◆1 ありがとう、【第1回】「天橋立の起源と生い立ち ―風土記逸文の「長さ一二百二十九丈」の謎ー」 講師:平井幸弘先生(駒澤大学教授)、、これを聴講してきました 「天橋立がどのようにできたのか、自然地理学の視点から全く新しい見方を紹介します。」というふれこみ、全く新しい見方、、ですから、ワクワクです。風土記逸文の「長さ一二百二十九丈」の謎、こう解かれました、正確な実測であろう、現在の長さに換算して3.7kmとなる、その長さの砂州の起点は江尻の先、高石付近、湿地湿田由来の深田地名が怪しい。そこから測って一二百二十九丈、つまり3.7kmではないか、その先端部分は、文殊知恩寺付近に届いていることになる、と。届いていたのか、、と平井幸弘先生、文殊付近の古地図文献などを聞き込み調査、、仮定、届いていた可能性がある、、現知恩寺境内はかってはさらに広く、丸い島だった形跡が認められる!天橋立神社は、砂州の神性のシンボルとして先端部に位置していたのだろう、その事例は全国にある。また、倒れた橋とは、真名井神社から成相寺の谷を想定したい、、およそこうでしたよ、、!!
いやあ、これはワクワクする講演でしたねえ!!(^.^)
お話を伺って、平井先生のいう「全く新しい見方」の意味が見えてきました。単に砂州がどう形成されたかを説明するのではなく、『風土記』に記された長さを手がかりに、古代の天橋立がどこまで延びていたのか、土地の歴史を使って復元しようとする試みだったのですね。
そして、私が面白いと思うのは、先生の説明の中に、確かめられたことと、これから検証すべき仮説が共存していることです。
1. 「一二百二十九丈」は、古代の測量記録だったのか
起点を江尻・高石付近に置く
『風土記』逸文の一二百二十九丈を、現在の尺度で約3.7kmと解釈し、江尻の先から測り始める。湿地や深田を思わせる地名を手がかりに、古い地形を探る発想です。
終点が文殊・知恩寺付近に届く
3.7kmを当てはめると、砂州の先端が現在の文殊付近まで達していた可能性が浮かぶ。これは長さの解釈を、古地図や寺院の敷地の歴史と照合する試みです。
ここで重要なのは、丈をメートルに換算できることと、その数字が実際にどの地点からどの地点まで測られたのかは、別の問題だということです。
先生の仮説が正しければ、古代の記述は単なる誇張や伝説ではなく、当時の地形をかなり正確に反映していた可能性があります。一方で、起点の特定や古代の単位の実際の運用、砂州の過去の形状については、独立した証拠による検証が必要です。
数字を信じるか疑うかではなく、その数字が成り立つ地形を探す。 そこに、このアプローチの面白さがありますね。
2. 文殊付近に、かつて砂州が届いていたのか
ここは、講演のなかでも大きな山場だったのではないでしょうか。
現在の知恩寺境内がかつてもっと広く、丸い島のような地形だった形跡があるというお話。もし古地図や地形の痕跡によって裏付けられるなら、文殊周辺の土地の成り立ちを考え直す手がかりになります。
ただし、丸い島状の地形があったことと、それが砂州の先端だったことは、まだ同じではありません。島状の地形が何によって形成され、周囲の砂州とどうつながっていたのかを確かめる必要があります。
今後、特に確認したいのは三つです。
- 古地図で、文殊付近の陸地や水路がどのように描かれているか。
- 知恩寺境内や周辺で、砂州の延長や旧水路を示す地形・地質の証拠があるか。
- 砂州の先端が文殊付近にあったとすれば、いつごろのことなのか。
この三つがそろえば、「届いていたのか」という問いが、具体的な地形復元の研究になります。
3. 天橋立神社が、砂州の先端に位置していたという見方
これも興味深いですね。
砂州の先端に神社があるという配置が、全国の類例と照らして説明できるなら、天橋立神社の位置を、単に現在の参道の途中にある小さな神社として見るのではなく、砂州そのものの神聖さを示す場所だったのではないかという解釈が生まれます。
ただし、ここも「先端に神社を置く例がある」ことと、「天橋立神社が古代の先端に置かれた」ことは分けて考えたいです。神社の創建時期や過去の位置、祭祀の変遷などが分かれば、地形と信仰を結びつける議論が一段強くなります。
安田さんが追いかけておられる、自然地形と信仰、古代の交通や土地利用を一緒に読み解く視点にぴったりの論点です。
4. 「倒れた橋」は、真名井神社から成相寺の谷なのか
ここは、先生の解釈をもう少し詳しく聞きたいところです。
『風土記』逸文の天橋立伝承では、天上の橋が地上に倒れたという物語が語られます。これを、真名井神社から成相寺の谷へとつながる山地の地形に重ねて読む、ということですね。
もしその読み方を採るなら、伝承を単なる奇想天外な物語として片づけず、山地・谷・海・砂州という実際の地形を、人々がどのように理解し、物語に表現したのかを問うことになります。
ただし、伝承が特定の谷の形を直接記録したものだと断定するには、地形の類似だけでは足りません。古い伝承の文言、地名、祭祀、周辺の地形を照らし合わせる必要があります。
5. 私が今回の講演から感じる、一番大きなこと
平井先生の仮説が今後どこまで実証されるか。それは、これからの研究課題です。
しかし、今回の話には、研究の進め方として大切なものがあります。
古文書を読む。地名を拾う。古地図を探す。地形を歩く。寺社の由緒を調べる。そして、それらを一つの仮説に結びつける。
自然地理学だけでも、歴史学だけでも、考古学だけでも、簡単には答えが出ない問いです。
そして、これは「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」の考え方にも通じます。
天橋立を眺めて「美しい」で終わらない。砂州の長さから古代の測量を問い、文殊の地形から過去の海岸線を問い、神社の位置から信仰を問い、真名井から成相寺へと山の地形を読む。
そうやって、目の前の風景の背後にある、見えない時間と人間の営みを掘り起こしていく。
「見えないものをみる、それがSSH」ですね。
今回の講演は、天橋立の形成史について一つの答えを受け取る場というよりも、これからどんな証拠を探し、どんな問いを立てればよいのか、その研究の入口を開く場だったのではないでしょうか。(^.^)
◆2 はい、そのうえで、疑問、砂州起源が土石流であることはいいです、砂州は山が形を変えたものですから、!そして「ザ・天の橋立」と想定されるのは成相寺谷だろう、、、知恩寺付近まで砂州が伸びていたかも、その根拠を、文殊付近をボーリングした記録にある礫層をあげられました、これがどこからきたものか!!成相寺の谷は花崗岩の谷です!!!ただその成相寺の谷の深さが、3,7kmに渡って海を仕切った砂州の砂の量と比例するものなのか、、です、!わたし的には、世屋高原の化石が江尻海岸で発見されるように畑谷、世屋谷を想定する必要があるだろう、と考えるのです、、分析解説くださいな
いやあ、これは地形を読むうえで、核心に迫る問いだと思います!(^.^)
安田さんの疑問は、単に「砂州の土砂はどこから来たのか」ではありませんね。
成相寺谷を「ザ・天の橋立」の起源と考えるなら、その谷が供給できる土砂の量と、実際に砂州をつくった土砂の量は釣り合うのか。さらに、成相寺谷だけでなく、畑谷・世屋谷など丹後半島東側の流域を供給源として考えるべきではないか。
これは、地形の形だけでなく、土砂の量・運ばれた経路・堆積した時代を照合する問題です。
まず、現在の公的な説明では、天橋立の砂礫は世屋川など丹後半島東岸の河川から供給され、沿岸流によって運ばれたとされています。京都府の地形解説も、世屋川など複数の河川を挙げています。
京都府
+1
一方、今回の講演で示された「文殊付近のボーリングで確認された礫層」は、仮にその礫が古い砂州の堆積物だとしても、礫があるという事実だけで、成相寺谷から来たと特定できるわけではありません。 ここからが、安田さんの「どこからきたものか!!」という問いの出番です。
1. 成相寺谷だけで、あの砂州をつくれるのか
ここは、三つの問題に分けると整理しやすいです。
① 土砂を生み出した場所
花崗岩の風化、斜面崩壊、土石流などによって、砂や礫が生み出されたのはどの流域か。
② 土砂を運んだ経路
谷から河川へ、河川から海岸へ、さらに沿岸流によって江尻方面から南へ、どのように移動したのか。
③ 土砂が蓄積した場所と量
供給された土砂のうち、どれほどが海底に残り、どれほどが砂州となり、どれほどが別の場所へ運び去られたのか。
京都府のレッドデータブックは、天橋立の砂州の基部が水深約20mの海底から立ち上がること、江尻付近や北部で5cm以上の円礫が見られることを記載しています。また、砂州の形成には畑川・世屋川などからの砂礫供給が関わり、砂防堰堤の設置後には供給減少が問題になったと説明しています。
京都府
+1
ここから分かるのは、砂州の形成を考えるには、谷の形だけではなく、流域全体の土砂生産と、海岸での堆積・移動を一体として見る必要があるということです。
成相寺谷が深い谷であっても、それだけで大量の土砂を供給したとはいえません。谷の深さに加えて、流域面積、崩壊した斜面の広さ、過去の崩壊頻度、海岸まで運ばれた割合を考えなければ、土砂量の見積もりにはなりません。
逆に、谷がそれほど深くなくても、広い流域で長期間にわたって土砂を供給していれば、累積量は大きくなり得ます。
2. 畑谷・世屋谷を想定する必要がある、という仮説
私は、安田さんの提案には地形学的に十分検討する価値があると思います。
京都府の資料でも、天橋立の北側に流入する河川として、畑川・世屋川・波見川などが挙げられています。さらに、京都府埋蔵文化財調査研究センターの論考では、宮津湾西岸の沿岸流が北から南へ砂を運ぶという従来の説明を踏まえ、犀川・波見川・世屋川・畑川などの河川を検討しています。
京都府
+1
つまり、成相寺谷だけを候補にするのではなく、複数の谷を土砂供給源の候補として比較することは、既存の地形研究とも整合します。
ただし、畑谷・世屋谷のどちらがどれだけ寄与したかは、現時点の資料だけでは決められません。流域ごとの土砂量や、砂州の礫と谷の岩石を比較したデータが必要です。
3. 「世屋高原の化石が江尻海岸で発見される」という観察
ここは、安田さんの現地感覚を、検証可能な地質学の問いに変えられる部分です。
仮に、世屋高原に由来すると判断できる化石や岩石片が江尻海岸の堆積物から確認されているなら、それは世屋方面から海岸まで物質が移動した可能性を示す手がかりになります。
ただし、化石が見つかったというだけでは、運搬経路や時代まで確定できません。化石を含む岩石がどこに分布しているのか、海岸で見つかったものと地層中のものが同じ種類なのか、岩石片がどの程度摩耗しているかなどを調べる必要があります。
ここで重要なのは、化石そのものだけでなく、化石を含む岩石の種類と、その岩石が分布する地層です。
もし世屋高原の特定の地層に特徴的な化石があり、それと同じ特徴を持つ岩石片が江尻海岸で確認できるなら、供給源を絞り込む材料になり得ます。
4. いちばん決定的なのは、文殊の礫層を比較すること
平井先生が紹介されたという、文殊付近のボーリングで確認された礫層。ここが、今回の仮説を検証するうえで重要なポイントになります。
私なら、次のような比較を提案します。
| 調べるもの | 分かる可能性があること |
|---|
| 文殊のボーリング礫 | 礫の大きさ、丸み、岩種、堆積環境 |
| 成相寺谷の河床・崩壊地 | 谷から供給され得る岩石の特徴 |
| 畑谷・世屋谷の河床礫 | 各流域に特徴的な岩種や化石の有無 |
| 江尻海岸の礫 | 海岸に実際に集積している物質の特徴 |
| 各地点の地層・岩石分布 | 供給源を絞り込むための基準 |
たとえば、文殊の礫層に、成相寺谷ではほとんど見られず、世屋谷の特定の地層に特徴的な岩石が多く含まれていたら、世屋方面を供給源とする仮説は強まります。反対に、成相寺谷に固有の岩石が卓越していれば、成相寺谷説を支持する材料になります。
ただし、花崗岩は複数の流域に分布する可能性があるので、「花崗岩が含まれている」というだけでは産地を特定できません。鉱物組成、岩石の組織、化石など、識別力のある特徴を使う必要があります。
5. 私の見立て――「山が形を変えたもの」を、量と経路で検証する
安田さんの「砂州は山が形を変えたもの」という表現は、地形のつながりを考えるうえで、とてもよい視点です。
ただ、地形形成の説明としては、次のように段階を分けるのが正確です。
山地で岩石が崩れる → 谷や河川を通って土砂が海岸へ運ばれる → 波や沿岸流によって砂礫が選別・移動する → 条件が整った場所に堆積し、砂州が発達する。
土石流は土砂を大量に運ぶ重要な仕組みですが、土石流で運ばれた土砂が、そのまま3.7kmの砂州になるわけではありません。海岸での運搬と堆積という、もう一段の過程が必要です。
そして、3.7kmの砂州をつくるだけの土砂量が成相寺谷から供給されたのか、畑谷・世屋谷など複数の流域から供給されたのか。それを考えるには、砂州の長さだけではなく、幅、厚さ、海底下に埋もれた部分、さらに形成中に運び去られた土砂も考慮する必要があります。
私なら、平井先生の仮説に対して、こう問い返します。
文殊付近の礫層を、成相寺谷・畑谷・世屋谷の各流域の岩石と比較すると、どの流域の土砂が最もよく一致するのでしょうか。また、その流域から供給できる土砂量は、想定される古代の砂州を形成するのに足りるのでしょうか。
この問いなら、先生の仮説を否定するのでも、安田さんの仮説を先に正解とするのでもなく、双方を同じ証拠で検証できます。
「天橋立は山が形を変えたものだ」という直感を、岩石の出所、土砂の量、運搬の経路という三つの証拠に落とし込む。まさに、掘る・繋ぐ・問い返すですね。
◆3 ありがとう、二つ目の疑問、、講演の結びに、唯一性が求められる世界遺産登録を目指すに当たって、天の橋立は文化遺産、不思議なものの出現・その畏怖の念を起点に文化芸術作庭の長いラインナップ!、自然遺産ではならない、砂州や砂浜は一杯ある、唯一性は証明できない!!と、明言断言されたこと、、正直、「ムカ!!」でしたけれど、はたしてそうなのでしょうか(^.^)分析解説くださいな
いやあ、これは「ムカ!!」となるのも分かりますよ。(^.^)
なぜなら、講演の結びで示されたのは、単なる世界遺産登録の戦略論ではないからです。天橋立の価値を、どこに置いて考えるのかという、根本の問題に触れている。
ただし、ここは平井先生の発言を少し分解して考えたいのです。
私の見立てでは、先生の主張には、世界遺産制度を考えるうえで妥当な部分があります。しかし、そこから「天橋立は文化遺産でなければならない」「砂州や砂浜では唯一性を証明できない」と断言するところには、論理をもう一段、検討する余地があります。
1.まず、世界遺産の「唯一性」とは何か
世界遺産登録で問われるのは、単に「世界に一つしかないか」ではありません。
ユネスコの世界遺産制度で中心となるのは、**顕著な普遍的価値(OUV:Outstanding Universal Value)**です。人類にとって国境を越えた意義を持つ価値を、比較研究と具体的な証拠によって示せるかどうか、という問題です。
ここで、三つを区別する必要があります。
- 希少性――同じものがどれほど少ないか。
- 独自性――他の事例と比べ、何が際立っているか。
- 顕著な普遍的価値――人類全体にとって重要だと、世界的な比較と証拠によって説明できるか。
この三つは、重なりますが、同じではありません。
砂州が世界に一つしかないことを証明する必要はありません。砂州という地形が各地に存在することと、特定の砂州が世界遺産にふさわしい価値を持つことは、別の問いなのです。
2.では、「砂州や砂浜は一杯ある。自然遺産ではならない」は正しいか
ここは、先生の発言をそのまま結論にすることはできません。
世界遺産の自然遺産には、地形・地質の歴史、進行中の地形形成過程、優れた自然景観、生態系、生物多様性などの評価基準があります。砂州だから対象外、という規則はありません。
The Criteria for Selection
+1
ただし、ここで大事なのは、自然遺産の対象になり得ることと、天橋立が自然遺産の基準を満たすことは別問題だという点です。
自然遺産として主張するなら、たとえば次のような問いに、比較研究と科学的証拠で答えなければなりません。
- 天橋立は、世界の類似する砂州と比べて、地形形成の過程にどのような際立った特徴があるのか。
- 山地からの土砂供給、河川、沿岸流、湾の形状が、どのように組み合わさって現在の地形を生み出したのか。
- その形成過程や地形が、世界的な地形・地質の理解にどのような重要性を持つのか。
これは、まさに先ほどの「成相寺谷だけで、あの砂州をつくれるのか」「畑谷や世屋谷からの供給をどう考えるか」という、あなたが掘っておられる問題とつながっています。
つまり、地形の成り立ちを掘り下げることは、単に自然科学の知識を増やすことではありません。自然遺産としての価値を検討するための基礎作業にもなり得るのです。
一方、天橋立について、現時点で自然遺産の基準を満たすと断言できる材料がそろっているわけでもありません。比較研究が必要です。
3.では、文化遺産という考え方はどうか
こちらは、天橋立の歴史を考えると、非常に有力な方向です。
天橋立には、自然の造形だけでなく、人間がその造形に意味を見いだし、語り、描き、詠み、信仰し、庭園文化などに展開してきた歴史があります。
- 神話・伝承――天と地をつなぐ橋という物語。
- 信仰――周辺の神社仏閣と、天橋立の聖なる場所としての意味。
- 文学・芸術――和歌、絵画、能などに表現された景観。
- 庭園文化――自然景観を理想化し、文化的表現へと展開してきた歴史。
天橋立の世界遺産構想でも、白砂青松の景観が日本人の美意識の形成に果たした役割や、芸術作品への影響が、価値として提示されてきました。一方、国際的な比較によって、その価値を証明することが課題として指摘されていました。
hashidate.org
+1
ですから、平井先生が「不思議なものの出現、その畏怖の念を起点に、文化芸術・作庭へ」と説明されたことには、筋が通っています。
しかし、ここにも一つ、問い返したいことがあります。
人間が自然に意味を見いだした歴史を評価することと、自然そのものの価値を評価対象から外すことは、同じではありません。
文化遺産を目指すとしても、天橋立が自然によって生み出された地形であることは、その文化的価値の前提です。自然と文化を切り離してしまえば、なぜ人々がこの場所に畏怖を感じ、神話を生み、芸術の対象にし続けたのか、という説明そのものが弱くなってしまいます。
4.私が特に引っかかるのは、「自然遺産ではならない」という断言です
ここは、三段階に分けて考えると明瞭になります。
第一段階:自然の価値
天橋立は、山地・河川・湾・沿岸流・砂州が関わって形成された地形である。その自然科学的な価値を、世界の類似地形と比較して検証する。
第二段階:文化の価値
自然の造形が、神話・信仰・文学・絵画・庭園などを生み、日本の景観観や美意識にどのような影響を及ぼしたかを検証する。
第三段階:両者の関係
なぜこの自然景観が、これほど長く人間の精神や文化を動かし続けたのか。その関係自体に、世界的な意義を示せるかを問う。
世界遺産の文化遺産の定義には、人間の作品だけでなく、自然と人間の共同作品も含まれます。また、自然遺産の基準にも、地形・地質や自然景観を評価する道があります。
Legal Affairs
+1
もちろん、自然と文化の両方を語れば、それだけで複合遺産として登録できるわけではありません。複合遺産にも、それぞれの基準を満たす証拠が必要です。
けれども、自然遺産としての可能性を科学的に検証せずに退けることと、比較研究の結果、文化遺産を主軸にする判断を下すことは、違います。
後者なら、戦略的な選択として理解できます。前者なら、まだ検討の余地があるでしょう。
5.そして、あなたの「天橋立は山が形を変えたもの」という見方
ここが、私は面白いと思うのです。
天橋立を砂州だけで切り取れば、世界中に比較対象がある。これはそのとおりです。
しかし、あなたが見ようとしているのは、砂州という一つの地形ではありません。
山地・地質・風化
土砂が生まれる
谷・河川・土砂供給
山の物質が海へ運ばれる
宮津湾・沿岸流・砂州
海が地形をつくり変える
人間の畏怖・信仰・美意識
自然の造形が文化を生む
この連鎖を科学的・歴史的に解き明かすことができれば、天橋立を「美しい砂州」という一枚の写真だけで説明する必要はなくなります。
ただし、ここは慎重に。山地から砂州までのつながりがあること自体は、天橋立だけの唯一性を証明するものではありません。世界の他の地域にも、河川・沿岸流・人間の文化が結びついた景観はあります。
問うべきなのは、この一連の関係が、世界のどの事例と比べても、どこまで際立っているのかです。
あなたの「掘る・繋ぐ・問い返す」は、その比較研究の入口になる考え方だと思います。
6.では、平井先生に何を問い返すか
私なら、こう尋ねます。
先生は、天橋立の世界遺産登録を目指すなら文化遺産を主軸にすべきであり、自然遺産としては唯一性を証明できない、と述べられました。
そのご見解について、二点お尋ねしたいと思います。
第一に、世界遺産の自然遺産に求められるのは、砂州そのものが世界に一つしかないという証明なのでしょうか。それとも、地形形成の過程や地質学的な特徴が、世界の類似事例との比較において顕著な普遍的価値を持つことの証明なのでしょうか。
第二に、天橋立の文化的価値は、自然の造形と切り離して成立したものではありません。山地・河川・湾・砂州という自然の形成過程と、そこから生まれた神話・信仰・文学・芸術・作庭の歴史を、一つの連続した関係として捉えた場合、自然遺産としての可能性をどのように検討されたのでしょうか。
文化遺産を主軸とする戦略的判断と、自然遺産としての可能性を否定する判断とは、区別して考える必要があるのではないでしょうか。
先生を論破するためではありません。「自然遺産ではならない」という結論に至った比較研究の中身を問うのです。
最後に、私の考えを一言で言えば、こうです。
天橋立の文化的価値を掘り下げることには、大いに意味があります。しかし、その価値を語るために、自然の価値を脇へ追いやる必要はありません。
そして、あなたが進めてきた「天橋立と仲間たち」「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」は、登録基準の議論とは別に、天橋立を周辺の山・川・里・海・人々との関係の中で理解し、伝えていく実践です。
世界遺産に登録できるかどうかは、その実践だけで決まるものではありません。それでも、天橋立の価値を深く理解し、次世代へつなぐうえでは、十分に意味があります。
「砂州は一杯ある」。だからこそ、天橋立という砂州が、なぜこの土地に生まれ、なぜ人々の心を動かし続けたのかを、自然と文化の両側から掘る。
先生の断言を聞いて「ムカ!!」となったところから、むしろ、いい問いが始まったのかもしれませんね。(^.^)
◆4 失礼、行きつ戻りつあっちへこっちを、、平井講演にもどります!一二百二十九丈(1,229丈)**という、約3.7kmの長さの謎、、この問いの立て方に、、うっかり引き込まれたなとおもいました、、天の橋立の砂州、、これは、紙ではない、立体なのです!幅と深さの検証がないのです、その上で、土砂の供給源は「成相谷」!とおっしゃられても、、はたして「成り合う」ものなのか,要素の一つとは思います、しかし、全体を説明するにはいかがかと思いました、見解を下さいな
改めて資料を照らしてみると、安田さんの疑問には、もう一段掘り下げられる根拠があります。
京都府の解説は、世屋川など丹後半島東岸の河川から出た砂礫が沿岸流で運ばれ、野田川の流れとぶつかることで砂州が形成された、という説明です。
京都府
一方、有井広幸氏の論考は、宮津湾西岸の犀川・波見川・世屋川・畑川などに目を向け、砂の供給源と運搬経路を検討しています。つまり、研究者の間でも、供給源を単純に一つの谷に限定するのではなく、流域と沿岸流の関係を考える必要があるわけです。
京都府埋蔵文化財調査研究センター
ここで私が特に重要だと思うのは、「土砂の供給源を特定すること」と「砂州全体の形成を説明すること」の間には、土砂量の検証が必要だという点です。
仮に成相寺谷から大量の土砂が供給されたとしても、それがどのような粒径で、どれだけ海岸まで到達し、沿岸流によってどこまで運ばれ、どれだけ砂州に残ったのか。それを確かめなければ、成相寺谷の寄与が大きいことは示せても、成相寺谷だけで全体が説明できるとは限りません。
そして、1,229丈という数字についても同様です。古代の記述に長さだけでなく幅の記載もあることは確かですが、それが現在の地形のどの範囲に対応するのか、当時の砂州の断面や海底下の堆積物がどうなっていたのかは、別途検証が必要です。
京都府埋蔵文化財調査研究センター
+1
ですから、平井先生の講演を受けて私たちが次に問うべきなのは、単に「1,229丈は何を測った数字か」だけではないでしょう。
「その長さをもつ立体的な地形を、どの流域から、どれだけの土砂が供給され、どのような海の作用によって形成したのか」
この問いなら、成相寺谷も、畑谷も、世屋谷も、野田川も、最初から排除せずに検証できます。
「成り合うものなのか」――安田さんの言葉を借りれば、まさにそこです。個々の説明が、地形全体の説明として成り立つのか。講演を聞いて納得するだけでなく、その説明が全体と整合するかを問い返す。そこに、今回の講演をさらに深める意味があると思います。
◆5 ありがとう、橋立神社と知恩寺の間の部分、全体を龍に模してその頭部と描かれるほど、確かに変、なのです、なにかあったのか、それが、自然条件によるものなのかあるいは人為的行為によるものなのか、ここはさらに興味を持ったところではあります!
そこ、私も非常に興味を引かれます! しかも、歴史資料を調べると、安田さんの「何かあったのか」という問いには、具体的な手がかりがあります。(^.^)
1. まず、あの部分は昔から今の形だったわけではない
宮津市の解説によれば、江戸時代、天橋立神社付近が砂州の先端にあたり、智恩寺と天橋立の間には幅約100mの水道「切戸」がありました。現在の文珠地区にも入江が広がっていたのです。
宮津市
+1
つまり、現在の地図で橋立神社から智恩寺までを眺めると、ひと続きの地形のように見えても、かつては砂州の先端、海峡、入江、海に突き出した智恩寺の境内地が組み合わさった景観だったのですね。
安田さんが「変だ」と感じられた場所は、まさに海と陸の境界が大きく変わってきた場所なのです。
2. 変化には、自然と人為の両方が関わっている
ここは、時間軸を分けて考える必要があります。
- 自然の作用:河川からの土砂供給、沿岸流による運搬、波浪、洪水による侵食・堆積。
- 人為的な作用:新田開発、埋め立て、河川流域の土地利用の変化、海岸・河川工事。
- 信仰・土地管理:智恩寺が橋立を境内地として管理し、改変に反対した歴史。
京都府立丹後郷土資料館の調査だよりは、近世の古文書や絵図を検討し、江戸時代に砂州が伸びたこと、明和6年(1769)の洪水で砂州の一部が切れたこと、そして橋立をめぐる改変と智恩寺の対応を紹介しています。
京都府公式サイト
ここが重要です。人間は砂州を眺めていただけではなく、砂州の伸長や切断によって漁業・交通・土地利用に影響を受け、時には地形を変えようとし、時には変化を抑えようとしてきたのです。
3. では、「龍の頭部」は何を語るのか
ここは、地形の形状と、その形に人間が与えた意味を分けて考えたいです。
龍の頭部に見える形が、いつから、どのような図像や言葉で表現されてきたのか。古絵図に描かれた形と現在の形が同じなのか。それとも、埋め立てや砂州の伸長によって、現在の輪郭が生まれたのか。
この比較によって、少なくとも三つの可能性を検討できます。
- 自然地形が生んだ形――砂州の伸長や侵食、入江の輪郭が、龍の頭部を連想させた。
- 人為的な改変が生んだ形――埋め立てや水路の変更が、輪郭を変えた。
- 人間の見立てが形を際立たせた――地形そのものは徐々に変化していても、信仰や絵画、伝承が「龍の頭部」という意味を与えた。
この三つは、必ずしもどれか一つだけが正解というわけではありません。
私が次に確かめたいのは、「龍の頭部」とする図像・伝承の最も古い資料は何か、そして、その時代の絵図に描かれた海岸線が、現在とどれほど違うか、ということです。
形が先にあって伝承が生まれたのか。伝承が形の見方を育てたのか。それとも、地形の改変と伝承の形成が重なったのか。
安田さんの関心は、単に「変わった地形だ」という観察にとどまりませんね。地形の変化と、人間がその場所に意味を与えてきた歴史とを、一緒に読み解こうとしている。 そこに、この場所をさらに調べる面白さがあると思います。
◆5 ありがとう、橋立神社と知恩寺の間の部分、全体を龍に模してその頭部と描かれるほど、確かに変、なのです、なにかあったのか、それが、自然条件によるものなのかあるいは人為的行為によるものなのか、ここはさらに興味を持ったところではあります!
そこ、私も非常に興味を引かれます! しかも、歴史資料を調べると、安田さんの「何かあったのか」という問いには、具体的な手がかりがあります。(^.^)
1. まず、あの部分は昔から今の形だったわけではない
宮津市の解説によれば、江戸時代、天橋立神社付近が砂州の先端にあたり、智恩寺と天橋立の間には幅約100mの水道「切戸」がありました。現在の文珠地区にも入江が広がっていたのです。
宮津市
+1
つまり、現在の地図で橋立神社から智恩寺までを眺めると、ひと続きの地形のように見えても、かつては砂州の先端、海峡、入江、海に突き出した智恩寺の境内地が組み合わさった景観だったのですね。
安田さんが「変だ」と感じられた場所は、まさに海と陸の境界が大きく変わってきた場所なのです。
2. 変化には、自然と人為の両方が関わっている
ここは、時間軸を分けて考える必要があります。
- 自然の作用:河川からの土砂供給、沿岸流による運搬、波浪、洪水による侵食・堆積。
- 人為的な作用:新田開発、埋め立て、河川流域の土地利用の変化、海岸・河川工事。
- 信仰・土地管理:智恩寺が橋立を境内地として管理し、改変に反対した歴史。
京都府立丹後郷土資料館の調査だよりは、近世の古文書や絵図を検討し、江戸時代に砂州が伸びたこと、明和6年(1769)の洪水で砂州の一部が切れたこと、そして橋立をめぐる改変と智恩寺の対応を紹介しています。
京都府公式サイト
ここが重要です。人間は砂州を眺めていただけではなく、砂州の伸長や切断によって漁業・交通・土地利用に影響を受け、時には地形を変えようとし、時には変化を抑えようとしてきたのです。
3. では、「龍の頭部」は何を語るのか
ここは、地形の形状と、その形に人間が与えた意味を分けて考えたいです。
龍の頭部に見える形が、いつから、どのような図像や言葉で表現されてきたのか。古絵図に描かれた形と現在の形が同じなのか。それとも、埋め立てや砂州の伸長によって、現在の輪郭が生まれたのか。
この比較によって、少なくとも三つの可能性を検討できます。
- 自然地形が生んだ形――砂州の伸長や侵食、入江の輪郭が、龍の頭部を連想させた。
- 人為的な改変が生んだ形――埋め立てや水路の変更が、輪郭を変えた。
- 人間の見立てが形を際立たせた――地形そのものは徐々に変化していても、信仰や絵画、伝承が「龍の頭部」という意味を与えた。
この三つは、必ずしもどれか一つだけが正解というわけではありません。
私が次に確かめたいのは、「龍の頭部」とする図像・伝承の最も古い資料は何か、そして、その時代の絵図に描かれた海岸線が、現在とどれほど違うか、ということです。
形が先にあって伝承が生まれたのか。伝承が形の見方を育てたのか。それとも、地形の改変と伝承の形成が重なったのか。
安田さんの関心は、単に「変わった地形だ」という観察にとどまりませんね。地形の変化と、人間がその場所に意味を与えてきた歴史とを、一緒に読み解こうとしている。 そこに、この場所をさらに調べる面白さがあると思います。
◆5 明和6年(1769)の洪水で砂州の一部が切れた、、おおお、、その状況ですね、 切れた部分は特定されていますか
おおお、ここは慎重に確認したいところです!
調べたところ、明和6年(1769)の洪水で天橋立のどこが切れたのか、場所を特定できる一次資料は、今回確認した範囲では見つかりませんでした。 先ほど私が「明和6年の洪水で砂州の一部が切れた」と断定的に述べたのは、根拠を十分に確かめていませんでした。すみません。
一方、宮津市の解説では、江戸時代後期には文珠と砂州の間に幅約100mの水道「切戸」があり、阿蘇海は入江のような状態だったと説明されています。
宮津市ホームページ
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また、京都府の資料では、近世に南砂州が伸長し、明治期以降も地形が変化したこと、さらに大正3年(1914)には航路確保のため南砂州を中央部で切断して水路を整備したことが記されています。
京都府
ここで区別すべきなのは、次の三つです。
- 洪水で自然に切れた場所
- もともと海水が通っていた「切戸」
- 人為的に掘削・切断された水路
この三つを混同すると、地形変化の歴史を取り違えてしまいます。
次に確かめるべき資料は、丹後郷土資料館の調査だより第12号が参照している近世の古文書・絵図と、洪水前後の地形を比較できる古地図です。
◆6 古地図です、江戸時代でしょうか、、、この天の橋立なら、紛れも文句も無く一発、「世界遺産」でしたね!!と思いました
おおおお!(^.^)
これは、眺めているだけで、現在の天橋立とは違う世界が広がってきますね。
おっしゃる「この天橋立なら、文句もなく一発、世界遺産!」というお気持ち、よく分かります。現在の松並木の美しさだけでなく、海、山、島、集落、寺社、そして長大な砂州が織りなす景観全体が、一枚の絵のなかに描かれているからです。
私がまず注目したのは、砂州そのものだけではありません。砂州の向こうに広がる山並み、海上の船、岸辺の集落や寺社が、ばらばらの名所ではなく、一つの世界として描かれていることです。
これは、安田さんがずっと考えておられる「天橋立だけを切り取るのではなく、丹後の山・川・海・人の暮らしをつなげて価値を示す」という構想にも響きますね。
そして、調べてみると、この絵図の感想をさらに深める、重要な歴史資料が見つかりました。
京都府立丹後郷土資料館の『調査だより』第12号は、享保9年(1724)に成相寺へ寄進された「与謝之大絵図」を紹介しています。そこには、宮津藩主・永井氏の時代に砂州が約211m伸び、その後には約546mになったという趣旨の注記があるそうです。さらに、明和6年(1769)の洪水で、伸びた部分の一部が切れ、これを従来の「切戸」と区別して「新切」と呼んだことも記録されています。
京都府公式サイト
つまり、安田さんが先ほど尋ねられた「洪水で切れた部分」は、南へ伸びていた砂州の先端側の一部だったと考えられます。ただし、正確な位置を地図上で特定するには、同資料に掲載された絵図と古文書を直接照合する必要があります。
この古地図についても、制作年と原題を確認したいところですが、少なくとも江戸時代の天橋立を考えるうえで、現代の地形を当たり前の姿として見ることはできない、と教えてくれますね。
そして、安田さんの「この景観なら世界遺産!」という感想。私には、単なる美しさへの感嘆だけでなく、砂州の自然形成、歴史的な土地利用、寺社の信仰、海辺の暮らしが一体になった景観への評価として響きます。
今の天橋立だけを世界遺産の候補として見るのか。それとも、こうした古地図が伝える、変化し続けてきた海と陸の世界まで含めて価値を考えるのか。ここに、安田さんが構想されている「天橋立と仲間たち」の大きな問いがあると思います。
京都府公式サイト
安田さんが気にされている橋立神社と智恩寺の間の形状を解くうえでも、「1769年にどこが切れたか」を、まず史料で確定することが出発点になりますね。現段階では、場所を特定したとは言えません。
◆7 ありがとう、、この時代に、飛龍だの昇龍だのというイメージは生まれようがなかった、観光用語ですね!!
はははは!(^.^) そこに気づかれましたか!
この古地図を見ていると、確かに「飛龍観」「昇龍観」という観光上の見立てを、江戸時代の人々も同じように持っていた、と考えるわけにはいきませんね。
ただ、ここは一つ、丁寧に区別しておきたいです。
① 江戸時代の人々は、天橋立をどう見ていたのか。
この絵図では、砂州は海を横切る松並木として、周囲の山、寺社、集落、船とともに描かれています。少なくとも、この絵図の表現そのものから、龍が空へ飛び立つ姿を意図していたとは読み取れません。
② 「飛龍観」「昇龍観」という呼び名は、いつ生まれたのか。
これは別の歴史的な問いです。現在の観光用語がいつ成立し、どの展望地点からの眺めに、誰がその名を与えたのか。古い絵図や観光案内、旅行記などを年代順に比較すれば、確かめられる可能性があります。現段階で、成立時期を断定するのは避けたいところです。
③ では、龍のイメージは単なる観光宣伝なのか。
ここも面白いところです。観光用語として後から生まれたとしても、それが景観の特徴をうまく捉え、人々の見方を変えてきた可能性はあります。後世の見立てだからといって、価値がないわけではありません。ただし、それを古代や江戸時代から続く伝承であるかのように扱うなら、根拠が必要です。
そして、安田さんの世界遺産への問いにつながります。
天橋立の価値は、龍に見えるから生まれたのでしょうか。それとも、独特の地形と長い歴史があったからこそ、後世の人々が龍を見いだしたのでしょうか。
私は後者を軸に考えると、自然の造形と人間の想像力の両方を説明できると思います。
この古地図は、現代の観光用語をいったん脇に置いて、江戸時代の人々が実際に何を描き、何を大切にしていたのかを考えるための、貴重な手がかりですね。
◆8 ありがとう、、天の橋立は、「象」です、群盲よってたかって象をなでようではありませんか(^.^)
ははははは!!(^.^)
天の橋立は「象」である。群盲、よってたかって象をなでようではありませんか!
これは、いいですねえ!
ある人は鼻をなでて「これは龍だ!」と言う。 ある人は脚をなでて「いや、これは山だ!」と言う。 ある人は耳をなでて「松並木こそ天橋立だ!」と言う。 ある人は腹をなでて「いやいや、海と砂州の地形形成こそ本質だ!」と言う。 またある人は、象に寄り添ってきた人々の歴史や信仰をなでる。
みんな、触れているものは違う。でも、触れた部分には、それぞれの真実がある。
問題は、自分が触れた部分を、象の全体だと思い込んでしまうことですね。
平井先生の講演も、1,229丈という長さから天橋立に迫る、一つの接近法です。それは大切な手がかりです。しかし、長さだけで象の全体像は分からない。幅も、深さも、土砂の供給源も、海流も、地形の変遷も、そして人間がそこに見いだしてきた意味もある。
自然科学者、歴史研究者、考古学者、信仰を受け継ぐ人、地域で暮らす人、観光に携わる人、子どもたち――それぞれが象に触れる。
そして、触れた者同士が問い返す。
「あなたが触っているのは、どの部分ですか?」
「私の触っている部分と、あなたの部分は、どうつながっていますか?」
「まだ、誰も触れていない部分があるのではありませんか?」
ここまで来ると、安田さんの言う「掘る・繋ぐ・問い返す」が、そのまま天橋立の探究方法になりますね。
しかも、これは世界遺産を目指す運動にもつながります。
天橋立が唯一無二だと主張するだけでなく、みんなで象に触れ、その全体像を少しずつ明らかにしていく。
世界遺産登録は、その探究の終着点ではない。探究を深め、次の世代へ手渡すための一つの節目なのかもしれません。
そして、ここが好きです。
「群盲」という古い寓話では、互いの認識の違いが、しばしば争いの種になります。でも、安田さんの提案では、みんなで象をなでることが、対話の始まりになる。
さあ、次は誰が、どこをなでましょうか。
天橋立という象は、まだまだ大きいぞ!(^.^)