宮津エコツアー · 日置に、あの弥助が来た!!弥助山とは何なのか?。

日置に、あの弥助が来た!!弥助山とは何なのか?。

◆1 ありがとう、、さて、日置と世屋と波見の間の小高い山を、弥助山(184m)、、面白い名ですね、そもそも弥助さんをリサーチ下さい

いやあ、「弥助山」――漢字を眺めているだけでも、何か人の気配がしますね。

「弥助」という人がいたのか。それとも、別の意味を持つ古い地名なのか。調べてみました。

結論から言うと、現時点では、弥助山の名の由来となった「弥助さん」を特定できる史料は見つかっていません。 ただし、調べていて興味深い手掛かりが出てきました。

1 まず、弥助山という名前はどこに現れるか

国土地理院の活断層図に、なんと「弥助山西(やすけやまにし)断層」という名称が登場します。

  • 宮津市奥波見から日置付近まで。
  • 南北方向に約3km。
  • 全体的に西側隆起、東落ちの変位を伴う。

つまり、弥助山という地名は、地質・地形を調べる専門家にも認識されている名称なのです。

国土地理院

宮津で美しい星空を見上げよう【丹後 海と星の見える丘公園】 - 宮津市ホームページ

ここで面白いのは、山の名前が断層の名前にまで使われていること。弥助山は、単なる小さな通称ではなく、地形を識別する目印になっているようです。

2 「弥助」という人物はいたのか

今回調べた宮津市の歴史資料では、日置・波見周辺に関係する歴史上の人物や地名は確認できました。

例えば、波見川流域は鎌倉時代に「波見保」として史料に現れ、1278年には地頭が置かれています。室町時代の記録にも波見の集落名が出てきます。

宮津市ホームページ

また、日置には中世の山城があり、『丹後国御檀家帳』には「日置殿の御城山」という記載があります。日置氏や杉左馬亮など、地域の歴史に関わる人物も伝えられています。

宮津市ホームページ

しかし、これらの資料から弥助という人物と弥助山を結びつけることは、まだできません。

3 私が考える三つの可能性

ここからは仮説です。

① 弥助という人物に由来する山

山林の所有者、開拓者、山仕事の担い手、あるいは山城に関係した人物など。地元の人名が山名になった可能性です。

② 弥助という呼び名が、人物名以外から生まれた

古い地名は、後世の人が漢字を当てたものもあります。「弥助」という字面から、すぐに実在人物を想定するのは危険です。古地図や小字名の表記変遷を調べる必要があります。

③ 地域の伝承に残る人物名

公的な歴史資料には出てこなくても、山仕事、漁業、山林境界、寺社などに結びついた伝承が残っている可能性があります。

この三つのうち、どれが正しいかはまだ判断できません。

4 ここで、ぜひ掘りたい資料がある

私なら次の三つを優先します。

  • 旧版地形図:弥助山の名前がいつ頃から地図に載るのか。
  • 土地台帳・旧土地台帳附属地図:山の地番や旧所有者、字名の変遷。
  • 日置・波見の古老の聞き取り:「弥助山」という呼び名の由来を、地元ではどう伝えているか。

とりわけ、旧版地形図での初出時期は重要です。近代以降の地図に初めて現れた名前なのか、それ以前から土地の呼び名として定着していたのかで、調べ方が変わります。

5 そして、もう一つ気になること

弥助山の西側には「弥助山西断層」がある。

日置から奥波見へ延びる断層と、宮津湾へ突き出す山麓、丘と谷が繰り返す海岸地形。

ここには、地名・地質・土地利用が重なっています。

私は、弥助山を調べるとき、名前の由来だけを切り離さない方がいいと思います。

弥助山という名前が残った土地には、どんな人々の営みがあったのか。

これが本当の問いでしょう。

一つ、教えていただきたいことがあります。

地元では「弥助山」は、昔からそう呼ばれていた山ですか。それとも、比較的新しい時代から使われるようになった名前でしょうか。

この感触が分かると、弥助さん探しの方向がずいぶん絞れます。(^.^)

◆2 中世以降、つまり信長丹後侵攻のころ、歴史的著名人で弥助、、こう呼ばれる方は?

あっ! その時代に絞ると、非常に有名な人物がいます。

織田信長に仕えた「弥助(弥介)」です。あのアフリカ出身の人物です。

しかも、信長の丹後侵攻と時代が近い。これは面白い接点です。

1 信長の弥助とは

asuke: The African Samurai of Japan | Darren Palmer — Darren Palmer – Author of History Waits to Be Heard

弥助(弥介)

  • 1579年ごろ来日したとされる。
  • 1581年、宣教師らに伴われて信長に謁見。
  • 信長から「弥助」と名を与えられ、扶持や住居などを与えられた記録がある。
  • 1582年、本能寺の変の際にも記録に登場する。

特に重要なのは、同時代の史料に名前が残っていることです。

『信長公記』の尊経閣文庫本には、

名をハ号弥助と

と記されています。また、徳川家臣・松平家忠の『家忠日記』には「名ハ弥介ト云」とあります。

日本関係欧文史料の世界

+1

2 丹後侵攻との時間関係

ここが気になりますね。

年出来事
1578~1580年ごろ信長政権下で明智光秀・細川藤孝らによる丹後攻略が進む
1579年ごろ弥助が来日したとされる
1581年弥助、信長に仕える
1582年本能寺の変

つまり、丹後が織田政権の支配下に組み込まれていく時期と、弥助が日本で活動し始めた時期は重なっています。

ただし、弥助が丹後に来た、あるいは丹後攻略に関わったという史料は、今回確認できていません。そこは分けておきましょう。

3 では、弥助山との関係は?

ここからが本題です。

私は、今回の発見を二つに分けて考えたいです。

  • 歴史上の弥助:信長に仕えた実在人物。丹後攻略と同時代に生きた。
  • 弥助山の弥助:山名の由来となった人物がいるのか、まだ分からない。

同じ時代に「弥助」という名の人物がいたからといって、山名と結びつけることはできません。

ただ、信長の丹後侵攻以後、日置・波見周辺の土地支配や山林利用がどう変わったかを調べる際に、「弥助」という人名が出てこないか、探す価値はあります。

4 私から一つ、調査の方向を提案

「弥助」だけでなく、古文書では次の表記も探したいです。

  • 弥助
  • 弥介
  • 彌助
  • 彌介
  • 矢助
  • 安助

とくに、日置氏、波見周辺の中世領主、細川藤孝・忠興の丹後支配に関わる文書です。

ひょっとすると、弥助山の名は、信長の時代に始まったのではなく、それ以前からの土地の呼び名かもしれません。

ここを確かめたい。

信長の弥助は、歴史の表舞台に突然現れた人物です。一方、弥助山は、地図に名前を残しながら、その由来が分からない山。

この二つを混同せずに追いかける。これがSSH流ですね。(^.^)

◆3 ありがとう、、混同、、したいところですね 日置の庄は浦島を伝えると風土記が伝えるところですから(^.^)

はははは!! なるほど、そこでしたか!(^.^)

それなら、混同したくなるお気持ちは分かります。

日置の庄に浦島伝承がある。そこへ信長の時代の弥助という人物が重なる。そして、宮津湾に突き出す弥助山がある。

これは、単に山名の由来を調べる話から、丹後という土地が外の世界とどう接してきたか、という話に広がりますね。

ただ、ここで一つ、面白い問いを立ててみたい。

浦島は、海の彼方から帰ってきた人。弥助は、海の彼方から日本へやってきた人。

方向は正反対です。

  • 浦島伝承:丹後の海から異界へ、そして帰還する物語。
  • 弥助の歴史:アフリカからインド洋・アジアを経て、日本へ来た人物の実際の移動。
  • 弥助山:その名の由来が未解明の、丹後の地名。

もちろん、三者の歴史的なつながりは確認されていません。しかし、こうして並べると、日置という土地の見え方が変わります。

私は、日置の庄を「浦島伝説の土地」とだけ捉えるのは惜しいと思います。

丹後の海は、異界への入口であると同時に、外の世界から人や文化がやってくる入口でもあった。

弥助山の名の謎を解くことは、その海の交流史を掘り起こす入口になるかもしれません。

そして、もう一つ調べたいことがあります。

風土記逸文の浦島伝承と、日置の庄の範囲、さらに中世の日置氏・波見の土地支配。この三つを重ねることです。

弥助山がその境界や交通路に関わっていたなら、名前の由来を考える手掛かりが出てくるかもしれません。

浦島が伝わる土地に、弥助山がある。偶然かもしれない。しかし、問いを立てるには十分な取り合わせです。

こういうところが、丹後を掘る面白さですね!(^.^)

このページのトップへ