◆1 ありがとう、大和政権奈良王朝誕生とかけて春夏甲子園ととく!感想解説くださいな
おおっ、これはまた大きな取り合わせですね!(^.^)
「大和政権・奈良王朝の誕生」と「春夏甲子園」。一見、古代史と高校野球で、時空を超えた取り合わせです。
私なら、まずこう受け取ります。
どちらも、各地の力が集まり、一つの中心をつくる物語。
ただし、古代の政治的な統合と、野球の全国大会を同じものとして扱うわけにはいきません。そこに、もう一ひねりありそうです。
その心は……
「全国から集まった力を束ね、新しい時代の中心が生まれる!」
というところでしょうか。
ただ、歴史の側を少し整理すると、面白さが増します。
- ヤマト王権は、3世紀後半以降、奈良盆地を中心に有力豪族が結びついて形成されていった政治勢力です。最初から完成した中央政権があったわけではありません。
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- その後、政治制度が整えられ、710年には平城京に都が置かれます。これは王権の成立とは別の段階です。
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一方、甲子園も、各地の代表校が集まり、勝ち抜いた一校が頂点に立つ。
ただし、私がもう一つ面白いと思うのは、中央に集まる前の地方の力です。
ヤマト王権も、奈良盆地だけで誕生したわけではない。各地の豪族、海を越えた交流、渡来した人々の技術など、さまざまな力が結びついていった。
甲子園も、優勝校だけを見ていては面白さの半分。地方大会を勝ち抜くまでの地域の歴史や人々の営みがある。
そして、ここで丹後の出番です。
丹後は、ヤマトの中心から見れば周縁だったかもしれません。しかし、海を通じて大陸や各地とつながる場所でもあった。
中央の誕生を、周縁から眺め直す。
これは、天橋立から日本の古代史を考えるときにも、大事な視点だと思います。
さてさて……ひょっとして、安田さんの「その心は」は、私の想像とは別のところにありますかな?(^.^)
◆2 無理くり感は承知です、部族集団が、国家を形成する、それまでの離合集散駆け引き談合連動、その結果としての「丹後天の橋立」、、というラインがあるかなと考えたのです
あああ! なるほど。そういうことでしたか。(^.^)
それなら、無理くりどころか、かなり面白い歴史の見方です。私の先ほどの「全国から集まった力を束ねる」という解釈より、ずっと深いところに問いがありますね。
安田さんが考えておられるのは、こういう筋道でしょう。
部族的な集団の離合集散 → 交流・対立・婚姻・交易・談合 → 有力集団間の連合形成 → ヤマト王権の成立 → 古代国家の形成
そして、その大きな動きのなかに丹後、天橋立を位置づける。
ここで重要なのは、丹後を「大和政権に従属した地方」としてだけ見ないことです。
丹後は、国家形成の舞台の一つだったのではないか
丹後には、古墳時代前期から、巨大な墳墓を築いた有力者たちがいました。
例えば、
- 蛭子山古墳:丹後の有力勢力を考えるうえで重要な大型古墳。
- 銚子山古墳:日本海側でも屈指の規模を持つ前方後円墳。
- 神明山古墳:日本海を望む位置に築かれた大型古墳。
これらは、丹後に相当な政治的・経済的な力を持つ集団が存在したことを示す考古学的な手がかりです。
ただし、これらの勢力がヤマト王権の成立にどう関わったのか、具体的な談合や連合の過程までは、まだ証明されていません。
そして、天橋立をどう位置づけるか
ここが安田さんの発想の面白いところです。
天橋立を単なる自然景観として見るのではなく、
- 日本海と若狭湾を結ぶ海上交通
- 丹後半島と内陸を結ぶ陸路・河川
- 阿蘇海・宮津湾をめぐる漁業や生産
- 古墳に示される有力集団の存在
- 神社・祭祀・伝承に残る人々の交流
こうした関係が交わる場所として見る。
つまり、天橋立を「国家形成の時代に、さまざまな人々や勢力が行き交った風土の舞台」として考えてみるわけです。
ただし、天橋立が当時すでに現在の形で存在していたこと、あるいは政治的な会合の場所だったことは、別途検証が必要です。
私なら、こういう問いを立てます
「大和に国家が生まれるまで、日本海沿岸の丹後は、どのような人々と勢力の結び目だったのか」
そして、その結び目を読み解くために、天橋立を含む丹後の風土を調べる。
これなら、世界遺産登録のために歴史を組み立てるのではなく、丹後の歴史そのものを掘り起こすことになります。
春夏甲子園との取り合わせも、ここで生きてきますね。
甲子園の優勝校だけを見ても、その背後にある地方の力は見えない。大和の国家形成だけを見ても、その背後にあった各地の勢力の動きは見えにくい。
奈良盆地に王権が生まれた。そのとき、丹後では何が起きていたのか。
この問いは、なかなかいいですよ。
そして、ひとつだけ申し上げたい。
「丹後天の橋立」は、国家形成の結果として生まれたのではなく、国家形成以前からの人々の営みを受け止め、その後も時代ごとの関係を積み重ねてきた場所、と考える方が歴史的には豊かだと思います。(^.^)
◆3 大和政権奈良王朝のもと、全国に国は幾つ配置されていましたっけ(^.^)
(^.^) ここは、全国68か国と覚えておくとよいです!
奈良時代から平安時代にかけて整えられた律令制の地方行政区分では、全国を原則として 五畿七道・68か国に編成しました。
五畿七道
+2
5 + 7 + 68
五畿:都の周辺の5か国
七道:地方を結ぶ7つの広域区分
68か国:その下に置かれた国々
七道は次のとおりです。
- 東海道
- 東山道
- 北陸道
- 山陰道
- 山陽道
- 南海道
- 西海道
そして、ここで丹後が登場します。
丹後国は、713年(和銅6年)に丹波国から分置され、山陰道に属しました。
建設技術者のための情報発信サイト ConCom
+1
つまり、丹後という行政区画は、最初からあったわけではありません。
ここが、先ほどの安田さんの問題意識とつながります。
ただし、注意したいのは、68か国という制度が、ヤマト王権誕生の時点で一斉に配置されたわけではないこと。これは長い国家形成の過程を経て整えられた制度です。
私はむしろ、次の問いが面白いと思います。
丹後国が713年に設置される以前、この地域にはどのような人々のまとまりがあり、どのような力関係が存在していたのか。
国という行政区画ができる前に、土地があり、人々がいて、交流があり、勢力のせめぎ合いがあった。
その歴史を掘っていくと、「丹後天の橋立」の見え方も変わってきそうです。(^.^)
◆4 5 + 7 + 68
五畿:都の周辺の5か国
七道:地方を結ぶ7つの広域区分
68か国:その下に置かれた国々、、すごいですね、、で、人口推定は!!
いやあ、これは驚きますよ!(^.^)
奈良時代、8世紀の日本列島の人口は、一般に 約600万~700万人 と推定されています。
ただし、研究によっては約450万~500万人という推計もあります。人口調査の完全な集計結果が残っているわけではないので、幅を持って見る必要があります。
レファレンス協同データベース
+3
奈良時代の人口はどれくらい?
8世紀・全国人口の代表的な推計
600万~700万人
別の推計では約450万~500万人
平城京の人口
約7万~20万人
推計方法によって大きな違いがあります。
コトバンク
+1
ここで面白いのは、人口の把握方法です
律令国家は、戸籍をつくり、土地を班給し、税や労役を負担させる仕組みを整えました。
つまり、国家が全国の人々を把握しようとしたのです。
しかし、戸籍に記された人数と、実際にその土地で暮らしていた人数が完全に一致するとは限りません。戸籍の欠落や、国家の支配が及びにくい人々も考慮する必要があります。
IPSS
+1
では、丹後は?
ここからが、私たちの探究の本番です。
奈良時代の全国人口が仮に650万人だったとしても、丹後国に何人暮らしていたかは、単純に68で割っても出せません。
国ごとに面積も、耕地の広さも、人口密度も違います。
そこで調べたいのは、
- 丹後国の郡はいくつあったか
- 各郡の郷・里はいくつあったか
- 戸籍・計帳・正税帳などは残っているか
- 古墳の分布や規模から、古墳時代の人口・勢力をどう考えられるか
ということです。
そして、私が特に気になるのは、古墳時代の丹後と、713年に丹後国が成立した後の丹後との関係です。
古代の国家は、何もないところに国を置いたのではありません。すでにそこに暮らしていた人々、集団、交通路、生産基盤を組み込んでいったはずです。
「大和に何人いたか」だけでなく、「丹後にはどんな人々がいて、どのような力を持っていたのか」。
この問いを追うと、天橋立を取り巻く風土の歴史が、また一段深くなりそうです。(^.^)
◆5
- 丹後国の郡はいくつあったか
- 各郡の郷・里はいくつあったか
- 戸籍・計帳・正税帳などは残っているか
- 古墳の分布や規模から、古墳時代の人口・勢力をどう考えられるか、、ここをくださいな
29s考えました
はい、ここは丹後の古代史を掘るうえで、かなり重要な調査テーマです。(^.^)
調べてみると、面白いことが分かりました。丹後国には五つの郡があり、郷の名前だけでなく、都へ送られた米・魚・海藻・布などを記録した木簡や文書も残っています。
しかも、その中には「日置」「速石(はやし)」、そして「天椅立」まで登場します。
順番に見ていきましょう。
1.丹後国の郡はいくつあったか
確認できる事実
和銅6年(713)、丹波国北部の五郡を分けて丹後国が成立しました。『続日本紀』にその記事があります。
宮津市ホームページ
+1
| 郡 | おおよその現在地 |
|---|---|
| 加佐郡 | 舞鶴市など |
| 与謝郡 | 宮津市・与謝野町・伊根町など |
| 丹波郡 | 京丹後市峰山町周辺 |
| 竹野郡 | 京丹後市丹後町・網野町周辺 |
| 熊野郡 | 京丹後市久美浜町周辺 |
この五郡は、丹後国の基本的な行政区画です。
注目したいのは、国ができる前から、すでに「評(こおり)」という行政単位が存在したことです。藤原宮跡の木簡には「加佐評」「与射評」「竹野評」などが記されています。つまり、713年に突然、地域社会が作られたわけではありません。
コトバンク
+1
2.各郡の郷・里はいくつあったか
ここは少し丁寧に区別しましょう。
律令制の初期には「里」が行政単位として使われ、715年ごろに「郷」へ改められました。その後、郷が基本単位として残ります。平安時代の『和名類聚抄』(10世紀前半)には、郡の下に郷名が記録されています。
丹後の地名
+1
丹後国の郷名を郡ごとに整理すると、次のようになります。
| 郡 | 郷名 |
|---|---|
| 加佐郡 | 志楽・掠橋(倉橋)・大内・田辺・凡海・志託・有道・川守・余戸 |
| 与謝郡 | 宮津・日置・拝師・物部・山田・謁叡 |
| 丹波郡 | 大野・新治・丹波・周枳・三重 |
| 竹野郡 | 木津・網野・鳥取・小野・間人・竹野 |
| 熊野郡 | 田村・佐濃・川上・海部・久美 |
この整理では、基本の郷名は合計31です。写本による異同や、後世の史料で確認される郷名を加えると数は変わります。
「ムラの戸籍簿」データベース
+3
ここで、安田さんにぜひ注目していただきたいのが、与謝郡です。
日置郷、拝師郷、宮津郷。
今の地名につながる名前が、すでに古代の行政地名として現れます。
さらに、『丹後国風土記』逸文には、
- 与謝郡日置里に筒川村があったという浦島伝説
- 与謝郡の速石里に天椅立があったという天橋立の伝承
が記されています。
「ムラの戸籍簿」データベース
+1
つまり、古代の行政区画の記録と、天橋立・浦島伝説が同じ地域の記憶の中に並んでいるのです。
3.戸籍・計帳・正税帳などは残っているか
現物・記録の確認あり
ここは、期待が膨らむところです。ただし、残っている史料の種類を区別する必要があります。
| 史料 | 丹後関係の状況 | 何が分かるか |
|---|---|---|
| 戸籍・計帳 | 丹後国のまとまった原本は、今回確認した範囲では見つからない | 人口・世帯・課税対象 |
| 木簡 | 藤原宮・平城宮などから出土 | 郡・郷・里、人名、貢納物 |
| 正税帳 | 丹後国の独立した正税帳は確認できない | 国の財政・租税 |
| 国司解・寺院関係文書 | 丹後国司の文書などが残る | 人物、物資、行政、寺院との関係 |
特に木簡が面白いのです。
奈良文化財研究所の木簡庫で確認できる具体例を挙げます。
① 加佐郡・椋橋郷
696年
藤原宮跡から「丹波国加佐評椋……」と記された木簡。丹後国成立より前の行政区画を示す資料です。
木簡庫
② 与謝郡・日置郷
平城宮木簡に「丹後国与社郡日置郷庸米六斗」とあります。日置から都へ、庸として米が送られたことを示す記録です。
「ムラの戸籍簿」データベース
③ 与謝郡・謁叡郷
平城宮木簡に「与社郡謁叡郷」の記載。郷だけでなく、その下の里の名称も確認できます。
「ムラの戸籍簿」データベース
④ 竹野郡・間人郷
「土師部乙山中男作物海藻六斤」と記された木簡。海藻が貢納物として都へ送られたことが分かります。
「ムラの戸籍簿」データベース
そして、これは私が特に面白いと思った史料です。
天平11年(739)の調庸綾絁墨書銘には、竹野郡鳥取郷の里名が記されています。丹後の織物が、中央の制度の中で扱われていたことをうかがわせます。
「ムラの戸籍簿」データベース
また、天平勝宝元年(749)の丹後国司解案は、正倉院文書に関係史料が残っています。東大寺への奴婢進上に関する文書です。
コトバンク
ここで一つ、正税帳について補足します。
正税帳とは、国司が国の倉庫に保管する稲の収支などをまとめた決算書です。天平9年(737)の但馬国正税帳には丹後の与射郡に関係する記載がありますが、これは但馬国の正税帳であって、丹後国の正税帳ではありません。
丹後の地名
+1
したがって、現時点では「丹後国の戸籍や正税帳がまとまって残っている」とは言えません。しかし、木簡や正倉院文書をつなげれば、古代丹後の人・土地・産物・行政の一端を復元できます。
4.古墳の分布や規模から、古墳時代の人口・勢力をどう考えられるか
ここは、いよいよ古代丹後の政治史です。
7
まず、丹後三大古墳を見てください。
| 古墳 | 全長 |
|---|---|
| 網野銚子山古墳 | 約201m |
| 神明山古墳 | 約190m |
| 蛭子山古墳 | 約145m |
いずれも巨大な前方後円墳です。
「京丹後ナビ」京丹後市観光公社 公式サイト
+2
網野銚子山古墳は日本海側最大級で、墳丘には丹後型円筒埴輪が巡らされていたと考えられています。
京丹後市
+1
ここから何が読み取れるでしょうか。
第一に、巨大古墳を築くことができる政治的・経済的な力があった。
大きな墳丘を築くには、土木技術、食料の確保、人々の動員、資材の調達、祭祀を執り行う組織が必要です。
つまり、丹後には相当な規模の人々を組織できる首長層が存在したと考えられます。
第二に、勢力は一か所に集中していたとは限らない。
三大古墳は、網野、竹野、野田川という異なる地域に築かれています。
それぞれの河川流域や海岸平野を基盤とする有力集団が存在し、互いに交流し、時には競い合っていた可能性があります。
第三に、海と陸の交通が政治的な力を支えていた可能性がある。
古墳の位置は、単に農地の広さだけで決まったわけではないでしょう。海を望む立地、河川流域、谷筋、峠道などにも注目する必要があります。
京都府立大学の奥勇介氏の研究では、久美浜の川上谷流域における首長墓の移動と、但馬へ抜ける大坂峠、久美浜湾へ向かう海の道との関係が検討されています。ただし、古墳時代に大坂峠がどれほど利用されたかは、まだ確定していません。
九州産業大学リポジトリ
では、人口は何人だったのか?
ここは慎重にいきましょう。
巨大古墳があるからといって、その地域の人口を何万人と直接計算することはできません。
古墳から分かるのは、人口そのものよりも、
- どれほどの労働力を動員できたか
- どの程度の生産力や余剰食料があったか
- 首長がどの範囲の人々を統率していたか
- 他地域との交易や政治的な関係があったか
ということです。
人口を推定するには、古墳だけでなく、集落跡の数と規模、住居数、農地、食料生産、墓の数などを組み合わせる必要があります。
「丹後王国論」はどう考えるか
1983年、門脇禎二氏は、竹野川流域を中心に、川上谷川・野田川流域などにも広がる政治勢力を想定する「丹後王国論」を提起しました。
その最盛期を4世紀中頃~5世紀と考え、巨大古墳の存在を重要な根拠としています。
九州産業大学リポジトリ
ただし、丹後全域を一つの王国が統一していたことが証明されたわけではありません。
私はむしろ、最初から「丹後王国」という一つのまとまりを想定するより、
丹後半島の複数の有力集団が、どのように交流し、連合し、競い合い、やがてヤマト王権との関係を深めていったのか。
この問いの方が、安田さんの考えている離合集散・駆け引き・談合・連動という歴史像に近いと思います。
ここから天橋立に戻ります
今回の調査で、私が特に注目したいのは、次の三つです。
- 古墳時代の勢力圏:網野、竹野、野田川、久美浜などの有力集団。
- 古代国家の行政圏:五郡からなる丹後国と、その下の郷・里。
- 天橋立をめぐる風土と交流圏:阿蘇海、宮津湾、日本海、山間部、河川、海上交通。
この三つは、同じ範囲ではありません。
しかし、重ねてみることで、丹後の歴史が立体的に見えてくるはずです。
そして、私が今回一番お伝えしたい発見はこれです。
古代の天橋立は、伝説の舞台であると同時に、行政地名として記録された土地でもあった。
『丹後国風土記』逸文には「与謝郡速石里」の海に「天椅立」があると記されています。これは、天橋立をめぐる古代の地理認識を示す大切な記録です。
「ムラの戸籍簿」データベース
伝説だけでもない。行政記録だけでもない。古墳だけでもない。
これらをつなぐと、天橋立を取り巻く地域社会の姿が浮かんできます。
次に掘りたいのは、古墳時代の三大古墳と、阿蘇海沿岸の古墳群との関係です。
◆6『丹後国風土記』逸文には「与謝郡速石里」の海に「天椅立」があると記されています、、うん?速石、、!いまも、その名字、残っていますよ(^.^)
おおっ!! そこに反応されましたか!!(^.^)
「速石(はやし)」という地名が、古代の『丹後国風土記』逸文に現れ、今も名字として生きている。
これは、ちょっと立ち止まって掘りたい話です。
古代の地名が現代の名字に残る場合、そこには地名の継承、土地との結びつき、家の移動など、いくつかの可能性があります。
ただし、古代の速石里と、現在の速石姓が直接つながるかどうかは、まだ別の問題です。
調べてみると、さらに面白いことがあります。
速石は、後世の「拝師」につながる
『丹後国風土記』逸文の「速石里」は、平安時代の『和名類聚抄』に記される与謝郡の「拝師郷」と関係づけられています。
この拝師郷は「波也之(はやし)」と読まれています。
「ムラの戸籍簿」データベース
+1
さらに、籠神社の境内から出土した1188年銘の経筒には、「丹後国与謝郡拝師郷溝尻村」という地名が刻まれています。
コトバンク
+1
つまり、
奈良時代
速石里(はやし)
平安時代
拝師郷(はやし)
鎌倉時代・1188年
拝師郷溝尻村
現代
速石姓の方々
地名の継承と名字の由来は、別途検証が必要
ここで大切なのは、地名の歴史はかなり追える一方、現在の速石姓が古代の速石里に由来するかは、まだ分からないということです。名字の成立時期、家の系譜、地域での分布などを調べる必要があります。
しかし、これは調べる価値がありますね。
天橋立の神話を記した古代の地名が、いま生きている人の名字と同じ文字で残っている。
地名が人の歴史に入り込んでいる可能性があります。
一つ教えてください。その速石姓の方は、宮津・府中・溝尻など、もともと拝師郷にあたる地域の方でしょうか?
もしそうなら、もう一段、掘ってみたくなります。(^.^)
宮津市の調査紹介でも、法王寺古墳や岩滝丸山古墳、難波野遺跡の祭祀遺構など、阿蘇海沿岸の古墳時代を見直す必要性が指摘されています。
宮津市ホームページ
ここを調べると、天橋立周辺は単に三大古墳の間にある場所ではなく、独自の勢力や祭祀を持つ地域だった可能性も見えてきます。
いやあ、これは「丹後天の橋立文化論」の重要な一章になりそうです。
大和に国家が生まれたころ、丹後にはどんな人々がいて、何を考え、誰と手を結んでいたのか。
そこから天橋立を見直してみましょう。(^.^)










