宮津エコツアー · それぞれの時代の人々が、その時代の条件の中で何を大切にし、何を守り、何と葛藤したのか、そこに眼をむけたい! 天の橋立を世界遺産に 237

それぞれの時代の人々が、その時代の条件の中で何を大切にし、何を守り、何と葛藤したのか、そこに眼をむけたい! 天の橋立を世界遺産に 237

◆1ずっしーん、、、『この風土論は、世界遺産の登録基準そのものではありません。登録を目指す場合には、天橋立やその周辺にどのような国際的価値があり、それを何によって証明できるかを別途示す必要があります。』、、、臼が頭からおちてきたみたい!!

はははは!!!!!(^.^)

ずっしーん、でしたか!!

でも、ここは大事なところです。私も、ちょっと臼を落とす役を引き受けましたね(笑)。

ただ、これは風土論を引っ込める話ではありません。むしろ、風土論と世界遺産論を、いったん別々に立ててみるということです。

私の考えはこうです。

第一に、風土論。

まず、風土ありき。そこに人が来た。

日本海、若狭湾、栗田半島、世屋高原、冠島、イサナゴ山。そうした自然の舞台に、人々がやって来て、暮らし、往来し、祈り、産業を営み、文化を育ててきた。

これは、丹後を読み解くための大きな物語です。

第二に、世界遺産論。

その物語の中から、世界の人々にとっても重要な価値を持つものは何か。それは、世界のどこにでもあるものではなく、なぜ天橋立でなければならないのか。そして、その価値を示す証拠は何か。

ここを厳密に立証する必要があります。

つまり、

  • 風土論は、何を見つめ、何を問い続けるか。
  • 世界遺産論は、何を価値として証明するか。

この二つは、重なり合うけれど、同じものではありません。

そして、もう一つ。

風土論は、世界遺産登録が実現しようとしまいと、残る。

ここが大きいと思うのです。

世界遺産登録のために丹後を語るのではない。丹後という風土を深く知り、その価値を世界に伝えたい。その中に、天橋立の世界遺産を目指す取り組みも位置づけられる。

これなら、登録運動の成否によって、丹後の価値が左右されることもありません。

いやあ、臼が落ちたのは痛かったでしょうが(笑)、これは悪い臼ではありません。

「世界遺産にするために、風土を読む」のではなく、「風土を読み解いた先に、世界遺産として証明すべき価値が見えてくる」

この順番、私は大切にしたいです。(^.^)

◆2 文化論を語る際、江戸と明治、ここの評価軸の異なる文化断層ですね、個人、人権、自由への道、これが形の上では開かれたのが明治、、それまではなにかしら超越する存在によってのきつい拘束があった、、土俵の異なる物を統一できるのかと悩みますね

これは、また大きな臼が来ましたねえ!!(^.^)

私は、その悩みはもっともだと思います。しかも、天橋立の文化を語るうえで、避けて通れない問題です。

おっしゃる「江戸と明治の文化断層」は、単に時代が変わったということではない。人間と社会を成り立たせる原理、価値を判断する物差しが変わったという問題ですね。

少し整理してみましょう。

1 江戸までの文化と、明治以降の文化

大づかみにいえば、こんな対比ができます。

江戸時代までの社会明治以降の社会
身分・家・村・共同体の秩序法の下の個人という原則
主君・家・村・宗教的権威への義務国家と法律、個人の権利
先祖・神仏・伝統による規範個人の意思・自由・権利の理念
共同体の中で位置づけられる人権利主体としての個人

ただし、ここには注意が要ります。

江戸時代にも個人の意思や自由はありましたし、明治になって人権や自由が一挙に実現したわけでもありません。明治国家は近代的な法制度を整える一方で、天皇制や国家への忠誠、家制度など、新たな拘束も強めました。

ですから、明治は「拘束から自由への解放」という単純な転換ではなく、拘束の根拠と、自由を語る言葉が組み替わった時代と見る方が正確でしょう。

2 では、異なる土俵の文化を統一できるのか

ここが本題ですね。

私は、無理に一つの評価軸に統一しない方がよいと思います。

例えば、江戸時代の天橋立を考えてみます。

  • 神仏の聖地としての天橋立
  • 文人墨客が訪れる名勝としての天橋立
  • 漁業者が生活の場として利用する天橋立
  • 村や地域が共同で守り、利用する天橋立

これらは同じ場所を見ていても、価値の置き方が違います。

そして明治以降になると、そこに新たな物差しが加わります。

  • 近代国家による土地・自然の管理
  • 近代観光による景勝地の評価
  • 公園制度による保護と利用
  • 個人の権利、所有権、公共性
  • 自然科学による地形・生態系の評価

つまり、古い物差しが消えて新しい物差しに置き換わったというより、同じ土地に、異なる価値の物差しが幾重にも重なってきたのではないでしょうか。

3 天橋立には、その断層が見える

思い出すのは、江戸時代の「橋立裁断」の問題です。

漁業者にとっては、魚の移動や漁業のために砂州を切ることが必要だった。一方、智恩寺などにとっては、聖地・名勝としての天橋立を維持することが重要だった。

ここには、すでに異なる価値観の衝突があります。

面白いのは、これを単純に「信仰対生活」として片づけられないことです。

漁業者もまた、土地と海の伝統的な秩序の中で生きていた。寺社側も地域社会から切り離された存在ではなかった。

そして明治以降、近代的な行政や土地制度、観光、自然保護という新しい価値判断が加わる。

この変化を追えば、天橋立は文化の断層を読み解く舞台にもなります。

4 私なら、統一ではなく「対話」を目指します

ここで、先ほどの風土論に戻ります。

風土は江戸時代にも明治時代にも、同じようにそこにありました。

しかし、人間はその風土を違う目で見て、違う言葉で語り、違う制度で扱うようになった。

だから、文化を語るときの問いは、こうなるのではないでしょうか。

「人々は、この風土とどのように関わり、その関わり方を時代とともにどう変えてきたのか」

これなら、江戸と明治を同じ物差しで測る必要はありません。

むしろ、物差しが変わったこと自体が、文化史の重要な対象になります。

そして、もう一つ、私が大切にしたいことがあります。

江戸時代の人々を、自由のない古い人間として見下ろさないこと。明治以降の人々を、近代的だから進歩したと決めつけないこと。

それぞれの時代の人々が、その時代の条件の中で何を大切にし、何を守り、何と葛藤したのか。

そこに目を向けたい。

風土は一つ。人間の価値観は変わる。文化とは、その両者が出会い続けた記録である。

これなら、江戸も明治も、さらに現代も、同じ物語の中に置けると思います。

いやあ、これは天橋立の世界遺産論にも、海星公園の次の20年にも通じる問いですね。(^.^)

◆3 つまり、様式美はある、その枠を越えようとするのが芸術文化としたら、たとえば雪舟さん以外に、、さて、浮かばないのですよ(^.^)

ははは!そこに雪舟さんが出てきましたか。(^.^)

これは面白い切り口です。

おっしゃることを私なりに受け取ると、こうですね。

様式美とは、ある時代や社会が共有してきた「美しいものの型」。芸術文化とは、その型を受け継ぎながら、ときに型を越え、新しい見方や表現を切り開く営み。

そう考えると、雪舟は確かに重要な人物です。

雪舟はなぜ「画聖」となったのか  文化庁広報誌 ぶんかる

雪舟等楊

『天橋立図』は、単に名所を美しく描いた絵ではありません。実景を見つめながら、地形、集落、寺社、海、砂州を一つの画面に構成しています。現地の写生と絵画的構成がどう結びついたのか、そこに問いがあります。

ただ、丹後には雪舟以外にも、候補がいますよ。

雪舟のほかに、誰がいるか

六十余州名所図会・丹後 天の橋立 文化遺産オンライン

与謝蕪村

俳諧と絵画を横断した人。既存の絵画様式を学びながら、詩情と日常の感覚を新しい表現に結びつけました。丹後との関係も調べる価値があります。

動 植 絵(20)群 図 POSTER | Zazzle | Japanese art, Japan art, Chicken art

伊藤若冲

丹後の人物ではありませんが、自然を写すという既存の枠を越え、生命の細部を極端なまでに観察し、独自の色彩と構成で表現した人です。

円山応挙 革新者から巨匠へ in*三井記念美術館 - *サクライロレトロ*

円山応挙

写生を重視し、伝統的な絵画表現に新しい観察の方法を持ち込んだ人。自然をどう見るか、という点で風土論とも接点があります。

Arte in Giappone 1868 – 1945

岸竹堂

滋賀出身ですが、近代日本画の成立を考える候補です。伝統的な日本画の技法と、西洋的な写実・観察の影響が交差する時代を考える手がかりになります。

ただし、ここで私が少し立ち止まりたいのは、雪舟を「様式を越えた芸術家」とだけ捉えてよいのか、という点です。

雪舟は中国の水墨画を学び、その様式を深く身につけた人でもあります。型を知らずに型を破ったのではない。型を徹底して身につけたからこそ、自分の目で見た風景を、自分の画面に組み直せたとも言えます。

そして、ここから丹後に戻ります。

芸術家だけが様式を越えるのでしょうか。

例えば、丹後の織物、舟屋、棚田、祭礼、酒造り。そこにも、受け継がれた型を守る人と、型を変えながら新しい価値を生み出す人がいたはずです。

私は、次の問いが浮かびました。

天橋立を描いた人を探すだけでなく、天橋立を見て、感じて、表現せずにはいられなかった人々を探す。

それは画家だけでなく、歌人、俳人、職人、漁師、旅人にも広がります。

雪舟さんは、その入口に立つ人なのかもしれませんね。(^.^)

◆4 芸術家だけが様式を越えるのでしょうか。 例えば、丹後の織物、舟屋、棚田、祭礼、酒造り。そこにも、受け継がれた型を守る人と、型を変えながら新しい価値を生み出す人がいたはず、、、おおー眼から鱗!!

おおー!!!そこに鱗が落ちましたか!!(^.^)

実は、ここから話がぐっと面白くなります。

芸術文化を、美術館や画家の世界から、暮らしの現場へ連れ戻す。

これですね。

丹後で考えてみましょう。

  • 丹後ちりめん――受け継いだ織りの技術を守りながら、時代の需要に応じて素材や意匠、用途を変えてきた。
  • 伊根の舟屋――海と暮らすための建築の型を受け継ぎながら、漁業や生活の変化に応じて使い方を変えてきた。
  • 上世屋の棚田――土地の傾斜や水の流れに合わせて築かれた仕組みを、動く土地と付き合いながら手入れし、受け継いできた。
  • 祭礼――決まりや作法を守る一方、担い手や社会の変化に応じて継続の方法を工夫してきた。
  • 酒造り――水、米、気候、技術、味覚を受け継ぎながら、新しい酒や飲み方を生み出してきた。

ここで大切なのは、変化したから芸術的だ、ということではありません。

型を守ることにも創造性がある。型を変えることにも創造性がある。そして、何を残し、何を変えるかという判断そのものに、その土地の文化が表れる。

私は、こんな言葉にしてみたい。

文化とは、型を受け継ぐこと。そして、型を問い直すこと。

さらに、先ほどの風土論と結びつけると、

風土が人の営みを育てる。人の営みが様式を生む。その様式を受け継ぎ、問い直すことで、文化は生き続ける。

これなら、江戸と明治の断層も、伝統と革新の関係も、同じ視野に入ってきます。

そして、海星公園にも問いが返ってきますね。

20年間続けてきた公園の活動や運営の「型」を、これからも守るのか。何を受け継ぎ、何を変えるのか。

公園運営だって、文化をつくる営みなのです。

いやはや、雪舟さんから丹後ちりめん、舟屋、棚田、そして海星公園まで来ました。

芸術家を探していたら、丹後の暮らしそのものが芸術文化の担い手として見えてきた。

これは大きな展開です。(^.^)

◆5 この風土に根ざした諸文化の連続性、これなら、証明可能な手応えを感じますね

そうです!!! そこに、ひとつ確かな足場が見えてきた気がします。(^.^)

しかも、これは単に「丹後には古い文化が残っています」という話ではありません。

この風土の中で、人々が何を受け継ぎ、何を変え、どのように暮らしを組み立ててきたか。その連続性をたどる。

これなら、具体的な資料や現物によって検証できます。

例えば、次のような証拠です。

文化の領域何を調べるか
丹後ちりめん技術、織機、意匠、産地形成、流通の変化
伊根の舟屋建築形式、漁業、海との関係、用途の変化
上世屋の棚田地形、水利、農法、土地管理、共同作業
祭礼・信仰古文書、祭具、社寺、担い手、作法の変遷
酒造り水・米・気候、醸造技術、原料調達、商品開発
絵画・文学雪舟の絵図、和歌、俳諧、旅人の記録、風景観の変化

そして、ここが肝心です。

古いものが残っていることだけを連続性とは呼ばない。

形が変わっても、土地との関係や、人々が大切にしてきた知恵が受け継がれている。その一方で、断絶したもの、失われたもの、新しく生まれたものも調べる。

そうすれば、江戸と明治の文化断層も、連続性を壊すものではなく、文化が再編された歴史として読み解けます。

私は、研究の柱を次の一文に置きたいです。

「風土に根ざした人々の営みは、時代の変化に応じて姿を変えながら、どのように文化として受け継がれてきたのか。」

ただし、もう一段、世界遺産との関係を整理しておきましょう。

この連続性を証明できれば、丹後の文化的な厚みを説明する強い基盤になります。しかし、それ自体が天橋立の国際的価値の証明になるわけではありません。そこから、天橋立と周辺の文化との具体的な結びつき、さらに世界の他地域と比較した際の独自性を立証していく必要があります。

でも、これは大きな収穫です。

「天橋立は美しい」という説明から一歩進んで、

「この風土が、どのような人間の営みと文化を生み出し、今日まで何を伝えているのか」

を語れるようになる。

これなら、子どもたちにも、研究者にも、地域の人々にも、それぞれの入口ができますね。まさに「掘る・繋ぐ・問い返す」です。(^.^)

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