界遺産に 267

◆1 ありがとう、、雨曇りも、満ち欠けもあるそのなかで月夜、名月、に出会うのは稀なこと、ゆえに、厳島も天の橋立も松島も稀な景観、つまり奇観だった、それゆえ、芭蕉さんはどうしてもその一瞬の奇観を見たいと旅を試みた!!

ああ、これは面白いところに来ましたね!!(^.^)

おっしゃる仮説を、少し言葉にしてみると、こうでしょうか。

日本三景は、いつでも見られる景色ではない。自然の条件と人の時間が重なったときにだけ姿を現す「稀な景観」だったのではないか。

月は毎晩出ているわけではありません。雨や曇りで隠れることもある。満ち欠けもする。さらに、月が出ても、水面の波や潮、風、雲によって、その姿は刻々と変わります。

つまり、月夜の景観は、単に「月が見える」ということではない。

  • 月が現れること
  • 月光が海や水面に映ること
  • 島々や松並木、砂州がその光を受けること
  • それを人が、その時、その場所で目にすること

これらが重なって初めて生まれる景色です。

だから「奇観」という言葉を、珍しい形の地形という意味だけでなく、めったに出会えない、自然が一瞬だけ見せる景観という意味から読み直せるかもしれません。

そして芭蕉です。

『奥の細道』には、松島について、

松島の月まず心にかかりて

とあります。さらに松島で、

月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。

と記しています。

ここは重要ですね。芭蕉は、昼の松島を見ただけではなく、月が海に映ることで景色が一変することを意識していた。少なくとも、月の松島を強く心に描いて旅をしたことは、本文から読み取れます。

ただし、ひとつだけ慎重にしておきたい点があります。芭蕉が実際に松島で望んだ月夜の絶景に出会えたか、そして天橋立や厳島についても同じ動機で旅をしたかは、別々に確かめる必要があります。

それでも、安田さんの仮説には大きな可能性があります。

「日本三景とは、地形の珍しさだけでなく、自然がまれに見せる一瞬の美を、人が待ち望み、訪ねていく場所だったのではないか」

この視点に立つと、芭蕉の旅は名所巡りではなく、景色との出会いを待つ旅にも見えてきます。

そして、もう一つ問いが生まれます。

三景のうち、月が海に映る松島、月が与謝の海と阿蘇海を照らす天橋立、潮の満ち引きによって海上に立つように見える厳島――それぞれ、月と水がつくる「奇観」の姿は違っていたのではないでしょうか。

三景を「月と水」で比べる。これは、昼の絶景写真だけでは見えてこない日本三景論になりそうです。

日本三景の月夜に結びつけて、日本旅行プランも検討しやすいです

さて、そこが貝原益軒さんの芭蕉さんとは違うところ、同じ旅の人であっても、旅の日程に合わせて月が出るというものでもない、月の出る日を想定した旅をくんだということでもない、芭蕉さんは自由に歩いた、益軒さんの旅は、まず予定が先の旅、、!!

なるほど!! そこは、二人の旅を分ける大事な視点ですね。

芭蕉は、旅のなかで景色との出会いを求めた人。益軒は、あらかじめ組まれた旅程のなかで景色を見た人。

もちろん、芭蕉にも日程や同行者、宿泊地などの制約はありましたし、益軒も予定どおりに進まない旅をしたでしょう。ですから「自由な芭蕉、予定に縛られた益軒」と単純には分けられません。

けれど、旅の性格には違いがあります。

  • 芭蕉の旅――月や風景との出会いを心に抱き、移ろう自然のなかへ身を置く旅。
  • 益軒の旅――目的地や行程を定め、その土地の名所・地形・歴史を実際に見聞して記録する旅。

ここで、月の問題が効いてきますね。

月夜や名月に出会うには、旅程を月の暦に合わせる必要がある。しかし、芭蕉の旅も、必ずしも月の出る日を狙った旅だったとは限りません。むしろ、月を心に描きながら旅をし、現地でその景観に出会えるかどうかは自然に委ねていた、と考える余地があります。

一方、益軒の『己巳紀行』は、成相寺への道から天橋立と二つの海を眺め、その景観を記録しています。そこに月夜を待つ旅の痕跡があるわけではありません。

ここから、もう一つ面白い対比ができます。

益軒は、場所を訪ねて景観を記録した。芭蕉は、景観が現れる時を心に描いて旅した。

そして、安田さんの問いは、さらに先へ進みます。

日本三景を選んだ春斎は、何を見て「奇観」としたのか。昼の地形や眺望だけなのか、それとも、月と水が出会う、いつ現れるとも知れない景観まで想像していたのか。

春斎自身が月夜を選定理由にしたという証拠は、まだありません。しかし、そこを確かめたいですね。

◆2 旅人が芭蕉さんでなく益軒さんであったことが天の橋立にとって、幸いした、、ワオーどうだ、みてみろよ、虹がかかってるぞ!!素晴らしい、月夜ではないのが残念だがが昼もいい、春斎殿は三処奇観となさったが、わしは、三景としよう!!そのひらめきが、今に至っている!!こう見立てました!(^.^)

はははは!! これは、なかなか魅力的な「歴史の一場面」ですね!(^.^)

安田さんの見立てでは、こういう筋書きですね。

林春斎は、松島・天橋立・厳島を「三処奇観」として並べた。そこへ貝原益軒が天橋立を訪れる。予定された旅の途中、成相寺への坂道から、天橋立と与謝の海、阿蘇の海を一望する。

そして、思わず声が出る。

ワオー、どうだ、見てみろよ! 虹がかかっているぞ! 素晴らしい。月夜ではないのが残念だが、昼もいい! 春斎殿は「三処奇観」となさったが、わしなら「三景」と呼びたい!

もちろん、これは史料に残る益軒の発言ではなく、安田さんの創作的な見立てです。

ただ、ここには史実と想像をつなぐ面白い接点があります。

益軒の『己巳紀行』には、実際に成相寺への坂道から天橋立、文殊、与謝の海、阿蘇の海を眺め、その景観を「言語ヲ絶ス」と記しています。そして「日本の三景の一とするも宜也」と述べています。

ただし、重要なところを一つ押さえましょう。益軒が「三景」という呼び方を発明した、とまでは言えません。春斎の「三処奇観」と益軒の「日本の三景の一」という表現の関係、また「日本三景」という呼称がいつ定着したかは、別に追う必要があります。

それでも、安田さんの見立ての核心は生きています。

春斎が三つの景観を並べ、益軒が天橋立を実際に歩いて、その景観を言葉にした。

そして、ここで昼と夜がつながる。

月夜の神秘を求める心もあれば、昼の眺望に思わず声を上げる心もある。天橋立は、その両方を受け止める景観だったのかもしれません。

私はこの一文が気に入りました。

「月夜を待つまでもない。天橋立は、昼にも人を驚かせる。」

ただし、月夜を諦めた昼の景色ではありません。昼と夜、それぞれに異なる奇観がある――ここまで広げると、日本三景の読み直しが一段深くなりますね。

◆3 三処奇観と日本三景、この二つの関係の有機性を探ったら、こうなったのです、よ!

ああ、そういうことでしたか!(^.^)

単に「月夜の日本三景」を考えていたのではなく、春斎の「三処奇観」と益軒の「日本の三景」を結び、その間にある有機的なつながりを探っていたのですね。

そして、見えてきた筋道はこうです。

  1. 林春斎が、松島・天橋立・厳島を「三処奇観」として並べた。
  2. 貝原益軒が天橋立を訪れ、実景を前に「日本の三景の一とするも宜也」と記した。
  3. その言葉によって、三つの場所を「奇観」として捉える見方に、実際に訪ねて眺める人の実感が重なった。

ここで大切なのは、春斎から益軒へ直接の影響があったと決めつけないこと。二人の記述の間に、どんな言葉の受け渡しや共通の景観認識があったのかを探ることですね。

そして安田さんの仮説は、さらに一歩踏み込んでいる。

「奇観」が、実際に旅人の目に触れ、感動を呼び、「三景」という呼び方へと結びついていったのではないか。

これは、単語の由来探しではなく、景観の評価が人から人へ、文章から旅へ、そして後世へと受け渡される過程を探ることです。

いやあ、天橋立を眺めていたつもりが、いつの間にか江戸時代の知の交流まで見えてきましたね。まさに「掘る・繋ぐ・問い返す」です!

◆4 さて、奇から、景へ、そして「世界遺産」、そこにつなげられるか、、春斎さん、芭蕉さん、益軒さんが見てらっしゃいますね!!

おおお!! そこへつなぎますか!!(^.^)

私は、つなげられると思います。ただし、三つの言葉を同じ意味として扱わず、人間が景観の価値を見いだし、それを次の時代へ伝えてきた歩みとしてつなぐのがよさそうです。

「奇」から「景」へ、そして「世界遺産」へ。

– 奇――林春斎 松島・天橋立・厳島を「三処奇観」と捉えた。自然が生み出した、ほかに類を見ない驚きに価値を見いだした。

– 景――貝原益軒 天橋立に実際に立ち、二つの海や砂州が織りなす眺めを「日本の三景の一とするも宜也」と記した。奇なるものが、人の目に映る具体的な景観として語られた。

– 旅と心――松尾芭蕉 松島の月を心にかけ、旅に出た。景観は目で見るだけのものではなく、訪ねたい、出会いたいと人の心を動かすものでもあった。

– 世界遺産――現代の私たち では、その景観の何が、なぜ世界にとって大切なのか。地形や自然の成り立ち、そこに暮らしてきた人々の営み、文化や信仰との関係を、根拠をもって説明する段階に来ている。

Kasamatsu Park
來趟跟別人不一樣的行程!日本三景的宮城縣松島一日遊
日本海中鸟居:蔚蓝大海与朱红鸟居的绝美邂逅_ja_https_神明

ここで、私は一つ大事なことを付け加えたい。

世界遺産は、単に「珍しい景色」を登録する制度ではありません。自然遺産なら自然の価値、文化遺産なら人類の歴史や文化における顕著な普遍的価値を、証拠と比較によって説明する必要があります。

だから、春斎・芭蕉・益軒の三人は、世界遺産の価値を証明してくれる人ではありません。しかし、彼らの記録は、日本人がいつ、何に驚き、何を美しいと感じ、なぜそこへ旅したのかを考える手がかりになります。

そして、天橋立については、もう一段深く掘れます。

砂州だけを見るのではなく、山、川、阿蘇海、与謝の海、松並木、そして人々の暮らしまでを一つの景観として読む。

つまり、

春斎は「奇」を見いだした。 益軒は「景」を記した。 芭蕉は「景に出会う心」を旅にした。 そして私たちは、その価値を世界に説明する。

この流れなら、世界遺産運動を単なる登録運動に終わらせず、天橋立を読み直す運動にできますね。

最後に、安田さんの言葉として、こんな一文を置いてみたい。

「奇を見いだし、景を愛で、価値を世界に問う。天橋立の物語は、まだ続いている。」

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