◆1 ありがとう、味土野、みどの、、みとの、、その水戸ですね、、阿蘇海史の視点で、与謝野町の水戸神社に関心を持っています、分析解説くださいな
おお、これは面白いところに目をつけられましたね!(^.^)
「味土野(みどの)」から「水戸(みと)」へ。
そして、与謝野町の水戸神社。
単なる地名の類似として片づけず、阿蘇海を中心とした水系・地形・古代交通・祭祀の歴史という視点から考えてみましょう。
私なら、この水戸神社を、阿蘇海の歴史を内陸側から読み解くための手掛かりとして位置づけます。
ただし、最初に大切な区別があります。
- 「水戸」という地名の意味
- 水戸神社の祭神と創建・由緒
- 味土野という地名との関係
この三つは、関連する可能性を探る価値がありますが、現段階で同じ語源・同じ歴史だと決めることはできません。
1. まず、水戸神社の正体を確認しましょう
調べたところ、与謝野町上山田にある神社は、正式には 弥刀神社(みとじんじゃ) と記される式内社です。
| 項目 | 内容 |
|---|
| 所在 | 与謝野町上山田・小字館 |
| 社名 | 弥刀神社 |
| 古い呼称 | 弥刀明神・水戸明神・水門神社 |
| 祭神 | 速秋津日子命 |
| 社格 | 延喜式内社に比定 |
| 創建伝承 | 貞観9年(867年) |
| 現社殿 | 明治25年再建 |
特に注目したいのは、平凡社『日本歴史地名大系』の記述です。
神社は、上山田から大宮町三重へ通じる谷の入口に位置し、その谷を**水戸谷(みとだに)**と呼んでいます。
丹後の地名
+2
つまり、神社名だけでなく、谷の名前にも「水戸」が残っているのです。
ここは重要です。
2. 速秋津日子命という祭神が意味するもの
ここが、私には一番興味深い。
速秋津日子命は、『古事記』に登場する水戸(みなと)の神です。
妹神の速秋津比売神と対をなし、河と海に関係する神々を生みます。
國學院大學の神名データベースによると、この神の「水戸」は、水の出入口、すなわち河口を意味すると解釈されています。また、海峡や流れの速い瀬戸との関係も論じられています。
國學院大學 古典文化学事業
ここから考えられることは三つあります。
- 河川と海との接点を守る神。
- 水運や船の出入りに関係する神。
- 水の流れが変わる境界、つまり水際の祭祀に関係する神。
水戸神社という名称が単なる地名由来ではなく、祭神の神格と深く結びついている可能性があります。
そして、ここで阿蘇海の登場です。
3. 阿蘇海史から見ると、位置が実に面白い
京都府の地形解説によると、阿蘇海は天橋立の砂州によって宮津湾から隔てられた潟湖です。北岸には山田断層崖下の複合扇状地、西側には野田川がつくった三角州が発達しています。
京都府公式ホームページ
さらに、野田川の流域は大江山から加悦谷を通り、阿蘇海へと続いています。流域面積は99.2平方キロメートルです。
京都府公式ホームページ
ここで弥刀神社の位置を重ねてみます。
私は、この神社を単なる山間部の古社として見るのではなく、加悦谷から阿蘇海へ向かう水系・交通系の結節点を守る神社として捉えてみたい。
ただし、ひとつ注意があります。
地元の紹介記事には、かつて阿蘇海の水がこの付近まで満ち、舟による交易が盛んだったという説明があります。
丹波新聞
これは興味深い伝承・地域史上の見解ですが、神社付近まで海が入り込んでいたことを確定するには、古地形図、ボーリング資料、海成堆積物などの検証が必要です。
海水が直接届いたのか、河川舟運の船着き場だったのか。ここは分けて考えたいですね。
4. 「水戸」という言葉をもう一度考える
ここが今回の発見の核心かもしれません。
「みと」という音には、水の出入口、港、河口という意味を考える余地があります。
そして弥刀神社は、まさに水戸明神とも呼ばれていました。
私は、次のような仮説を置いてみたい。
阿蘇海をめぐる古代の水のネットワーク
山地
大江山・山田断層周辺
流域
加悦谷・野田川
水の結節点
水戸谷・弥刀神社
内海
阿蘇海
天橋立・宮津湾・日本海
これは水系と交通の関係を考えるための仮説図であり、古代の航路を確定したものではありません。
山から海へ。水が集まり、流れ、船が行き交う。
そうした場所に水戸の神を祀ったという解釈は、神社の祭神ともよく符合します。
5. そして、味土野の「みど」と「みと」
さて、ここは安田さんならではの問いですね。
- 味土野(みどの)
- 司馬遼太郎さんの表記した水戸野(みどの)
- 弥刀神社(みと)
- 水戸谷(みとだに)
これらには音の近さがあります。
ただし、味土野の古い表記と水戸谷の地名成立を比較しなければ、同根の地名とは言えません。
むしろ、今の段階では次の問いを立てるのがよいと思います。
「みと」という音は、丹後の地形や水運に関係する地名として、どのように使われてきたのか。
味土野と水戸谷を結ぶ直接の歴史的関係が見つかれば面白いですが、まずはそれぞれの地名の古い記録を集めたいところです。
6. 私なら、次に三つの調査をします
| 調査対象 | 明らかにしたいこと |
|---|
| 弥刀神社の古文書・棟札 | 水戸明神・水門神社という呼称の年代 |
| 水戸谷・野田川の古地形 | 古代の水際、舟運、集落の位置 |
| 味土野の古地名・古文書 | 「みどの」「みとの」の表記変遷 |
特に、弥刀神社については『与謝郡誌』『野田川町誌』に記録が残っているようです。これらの原資料を確認したいですね。
最後に、私から一つ、少し大きな問いを。
安田さんは、阿蘇海を単独の湖として見ているのではありませんね。
山があり、川があり、湾があり、砂州がある。
その全体を一つの生命圏として読み解こうとしている。
そうすると、弥刀神社は、阿蘇海の水際だけでなく、内陸から海へ出る人々の暮らしと信仰を考えるための重要な場所になってきます。
そして、祭神が速秋津日子命であることは、決して見過ごせません。
「水戸」とは、単なる水の入口だったのか。それとも、山の世界と海の世界が出会う、文化の入口だったのか。
私は後者の可能性を大切にして、もう少し掘ってみたいです。
ははは、また一つ、阿蘇海の謎が増えましたね!(^.^)
◆2 ありがとう、水戸神社裏山向こうの三重谷、ここは竹野川の源流、その川の流れが、三重谷の下端で、右に行こうか左に行こうか、迷っている、葛藤した痕跡があるのです、もとは、三重谷と水戸田にはつながっていた、それで阿蘇海側に水戸神社、流れを変えたのは山田断層ナマズがあばれたのだろうと読んでいます
いやあ!! これは、地形を読む人ならではの仮説ですね。(^.^)
しかも、今のお話で、弥刀神社の位置づけが一段変わりました。
これまでは「阿蘇海に向かう水の入口を守る神社」と考えていました。しかし、安田さんの観察を重ねると、もっと深い意味が出てきます。
かつて一つにつながっていた水系が、地殻変動によって分断され、異なる水系に分かれていった。その境界に弥刀神社がある。
そういう読みですね。
私は、この仮説を三つの地形的な問題に分けて考えたいです。
あっ、これは重要です。しかも、調べてみたら、安田さんの読みと非常によく似た地形解釈が、丹後の地名研究サイトにも記されています!
京丹後市大宮町三重の地形について、三重谷の水が、かつて水戸谷峠を越えて山田側、つまり野田川側へ流れていたのではないか、山田断層による隆起で水戸谷峠が高くなり、三重谷が湖のようになった時期があったのではないか、という考察です。
丹後の地名
これは偶然の一致として片づけたくありません。
安田さんが現地で見ている「右に行こうか、左に行こうかと迷った痕跡」と、この地形解釈を照合する価値があります。
1. まず、地形の変化を復元してみる
私なりに、安田さんの仮説を時間軸に置きます。
第1段階 かつての水系
仮説
三重谷と水戸谷が連続し、竹野川水系の水が現在とは異なる方向へ流れていた。
第2段階 地殻変動
検証課題
山田断層周辺の隆起・横ずれによって、谷の勾配や分水界が変化した。
第3段階 河川争奪・流路変更
地形学的な検討対象
水の流れが野田川側と竹野川側に分かれ、現在の流域境界が形成された。
第4段階 現在 三重谷は竹野川の源流域となり、水戸谷は野田川側へ続く谷として残った。
ここで大事なのは、単純な川の流路変更だけでなく、分水界そのものが移動した可能性です。
これを地形学では、河川争奪(かせんそうだつ)という現象と関連づけて考えます。
2. ここで、もう一つ見逃せない断層があります
公的資料で確認
国土地理院の活断層図には、実は山田断層だけでなく、三重断層も記載されています。
| 断層 | 公表されている特徴 |
|---|
| 山田断層 | 約18km、右横ずれ主体、北西側隆起 |
| 三重断層 | 約7km、北西側隆起 |
三重断層は、宮津市大宮町延利付近から上山田付近まで延びています。つまり、今回の三重谷・水戸谷周辺を考えるうえで、無視できない存在です。
国土地理院
+1
京都府のレッドデータブックも、上山田の山田断層崖について、断層運動が繰り返されて形成された地形であり、1927年の北丹後地震では山地側が約70cm隆起、右横ずれ約80cmの変位を記録したと説明しています。
京都府公式ホームページ
ただし、三重谷の流路変更を山田断層だけで説明できるか、三重断層も関与したのかは、断層の位置と谷の変位を重ねて検証する必要があります。
3. 私が現地で確かめたい四つの証拠
① 風隙(ふうげき)
かつて川が流れていたのに、現在は水が流れない峠状の地形。水戸谷峠周辺にその痕跡があるか。
② 河谷の急な屈曲
安田さんが見ている「右か左か迷った痕跡」。流路変更による屈曲なのか、断層による変位なのか。
③ 礫(れき)の供給源
三重谷の谷底や水戸谷に、現在の流域とは異なる山地由来の礫が残っていないか。
④ 湖沼性堆積物
三重谷にかつて水が滞留していたなら、粘土やシルトなどの堆積物が残っている可能性があります。
この四つが揃ってくると、仮説はぐっと強くなります。
4. そして弥刀神社の意味が変わってくる
ここが私の一番好きなところです。
弥刀神社は水戸谷の入口に位置し、古くは水戸明神、水門神社とも呼ばれていました。祭神は速秋津日子命です。
コトバンク
+1
もし、かつて三重谷と水戸谷が水系として連続していたなら、この神社は単なる阿蘇海の水際の神社ではなくなります。
異なる流域がつながっていた場所、山から海へ向かう水の通路を見守る神社。
そういう可能性が生まれます。
もちろん、神社の成立時期と河川争奪の時期は別に検証しなければなりません。しかし、地形と祭祀を一緒に考える価値は十分あります。
5. 阿蘇海史の中での位置づけ
私は今回の話から、阿蘇海の歴史を三つの時間軸で捉えたくなりました。
- 地質の時間:断層運動によって山・谷・分水界が変化する。
- 水の時間:河川が流路を変え、流域をつくり直す。
- 人間の時間:人々が水の出入口に神を祀り、交通や交易の道をつくる。
この三つを重ねると、弥刀神社はなかなか魅力的な研究対象になります。
そして、三重谷と水戸谷を結ぶ仮説は、阿蘇海だけを見ていては見つからない問いです。
阿蘇海の水は、いったいどの山々の歴史を背負ってここに集まってきたのか。
安田さんの「掘る・繋ぐ・問い返す」にぴったりですね。
最後に、一つだけ教えてください。
安田さんがおっしゃる三重谷の下端にある「右か左か迷った痕跡」は、現在の川が大きく曲がって二方向に分かれるような地形でしょうか。それとも、谷底そのものが二つの方向へ傾いているような地形でしょうか。
ここが分かると、河川争奪なのか、断層による地形変形なのか、もう一歩踏み込めます。
いやあ、三重谷と水戸谷。これは阿蘇海史にとって、面白い扉が開きましたね!(^.^)
◆3 三重谷の不思議、三つ、①三重谷の起点部に丹後最大の古代住居群 ②、中ほどに丹後三の宮の大屋神社 ③明田、ニュウドウ峠、、辰砂発掘を匂わせる地名、、ここが野田川水系だった可能性があるのは見逃せないと思います、意見くださいな
20s考えました
安田さん、私はこれは見逃してはいけないと思います。
しかも、三つの要素を並べてみると、単なる山間集落の歴史ではなく、古代丹後における「水・人・鉱物・祭祀」の結びつきという、大きなテーマが浮かび上がります。
今回、特に重要なのは、三重谷が現在は竹野川水系に属しているということと、かつて野田川水系だった可能性を分けて考えることです。
もし後者が正しければ、三重谷の歴史的位置づけは大きく変わります。
1. 三重谷の三つの不思議を一つの物語に置く
① 谷の起点部――巨大な古代住居群
「千軒」とも呼ばれるほどの集住。山間部の谷頭に、なぜこれほどの人々が集まったのか。
食料生産だけでなく、鉱物資源や交易との関係も問い直したい。
② 谷の中ほど――大屋神社
丹後三の宮とされる古社。大屋という社名・祭祀の背景、地域の生産活動との関係が気になります。
集落と資源を結ぶ信仰の中心だった可能性。
③ 明田・ニュウドウ峠――辰砂を連想させる地名
「明田」を「朱田」と読む可能性、「ニュウ」を丹生に結びつける可能性。
もし辰砂の採取・加工があったなら、集落の規模や峠道の意味にも新しい説明が生まれます。
この三つは、別々の観光資源ではありません。
集落・祭祀・資源という、古代社会を構成する三つの要素です。
2. 第一の不思議――なぜ谷の奥に大集落があったのか
ここは、三重谷の歴史を考えるうえで最初の鍵です。
ただし、考古学的な遺跡名と発掘年代、住居数は、もう少し丁寧に特定したいところです。明田地区については、地元の案内板に古代の発掘調査は未実施とする記述があります。したがって、「千軒」と呼ばれる住居跡が三重谷のどの範囲の遺跡を指すのかは、区別が必要です。
丹後の地名
+1
それでも、仮に大規模な集落が確認されているなら、私は次の問いを立てます。
- なぜそこに人が集まったのか。
- 何を食べ、何を生産していたのか。
- 山地の資源をどう利用していたのか。
- どこへ物資を運んでいたのか。
ここで野田川水系説が効いてきます。
現在の竹野川上流の奥地という見方ではなく、かつて阿蘇海に通じる野田川の流域だったとすれば、海へのアクセスを持った集落として再評価できます。
山間の孤立集落ではなく、海と内陸をつなぐ集落だった可能性です。
3. 第二の不思議――大屋神社と三重神社
ここは、歴史資料に面白い記述があります。
『大宮町誌』の記録では、大屋神社は文永7年(1270年)に森本の「宮の奥」に勧請され、寛文8年(1668年)に現在地の「奥の谷」へ遷座したとされます。
そして、元禄11年(1698年)の棟札には、
「三重神社大屋大明神」
と記されています。
丹後の地名
これは注目すべきことです。
大屋神社という現在の社名だけでは見えない、三重神社という古い神社名が記録に残っている。
つまり、三重谷という地域の祭祀を考えるうえで、大屋神社は中心的な手掛かりになります。
さらに、以前話した丹後の一宮・籠神社、二宮・大宮売神社、三宮・大屋神社という三社のつながりもありますね。
私はここに、古代丹後の祭祀と地域の生産・交通を結びつける研究テーマを見ます。
ただし、大屋神社の現在の祭神は木花咲耶姫命などであり、辰砂採掘の神だったとする証拠はまだありません。神社の由緒と鉱物生産を直結させず、別々の証拠からつなぐ必要があります。
4. 第三の不思議――明田とニュウドウ峠
ここは、安田さんの着眼が面白い。
地名資料では、明田を「あけだ」と読み、古い村名として江戸時代の記録が確認できます。
その地名解説には、次のような考察があります。
- 明田は「赤田」かもしれない。
- 「ニフ」「ニウ」は赤土を意味する可能性がある。
- 「丹生」は水銀・朱に関係する地名である。
- 明田南方に入谷(にゅうだに)がある。
そして『丹後半島の旅』から、水銀産地だった可能性を述べる説が引用されています。
丹後の地名
ただし、これは地名解釈の仮説であって、辰砂鉱床や採掘跡の確認ではありません。
ここで私なら、調査を二方向に分けます。
A 鉱物の調査
- 辰砂(硫化水銀)の鉱脈・鉱石の存在
- 赤色顔料の製造に使える鉱物の存在
- 採掘跡、選鉱・粉砕の痕跡
- 集落遺跡からの朱や水銀の検出
B 地名・交通の調査
- ニュウドウ峠の古い表記
- 明田・入谷の古文書上の表記
- 周枳から明田へ抜ける道の歴史
- 峠道と集落・神社の位置関係
特に「ニュウドウ峠」は、丹生との関係を考える価値がありますが、音だけで丹生堂・丹生道などと決めるのは禁物です。
5. そして、三つを結ぶのが河川争奪です
実は、今回の仮説を支える興味深い記述が見つかっています。
地名研究資料『三重(京丹後市大宮町)』には、『丹後半島の旅』から次の趣旨の説が紹介されています。
かつて現在の竹野川上流にあたる五十河・延利・明田・森本・三重の水は、水戸谷を南流して野田川に合流していた。その後、竹野川と野田川の間で河川争奪が起き、現在の流路になったという説です。
さらに、三重・五十河がかつて与謝郡に属していたことも、その説を考える際の傍証として挙げられています。久安2年(1146年)に丹波郡へ編入されたという記述もあります。
丹後の地名
これは、安田さんの仮説と重なる重要な情報です。
また、国土地理院の活断層図では、山田断層だけでなく三重断層も確認できます。三重断層は約7kmにわたり、北西側隆起・南東側落ちの変位を伴います。
国土地理院
したがって、流路変更を考えるときには、山田断層だけでなく三重断層も含めて検討する必要があります。
ただし、断層運動と河川争奪の発生時期が一致するかどうかは、まだ別の検証問題です。
6. 私の見立て――三重谷は何だったのか
私は、三重谷を次のような仮説で捉えると、三つの不思議が一つにつながると思います。
古代丹後・三重谷の仮説モデル
人の営み
谷の起点部の大規模集落
人が集まり、生活し、生産する場所。
祭祀
大屋神社・三重神社
地域社会を結びつける信仰の拠点。
資源と交通
明田・入谷・ニュウドウ峠
鉱物資源の可能性と、周枳方面への交通路。
水系
旧野田川水系・水戸谷
阿蘇海へ向かう水と物資の通路だった可能性。
このモデルが正しければ、三重谷は単なる山間の生活空間ではありません。
古代丹後における、鉱物資源・集落・祭祀・水運が結びついた地域だった可能性が出てきます。
もちろん、辰砂の採掘も、古代の舟運も、現時点では立証されていません。しかし、それぞれを検証する理由は十分にあります。
7. 私なら、この研究に一つの名前をつけます
「三重谷・失われた水系と古代丹後の資源文化」
調査の優先順位は、次のように考えます。
- 古代住居群の正式な遺跡名、年代、発掘報告書を確定する。
- 三重谷から水戸谷峠にかけての地形断面と旧河床を調べる。
- 明田・入谷・ニュウドウ峠周辺の鉱物調査を行う。
- 大屋神社の古文書・棟札と、三重神社の由緒を追う。
特に、集落遺跡から朱が出るかどうかは、大きな分岐点です。
最後に、安田さん。
以前、籠神社・大宮売神社・大屋神社を一宮・二宮・三宮として結ぶ話をしましたね。
私は今回、そこにもう一本、線を引きたい。
山から朱を求め、人が集まり、神を祀り、水をたどって海へ出る。
その舞台が三重谷だったとしたら、阿蘇海の歴史は、海岸の砂州や漁業だけでは語れなくなります。
山の中にこそ、阿蘇海を生み、育ててきた人々の歴史が隠れているかもしれません。
そして、これは安田さんの大切にしている言葉に戻ります。
見えないものを見る。それがSSH。
三重谷は、まさにその実践の舞台ですね。(^.^)
◆4 三重谷を守護していた大江氏が、成相寺の寄進者とされています!
おお!! これは、三重谷の歴史を考えるうえで、かなり大きな一手ですね。
ここで、これまでの三つの不思議に、四つ目の要素が加わります。
④ 三重谷を支配した大江氏と、成相寺との深い関係。
しかも、これは単なる伝承上の関係ではありません。成相寺の再興に関する具体的な歴史記述があります。
1. 大江越中守は成相寺の再興に関わっていた
『宮津府志』の記述を伝える資料によると、応永7年(1400年)、成相寺は山崩れと地裂によって堂塔が傾倒しました。
このとき、
らが力を合わせ、本堂を現在の場所へ移したとされています。
さらに、応永24年(1417年)の石地蔵には、
「奉彫仏一千体内、等身願主、三重大江越中、法名永松」
という銘があったと伝えられます。大江越中守が千体仏造立の願主だったということです。
丹後の地名
+1
つまり、大江氏は成相寺の単なる寄進者というだけでなく、寺院の再建と信仰の復興に関与した有力者だったと考えられます。
2. ここで三重谷の位置づけが変わります
大江氏は、三重に城を構え、三重郷五か村を領したと伝えられています。
さらに、三重城・森本城・明田城という城砦群を支配していた可能性が指摘されています。『丹後御檀家帳』にも三重の城主として成吉氏の名が見え、大江氏との関係が論じられています。
丹後の地名
私は、ここに三つの意味があると思います。
第一に、交通です。
三重谷は、現在の竹野川水系だけで完結する地域ではなかった可能性があります。
水戸谷を経て野田川方面へ抜ける交通路があったなら、大江氏の領域は阿蘇海側とも結びついていたことになります。
第二に、信仰です。
成相寺は天橋立を見下ろす山岳霊場です。大江氏がその再興に関わったことは、三重谷の領主が阿蘇海・宮津湾側の宗教的世界とも深く関わっていたことを示します。
第三に、経済力です。
本堂の移転、千体仏の造立。これだけの宗教事業を支えた背景には、相応の経済基盤があったはずです。
その経済基盤が、農業だけだったのか。山林資源、鉱物資源、交通・交易も関係したのか。
ここは、まだ調査の余地があります。
3. 私が描いてみたい三重谷の歴史
三重谷をめぐる四つの層
古代
集落・資源・水系
大規模集落、明田・ニュウドウ峠、辰砂の可能性、旧野田川水系。
古代から中世
祭祀・地域社会
大屋神社、三重神社、地域の信仰と生産。
中世
大江氏の領域支配
三重城・森本城・明田城、成相寺の再興、千体仏造立。
近世以降
流域と地域の再編
竹野川・野田川の流域認識、村落と交通路の変遷。
ここで注意したいのは、大江氏の活動は14~15世紀の話であり、古代の辰砂採掘や河川争奪の年代を直接証明するものではないことです。
しかし、古代から中世にかけて、この谷がどのような価値を持ち続けたのかを考える重要な手掛かりになります。
4. 私なら、成相寺と三重谷を一つの調査対象にします
そして、次の三つの資料を突き合わせます。
- 成相寺の大江越中守に関する寄進・造立記録。
- 『丹後御檀家帳』と『丹後国田数帳』における三重の領主・土地関係。
- 三重城・森本城・明田城の位置と、旧水戸谷への交通路。
なお、成相寺文書は京都府立丹後郷土資料館にまとまって伝わっています。中世の荘園関係文書も含むので、原文書との照合が期待できます。
丹後天橋立ミュージアム(京都府立丹後郷土資料館)
そして、安田さん、ここで一つ、私が思いついたことがあります。
これまでの話をつなぐと、三重谷は、
- 古代には人と資源が集まる場所だった可能性。
- 水戸谷を通じて阿蘇海側と結びついていた可能性。
- 中世には大江氏という有力領主が支配していた。
- その大江氏が成相寺という丹後を代表する山岳霊場の再興を支えた。
という姿を見せ始めています。
すると、成相寺は天橋立を見下ろすだけの寺ではなくなります。
阿蘇海を囲む山々の歴史と、人々の営みを背負った山岳霊場として見えてくるのです。
そして、これは以前お話しした「山・川・湾・砂州」という天橋立の読み解きにもつながります。
私なら、この一連の研究に、
「三重谷から成相寺へ――阿蘇海を育てた山の民と大江氏」
という仮題をつけます。
いやあ、三重谷、奥が深いですねえ!(^.^)
◆5 ありがとう、竹野神社に名の由来をもつ竹野川、、この古代の基本源流は、イサナゴ山を囲む鱒留川と常吉川だったきがします、、常吉川の起点にある谷内地区、ここは、たにおち・谷落ちと読んでいい、そのため、三重谷とつながったことを示す地名かと思いました!
いやあ、今度は竹野川の源流論ですね!(^.^)
これは、三重谷の仮説をさらに広い丹後半島の地形史へ展開する話です。
私が特に面白いと思うのは、イサナゴ山を囲む二つの川、鱒留川と常吉川を、竹野川の古い水系の基本骨格として捉えるところです。
そして、常吉川の源流側にある谷内地区を「谷落ち」と読む。
安田さんの発想を整理すると、こうなります。
- イサナゴ山を中心に、鱒留川と常吉川が水を集める。
- 常吉川の上流に谷内がある。
- 谷内と三重谷の間には、かつて水系が連続していた可能性がある。
- その後の断層運動や河川争奪によって、現在の竹野川水系と野田川水系に分かれた。
つまり、現在の流域界を固定したものと見ず、過去の水の通り道を復元しようということですね。
これは大切な視点です。
1. まず、確認できた地理的事実が面白い
京都府の竹野川水系河川整備資料では、竹野川の源流を大宮町五十河地区の高尾山(620.2m)としています。
そこから南流し、三重付近の狭隘部で大きく屈曲して北へ向きを変え、常吉川、鱒留川などを合わせて日本海へ流れます。
京都府
+1
また、磯砂山(661m)を囲むように、鱒留川と常吉川が流れ出していることも確認できます。
コトバンク
ここで大切なのは、現在の竹野川の源流と、古い水系の源流を区別することです。
現在の河川名でいう源流は高尾山。一方、安田さんが注目するのは、磯砂山塊から流れ出す水が、古い地形の中でどの方向へ流れていたか、という問題です。
これは別々の問いです。
2. 谷内という地名について
ここは一つ、資料上の注意があります。
現在の地名は「谷内(たにうち)」です。地名資料でも、竹野川中流域の右岸、盆地の南端に位置する集落と説明されています。谷内遺跡も確認され、縄文時代早期から鎌倉時代までの遺構・遺物が報告されています。
tangonotimei.com
一方、安田さんの「谷落ち」という読みは、地名の正式な語源として確認されたものではありません。
ただ、地形を読む言葉としては興味深い。
谷が落ち込む場所、谷が別の谷へ向かって開く場所、あるいは水が流れ落ちる場所。
古地形の解釈として、現地の傾斜や谷底の連続性と照合してみたいですね。
3. 竹野神社と竹野川――名前の順序も考えたい
ここも興味深いところです。
竹野神社は、現在の丹後町宮、竹野川河口近くに鎮座する式内社です。ただし、古い読みは「たけの」ではなく、**「たかの」**とされています。
コトバンク
したがって、竹野神社から竹野川という名前が生まれたのか、竹野という地域名が先にあって、神社と川がその名を共有したのかは、まだ決められません。
むしろ、竹野川の流域全体を一つの歴史的な地域として考えたいですね。
4. 私が今回、特に重視したいこと
以前の三重谷の話と今回の谷内をつなぎます。
古い水系の復元仮説
磯砂山塊
鱒留川・常吉川の源流域
常吉川上流・谷内
三重谷との旧谷筋の連続性?
水戸谷・弥刀神社
阿蘇海
模式的な仮説です。実際の古流路は地形・堆積物・標高の照合が必要です。
ここに、以前確認した重要な傍証があります。
三重・五十河が古くは与謝郡に属していたという記録です。三重郷が久安2年(1146年)に丹波郡へ編入されたという地誌上の記述もあります。
tangonotimei.com
これは河川争奪を直接証明するものではありませんが、現在の行政区画や流域区分を古代にそのまま当てはめてはいけない、ということを教えてくれます。
5. 私なら、次はここを調べます
| 調査地点 | 見たいもの |
|---|
| 谷内から三重谷への鞍部 | 旧河床、風隙、谷底の連続 |
| 常吉川上流 | 段丘礫、谷頭の後退 |
| 三重谷の下端 | 流路変更を示す屈曲や堆積物 |
| 水戸谷峠 | 野田川側へ抜けた旧流路の痕跡 |
特に標高断面図が欲しいですね。現在の地形で、谷内から三重谷、水戸谷へ、どの程度の高低差があるかを確認したい。
そして、最後にもう一つ。
安田さんが最初に挙げられた三重谷の三つの不思議。
- 古代の大規模住居群。
- 大屋神社。
- 明田・ニュウドウ峠と辰砂の可能性。
そこに大江氏の成相寺寄進、そして今回の磯砂山・谷内・常吉川が加わりました。
私は、これを次のような問いにまとめたいです。
「丹後半島の古代社会は、現在の河川流域とは異なる水系を利用して成立していたのではないか」
もしそうなら、阿蘇海は単なる海辺の歴史ではありません。
竹野川流域の人々の歴史まで包み込むことになります。
山が水を分け、川が土地をつなぎ、断層がその関係を変え、人間がそこに集落と神社と道をつくる。
いやあ、これは大きな研究テーマになってきましたね。
阿蘇海を調べるために、竹野川の源流まで遡る。
まさに「掘る・繋ぐ・問い返す」です!(^.^)
◆6 ありがとう、、この水戸神社前の古街道を阿蘇海に向かったところに、砂州に松を植樹した明境さんがいらっしゃいます
おお、そこに明境さんが登場しますか! これは面白い位置関係ですね。(^.^)
水戸神社(弥刀神社)の前を通る古街道を、阿蘇海の方向へ下っていく。その道筋の先に、天橋立の砂州に松を植えたと伝えられる明境さんがいる。
このつながりを考えると、明境さんは単に「砂州に松を植えた人」というだけでなく、山側から阿蘇海へ向かう古道と、海辺に生まれた砂州とを結ぶ人物として見えてきます。
ここで、三つの問いが浮かびます。
1. 古道の意味 水戸谷から阿蘇海へ向かう道は、山間部と海辺を結ぶ交通路だったのか。人や物資だけでなく、祭祀や信仰も運んだのでしょうか。
2. 明境さんの活動の意味 松の植樹は、砂州を固定・保全するためだったのか、それとも景観や信仰に関わる営みだったのか。伝承の成立時期や記録を確かめたいところです。
3. 人物と地形の接点 水戸谷の古道、阿蘇海、天橋立の砂州。この三つを結ぶ場所に明境さんが位置するなら、天橋立の歴史を「海辺だけ」でなく、背後の山地や集落から読み解く手がかりになります。
ただし、今の段階では、古道と明境さんの活動が歴史的に直接つながっていたとまでは言えません。そこは史料で確かめたいですね。
ひとつ教えてください。明境さんが松を植えたという伝承は、明境神社に残る由緒や地域の語りに伝わっているのでしょうか。 そこが分かると、古道との関係をもう一段掘れそうです。
こちらもいかがですか?
◆7 明境さんが松を植えたという伝承は、明境神社に残る由緒としてです、なお、街道は、中世までの丹後守護所に通じる古街道です!
ああ、それなら話の筋がぐっと通ってきますね!
水戸神社前の古街道は、単なる山里と海辺を結ぶ道ではなく、中世の丹後守護所へ通じる政治・行政上の道だったのですね。
そうすると、明境さんの伝承の位置づけも変わってきます。
- 山側から水戸谷を下り、阿蘇海へ向かう古街道。
- その道の先に広がる阿蘇海と天橋立。
- 砂州に松を植えたと伝えられる明境さん。
- そして、その松が育っていく舞台となった天橋立。
これは、山間の集落と中世の政治拠点、さらに天橋立の景観形成を、一つの道筋で結びつけて考えられる配置です。
とくに興味深いのは、守護所へ向かう道の先に、天橋立という自然景観があることです。中世の人々にとって、天橋立は眺める対象であるだけでなく、往来し、利用し、手を加え、守る対象でもあったのかもしれません。
宮津市の解説でも、府中には鎌倉時代以降、丹後国の守護所が置かれ、国の政治的中核を担ったとされています。守護所そのものの位置は未発見ですが、雪舟『天橋立図』に描かれた慈光寺付近の塀を守護所とみる説もあります。
宮津市ホームページ
+1
さらに、与謝野町の文化財保存活用地域計画は、阿蘇海北岸の府中を、古代の国府から中世の守護所へと続く政治・経済・宗教の拠点として捉えています。
与謝野町
+1
ここから、私は一つの見方を提案したい。
水戸谷の古街道は、丹後の政治的中心と内陸の集落・生産地を結ぶ道だった。そして、その道の海側に、明境さんによる天橋立の松植樹の伝承がある。
この構図は、なかなか意味深いです。
明境さんの植樹伝承を、単なる松の由来話としてではなく、天橋立という自然の造形に、人がどのように関わってきたかを示す地域の記憶として読めるからです。
もちろん、古街道を通った人々と明境さんの活動が直接結びついていたかは、まだ別の問題です。しかし、道と人物と砂州を同じ地図に置く価値はあります。
そして、もう一つ大切なことがあります。
天橋立の松並木は、自然がつくった砂州の上に、人間の営みが重なってできた景観です。 京都府の保全資料も、松の落ち葉や枝を燃料・製鉄に利用してきた人と松との関係が、松林の維持に結びついていたと説明しています。
京都府
山から水戸谷を下り、古街道を通り、阿蘇海に出て、砂州の松へ至る。
これはまさに、天橋立を「海辺の名勝」としてだけでなく、丹後の山・道・政治・暮らし・海が重なって生まれた文化的景観として読む道筋ですね。
いやあ、明境さんの存在が、ここで効いてきました。(^.^)
◆8 新たに、高尾山からの龍のうねりが見えてきましたね
見えてきましたねえ! これは面白い展開です。(^.^)
高尾山から磯砂山、三重谷、水戸谷へ。そして阿蘇海へと下る水の道。その先には丹後守護所へ通じる古街道があり、さらに明境さんの松植樹伝承と天橋立の砂州がある。
ここに「龍のうねり」を重ねると、地形と歴史が一つの物語のようにつながってきます。
私なら、いったん三つの龍を見ます。
- 地形の龍――高尾山・磯砂山の山塊から、谷と川がうねりながら海へ向かう。
- 人の営みの龍――古街道を通じて、山里の人・物・文化が守護所や阿蘇海へ動く。
- 景観の龍――阿蘇海に砂州が伸び、明境さんの植樹伝承に象徴される人の営みが松並木を育てる。
ただし、これは地形学上の河川の流路と、歴史的な交通路、そして伝承を重ねた読み解きです。三者が同じ時代に一体として機能したと決めつけず、それぞれの年代を確かめることが大切ですね。
そして、私が特に注目したいのは、龍の頭をどこに置くかではなく、龍のうねりがどこで阿蘇海に出会うかです。
天橋立を、海だけから眺めるのではなく、高尾山から眺め直す。すると、天橋立は山の物語の終点であり、同時に海の物語の始まりにもなる。
「高尾山から天橋立へ、龍のうねりをたどる」――新しい探究の軸になりそうです。