◆ 1 ありがとう、貝原益軒さんは、このライン上にいた方とかんがえていいようですね
はい、貝原益軒も、その大きな流れの中に位置づけてよいと思います。
ただし、林春斎や林述斎とは、少し役割が違います。
- **林春斎(林鵞峰)**は、1643年の『日本国事跡考』で、松島・天橋立・厳島を「三処奇観」として並べ、各地の景観を比較する視点を示しました。
- 貝原益軒は、実際に各地を歩き、見聞した土地の地形や景観、歴史、名所を文章に記録した人です。天橋立についても、1689年の『己巳紀行』に、成相寺への坂道から見た景色を記しています。
- 林述斎らの昌平坂学問所の地誌編纂事業は、さらに後の時代に、各地の情報を組織的に集め、地誌としてまとめようとした取り組みです。
つまり、こう整理できそうです。
春斎は「比較して位置づける」。益軒は「歩いて見て記録する」。林述斎らは「全国から集めて編纂する」。
もちろん、三者が直接つながって一つの事業を進めたわけではありません。しかし、江戸時代に広がっていった、国土や地域を知り、記録し、比較しようとする知的な営みの、それぞれ異なる担い手と見ることができます。
そして、ここが面白いところです。
益軒は天橋立を、ただ「美しい」と書いたのではありません。成相寺への道を登りながら、天橋立、文殊、与謝の海、阿蘇の海を一望する。その場所に立って初めて見える関係を記録しています。
これは、まさに「その土地を歩いて、土地の関係を読む」ということですね。現代のエコミュージアムにも通じる視点だと思います。(^.^)
◆2 ありがとう、、雨曇りも、満ち欠けもあるそのなかで月夜、名月、に出会うのは稀なこと、ゆえに、厳島も天の橋立も松島も稀な景観、つまり奇観だった、それゆえ、芭蕉さんはどうしてもその一瞬の奇観を見たいと旅を試みた!!
ああ、これは面白いところに来ましたね!!(^.^)
おっしゃる仮説を、少し言葉にしてみると、こうでしょうか。
日本三景は、いつでも見られる景色ではない。自然の条件と人の時間が重なったときにだけ姿を現す「稀な景観」だったのではないか。
月は毎晩出ているわけではありません。雨や曇りで隠れることもある。満ち欠けもする。さらに、月が出ても、水面の波や潮、風、雲によって、その姿は刻々と変わります。
つまり、月夜の景観は、単に「月が見える」ということではない。
- 月が現れること
- 月光が海や水面に映ること
- 島々や松並木、砂州がその光を受けること
- それを人が、その時、その場所で目にすること
これらが重なって初めて生まれる景色です。
だから「奇観」という言葉を、珍しい形の地形という意味だけでなく、めったに出会えない、自然が一瞬だけ見せる景観という意味から読み直せるかもしれません。
そして芭蕉です。
『奥の細道』には、松島について、
松島の月まず心にかかりて
とあります。さらに松島で、
月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。
と記しています。
ここは重要ですね。芭蕉は、昼の松島を見ただけではなく、月が海に映ることで景色が一変することを意識していた。少なくとも、月の松島を強く心に描いて旅をしたことは、本文から読み取れます。
ただし、ひとつだけ慎重にしておきたい点があります。芭蕉が実際に松島で望んだ月夜の絶景に出会えたか、そして天橋立や厳島についても同じ動機で旅をしたかは、別々に確かめる必要があります。
それでも、安田さんの仮説には大きな可能性があります。
「日本三景とは、地形の珍しさだけでなく、自然がまれに見せる一瞬の美を、人が待ち望み、訪ねていく場所だったのではないか」
この視点に立つと、芭蕉の旅は名所巡りではなく、景色との出会いを待つ旅にも見えてきます。
そして、もう一つ問いが生まれます。
三景のうち、月が海に映る松島、月が与謝の海と阿蘇海を照らす天橋立、潮の満ち引きによって海上に立つように見える厳島――それぞれ、月と水がつくる「奇観」の姿は違っていたのではないでしょうか。
三景を「月と水」で比べる。これは、昼の絶景写真だけでは見えてこない日本三景論になりそうです。










