宮津エコツアー · 10月 2026

10月 2026

【① 翡翠話、おもしろかったです、翡翠に守られた国ジャパン、丹後もその一つ、ありがとう、さて、あいせよ天橋立丹後浦島ロード、黄金の4箇所巡り! 丹後へ行くならまず伊根へ、次に上世屋、成相寺、篭神社を参って、松の参道を歩いて知恩寺へ!!さらに来春にはふるさとミュージアムがリニューアルオープンします、このコースを想定してみたい、、感想アドバイスくださいな】
19s考えました

いやあ、これは面白い構想になってきましたね!(^.^)

「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」を、伊根・上世屋・成相寺・籠神社という黄金の4箇所を軸に歩き、最後は松の参道を通って智恩寺へ。

単なる名所巡りではありません。海辺の暮らし、山里の営み、山岳信仰、古代からの祭祀、そして天橋立の松並木を、一つの旅の中でつなぐ構想です。

私が特にいいと思うのは、天橋立を旅の出発点にするのではなく、伊根と上世屋から始めることです。

天橋立だけを見て帰る旅から、天橋立を生み出した丹後の世界を知り、そのうえで天橋立を見直す旅へ。これまで話してきた「天橋立が見える目をつくる旅」が、具体的な周遊コースとして形になり始めています。

1. 黄金の4箇所、それぞれに役割がある

関西の日帰り旅行におすすめのスポット19選!ドライブに人気の穴場は? | NEWT(ニュート)

① 伊根――海と生きる

舟屋は観光用につくられた舞台ではなく、海とともに生きる人々の暮らしから生まれた景観です。旅の最初に置くことで、訪問者は「美しい景色」の向こうにある生業と生活に出会えます。

Kamiseya, Kyoto Prefecture, Japan Rural Scenery

 ② 上世屋――山と生きる

田んぼ、水、森、食、集落の営み。伊根で見た海の暮らしを、山の側から捉え直します。「伊根は世屋の恋人、世屋は伊根の恋人」という関係が、旅人自身の実感になる場所です。

天橋立を一望できる宮津の古刹・ 成相寺|宮津市広報

③ 成相寺――山から天橋立を読む

山岳信仰の歴史に触れ、山上から阿蘇海と砂州を眺める。海と山の暮らしを見た後だからこそ、天橋立を単なる景勝地ではなく、地形と人間の歴史が重なる風景として捉えられます。成相寺は西国三十三所の第28番札所でもあります。

京都府観光連盟公式サイト
元伊勢籠神社 - 景點指南、常見問題、評論、周邊景點 & 交通資訊 | GOOD LUCK TRIP

④ 籠神社――土地に刻まれた信仰を読む

海と山の間に育まれた祭祀の歴史に目を向けます。ここでは伝承をそのまま結論にするのではなく、神社の由緒、考古資料、地形、地域の営みを照らし合わせて問いを深める。これがSSHの見せどころです。

この四つを「海・山里・山岳信仰・古代祭祀」として配置すれば、単に四つの名所を回るのではなく、丹後の世界を四つの窓から見る旅になります。

2. そして、松の参道を歩いて智恩寺へ

ここが、コースの最大の見せ場になると思います。

天橋立~松並木 by  Leophoto (ID:12038717) - 写真共有サイト:PHOTOHITO

天橋立 智恩寺|観光情報|丹後海陸交通

“白砂青松”が美しい京都・天橋立で パワースポットの三社巡りを体験! | 古関千恵子の世界極楽ビーチ百景

籠神社のある府中側から、天橋立の松並木を歩いて文珠側の智恩寺へ。

移動手段としては少し時間がかかります。しかし、そこがいい。

車窓から眺める天橋立ではなく、自分の足で松並木を歩く。海を両側に感じ、砂州の上に立ち、松がつくる景観を身体で経験する。最後に智恩寺にお参りする。

この順番なら、旅の終わりに訪問者の中に一つの問いが残ります。

「この松並木は、いったい何によって、ここに生まれ、守られてきたのだろう?」

伊根と上世屋で見た暮らし、成相寺から見た地形、籠神社で考えた信仰。それらが、松並木の上で結び直されるわけです。

ただし、籠神社から智恩寺まで歩く場合は、松並木だけで約3.6kmあります。参拝や寄り道も含めると、歩行時間に余裕を持たせる必要があります。天候や体力に応じて船を使う選択肢も残しておくといいですね。

丹後海陸交通株式会社
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3. 旅を完成させる「丹後天橋立ミュージアム」

ここで一つ、大切な日程情報があります。

京都府立丹後郷土資料館は、リニューアル後の愛称を**「丹後天橋立ミュージアム」とし、京都府の2026年5月29日の発表では、リニューアルオープンは2027年秋の予定**とされています。ですから、現時点の公式発表では「来春」ではなく「来秋」です。

京都府
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しかも、この施設は単なる追加の見学先ではありません。府の構想では、丹後の歴史・文化を軸に、人や文化をつなぐ「ハブ・ミュージアム」を目指しています。展望ホールやカフェも整備される予定です。

京都府
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私は、ここを黄金の4箇所をめぐった旅人が、旅の意味をもう一度考える場所にできると思います。

伊根で見た暮らし。上世屋で見た里山。成相寺から見た地形。籠神社で考えた祭祀。そして、歩いて渡った松の参道。

その経験を、展示される歴史資料や考古資料と照らし合わせる。

「きれいだった」で終わらず、「そういうことだったのか」「いや、まだわからないことがある」と思える場所になれば、ミュージアムは単なる旅の追加スポットではなく、旅全体をつなぐ結び目になります。

4. コース全体を地図に置いてみる

Use two fingers to move the map
Use ctrl + scroll to zoom the map

5. 私なら、まずは「一泊二日」を基本にします

このコースは、名所の数よりも、場所と場所の間で何を考えるかが価値です。一日で詰め込むと、どうしても「次へ、次へ」になってしまいます。

モデル案

1日目

暮らしを知る

伊根 → 上世屋

海辺の生活と山里の営みを訪ねる日。地元の人の話を聞き、食や水、土地の使い方を体験する。できれば上世屋やその周辺で宿泊し、夕方や朝の風景も旅の一部にする。

2日目

地形と信仰を読む

成相寺 → 籠神社 → 松並木を歩く → 智恩寺

山上からの眺望、神社の由緒、砂州の成り立ちをつなぐ。最後に智恩寺で旅を結ぶ。ミュージアムの開館後は、時間を確保して組み込む。

ミュージアムは、開館後に一泊二日の旅へ組み込む方法に加え、三日目の半日を使う方法も考えられます。展示をじっくり見て、旅で生まれた疑問を確かめるなら、三日目があってもいいくらいです。

6. さらに育てるための、三つのアドバイス

①「黄金の4箇所」は、名所の格付けではなく、学びの四つの窓として打ち出す。

「黄金」という言葉は人を引きつけます。一方で、四つを選んだ理由が伝わらないと、観光地の人気ランキングのようにも見えてしまいます。

そこで、例えば、

  • 伊根――海と生きる

  • 上世屋――山と生きる

  • 成相寺――山から地形と信仰を読む

  • 籠神社――古代の祭祀と土地の記憶を読む

という役割を、最初から明示するのがよいと思います。

②「松の参道を歩く」を、この旅の象徴にする。

四つの場所を訪ねた後、自分の足で松並木を歩く。ここが、旅のハイライトです。

車で名所を巡るだけでは、場所と場所の関係は見えにくい。歩く時間があることで、海と砂州と松並木のつながりを身体で感じられます。

③ ミュージアムを、旅の終点ではなく「次の問いの出発点」にする。

資料を見て旅の答え合わせをするだけでなく、そこで生まれた疑問を、次に訪れる人や地域の人と共有する。旅の記録や参加者の発見を積み重ねていけば、コースそのものが育っていきます。

最後に、私がこの構想で一番大事だと思うことを。

このロードは、伊根も上世屋も成相寺も籠神社も、天橋立のための脇役にしてしまう構想ではないはずです。それぞれの場所が、それぞれの価値を持ったまま、つながる。その関係を知ることで、天橋立もまた、違った姿で見えてくる。

天橋立を見に来た人が、丹後を知り、丹後を好きになり、丹後の未来を考え始める。

そこまでいけば、これは観光周遊コースを超えます。

「丹後は一つです。でも、みんな同じになれ、ということではありません。」

まさに、数珠紐と数珠珠の構想です。

そして、旅人が最後に智恩寺で振り返ったとき、こんな言葉が浮かんだら、最高ですね。

「天橋立は、ここだけにあったのではなかった。伊根にも、上世屋にも、山にも、海にも、そして丹後に生きる人々の営みにも、天橋立を生み出した世界があったのだ。」

この一文を、コース全体の目指すところに据えてみてはいかがでしょう。(^.^)

【② わたしは、このコースに、京都府立海星公園、日置のオリーブを織り込みたい!!】

おおお!! それです!!(^.^)

海星公園と日置のオリーブが入ることで、このコースはもう一段、深くなります。

なぜなら、伊根・上世屋・成相寺・籠神社を巡る旅が、丹後の自然や暮らし、信仰を「知る」旅だとすれば、海星公園と日置のオリーブは、丹後の未来を「考え、つくる」旅につなげてくれるからです。

しかも、海星公園は、これまでお話しされてきた20周年と、これからの公園のあり方という課題を抱えています。日置のオリーブも、地域の風土を生かしながら新しい生業を育てようとする営みとして位置づけられます。

つまり、古いものを訪ねるだけではない。いま動いている丹後、これからの丹後にも出会う。

「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」が、過去・現在・未来をつなぐ旅になるのです。

7. コースに織り込むなら、こうしたい!

府立丹後海と星の見える丘公園/京都府ホームページ

海星公園――自然と共に生きる未来を考える

公園は2006年に開園し、2025年には国の「自然共生サイト」に認定されました。生物多様性の保全と環境学習を担う場所です。

京都府
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伊根や上世屋で人間と自然の関係を学んだ後、ここで「これからの人間は、自然とどう生きていくのか」を問いかける。海星公園の存在意義も、旅の中で伝えられます。

幸せを呼ぶオリーブ畑 京都・宮津に広がる | 山と生きる | 海の京都 Times

 日置のオリーブ――風土から新しい生業を育てる

宮津市の日置地区では、オリーブの収穫体験やオリーブの森づくりに地域内外の人が参加する取り組みが行われています。

宮津市ホームページ

ここでは、昔からの暮らしを守るだけでなく、土地の可能性を探りながら新しい仕事や交流を育てる姿を知る。上世屋の農の営みとも対話させたいですね。

この二つは、コースの途中に付け足す「寄り道」ではありません。

  • 海星公園は、自然と人間の未来を考える珠

  • 日置のオリーブは、地域の未来を実際につくる珠

そう位置づけると、旅の骨格がぐっと強くなります。

8. 私なら、全体をこう組み立てます

あいせよ天橋立丹後浦島ロード

海から山里へ、信仰から未来へ、そして天橋立へ

  1. 伊根 — 海と生きる人々の暮らし

  2. 海星公園 — 自然と共に生きる未来を考える

  3. 日置のオリーブ — 新しい生業と地域づくり

  4. 上世屋 — 山里の暮らし、水、田んぼ、食

  5. 成相寺 — 山岳信仰と、山から読む天橋立

  6. 籠神社 — 古代祭祀と土地の記憶

  7. 天橋立の松並木 — 自分の足で砂州を歩く

  8. 智恩寺 — 旅を結び、振り返る

  9. 丹後天橋立ミュージアム — 開館後、旅の問いを歴史資料と照らし合わせる

順序や宿泊地は、移動時間と各施設の受け入れ条件を確認して調整する必要があります。ただ、考え方としては、海星公園とオリーブを伊根から上世屋へ向かう流れに組み込むのは、とても自然です。

そして、ここで一つ、海星公園にとって大事な意味が生まれます。

これまで海星公園の20周年について、「これからの20年をどう歩むのか」という問いを考えてきましたね。このロードに参加することで、公園は自分の施設の中だけで未来を考えるのではなく、丹後全体をつなぐ役割の中で、自分の存在意義を示せるようになります。

伊根も、上世屋も、日置のオリーブも、成相寺も、籠神社も、それぞれの活動を続けながらつながる。海星公園は、その間に立って自然と人の関係を考える場になる。

これなら、海星公園を「観光地の一つに加える」という発想を超えています。

海星公園があるからこそ、このロードで丹後の未来まで考えられる。

そして、オリーブも、上世屋の米も、伊根の魚も、向井酒造のお酒も、別々の珠でありながら、一本の緒に通される。

いやあ、これは「丹後は一つです」を、観光の言葉ではなく、実際の地域連携として形にしていく構想ですね!(^.^)

【① 珠、霊、魂、丸,玉、環、いずれの意味も含んでのたま、なのでしょう!穴が開いていますね、紐を通して首から架ける様子も残っています、その紐には、名前がついていますか】

あります。ただし、ここは少し面白い区別があります。

勾玉に穴を通した紐そのものには、古代の一般的な名称が確実に伝わっているわけではありません。 考古学では、まず「紐」「首飾り」「玉類を連ねた装身具」などと表現します。勾玉に穴をあけ、紐を通して首飾りにしたことは、博物館の解説でも確認できます。

國學院大學
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現代の言葉で整理すると、こんな具合です。

  • 紐(ひも):玉の穴に通すもの。素材は時代や地域によって異なり、植物繊維などが考えられますが、実物が残っていない場合、素材を断定できません。

  • 首飾り:勾玉や丸玉、管玉などを紐で連ね、首に掛ける装身具全体。

  • 緒(お):細長いものをつなぐ紐や糸を指す古い言葉。古典を読む際にも出会う語ですが、特定の勾玉の紐が当時「緒」と呼ばれていたと、個別に確定できるわけではありません。

  • 玉緒(たまのお):玉を貫き通す緒、という意味で使われる言葉です。さらに和歌などでは、命をつなぎとめるもの、命そのものを連想させる表現にもなります。

この最後の「玉緒」が、実に興味深いのです。

玉をつなぐ緒。そして、命をつなぐ緒。

玉が「魂(たま)」や「霊(たま)」と関係づけて理解されてきたことを考えると、玉緒という言葉には、玉を物理的につなぐ働きと、命や人の関係をつなぐ比喩的な働きが重なって見えます。ただし、語源や古代人の信仰を一つに決めつけず、言葉の用例を追って考える必要があります。

書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
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そして、安田さん、ここで「数珠紐と数珠珠」のお話が、また顔を出しますね。(^.^)

勾玉一つだけでは、単独の装身具です。しかし、紐に通され、ほかの玉と組み合わされ、首に掛けられることで、全体としての首飾りになります。

珠が一つひとつの存在なら、緒はそれらをつなぐもの。

しかも、つながれたからといって、勾玉が丸玉になったり、管玉が勾玉になったりするわけではありません。それぞれの形も素材も個性も残る。

これ、まさに「丹後は一つです。でも、みんな同じになれ、ということではありません」という安田さんの考え方に通じますね。

ひとつだけ、さらに掘りたくなる問いがあります。古代の首飾りは、単に玉をつなぐために紐を使ったのでしょうか。それとも、玉をどんな順番で並べ、どの玉を中央に置き、何を組み合わせるか、その配置自体にも意味があったのでしょうか。

実際、古墳からは勾玉を中心に丸玉などを配置した首飾りが出土しています。玉だけでなく、組み合わせ方まで読むと、古代の人々が何を大切にしたかを、もう一歩深く考えられそうです。

museum.city.nagoya.jp
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和歌などでは、命をつなぎとめるもの、命そのものを連想させる表現、、その和歌の事例を下さいな

あります。ここは、言葉の歴史をたどると、なかなか味わい深いところです。(^.^)

「玉緒(たまのお)」は、単に玉を通す紐というだけでなく、和歌の世界では命をつなぎとめるもの、命の長さ、そして命のはかなさを表す言葉としても用いられます。

ただし、和歌の中の「玉の緒」は、いつも文字どおり「勾玉を通した紐」を意味するわけではありません。装身具のイメージから、命をつなぐ緒へと意味が広がった表現として読む必要があります。

1. まずは、百人一首にも登場する一首

式子内親王(しょくしないしんのう)

『新古今和歌集』恋歌・1034番/小倉百人一首89番

玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする

現代語にすれば、

「わが命よ、絶えるのなら、いっそ絶えてしまえ。このまま生き長らえていたら、秘めた恋心を抑える力が弱まり、人に知られてしまうかもしれないから」

という歌です。

百人一首
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ここで面白いのは、「玉の緒」が命を表し、さらに「絶える」「長らえる」「弱る」という言葉が、紐の状態と命の状態を重ねていることです。

玉をつなぐ緒が切れるように、命も絶える。緒が長く続くように、命も長らえる。比喩が歌全体に張り巡らされています。

2. もっと古い『万葉集』にもあります

実は、平安時代の式子内親王よりも数百年ほど前、『万葉集』にすでに「玉の緒」を使った豊かな表現が見られます。

① 命をつなぐ、二人の約束

新しき 年の初めに 思ふどち い群れて居れば 嬉しくもあるか

※これは「玉の緒」の歌ではありません。新年の喜びを詠んだ別の歌です。

② 玉の緒が絶えないように、という誓い

新世に 共にあらむと 玉緒の 絶えじ妹と 結びてし言は果さず

『万葉集』巻3・481番

大意は、「新しい世にも共にいよう、玉の緒のように絶えることはないと、あなたと誓い合った。その約束を果たせないままになっている」です。

コトバンク

ここでは、緒が切れないことが、二人の関係が続くことに重なります。玉の緒は命の比喩であると同時に、人と人との結びつきを保つものにもなっているのです。

③ 命そのものを思わせる「玉の緒」

玉緒の うつし心や 年月の 行きかはるまで 妹に逢はざらむ

『万葉集』巻11・2792番

大意は、「この現実の心を保ったまま、年月が過ぎてゆくまで、あの人に逢えずにいるのだろうか」。

「玉の緒の」は、ここでは「うつし心」にかかる表現です。辞書では、生命や魂に関わる「玉の緒」の用法として説明されています。

コトバンク
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3. もう一つ、私が気になる歌

『万葉集』巻11・2790番には、こんな歌があります。

玉緒之 くくり寄せつつ 末つひに 行きは別れず 同じ緒にあらむ

読みや意味の細部には訓読上の問題がありますが、大意は「玉の緒をたぐり寄せるように、最後には別れることなく、同じ緒につながっていよう」というものです。

コトバンク
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これも、単に「命が長い」という話ではありません。緒を寄せ、つなぎ、別れないことを願っています。

4. そして、「数珠紐と数珠珠」へ

ここまでの用例を並べると、「玉の緒」には少なくとも三つの働きが見えてきます。

  • 命をつなぐ緒――命が続くこと、絶えること。

  • 心をつなぐ緒――秘めた思いや、揺れ動く心。

  • 人をつなぐ緒――約束、再会、別れずにいること。

國學院大學の『万葉神事語辞典』も、『万葉集』では玉の緒が恋情や再会の願い、二人の絆などに関わって用いられることを指摘しています。

國學院大學デジタル・ミュージアム

ここで大事なのは、古代の人々が「玉の緒」という言葉を、必ずしも現代の私たちのように、物理的な紐と抽象的な命とに切り分けて使っていたわけではない、という点でしょう。もちろん、歌だけから当時の信仰をすべて復元することはできません。それでも、具体的な装身具の姿が、命や心や人間関係を表す言葉へと広がっていることは確かです。

玉は珠であり、緒は紐である。しかし、緒が切れることは命が絶えることにもなり、緒を結ぶことは人との縁を結ぶことにもなる。

いやあ、これは「数珠紐と数珠珠」の考え方を、古典文学の側から照らしてくれる材料ですね。(^.^)

ただし、古代の「玉の緒」と、現代の私たちが考える「地域の人々をつなぐ紐」は、歴史的に同じ意味だったと断定するものではありません。むしろ、具体的な物から関係や命を考える、人間の想像力の働きに共通点がある――そのように読むのが面白いと思います。

【② 玉は珠であり、緒は紐である。しかし、緒が切れることは命が絶えることにもなり、緒を結ぶことは人との縁を結ぶことにもなる。、、その玉こそ、翡翠のマガタマであって、翡翠のマガタマでなければならなかった!!(^.^)】

ははははは!!!!(^.^)

そこへ来ましたか!

玉の緒――その玉は、なぜ翡翠の勾玉だったのか。

これは、あいせよ天橋立丹後浦島ロードに、また一つ、深い問いが生まれましたね。

翡翠の勾玉を手に取るところから、少し考えてみましょう。

翡翠は、磨けば美しい光沢を放ちます。しかし、石ですから、柔らかく曲がることも、簡単に形を変えることもできません。勾玉にするには、硬い石に穴を開け、時間をかけて形を整え、磨き上げなければならない。

そして、穴が開いている。

その穴に緒を通すことで、石は身に着けられる玉になる。ほかの玉とともに連ねられる。しかも、玉の一つひとつは、緒に通されても、それぞれの姿を失わない。

ここで、三つの問いが生まれます。

  • なぜ翡翠なのか。 美しさだけなのか。希少性、硬さ、産地への特別な思い、あるいは霊的な力への信頼もあったのか。

  • なぜ勾玉の形なのか。 曲がった形に、生命や霊、再生などの意味を見ていたのか。それとも、時代や地域によって意味は違ったのか。

  • なぜ緒に通すのか。 一つの玉を所有することと、複数の玉を連ねて身に着けることでは、どんな違いがあったのか。

この三つは、考古学的な事実と、そこから先の解釈を分けながら、掘っていく必要があります。

そして、ここで糸魚川の翡翠が登場する。

ヒスイ製勾玉 - 広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム) | 広島県教育委員会

糸魚川翡翠:原石:姫川:川石 BG0026 | 糸魚川翡翠工芸家 赤羽可行BASE

东京国立博物馆 - 展览・活动 展览 平成馆(日本的考古、特展) 珠玉生产的展开 作品表

糸魚川周辺で産出する翡翠は、遠く離れた地域にも運ばれ、勾玉などに加工されました。つまり、翡翠の玉には、石そのものだけでなく、石を見いだした人、加工した人、運んだ人、受け取った人のあいだを結ぶ長い道筋がありました。

ただし、翡翠が特別な意味を持った理由を、一つの説明だけで片づけることはできません。産地や流通、加工技術、出土状況を調べることと、古代の人々の心を想像すること。その両方が必要です。

さて、ここからが面白い。

翡翠の勾玉は、玉の緒という言葉が生まれる前から、その意味をすべて備えていたのでしょうか。それとも、玉を身に着け、贈り、受け継ぎ、祈るという人間の営みの中で、玉と緒の意味が育っていったのでしょうか。

私は、後者の可能性を丁寧に探りたいと思います。

そして、糸魚川の翡翠から丹後へ、丹後の海と山へ、天橋立へ。

もちろん、翡翠の勾玉が糸魚川から丹後へ運ばれた具体的な経路や、天橋立の伝承との直接的なつながりは、別途、証拠を確かめなければなりません。

それでも、問いはつながります。

玉をつなぐ緒。人をつなぐ緒。命をつなぐ緒。そして、土地と土地をつなぐ緒。

「数珠紐と数珠珠」理論、いよいよ先史時代にまで遡ろうとしていますね。

(^.^) ただし、ここで一つ、私たちが手放してはいけない問いがあります。

なぜ、古代の人々は、数ある石の中から翡翠を選び、数ある形の中から勾玉をつくったのか。

この問いを、考古学の証拠と、言葉の世界と、丹後の風土とを行き来しながら掘っていく。それこそ「掘る・繋ぐ・問い返す」ですね。

【③ 太古から長期間にわたっての需要、、人にとってもっとも根源的な部分に触れるものなのでしょうね、天の橋立を囲む遺跡群からも数々でているように、首に架け祭祀や政を取り仕切っていた姿が浮かびますね】

そうですねえ……。(^.^)

いまのお話で、翡翠の勾玉を単なる「古代の装身具」として見るのではなく、人間が何を大切なものと考え、何を身に帯び、どのように人々をまとめてきたのかという問いに置き直すことができますね。

太古から長い期間にわたって玉がつくられ、遠くまで運ばれ、身に着けられ、墓に納められてきた。その事実は、少なくとも玉が一時的な流行品ではなく、長く社会的な意味を持ったことを示しています。

そして、首に掛けた玉は、本人の目には見えにくい。しかし、周囲の人には見える。

ここが重要だと思います。

玉は、身に着ける人の身体に属する一方で、他者にも見えるものです。そこには、美しさだけでなく、身分、役割、所属、権威、祭祀に関わる立場などを示す働きが生まれ得ます。

ただし、すべての勾玉が祭祀者や政治的指導者の持ち物だったとは限りません。出土した場所、共伴する品々、時代、玉の種類や組み合わせによって、慎重に読み分ける必要があります。

天橋立周辺には、それを考えるための具体的な証拠があります

ひすい製勾玉 - MIHO MUSEUM

① 波路古墳――翡翠の勾玉と武器が一緒に出土

宮津湾東岸の丘陵上にある古墳時代前期の古墳です。副葬品には、翡翠の勾玉3点、ガラス小玉、鉄槍、鉄剣、漆塗りの弓や靫(ゆぎ)などが含まれます。

京都文化交流センター
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これは重要ですね。玉だけでなく、武器や漆塗りの品々も同じ埋葬施設に納められている。被葬者の社会的な位置や役割を考える手がかりになります。ただし、これだけで祭祀と政治の両方を取り仕切った人物だったと断定することはできません。

(伝)西野山3号墳出土 ガラス製勾玉・ヒスイ製勾玉・碧玉製管玉・ガラス製小玉 文化遺産オンライン

② 大風呂南1号墓――阿蘇海を望む弥生時代の有力者の墓

天橋立・阿蘇海を眼下に望む尾根に築かれた弥生時代後期の墳墓です。ガラス勾玉6点、碧玉管玉356点のほか、腕輪類や鉄剣14本など、計412点の副葬品が確認されています。

国指定文化財データベース

波路古墳より古い時代に、すでに玉や腕輪などの装身具と鉄製品を豊富に伴う墓が、この地域に存在していたわけです。

この二つを並べるだけでも、天橋立周辺が単に美しい景観だったのではなく、装身具や金属器を通じて社会の力や交流を読み解ける地域だったことが見えてきます。

そして、ここから先は、ぜひ三つを区別して掘りたいですね。

  1. 玉を身に着けた人は、どのような立場にあったのか。

  2. 玉を入手し、加工し、贈り、受け継ぐ仕組みは、どのように成り立っていたのか。

  3. その人々は、山・海・川・土地の神々への祈りと、どのように関わっていたのか。

三つ目は、遺物だけでは簡単に答えが出ません。しかし、祭祀に関わる遺構や他の副葬品、集落の立地、地域の伝承などを重ねることで、少しずつ問いを絞り込めます。

翡翠の勾玉は、古代の人々の心を直接語ってはくれません。しかし、彼らが何を身に着け、何を墓に納め、何に手間と労力をかけたかは語ってくれる。

それを手がかりに、見えない心や社会の仕組みを考える。

まさに、安田さんのいう「見えないものをみる、それがSSH」ですね。

そして、阿蘇海を望む墓から、翡翠の勾玉が出てくる。私たちがいま見ている天橋立の景観と、その景観を取り巻く古代の人々の世界とが、ここで初めて一本の緒でつながり始めるのです。

【④ ありがとう、、翡翠が発掘された遺跡,その総数、そして発掘された勾玉の総数、これはわかっていますか】

9s考えました

調べてみました。これは、古代の翡翠文化を考えるうえで大事な数字ですね。

結論からいうと、全国で「翡翠が出土した遺跡は何か所、翡翠製の勾玉は何点」と一括して確定した総数は、今回確認できた資料からは、まだ断言できません。 ただし、集計の手がかりになる資料と、時代を限定した数字は見つかりました。

まず、全国の出土資料を集めたデータベースがあります

新潟県糸魚川市の「ヒスイ文化研究所」は、縄文時代から古墳時代までの翡翠製玉類について、全国の出土状況を集成した資料を公開しています。Excel版とPDF版があり、遺跡名、時代、玉の種類、点数、出土状況、参考文献などが整理されています。

糸魚川市ホームページ(文化財係)
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糸魚川市「ヒスイ文化研究所・日本各地のヒスイ製品の資料集成」

ただし、これは「翡翠製の玉類」全体の資料です。勾玉だけでなく、大珠、垂玉、管玉なども含まれます。したがって、掲載された点数をそのまま「翡翠製勾玉の総数」とすることはできません。

数字として確認できる、もう一つの重要な成果

早稲田大学の博士論文『原始・古代日本における勾玉の研究』では、列島規模で勾玉の出土資料を集成し、次の数字を示しています。

早稲田大学リポジトリ
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縄文時代から古代までの勾玉の集成

3,865

遺跡

20,796

出土点数

注意:これは勾玉全体の集成であり、翡翠製だけの数字ではありません。

また、京都府埋蔵文化財調査研究センターの論文「近畿地方の弥生勾玉」では、全国の弥生時代の勾玉は、当時の集計で約230遺跡・約600点とされています。これも、翡翠製に限定した数ではありません。

京都府埋蔵文化財調査研究センター

では、翡翠製だけの総数は?

ここが、今回の調査でまだ確定できなかった部分です。

知りたい数字

今回確認できたこと

翡翠製品が出土した遺跡の総数

全国の集成資料はあるが、確定総数は未確認

翡翠製勾玉の総数

全国を通じた確定総数は未確認

素材を問わない勾玉の総数

3,865遺跡・20,796点という研究集成がある

この区別は大切です。翡翠製の大珠と勾玉は別の形態ですし、勾玉にも翡翠以外に碧玉、ガラスなどさまざまな素材があります。さらに、発掘品だけを数えるのか、表面採集品や古い記録も含めるのかで数字が変わり得ます。

次に取り組むなら、糸魚川市の「ヒスイ出土情報集成表」を基礎に、遺跡数と勾玉の点数を別々に集計するのが、いちばん筋のよい方法です。

そして、その数字を縄文・弥生・古墳時代に分け、丹後の出土例を全国の分布の中に置いてみる。そうすれば、翡翠がどれほど広く求められたのか、丹後がその交流の中でどのような位置にあったのかを、より具体的に考えられますね。

【① ありがとう、、曲玉、大国主命が婚姻関係を結ぼうと考えた糸魚川の翡翠、そうそう現天皇家の三種の神器の一つでもありますね、マガタマの用法、あちこちの遺跡から遺品の必需品のように出土する意味、これを解説くださいな 】

おお、今度は勾玉(まがたま)ですね!(^.^)

糸魚川の翡翠、大国主命と沼河比売(ぬなかわひめ)の婚姻譚、そして三種の神器。丹後の伝承を追っていたら、日本列島をつなぐ古代の人・物・信仰のネットワークに入ってきました。

勾玉を理解するうえで、まず大切なのは、勾玉は単なる装飾品ではなく、身につける人の身分、権威、祭祀、そして人と人・人と神との関係を表すものだった可能性が高い、ということです。ただし、時代や出土した場所によって意味は異なり、すべての勾玉が同じ用途だったわけではありません。

1 勾玉は、いつから、何のためにつくられたのか

硬玉勾玉 文化遺産オンライン

テーマ展「鏡・玉・剣ー七ヶ瀬遺跡と佐賀の弥生首長墓ー」|佐賀県立博物館・佐賀県立美術館

E0130181 勾玉 - 東京国立博物館 画像検索

勾玉の歴史は、かなり古くまでさかのぼります。文化庁の文化遺産データベースには、約4000〜2300年前の縄文時代の翡翠製勾玉が登録されています。しかも、糸魚川産と推定される翡翠が、青森県など遠く離れた地域の遺物にも使われています。

文化遺産オンライン
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つまり、勾玉の歴史を考えるとき、初めから「天皇の持ち物」「王様の装飾品」として見るのでは狭すぎるのです。

時代ごとに、おおよそ次のように役割が広がっていったと考えられます。

九州国立博物館 | 収蔵品データベース | 勾玉

縄文時代:身につける特別な玉

装身具であるとともに、祭祀や象徴的な行為と結びついていた可能性があります。ただし、具体的な意味を記した同時代の文書はないため、用途を一つに決めることはできません。

File:Itoigawa's jadeite magatamas of Ukikunden Site.jpg - Wikimedia Commons

弥生時代:力や交流を示す玉

勾玉や管玉が有力者の墓に副葬されるようになります。希少な素材を手に入れ、加工し、身につけることが、集団内での地位や遠隔地とのつながりを示す役割を担ったと考えられます。

福岡市博物館
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ヒスイ製勾玉 - 広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム) | 広島県教育委員会

古墳時代:政治的な権威と結びつく玉

首飾りや装身具として用いられ、墓に納められます。勾玉の形や素材、組み合わせが、権威や政治的な関係を表す意味を強めていったと考えられます。

福岡市博物館
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ここで注意したいのは、「どこの遺跡からも必ず出る」というわけではないことです。出土する数や素材、形は時代・地域・墓の性格によって異なります。

それでも、広い範囲の遺跡から繰り返し見つかること自体が、勾玉や玉類が古代社会で重要な位置を占めていたことを示しています。

2 なぜ、糸魚川の翡翠が遠くまで運ばれたのか

【プレミアム・河川石・ロウカン質・透過抜群・姫川産・227g】(プレミアム濃緑色ヒスイ)糸魚川天然翡翠原石 | 糸魚川翡翠工房こたき

ここから糸魚川の話になります。

糸魚川周辺は、日本列島でも重要な翡翠の産地です。硬玉(ジェダイト)は美しいだけでなく、硬く、加工には相応の技術と労力が必要です。縄文時代から翡翠製の玉がつくられ、遠隔地でも使われていたことが考古資料から分かります。

文化遺産オンライン
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では、なぜ人々は、遠くから翡翠を手に入れようとしたのでしょうか。

考えられる要素は、少なくとも三つあります。

  • 素材の希少性と美しさ。 どこでも簡単に手に入る石ではありません。

  • 加工品に込められた価値。 原石を探し、加工し、玉に仕上げるには知識と技術が必要です。

  • 人と人を結ぶ交換の仕組み。 翡翠製品が遠方に届くには、複数の地域の人々の交流や交換が必要だったはずです。

ここで重要なのは、糸魚川から遠く離れた場所で翡翠製勾玉が出土することです。

石の産地と、玉を身につけた人の暮らす場所が異なる。そこには、物だけでなく、技術、情報、価値観、人間関係が動いた歴史が潜んでいます。

勾玉は、古代の人々がつくった「つながりの証拠」でもある。

これは、安田さんが丹後で探究されている「数珠紐と数珠珠」の考え方にも通じますね。玉は一つひとつ独立した存在ですが、その来歴をたどると、遠くの土地とのつながりが見えてくるのです。

3 大国主命と沼河比売――婚姻譚は何を語っているのか

第4回 3つの黒姫山と奴奈川姫の伝承|千の樹の実 @「越の国王朝説」を考察中

『古事記』では、大国主命(八千矛神)が高志国の沼河比売に求婚する物語が語られています。糸魚川市周辺には奴奈川姫に関する伝承や神社があり、沼河比売とこの地域との関係が考察されてきました。

糸魚川市ホームページ(文化財係)
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ここで気をつけたいのは、神話に翡翠の産地や交易がそのまま記録されている、と断定はできないことです。

一方、考古学的な視点からは、翡翠の産地である越の地域と、出雲などの勢力との交流を、婚姻譚の背景として考える説があります。國學院大學の解説も、翡翠の玉作りや地域間の政治的関係をめぐる複数の解釈を紹介しています。

國學院大學 古典文化学事業
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これを、歴史的事実と神話の二つの層に分けると、見通しがよくなります。

  • 考古学が示すこと: 翡翠製品は遠方へ運ばれ、各地で利用されていた。

  • 神話が語ること: 出雲の神と高志の姫との婚姻を通して、二つの地域が物語のなかで結びついている。

  • 考察できること: 婚姻譚が、地域間の交流や権力関係を何らかの形で反映している可能性がある。

婚姻とは、個人同士の結びつきであると同時に、古代社会では集団同士の関係を築く手段にもなり得ました。

そのため、この神話を翡翠の産地や玉作りの技術と並べて考えることには意味があります。ただし、沼河比売が実際に翡翠を支配した女王だったと確定しているわけではありません。

4 三種の神器の勾玉は、何を意味するのか

皇位継承の儀式と「天叢雲剣」とは?/ホームメイト

三種の神器の一つとして伝えられるのが、**八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)**です。三種の神器は、鏡・剣・勾玉からなり、皇位の継承と結びつく神宝として伝えられてきました。

ここで注目したいのは、勾玉が単に美しい宝石だから神器になった、という説明だけでは足りないことです。

古代の玉類には、装身具、祭祀的な意味、身分や権威の表象など、複数の役割がありました。その長い歴史のなかで、玉は権力や神聖性を表すものとして位置づけられていったと考えられます。

ただし、現在の八尺瓊勾玉の材質や形状、製作年代を、一般の考古資料のように直接調べて確定することはできません。縄文・弥生時代の翡翠製勾玉と、皇室に伝わる神器を、同一の品物や直接の系譜だと決めつけることはできないのです。

それでも、長い歴史のなかで「玉」が神聖性と権威を表すものとして受け継がれてきたことは、勾玉を考えるうえで重要です。

5 では、勾玉の「曲がった形」には意味があるのか

最後に、形そのものについて。

勾玉の形の由来には、動物の牙や胎児の姿などを連想する説があります。しかし、どれか一つが勾玉全体の起源として確定しているわけではありません。時代や地域によって形にも変化があります。

だから、形を見ただけで「これは生命の象徴だ」「これは胎児を表す」と決めるのは慎重であるべきです。

ただ、勾玉には、穴を開け、紐に通し、身体に身につけるという特徴があります。個々の玉が、紐や首飾りの構成のなかで意味を持つ。玉の素材や数、形、組み合わせも、その意味を変え得ます。

この点で、私は勾玉を単独の美術品として見るだけでなく、誰が、どこで、何と組み合わせ、どんな場面で身につけたのかという問いから考えるのが大切だと思います。

安田さんの関心に引き寄せれば、糸魚川の翡翠から出雲の神話、各地の遺跡、そして三種の神器まで、玉を追いかけることは、古代の日本列島を横断する「つながり」を追いかけることでもあります。

天橋立の松が、砂州の上だけで完結しないのと同じです。勾玉もまた、一つの石のなかに、産地、技術、信仰、権力、交流の歴史を抱えているのですね。

マガタマ、は 勾玉、、これ以外の表記はありませんか

あります! しかも、古典にさかのぼると、表記の違いが面白いんです。(^.^)

表記

読み・使われ方

勾玉

現在、一般的に使われる表記。

曲玉

「まがたま」と読む別表記。『古事記』の表記として紹介されることがあります。

勾璁

『古事記』に見える表記の一つ。勾玉と同じく「まがたま」と読まれます。

八尺瓊曲玉

三種の神器の一つ、やさかにのまがたま。

八尺瓊勾玉

上と同じ神器名の異表記。

古典の表記については、辞書や考古学資料でも整理されています。

コトバンク
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さらに、古い呼び方として 「まがりたま」「まがりのたま」 も文献に見られます。

コトバンク
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ここで、ちょっと立ち止まりたいことがあります。

「勾玉」と「曲玉」は、どちらも曲がった形を表すように見えますが、古典の表記には、それぞれの時代の文字の使い方や読み方の問題も関係しています。したがって、漢字の意味だけから「勾玉はこういう思想を表す」「曲玉は別の信仰を表す」とまでは言えません。

表記の違いは、形の違いを示すとは限らない。でも、言葉の歴史を探る入口にはなる。

安田さんが関心を持たれている、古代の人々が玉にどんな意味を込めたのかという問いにも、まずは「いつ、どの文献で、どの字が使われたのか」を押さえることが役立ちそうです。

こちらもいかがですか?

古代の人々が玉にどんな意味を込めたのか、諸説をいただけませんか

6 古代の人々が玉に込めた意味――六つの仮説

ここまでの考古資料や古典を踏まえて、諸説を整理してみます。大切なのは、「玉一般の用途として確認できること」と、「勾玉の形に込められた意味についての仮説」を分けることです。

ひすい製勾玉 - MIHO MUSEUM

① 生命・再生の象徴という説

勾玉の曲がった形を、胎児や生命の芽生えと結びつける解釈です。生命や再生を象徴した可能性は想像できますが、形が胎児を模したものだと確定したわけではありません。起源については獣牙説などもあり、諸説が並立しています。

國學院大學
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硬玉勾玉 文化遺産オンライン

② 身を守る力・呪力を宿すという説

美しい石や珍しい素材に特別な力を認め、身につけることで災いを避けたり、力を得たりすると考えた可能性です。ただし、個々の出土品について、どんな力が信じられていたのかを直接確かめられるとは限りません。

东京国立博物馆 - 展览・活动 展览 平成馆(日本的考古、特展) 珠玉生产的展开 作品表

③ 身分・権威を示すという説

希少な石材や高度な加工技術を必要とする玉を所有することは、社会的な地位を示す働きを持ち得ました。特に古墳時代の首長層の副葬品では、この見方が重要です。

國學院大學
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九州国立博物館@メールマガジン

④ 神への捧げ物・祭祀の道具という説

『古事記』の天石屋戸神話では、神を招き出すために鏡や勾玉などの祭具が用意されます。考古学的にも玉類は祭祀と関係したと考えられています。装飾品と祭具は、必ずしも別々の用途だったとは限りません。

國學院大學 古典文化学事業
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浜山玉つくり遺跡/朝日町ホームページ - 下新川郡

⑤ 人と人、地域と地域を結ぶ証という説

特定の産地の石が遠方へ運ばれ、加工品として各地で使われました。玉は交易・贈与・献上などを通して、人間関係や政治的なつながりを表した可能性があります。特に、素材の産地と出土場所の隔たりは、交流の広がりを知る重要な手がかりです。

文化遺産オンライン
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東京国立博物館 - 展示・催し物 展示 平成館(日本の考古・特別展) 子持勾玉の霊力 作品リスト

⑥ 豊穣・多産を願うという説

大きな勾玉に小さな勾玉状の突起を複数つけた「子持勾玉」は、多産や豊穣を祈願する祭祀に使われたという説があります。形の特徴と用途を結びつけた解釈ですが、すべての子持勾玉の意味が一様に確定しているわけではありません。

narahaku.go.jp
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7 私なら、ここから何を考えるか

安田さんの関心に沿って考えると、私は「勾玉は何を表していたのか」という問いを、少し変えてみたいのです。

玉は、何を表すものだったのか。それとも、玉を持つことによって、人は何者になれたのか。

たとえば、ある玉を身につけることで、祭祀を担う人として認められる。別の玉を贈ることで、遠くの有力者との関係を結ぶ。亡くなった人の墓に玉を納めることで、その人の地位や、死後も続く関係を表す。

こう考えると、玉の意味は石の形や色のなかだけにあるのではありません。玉をつくる人、手に入れる人、贈る人、身につける人、神に捧げる人。その関係のなかに意味が生まれるのです。

そして、糸魚川の翡翠が遠く離れた地域で見つかるという事実は、その関係が一つの集落の内側だけで完結していなかったことを示しています。

これは、古代の人々の世界を、現代の行政区域や国境からいったん解き放って考えることでもあります。

勾玉一つを手がかりに、石の産地、加工技術、交易、祭祀、権力、婚姻譚がつながってくる。まさに「掘る・繋ぐ・問い返す」ですね。(^.^)

なお、六つの仮説は互いに排他的ではありません。一つの玉が、ある場面では装飾品、別の場面では権威の象徴、さらに祭祀では神への捧げ物として働くことも考えられます。

「勾玉の意味は一つではなかったかもしれない」――この見方を出発点にすると、遺跡ごとの違いを消さずに、古代の人々の世界を読み解いていけると思います。

 

あいせよ天橋立丹後浦島ロード沿道にヒガンバナが終わって、ツワブキの黄色い花!木々は落ち葉を急ぎ、、と言いたいところですが、丹後の錦秋の風情は成相寺ですね。あいにく海岸通りは魚付き林の常緑広葉樹、けれども波の高くなる季節には、葉を風に吹き飛ばされる木々より落ち着いていいものです。さて天橋立丹後浦島ロード・波見入る奥に、丹後海と星の見える丘。

常緑、落葉、二つが混じって、しっ

とりした味を醸し出しています。

丹後の隠れ里として、行く秋を楽しませてくれますよ!!

ちなみに、見えるのは海と星、加えて「天橋立」も!!

 

 

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さて、その海星公園からのご案内!!

10月24日・25日【星と海のナイトパーク】~錦秋の候~

【星と海のナイトパーク】
うみほし公園が紅葉で錦のように彩られる季節。
深まる秋を森のカフェやフリマで感じ、
焚火や薪で沸かしたお風呂でほっこり、
夜は澄み渡る秋空の下で星はもちろん「土星の環」を見てみよう!


昼の部:スイーツ&フードTiny
/海と里のフリマ/薪で沸かしたお風呂


夜の部:小料理屋足鹿/ 吹奏楽団ブルーマリンズ演奏/
焚火 /土星観察 /ライトトラップ/ Umihoshi Bar

【イベント概要】

<日時>2026年10月24日(土) ・ 10月25日(日)

<場所>丹後海と星の見える丘公園・こどもの森

うみほし風呂(日帰り入浴)

<入場無料>※物販、ご飲食、一部企画は有料(現金のみ)

 

【イベント内容】

〇(24・25日 両日開催)10:00~16:00〇

スイーツ&フードTiny

ミニ縁日開催!唐揚げ、たこ焼きもあるよ。
海と里のフリーマーケット
 地元の食材や加工品の販売を行います

 

うみほし風呂日帰り入浴

 太陽熱と薪で沸かしたお風呂に入ろう!
 時間:10:00〜16:00
料金:一般550円 / 小学生以下330円

〇(24日限定)10:00~21:00〇

吹奏楽団ブルーマリンズ

京都府北部「舞鶴市」を活動拠点とし、2003年に発足したバンドです。
様々な地域イベント、演奏会、吹奏楽コンクールなどを中心に活動しています。
会社員、主婦、学生など、年齢も職業も様々なメンバーが
「楽しく、より多くの人と感動を」を目標とし練習に励んでいます。

 時間:17:30〜18:00
料金:無料

小料理屋足鹿[20食予約優先〕

とりもも、たこ串、いか串など色々(´﹃`)

ナイトパーク限定のスペシャルなメニューをお楽しみに!

時間:17:00~21:00

料金:各種300円~

 

Umihoshi Bar(数量限定!売り切れ御免)
 アルコールからソフトドリンクまでご用意しています。

 

土星観察[予約優先]
地球から14億kmもはるか遠くに位置する、太陽系で2番目に大きい惑星「土星」。

その大きさゆえに望遠鏡から見ることができます。土星の環を実際に見てみましょう!

時間:17:20〜19:00
料金:1,000円/人
定員:20名

 

ライトトラップ
光に集まる昆虫を観察しよう!運が良ければレアな昆虫なども見れるかも?

モミジはクロウスタビガ、ヒメヤママユなどを見たく思ってます。

時間:19:30〜21:00
料金:無料

、、、、、、、、、、、、、、、、、、

さああて、本物の錦秋は世屋高原、海星公園から、およそ15分、標高500m、自然共生サイト・マルヤ農林園を目指してください、な(^.^)(^.^)

自然共生サイト20251216ma6

【①】ありがとう、、、さて、農業、漁業、これは 職種、ですね、で、携わる人は、、ふと、、(^.^)

はははは!(^.^) そこに引っかかりましたか!

農業、漁業は「職種」なのか。では、そこに携わる人は何者なのか――。

  • 農業に携わる人は、農業者、農家、農民?

  • 漁業に携わる人は、漁業者、漁師、漁民?

似た言葉ですが、見えてくるものが違いますね。

**「農業者・漁業者」**は、仕事や産業の担い手という見方。

**「農家・漁家」**は、仕事と暮らしが結びついた家という見方。

**「農民・漁民」**は、土地や海と深く関わりながら生きてきた人々、という社会的・歴史的な見方を帯びます。

そして、安田さんが考えている天橋立・阿蘇海・世屋・伊根の世界では、もう一つの見方が大切になりそうです。

田んぼをつくる人は、米を生産するだけではない。水路を維持し、里山の環境をつくり、生き物の生息場所を支えている。

漁師は、魚を獲るだけではない。海の変化を知り、魚の動きを読み、地域の食文化や暮らしをつないでいる。

もちろん、すべての農業者や漁業者が同じ役割を担っているわけではありません。それでも、職業分類だけでは見えない関係があります。

つまり、「何の仕事をしている人か」と「どんな世界を支えながら生きている人か」は、同じではないのですね。

さてさて……安田さんの「ふと」は、ここから先に何かありそうですな。

もしかして、農業・漁業という産業分類と、そこで生きる人々の実際の姿との間に、何か引っかかるものがありましたか?(^.^)

【②田んぼをつくる人、、表現する言葉をゆたかにしておくと、境がにじみます、それによって他との繋がりが柔らかくなるだろうと思ったのです

】

ああ、なるほど!! (^.^)

安田さんが考えておられたのは、言葉の正確さというより、言葉の豊かさが、世界の境界線を柔らかくするということだったのですね。

「農業者」と呼べば、農業という産業の枠に人を置く。

でも、「田んぼをつくる人」と呼ぶと、少し違う世界が開きます。

田んぼをつくる人は、米をつくる人でもある。 水を引く人でもある。 山の水を受け止める人でもある。 畦を守り、草を刈り、生き物の住む場所をつくる人でもある。 そして、地域の風景を次の世代に手渡す人でもある。

その人は、農業だけの世界にいるのではありません。山にも、川にも、生き物にも、食卓にも、地域の歴史にもつながっています。

漁師も同じです。「魚を獲る人」と表現すれば、海の変化を読み、魚の命と向き合い、食卓へ命を届ける人という姿が見えてくる。

言葉の境界を、少しにじませる

農業者 → 田んぼをつくる人

米づくりから、水、土、山、生き物、食文化へ。

漁業者 → 魚を獲る人

漁獲から、魚の生態、海の変化、食卓、地域の記憶へ。

林業者 → 山に関わって生きる人

木を育てることから、水源、土砂、生き物、集落の営みへ。

もちろん、「農業者」「漁業者」という言葉が不要なのではありません。制度や統計では、明確な区分が必要です。

けれど、人と人、人と自然をつなぐ場では、別の言葉も持っておきたい。

分類する言葉と、つなぐ言葉。その両方を使い分ける。

ここが肝心なのだと思います。

そして、これは安田さんの「数珠紐と数珠珠理論」にも通じますね。

人を職業という珠に閉じ込めず、その人がどんな水に支えられ、どんな土に触れ、どんな命と関わっているかを言葉にしていく。すると、別々の珠だと思っていた農家、漁師、酒蔵の人、山を守る人、観光ガイドの間に、もともとあった紐が見えてくる。

伊根の漁師と上世屋の米づくりの人は、職種で分ければ別の世界の人です。でも、水の循環、食、地域の暮らしという言葉で眺めれば、つながり始める。

境界をなくすのではない。境界を硬くしすぎない。

これなら、それぞれの仕事の違いも尊重しながら、関係を見いだせます。

安田さんがツアーでやろうとしていることも、まさにこれではないでしょうか。

天橋立を見せる。伊根の舟屋を見せる。上世屋の棚田を見せる。

それだけで終わらず、そこに生きる人を訪ね、言葉を交わし、離れて見えたものの間に紐を通す。

そうして初めて、参加者の目の中に、「丹後は一つ」の意味が生まれる。

いやあ、これは言葉の話であると同時に、エコミュージアムの根っこの話でもありますね。(^.^)

【③ あいせよ天橋立丹後浦島ロード、、はもろもろの総合体としてみる、ということからいうと、分ける言葉とともに境を消す言葉、その大事さを意識しておきたいですね、、農人でもいい、ノウジンは、農神に渡してくれるじゃないですか、】

あああ、そこですか!!(^.^)

「農人」と書いて、ノウジンと読む。すると「農神」へと、言葉が渡っていく。

これは面白いですねえ!

「農業者」は、産業の担い手として人を捉える言葉。 「農人」は、農に関わって生きる人。その人の生き方や、自然との関係まで含み込める言葉です。

さらに「農神」となれば、農を支える自然への畏敬、田の神、豊穣への祈りが見えてくる。

もちろん、「農人」と「農神」は同じ言葉でも、歴史的に同じ意味でもありません。でも、言葉の響きが、人間の仕事から、人間を超えた世界へと想像を運んでくれる。 そこが豊かなんですね。

そして、これは「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」の考え方にぴたりと重なります。

農人と漁人。 田んぼと海。 山の水と阿蘇海の魚。 人の営みと、生き物の営み。 暮らしと信仰。

分ける言葉があれば、それぞれの違いを見失わずに済む。境をにじませる言葉があれば、別々に見えたものの間に関係が生まれる。

分けることは、理解の入口。つなぐことは、理解の深まり。

そして、境を消すのではなく、境の向こう側にあるものを想像できるようにする。

これが、安田さんのいう「総合体としてみる」ということなのだと思います。

天橋立だけを見れば、砂州。 阿蘇海だけを見れば、潟湖。 田んぼだけを見れば、農地。 漁師だけを見れば、職業。

けれど、それぞれをつなぐと、山から流れる水、田をつくる人、海を泳ぐ魚、祈りを捧げる人、景観を受け継ぐ人が、一つの大きな世界の中に見えてくる。

そこで「農人」という言葉が、「農神」への想像の扉にもなるわけです。

「あいせよ」は、愛せよであると同時に、見えなかった関係を見いだせ、という呼びかけにもなる。

いやあ、これはロードの案内板に書く説明ではなく、ロードを歩く人の目を育てる思想ですね。

そして、もう一つ。農人、漁人、山人、海人――こうした言葉を並べてみると、現代の職業分類では分かれている人々が、土地と命を介して、また出会い直す。

言葉を豊かにしておくことは、世界を狭く決めつけないための備えなのかもしれません。(^.^)

 「和の源流」豊かな自然で和紙作り | 山と生きる | 海の京都 Times

【④ あいせよ天橋立丹後浦島ロードを支えるのは自然との総合格闘家、、その猛者たち!! どんなところやねん(^.^)】

ははははは!!!!!(^.^)

自然との総合格闘家!! その猛者たち!!

いったい、どんなロードやねん!!(笑)

観光ガイドが案内するのは、景勝地と名所旧跡。 ところが、あいせよ天橋立丹後浦島ロードに来てみたら……

  • 山と格闘する農人がいる!

  • 海と格闘する漁人がいる!

  • 水と土と格闘する人がいる!

  • 生き物の声を聴き、自然の変化と向き合う人がいる!

  • 伝説と歴史を掘り起こし、見えないものを見ようとする人までいる!

しかも、誰も自然を打ち負かそうとしているわけではない。自然に抗い、自然から学び、自然と折り合いをつけながら生きている。

総合格闘家たちのリングは、丹後半島!

上世屋の棚田 ぶら丹後 花鳥風月

Aerial Amanohashidate Sandbar with Coastal Village and Mountainous Miyazu Bay

そして、ここが肝心です。

農人は農業だけの人ではない。漁人は漁業だけの人ではない。

田んぼをつくることが、山の保水や生き物のすみかにつながる。漁をすることが、海の変化を読むことにつながる。酒を醸すことが、米や水や土地の物語につながる。

一人ひとりは違う技を持つ猛者。それぞれの技は違うけれど、同じ大きな自然の中で生きている。

これこそ、安田さんのいう「総合体」ですね。

2023年 京都 宮津産オリーブ収穫シーズン ‼ - 宮津市ホームページ

では、何と闘っているのか?

相手は自然ではないのかもしれません。

自然を細切れにしてしまう見方。 仕事と仕事の間に引かれた、硬い境界線。 景観を消費するだけで、その景観を生み出した営みを見ない目。 そして、便利さや経済効率だけでは測れない価値を、見落としてしまうこと。

そんなものと格闘しながら、山・田んぼ・海・人・生き物・信仰・歴史のつながりを取り戻していく。

もちろん、自然と人間の利害が衝突することもある。阿蘇海の砂州と漁業の関係が、まさにそうでしたね。だからこそ、単純な「自然と仲良く」では済まない。考え、選び、時には対立し、折り合いを探る。それも格闘です。

そして、もう一つ大事なこと。猛者を見物するだけでは、このロードの面白さは半分。訪ねる人自身も、自然との格闘に参加する。

なぜこの田んぼはここにあるのか。 なぜこの魚は阿蘇海で育つのか。 なぜ山の上に寺があるのか。 なぜ砂州はこの形をしているのか。

答えを教えてもらって終わるのではなく、自分で問いを持ち帰る。

そうなったら、これはもう観光地巡りではありません。

「自然との総合格闘家たちに出会い、自分の中の総合格闘家を目覚めさせるロード」!!

ははははは!(^.^)

最後に、こんな紹介文はどうでしょう。

 あいせよ天橋立丹後浦島ロード

山と格闘する農人。海と向き合う漁人。水をつなぎ、土を育て、命を支える人々。

ここには、自然との総合格闘家たちがいる。

その技を見、その知恵に学び、自然と人間のつながりを掘り、つなぎ、問い返す。

いやあ、これは「伝説のツアー」より、ずっと手強い(笑)。

一度参加して終わりではない。来るたびに新しい猛者に出会い、自分の目も鍛えられていく。

丹後半島そのものが道場。自然が師匠。人が人をつなぐ数珠珠。

……さて、道場破りに来る観光客まで現れたら、いよいよ本物ですな!(^.^)

【① ありがとう、、天の橋立、、その形成史の始めを探っています、さて、終りも見据えるのも歴史の眼です(^.^)天橋立を世界遺産に、、天の橋立はいつまで天の橋立でいられるのでしょうか、地質的な天の橋立の終焉、見通して解説は可能ですか!】

安田さん、これは世界遺産を考えるうえで、避けて通れない問いですね。(^.^)

天橋立は、いつまで天橋立でいられるのか。

生まれた時期を探るなら、いつか姿を変える時期も考える。まさに、始まりと終わりを同時に見つめる「歴史の眼」です。

まず、大事なことを一つ。地質学的に、天橋立がいつ消えるかを現在の資料だけで特定することはできません。しかし、何が天橋立を維持し、何がその姿を変え、どんな条件が重なると存続が難しくなるのかは、かなり具体的に考えられます。

そして、京都府の資料には、すでに重要な警告が記されています。天橋立は戦後、砂州の侵食が進み、消滅の危険性も指摘された。その背景として、周辺河川で砂防堰堤が増え、砂礫の供給が減少したことが挙げられています。1951年以降は侵食防止の突堤が設置され、1987年からはサンドバイパスによって砂を人為的に移動させ、砂州の維持が図られています。

京都府
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つまり、天橋立の未来を考える際には、遠い将来の海面上昇だけでなく、すでに起きている土砂収支の変化と、人間による維持管理から考える必要があるのです。

1. 天橋立の「終わり」は、三つの意味で考える

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① 地形としての終わり

砂州が侵食され、幅が狭まり、最終的にはどこかで切断される。あるいは、海面上昇や波浪条件の変化によって、現在の細長い形を保てなくなる。

Amanohashidate Beach - Trip To Japan - Trip To Japan

② 白砂青松としての終わり

砂州そのものが残っても、砂浜がやせ、松が減り、現在の景観が変わる。これは地形の消滅より早く起こり得ます。京都府は、砂州の管理と松林の管理を一体で進める必要性を示しています。

京都府
天橋立 | まるごと北近畿

③ 文化的景観としての終わり

地形が残っていても、砂州を維持する自然の仕組みが失われたり、人々がその意味を理解し、引き継ぐ営みが途切れたりすれば、「天橋立らしさ」は変わり得ます。

世界遺産を考えるなら、この三つを区別することが大切です。地形の存続と、景観の存続と、文化的価値の継承は、同じ時計で動いているわけではありません。

2. 地質学的に、何が天橋立を終わらせるのか

大きく四つの要因が考えられます。

要因

天橋立への影響

土砂供給の減少

侵食された砂礫を補えず、砂州がやせる

沿岸漂砂の変化

波や沿岸流による砂の移動が変わり、場所によって侵食・堆積が進む

海面上昇・高潮・高波

砂州の越波、侵食、低地の浸水リスクが増す可能性

地形・海岸条件の長期変化

砂州の位置、幅、連続性が変わる

このうち、土砂供給の減少と沿岸漂砂の変化は、すでに天橋立の保全史に現れています。京都府の資料によれば、砂州は昭和20年代以降に侵食が問題となり、対策が必要になりました。

京都府
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海面上昇についても、国土交通省は、気候変動に伴って高潮・高波の影響が変わることを踏まえ、将来予測を取り入れた海岸保全への転換を進めています。

国土交通省

ただし、全国の砂浜について公表された消失予測を、そのまま天橋立に当てはめることはできません。天橋立は、湾内にある砂州であり、海底地形や漂砂の条件も独特です。将来を予測するには、地域の海面変化、波浪、砂の移動、砂州の断面変化を組み合わせた個別の評価が必要です。

3. では、あと何年もつのか?

ここは、率直に申し上げます。

現在参照できる資料だけでは、天橋立の地形が何年後に消滅するかという信頼できる年数は出せません。

過去の研究では、砂州が幅20数mにまで細り、切断が心配された時期があったと報告されています。一方、その後は保全対策が功を奏し、砂州の回復が確認されました。

J-STAGE

これは非常に重要な事実です。

天橋立は、自然の力だけで存続してきたわけでも、人間の力だけで存在しているわけでもありません。自然の土砂移動の上に、人間が砂を移し、構造物を設置し、松林を管理する営みが重なっています。

したがって、将来を考えるときには、「自然に任せれば何年もつか」だけでなく、どの程度の保全を、どのような環境条件のもとで、どこまで継続できるかを問わなければなりません。

4. 世界遺産を目指すなら、ここを問いにしたい

私なら、世界遺産の議論に次の問いを置きます。

天橋立は、どのような自然の仕組みによって生まれ、どのような条件によって存続し、何がその存続を脅かしているのか。そして、人間はその変化にどう向き合ってきたのか。

この問いなら、誕生から終焉までを一つの物語として扱えます。

  • 山地の地質と河川による土砂供給。

  • 海面変化と波・沿岸流による砂州の形成。

  • 近代以降の河川工事・港湾施設と漂砂の変化。

  • 侵食対策やサンドバイパスによる維持。

  • 将来の気候変動と、自然・文化的価値の継承。

こうした事実を積み上げることで、天橋立の価値を「美しいから守る」という主張から、自然の仕組みを理解し、その変化と向き合いながら継承してきた景観という、より深い説明へ発展させられます。

5. 私がいちばん大切だと思うこと

安田さん、天橋立の終焉を考えることは、悲観するためではないと思います。

むしろ、天橋立を永遠に変わらないものとして扱わないこと。砂州も、松林も、阿蘇海も、長い時間の中で変化してきた自然の一部だと認識することです。

そのうえで、何を守るのかを考える。

砂州の形なのか。白砂青松の景観なのか。山から海へとつながる自然の仕組みなのか。人々がその景観に抱いてきた記憶や信仰なのか。おそらく、どれか一つではありません。

「天橋立をいつまでも変えない」ことと、「天橋立の価値を未来へ伝える」ことは、必ずしも同じではない。

ここに、世界遺産を目指す運動の大きな問いがあると思います。

地形の変化を認めたうえで、その価値をどう継承するのか。自然の変化をどこまで受け入れ、どこから人間が介入するのか。

その議論まで含めてこそ、天橋立を「見る文化」から、「天橋立が生まれ、変化し続ける世界を見る文化」へと深められるのではないでしょうか。(^.^)

【② まったくそうですよね、エッフェル塔、あの素材は鉄ですね、、いつまでも建っていられるものではありません!!】

ははは!(^.^) まさに、そこなんですよ!

エッフェル塔も天橋立も、まったく違うものに見えますが、**「価値あるものを、時間の流れの中でどう未来へ引き継ぐのか」**という問いでは、つながりますね。

エッフェル塔は鉄でできた人工構造物。天橋立は砂礫が堆積してできた自然の地形。しかし、どちらも「一度できたら、永久にそのまま」というものではありません。

エッフェル塔は、鉄の腐食を防ぐために塗装を繰り返し、点検や補修を続けています。つまり、私たちが見ているあの姿は、鉄だけで保たれているのではなく、人間が手をかけ続けることで維持されている姿なのです。

天の橋立 雪舟Amanohasidatezu

天橋立も同じように、自然の土砂移動だけに任せるのではなく、侵食対策や砂の移動、松林の管理など、人間の営みが景観の存続を支えてきました。

そして、決定的な違いもあります。

エッフェル塔は、鉄という素材を補修・交換しながら、人工構造物としての形を維持できます。天橋立は、生きて動く砂州です。砂を投入しても、波や潮流が運び去ることがあり、地形そのものを固定することはできません。京都府が行っているサンドバイパスは、堆積した砂を侵食された側へ運び、自然の波の力を利用して砂浜を回復させる取り組みです。

The Eiffel Tower
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ここに、二つの遺産を考えるうえでの深い違いがあります。

エッフェル塔は、素材を守って形を残す。天橋立は、自然の営みを理解しながら、変化する地形と景観を引き継ぐ。

だから、天橋立を世界遺産にするということは、単に「この美しい形を永久に残します」と宣言することではないのでしょう。

山から土砂が供給され、川が運び、波が砂を動かし、人がその変化に向き合ってきた。その一連の関係を理解し、未来へ引き継ぐことです。

そして、もう一つ。

エッフェル塔が塗装を繰り返してきた歴史そのものが、技術と人間の努力の歴史です。同じように、天橋立の突堤やサンドバイパス、松林の管理も、自然と人間の関係の歴史として記録できます。

「いつまで残せるか」だけでなく、「何を、なぜ、どのように残そうとしてきたか」。

この問いを持てば、天橋立の保全の歴史そのものが、世界に伝えるべき物語になりそうです。

【③ ありがとう、エッフェル塔と雪舟さんの「天橋立絵図」を見比べています、ふと思ったのは、阿蘇海に丸みがない、あいうえお、の、あれ!!です、三角定規みたいだ(^.^) しかも、底辺の砂州と阿蘇海の西岸の確度が鋭い、、ウム】

はははは!(^.^) 阿蘇海が、丸くない。三角定規みたいだ!――これは、なかなか面白い観察です。

エッフェル塔と雪舟さんの『天橋立絵図』を見比べていたら、鉄塔の寿命の話から、今度は阿蘇海の輪郭に目が止まった。まさに「見えないものをみる」目が、地図の線にも働き始めていますね。

しかも、指摘されたのは単に三角形っぽいということではない。

  • 底辺にあたる南側――天橋立という砂州が、阿蘇海と宮津湾を隔てる。

  • 西側の岸――野田川の流域から山地、平野へとつながる地形が、阿蘇海の輪郭を形づくる。

  • 二つの線が出会うところ――角度が鋭く、丸い湖のような輪郭とは違う。

つまり、阿蘇海を「水がたまった場所」として眺めるのではなく、山地・河川・海岸・砂州がせめぎ合ってできた地形として眺めると、その鋭い角にも意味がありそうだ、ということですね。

ただし、ここは一つ慎重に。地図で鋭く見える角が、そのまま地質学的な境界や断層を示しているとは限りません。岸の形は、基盤の地形、河川が運ぶ土砂、波や沿岸流、埋め立てや護岸など、いくつもの要因が重なって決まります。

そして、調べてみると、京都府のレッドデータブックには、まさにこの輪郭を考える手掛かりがあります。

阿蘇海の北岸は山田断層崖の下に発達した複合扇状地に接し、西側からは野田川が流入して低平な三角州をつくると説明されています。つまり、阿蘇海の周囲には、異なる成り立ちの地形が接しているのです。

京都府
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ここからは、安田さんの「三角定規」を、もう一段掘ってみたい!

問いは、なぜ阿蘇海の西岸が、あんなに鋭い角をもつのか?

考える手掛かりは三つありそうです。

  1. 野田川の三角州――川が運んだ土砂が、海に向かって陸地を押し出してきた。

  2. 山地と平野の境界――北岸には山田断層崖と扇状地がある。山地の地形が、海岸線の形にも影響している可能性がある。

  3. 人間が変えた岸辺――野田川河口周辺には埋め立てによって人工的に改変された海岸線もある。現在の輪郭すべてが自然のままとは限らない。

    京都府
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もちろん、これだけで「鋭い角の原因はこれだ」と断定はできません。地形図や古地図、地質図を重ねて確かめたいところです。

そして、雪舟さんの絵に戻ると、もう一つ面白いことがあります。『天橋立図』は、現代の地図のように輪郭を正確に測量して写した図ではありません。それでも、砂州、阿蘇海、府中の町並み、背後の山塊が関係づけられて描かれています。

京都国立博物館 館蔵品データベース
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だから、エッフェル塔と雪舟さんの絵を見比べるというのも、実は深いですね。

  • エッフェル塔は、人間が設計して鉄でつくった形。

  • 天橋立は、自然がつくり、人間が意味を見いだしてきた形。

  • そして阿蘇海の三角形は、その二つの間にある、大地と水の長い営みが刻んだ形なのかもしれない。

ははは、ついに「あいうえお」の「あ」、阿蘇海が、天橋立の脇役から地形の主役に躍り出ましたね!(^.^)

三角定規の三辺を、山・川・砂州と読み解けるのか。 この仮説を地図で検証したら、阿蘇海を起点にした新しいSSHの授業ができそうです。

雪舟さんが成相寺を高く持ち上げたことと、阿蘇海を三角形にしたこと、何だこりゃ、、ですが、構図上の工夫かと思いました

なるほど! そこを「構図上の工夫」と考えると、雪舟さんの『天橋立図』が、また違って見えてきますね。(^.^)

成相寺を実際の地形以上に高く持ち上げ、阿蘇海を三角形のように描く。 もしこの二つが意図的な操作なら、雪舟さんは単に見たままを写したのではなく、見る人に何を見せるかを考えて、地形を組み替えていることになります。

ここで面白いのは、二つの操作が同じ方向を向いている可能性です。

  • 成相寺を高く描くことで、山上の寺を画面の中で際立たせる。

  • 阿蘇海を三角形に整理することで、海・砂州・山地の関係を、ひと目でつかめる構図にする。

ただし、これは現時点では構図の読み解きであって、雪舟本人の意図が確認されているという意味ではありません。絵の遠近法や地形表現を、現代の地図と同じ物差しで測らないことも大切です。

実際、京都国立博物館の解説も、成相寺の山を極端に高く描いたり、府中の町並みを横に引き伸ばしたりした点を挙げ、実景をそのまま写すのではなく、山水画の構成法で再構成したと説明しています。

天橋立図
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そこで、安田さんの「三角定規説」に戻ります。

成相寺を高くするのも、阿蘇海を三角形にするのも、天橋立を主役として際立たせるための一連の構図操作だったのではないか。

これは十分に検討する価値のある見立てです。阿蘇海を丸く、自然のままに描くよりも、三角形に整理した方が、画面の中で砂州の長い線が際立つ。成相寺の山を高くすれば、砂州の背後に大きな山の存在感が生まれる。

すると、雪舟さんは単に「天橋立は美しい」と描いたのではなく、天橋立を、山と海に挟まれた壮大な景観の中心として見せようとしたのかもしれません。

ただ、もう一つ大事な問いがあります。

雪舟さんは、天橋立を目立たせるために周囲を変形したのでしょうか。それとも、山・海・寺院・人の営みが一体となった世界を描くために、天橋立も含めて全体を組み直したのでしょうか。

後者なら、絵の主役は砂州だけではない。天橋立を生み出した世界そのものが主役になる。

安田さんの「掘る・繋ぐ・問い返す」にも、ぴたりと重なりますね。(^.^)

【① ありがとう、おもしろくなってきました、さて、ここまでを振り返って、いったん、阿蘇海を、流域的、地質的に定義してみてくださいな】

阿蘇海を、流域的・地質的に定義する

安田さん、ここまでの探究をいったんまとめるなら、私は阿蘇海を単なる「天橋立の内側にある海」とは定義しません。

阿蘇海とは、山地の地質と河川の土砂供給、海面変化、沿岸流による砂州形成が重なって成立した潟湖であり、その流域に生きる生物と人間の営みが結びついてきた、山から海までの一つの自然・生活システムである。

これを、流域的・地質的に分けてみます。

1. 流域的に見る阿蘇海――山から海まで

Aerial Amanohashidate Sandbar with Coastal Village and Mountainous Miyazu Bay

【京都府与謝野町で初開催!】【ヨサクエ】役場体感型インターンシップの参加者を募集 | 与謝野町役場のプレスリリース

京都府与謝野町 美しくて住みやすい安心安全なまちの実現事業 | たからとなかま オンライン企業版ふるさと納税寄付サイト

阿蘇海に直接つながる主要な河川は野田川です。野田川は大江山山系に源を発し、与謝野町の盆地・水田地帯を流れ、支川を集めて阿蘇海へ注ぎます。流域面積は約99.2 km²、幹川流路延長は約15.5 kmです。

京都府

そのため、阿蘇海を考えるときには、海岸線だけでなく、次のつながりを見なければなりません。

大江山山系・周囲の山地

岩石の風化、斜面侵食、土砂の生産

谷・支川・扇状地

土砂の運搬、堆積、農地や集落の形成

野田川・下流の三角州

砂・礫・泥の供給、河口低地の形成

阿蘇海・天橋立

土砂の堆積と移動、潟湖の維持、生物の生息環境

京都府の河川整備計画も、野田川の上流山地、中流の扇状地性低地、下流の三角州低地という地形の変化を記述しています。

京都府

ただし、阿蘇海の流域は野田川だけではありません。北岸などから流入する小河川や、湖岸に直接流れ込む水も含めて考える必要があります。

また、流域は水や土砂を運ぶだけの仕組みではありません。森林、農地、集落、生活排水もつながっています。京都府の阿蘇海環境づくり協働会議は、流域での生活様式や土地利用の変化が、河川からの汚濁負荷の増加に関係してきたことを指摘しています。

京都府

つまり、流域的な阿蘇海とは、水の出口としての海であると同時に、山・田んぼ・川・暮らしからの影響が集まる場所なのです。

2. 地質的に見る阿蘇海――古い谷と新しい堆積物

ここで、先ほどの野田川橋梁の工事記録が生きてきます。

阿蘇海の周辺には、性質の異なる地形が隣り合っています。

地形・地質

そこから読み解けること

山田断層崖と周囲の山地

地殻変動と地形の段差

風化した花崗岩などの基盤岩

山地を構成する岩石と、土砂の供給源

野田川低地の埋没谷

現在の平野の下に残る、過去の谷の地形

沖積層の砂・礫・泥

河川や沿岸環境による堆積の履歴

阿蘇海の湖底地形

潟湖の成立後に進んだ堆積と地形変化

天橋立の砂州

河川からの供給と、波・沿岸流による砂礫の移動

京都府レッドデータブックは、阿蘇海を面積約5 km²の潟湖とし、北岸では山田断層崖下の複合扇状地、西岸では野田川の三角州が接すると記しています。また、湖底の地形には湖棚や湖底段丘があり、過去の海面変化を反映している可能性が指摘されています。

京都府

この記述から見えてくるのは、阿蘇海が最初から現在の姿で存在したわけではない、ということです。

まず大地の起伏があり、谷が刻まれ、土砂が運ばれ、海面が変化し、低地が埋められる。そして、天橋立の砂州が成長することで、もともと宮津湾の一部だった海域が潟湖として隔てられていった。

京都府
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ただし、埋没谷の形成、沖積層の堆積、天橋立の成長は、それぞれ時間幅の異なる現象です。これらを一つの年代や単一の事件にまとめず、地層や年代測定の証拠で順序を確かめていくことが重要です。

3. 阿蘇海を成立させた「三つの力」

私は、阿蘇海の地質的な成り立ちを、三つの力の重なりとして捉えると分かりやすいと思います。

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第一の力:大地の構造

断層運動や長期的な地形変化が、山地と低地の配置を形づくる。そこに岩石の風化や斜面侵食が加わり、土砂の供給源が生まれる。

空撮:地形:河川:安曇川の河口(滋賀県高島市)|roadexplorer

第二の力:水と土砂の移動

河川が土砂を運び、谷や低地、河口に堆積させる。海面変化は河川の侵食・堆積の条件にも影響する。

雁ノ巣の砂嘴

第三の力:波と沿岸流

海岸の砂礫を移動させ、砂州を伸ばし、宮津湾と阿蘇海を隔てる地形を発達させる。

この三つは独立しているのではなく、互いに作用します。地質が土砂の種類を左右し、地形が水の流れを方向づけ、水の流れと波が堆積物を再配置する。その結果として、阿蘇海と天橋立の地形が成立してきたのです。

ここで注意したいのは、山田断層を阿蘇海や天橋立の直接の原因と断定しないこと。断層は重要な地質的背景ですが、現在の地形を理解するには、地殻変動、侵食、堆積、海面変化、沿岸流を合わせて考える必要があります。

4. いったんの定義――そして、その先へ

ここまでを踏まえ、現段階での定義を三段階にまとめます。

  • 地形としての阿蘇海: 天橋立の砂州によって宮津湾から隔てられた、面積約5 km²の潟湖。

  • 地質・流域としての阿蘇海: 山地の地質と河川の土砂供給、低地の埋積、海面変化、沿岸流による砂州形成が重なって成立した水域。

  • 自然・人間の関係としての阿蘇海: 山・森林・農地・河川・潟湖・砂州が水と物質を介してつながり、生物の生息環境と人々の漁業・農業・暮らしが結びついてきた地域システム。

そして、安田さんの「地域的凝縮性」という考えに重ねるなら、こう言えそうです。

阿蘇海は、大地の構造から土砂の移動、砂州の形成、生物の生息、そして人間の暮らしまでを、比較的コンパクトな地域の中で連続して読み解ける場所である。

これが、いまのところの私の定義です。

次に深掘りするなら、鍵になるのは「阿蘇海の地下に残る埋没谷・沖積層」と「天橋立の砂州が成長した時期」を、年代と地質資料でどう結びつけるかでしょう。

そこが明らかになれば、阿蘇海を単に「天橋立の内側の海」と見るのではなく、山地から海岸までの大地の履歴を読み解く入口として位置づけられると思います。

【② ありがとう、、あ・い・せ・よ!天の橋立、、このトップにおいたのが阿蘇海!!納得です】

はははは!(^.^) つながりましたね!!

「あ・い・せ・よ!天の橋立」――その最初の「あ」が、阿蘇海。

これは単に地名を並べた語呂合わせではなく、構想全体の入口として、意味が出てきましたね。

阿蘇海を掘り下げていくと、その向こうに見えてくるのは――

  • あ・阿蘇海――山地・断層・河川・土砂・砂州・魚の命が交わる水域。

  • い・伊根――海とともに生きてきた漁業、舟屋、暮らしの知恵。

  • せ・世屋――山地・棚田・森林・水源、生きものと人の営み。

  • よ・与謝野――野田川流域の田園、織物文化、山と海をつなぐ人々の暮らし。

そして、これらはバラバラの観光スポットではありません。水と土砂、生きもの、人の営み、歴史と信仰でつながっています。

阿蘇海を最初に置いたことで、構想の出発点もはっきりしてきました。

天橋立を見るために阿蘇海があるのではない。阿蘇海を生み出した大地と水の営みを知ることで、天橋立の見え方が変わる。

さらに、阿蘇海には金樽イワシがいる。砂州の発達は魚の移動や漁業との関係を問い直させる。そこには、人間の景観への思いと、生きものの生存条件が必ずしも一致しないという、簡単には割り切れない物語もある。

だから「あ」は、景色を眺める入口であると同時に、自然と人間の関係を問い始める入口なのですね。

安田さんの構想を一言で表すなら、

あ・い・せ・よ。天橋立を愛することから、天橋立を生み出した世界を知る旅へ。

いやあ、最初の一文字「あ」に、ずいぶん深いものが入ってきましたね! (^.^)

天橋立・阿蘇海周辺の旅程作りなら、ホテル滞在も一案です。

【③ はははは!!!!!あいせよあいうえお、、、!】

はははははは!!!!!!(^.^)

あ・い・せ・よ・あ・い・う・え・お!!!

出ましたね、丹後版「あいうえお」!!!!

「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」が、まさか日本語の五十音の入口にまでつながるとは!

  • あ 阿蘇海――大地と水、生きもののドラマ

  • い 伊根――海とともに生きる人々

  • せ 世屋――山と棚田、水源と里山の命

  • よ 与謝野――野田川流域と田園、織物文化、人々の営み

そして、その根っこにあるのが「あいうえお」!

これは、まだまだ遊べますね。

あ=あっ! 発見する。 い=いったい、なぜ? 問いを立てる。 う=うーむ! 考え、掘り下げる。 え=えっ、そうだったのか! 関係をつなぐ。 お=おおっ! 見方が変わる。

もちろん、これは今ここで生まれた遊びの案です。(^.^)

でも、安田さんがずっと大切にしてきた「掘る・繋ぐ・問い返す」と、子どもの探究の入口として相性がいい。

景色を見て「あっ、きれい!」で始まる。そこから「いったい、どうして?」へ。山や川や魚や人の暮らしを調べて、最後に「おお、天橋立の見え方が変わった!」となる。

観光の「あいうえお」から、探究の「あいうえお」へ。

そして、最後はやっぱり――

あいせよ、天橋立! あいせよ、丹後!

いやはや、これは子どもたちと一緒に考えたら、どんな「あいうえお」が飛び出すか、楽しみですねえ!!!!!

【① 天の橋立の北西部の山を作った山田断層について、解説くださいな】

おお、ここは天橋立の「地域的凝縮性」を考えるうえで、かなり大事な場所ですね!(^.^)

山田断層は、天橋立の北西側に広がる山地と、阿蘇海・宮津湾側の低地との関係を読み解く手がかりです。しかも、断層だけで話が終わらず、断層運動、山地の隆起、地すべり、土石流、河川の土砂供給、そして砂州の形成へと、いくつもの過程がつながってきます。

京都府の『天橋立の形成過程について』という論考も、丹後半島東側の山田断層による断層崖、伊根町から宮津市北部に集中する地すべり地形、土石流などを、天橋立の成り立ちを考える文脈で取り上げています。

京都府埋蔵文化財調査研究センター

1. 山田断層とは、どんな断層か

山の端っこがスパッと切れている?:京都府北部平坦~中山間地域【災害から身をまもるvol.21】|ゆるく楽しむ

資料3 1:25,000活断層図「宮津」「大江山」 | 国土地理院

山田断層帯は、京都府北部の丹後半島基部から兵庫県北部に延びる活断層帯です。地震調査研究推進本部による解説では、断層帯全体は北東―南西方向に延び、右横ずれを主体としながら、北西側が相対的に隆起する成分を持つとされています。
地震本部
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ここで大事なのは、断層が単純に山を押し上げるだけではないことです。

  • 横ずれ:断層の両側の土地が、水平方向にずれる。

  • 隆起・沈降:断層の両側で土地の高さが相対的に変わる。

  • 断層崖:こうした運動などによって生じた地形の段差が、地表に現れたもの。

国土地理院の活断層図では、宮津市日置付近から与謝野町上山田西方に延びる山田断層が、山地と低地の境界付近に位置し、扇状地を変位させていることも示されています。

国土地理院
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つまり、山田断層は、現在の山と低地の配置を読み解くうえで重要な構造なのです。ただし、現在見えている山地のすべてが山田断層によって生まれた、という意味ではありません。 もともとの地質や長期的な侵食、斜面崩壊なども関わっています。

2. 断層から、地すべり、土石流へ

ここからが、安田さんの関心にぴったり重なるところです。

① 断層運動

大地にずれや変形が生じ、山地と低地の地形にも影響する

② 風化・侵食・地すべり

岩盤や斜面が崩れ、土砂が谷や斜面の下部に移動する

③ 河川・土石流による運搬

土砂が谷から流れ出し、扇状地や河口、海岸へ運ばれる

④ 湾・海岸での堆積と再移動

波や沿岸流も加わり、砂州を形づくる材料が移動・堆積する

これは、地形形成を理解するための仮説的な因果の連鎖です。実際に天橋立でこの順番どおりの出来事が起きたと確定しているわけではなく、それぞれの段階を地質や堆積物の証拠で検証する必要があります。

京都府の論考は、丹後半島東側に地すべり地形が集中すること、地すべりでできた緩斜面に上世屋などの山間集落が形成されたことにも触れています。また、地すべりの原因を考える際には、地層中の滑りやすい面だけでなく、地震との関係も検討すべきだと論じています。

京都府埋蔵文化財調査研究センター

ここで、上世屋の棚田や集落も地形の物語に入ってきますね。人間が暮らしやすい緩斜面が、長い地形形成の過程で生まれた可能性がある。地形は、砂州の材料を供給するだけでなく、集落や生業の舞台もつくってきたのです。

3. 1927年の北丹後地震も、この土地の履歴

山田断層を考えるうえでは、1927年の北丹後地震も欠かせません。

この地震では、山田断層の一部で地表のずれが現れました。京都府のレッドデータブックには、1985年のトレンチ調査で、約60cmの上下変位を持つ逆断層が観察されたことも記録されています。

京都府
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ただし、断層帯全体が一様に動くわけではありません。区間ごとに活動履歴が異なり、地震のたびに地表へ現れる変位も同じとは限りません。

このことも、山地を一度の大事件で説明するのではなく、長い時間の中で繰り返された変動として捉える必要があることを教えてくれます。

4. そして、天橋立へ戻る

安田さんの探究に引きつけて整理すると、こうなります。

場所・要素

掘り下げる問い

山田断層

山地と低地の配置を、どのような地殻変動がつくったのか

地すべり地形

山の土砂はどこで生まれ、どこへ移動したのか

河川・扇状地

どの谷から、どのような土砂が運ばれたのか

阿蘇海・宮津湾

土砂はどこに堆積し、波や沿岸流でどう移動したのか

天橋立

その地形過程に、人の信仰・景観観・漁業・暮らしがどう重なったのか

ここで一つ、ぜひ強調したいことがあります。

山田断層があるから天橋立ができた、と直線的に結論づけるのではなく、断層がつくる大地の構造と、土砂を動かす水の作用をつないで考える。

これなら、地質学的に慎重でありながら、天橋立を山から海までの大きな物語として描けます。

山田断層は、天橋立の形成を直接説明する「答え」そのものというより、山地・地すべり・河川・湾・砂州の関係を掘り起こすための、重要な入口なのだと思います。

まさに「掘る・繋ぐ・問い返す」ですね。山を見て、砂州を見る。その間にある見えない時間と土砂の動きを探る。そこから天橋立が「美しい景色」から「大地と命の履歴を読める場所」へと変わっていくのではないでしょうか。

こちらもいかがですか?

【② ありがとう その山地に穴を開けました、自動車道です、この工事の過程で地質について明らかにされたことはありますか】
8s考えました

なるほど! 安田さんが注目されたのは、断層がつくった山地に自動車道のトンネルを掘ったとき、山の内部からどんな地質の証拠が見つかったのか、ということですね。これは面白い問いです。地表からは見えない地層や岩盤、断層による破砕、地下水の通り道などを、トンネル工事が直接観察する機会になります。

まず確認できたこととして、国土地理院の活断層図では、山田断層は宮津市日置付近から与謝野町上山田の西方まで延び、複数の分岐断層を伴い、断層が通る扇状地に地形のずれが認められています。

国土地理院

ただし、これは地表の調査結果です。自動車道のトンネル工事で、山田断層の地下延長や破砕帯が実際に確認されたかどうかは、別に調べなければなりません。

2. 工事記録から、実際に分かったこと

今回、工事記録を探したところ、丹後の自動車道建設に関して、たいへん興味深い資料が見つかりました。

水戸谷トンネル(旧・大宮第14トンネル)

山陰近畿自動車道・野田川大宮道路

延長約1,964 m。工事技術報告では、トンネル周辺の地質について、次の点が報告されています。

一般社団法人日本トンネル技術協会
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  • 主な岩石は、白亜紀後期に形成された宮津花崗岩類(黒雲母花崗岩)

  • 路線全体に岩盤の風化が強い

  • 近くに震源断層があり、断層破砕帯が連続

  • 断層に沿って、多くの湧泉が認められた

つまり、トンネルを掘ることで、地表の地形図だけでは見えない岩盤の状態と、断層・地下水の関係が明らかになったのです。

これはまさに、安田さんの着眼点に重なりますね。

断層は土地をずらすだけではありません。岩盤を砕き、割れ目をつくり、そこが地下水の通り道になる場合もある。山の中に穴を開けたことで、「大地の構造」と「水の動き」が一緒に見えてきたわけです。

ただし、ここは慎重に区別します。見つかった資料は水戸谷トンネルの工事記録で、山田断層そのものを掘り抜いて、その形成史を解明したという報告ではありません。 山田断層との位置関係や、破砕帯がどの断層に由来するかは、さらに照合が必要です。

3. もう一歩、天橋立の山へ

ここで一つ教えてください。

安田さんが念頭に置いておられる自動車道は、京都縦貫自動車道の宮津天橋立IC付近でしょうか。それとも、山陰近畿自動車道の与謝天橋立ICから野田川・大宮方面へ抜ける道路でしょうか。

道路の区間が特定できれば、そのトンネルの施工記録や地質縦断図を追って、断層破砕帯、岩石の種類、湧水、地すべりとの関係など、実際に工事で確認されたことを、天橋立の地形形成の問いにつないで整理できます。ここは一般論で済ませず、現場の記録を掘りたいところです。(^.^)

【③ 山陰近畿自動車道の与謝天橋立ICから野田川・大宮方面へ抜ける道路、、です!】

ありがとうございます、道路が特定できました! 山陰近畿自動車道の野田川大宮道路、与謝天橋立ICから京丹後大宮方面へ向かう約4.3 kmの区間ですね。2016年10月に供用開始した道路です。

京都府
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この区間で、地質を考えるうえで重要な資料が見つかりました。まず、トンネルだけでなく、起点側の野田川橋梁の工事記録にも、大地の内部を知る手がかりがあります。

1. 野田川大宮道路の工事資料で確認できたこと

新坂下トンネル | 株式会社 稲元興業

第14トンネルの掘削

2014年の京都府道路公社の工事広報には、第14トンネルの施工状況が掲載されています。掘削土(ズリ)を道路の盛土に利用していたことも記録されています。

happylibus.com
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ただし、この広報資料は工事の進捗・安全対策が中心で、断層破砕帯や地層の詳しい記載までは確認できませんでした。

野田川橋梁の基礎工事

国土交通省近畿地方整備局の技術報告では、橋梁の基礎について、起伏の大きい基盤岩の上に沖積層が堆積し、場所によって直接基礎と長さ約30 mの杭基礎を使い分けたと説明されています。

国土交通省近畿地方整備局

これは、野田川沿いの地下が一様ではなく、岩盤面の凹凸と、その上に重なる比較的新しい堆積物から成ることを示す工学的な証拠です。

2. 山田断層との関係は、まだ確認が必要です

京都府の資料によれば、山田断層崖は高さ約100~300 mに達し、崖の下には山地から流れ出した小河川がつくる複合扇状地があります。1927年の北丹後地震では、上山田付近で山地側が約70 cm隆起し、右横ずれ約80 cmの変位が記録されました。

京都府

ここから考えたいのは、次の三つです。

  • 山田断層の活動によって、山地と低地の境界がどう形づくられたか。

  • 断層による岩盤の破砕や、その後の風化・侵食が、斜面の崩壊や地下水にどう関係するか。

  • 山地から運ばれた土砂が、野田川の沖積地、さらに阿蘇海・宮津湾の堆積環境とどうつながるか。

ただし、橋梁基礎で岩盤面の起伏が確認されたことだけでは、それが山田断層の活動によるものとは言えません。 また、第14トンネルで山田断層そのものを横断したことや、そこで特定の断層破砕帯が確認されたことも、現時点で確認できた資料からは断定できません。

3. 次に探すべき資料

本当に知りたいのは、道路を造ったという記録よりも、掘った結果、山の中から何が出てきたかを記した資料でしょう。

  • 第14トンネルの地質縦断図・地質調査報告書

  • 掘削中の切羽観察記録(岩石の種類、亀裂、破砕帯、湧水など)

  • 京都府道路公社のトンネル施工記録・竣工報告

  • 路線沿いのボーリング柱状図

これらが見つかれば、地表の山田断層崖と、地下の岩盤構造を照合できる可能性があります。

安田さんの問いは、まさに「道路建設が、地域の大地についてどんな知識を残したのか」というものですね。道路は人や物を運ぶ施設であると同時に、建設の過程で地下の地質情報が得られる機会でもあります。その情報を地形・河川・砂州の形成史につなげられれば、天橋立の「地域的凝縮性」を語る、非常に具体的な材料になると思います。

【④ 国土交通省近畿地方整備局の技術報告では、橋梁の基礎について、起伏の大きい基盤岩の上に沖積層が堆積し、場所によって直接基礎と長さ約30 mの杭基礎を使い分けたと説明されています。image国土交通省近畿地方整備局、、、、、ここですね、沖積層が堆積し、場所によって直接基礎と長さ約30 m!!阿蘇海の歴史を閉じ込めている気がします、ここの所を深掘りください】

ああ、ここですね!(^.^) 安田さんが見つけられた資料、これは単なる道路工事の技術報告ではありません。野田川の河口近くの地下に、阿蘇海周辺の地形がたどってきた長い歴史を読み解く手がかりが記録されているのです。

今回、近畿地方整備局の技術発表資料を確認できました。正式な題名は「鳥取豊岡宮津自動車道野田川大宮道路 野田川橋梁下部工 鋼管ソイルセメント杭工の施工について」です。

国土交通省近畿地方整備局

1. 地下にあったのは「埋没谷」だった

報告書が記録しているのは、野田川橋梁の建設地点です。野田川の河口から約2 km上流にあり、地質調査の結果、次のことが分かりました。

  • 地下には、山間部へ細長く入り込む埋没谷がある。

  • その谷を埋めるように、沖積層が堆積している。

  • 沖積層の下にある支持層は、風化した花崗岩である。

  • 花崗岩の上面は平らではなく、起伏が大きい。

  • 沖積層の厚さは、薄い場所で5 m未満、厚い場所では最大約35 mに達する。

    国土交通省近畿地方整備局

ここが重要です。

地表から見ると、野田川沿いには平らな土地が広がっています。しかし、地下を掘ってみると、硬い岩盤の上面は凸凹で、場所によっては深い谷状の凹みがあり、その中を比較的新しい堆積物が埋めている。

現在の平野の下に、かつての谷の地形が保存されている。 これが「埋没谷」です。

そして、もう一つ驚く記録があります。橋脚の基礎工事で、直径約1 mの玉石と、長さ約2 mにもなる木の根が確認されているのです。

国土交通省近畿地方整備局

阿蘇海の歴史を地下に閉じ込めている――安田さんの直感は、ここで具体的な地質の問いになります。

2. 地下の地層は、何を語っているのか

出典:近畿地方整備局・野田川橋梁の地質縦断図

等々力渓谷公園 | 世田谷区公式ホームページ

① 粘土層(Ac)

水の流れが比較的穏やかな場所で、細かな泥が堆積した可能性があります。氾濫原や、かつて水がたまりやすかった環境を考える手がかりです。

excavation

② 砂層・礫層(As・Ag)

河川が砂や礫を運んで堆積させたことを考える材料です。粒の大きさや丸み、礫の種類を調べれば、流れの強さや供給源を検討できます。

石ころ観察の手引き|長野県デジタル地質図を活用した地学教材開発事業

③ 風化花崗岩(Gr・Gr-w)

沖積層の下にある基盤です。その表面に大きな起伏があるということは、堆積物がたまる前の地形も平坦ではなかったことを示します。

これらの地層区分と分布は、実際の技術報告に記載されています。

国土交通省近畿地方整備局

ただし、粘土だから湖、砂だから川、と一対一で決めることはできません。粒の大きさや堆積構造、化石、貝殻、植物片などを組み合わせて、当時の環境を復元する必要があります。

3. 「埋没谷」は、いつ、どうやってできたのか

ここが今回の大きなポイントです。

第1幕 谷が刻まれる

海面が現在より低かった時代、河川が地面を深く削り、谷を形成した可能性があります。山地の隆起や地質構造も、谷の形や位置に影響したと考えられます。

第2幕 海面が上がり、谷が埋まる

氷期の後に海面が上昇すると、海岸近くの谷には水が入り込み、河川から運ばれた泥・砂・礫などが堆積します。海面上昇と土砂の堆積が進むと、谷は埋められていきます。

第3幕 現在の平野が現れる

谷を埋めた堆積物の上に、現在の野田川沿いの低地が形成されます。地表が平らでも、地下にはかつての谷の形が残っているのです。

このような地形発達は、日本各地の沿岸低地で知られています。国土交通省の土地分類基本調査『宮津』も、野田川低地について、谷底が広いことや、地盤の沈降・海面上昇に伴って沖積層による埋積が進んだ可能性を記述しています。

国土数値情報

つまり、これは単なる想像ではありません。野田川の地下で確認された埋没谷と、地域の地形調査が示す低地の形成史は、互いに整合する方向を向いています。

ただし、野田川橋梁の調査だけで、谷が刻まれた年代や、海がどこまで入り込んでいたかまで確定したわけではありません。

4. そして、約1 mの玉石と、約2 mの木の根!

私はここが、とりわけ興味深いと思います。

橋梁の技術報告によると、野田川に近い橋脚付近では、事前のボーリングで想定していたよりも大きな玉石があり、試掘では最大約1 mのものが確認されました。また、別の橋脚付近では、長さ約2 mの木の根などが見つかりました。

国土交通省近畿地方整備局

この二つは、別々の問いを投げかけてくれます。

  • 大きな玉石は、どこから来たのか? 野田川上流から運ばれたのか、谷の中の古い河川堆積物に含まれていたのか。礫の岩種や丸み、周囲の地層を調べれば、運搬過程を検討できます。

  • 木の根は、どんな環境で埋まったのか? かつての河岸や森林、氾濫原に生えていた植物が埋没した可能性があります。ただし、根が見つかったというだけでは、その場所が森林だったのか、いつ埋まったのかまでは分かりません。

木の根が残っているということは、少なくとも、現在の地表とは異なる環境が過去に存在した可能性を示す手がかりです。もし樹種を同定でき、年代測定もできれば、環境復元の材料になるかもしれません。

しかし、今回の報告書は木の根の年代や樹種を調べる古環境研究ではなく、橋の基礎工事で遭遇した地中障害物を記録した技術報告です。ここは区別しておきましょう。

5. 阿蘇海の歴史を、どこまで読み取れるか

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天橋立#1 知っているようで知らない天橋立の基礎知識 - 宮津市ホームページ

湖沼図(湖沼データ)を使って、地域学習を深める | 国土地理院

野田川低地の地下と、阿蘇海の形成史をつなぐと、次のような大きな流れが見えてきます。

山地から土砂が供給される。谷が刻まれる。海面が変化する。谷が堆積物で埋まる。野田川が土砂を運び、河口に三角州をつくる。そして天橋立の砂州が発達して、阿蘇海を囲む地形が形成されていく。

京都府の土地分類基本調査でも、野田川河口の三角州と、阿蘇海の周囲から流れ込む土砂、さらにその漂砂が天橋立の堆積・侵食に関係することが記されています。

1991

もちろん、これらは一つの時代に一斉に起きたわけではありません。何千年、何万年という時間の中で、地殻変動、河川の流れ、海面変化、波や沿岸流が重なり、現在の風景に至ったのです。

そして、道路建設の技術報告は、その長い物語のうち、地表からは見えない地下の断面を、偶然ではなく工事の必要から詳しく調べた記録なのですね。

6. もし、もう一歩だけ掘るなら

次に探す価値があるのは、野田川橋梁の工事記録そのものよりも、そこで採取された地層を年代や環境と結びつける資料です。

  1. ボーリング柱状図と地質縦断図――各地点の地層の厚さ、岩盤の深さ、礫・砂・粘土の重なり方を比較する。

  2. 野田川低地の地形・地質調査資料――埋没谷の広がりや、海面変化に伴う埋積過程を検討する。

  3. 堆積物の年代測定・古環境分析――木片や植物片の年代、貝化石や微化石の有無などから、かつての環境を絞り込む。

安田さんの探究に引きつけて一言でいえば、こうでしょう。

天橋立をつくった土砂の物語は、砂州の上だけでは読めない。野田川の地下に埋もれた古い谷にも、その前史が記録されている。

道路をつくるために掘った地下が、地域の成り立ちを学ぶ教材になる。これぞ「見えないものをみる、それがSSH」ですね。

【① 八郎潟は「大河川が運んだ土砂によって、島が半島になり、海が湖になった」、、時代のニーズ、価値観、、なんですね、ひるがえって阿蘇海、おなじ時代のなかですから、古老は、形が変ったとおっしゃいますが、やはり葛藤はあったと想定されますね、あそかいを形の変化史、改変史、干拓史、、から紐解いていただけますか】

なるほど……。八郎潟の歴史をたどったことで、阿蘇海も違って見えてきたのですね。(^.^)

古老が「昔とは形が変わった」とおっしゃる。その言葉は、地図上の海岸線の変化だけでなく、海と陸の境界が動き、人々の暮らしが変わり、そのたびに地域の価値観や利害も揺れたという記憶なのかもしれません。

阿蘇海については、少なくとも三つの歴史を分けて調べたいと思います。

  • 自然の形成史――河川が運んだ土砂、砂州の成長、海面変化などによって、阿蘇海と天橋立がどう形づくられたか。

  • 人為的な改変史――干拓、埋め立て、護岸、河川改修、道路整備などで、海岸線や水の流れがどう変わったか。

  • 暮らしと価値観の歴史――漁業、農業、交通、治水、景観保全の間で、何が望まれ、何が失われたと感じられてきたか。

この三つを重ねることが大切です。八郎潟のように湖面を大規模に農地へ変える事業と、阿蘇海沿岸の部分的な干拓・埋め立て・護岸整備は、規模も目的も違う可能性があります。同じ「改変」という言葉でひとまとめにせず、時代ごとに追ってみましょう。

調べてみると、安田さん、阿蘇海にはまさに、時代ごとの価値観の葛藤を読み解ける歴史がありました。

なかでも驚くのは、江戸時代に、漁業のために天橋立を切って、阿蘇海と宮津湾をつなぎ直してほしい、という願い出があったことです。宮津市が紹介している史料に基づく話です。

宮津市ホームページ

つまり、阿蘇海の環境をめぐる対立は、現代の環境問題から始まったのではありません。砂州が成長し、海のつながりが変わったことによって、すでに江戸時代の人々が困り、異なる価値を主張していたのです。

阿蘇海の形の変化・改変史をたどる

Aerial Amanohashidate Sandbar with Coastal Village and Mountainous Miyazu Bay

① 約8,000〜9,000年前以降|海の一部から潟湖へ

自然の形成史

阿蘇海は、もともと宮津湾の一部でした。天橋立の砂州が成長して海の出入り口を狭め、現在のような閉鎖性の強い潟湖へと変化していきました。砂州の形成開始時期については、海底地形から約8,000〜9,000年前という可能性が指摘されています。

京都府
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野田川や世屋川・畑川などからの土砂供給と、波・沿岸流の作用が関係します。自然の地形形成史は、さらに調査を要する部分もあります。

雁ノ巣の砂嘴

② 江戸時代後期|砂州の成長と漁業の葛藤

自然の変化が社会問題になる

宮津市の解説によると、江戸時代後期には南側の砂州「小天橋」が形成され、阿蘇海の水質悪化が問題になりつつありました。

そして享保年間(1716〜1735年)、阿蘇海を漁場とする溝尻村から、魚が回遊してこなくなり不漁であるとして、天橋立を切断して宮津湾とつなげる「橋立裁断」が願い出られました。

宮津市ホームページ
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これに智恩寺は反対しました。天橋立は天下に比類のない景勝地であり、神々が降りた神聖な場所でもある、という理由です。

ここに、歴史的な対立があります。

溝尻村にとっての天橋立:漁場と生業に影響する地形

智恩寺にとっての天橋立:守るべき景勝地であり、神聖な場所

どちらも、その人々にとって大切なものを守ろうとしていたのです。現在の言葉でいえば、地域の生業と文化的景観の保全が衝突した事例といえます。

③ 近代以降|海岸線の変化と人為的な改変

砂州・港湾・河川・沿岸の整備

阿蘇海の海岸線は、自然の堆積だけでなく、埋め立てや港湾施設などによっても変わってきました。

京都府のレッドデータブックは、野田川河口の両岸付近では埋め立てにより従来の海岸線が人工的に改変された場所が多いと記しています。

京都府
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また、阿蘇海と天橋立の歴史をまとめた資料では、約100年前の1893年の図と現在の地形を比較し、南砂州の長さが当時約1.5km、現在約0.83kmとされることや、大天橋の水路幅の変化が指摘されています。これは重要な比較材料ですが、測定範囲や地図の精度も含め、原図を確認して検証したい数字です。

tangonotimei.com
安濃川河口、五主海岸 町屋海岸へ  8月28日 水曜日 | mukudoriのブログ

④ 1950年代以降|土砂の供給と沿岸漂砂の変化

自然の維持機構への人間の介入

天橋立そのものにも、戦後、大きな変化がありました。京都府は、世屋川・畑川などでの砂防工事や河川改修によって供給土砂が減少したこと、1950年代の港湾防波堤が沿岸漂砂を遮ったことなどを、砂浜侵食の要因として挙げています。1951年以降には侵食防止の突堤が築かれ、1987年からはサンドバイパスによる砂州の維持が行われています。

京都府
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ここで注目したいのは、自然がつくった地形を保全するために、人間が自然の土砂移動を補う段階に入っていることです。

滋味深く旨味が強い!「天橋立育成あさり」|宮津市広報

⑤ 高度経済成長期以降|水質・漁業・流域環境の問題

海岸線だけでは捉えられない改変史

1960年代以降、生活様式の変化、生活排水や工場排水、農業由来の汚濁負荷などが問題となりました。阿蘇海では富栄養化、底泥への有機物の蓄積、貧酸素化などが指摘され、魚介類の生息環境にも影響が及んでいます。

京都府
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これは、陸地を埋め立てるような目に見える改変とは異なります。海岸線が変わらなくても、流域の暮らしが変われば、海の中の環境も変わるのです。

阿蘇海の歴史を、もう一段深く読む

ここまでを整理すると、阿蘇海の歴史は、単なる「自然の湖が人間に改変された歴史」ではありません。

時代・局面

主な変化

問われた価値

地形形成期

砂州の成長、潟湖化

自然の営み

江戸時代

砂州成長と漁業への影響

生業と信仰・景観

近代以降

埋め立て、港湾整備、海岸線の改変

土地利用と地域経済

戦後

土砂供給・沿岸漂砂の変化

景観保全と防災

高度経済成長期以降

水質・底質・生息環境の変化

生活の利便性と環境保全

この表で大切なのは、それぞれの時代の人々が、何を守り、何を変えようとしたかを分けて考えることです。

私が特に注目したいのは、享保年間の「橋立裁断」です

安田さん、ここは見逃せません。

八郎潟では、戦後の食料増産という社会的な要請のもとに、湖の大部分が農地へ変えられました。

一方、阿蘇海では、江戸時代にすでに、砂州の成長による漁業への影響を受けて、砂州を切り開くという選択肢が提案されていたのです。

つまり、八郎潟では「湖を陸に変える」ことが大規模に実行され、阿蘇海では「陸になりつつある砂州を切って海をつなぐ」という要求が出された。

どちらも、自然の形そのものが人々の暮らしに影響するからこそ生まれた発想です。

そして阿蘇海では、景観と信仰を守る側の主張によって、橋立の切断は認められませんでした。宮津市の解説は、この対立を、地域の生業と文化的景観の保護の矛盾として捉えています。

宮津市ホームページ

もちろん、当時の漁業の不振が砂州の成長だけで起きたのか、また切断すれば問題が解決したのかは、別途検証が必要です。しかし、当時の人々がそのように考え、実際に願い出たこと自体に歴史的な意味があります。

天橋立は、自然がつくった景観であると同時に、その景観をどう扱うかをめぐって、人々が葛藤してきた場所でもある。

この見方は、世界遺産を考えるうえでも重要だと思います。自然と文化が単に並んで存在するのではなく、自然の変化が人々の生業や信仰を揺さぶり、人間の判断がまた自然の姿を変えてきた。その関係の歴史が、天橋立と阿蘇海には刻まれているのです。

次に掘るべき資料

本格的に「阿蘇海改変史」をつくるなら、私は次の三つを優先します。

  1. 古地図・絵図・航空写真の比較――阿蘇海の海岸線、南砂州、切戸、野田川河口、埋め立て地の変化を年代順に並べる。

  2. 『宮津市史』などの地域史料――橋立裁断の願い出、漁業や水運の記録、港湾整備・干拓の経緯を追う。

  3. 古老の証言との照合――「昔はここまで海だった」「あそこは形が変わった」という記憶を、地図や工事記録と突き合わせる。

古老の言葉は、地図に載らない変化を見つける手がかりになります。ただし、記憶をそのまま確定事実とせず、地図・写真・記録と照らし合わせることで、より強い歴史資料になります。

安田さんの言葉を借りれば、まさに「掘る・繋ぐ・問い返す」です。

阿蘇海は、砂州によって海から切り離された場所であるだけではない。その砂州をめぐって、漁師、寺院、地域社会が異なる未来を思い描いてきた場所でもある。

この歴史を、天橋立の自然史と重ねて読み解くことができれば、単なる景観紹介を超えた、丹後ならではのエコミュージアムの物語になると思います。

【② 阿蘇海では、江戸時代にすでに、砂州の成長による漁業への影響を受けて、砂州を切り開くという選択肢が提案されていた、、、フム、漁業の町、伊根はブリをシンボルフィッシュにしましたね、溝尻の皆さんはなにをシンボルフィッシュにされたか情報はありますか】

ははは、ありましたよ! しかも、安田さんの問いにぴったりの答えです。(^.^)

溝尻の皆さんが、歴史的に誇ってきた魚は「金樽鰯(きんたるいわし)」、つまりマイワシです。 宮津市の公式解説に記録されています。

宮津市ホームページ
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日本の海【マイワシ】|名古屋港水族館ホームページ<公式>

溝尻のシンボル候補「金樽鰯」

阿蘇海の名物・マイワシ

宮津市によれば、かつて溝尻では沖網によるイワシ漁が盛んで、阿蘇海のマイワシは「金樽(金太郎)鰮」と呼ばれていました。江戸時代には名物として知られ、俳諧師・蝶夢の『橋立秋の記』にも登場します。

さらに、大正時代には名物の「オイルサーディン」として全国に知られたとする宮津市の景観資料もあります。

宮津市ホームページ
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ここが、今回の歴史探究の面白いところです

伊根のブリと、溝尻の金樽鰯。

どちらも、単に「地元で獲れる魚」というだけではありません。

  • 伊根のブリは、定置網漁業や冬の食文化、漁村の営みを象徴する魚。

  • 溝尻の金樽鰯は、阿蘇海の漁場としての豊かさと、江戸時代から続く地域の名物を象徴する魚。

ところが、江戸時代の溝尻では、砂州の成長によって魚が回遊してこなくなり、不漁になったとして、天橋立を切断する願い出があったのです。

宮津市ホームページ

ここで、歴史の見え方が変わります。

天橋立は、溝尻の人々にとって、誇るべき景観である以前に、漁場の環境を左右する存在でもあった。

天橋立を守ろうとする側と、魚の獲れる海を取り戻そうとする側。どちらかが自然を愛し、どちらかが自然を軽んじていた、という単純な話ではありません。それぞれが、暮らしにとって欠かせない価値を守ろうとしていたのです。

そして、もう一つ。

金樽鰯という名前が、江戸時代の記録にも残っている。これは、安田さんが考えておられる阿蘇海の「形の変化史・改変史」を調べる際に、漁業の変化を追う手がかりになります。

ただし、当時の不漁が砂州の成長だけによるものだったかどうかは、別途検証が必要です。

山・川・砂州・海の形が変わる。その変化を、魚の名前と漁師の暮らしから読み解く。

これこそ、天橋立の景観史を、地域の生業の歴史とつなぐSSHですね。

ありがとう、、そのイワシの生態についてさらに解説いただけますか

ありがとうございます。(^.^) ここは、阿蘇海の歴史を読み解くうえで、実に大切な魚です。

宮津の「金樽鰯(きんたるいわし)」は、特別な魚種ではなく、阿蘇海で獲れるマイワシが、豊富な餌によって丸々と太り、脂ののった魚になることから呼ばれる地域名です。宮津市は旬を4〜10月ごろと紹介し、近年は漁獲量が大きく減って「幻の魚」と呼ばれるようになったと説明しています。

宮津市ホームページ
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では、このイワシはどんな生き物なのか。そして、なぜ阿蘇海で「金樽」と呼ばれるほどの魚になったのか。生態から見ていきましょう。

1. マイワシは、どんな魚なのか

マイワシ(まいわし)とは? 意味や使い方 - コトバンク

まいわし・マイワシ・真鰯・sardine・Sardinops melanostictus / ブログ / 酢飯屋 - 文京区水道、江戸川橋にある寿司、カフェ、ギャラリーの複合店

イワシの種類と見分け方!旬・食べ方を合わせて解説

マイワシは、ニシン科の海水魚です。体側に黒い斑点が並び、大きな群れをつくって泳ぎます。

生態の特徴を簡単にまとめると、次のようになります。

  • 餌:植物プランクトンや動物プランクトンなど。成長段階や餌環境によって利用する餌が変わります。

  • 群れ:大きな群れで行動し、餌を求めて移動します。

  • 回遊:季節や水温、餌の分布などに応じて広い海域を移動します。

  • 繁殖:海中に卵を放出する浮性卵の魚です。産卵時期や場所は海域・資源群によって異なります。

  • 資源変動:海水温、餌の量や質、仔稚魚の生き残りなどにより、資源量が大きく変動します。

    国立研究開発法人 水産研究・教育機構
    +2

マイワシの面白いところは、魚の数が多いか少ないかだけでなく、海の環境が変わると、繁殖や成長、生き残りまで変化することです。

2. なぜ阿蘇海のイワシは、丸々と太るのか

ここが「金樽鰯」の核心です。

阿蘇海の地形

天橋立によって宮津湾と隔てられ、海水交換が限られる

プランクトンが豊富な水環境

餌となる生物が多い

阿蘇海に入ったマイワシ

餌を十分に利用できれば、成長して脂を蓄える

金樽鰯

阿蘇海の豊かな餌環境が育む、地域の名物

宮津市は、阿蘇海では宮津湾よりも海水の出入りが少なく、餌となるプランクトンが多いため、イワシが太って脂がのると説明しています。

宮津市ホームページ
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ただし、ここは一つ注意したいところです。マイワシが阿蘇海でどれだけ太るかは、餌の量だけで決まるわけではありません。餌の質、水温、滞在時間、魚の大きさや成熟段階なども関係します。阿蘇海での成長過程を直接追ったデータがなければ、どの要因がどれほど効いているかまでは断定できません。

3. では、なぜ「幻の魚」になったのか

宮津市は、近年の漁獲量減少について、マイワシ自体の資源が減って阿蘇海に来る魚も少なくなったこと、さらに、阿蘇海に入っても十分に太る前に湾外へ出てしまう場合があり、漁獲のタイミングが難しいことを挙げています。

宮津市ホームページ

京都府の海洋センターも、マイワシの資源変動には気候変動や餌環境が関わると説明しています。

京都府

ここから考えられるのは、金樽鰯の価値が、単に「阿蘇海に魚がいる」ということではない点です。

外海から魚がやって来ること。阿蘇海にとどまること。豊かな餌を利用して太ること。そして漁師がその時期を捉えること。

この一連の条件がそろって、はじめて金樽鰯という地域の恵みになります。

4. 天橋立の歴史と、イワシの生態がつながる

安田さんが調べておられる江戸時代の「橋立裁断」の願い出を、ここから読み直せます。

砂州が成長すると、宮津湾と阿蘇海の間の水の交換や、魚が移動する条件が変わる可能性があります。漁師にとっては、魚の入り方や漁場の状態が変わることは、生活そのものに関わる問題です。

ただし、江戸時代の不漁が、砂州の成長による魚の移動阻害だけで起きたと確定しているわけではありません。 水温、餌、資源量、漁法など、ほかの要因も検討する必要があります。

それでも、歴史資料に残る漁師の訴えと、現代のマイワシの生態を重ねて考えることには大きな意味があります。

  • 砂州が成長する。

  • 海水交換や水の流れが変わる。

  • 魚の生息環境や移動条件が変わる可能性がある。

  • 漁獲や暮らしに影響が出る。

  • 人々が砂州をどう扱うべきか、判断を迫られる。

この連鎖を、証拠を確かめながら再構成していくのです。

天橋立は、眺める景観であるだけでなく、魚の生態と漁師の暮らしを通して、地形の変化が人間社会に及ぼす影響を考えられる場所でもある。

安田さんの「見えないものをみる、それがSSH」という言葉が、ここでも生きてきますね。

【③野田川は、天然サケの自然回遊の南限の河川とされていますね、阿蘇海はその通り道、漁獲の対象だったと想像しますが、野田川と阿蘇海とサケ、その記録の情報を下さいな  】

これは、阿蘇海と天橋立を考えるうえで、じつに面白い手がかりです!

野田川を遡るサケ、阿蘇海を通るサケ、そして溝尻の漁師が待っていた魚――。 この三つをつなぐと、天橋立は景勝地であるだけでなく、魚の回遊と人々の生業が交差する場所として見えてきます。

ただし、最初に一つ、整理しておきたい点があります。京都府の資料で「自然にサケが遡上する川の南限に近い」と代表的に紹介されているのは由良川です。一方、京都府レッドデータブックには、野田川でもサケの遡上が確認されていると記されています。ですから、野田川もその南限域を考えるうえで重要な河川です。

京都府
+1

1. 野田川とサケ――記録から分かること

野田川のシロザケ

① 現代の記録:野田川にサケが遡上する

京都府の資料では、野田川のほか、竹野川・宇川・大手川などでもサケの遡上が確認されています。ただし、自然個体群の現状については、確認情報が十分ではないともされています。

京都府
+1

与謝野町は、サケの遡上時期をおおむね10~12月、ピークは11月ごろと案内しています。

与謝野町
木簡庫 奈良文化財研究所:詳細

② 約1300年前の記録:丹後のサケを都へ

国土交通省近畿地方整備局の資料は、平城京跡から、丹後国からのサケの貢納を示す木簡が出土したことを紹介しています。そこには「与謝川」と読める記載もあり、野田川流域と古代のサケを結びつける重要な手がかりです。

国土交通省近畿地方整備局

ただし、古代の「与謝川」が現在の野田川とどの範囲で対応するか、またサケが具体的にどこで捕獲されたかは、木簡だけで断定しないほうがよいでしょう。

京都・丹波~丹後の旅(2)日本三景・天橋立を海から陸から空から️ - kotarosandayoneの日記

③ 阿蘇海での記録:天然の稚魚が確認された

近畿地方整備局の資料には、野田川ではサケの稚魚の放流が行われておらず、地元住民が野田川河口の阿蘇海で稚魚を確認したとあります。

国土交通省近畿地方整備局

これは大切な記録です。ただし、稚魚が阿蘇海で生まれたという意味ではありません。サケは川で生まれ、海で成長し、数年後に生まれた川へ戻る魚です。稚魚の確認は、野田川と阿蘇海を含む水域が、サケの生活史に関係している可能性を示します。

京都府
+1

2. 阿蘇海は、サケの「通り道」だったのか

地形から考えると、その仮説には十分な筋道があります。

日本海・宮津湾

サケが沿岸を回遊する海域

天橋立南端の水道を通じて出入り

阿蘇海

野田川河口へ続く内湾

野田川を遡上

野田川の上流域

産卵場所となる河床・湧水環境

阿蘇海は天橋立によって宮津湾から隔てられていますが、南端の水道で外海とつながり、西側には野田川が流入しています。したがって、サケが野田川を遡上する際に阿蘇海を経由するという見立ては、地形的にも自然です。

京都府
+1

ただし、サケが阿蘇海を何尾通過したか、阿蘇海内でどのように回遊したか、歴史的にどれほど漁獲されたかを直接示す記録は、今回確認できた資料からは見つかっていません。

3. 阿蘇海でサケも漁獲の対象だったのか

ここは、慎重に分けて考えたいところです。

  • 古代の記録: 丹後から都へサケが貢納されていたことを示す木簡がある。

  • 現代の生態記録: 野田川へのサケの遡上と、阿蘇海での稚魚の確認が報告されている。

  • 阿蘇海の漁業史: 溝尻ではイワシ漁が盛んで、とりわけマイワシの「金樽鰯(きんたるいわし)」が名物だった。江戸時代の記録にも登場する。

    国土交通省近畿地方整備局
    +1

つまり、サケが漁獲対象になっていた可能性は考えられますが、阿蘇海でサケ漁がどの程度行われていたかを示す具体的な漁獲記録は、まだ確認できていません。 古代の貢納記録だけから、阿蘇海で捕獲されたとまでは言えないのです。

4. ここから掘りたい、三つの問い

今回の発見を「掘る・繋ぐ・問い返す」で進めるなら、次の三点が面白そうです。

  1. 古代の「与謝川」と現在の野田川の関係――木簡の原文や出土状況、古代の地名研究を確かめる。

  2. 阿蘇海のサケの記録――地域史、漁業史、古文書、魚類調査報告に、サケの捕獲や

    ありがとう、命のドラマでは、阿蘇海の金樽イワシ、田沢湖にクニマス、、そのドラマを解説くださいな

    これは、天橋立と八郎潟をつなぐ「命のドラマ」の核心に近づいてきましたね。

    阿蘇海の金樽鰯(きんたるいわし)と、田沢湖のクニマス。一方は、豊かな海の恵みとして人々の暮らしを支えた魚。もう一方は、人間が湖の環境を変えたことで故郷から姿を消し、遠く離れた湖で生き残っていたことが分かった魚です。

    どちらも、魚の話だけではありません。水の環境が変わること、人間が水を利用すること、そしてその変化を受ける命の側から土地の歴史を読み直すこと――その話なのです。

    1. 阿蘇海の金樽鰯――豊かな水が育てた魚

    希少な宮津産の黄金に輝く金樽イワシ、入荷します。 | ショッパー桜川のニュース | まいぷれ[近江八幡市・東近江市・彦根市]

    宮津にも“舟屋”があった!?日本の漁村の原風景・溝尻の舟屋|宮津市広報

    【上越市立水族博物館 うみがたり】 2万尾のマイワシが煌めくマジックタイム 新イベント「舞鰯ShinyIlusion」(まいわしシャイニリュージョン)2022年3月19日(土)スタート! | 株式会社 横浜八景島のプレスリリース

    金樽鰯は、阿蘇海で獲れるマイワシの呼び名です。宮津市の紹介によると、阿蘇海は宮津湾に比べて海水交換が少なく、プランクトンが豊富で、そこに入ったイワシが脂の乗った魚に育つとされてきました。漁期はおおむね春から秋。かつてはよく獲れたものの、近年は漁獲が減り、貴重な魚になっています。

    宮津市ホームページ
    +1

    ここで大事なのは、阿蘇海が単なる「海の一部」ではないことです。

    • 天橋立が外海との水の交換を制限する。

    • 阿蘇海の水質やプランクトン環境が、魚の餌場としての性質に関わる。

    • 魚が入ってきて、十分に餌を食べ、脂が乗った時期に漁師が獲る。

    つまり、砂州の形、海水の動き、プランクトン、魚の回遊、漁師の技と暮らしが一つの仕組みをつくっていたのです。

    ただし、イワシの減少を天橋立の成長や海水交換だけで説明することはできません。マイワシの資源量は広い海域の水温や餌環境、稚魚の生き残りにも左右されます。京都府の海洋センターも、気候変動と餌となるプランクトンとの関係が資源変動に影響する可能性を指摘しています。

    【⑤ 「砂州は魚の道と人の暮らしにも関わるもの」、、ふむ、世界遺産目線、これは人と、魚とは、必ずしも一体ではない、とうけとめました、心すべきことですね!
    】

    そうなんです! そこに気づかれたのは、大きいと思います。(^.^)

    自然と人間は、深く結びついている。しかし、自然と人間の利害は、必ずしも一致しない。

    天橋立をめぐる歴史には、そのことを考える材料があります。

    • 砂州が成長する。 景観としては、天橋立が育っていく。

    • 阿蘇海の水の交換や魚の移動が変化する。 漁業にとっては、必ずしも望ましいことばかりではない。

    • 漁師が橋立を切り開きたいと願う。 生業を守ろうとする人々にとって、景観の保全とは別の切実な問題があった。

    もちろん、砂州の成長が不漁の原因だったのか、また、開削すれば漁業が回復したのかは、別途検証が必要です。しかし、異なる立場が存在したこと自体が、重要な歴史の入口になります。

    世界遺産を目指すなら、ここが肝心ですね

    私は、次の三つを分けて考えることが大切だと思います。

    自然の価値

    砂州がどのように形成され、山・川・海の作用によって維持され、変化してきたのか。

    生きものの価値

    魚はどこを通り、どこで育ち、どこへ向かうのか。人間の都合とは別の、生態系のつながりがある。

    人間の価値と暮らし

    景観を守りたい人、魚を獲りたい人、土地を利用したい人。それぞれの願いや必要があり、時には衝突する。

    そして、世界遺産として何を伝えるかは、この三つをただ並べるだけでは決まりません。それらがどのように関係し、どんな歴史を生み、現在まで何を残してきたのかを、証拠に基づいて説明する必要があります。

    ここで大切なのは、人間を自然の外側に置かないこと。しかし同時に、人間の願いを自然そのものの願いと取り違えないことです。

    天橋立の景観を守ることと、阿蘇海の生態系を守ることと、漁師の暮らしを守ること。重なる部分はありますが、いつも完全に一致するわけではありません。

    だからこそ、保全の方法を考えるときには、誰の利益が守られ、誰に負担が生じるのかまで問い返す必要があります。

    安田さんの言う「掘る・繋ぐ・問い返す」は、ここにも生きていますね。

    世界遺産にふさわしい物語とは、人と自然が仲良く暮らしてきたという美談だけではない。人と自然の関係が揺れ、葛藤し、それでも折り合いを探してきた歴史まで、きちんと見せられる物語ではないか。

    私は、そう考えます。

    そして、この視点は「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」にも通じます。阿蘇海だけでなく、伊根の海、世屋の山と棚田、与謝野の田園。それぞれに自然の論理と人間の暮らしがあり、両者の関係は同じではありません。

    それらを一つの美談にまとめず、違いを残したままつなぐ。

    まさに、数珠の珠は一つひとつ違う。その違いを消さずに、紐でつなぐ。

    世界遺産を目指す運動にも、地域を未来へつなぐ実践にも、忘れてはいけない視点だと思います。

    【⑦ ありがとう、命のドラマでは、阿蘇海の金樽イワシ、田沢湖にクニマス、、そのドラマを解説くださいな】

    これは、天橋立と八郎潟をつなぐ「命のドラマ」の核心に近づいてきましたね。

    阿蘇海の金樽鰯(きんたるいわし)と、田沢湖のクニマス。一方は、豊かな海の恵みとして人々の暮らしを支えた魚。もう一方は、人間が湖の環境を変えたことで故郷から姿を消し、遠く離れた湖で生き残っていたことが分かった魚です。

    どちらも、魚の話だけではありません。水の環境が変わること、人間が水を利用すること、そしてその変化を受ける命の側から土地の歴史を読み直すこと――その話なのです。

    1. 阿蘇海の金樽鰯――豊かな水が育てた魚

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    宮津にも“舟屋”があった!?日本の漁村の原風景・溝尻の舟屋|宮津市広報

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    金樽鰯は、阿蘇海で獲れるマイワシの呼び名です。宮津市の紹介によると、阿蘇海は宮津湾に比べて海水交換が少なく、プランクトンが豊富で、そこに入ったイワシが脂の乗った魚に育つとされてきました。漁期はおおむね春から秋。かつてはよく獲れたものの、近年は漁獲が減り、貴重な魚になっています。

    宮津市ホームページ
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    ここで大事なのは、阿蘇海が単なる「海の一部」ではないことです。

    • 天橋立が外海との水の交換を制限する。

    • 阿蘇海の水質やプランクトン環境が、魚の餌場としての性質に関わる。

    • 魚が入ってきて、十分に餌を食べ、脂が乗った時期に漁師が獲る。

    つまり、砂州の形、海水の動き、プランクトン、魚の回遊、漁師の技と暮らしが一つの仕組みをつくっていたのです。

    ただし、イワシの減少を天橋立の成長や海水交換だけで説明することはできません。マイワシの資源量は広い海域の水温や餌環境、稚魚の生き残りにも左右されます。京都府の海洋センターも、気候変動と餌となるプランクトンとの関係が資源変動に影響する可能性を指摘しています。

    京都府
    +1

    京都府
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    2. 田沢湖のクニマス――人間が故郷を奪い、命は別の湖で生きていた

    幻の魚クニマス 田沢湖クニマス未来館に行けば、生きたクニマスを見る事が出来ます! | 秋田県大館市を中心に断熱等級6&床下暖房による家計に優しい超省エネ・超快適な家造りを探求するブログ

    Lake Tazawa

    クニマス展示館と千葉治平

    クニマスの物語は、さらに厳しいものです。

    1. 田沢湖だけに生息していた魚。 クニマスは田沢湖の固有魚で、湖の深い場所で暮らし、古くから地元の人々に漁獲されていました。秋田県の資料には、1805年に秋田藩主へ塩引きのクニマス5匹を献上した記録も紹介されています。

      美の国あきたネット
    2. 1940年、湖の環境が変わる。 発電や農業用水などを目的として、強酸性の玉川の水が田沢湖へ導入されました。湖水が酸性化し、クニマスは姿を消しました。ほかの魚類にも深刻な影響が出ました。

      東北地方整備局
      +1
    3. 故郷では絶滅したと思われた。 しかし、田沢湖のクニマスの卵は、過去にほかの湖へ移植されていました。2010年、山梨県の西湖で採集された黒いマスが、研究によってクニマスと判明します。

      山梨県
      +1
    4. 命は残ったが、故郷には戻っていない。 現在、自然繁殖が確認されているのは西湖です。田沢湖で失われたクニマスが生き残っていたことは希望ですが、田沢湖の本来の生態系が元どおりになったわけではありません。

      山梨県
      +1

    ここで忘れてはならないのは、当時の人々が、魚を絶滅させようとして水を導いたわけではないということです。電力や農業用水を得るという社会的な目的がありました。

    しかし、人間にとって有益な水の利用が、ある生きものにとっては生存できない環境をつくってしまった。

    これがクニマスのドラマです。

    3. 金樽鰯とクニマス――二つの命の物語を比較する

    視点

    阿蘇海の金樽鰯

    田沢湖のクニマス

    命の特徴

    海域を回遊するマイワシ

    田沢湖に固有だった淡水魚

    人との関係

    漁業の恵み、地域の食文化

    漁業の恵み、地域固有の自然遺産

    環境との関係

    水の交換、餌環境、広域の資源変動

    強酸性水の導入による湖の酸性化

    人間の選択

    漁業と海域環境の変化が関わる

    水利用の変更が生息環境を大きく変えた

    現在への問い

    魚と漁業をどう未来へつなぐか

    失われた生息地と、残された命をどう守るか

    二つを同じ種類の事例として扱うのは適切ではありません。金樽鰯については、近年の減少の原因を一つに決められません。一方、クニマスについては、田沢湖への強酸性水の導入と絶滅との関係が、行政・研究機関の資料で明確に記録されています。

    それでも、共通する問いがあります。

    人間は、水を利用するとき、その水に生きる命の側から、どこまで未来を想像できていたのか。

    4. ここで、八郎潟と天橋立がつながる

    安田さんの構想に戻りましょう。

    • 天橋立では、山・川・湾・砂州の関係を読み解く。阿蘇海では、金樽鰯と漁師の暮らしから、水域の変化を考える。

    • 八郎潟では、河川からの土砂供給と砂州・潟湖の形成を読み解く。そして、干拓によって湖が農地へ変わった歴史を考える。

    • 田沢湖では、水の利用によって湖の環境が変わり、固有の魚が失われた歴史を読み解く。

    ここで注意したいのは、クニマスの物語の舞台は田沢湖であり、八郎潟ではないということです。三湖伝説では龍神の物語が両湖を結びますが、クニマスの絶滅史と八郎潟の干拓史は、別々の歴史です。

    それでも、伝承が土地をつなぎ、科学が水と地形の関係をつなぎ、命の記録が人間の選択を問い返す。三つの視点を重ねることはできます。

    私は、ここに「命からの目線」の本当の力があると思います。

    人間が何をつくったかだけでなく、その選択によって、ほかの命の世界がどう変わったかを問う。

    金樽鰯は、豊かな水域が育む恵みを教えてくれます。クニマスは、人間の計画が生きものの生存条件を変えてしまうことを教えてくれます。

    そして、天橋立と八郎潟は、その問いを地形の歴史にまで広げてくれる。

    「大きいことはいいことだ」と歩いてきた時代を振り返るとき、私たちは開発の成果だけでなく、そこで生きていた命の歴史も、同じ重さで語れるでしょうか。

    龍を語る。大地を読む。魚の一生を知る。そして、人間の選択を問い返す。

    これが、天橋立から丹後全体へ広げられる「命のドラマ」なのだと思います。

    こちらもいかがですか?

    【⑨ははは、、ここで注意したいのは、クニマスの物語の舞台は田沢湖であり、八郎潟ではないということです。三湖伝説では龍神の物語が両湖を結びますが、クニマスの絶滅史と八郎潟の干拓史は、別々の歴史です。、、八郎潟では70種もの魚介類の消滅、に衝撃を受けたものですから、そして秋田は民話の宝庫、ヒメと太郎でつないでいらっしゃいますから頭の中では一つになったのです(^.^)ね 】

    ははははは!!!!!(^.^)(^.^)

    なるほど、そういうことでしたか! 私のほうが、地理的な区分を守ろうとして、安田さんの頭の中で起きていた「物語の結合」を、いったん切り離してしまいましたね。失礼しました(笑)。

    安田さんの中では、ちゃんと一本の紐でつながっていた!

    八郎潟の70種もの魚介類の消滅という衝撃。三湖伝説の八郎太郎と辰子姫。そして、秋田という民話の豊かな土地。

    それぞれが別の事実でありながら、思考の中では一つの大きな問いを生み出したわけですね。

    「ヒメと太郎」がつなぐ、二つの湖と命の歴史

    八郎湖 | 観光・体験スポット | アキタファン

    八郎潟

    湖を干拓し、土地をつくる。その一方で、湖の生態系と漁業文化は大きく変わった。

    『田沢湖・たつこ像 青い空に♪  田沢湖周遊』田沢湖・乳頭温泉郷(秋田県)の旅行記・ブログ by どりーまーさん【フォートラベル】

    田沢湖

    辰子姫の伝説が伝わる湖。水の利用による環境変化で、固有魚クニマスが姿を消した。

    ここで重要なのは、八郎太郎と辰子姫が伝承の中で結ばれていることです。

    伝説の中では、八郎太郎は八郎潟の主となり、辰子姫は田沢湖の主となる。二人の往来によって、離れた湖が一つの物語世界になります。

    ところが、現実の歴史に目を向けると、八郎潟では大規模な干拓によって湖の環境が大きく変わり、田沢湖では水の導入による酸性化によってクニマスが姿を消しました。

    つまり、伝説の中では龍神たちが湖と湖を結び、現実の歴史では人間の選択が、それぞれの湖の命の世界を変えてきた。

    この対比が、安田さんの中で重なったのですね。

    そして、70種という数字の重さ

    ここは、私も立ち止まりたいところです。

    70種という数字は、単に魚の種類が減ったという話ではありません。湖が漁場であり、食料を得る場であり、漁師の技術や知識が育つ場であったことを考えると、失われたものは生物種だけではないからです。

    ただし、70種については、対象となる魚介類の範囲や、干拓前後のどの時点を比較した数字なのか、出典を確認しておきたいですね。「湖から消えた種」と「湖の縮小などによって生息場所を失った種」も、厳密には区別する必要があります。

    それでも、安田さんが衝撃を受けた核心は変わりません。

    人間は湖を農地に変えることができた。しかし、湖が育んできた命の世界を、同じように別の場所へ移し替えることはできなかった。

    この問いは、田沢湖のクニマスの歴史とも響き合います。

    そして、天橋立と阿蘇海にも戻ってきます。砂州の成長を景観の誕生としてだけ語るのではなく、その地形が魚の移動、水の交換、漁業の暮らしにどう関わってきたかを考える。

    八郎潟と阿蘇海は、同じ歴史ではありません。しかし、どちらも「水域を人間にとってどう利用するか」という問いと、「そこに生きる命にとって何が起きるか」という問いを、同時に考えさせてくれます。

    いやあ、これはまさに安田さんのSSHですね。

    ヒメと太郎で伝承をつなぐ。湖と湖を地形でつなぐ。魚と人間を命の歴史でつなぐ。

    そして、つないだところで終わらず、問い返す。

    「私たちは、何を豊かにしようとして、何を失ったのか。」

    この問いを、丹後の子どもたちにも、八郎潟を訪れる人たちにも手渡せたら、単なる観光案内や民話紹介を超えた学びになりますね。(^.^)

    【⑩

    • 田沢湖は、火山地形と人為的な水系変更の歴史を考える場所。
    • 八郎潟は、海とつながった汽水湖が、干拓によって大きく姿を変えた場所。
    • 米代川は、広大な山地流域から盆地を通って日本海へ流れる大河川。

    三者は一本の川でつながっているのではなく、秋田の山地・盆地・湖沼・海岸が、それぞれ異なる自然の仕組みと人間の働きかけによって形づくられてきたことを比較する対象なのです。、、、ありがとう、、起点ですね、、天橋立で考えておられる「地域的凝縮性」、一方は火山地形がと一方には地滑り地形が、、そこから物語が始まるところに興味を持ちました、火砕流とか土石流、が隠れているのだろうと,,(^.^)】

    ははは!(^.^) そこです、そこです! 湖や砂州を起点にするのではなく、その地形を生み出した「大地の事件」までさかのぼる。 すると、天橋立と秋田の三つの水辺が、地形の比較から、地球の営みを読み解く旅へと変わってきますね。

    しかも面白いのは、同じ「水辺の風景」でも、物語の始まりが違うことです。

    • 天橋立・阿蘇海――山地の隆起や斜面の崩壊、河川の土砂供給、波や沿岸流の働きをたどる。

    • 田沢湖――火山活動がつくった凹地と、その後の人為的な水系変更をたどる。

    • 八郎潟――海岸の砂州・砂丘列が海水の出入りを制限し、潟湖を生み、その後の干拓で姿を変えた過程をたどる。

    • 米代川――山地から盆地、平野、海岸へと続く、広大な流域の土砂と水の動きをたどる。

    ここで、安田さんの言う「地域的凝縮性」が効いてきます。天橋立では、山・川・湾・砂州の関係を比較的コンパクトな範囲で追える。一方、秋田では、火山・山地・盆地・河川・湖沼・海岸という、より大きな地形のつながりを比較できる。

    規模は違っても、風景の背後にある因果関係を掘るという探究の方法は同じなのですね。

    ただし、「火砕流・土石流」の居場所は、それぞれ違う

    ここは少し掘り分けると、さらに面白くなります。

    田沢湖では、火山そのものが大地の形を変えた。

    田沢湖はカルデラ湖として知られています。地質学の研究では、約200万〜180万年前のカルデラ形成に関係する火砕流密度流起源の堆積物や、岩屑なだれ堆積物が報告されています。つまり、湖の美しい青さの下には、火山の大きな活動と地形形成の履歴が隠れているのです。

    J-STAGE

    米代川では、火山の噴出物が川の地形史にも関わっている。

    米代川は奥羽山脈側に源を発し、花輪・大館・鷹巣の盆地を通り、能代平野から日本海へ流れます。流域の研究では、十和田火山などに関係する火山砕屑物と河岸段丘の関係も調べられています。火山は噴火した場所だけでなく、そこから運ばれた物質を通じて、遠くの川の地形にも影響するわけですね。

    CiNii Research
    +1

    八郎潟では、主役は火山よりも海岸の砂の移動。

    海とつながった汽水湖が、砂州などによって外海と隔てられ、潟湖となる。その後、人間が干拓して大地の利用方法を大きく変えた。ここでは、海岸地形の形成と人間の土地改変が物語の二つの大きな節目になります。

    Oga Peninsula – Ogata Geopark
    +1

    そして、天橋立では、山地から運ばれる土砂と、湾内の波・沿岸流とのせめぎ合いが、砂州を考える重要な手がかりです。京都府も天橋立を、生活と密着してきた貴重な海岸地形として位置づけています。

    京都府

    ただし、天橋立の形成を特定の地すべりや土石流だけで説明できるかどうかは、別途、地質や堆積物の証拠を確かめる必要があります。そこを決めつけないことも、SSHの大切なところです。

    ここから生まれる、ひとつの比較の問い

    大地の事件は、どのように水辺の風景になったのか?

    火山の噴火、斜面の崩壊、川による土砂の運搬、波による砂の移動、そして人間による水系変更や干拓。

    それぞれの作用が重なり、長い時間をかけて湖や川や砂州が生まれる。さらに、その場所に魚がすみ、人が暮らし、信仰や伝説が育つ。

    ここで安田さんの「命からの目線」が加わると、問いはもう一段深くなります。

    地形ができた。それだけでは終わらない。

    その地形が、どんな生きものの居場所をつくったのか。人間はそこから何を得て、何を変え、何を失ったのか。

    田沢湖のクニマス、八郎潟の魚介類、阿蘇海の金樽イワシ。これらは、地形の話の脇役ではありません。大地の履歴が、命の履歴につながっていることを教えてくれる存在です。

    そして、ここが天橋立の世界遺産を考えるうえでも大切なのではないでしょうか。

    「美しい砂州があります」ではなく、山から海までの自然の仕組み、その中で生まれた命、人間の営み、そして自然との関係を変えてきた選択まで語れるか。

    安田さんの言う「地域的凝縮性」は、単に狭い範囲に多くのものがあるという意味ではなさそうです。

    ひとつの風景を入口にして、大地・水・命・人間の関係を、どこまで深く読み解けるか。

    天橋立から始め、秋田の湖沼や河川と比べてみる。そうすると、丹後だけを眺めていては気づかなかったことが、逆に丹後の独自性を教えてくれるかもしれませんね。(^.^)

【①ありがとう、もう一つ、生物多様性保全上重要里地里山500、これについて制度の目的、課題、など情報、状況、を下さいな 】

ありがとうございます!(^.^)

これは、先ほどの「つなぐ棚田遺産271」と並べて考えると、面白いどころか、上世屋という地域を二つの異なる物差しで読み解くことができます。

今回の制度は、環境省の 「生物多様性保全上重要な里地里山(重要里地里山500)」。2015年12月に全国500か所が選定されました。

環境省
+1

そして、安田さんにとって特に重要なのは、宮津市の上世屋地区が、その500か所の一つとして選定されていることです。環境省の公式資料には、上世屋の棚田、広葉樹林、湿地、畦畔、そしてそこに生息する生きものや、地域で続けられてきた保全活動まで記載されています。

環境省

1. そもそも、なぜ「重要里地里山500」を選んだのか

日本の里100選・上世屋で作る美味しいお米の話|宮津市広報

京都府景観資産登録地区の紹介13/京都府ホームページ

まるで桃源郷……里山の原風景が今なお残る宮津の「世屋地区」|宮津市広報

環境省がこの制度を設けたのは、里地里山の自然が、放っておけばいつまでも残るものではないからです。

里地里山は、人の暮らしや農林業と自然が長い時間をかけて関わり合うことで形成されてきました。田んぼ、畦、水路、ため池、草地、雑木林、社寺林などが組み合わさり、多様な生きものの生息・生育環境になっています。

環境省
+1

ところが、人口減少、高齢化、農林業の変化によって人の手が入らなくなると、環境によっては生きもののすみかが失われ、里山の生態系そのものが衰退してしまいます。

そこで環境省は、全国の里地里山すべてを従来どおり維持することは難しいという現実を踏まえ、生物多様性保全の観点から特に重要な地域を明らかにし、地域内外の多様な主体による保全・活用を促すことを目的に500か所を選定したのです。

環境省
+1

ここで注目したいのは、「人の手が入っている自然」が、重要な保全対象になっていることです。

原生的な自然を守ることだけが自然保護ではない。人が暮らし、働き、手を入れてきた環境にも、守るべき生物多様性がある。これが制度の大切な出発点です。

2. 選定基準――何をもって「重要」としたのか

環境省は、次の3つの基準を設けました。原則として3基準のうち2つ以上に該当する地域を選び、全国的な重要性がある地域については別途判断する仕組みです。

環境省

基準

見ているもの

① 二次的自然環境

田畑、雑木林、草地、水路、湿地など、人の関与によって維持されてきた自然

② 生きものの多様性

里地里山に特徴的な動植物や希少種の生息・生育状況

③ 生態系ネットワーク

森・里・川・海や、生きものの移動・繁殖を支える環境のつながり

ここでいう「二次的自然」は、自然として二流という意味ではありません。人が長い時間をかけて利用し、手を入れながら維持してきた自然です。

たとえば、草刈りによって明るさが保たれる草地、稲作によって維持される水田と畦、薪炭林として利用されてきた雑木林。こうした環境に適応して生きてきた動植物がいます。

つまり、人の営みが生物多様性を支えることもあれば、営みが途絶えることで生物多様性が損なわれることもある。ここが里地里山保全の難しさであり、面白さでもあります。

3. 上世屋地区は、なぜ選ばれたのか

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里山レポ特別編 上世屋in京都府|Maya

環境省の上世屋地区の解説は、かなり具体的です。

環境省の公式評価

該当

基準1:多様で優れた二次的自然環境

棚田、集落、広葉樹を主体とする薪炭林が組み合わさった里山景観。

該当

基準2:多様な野生動植物

里山ブナ林、湿地、棚田、畦畔などが維持され、ジョウビタキやハッチョウトンボの生息が確認されている。

非該当

基準3:生態系ネットワーク

この基準には該当していない。ただし、これは上世屋に生態系のつながりがないという意味ではなく、選定時の基準に該当しなかったということです。

出典:環境省「重要里地里山・上世屋地区」

環境省

さらに、環境省の資料には、上世屋で20年以上前から農薬を使わない米づくりが行われてきたこと、NPO法人里山ネットワーク世屋などが自然体験活動を通して里山の保全・継承に取り組んできたことも記載されています。笹葺き民家の修復や藤織、藁草履づくりなど、文化や生業の継承も紹介されています。

環境省

これは重要です。上世屋の価値は、珍しい生きものがいるという一点だけではない。生きものの生息環境、農業、森林、集落、伝統技術が組み合わさっていることが評価されているのです。

4. ただし、選定は「保護指定」でも「補助金の保証」でもない

ここは制度を活用するうえで押さえておきたいところです。

重要里地里山500は、環境省が重要な地域を選定し、その価値を広く知ってもらい、保全・活用を促進するための仕組みです。

選定されたことによって、新たな土地利用規制が自動的に課されるわけではなく、従来どおりの管理を義務づけるものでもありません。また、選定そのものが継続的な補助金の交付を保証するものでもありません。

環境省

したがって、選定後に問われるのは、地域がその評価をどのように生かすかです。

  • 地域の自然環境を継続的に調べる。

  • 地域内外の人々が保全活動に参加できる仕組みをつくる。

  • 農産物や地域文化の価値を発信する。

  • 観光や環境学習を、実際の保全活動につなげる。

そして、もう一つ大切な点があります。環境省自身、500か所以外にも重要な里地里山はあると認め、地域ごとの調査や選定、情報の更新を課題に挙げています。

環境省

5. 現在の課題――2015年の評価を、いまの現実につなげられているか

2024年版の環境白書でも、里地里山について、農林業の担い手の減少や高齢化、人の利用の縮小に伴って、生物の生息・生育環境が悪化・衰退していることが指摘されています。

環境省

制度の趣旨から考えると、課題は大きく4つに整理できます。

  1. 生きものの現状を把握できているか。 2015年の選定時に確認された生息環境や種が、現在も維持されているか。

  2. 自然を支える人の営みが続いているか。 農業、草刈り、水路管理、森林の手入れなどが、誰によって担われているか。

  3. 地域外の協力が実際の保全につながっているか。 交流や体験で終わらず、継続的な人手・資金・知識の支援になっているか。

  4. 評価を地域の将来に生かせているか。 選定された価値が、農業、教育、観光、地域振興の具体的な活動につながっているか。

なお、これらは制度を評価するための論点です。全国500か所について、現在の保全成果を一律に測った最新の評価結果がそろっている、と確認できたわけではありません。上世屋についても、環境省の公開ページだけでは、選定後の生物多様性の変化を定量的に判断することはできません。

6. 「棚田271」と「重要里地里山500」を並べてみる

安田さんが先ほど尋ねられた棚田の制度と、今回の制度。ここに、それぞれの役割の違いがあります。

視点

つなぐ棚田遺産271

重要里地里山500

主な入口

棚田と農業、地域振興

生物多様性と里地里山の保全

注目するもの

棚田、農業の営み、地域の取り組み

森林、農地、湿地、生きもの、人の関与

目指す方向

棚田を守る人・支える人を増やす

重要な里地里山の保全・活用を促す

共通する課題

担い手、継続的な管理、地域外との連携

担い手、継続的な管理、地域外との連携

両制度は目的や選定基準が異なりますが、上世屋では、棚田という農業の場と、生物多様性を支える里山という場が重なっている。ここが大事です。

7. 安田さんの活動に引きつけて考えると

私は、この制度を「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」の中に位置づけるなら、単に「国に認められた里山です」と紹介するだけでは、もったいないと思います。

むしろ、来訪者にこんな問いを投げかけたい。

なぜ、この山里には棚田があり、湿地があり、ブナ林があり、そこに暮らす人々がいるのだろう。

そして、もし人がこの土地を離れ、田んぼや水路や森林に手を入れなくなったら、何が変わるのだろう。

その問いから、上世屋の自然と暮らしを調べ、松尾の棚田、伊根の海、阿蘇海、天橋立へと関係をつないでいく。

ここで初めて、環境省の「重要里地里山500」が、行政上の選定リストから、地域の未来を考えるための教材へと変わります。

棚田271は「田んぼから地域を見る入口」、重要里地里山500は「生きものと人の関係から地域を見る入口」。

そして、その二つの入口を行き来しながら、山・田んぼ・川・海・人々の営みを一つの物語として読み解く。それが、安田さんのいう「掘る・繋ぐ・問い返す」に、よく合っていると思います。

基準3:生態系ネットワーク、、これの内容と対象を解説くださいな

ここは、上世屋を考えるうえで、なかなか大事なところです。(^.^)

環境省の「重要里地里山500」の基準3、**「生態系ネットワークの形成に寄与する」**とは、簡単に言えば、ある場所だけを守るのではなく、生きものが生き続けるために必要な場所どうしのつながりを守るという考え方です。

環境省
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1. 「生態系ネットワーク」とは何か

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オオタカ

たとえば、ある谷に生きものがたくさんいたとします。しかし、その谷の湿地が埋め立てられ、周囲の森が切り離され、別の水辺との行き来もできなくなったらどうでしょう。

一つの場所に生きものが残っていても、餌場が不足したり、繁殖場所へ移動できなくなったり、ほかの集団との交流が途絶えたりする可能性があります。

そこで、環境省がいう生態系ネットワークは、次のような関係を重視します。

  • 核となる場所:生きものが繁殖し、休息し、餌を得ることのできる重要な自然環境

  • 移動・交流の経路:森林、河川、水路、草地など、生きものが移動するのに役立つ環境

  • 中継地点:渡り鳥などが移動の途中で休息したり、餌を取ったりする場所

  • 環境どうしの連続性:森・里・川・海などが分断されず、機能的につながっていること

これは、緑色の線を地図に引けば完成するという話ではありません。実際にどの生きものが、どんな環境を使い、どこへ移動するのか。その生態に即して考える必要があります。

環境省
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2. 基準3が対象にしているものは、主に3つ

環境省の選定資料では、基準3の評価ポイントを具体的に示しています。

環境省
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東雲の風 サシバ

① サシバ・オオタカなどから見た、里山のつながり

サシバやオオタカは、里山の豊かな生態系を象徴する猛禽類です。餌となる小動物や鳥類がいること、採餌できる農地や草地、営巣・休息に適した林など、複数の環境が必要になります。

こうした鳥が生息できる里山を各地に残すことは、地域単位だけでなく、全国的な生態系ネットワークの維持にも関係します。

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② 渡り鳥から見た、国際的なつながり

渡り鳥にとって、日本の湿地や水辺は、繁殖地と越冬地を結ぶ長い旅の途中で、休息し、餌を取る場所になることがあります。

そのため、ある地域の湿地を守ることが、日本国内だけでなく、国境を越えた渡りのルートを支えることにもなります。

トヨタ | 生物多様性

③ 森・里・川・海から見た、地域のつながり

森林と水田、水田と水路、水路と川、川と海。こうした環境がつながっていることで、生きものの移動や水・物質の循環が支えられます。

ただし、水が流れているだけで生態系ネットワークが成立するわけではありません。水質、流れの速さ、魚道や段差、河岸の植生なども、生きものによって重要になります。

この3つは、スケールが違います。

  • サシバ・オオタカは、里山の生息環境を地域間のつながりから見る。

  • 渡り鳥は、日本と海外を結ぶ広域のつながりから見る。

  • 森・里・川・海は、地域の生態系どうしのつながりから見る。

環境省の資料は、このように局地的・全国的・国際的な複数のスケールでネットワークを捉えています。

環境省

3. では、なぜ上世屋は基準3に該当しなかったのか

ここが、安田さんにとって一番気になるところかもしれませんね。

環境省の公式ページでは、上世屋地区は基準1・2に該当し、基準3は非該当となっています。

環境省

ただし、この判定は「上世屋には生態系のつながりがない」という意味ではありません。

選定時に用いられた情報と基準に照らし、基準3に該当すると評価されなかった、ということです。公開されている上世屋地区の説明だけでは、基準3の非該当理由を個別に詳しく特定することはできません。

上世屋の地形を考えると、調べる価値のある問いはむしろいくつもあります。

  • 棚田・湿地・水路の間を、カエルやトンボなどがどのように移動しているか。

  • 森林と農地の間で、鳥類や哺乳類がどのように環境を使い分けているか。

  • 上世屋川の上流から下流にかけて、生きものの生息環境がどう変化するか。

  • 上世屋の山地の水系と、下流域や海岸の生態系には、どのような関係があるか。

これらは、上世屋に実際にネットワークがあると先に決めつけるのではなく、調査して確かめるための問いです。

4. 安田さんの「山・田んぼ・海」の視点で考える

ここで、「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」との接点が見えてきます。

山・森林

水源、生息地、落ち葉や土砂の供給

上世屋・松尾の棚田、湿地、水路

農業と生きものの生息環境

河川・下流域・海

水や物質の移動、水域の生態系

概念図です。実際の生物の移動・水系の接続は、地図や現地調査で確かめる必要があります。

この図で大切なのは、山から海までを一本の矢印で描いたからといって、それだけで生態系ネットワークを証明したことにはならない、という点です。

たとえば、森林から流れ出る水が海まで届くことと、特定のトンボが森林から海まで移動することは別の話です。水のつながり、生きものの移動、栄養物質の流れ、それぞれを分けて調べる必要があります。

しかし、地域を理解する入口としては、この流域の視点が非常に有効です。

「上世屋の棚田を守る」とは、田んぼだけを守ることなのか。それとも、田んぼを成立させる森林、水、水路、集落の営みまで考えることなのか。

この問いは、重要里地里山の基準3を考えることから生まれてきます。

そして、安田さんが大切にしている「掘る・繋ぐ・問い返す」にもつながります。基準3を単なる認定項目で終わらせず、上世屋の自然を調べ直すための仮説として使う。そこに、五つの腕章を生かす余地があると思います。

【③ クマタカ、あさぎまだら、ツバメ、アカショウビン、八種類のカエルなどの存在、渡りが豊かにあります、これはどう評価されたのでしょうか】

おお、クマタカ、アサギマダラ、ツバメ、アカショウビン、そして8種類のカエルですか! 安田さんが現場で見てこられた上世屋の生きものの顔ぶれを聞くと、基準3をもう一度、丁寧に読み直す必要がありますね。

まず、前の説明を一つ訂正させてください。

環境省の「重要里地里山500」の基準3は、一般的な意味で生きものの移動や自然環境の連続性を評価する基準と、完全に同じではありません。 選定時の公式な評価ポイントとして明記されているのは、里山生態系のシンボルであるオオタカ・サシバの確認です。上世屋地区は、公式一覧で基準1・2が該当、基準3は非該当とされています。

環境省
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つまり、安田さんが挙げられた生きものが豊かに存在することと、2015年の選定で基準3に該当しなかったことは、矛盾しません。その生きものの豊かさが、選定時にどのような情報として把握され、どの基準で評価されたかを分けて考える必要があります。

1. 安田さんが挙げられた生きものを、制度の基準に照らすと

生きもの

生態から見えてくること

選定基準との関係

クマタカ

森林を基盤に、広い行動圏を使う猛禽類

森林生態系の質や広域的な生息環境を考える手がかり

アサギマダラ

季節的に長距離を移動するチョウ

移動経路、吸蜜植物、繁殖環境などのつながりを考える手がかり

ツバメ

渡りを行い、集落や農地周辺で採餌・繁殖する

農地・集落の環境と渡りのつながり

アカショウビン

夏鳥として渡来し、森林や水辺に近い環境を利用する

森林環境や繁殖環境の質を考える手がかり

8種類のカエル

種ごとに水田、湿地、水路、森林などを利用する

水辺環境の多様性と、繁殖地・越冬場所などの連続性を考える手がかり

ただし、ここで区別したいのは、生態学的にネットワークを考えるうえで重要な生きものと、2015年の制度で基準3の該当を判断するために使われた情報は同じではない、という点です。

環境省は基準3の評価ポイントとして、オオタカ・サシバのほか、渡り鳥にとって国際的に重要な生息地・中継地点であること、さらに生きものの視点や森・里・川・海の視点から見たつながりを挙げています。

環境省

したがって、アサギマダラやツバメが渡るという事実だけで、直ちに基準3に該当するとは限りません。たとえば、渡りの時期や個体数、上世屋が移動経路や中継地点として果たす役割などの情報があれば、評価の根拠をより具体的にできます。

2. では、上世屋の豊かな生物相は、なぜ基準3に反映されなかったのか

確認できた公式資料から言えるのは、次の3点です。

  • 上世屋は、棚田・湿地・ブナ林などの環境と、ジョウビタキ・ハッチョウトンボの生息情報を根拠として、基準1・2に該当しています。

    環境省
  • 選定は、全国規模の既存調査データや自治体等から得た地域情報を基に候補地を抽出し、専門家が評価する方式でした。

    環境省
  • 公開されている上世屋地区の説明には、安田さんが挙げられたクマタカ、アサギマダラ、ツバメ、アカショウビン、8種類のカエルが、どのように評価されたかの記載はありません。

ですから、これらが「調査されなかった」「評価されなかった」とまでは断定できません。一方、それらの存在が基準3の該当を裏づける根拠として、公開資料に示されていないことは確かです。

3. ここから先は、現地の情報を生かせます

安田さんが把握しておられる生きものの記録は、2015年の選定資料を読み直すうえでも、上世屋の生物多様性を現在の視点で評価するうえでも、貴重な出発点です。

もし記録を整理するなら、次の4項目が役立ちます。

  • 種名と確認年月:いつ、どこで確認されたか。

  • 生息・繁殖状況:通過しただけなのか、採餌・繁殖・越冬などに利用しているのか。

  • 移動の情報:季節的な渡り、個体数の変化、利用する環境のつながり。

  • 環境との関係:森林、棚田、湿地、水路、集落など、どの環境が生きものを支えているのか。

とくに8種類のカエルについては、種ごとの繁殖場所と、森林などへ移動する経路を把握すると、棚田や水路がどのような役割を果たしているかを具体的に考えられます。

そして、クマタカや渡りをする生きものについては、上世屋だけでなく周辺地域の記録も重ねることで、より広い範囲でのつながりを検討できます。

安田さん、ここで一つ、確かめたいことがあります。

クマタカ、アサギマダラ、ツバメ、アカショウビン、8種類のカエルという記録は、上世屋でのご自身の観察や調査記録でしょうか。それとも、地域の調査報告書などにまとめられた記録でしょうか。

記録の出どころが分かれば、環境省の2015年の評価資料と照らし合わせながら、上世屋の生物多様性がどこまで評価に反映されていたのか、さらに掘り下げられます。

【④ 『わたくし』が確認しました(^.^)】

ははははは!!!(^.^)

そうでしたか! 八種類のカエルも、クマタカも、アサギマダラも、ツバメも、アカショウビンも、安田さんご自身が確認された。 これは話の見え方が変わってきますね。

しかも、五つの腕章を持つ方の現地観察ですから、単に「珍しい生き物がいました」という話ではありません。上世屋の自然を、実際に歩き、見つめ、確かめてきた記録です。

ここで、私は一つ大事な問いを置きたいのです。

「確認されている自然」と「評価された自然」は、同じでしょうか?

環境省の「生物多様性保全上重要な里地里山500」で、上世屋地区は選定基準の①と②に該当し、③には該当しないと整理されています。

しかし、これは 上世屋に生態系のつながりがない、という意味ではありません。

安田さんの観察記録が選定時にどのように扱われたかは、公開資料だけでは断定できません。ここは慎重に分ける必要があります。

安田さんの観察

そこから考えられること

クマタカ

森林環境と、広い範囲にまたがる生息環境

アサギマダラ

季節移動と、移動を支える植生・吸蜜環境

ツバメ、アカショウビン

渡りと、繁殖・採餌に利用する環境

8種類のカエル

水田・湿地・水路・森林などを結ぶ生活環境

もちろん、これらの存在だけで選定基準③に該当すると決まるわけではありません。いつ、どこで、何をしていたのか。繁殖しているのか、通過しているのか。周囲の環境とどうつながるのか。そこまで整理すると、観察記録は地域の生態系を説明する証拠になっていきます。

ここからが、面白いところです。

安田さんが確認してきた生き物たちは、2015年の選定時に十分に評価されなかった可能性があるのか。それとも、選定の基準そのものが、上世屋の自然の豊かさを十分に拾いきれないのか。

この二つは、似ているようで違います。

そして、これは上世屋だけの話ではありません。棚田を農業生産の場としてだけ見るのか、生き物の繁殖地、森と水辺の接点、人の営みが維持してきた環境として見るのか。見方によって、評価される価値が変わります。

安田さんの「数珠紐と数珠珠理論」でいえば、生き物はそれぞれの珠。けれども、珠の種類を数えるだけでは、珠をつないでいる紐の存在までは見えてこないのですね。

一つ、ぜひ教えてください。

八種類のカエルは、上世屋の棚田や水路、湿地などで繁殖を確認した種類ですか? それとも、成体や幼生を含め、地域内で確認した種類の合計でしょうか?

ここが分かると、上世屋の生態系のつながりを、もう一段具体的に考えられます。

 

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