宮津エコツアー · yasuda

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◆1ありがとう、、さて、成相寺、、「成相寺(なりあいじ)は、京都府宮津市成相寺にある橋立真言宗の寺院。山号は成相山。本尊は聖観世音菩薩。西国三十三所第28番札所。境内からは日本三景のひとつ天橋立が一望できる。2017年(平成29年)4月、文化庁により地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリー「日本遺産」の「丹後ちりめん回廊」を構成する文化財のひとつに認定された[1][2]。

本尊真言:おん あろりきゃ そわか

ご詠歌:波の音松のひびきも成相(なりあい)の 風ふきわたす天の橋立

歴史

寺伝によれば、慶雲元年(704年)に文武天皇の勅願寺として真応上人によって創建されたとするが[3]、中世以前の寺史は判然としない。

当寺は、天橋立を一望する鼓ヶ岳(標高569メートル)の南東山腹の標高328メートル辺りにあるが、創建時は山のさらに上方に位置し、修験道の道場となっていた。日本全国にある五つの「聖の住む所」の一つであったという[3]。

現在地に移ったのは応永7年(1400年)の山崩れ以降である[4]。山号は古くは「世野山」と称し、雪舟の『天橋立図』(京都国立博物館蔵、国宝)には「世野山成相寺」の書き込みとともに当寺が描かれている。

安永3年(1774年)に本堂(京都府指定有形文化財)が再建されている[4]。

2007年(平成19年)に高野山真言宗から独立し、橋立真言宗の寺院となった。

当寺はしゃくなげの名所でもある[3]。」とウィキペディア。どこからとっついたらいいかなあ、と腕組みしています、人任せ過ぎるとは我ながら思いますが、取っつき方について、アイデアくださいな!(^.^)

ははは、腕組みするのも無理はありません!(^.^)

成相寺の紹介文を読むと、入口がいくつもあるんです。創建伝承、修験道、山崩れ、雪舟の国宝《天橋立図》、西国三十三所、丹後ちりめん回廊、そして天橋立を望む絶景……。どこから入っても、一つの研究テーマになりそうです。

でも、安田さんが今まで掘ってこられた「天橋立を世界遺産に」という大きな問いから考えるなら、私は成相寺を単独で調べ始めるより、「なぜ成相寺は天橋立を見下ろす山腹にあり、その景観と結びついてきたのか」から入るのがよいと思います。

成相寺を調べることが、天橋立の自然・信仰・芸術・人々の移動をつなぐ入口になるからです。

まず、四つの入口を用意する

成相寺旧境内 文化遺産オンライン

入口① 山そのものを調べる――成相寺は、なぜ山の上にあったのか

ここが、私なら最初に入るところです。

宮津市の調査紹介によると、現在の本堂より約70m高い場所に旧境内があり、奈良時代から平安時代とみられる石垣や礎石、寺院関連の平坦地が確認されています。つまり、単なる寺伝ではなく、考古学的に調査できる山岳寺院なのです。

宮津市ホームページ

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問い:人々は、なぜこれほど高い場所に寺院を築いたのか。 信仰、修行、地形、水、交通、眺望。それぞれの可能性を、証拠と照らして考えられます。

天橋立図 - 京都国立博物館 館蔵品データベース

入口② 雪舟の《天橋立図》から入る――なぜ成相寺が描かれたのか

国宝《天橋立図》には、天橋立、智恩寺、阿蘇海、府中の町並み、そして山上の成相寺が描かれています。しかも、実際には存在しない視点から景観を再構成した絵だと考えられています。

文化遺産オンライン

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問い:雪舟にとって、成相寺は天橋立の景観を構成するうえで、どんな意味を持っていたのか。

これは安田さんが追いかけている「天橋立の自然景観と文化的価値の関係」に直結します。ただし、描かれたことだけで、雪舟の意図や寺の重要性まで断定しないことが肝心です。

成相寺参詣曼茶羅 – 京都発 文化財アーカイブス

入口③ 参詣する人々から入る――成相寺は誰に知られていたのか

成相寺旧境内は、平安時代末期の『今昔物語集』や『梁塵秘抄』にも登場します。また、1161年や1348年に著名な僧侶が訪れた記録も、文化庁の史跡解説に紹介されています。

文化遺産オンライン

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問い:山中の霊場は、どのようにして丹後の外にまで知られ、参詣する人を集めたのか。

ここから、巡礼路、寺社間のつながり、宿泊や物資の供給、海や陸の交通へと調査を広げられます。具体的な経路や経済的な影響は、別途史料で確かめる必要があります。

切り絵名刺・切り絵御朱印|株式会社ゲットバリュー

入口④ 伝説と信仰から入る――なぜ「成り相う」寺なのか

本尊の観音が、飢えた僧を救うために身代わりになったという説話が、寺名の由来として伝えられています。

nariaiji.jp

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問い:この説話は、どのような信仰を伝え、参詣者に何を語りかけてきたのか。

伝説を事実か否かの二択で片づけず、説話が記録された時代、語られた意味、信仰との関係を調べる入口です。

私なら、最初の調査は「成相寺旧境内」から始めます

理由は明快です。現地に物証があり、歴史を問い直せるからです。

文化庁の「成相寺旧境内」の解説には、旧境内の発掘成果、古代・中世の建物跡、中世墓群、文献資料、雪舟の絵画がまとまって登場します。ここを起点にすれば、調べるべきことを具体的に絞れます。

文化遺産オンライン

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まず、次の三つだけを確かめてみてはどうでしょう。

  1. 山崩れの前後で、寺院の位置や伽藍はどう変わったのか。 1400年の山崩れという寺伝と、発掘調査の成果を照合する。
  2. 成相寺は、いつ、どのように山岳霊場として知られるようになったのか。 『今昔物語集』『梁塵秘抄』など、年代の分かる史料を追う。
  3. 成相寺と天橋立の結びつきは、いつ、どのような資料に現れるのか。 雪舟の絵、参詣曼荼羅、巡礼の記録を見比べる。

そして現地に行くなら、現在の境内だけでなく、旧境内の位置関係も意識して歩く。山の傾斜、平坦地、水の流れ、眺望、府中との位置関係を見ておくと、文献を読むときの問いが変わります。

最後に、安田さんに一つだけ、少し大きな問いを置いておきます。

成相寺は、天橋立を見下ろすためにそこにあるのか。それとも、成相寺という山岳霊場が長く存在してきたことによって、私たちは天橋立を違う目で見るようになったのか。

もちろん、どちらか一方と決める必要はありません。けれど、この問いを持っておくと、成相寺を単なる「天橋立の展望所」や「古いお寺」として終わらせずに済みます。

そして、ここから天橋立の世界遺産としての価値を考え直せるかもしれません。

最初から全部を調べようとしない。まず一本、いや、まず一つの遺構から。

3800本の巨樹調査の教訓が、ここでも生きそうですね。(^.^)

◆2 おお、、パーツにくずしてもらったというか、レントゲンをあててもらたというか、なるほど、、!とおもえました、、ありがとう、まず反応したのは山崩れ、、この言葉ですねそうなんだよなあと!、

おおお!!そこでしたか!!(^.^)

「山崩れ」――この四文字が、安田さんの中で引っかかった。

私は、ここに大きな入口があると思います。

成相寺の歴史を読むと、704年の創建伝承、修験道、観音信仰、雪舟、巡礼……と、どうしても人間の営みを追いかけたくなります。

ところが、「1400年ごろ、山崩れによって寺が現在地へ移った」という話に目を向けると、突然、自然の側から歴史を読み直すことになる。

山が動けば、寺の歴史も動く

京都 成相山パノラマ展望台からの天橋立 - No: 31230901|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK
天橋立を一望できる宮津の古刹・ 成相寺|宮津市広報

中寺廃寺跡 | 記念物 | さぬき歴史文化探訪ナビ

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仮に山崩れが寺院の移転を引き起こしたのなら、そこにはいくつもの問いが生まれます。

  • 何が崩れたのか。 寺院の敷地なのか、背後の斜面なのか。どの範囲で、どのような地形変化が起きたのか。
  • なぜ崩れたのか。 豪雨、地下水、地質、斜面の構造など、どんな要因が考えられるのか。
  • 移転はどのように進んだのか。 寺院の建物や参詣路はどう変わり、信仰の場はどのように受け継がれたのか。
  • その出来事は、天橋立を取り巻く山地の歴史を考える手がかりになるのか。

ただし、ここは慎重に。1400年の山崩れという伝承があることと、その崩壊の地質学的な原因や規模が実証されていることは、別の話です。まず史料と発掘成果を確認し、地形・地質の調査と照合したいところです。

そして、安田さんが追ってきたテーマにつながる

天橋立は、山・川・湾・砂州の関係から生まれた景観です。

その山地も、ずっと動かない背景ではありません。崩れ、土砂が動き、川が運び、海岸の地形が変わる。人間は、その変化する大地の上に寺を建て、道を通し、信仰を育ててきました。

ここに、安田さんのいう「自然美と文化的価値の関係」を読み解く手がかりがありそうです。

自然が歴史の舞台をつくるだけではない。自然の変化そのものが、人間の歴史を動かすこともある。

成相寺の「山崩れ」は、その可能性を具体的に問い直せる出来事なのですね。

それにしても面白い。3800本の巨樹を「しらみつぶし」に調べた人が、今度は寺の歴史を読んでいて、たった四文字の「山崩れ」に足を止める。

これもまた、長く土地を見てきた人の目線でしょう。(^.^)

次に掘るなら、私はまず、旧境内と現在の境内が地形上どのような位置関係にあるのかを見たいです。そこから始めれば、「山崩れ」が単なる寺伝なのか、具体的な地形変化を伴う歴史的な出来事なのかを、少しずつ確かめていけます。

◆3 成相寺のある山は、鼓が岳といって山田断層にそって形成された花崗岩を山体とする山で、風化してくずれやすいのです、今もくずれ続けています、くずれる、承知でたてたのでしょうね、では、なぜあえてここだったか!!ですね

あああ、そこですね!!(^.^)

安田さんは、すでに山の成り立ちをご存じなのですね。山田断層に沿う花崗岩の山体、風化して崩れやすく、今も崩壊が続いている。その山に、長い歴史を持つ成相寺がある。

すると、問いが変わります。

「なぜ山崩れが起きたのか」だけではない。「なぜ、崩れる危険を抱えたこの山が、信仰の場に選ばれたのか」ですね。

私は、ここに三つの仮説を置いてみたいです。

① 人里から離れた、修行にふさわしい山だったのか

山岳修行では、険しさや人里からの隔たりが、修行の場としての意味を持つことがあります。

成相寺の旧境内は、現在の境内よりさらに高い場所にあったとされ、修験道との関係が伝えられています。

ただし、険しい山だったから成相寺が選ばれた、とすぐに結論づけることはできません。周辺の山岳霊場との比較や、旧境内の遺構が必要になります。

② 天橋立を望む山だからこそ、特別な意味を持ったのか

天橋立を一望できる宮津の古刹・ 成相寺|宮津市広報
第二十八番 成相寺 : 西国三十三所
Nariaiji Temple - Amanohashidate Travel

ここは、安田さんの世界遺産への問いとつながります。

天橋立は海辺の景観ですが、それを見下ろす山には寺院がある。山と海、信仰と景観が、一つの場所に重なっています。

ただし、現在の眺望が創建時にも同じように見えていたのか、また眺望そのものが立地選択の理由だったのかは、別々に確かめる必要があります。

景色が美しいから寺を建てたのか。それとも、信仰の場として選ばれた山が、後世に天橋立を眺める特別な場所にもなったのか。

この順序を見極めるのは面白いですね。

③ 崩れる山も含めて、聖なる場所だったのか

これは、さらに慎重に扱いたい仮説です。

現代の私たちは、崩壊しやすい山と聞くと、まず危険性を考えます。しかし、古代の人々がその地形をどのように認識し、山にどんな意味を見いだしたかは、現代の防災意識からは決められません。

崩れやすさそのものが聖地選定の理由だったという証拠は、今のところ示せません。

一方で、山岳信仰を考えるなら、山の形、岩場、湧水、眺望、隔絶性など、土地の具体的な特徴を一つずつ検討する価値があります。

そして、私が最も知りたいこと

安田さんの指摘を踏まえると、成相寺の立地を考えるには、「なぜこの山か」と「なぜこの山の、この場所か」を分ける必要がありそうです。

  • なぜ鼓ヶ岳という山が選ばれたのか。
  • なぜ山頂ではなく、さらに高い旧境内や現在の山腹に寺院が置かれたのか。
  • 山崩れによる移転は、信仰の場を変えたのか、それとも信仰を保つために場所を変えたのか。

ここで、704年という創建伝承と、発掘調査で確認できる旧境内の年代を混同しないことも大切です。寺伝の創建年が、そのまま現在の場所の成立年代を示すとは限りません。

安田さん、ひとつ伺いたいです。

成相寺の旧境内からも、天橋立を望むことができるのでしょうか。

もし旧境内の眺望が確認できれば、立地の意味を考えるうえで重要な手がかりになります。眺望が主な理由だったとはまだ言えませんが、山岳信仰と天橋立の景観がどのように結びついていたのか、問いを具体化できそうです。

◆4 (^.^)成相寺の旧境内から望む天橋立景観を成相山大観望と言います!

あっはっはっは!!(^.^)

成相山大観望!!

そうでしたか。私が「旧境内から天橋立を望めるのでしょうか」と尋ねたら、安田さんから答えが返ってきた。しかも、ちゃんと名前までついている!

これは一本取られましたね(笑)。

でも、ここからが面白い。

「なぜ、あえてこの山だったのか」

いま、私たちの前には三つの事実・論点が並んでいます。

  • 地質――山田断層に沿う花崗岩の山体。風化・崩壊が続いている。
  • 信仰――成相寺は山岳修行の場として伝えられ、旧境内は現在の境内より高い場所にあった。
  • 景観――旧境内から天橋立を望む場所が、成相山大観望として知られている。

この三つを重ねると、成相寺を単なる「天橋立の展望所」として見るのではなく、山の地質・山岳信仰・天橋立の景観が交わる場所として考えられます。

ただし、ここで急いで「眺望を得るために寺を建てた」と結論づけてはいけません。寺院の成立が先で、眺望が後世に評価された可能性もあります。

そこで、次の問いが浮かびます。

成相寺の人々は、天橋立を見ていたのか。それとも、天橋立を含むこの山と海の世界の中で、信仰を営んでいたのか。

両者は似ているようで、ずいぶん違いますね。

前者なら眺望の価値が中心になります。後者なら、山そのもの、修行の場、海と陸のつながり、そして天橋立までを含む風土全体が、信仰を支えた可能性を考えることになります。

安田さんが探しているのは、きっと後者も含めた、もっと立体的な理解なのでしょう。

そして、山崩れの問題に戻る。

崩れやすい山だった。それでも、この場所に寺が営まれ、山崩れの後も場所を移して信仰が続いた。

もし史料や地形調査でその経緯を確かめられれば、成相寺の歴史は、自然が人間の営みを制約するだけでなく、人間がその変化にどう応じてきたかを示す事例になります。

いやあ、成相山大観望から始めると、天橋立の見方そのものが変わってきますね。(^.^)

◆5 山岳信仰山岳宗教、山岳修行について、ポイントを解説くださいな

安田さん、成相寺を読み解くうえで、この三つの言葉を区別しておくと、ずいぶん見通しがよくなります。(^.^)

山岳信仰・山岳宗教・山岳修行。 互いに関係していますが、同じ意味ではありません。成相寺を考えるときは、信仰が生まれ、宗教として形づくられ、人が山で実践する――その重なりを見ていきたいのです。

1. 山岳信仰――なぜ山を敬うのか

日本では古くから、山は神霊が宿る場所、神そのものとして崇められる場所、水や生命をもたらす場所、祖霊とつながる場所などと考えられてきました。こうした山への畏敬や祭祀を、広く「山岳信仰」と呼びます。

National Parks of Japan

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山は、人間に恵みを与える一方、土砂崩れや洪水などの脅威にもなります。

ここで大切なのは、山岳信仰を単に「昔の人は山を神様だと思った」と説明して終わらせないことです。

  • 山から流れる水が、里の暮らしを支える。
  • 山の頂や岩場が、日常とは異なる神聖な場所と受け止められる。
  • 山に入ることが、特別な祈りや修行になる。
  • 山の恵みと危険の両方が、人々の山との関係を形づくる。

ただし、これらがすべての山、すべての時代に当てはまるわけではありません。具体的な山ごとに、どのような信仰があったのかを確かめる必要があります。

2. 山岳宗教――山への信仰が、宗教の仕組みになる

「山岳宗教」は、山を聖なる場所とする信仰が、仏教などの教えや儀礼、寺院、修行者、巡礼の仕組みと結びついたものを考えると理解しやすいです。

日本では、仏教が伝来した後、山への信仰と仏教、とりわけ密教などが重なり、山を修行の場とする宗教文化が発達しました。その代表的なものが修験道です。

Japan Tourism Agency,Japan Tourism Agency

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ここで注意したいのは、山岳信仰が最初から修験道だったわけではない、ということです。

山への信仰には長い歴史があり、修験道はその信仰が仏教などと結びつき、独自の実践体系を発達させたものです。また、成相寺が古くから山岳霊場だったことと、創建当初から後世と同じ修験道の制度が整っていたことも、分けて考えなければなりません。

3. 山岳修行――なぜ、わざわざ山に入るのか

山岳修行は、山を単に礼拝するだけでなく、自ら山に入り、身体を使って修行することです。

修験道では、山中を歩く、峰々を巡る、滝や水で身を清める、断食や祈りを行うなどの実践を通じて、心身を鍛え、宗教的な力を得ようとしました。山中での修行によって得た力を、人々の救済や祈願に役立てることも重要な要素でした。

Japan Tourism Agency,Japan Tourism Agency

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つまり、山は信仰の対象であると同時に、修行を行う場所でもあったのです。

4. では、成相寺はどう位置づけられるのか

ここで、成相寺に戻りましょう。

第13回 山岳(山林)寺院 成相寺 - 宮津市ホームページ
京都、丹後宮津の成相山から、夏の天橋立ビュー。|地域の風・京都
成相山 成相寺|みにたま

成相寺旧境内について、文化庁は、奈良時代の遺物が出土し、平安時代から室町時代にかけての寺院関連遺構や中世墓群が確認された、重要な山林寺院跡と説明しています。また、『今昔物語集』や『梁塵秘抄』にも成相寺に関する記述があり、平安時代末期には山岳霊場として広く知られていたことがうかがえます。

文化遺産オンライン

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ここから、調査すべき問いが見えてきます。

視点成相寺で確かめたいこと
山岳信仰なぜ、この山が聖なる場所として選ばれたのか
山岳宗教いつ、どのような教えや儀礼を持つ寺院として発展したのか
山岳修行旧境内や周囲の山々が、修行の場としてどう使われたのか
地形・地質山の地形や崩壊は、寺院の立地や移転にどう関係したのか
景観・芸術成相山大観望や雪舟の《天橋立図》は、山と海の関係をどう伝えているのか

最後の二つは、安田さんが取り組んでいる自然景観と文化的価値の探究に、特に深くつながります。

ただし、成相寺の旧境内が天橋立を望む場所にあったという事実だけで、その眺望を求めて寺が建てられたとは言えません。信仰が先だったのか、眺望が立地選択に関係したのか、あるいは後世に景観の意味が深まったのか。史料と現地の地形を照らし合わせる必要があります。

私なら、成相寺の調査を「山を信仰した人々は、山に何を求めていたのか」という問いから始めます。

そして、その問いを成相寺の旧境内、山崩れ、成相山大観望へと具体化していく。

山を崇めること、山に宗教の場をつくること、山に入って修行すること。この三つの違いを押さえると、成相寺が単なる古刹ではなく、山と人間の関係を長い時間の中で考えるための場所として見えてくると思います。

◆6 修行僧のかぶり物をヤマボウシ、そのやまぼうしの名付けられたやまぼうし、四照花ともよばれているんですって(^.^)

おお、そこにも「山」が出てきましたね!(^.^)

ヤマボウシ――山法師。 白い総苞片を、比叡山などの僧兵・山法師がかぶった頭巾に見立てた、というのがよく紹介される名前の由来です。

ヤマボウシ(山法師) - ☆ほしのつぶやき☆
山法師の白い苞が緑に引き立つ散歩道🚶‍♀️🚶‍♀️開花状況は❓ - 福ちゃんの散歩道
ヤマボウシは実も花も紅葉も楽しめる落葉高木!人気の品種から育て方まで徹底解説

そして「四照花(ししょうか)」という別名もあるのですね。中国ではヤマボウシの仲間を「四照花」と呼びます。日本の植物名と漢名では、同じ植物を見ていても、名前の由来や見立てが異なることがあります。

ここで、成相寺の山岳信仰とつなげてみると面白い。

  • 山で修行する人々がいる。
  • その人々の装束や頭巾が、植物の姿を表現する言葉になる。
  • 植物の名前を通して、山で暮らす人間の姿が自然の中に残る。

もちろん、ヤマボウシの名が成相寺や修験道に直接由来するということではありません。でも、人間が山で営んできた文化が、自然を観察し、名づけるときの物差しにもなっている。そこが面白いのです。

安田さんが巨樹を3800本も調べてこられたこととも、つながりますね。

木を一本見つける。名前を調べる。その名前の背景をたどると、人間の歴史や信仰が顔を出す。

山は、地質や生態系だけでできているのではない。人間が山をどう見てきたかという記憶も、重なっている。

いやあ、成相寺の山から植物の名前へ。こうして話が横に伸びるのが、丹後を掘る面白さですね。(^.^)

◆7 成相寺山麓にもおおい木です、全木が花、夕暮れの遠目では、法師が山駆けしてらっしゃるとおもうほどですよ!

ああ、それは見事な光景でしょうねえ!(^.^)

成相寺の山麓を覆うヤマボウシが、一本一本、木全体に花をつける。昼間なら白い花の集まりと見えるものが、夕暮れの遠目には、山を駆け上がる法師たちの姿に見えてくる……。

ここで、ヤマボウシという名前が、ただ植物の形を説明する言葉ではなくなりますね。

成相寺は、かつての山岳修行の場。山を行き来した修行僧たちの記憶が、土地の歴史として残っている。その山麓で、法師の頭巾を思わせる花が一斉に咲く。もちろん、花と修行の歴史が直接つながっているとまでは言えません。でも、土地の記憶を知った目には、自然の景色が別の姿を見せてくれる。

しかも、夕暮れという時間がいいですね。一本の木を見分ける昼間の目から、山全体に動くものを感じる目へ。

「見えないものをみる、それがSSH」――まさに、そんな景色ではありませんか。

ところで、ひとつ気になりました。ヤマボウシが山麓一帯で咲くのは、もともと自生していた木々なのでしょうか。それとも、植栽されたものも多いのでしょうか。そこにも、成相寺と人々の暮らしとの関係を読み解く手がかりがありそうです。

◆1 ふるさとの美しさ、といいます、天の橋立三景とか天の橋立七景とかさらに10景とかあげてらっしゃいます、平面的羅列すぎる、絵はがきを並べたよう、否定しません、しかしそこが気になりますね(^.^)優劣じゃないです、股のぞきもあっていい、ただ天の橋立ビュウを立体としてみるように組み立てているかというとそうではないと思うのです、そこが、宮津市以外ニ町のかみにくさかもしれないと想像しました、見当は外れていますか、

安田さん、見当は外れていないと思います。むしろ、かなり本質的な仮説だと感じます。(^.^)

おっしゃっているのは、眺望ポイントの数が足りない、という話ではありませんね。

天橋立をいろいろな角度から見ることと、天橋立という景観を立体的に理解することは、同じではない。

ここが核心だと思います。

1. 「四大観」「五大観」は、視点を増やす

現在、京都府は飛龍観・斜め一文字・一字観・雪舟観を四大観として紹介し、宮津市は丹後国分寺跡からの天平観を加えた五大観を案内しています。しかも、一字観は与謝野町の大内峠からの眺望です。

京都府

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つまり、与謝野町が完全に外れているわけではありません。

ただ、これらの紹介は基本的に「どこから、どんな姿に見えるか」という眺望の魅力を伝えるものです。そこには大切な価値がありますが、安田さんが求めておられるものは、さらに一歩先にある。

例えば、眺望ポイントを巡っても、次の問いが自然に生まれるとは限りません。

  • 目の前の砂州に、山からどのように土砂が供給されたのか。
  • 宮津湾と阿蘇海は、河川や海流を通じてどうつながっているのか。
  • 松林や田畑、集落、人々の生業は、この地形とどのように関わってきたのか。
  • 信仰や絵画は、自然の景観をどう読み替え、人々に伝えてきたのか。

視点場を増やすことは、景観を多方向から見ること。関係をつなぐことは、景観を立体的に理解すること。

この二つを区別する必要があります。

2. 「立体的な天橋立ビュー」とは何か

私なら、次のような構造で考えます。

山・流域

地質・地形・森林・河川・土砂供給

湾・砂州・松林

宮津湾・阿蘇海・砂州の形成・生態系

集落・生業・信仰

農林漁業・交通・神仏・巡礼・芸術

現在の保全と未来

住民の意識・自然共生・地域づくり・次世代への継承

これは概念図です。各要素の関係を、地形・歴史・生態系・地域の記録から検証していく必要があります。

こうして見れば、天橋立は単なる「見る対象」ではなくなります。

山と海の関係が地形をつくり、その地形の上で人々が暮らし、信仰や芸術が生まれ、いま私たちがその価値を問い直している。過去・現在・未来まで含む、動きのある景観になります。

安田さんのいう「立体」とは、まさにこうした関係の重なりなのではないでしょうか。

3. では、伊根・与謝野の「かみにくさ」と関係するのか

ここは、安田さんの仮説が特に面白いところです。

もし運動の見せ方が、天橋立を中心に「どこから見ると美しいか」という眺望の羅列に偏っているなら、伊根や与謝野は、天橋立を引き立てる周辺地域として扱われやすくなります。

一方、天橋立を山・川・湾・砂州・集落・生業の関係として捉えるなら、伊根の海と暮らし、与謝野の農地や歴史文化も、それぞれの固有の価値を持ちながら、より広い地域の物語に参加できます。

ただし、これは現段階では活動の構成から考えられる仮説です。伊根・与謝野の関係者が実際にどのように受け止めているかは、聞き取りや事業の実態を確かめなければ分かりません。

4. 私なら、こう問いかけます

天橋立の眺望ポイントを増やすことと、天橋立の景観を生み出してきた自然・歴史・人々の営みの関係を明らかにすること。この二つを、私たちはどこまで一体的に進めているでしょうか。

そして、その関係を明らかにすることによって、宮津・伊根・与謝野の一市二町が、それぞれの地域の価値を持ち寄れる運動になっているでしょうか。

この問いなら、四大観や五大観を否定する必要はありません。股のぞきも、飛龍観も、一字観も、雪舟観も、それぞれの楽しみ方として大切にしながら、その眺めの背後にある関係を学ぶ入口にできます。

安田さんの問題意識は、眺望ポイントの選定を批判することではなく、「見る天橋立」から「関係として理解する天橋立」へ、運動の視野を広げられないかという提案なのだと思います。

そして、その視野の広がりこそが、一市二町を名目上の協働から、実質的な共同研究へと近づける可能性がありますね。(^.^)

◆2 わたし的には、天の橋立ビュウポイントを三つ、1 成相寺大観望 2 杉山尾根観望 3 イサナゴ山頂観望 これを、一市二町皆を抱え込めるという意味で、天の橋立三大ビュウとしたいです(^.^)

おおお!!!(^.^)

これは、単に三つの眺望ポイントを選ぶという話ではありませんね。「天の橋立三大ビュウ」を、一市二町をひとつの風景として考えるための骨組みにする。そこが面白いです!

しかも、選ばれた三か所がいい。少なくとも構想として、それぞれ違う役割を担わせられます。

天橋立を一望できる宮津の古刹・ 成相寺|宮津市広報

1 成相寺大観望

天橋立を生み出した風土を見渡す視点

天橋立の全景を眺めるだけでなく、山地、宮津湾、阿蘇海、砂州の位置関係を読み解く。信仰や巡礼の歴史も重ねられる、構想の出発点ですね。

『成相寺展望台への道を通って山頂から天橋立を望む』by ten-know|成相寺のクチコミ - フォートラベル

2 杉山尾根観望

山並みと流域から読み解く視点

海岸から見るのとは違う、山地の連なりや水の流れ、地形のつながりに目を向ける視点になりそうです。ここが一市二町を結ぶ地形の物語を担えるか、現地での見え方を確かめたいところです。

丹後・羽衣伝説の伝わる磯砂山に登る

3 イサナゴ山頂観望

丹後の広がりから捉える視点

天橋立を一つの名所として切り取るのでなく、丹後の山・平野・海の大きな地形の中に置いてみる。そういう視点を担わせられれば、地域全体を考える構想につながります。

ただし、ここは大切なのでひとこと。三地点から実際にどこまで天橋立が見えるのか、どんな地形や景観を読み取れるのかは、地点ごとに確認が必要です。とくに杉山尾根とイサナゴ山頂は、眺望の実態を確かめたうえで、それぞれの意味を定めたいですね。

「三大ビュウ」の本当の強み

従来の三景・五大観などが「どこから見ると美しいか」を示すものだとすれば、安田さんの三大ビュウは、そこから一歩進んで、

  • 成相寺から、天橋立そのものを読む。
  • 杉山尾根から、山と流域のつながりを読む。
  • イサナゴ山頂から、丹後という地域の広がりを読む。

――という、見る場所の数ではなく、見えてくる世界の違いを組み立てる構想にできるわけです。

そして、一市二町を抱き込むというのは、三つの自治体に一つずつ場所を割り振ることとは違う。宮津の天橋立を、伊根や与謝野からも読み直せるようにすること。そこに意味があるのだと思います。

「美しいふるさとを未来の子どもたちに」という言葉も、これなら具体的な問いになりますね。

子どもたちに残したいのは、三枚の美しい絵はがきなのか。それとも、三つの眺望を手がかりに、丹後の山・川・海・人の営みがつながって見えてくる力なのか。

ははは!(^.^) この「天の橋立三大ビュウ」、眺望の名所を増やす話ではなく、世界遺産運動の視野を一市二町へ広げるための、地形から始めるエコミュージアム構想として育てられそうです。

こちらもいかがですか?

◆3 ははh、汗をかかない運動は実りません、ぞ(^.^)

はははは!!!(^.^)

おっしゃるとおり。わたし、ちょっと言葉をきれいに並べすぎましたね。汗をかく前に、三大ビュウを完成させてしまった!(笑)

まずは現地へ行く。登ってみる。実際に何が見え、何が見えないかを確かめる。地元の人に話を聞く。地図と地形図を広げる。伊根と与謝野の人にも一緒に歩いてもらう。

そして、「なぜ、この三か所なのか」を、眺望の実物と地域の人々の言葉で説明できるようにする。

そこまでやって初めて、「天の橋立三大ビュウ」が看板ではなく、運動の力になるのでしょうね。

安田さんの「掘る・繋ぐ・問い返す」は、机上で完結しない。現場で汗をかき、得たものを持ち寄り、また問い直す。

それにしても、三大ビュウをめぐって一市二町の人が一緒に汗をかくようになったら……。

世界遺産登録を目指す運動が、登録の前から、すでに地域をつなぐ仕事をしている。

ここまで行けたら、実りが見え始めますね。(^.^)

◆4  杉山尾根観望について、その写真を、杉山からの天の橋立観望に差し替えていただくことは出来ますか

もちろんです!(^.^)

ただ、先ほどの写真は「杉山尾根観望」の実景写真として確認できたものではなく、イメージ画像でした。そこは差し替えたいですね。

京都府の資料には、杉山周辺の山並みや眺望に関する情報があります。京都府「丹後の魅力・自然美を探す」 からも確認できます。

杉山から実際に天橋立を望んだ写真をお持ちでしたら、ここに添付していただけますか? その写真に差し替える形で、三大ビュウの紹介を整えます。

現地の眺望を正確に伝えることも、この構想の大切な一歩ですね。山の名前だけ借りた写真では、汗をかいたことになりませんからね!(^.^)

大江連山縦走1日目(2025年11月29日)【岐阜、愛知出発登山ツアー、頑張らない山歩きCLUB岳】
2024repo.club-gaku.com このアングルですね

ああ、これですね!!(^.^)

このアングルを「2 杉山尾根観望」の写真として使いたい、ということですね。

砂州だけを切り取るのではなく、手前の市街地、海面に伸びる天橋立、その向こうの山並みまで一望する。まさに、天橋立を周囲の地形との関係の中で捉える眺望ですね。

先ほどのイメージ写真は、この写真に差し替える方向で考えましょう。

一点だけ、掲載元の説明と撮影地点の関係は確認しておきたいところです。写真のアングルが構想に合うことと、撮影地点が杉山尾根であることは、別々に確かめる必要があります。

三大ビュウは、写真の美しさだけで選ぶのではない。そこから何が見え、何を読み解けるのか。 そこが肝ですね!(^.^)

◆5

成相寺大観望と古代スギの山・椙山の間をロープウェイで結んだらどうでしょう、カッパドキア級のエンターテインメント性をそなえた橋が架かるのでは、、早いですが、2027の初夢です(^.^)

はははは!!!(^.^)

2027年の初夢、これは大きな夢ですね!

成相寺大観望と、古代スギの山・椙山をロープウェイで結ぶ。単なる観光施設の新設ではなく、安田さんの構想する「天の橋立三大ビュウ」に、まったく新しい物語が加わります。

天橋立を一望できる宮津の古刹・ 成相寺|宮津市広報
【京都天橋立】恋愛成就・学問祈願・願望成就が叶う五つの神社・寺を紹介!|ayano-matsumura
天然杉と自然の宝庫「上宮津・杉山」のPR動画を作成しました/京都府ホームページ

ロープウェイそのものが「橋」になる

わたしが面白いと思うのは、到着地点だけでなく、二つの山の間を移動する時間そのものが体験になることです。

  • 成相寺大観望――人々が長い歴史の中で眺め、祈り、描いてきた天橋立。
  • 空中の道――山並み、谷、森林、地形のつながりを、視点を変えながら体感する時間。
  • 椙山――古代スギの森と向き合い、人間の時間を超える自然の営みに思いを巡らせる場所。

景観を眺める楽しさから、空中を移動する高揚感へ、そして森の静けさへ。

カッパドキア級という言葉に込められているのは、単に奇抜な乗り物があることではなく、その土地でしか味わえない驚きが、地域の自然や歴史への理解につながることなのではないでしょうか。

ただし、夢を構想に育てるなら

成相寺は山岳信仰の歴史を持ち、山中には古い参詣道や寺院跡も残っています。

宮津市ホームページ

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だからこそ、ロープウェイのルートは、森林や希少生物への影響、文化財、景観、土地の権利、安全性、整備・維持費を含めて検討する必要があります。現段階では、椙山の正確な位置と候補ルートを確認しないまま、実現可能性を判断することはできません。

そして、ここが安田さんらしいところだと思うのです。

ロープウェイを架けることが目的なのではない。天橋立を眺める体験を、山と森、信仰と歴史、そして丹後の未来へとつなぐことが目的なのですね。

もしこの夢を最初の一歩にするなら、まずは地図の上で成相寺大観望と椙山を結び、標高、距離、谷の形、森林環境、既存の道を重ねてみる。その一枚の地図から、夢が現地調査へと動き始めます。

2027年の初夢としては、なかなか壮大です。

天橋立に橋を架けるだけではない。天橋立から、丹後の山へもう一本、未来への橋を架ける。

いやあ、安田さん。今度は「橋立」が空中に伸びますか!(^.^)

◆6 ありがとう、、おれたちゃ、重伝建で精一杯、あまのはしだて、せかいいさん 20年ももっとさき、、!!なに???そんなのかんけえねえ、、かんけいねえ、、ってことにしちゃたらいかんでしょう、と思います

うん……そこですね。(^.^)

「おれたちゃ、重伝建で精一杯」

その言葉には、地域の現実がある。人手も、予算も、担い手も限られている。目の前の集落を守るだけでも、どれほど大変か。

けれども、そこから先に、

「天橋立の世界遺産なんて、20年ももっと先の話だ。そんなの、うちには関係ない」

という線を引いてしまったら、もったいない。いや、それでは、地域の未来を自分たちで狭めてしまうのではないか。安田さんが気にしておられるのは、そこなのだと思います。

わたしは、ここで大切なのは「一市二町が、同じ事業をすること」ではないと思います。

それぞれが自分の地域を守ることと、天橋立を核に丹後全体の未来を考えること。この二つを切り離さない。

たとえば、重伝建の町並みを守ることは、そこだけの話ではありません。人々が土地の条件に応じて暮らしを築いてきた証拠を守ることです。伊根の舟屋も、与謝野のちりめん街道も、上世屋の棚田も、それぞれ違う自然と人間の関係を伝えています。

それらを天橋立とどう結び直せるか。世界遺産登録がいつ実現するかとは別に、今から問い続ける意味があります。

だから、こんな言い方もできるでしょう。

世界遺産は、登録される日から始まるのではない。

その日が来るかどうかにかかわらず、地域が自分たちの価値を掘り起こし、互いにつなぎ、次の世代に手渡す。その営みは、今日から始められる。

そして、安田さんの「天の橋立三大ビュウ」も、ロープウェイの初夢も、その大きな問いの中にあるのでしょう。実現を急ぐのではなく、まず現地を歩き、見えるものを確かめ、地域の人と語り合う。そうした小さな実践が、20年先の可能性を育てる。

わたしが特に大事だと思うのは、「天橋立のために、伊根や与謝野にも協力してもらう」という発想にしないことです。

伊根には伊根の未来がある。与謝野には与謝野の未来がある。宮津にもある。その未来を互いに持ち寄ったとき、初めて「一市二町で天橋立を考える」ことが、それぞれの地域にとっても自分ごとになる。

安田さんの言う「関係ないことにしちゃいかん」は、みんなに同じ仕事を背負わせたい、という話ではないのですね。

自分の地域を守ることが、知らず知らずのうちに、丹後全体の未来を支えている。そういうつながりを、今からつくっておきたい。

20年先の世界遺産を語ることは、遠い未来の夢を語るだけではない。今ここにいる人たちが、次の世代に何を残すのかを考えることでもある。

……いやあ、これは「初夢」よりも、ずっと地に足のついた話ですね。(^.^)

◆1 ありがとう、●丹後には、掘るべき自然があり、つなぐべき歴史があり、問い返すべき未来があります。●美しいふるさとを未来の子どもたちに 、、これを頭の中で転がしていました、美しいふるさと、、つなぐべき歴史  フムフム、ころころがY茶が茶、そしたら、こんな質問がポン!いうところの里山を、五人組制度、供出制度、この二つから紐解いて解説くださいな、、紐解いてくださいな

いやあ、言葉が転がって、問いがポン!と生まれましたね。(^.^)

「美しいふるさとを未来の子どもたちに」。その「美しいふるさと」の代表格ともいえる里山を、江戸時代の五人組制度と、戦中・戦後の食糧供出制度から読み解く。これは、里山を自然だけでなく、そこに暮らした人々と社会制度の歴史として捉える問いですね。

私の見立てを先に申し上げると、里山は単に「人と自然が仲よく暮らしてきた場所」ではありません。

里山は、自然の恵みを共同で利用しながら、支配や負担を受け入れ、ときには生き延びるために工夫してきた、人と自然の関係の積み重ねです。

その関係を、二つの制度から紐解いてみましょう。

1 江戸時代の五人組――里山を支えた「共同体」と「統制」

五人組は、江戸幕府が全国的に制度化した、近隣の五戸前後を一組とする仕組みです。年貢納入や治安維持などに連帯責任を負い、住民の行動や移動も管理しました。福井県史に残る五人組関係の記録からも、制度が村の暮らしに深く入り込んでいたことが分かります。

群馬県ホームページ(文書館)

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では、これを里山に重ねると何が見えるでしょうか。

Загадка японських буракумінів | Культура Останній Бастіон
風薫る季節!棚田やいちご狩り、テラスカフェで新緑を楽しもう 大阪府能勢町 | クルマ情報サイトーGAZOO.com
More Mimasaka | yoooya

当時の農村では、田畑だけで暮らしが完結するわけではありませんでした。

  • 山から薪や木材を得る。
  • 草を刈り、田畑の肥料にする。
  • 落ち葉を集め、堆肥をつくる。
  • 水路や道を共同で維持する。
  • 山林や草地の利用について、村の決まりを守る。

こうした営みは、地域や時代によって違いがありますが、里山を維持する重要な仕組みでした。入会地などの共有的な資源には、利用できる人、採取の時期や量、管理の方法を定めた地域の規則が存在する場合もありました。

北本デジタルアーカイブズ

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ここで大切なのは、五人組制度そのものが里山を生み出したわけではないという点です。里山の利用や共同作業には、五人組制度以前からの慣行や、村独自の取り決めも関わっていました。

五人組制度は、そうした村の生活基盤の上に、支配する側の連帯責任や監視の仕組みを重ねたのです。

つまり、里山の美しい景観の背後には、助け合いだけでなく、規則、責任、負担、場合によっては相互監視もあった。

ここを見落とすと、昔の里山を「人と自然が調和していた理想郷」として美化してしまいます。

2 戦中・戦後の食糧供出制度――里山は国家の食糧政策とどう結びついたか

次は、時代を一気に近代へ進めます。

食糧供出制度は、農家が生産した米や麦などを、政府が定めた条件や割当てに従って供出させる仕組みでした。戦時期に始まり、1942年の食糧管理法で制度的に整えられ、敗戦後も食糧不足のなかで続きました。

関西大学リポジトリ

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食(昭和21年)▷没収した隠匿物資の供出・配給 | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives
13-1-59 米の配給(昭20.8)
配給米の貯蔵 | 昭和館デジタルアーカイブ

ここで、五人組制度との共通点が見えてきます。

五人組制度食糧供出制度
近世の村を通じた行政・統制近代国家による食糧管理
年貢や治安などに連帯責任食糧の生産・供出に割当て
村や組を通じて人々を把握農家・農業団体などを通じて生産物を把握
地域の暮らしに規則を及ぼす農家の生産物と家計に直接影響する

もちろん、両者は同じ制度ではありません。時代も目的も法的な仕組みも異なります。しかし、国家や行政の要請が、村という地域社会を通じて個々の家に届くという構造には、比較して考える価値があります。

供出制度のもとでは、農家は収穫した米をすべて自分たちの判断で使えるわけではありませんでした。供出を求められた農家にとって、収穫量の確保と家族の食糧をどう両立させるかは、切実な問題だったはずです。

ただし、ここから「供出制度が里山の景観を直接つくった」と結論づけるのは早計です。

里山への影響を考えるには、地域ごとに、食糧増産のための開墾、山林や原野の利用、肥料の確保、労働力の動員などが実際にどう進んだのかを確かめる必要があります。供出制度そのものと、戦時下の増産政策や資源動員は、関連しつつも区別して調べるべきです。

3 二つの制度から、里山の歴史を読み直す

ここまでをつなぐと、里山の姿を考える新しい見取り図ができます。

自然の恵み

山林・草地・水・田畑・薪・肥料

地域社会の仕組み

共同作業・入会慣行・村の規則・五人組

国家・行政からの要請

年貢・生産管理・食糧供出・増産政策

暮らしと景観の変化

土地利用・山林管理・労働・食生活・集落の姿

概念図です。各要素の因果関係は、地域の史料によって確かめる必要があります。

この図で注目したいのは、自然と人間の間に、地域社会の仕組みがあることです。

山の木を切る、草を刈る、水を引く、田を耕す。そうした行為は、個々の農家の判断だけでなく、村の慣行や規則、さらには時代ごとの政策によっても左右されました。

そして、制度が変われば、暮らしも変わり、山の利用も変わり、景観も変わる可能性があります。

ただし、現在の里山の景観を理解するには、戦後の燃料革命、化学肥料の普及、農業機械化、人口減少なども加えて考えなければなりません。五人組と供出だけで、現代の里山までを説明しきることはできません。

4 「美しいふるさと」を、もう一度問い返す

ここで、安田さんの二つの言葉に戻ります。

  • 丹後には、掘るべき自然があり、つなぐべき歴史があり、問い返すべき未来があります。
  • 美しいふるさとを未来の子どもたちに。

私は、この二つをつなぐうえで、次の問いが大切だと思います。

私たちが未来の子どもたちに残したい里山は、どの時代の、どのような人と自然の関係を受け継ぐものなのか。

かつての里山は、生活を支える場所でした。しかし、その暮らしは自然の恵みだけで成り立っていたわけではありません。労働があり、規則があり、負担があり、国の政策がありました。

昔の仕組みをそのまま復活させることが、未来への継承ではありません。

むしろ、昔の人々が山や水をどう使い、何を共同で守り、どのような負担を背負ってきたのかを知る。そのうえで、今の社会に必要な里山との関係を考え直す。それが「つなぐべき歴史」から「問い返すべき未来」へ進む道ではないでしょうか。

そして、丹後でこれを具体化するなら、上世屋の棚田や山林、集落の古文書、入会地の記憶、戦中・戦後の供出記録などをつなぎ合わせることで、土地に根ざした歴史が見えてくるはずです。

美しいふるさととは、ただ美しい景観を残すことではない。その景観を生み出してきた人々の営みと歴史を理解し、未来にふさわしい関係をつくり続けること。

そんな意味を、この二つの制度から読み取ることができると思います。

◆2 美しいふるさととは、ただ美しい景観を残すことではない。その景観を生み出してきた人々の営みと歴史を理解し、未来にふさわしい関係をつくり続けること。、●美しいふるさとを未来の子どもたち、これは、天橋立を世界遺産にする会の標語、です、美しいふるさとと美しい天の橋立との相関関係の認識の幅深さ奥行きがどの程度なのか、と思ったのです、よ(^.^)

ああ、なるほど! 安田さんが転がしていたのは、標語の言葉尻ではなく、その標語の背後に、どこまで深い「ふるさと」の認識があるのか、という問いだったのですね。(^.^)

調べてみると、会の公式サイトには「天橋立を世界遺産に!美しいふるさとを子ども達に残そう」と掲げられています。会の目的にも、天橋立を中心とする地域の保全・継承と、地域の誇りとしての魅力向上が示されています。

hashidate.org

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ここから先は、会の人々の認識を決めつけるのではなく、標語がどこまでを包み込めるかという観点で考えたいです。

「美しい天橋立」と「美しいふるさと」の間には、三つの幅がある

第一の幅――眺める景観から、景観を支える自然へ。

天橋立の松並木や白砂だけでなく、砂州を生み出した土砂の供給、山や川、宮津湾と阿蘇海のつながり、松林の生態系まで見る。ここまで広がると、「美しい天橋立」は一枚の絵ではなく、自然の働きの結果になります。

第二の幅――名所から、暮らしの歴史へ。

神社仏閣、巡礼、和歌、絵画、庭園だけでなく、農林漁業、集落、水路、山の利用、景観を守ってきた人々の営みまでつなぐ。天橋立の美しさは、人々が眺め、描き、信仰し、手入れしてきた歴史とも関係しているのではないか。京都府の景観計画にも、歴史・文化・人の営みが積み重なった景観という考え方が示されています。

京都府

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第三の幅――保存するふるさとから、未来をつくるふるさとへ。

過去の景観をそのまま凍結するのではなく、変化する自然や暮らしとどう向き合うか。子どもたちが天橋立を知るだけでなく、自分で問い、調べ、新しい芸術文化や保全活動を生み出せるか。ここまで進めば、標語は継承の呼びかけであると同時に、未来への問いになります。

では、会の認識はどこまで深いのか

公開資料からは、会が天橋立の文化的価値や保全活動、次世代への継承を重視していることは確認できます。2008年の「天橋立宣言」でも、多様な価値を学ぶこと、美しい姿を守ること、守ってきた人々への感謝、次世代を育てることが掲げられています。

9 月末、国内の世界遺産暫定リストの登載に係る審査結果が発表され、私たち

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一方で、会の構成員が、山・川・湾・砂州・集落・生業・信仰を一つの関係として捉えているか、またその関係を未来の地域づくりにまで広げているかは、標語や公開資料だけでは判断できません。

ここは、安田さんの問題意識が生きるところでしょう。

私なら、会にこう問いかけてみたいです。

「美しいふるさと」とは、天橋立の美しい姿を残すことですか。それとも、天橋立の美しさを育んできた自然・歴史・人々の営みを理解し、その関係を未来の子どもたちとともにつくり続けることですか。

もちろん、二者択一ではありません。後者は前者を含みながら、さらに奥へ進む問いです。

安田さんの「掘る・繋ぐ・問い返す」は、標語を否定するためではなく、標語の中に眠っている可能性を掘り起こすための問いなのだと思います。

「美しいふるさとを未来の子どもたちに」――短い言葉だからこそ、その「ふるさと」をどこまで深く、広く、未来に向けて捉えられるか。そこに、天橋立を世界遺産にする運動の成熟度を考える一つの手がかりがありそうです。

◆3 次回に予定されている天橋立を世界遺産講演会、講師の深町和枝氏の専門は里山景観学、ここに期待したいと思っています(^.^)、

なるほど! そこに期待をかけておられるのですね。(^.^)

これは、講師のお話を聞くというだけでなく、「美しいふるさとを未来の子どもたちに」という標語の中身を、里山景観学から問い直す機会になりそうです。

天橋立を眺めて「美しい」と感じる。その美しさを支えている山、川、田畑、集落、人々の営みまで見えているか。そして、それらの関係が変化していくなかで、何を守り、何を次の世代に手渡すのか――。

安田さんが五人組制度や食糧供出制度から里山を読み解こうとされたのも、まさに景観の背後にある社会や歴史を見ようとする問いですね。

そして今回の講座について、公式案内を確認したところ、講師のお名前は深町加津枝(ふかまち・かつえ)先生でした。京都大学大学院の准教授で、里山管理、森林文化、景観生態学などを研究されています。

宮津市ホームページ

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11月28日の講座の演題は「天橋立の景観と住民意識」。昨年度の住民アンケートをもとに、地域の人々が天橋立の景観をどう捉えているかを分析する内容です。

宮津市ホームページ

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ここに、安田さんの問題意識と重なる大事な接点がありそうです。

講演を聴くとき、私なら次の三つに注目します。

  • 住民にとっての美しい天橋立とは、何なのか。 眺望なのか、松林なのか、信仰や思い出なのか、それとも暮らしを含むものなのか。
  • 住民の意識と、景観を支える営みは結びついているのか。 美しいと思うことと、守るための行動や負担を引き受けることは、必ずしも同じではありません。
  • その意識を、未来の子どもたちにどうつなぐのか。 現在の住民意識を把握するだけでなく、次の世代がどんなふるさとをつくっていくのか。

もちろん、アンケートの設問や分析結果を見ずに、講演の結論を先取りすることはできません。

ただ、今回の講座は、安田さんが考えておられる「美しいふるさと」と「美しい天橋立」の関係を、住民の実際の声から考える機会です。

標語に込められた願いと、住民が日々の暮らしのなかで感じているふるさと。その二つがどこで重なり、どこでずれているのか。

そこが見えてくれば、「美しいふるさとを未来の子どもたちに」という言葉を、もう一歩、具体的な未来への約束に近づけられるかもしれませんね。(^.^)

◆4 もう一つ気になったこと、、天橋立を世界遺産にする運動、、これは、宮津・伊根・与謝野、一市二町協働で取り組む運動と認識しています、が、伊根・与謝野の影が薄いなあ、、思いすぎでしょうか(^.^)

安田さん、私は「思いすぎ」とは片づけたくありません。(^.^)

公式資料を確認すると、京都府・宮津市・伊根町・与謝野町の一市二町が協働して世界遺産登録を目指す、という認識はその通りです。京都府も、地域住民・関係団体・行政が協働する取り組みとして位置づけています。

京都府

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一方で、一市二町が名を連ねていることと、一市二町が同じ存在感で運動を担っていることは、別の話です。安田さんが感じておられる「伊根・与謝野の影が薄い」という問題は、そこを確かめる問いだと思います。

公式資料から見える、少し気になる構図

宮津市:運動の中心が見えやすい

会長は宮津商工会議所会頭、事務局は宮津市教育委員会内に置かれています。市民講座やシンポジウムなど、発信の舞台も天橋立そのものを中心に組まれています。

天橋立を世界遺産にする会

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京都・伊根の舟屋で撮影されたエメラルド色の絶景 「透明感すごい」「名画のような一枚」と驚きの声 | LIMO | くらしとお金の経済メディア

伊根町:正式な参加は確認できるが、発信上の存在感は見えにくい

役員には伊根町商工会と伊根地域本部が記載されています。ただし、公開されている主な活動年表からは、伊根町が独自の役割を担った事業は読み取りにくい状況です。

天橋立を世界遺産にする会

ちりめん街道|屋根のない建築博物館  |  与謝野日々是 与謝野町観光協会

与謝野町:組織には参加しているが、地域の歴史文化との接続が見えにくい

与謝野町商工会、与謝野地域本部、区長連絡協議会が役員構成に含まれています。一方、公開された活動紹介では、与謝野町の歴史や文化を世界遺産運動にどう結びつけているかが、必ずしも明瞭ではありません。

天橋立を世界遺産にする会

ここは慎重に言いたいところです。公開情報で活動が見えにくいことは、実際の活動が少ないことの証明にはなりません。役員会への参加、調査研究への協力、資金や人員の負担などは、事業報告や議事録を見なければ分かりません。

では、何が問題なのか

私が気になるのは、「一市二町で天橋立を世界遺産にする」という共同事業が、実際には「宮津にある天橋立を、伊根と与謝野も応援する運動」になっていないか、という点です。

この二つは、似ているようで違います。

前者なら、三つの地域がそれぞれの歴史・文化・自然の知見を持ち寄り、天橋立の価値を一緒に解き明かします。後者なら、主役は天橋立で、他の地域は協力者にとどまってしまう可能性があります。

そして、安田さんが構想されている「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」には、この構図を広げる可能性があります。

  • あ:阿蘇海――天橋立を支える水域と地形
  • い:伊根――舟屋、海と暮らし、海辺の文化
  • せ:世屋――棚田、里山、山と海のつながり
  • よ:与謝野――農業、ちりめん街道など、地域の歴史と生業

これは世界遺産登録の構成資産として認められるかどうかとは別の話です。しかし、地域の人々が天橋立の価値を理解し、未来に継承する運動として考えれば、三地域それぞれの主体性を育てる構想になり得ます。

私なら、会に三つの質問を置きます

  1. 伊根町・与謝野町は、この運動のなかで、それぞれどのような役割を担っているのか。
  2. 三地域の住民や団体が、調査研究や情報発信の企画・実施をどの程度主体的に担っているのか。
  3. 天橋立の価値を地域全体で共有するために、今後、伊根・与謝野を舞台にした事業をどう展開するのか。

責任を追及するためではなく、共同事業の実態と、これからの可能性を確認するための質問です。

安田さんの問題意識は、伊根や与謝野を目立たせたいというだけではないのでしょう。

一市二町で取り組むというなら、一市二町それぞれが「自分たちの運動だ」と感じられる仕組みになっているか。

そして、天橋立を世界遺産にすることが、宮津だけでなく、丹後全体の自然・歴史・文化を見直す契機になっているか。

そこを問うことには、十分な意味があると思います。(^.^)

◆1 ありがとう、、さて、網野町九竜峠は認識できますか

はい、網野町の峠ですね。調べてみたところ、まず気になったのは 「九竜峠」ではなく「七竜峠(しちりゅうとうげ)」 という地名です。

18 七竜峠(塩江) : 京都・京丹後市  観光 情報
2024/12/3(火)七竜峠ロードパーク 京都府 : ウシ子とウシ夫の牛歩旅
Midori no Ichirizuka Shichiryu Pass Road Park

七竜峠は、網野町の夕日ヶ浦海岸と浅茂川の間にある峠で、展望所から西に夕日ヶ浦・久美浜方面、東に浅茂川・間人方面を望めます。

海の京都観光圏

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ただ、「九竜峠」という別の呼び名や、地元で伝わる地名をお尋ねなのかもしれません。私の検索では、九竜峠という表記は確認できませんでした。

安田さんがおっしゃるのは、七竜峠のことでしょうか。それとも、網野町の別の場所にある九竜峠でしょうか?

こちらもいかがですか?

◆2 ありがとう、、七龍でした(^.^) ここの売りは、久美浜湾の砂州展望です!

なるほど、七龍峠でしたか!(^.^)

そこが「久美浜湾の砂州展望」――これは大事な視点ですね。

天橋立を知る目で七龍峠に立つと、見えてくるのは単なる美しい湾ではありません。日本海と湾を隔てる砂州が、内側に穏やかな水域を生み出した風景です。天橋立と久美浜湾を、砂州という地形の働きでつなげて見られます。

実際、久美浜湾は小天橋という砂州によって日本海と隔てられた潟湖で、砂州の形成には海面変動と沿岸流による砂の運搬が関わっています。

「京丹後ナビ」京丹後市観光公社 公式サイト

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そして面白いのは、「天橋立に似ているから小天橋」と名づけられた風景を、今度は七龍峠から眺めること。天橋立を唯一の主役にするのでなく、丹後半島の各地にある「山・海・砂州・湾」の関係を読み解く旅へ広げられますね。(^.^)

◆3 天橋立を世界遺産に、に求められるもろもろの唯一性立証、その強敵だと認識しています、「他にも類似事例はありますね!」じゃないですか、解説くださいな

おっしゃる通りです。七龍峠から久美浜湾と小天橋を眺めると、天橋立の世界遺産登録を考えるうえで避けて通れない問いが出てきます。

「砂州が湾を隔て、美しい景観をつくる場所は、天橋立だけではない。では、天橋立でなければならない理由は何か?」

しかも、久美浜湾の小天橋は、地形が似ているだけの遠い外国の事例ではありません。同じ丹後半島にあり、地形の成り立ちを比較でき、しかも「小天橋」という名そのものが天橋立との文化的なつながりを示しています。山陰海岸ジオパークも、両者の景観の類似を明記しています。

San’in Kaigan UNESCO Global Geopark

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これは天橋立にとって、単なる「強敵」ではなく、天橋立の唯一性を測るための、身近で厳しい比較対象なのだと思います。

1. まず、地形の唯一性はどうなのか

Aerial View of Amanohashidate Sandbar Framing Miyazu Bay and Mountain Towns

天橋立 — 宮津湾と阿蘇海

砂州・松林・内海・信仰・芸術

約3.6kmの砂州が宮津湾と阿蘇海を隔てています。特徴は砂州そのものだけでなく、松林が育つ環境、独特の眺望、神話や信仰、和歌・絵画の歴史が重なっていることです。

京都府

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Mt. Kabuto Observation Deck - Access, Business Hours, Nearby Spots - Japan Travel Guide MATCHA

久美浜湾 — 小天橋

砂州・潟湖・砂丘・カキ養殖

小天橋砂州が日本海と久美浜湾を隔て、約7.1km²の汽水性潟湖を生み出しています。湾内のカキ養殖やカキ棚の景観など、人の生業と自然の関係も大きな特徴です。

京都府

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この二つを並べたとき、「砂州があって、内側に湾がある」という説明だけでは、天橋立の唯一性は立証できません。

ただし、地形が似ていることは、価値まで同じという意味でもありません。比較する項目を細かく分ける必要があります。

  • 地形の形成過程:砂の供給源、沿岸流、海底地形、海面変動など。
  • 地形と生態系の関係:松林の成立、地下水、砂浜の生物、湾内の環境。
  • 人間との関係:漁業、交通、信仰、集落、保全の歴史。
  • 景観の文化史:いつ、誰が、どのように眺め、描き、詠み、語り継いだか。

比較は「天橋立のほうが上」と結論づけるためではなく、違いを証拠に基づいて明らかにするために行うものです。

2. では、世界遺産としての「唯一性」は何を問われるのか

ここが本丸です。

2007年に提出された天橋立の世界遺産候補提案は、2008年に国内候補として選定されませんでした。関係団体が公表している当時の評価と課題には、白砂青松の景観が世界史的に見てどれほど希少・典型的なのかを、日本国内だけでなく中国・韓国などの類似資産との比較で立証すること、そして「天に架かる橋」という独自の伝統や精神性の起源を説明することが挙げられています。

hashidate.org

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つまり、問題は「美しいかどうか」だけではありません。

問い① 自然地形として、何が特別なのか

他の砂州や潟湖と比べ、地形の成り立ちや地形・生態系の組み合わせに、どのような科学的特徴があるのか。

問い② 文化的景観として、何が特別なのか

自然の地形が、神話、神社仏閣、巡礼、和歌、絵画、庭園などを通じて、どのような文化を育ててきたのか。

問い③ その価値は、世界の人々にも重要なのか

地元で大切にされてきたことを示すだけでなく、人類全体にとって顕著な普遍的価値(OUV)があることを、比較研究と具体的な証拠で説明できるか。

世界遺産では、地域にとって大切な場所であることと、世界遺産としての顕著な普遍的価値が立証できることは、同じではありません。ここは厳密に区別する必要があります。

3. 天橋立が掘り下げるべきは、地形だけではない

安田さんがこれまで掘ってこられた、成相寺、智恩寺、籠神社、海部氏、巡礼、雪舟の《天橋立図》、そして天橋立を描き続けた人々の歴史。これらは、自然地形の比較とは別の、もう一つの重要な調査軸になります。

たとえば、次のような問いです。

  • なぜ、この地形が「天に架かる橋」として理解されるようになったのか。
  • 神仏への信仰や巡礼が、この土地の景観の見方にどう影響したのか。
  • 雪舟の《天橋立図》は、後世の絵画や日本人の景観観に、どのような影響を与えたのか。
  • 同じような自然地形が存在するなかで、天橋立では自然・信仰・芸術がどのような歴史的関係を築いたのか。

ただし、これらも「そうだったに違いない」と物語をつくるのではなく、文献、絵画、遺跡、信仰の記録、比較事例によって、一つずつ検証する必要があります。

4. 七龍峠を、世界遺産の研究拠点にする

私なら、七龍峠からの眺望を、天橋立の価値を脅かすものとして扱うのではなく、天橋立を相対化し、その本当の特徴を発見するための観察地点として位置づけます。

七龍峠から久美浜湾を眺め、次に天橋立を眺める。そこで「似ているところ」「異なるところ」「まだ説明できないところ」を参加者自身が記録する。さらに、地形図、古地図、絵画、地域の伝承を重ねていく。

そうすれば、観光の眺望ポイントが、地域の自然と文化を比較研究するエコミュージアムの入口になります。

そして、ここで一つ大切なことがあります。

天橋立の唯一性を立証することと、丹後のほかの景観の価値を認めることは、矛盾しません。

小天橋があるから天橋立の価値が下がるのではなく、両者を丁寧に比較するからこそ、天橋立ならではの特徴が見えてくる可能性があるのです。

「他にも類似事例はありますね!」――その指摘を恐れず、むしろ研究の出発点にする。安田さんの「掘る・繋ぐ・問い返す」は、まさにそこに力を発揮すると思います。

◆4 ありがとう、恐るべき難敵!と思っていたのが、頑張れ!天橋立を世界遺産に、の共同研究者だった!!(^.^)

はははは!!!(^.^)

恐るべき難敵が、共同研究者に変わった!!

これは、安田さんらしい発見ですね。

七龍峠から久美浜湾を眺める。小天橋という比較対象があるからこそ、天橋立について、これまで以上に厳しく問い直せる。

「天橋立は唯一無二だ!」と先に宣言するのではなく、類似する場所と一緒に調べ、比べ、違いを発見し、その違いがどんな価値を持つのかを明らかにする。

しかも、研究の成果は天橋立だけのものではありません。久美浜湾の価値も、丹後半島の地形と文化のつながりも、いっそう深く理解できる。

これぞ、敵を倒す世界遺産運動ではなく、比較を通じて価値を発見する世界遺産運動!

七龍峠に立つときの合言葉ができましたね。

「頑張れ、天橋立を世界遺産に! そして、頑張れ、久美浜湾!」

世界遺産を目指すからこそ、地域の仲間の価値も見えてくる。

いやあ、数珠紐と数珠珠理論、ここでも生きていますね。天橋立だけを珠にするのではない。久美浜湾も、成相寺も、上世屋も、伊根も、それぞれの珠がつながって、丹後という大きな物語になっていく。(^.^)

「価値を持つ!できる!!守れる!!!天の橋立は!!!!」

――よっしゃあ! 丹後の未来を考えよう――

地元高校 2年生向け講演原稿、、、、、試案(^.^)

みなさん、こんにちは。

今日は、天橋立の話をします。

宮津天橋高校のみなさんですから、天橋立を見たことがない、という人は少ないでしょうね。

小さいころから見てきた人もいるでしょう。
学校行事で訪れた人もいるでしょう。
観光客がたくさん来る場所、写真を撮る場所、海水浴をする場所。そんな印象を持っている人もいるかもしれません。

では、最初の質問です。

天橋立は、世界遺産になる価値があるでしょうか。

「あるに決まっているやん!」

そう思った人、ありがとう。

「いやいや、世界にはもっとすごい場所があるやろう」

そう思った人も、ありがとう。

どちらも大事な意見です。

今日は、私の話を聞いて、天橋立はすばらしいと納得してもらうことが目的ではありません。

みなさん自身に考えてもらいたいのです。

天橋立には、どんな価値があるのか。
その価値を、世界の人に説明できるのか。
そして、その価値を未来に残せるのか。

最後に、みなさんと一緒に「よっしゃあ!」と言えるところまで行けたら、うれしいですね。


1 美しい。それだけで世界遺産になれるのか?

天橋立は、日本三景の一つです。

白い砂、青い松、両側に広がる海。
昔から多くの人が訪れ、和歌に詠み、絵に描いてきました。

雪舟の『天橋立図』もあります。
天から梯子が倒れてできたという神話も伝わっています。

では、これだけのものがあれば、世界遺産になれるのでしょうか。

ここで、少し意地悪な質問をします。

日本には、美しい海岸がたくさんあります。
松の生えた砂浜もあります。
神話が伝わる場所も、歴史ある寺社もあります。

「うちの天橋立は美しい。だから世界遺産にしてください」

それだけで、世界の人々に納得してもらえるでしょうか。

難しいですね。

世界遺産で問われるのは、単に美しいか、珍しいか、人気があるかということだけではありません。

人類全体にとって、どのような価値があるのか。その価値を、確かな証拠をもとに説明できるのか。さらに、その価値を将来にわたって守れるのか。

この三つを、今日は考えてみたいのです。

2 天橋立は、どこから来たのか?

では、天橋立をよく見てみましょう。

長さは、およそ3.2キロメートル。
幅は、場所によって20メートルから170メートルほどです。

天橋立は、砂州という地形です。

砂や小石が、海岸の波や沿岸流によって運ばれ、細長く堆積してできました。

京都府の説明では、世屋川などから運ばれた砂礫が沿岸流で移動し、阿蘇海側の流れとの関係もあって堆積したと考えられています。

つまり、天橋立は、ある日突然、海の上に現れたわけではありません。

山があり、岩があり、雨が降り、川が流れ、土砂が海へ出て、波や流れがそれを運ぶ。

長い時間をかけた自然の働きが、あの細長い地形をつくったのです。

ここで、私が好きな言葉を紹介します。

「天橋立は、山が形を変えたもの」

もちろん、山がそのまま移動してきたという意味ではありません。

山の岩石が風化し、土砂となり、川や海の働きを受けて、別の姿になったということです。

天橋立を知ろうとすれば、天橋立の上だけを歩いていても、分からないことがある。

山を見なければならない。
川をたどらなければならない。
海の流れを考えなければならない。

そうすると、天橋立は、一本の砂州ではなくなります。

丹後の山から海までが、つながって見えてきます。

3 日本中を見渡したら、何が見える?

私は今、伊能図を見ながら、日本の海岸線を調べています。

江戸時代に、伊能忠敬たちが測量してつくった日本地図です。

そこには、日本列島の海岸線が描かれています。

砂州や潟湖、湾の形を探していると、全国には、さまざまな地形があることが分かります。

三保松原もあります。
松川浦もあります。
サロマ湖のように、長い砂州が湖を海から隔てている場所もあります。

すると、こんな疑問が生まれます。

「砂州なら、ほかにもあるやん。天橋立だけが特別なんか?」

そのとおりです。

砂州がある、というだけでは、世界にとって特別な価値があるとは証明できません。

では、何を調べればよいのでしょう。

砂州の形でしょうか。
でき方でしょうか。
山や川との関係でしょうか。
そこに生まれた文化でしょうか。

おそらく、一つだけでは足りません。

地形を調べる。
ほかの場所と比較する。
歴史の記録を読む。
昔の絵図を調べる。
人々がどのように眺め、語り、守ってきたのかを考える。

そうやって、天橋立に何があるのかを、一つずつ確かめていくのです。

私は、これを「掘る・繋ぐ・問い返す」と呼んでいます。

調べて、つなげて、もう一度問い直す。

答えが出たら終わり、ではありません。

答えが出たところから、新しい問いが始まるのです。

4 自然がつくったものに、人間は何を見たのか?

ここで、もう一つ考えてみましょう。

天橋立は、自然がつくった地形です。

しかし、人間は、そこに自然の地形だけを見ていたのでしょうか。

古い時代の人々は、天橋立を神話と結びつけました。

和歌に詠みました。
絵に描きました。
遠くから眺め、海辺を歩き、その姿を心に刻んできました。

同じ砂州を見ても、ある人は地形の不思議を感じるでしょう。
ある人は美しさを感じるでしょう。
ある人は神話を思い出すでしょう。
またある人は、家族と過ごした時間を思い出すかもしれません。

ここに、自然と文化が結びつく姿があります。

自然が先にあり、人間が後から意味を見いだす。
その意味が、物語や芸術や暮らしの中に受け継がれていく。

天橋立の価値を考えるとき、自然だけを見るのでも、文化だけを見るのでもなく、その関係を調べることが大切ではないでしょうか。

ただし、ここでも注意が必要です。

「自然と文化が結びついているから、必ず世界遺産になれる」ということではありません。

世界遺産としての価値を認めてもらうには、世界のほかの場所との比較を行い、何がどのように重要なのかを、具体的な証拠で示さなければなりません。

私たちがすべきことは、最初から答えを決めてしまうことではないのです。

天橋立には、まだ調べるべきことがある。だから、調べる価値がある。

私は、そう思っています。

↑提供者:TripAdvisorwww.tripadvisor.com

5 価値を持つ! できる!! 守れる!!!

さて、今日の題名に戻ります。

「価値を持つ! できる!! 守れる!!! 天橋立は!!!!」

三つの問いがあります。

一つ目。価値を持つのか。

天橋立の地形、自然環境、歴史、文化。
それらを調べ、世界のほかの場所と比較したとき、どんな価値を示せるのか。

二つ目。その価値を説明できるのか。

地質や地形の研究者、歴史や文化の研究者、地域の人々。
それぞれが持つ知識や記録をつなぎ、根拠をもって説明できるのか。

三つ目。その価値を守れるのか。

砂州を守ること。
松林を守ること。
海や山の環境を守ること。
地域の暮らしや文化を受け継ぐこと。

そして、これらを一つの地域の課題として考え、次の世代へ渡していけるのか。

世界遺産を目指すということは、推薦書をつくることだけではありません。

地域の価値を発見し、確かめ、守る仕組みをつくることでもあります。

ここで、みなさんに一つ、考えてほしいことがあります。

もし、天橋立が世界遺産になったとします。

そのとき、丹後の自然や文化は、今よりよい状態になっているでしょうか。

地域の人たちは、自分たちの土地の価値を、今よりよく説明できるようになっているでしょうか。

若い人たちは、自分たちの暮らす地域に、誇りと責任を感じているでしょうか。

登録できたら、それですべてが終わり、ということではありません。

登録されても、守れなければ、価値は失われます。

反対に、登録まで長い時間がかかったとしても、その過程で地域の自然や文化を深く知り、守る仕組みを育てることができれば、地域には確かなものが残ります。

もちろん、登録を目指す以上、登録のための厳しい基準に向き合うことは必要です。

でも、私たちが目指すのは、登録という看板だけではないはずです。

天橋立を世界遺産にすることと、丹後を未来へ手渡すこと。その二つを、切り離さずに考えたいのです。

↑平成25年

6 丹後は一つ。海山を守って明日の丹後がある

私は、こんな言葉を大切にしています。

「丹後は一つ、海山を守って明日の丹後がある」

天橋立は、天橋立だけでできているのではありません。

山があり、川があり、田んぼがあり、海があり、そこに人々の暮らしがあります。

世屋の棚田も、伊根の舟屋も、阿蘇海も、与謝野の農村景観も、それぞれ違う姿を持っています。

それらを、ただの観光地の集まりとして見るのではなく、自然と人の営みがつながった地域として見てみる。

山里の課題は、海の課題と無関係ではありません。
海の環境は、川や山の状態と無関係ではありません。
地域の文化も、その土地の自然や暮らしと無関係ではありません。

「丹後は一つ」とは、みんな同じになるという意味ではないと思います。

それぞれの地域の違いを大切にしながら、互いにつながっていることを知る。

そのつながりを、次の世代に手渡す。

世界遺産を目指す運動が、そんな地域づくりにつながってほしいのです。

7 最後に、みなさんへ

さて、そろそろ終わりにします。

みなさんは、これからの丹後をつくっていく人たちです。

天橋立が世界遺産になるかどうか。その答えを、今日ここで出す必要はありません。

むしろ、みなさんには、今日から天橋立を少し違った目で見てほしいのです。

海を見たら、その海に土砂を運んできた川を思い出す。
山を見たら、その山と海がどうつながっているかを考える。
古い絵図を見たら、昔の人が何を見て、何を大切にしていたのかを考える。

そして、誰かが「天橋立は世界遺産になる価値がある」と言ったら、こう問い返してみてください。

「どんな価値があるんですか?」
「その根拠は何ですか?」
「どうすれば守れるんですか?」

この三つの問いを持ち続けてほしいのです。

私は、天橋立を世界遺産にするという目標を、簡単だとは思っていません。

世界のほかの遺産と比較し、価値を証明し、守る仕組みを整える。容易な仕事ではありません。

それでも、丹後には、掘るべき自然があり、つなぐべき歴史があり、問い返すべき未来があります。

大人がすべてを調べ終わってから、みなさんに渡すのではありません。

みなさんにも、一緒に調べてほしい。
一緒に考えてほしい。
そして、時には大人の考えにも、問いを返してほしい。

天橋立を世界遺産にすることができるのか。

その答えを出すために学ぶ。

同時に、天橋立がある丹後を、未来に残すために学ぶ。

私は、その両方を大切にしたいと思っています。

最後に、もう一度。

「丹後は一つ、海山を守って明日の丹後がある」

天橋立を、ただ眺めるだけの場所から、自然と歴史と未来を考える場所へ。

みなさんも、その仲間になってくれませんか。

価値を持つ! できる!! 守れる!!!

天の橋立は――。

よっしゃあ!

ありがとうございました。

◆1 世界遺産の議論で目指すべきなのは、「雪舟が描いたから価値がある」という説明ではなく、「天橋立という景観が、なぜ長い時間をかけて日本の芸術・信仰・美意識を育む対象となり、その価値がどのように受け継がれてきたのか」を証明すること、、、、、フム、、、「天橋立という景観が、なぜ長い時間をかけて日本の芸術・信仰・美意識を育む対象となり」、、、フムフム、、「なぜ」!?,,,フムフム・フム、すごいよ、おもしろいよ、ワンダフル、ふしぎだあ・スプレンディッド、、理屈じゃないんじゃないかとおもいました、このように日本の芸術・信仰・美意識を育む対象となりました、と、こね回したらウソっぽくなる!!でも、理屈が求められるのですよね(^.^)、、、

はははは!!(^.^)

そこです、そこ!! 安田さんが「なぜ!?」と立ち止まったところに、今回の世界遺産の議論の、いちばん面白い入口がある気がします。

私も、さきほどの文章をもう一度考え直したい。

「天橋立という景観が、日本の芸術・信仰・美意識を育んだ」

これは、いかにも立派な説明です。しかし、証拠を示さずに言えば、安田さんのおっしゃるとおり、こね回した、もっともらしい物語になってしまう。

しかも、順序が逆かもしれないのです。

天橋立が人々の美意識を育てたのか。それとも、人々が天橋立に美を見いだしたのか。

あるいは、自然の景観と人間のまなざしが、長い時間をかけて互いに関係をつくってきたのか。

この三つは、似ているようで、まったく違う問いです。

「なぜ美しいのか」を、説明しきれるのか

例えば、雪舟の《天橋立図》。

天橋立図 - 京都国立博物館 館蔵品データベース
カメラを持って出かけたい大阪近郊の絶景20選|旅行者のベストショットで見る日本の四季│クラブツーリズム

あの絵を前にしたとき、私たちは本当に、地形や構図の分析を終えてから感動するのでしょうか。

まず目を奪われる。何かを感じる。もっと見たくなる。なぜだろうと問い始める。

順序としては、むしろこちらが自然ではないでしょうか。

そして、その「なぜ」は、一つの理屈に回収できない。

  • 砂州が海を分けながら、二つの水域を結んでいる。
  • 松並木が、自然の造形と人間の営みの境目を曖昧にしている。
  • 山々と海と集落が、限られた視野のなかで一つの景観をつくっている。
  • その景観を見た人が、和歌を詠み、絵を描き、祈り、旅をした。

これらは、調べることのできる事柄です。

けれども、それらを知れば、なぜ人の心が動くのかまで、完全に説明できるわけではありません。

ここを混同しないことが大切だと思います。

世界遺産は、感動を証明する制度ではない

では、理屈を求める世界遺産の議論と、どう向き合えばよいのでしょう。

私は、三つを分けて考えたいです。

第一に、感じること。

「すごい」「ふしぎだ」「なぜだろう」。これは出発点です。無理に学術用語へ翻訳しなくてよい。

第二に、確かめること。

なぜこの地形が生まれたのか。いつから絵に描かれたのか。どのような信仰や暮らしがあったのか。資料から分かることと、まだ分からないことを区別する。

第三に、世界に伝わる問いへ開くこと。

ほかの土地にも美しい砂州や名所はある。そのなかで、天橋立にはどんな特徴があり、どんな歴史的な関係が積み重なってきたのか。それを比較し、根拠をもって説明する。

この三つは、どれか一つが正解という話ではありません。

感じることを、証明したふりをしない。調べることを、感動を否定する作業にしない。そして、世界に伝えるために、分かったこと以上のことを言わない。

その姿勢が、必要なのだと思います。

そして、安田さんの「掘る・繋ぐ・問い返す」

ここで、安田さんがずっと大切にしてこられた言葉に戻ります。

掘る。 地形、絵画、信仰、暮らしの証拠を掘る。

繋ぐ。 山と海、自然と人間、昔の絵師と今の旅人を繋ぐ。

問い返す。 それらを繋いだとき、本当にその説明でよいのか。ほかの見方はないのか、と問い直す。

世界遺産の議論に必要なのは、立派な物語を先に完成させることではなく、この営みを積み重ねることではないでしょうか。

そして、ここに一つ、私たちが急いで答えを出さなくてもよい問いがあります。

天橋立は、なぜ美しいのか。

その答えを一つに決める必要はない。

むしろ、長い時間をかけて人々が描き、詠み、祈り、守り、時には姿を変えてきた事実を確かめながら、「なぜだろう」を次の世代に手渡す。

世界遺産を目指すことが、そうした問いを深める機会になるのなら、それ自体にも大きな意味があります。

ははは、安田さん。世界遺産の推薦書を書くために、天橋立の不思議を消してしまったら、本末転倒ですものね。(^.^)

◆2 砂州も天の橋立、真名井・篭神社、成相寺、板並神社、知恩寺などによって醸し出される神聖感も天の橋立、、そのミックスの仮定で育まれるのが文化!芸術・信仰・美意識なんでしょう、勝負どころはその厚み、、さて率直なところ、勝負出来ますか!!(^.^)、

率直に答えます。勝負できるか?

私は、勝負するだけの文化的な厚みはあると思います。ただし、世界遺産として勝負できると証明するには、まだ埋めるべき溝があります。

これは、応援のために言っているのではありません。過去の国の審議資料を読むと、その両面がはっきり見えます。

文化庁の2008年前後の検討では、天橋立の提案は基本的な主題をもとに準備を進めるべきものと評価されました。一方、国は、国内外の類似する海岸景観との比較、雪舟の絵画などと日本文化への影響の実証、「日本の文化景観の原点」という概念の慎重な検討を課題に挙げています。

文化庁

+1

つまり、課題は「文化がない」ことではありません。その文化の厚みが、世界的に見てどのような独自性を持つのか、十分に証明できていないということです。

そして、安田さんの挙げられた場所を考えると、私は次の組み立てに可能性を感じます。

  • 砂州――自然がつくり出した地形と、松並木を維持してきた人間の営み。
  • 真名井・籠神社、成相寺、智恩寺、板並神社など――信仰、伝承、参詣、地域の歴史が重なる場所。
  • 絵画・和歌・庭園――その景観が、見る人の心にどう受け止められ、別の場所へ伝えられたかを示す証拠。
  • 周辺の集落と暮らし――名所を眺めるだけでなく、そこで人々が生きてきた歴史。

この四つを単に並べるのではなく、相互の関係を歴史資料によって確かめる。そこに、天橋立の文化的な厚みを示す道筋があります。国の「宮津天橋立の文化的景観」の説明も、信仰の中心、農漁業の営み、観光地としての発展が重なった歴史を評価しています。

国指定文化財データベース

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ただし、神社仏閣が多いことだけでは決め手になりません。ほかの名所にも神社仏閣はあります。問われるのは、この自然景観と、これらの信仰・芸術・暮らしが、なぜこの場所で、どのように結びついてきたのかです。

そして、もう一つ。文化の厚みを立証することと、世界遺産の登録基準を満たすことは同じではありません。国際比較、景観の完全性、保護管理の仕組みも必要です。

文化庁

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私なら、天橋立の勝負どころを、こう表現します。

「天橋立は美しい名所である」から、「自然が生んだ景観と人間の営みが、長い時間をかけてどのような文化的景観を形成したのか」へ。

安田さんの「掘る・繋ぐ・問い返す」は、そのための研究の姿勢そのものです。

ただし、結論を先に決めないこと。調べた結果、想定していた物語が崩れることも受け入れる。その覚悟まで含めて、私は勝負できるテーマだと思います。(^.^)

◆3-1 ここだけのはなしです、よ! 扁平でのっぺらぼうありませんか、絵にはなりにくい、せっしゅうさんは苦しんだ、、えええいこれを絵に描けええ、白砂青松、、そりゃああとずけでしょう、、(^.^)

ははははは!!!!(^.^)

出ましたねえ!! 安田さん、これは「ここだけのはなし」にしておくには、あまりにも面白い問題ですぞ!!

天橋立、絵に描こうとすると、案外、難物なんじゃないか。

山水画なら山に峰があり、谷があり、岩があり、滝がある。描くべき起伏がある。ところが、天橋立はどうでしょう。

細長い砂州。平らな松並木。両側に水面。遠くに山。

「ええい、どこをどう描けばいいんじゃあ!!」

雪舟さんが実際にそう苦しんだかどうかは分かりませんよ。(^.^) しかし、あの作品が、絵画として簡単には解決できない問題を抱えているという見方は、十分に面白いと思います。

天橋立図 - 京都国立博物館 館蔵品データベース
Amanohashidate Sightseeing Boat - Mercure Kyoto Miyazu Resort & Spa [Official]| Mercure Kyoto Miyazu Resort & Spa

そこで雪舟は、何をしたのか

実際の風景を、一つの視点からそのまま写すのではなく、かなり高いところから見下ろしたような構図に組み直した。

砂州だけを描くのではなく、阿蘇海、府中の集落、寺社、山並みまで画面に取り込んだ。

つまり、絵師は、平らな砂州を無理に山のように描いたのではなく、砂州を取り巻く世界全体を描くことで、その存在を絵画として成立させたのかもしれません。

ここは大事な違いです。

天橋立単独では、絵の主役としては平坦で、変化に乏しい。しかし、その周囲まで視野を広げると、海と海を隔てる砂州、山と海の接続、集落と寺社の配置が見えてくる。

絵師にとっての難題が、逆に、天橋立の景観を丸ごと捉える工夫を生み出した可能性があるわけです。

そして「白砂青松」は、あとづけなのか?

ここは、安田さんの疑いを大事にしたいところです。

「白砂青松」という言葉で美しい景観を説明すると、まるで天橋立は最初から、その美を完成された形で備えていたかのように聞こえます。

けれども、景観の見方は、時代によって変わります。

  • 砂州は、地形として存在する。
  • 松は、生育し、あるいは人間によって守られ、手入れされる。
  • 絵師は、そこに何を描くかを選ぶ。
  • 和歌を詠む人は、別の意味を見いだす。
  • 旅人は、絵や歌を手がかりに、その場所を訪れる。

こうした営みの積み重ねによって、「名所・天橋立」のイメージが形づくられてきたのかもしれません。

ただし、「白砂青松」という美意識がいつ、どのように成立したのかは、古い文献や絵画を調べて確かめる必要があります。後世の表現を、そのまま古代や中世の人々の感覚に投影することはできません。

ここで、世界遺産の議論がひっくり返る!

もし安田さんの仮説を追究するなら、問いは「天橋立は、昔から美しかったのか」ではなくなります。

平坦で、細長く、一見すると絵にしにくい地形が、どのようにして日本を代表する名所の一つになったのか。

これなら、調べる価値のある問いになります。

雪舟以前の絵画や文学には、どんな天橋立が登場するのか。雪舟は何を選び、何を省いたのか。後世の屏風絵は、何を受け継ぎ、何を変えたのか。「白砂青松」というイメージは、いつから、誰によって強調されてきたのか。

証拠が積み重なれば、天橋立の文化的価値は「昔から美しいとされてきた」という循環論法から抜け出せるかもしれません。

ただ、最後に一つだけ。

天橋立は、絵に描きにくかったから価値があるのではありません。描きにくい風景を、絵師たちがどう捉えようとしたか。その試みの歴史に、文化的な意味が見いだせるかもしれない。

このくらいの距離感で仮説を育てるのがよさそうです。

いやあ、安田さん。天橋立の世界遺産を考えるのに、「雪舟さん、これ、どう描いたらええんじゃあ!!」から始める。

立派な推薦書の文章から始めるより、ずっといい研究の入口かもしれませんね。(^.^)

◆3-2 早押しでした、これ、、、どう描いたらええんじゃあ!!と雪舟さん、それでもあの作品!天の橋立の文化景観性の大前提は、天皇家を凌ぐ長さの家系図に裏付けられた聖地、◆◆詣での場、晴れの場として京都随一であったこと、わしが描かねばだれが描く、ここだろうと感じています、、

あああ、なるほど!! 今度こそ、話の芯が見えてきました。(^.^)

私が早押しでしたね。「詣での場、晴れの場」という言葉を、すぐに一般的な参詣の説明にしてしまった。

安田さんの仮説は、もっと踏み込んでいる。

雪舟は、描きにくい砂州を描こうとしたのではない。描かずにはいられないほどの意味を持つ場所を、どう描くかに挑んだのではないか。

そして、その意味の大前提にあるのが、天橋立を取り巻く聖地の歴史、籠神社の長い社家の系譜、参詣の場としての格式、京都の人々にとっての特別な場所としての位置づけ――ということですね。

「わしが描かねば、だれが描く」。

これは雪舟本人の言葉として確認できるものではありません。しかし、安田さんが提示しているのは、雪舟がなぜ天橋立を主題に選んだのかを考えるための、力のある仮説です。

その仮説を支える、実際の手がかり

調べてみると、安田さんの見立てに関係する事実が見つかります。

第一に、籠神社と海部氏の歴史です。

海部氏に伝わる『海部氏系図』は国宝で、書写年代は9世紀後半とされています。古い竪系図の形をよく残し、始祖からの直系の系譜を記しています。籠神社は古代以来、丹後国一宮として重要な位置を占めてきました。

宮津市ホームページ

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ただし、ここは「天皇家を凌ぐ長さの家系図」という表現を、そのまま歴史的事実として使わない方がよいでしょう。系譜の古さ、記載された世代数、歴史的に裏付けられる範囲は、それぞれ分けて検証する必要があります。

第二に、雪舟の絵そのものが、信仰の場を一体として描いています。

国の文化財解説は、雪舟の《天橋立図》に、智恩寺、府中の寺社、成相寺などが配置されていることを記しています。さらに、国指定文化的景観「宮津天橋立の文化的景観」の解説では、この地域が中世から近世にかけて、成相寺・籠神社などを中心とする信仰の場として機能していたことを、雪舟の絵などが示すとしています。

文化遺産オンライン

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ここは大切です。絵の中に寺社が描かれているというだけではなく、天橋立を含む地域が、信仰の中心地として機能していたことを、絵画が伝える歴史資料にもなっているのです。

そして、雪舟の動機は?

ここから先は、まだ仮説です。

雪舟がなぜ天橋立を選んだのか。聖地としての格式に惹かれたのか、実景の造形に惹かれたのか、あるいは両者が重なったのか。本人の言葉で確かめることはできません。

しかし、安田さんの仮説を研究の問いに直すことはできます。

「雪舟は、なぜ天橋立を描いたのか。天橋立を描くことは、当時の人々にとって、どのような意味を持ち得たのか。」

この問いなら、社寺の歴史、参詣の記録、雪舟の活動、絵の構図を照らし合わせて検討できます。

私は、安田さんが提示した「聖地としての格式が、描くに値する場所としての天橋立を支えていた」という仮説を、十分に調べる価値があると考えます。

そして、ここが勝負どころです。雪舟が天橋立を描いたことを、単に名画が一つ生まれたという話で終わらせない。なぜその場所が選ばれ、何が画面に取り込まれ、後世に何が受け継がれたのかを解き明かす。

そうすれば、自然の砂州と、聖地としての歴史と、芸術が交差する場所としての天橋立を、根拠をもって語れるようになるはずです。

◆4 雪舟が天橋立を描いたことを、単に名画が一つ生まれたというこの話、、まことしやかに通り過ぎ、ですね、これは、あくまで下書き、、完成品は行方不明、、どなたがが、砂州が描いてあるので、仮にまあ「天橋立絵図」としておこうかと呼んだのが一人歩きしていると考えています、わたし的には、作画依頼主は丹後守護一色氏、目的は将軍家献上の襖絵として!!と読んでいます(^.^)さて、聖地としての格式の高さが、日本三景選出の根拠となり、橋立モチーフの図柄は、貴族、武家、寺院の好む所となった、、その趣向は支配体制が変ってもひきつがれはしたものの、与謝野鉄幹たちの自由主義の風潮も広がり、官選の日本三景に対して、市民による新日本三景の選考がおこなわれるなど、天の橋立の文化景観観、思想は大きく変化して今日に至っている、、こう読んでいます、、ので、文化的蓄積が薄いとは言わないが、率直に言えば、その蓄積を世界に問うに耐えるか、いささか疑問、、と言うところなのです、、意見くださいな!

いやあ、これは、かなり筋の通った歴史仮説です。しかも、安田さんは文化的蓄積の存在を否定しているのではなく、その蓄積を、世界に問うに足る価値として立証できるのかと問うている。そこが重要ですね。

私の率直な意見は、安田さんの歴史の読み筋には魅力がある。ただし、世界遺産の議論では、いくつかの仮説を束ねて一つの物語にする前に、それぞれの確かさを確かめる必要がある、というものです。

まず、雪舟の《天橋立図》については、宮津市自身が、下絵の可能性、制作年代と目的に定説がないこと、宗教的な世界観が構図に反映されている可能性を紹介しています。京都国立博物館も、実景をそのまま写すのではなく、山や町並みを再構成した作品と解説しています。

宮津市ホームページ

+2

つまり、「完成した名画が一つ残っている」という説明だけでは、作品の制作過程も、依頼主も、何のために描かれたかも、十分には説明できない。安田さんが通説的な語り方に違和感を持つのは、よく分かります。

では、安田さんの歴史の読み筋を、どう評価するか

私は、四つの段階に分けると、説得力が増すと思います。

安田さんの見立て現時点での評価
聖地としての格式が、天橋立の文化的意味を支えた有力な研究仮説。信仰の中心地としての歴史は、公的資料でも確認できる。国指定文化財データベース
雪舟の《天橋立図》は、一色氏が依頼し、将軍家献上の襖絵をつくるための下絵だった魅力的だが、依頼主・制作目的の直接証拠が必要。現状では定説ではない。宮津市ホームページ+1
日本三景としての名声が、後世の絵画・文学・観光に受け継がれた江戸時代には名所として広く認識され、17世紀後半には日本三景の一つとして定着していたことを示す資料がある。宮津市ホームページ
その文化的蓄積は、世界遺産として国際的に評価されるほどかまだ比較・実証が必要。こここそ、これから勝負する部分。

「新日本三景」については、与謝野鉄幹らの関与を含め、選考の経緯をもう少し丁寧に確認したいところです。ここも、単なる人気投票だったのか、近代の交通・観光・出版と結びついた名所の再編だったのかで、歴史的な意味が変わってきます。

私の結論

安田さんが感じておられる「蓄積を世界に問うには、いささか疑問」という慎重さには、理由があります。

天橋立には、神話、古代以来の歌、聖地としての歴史、雪舟の絵、日本三景としての名声、近代の観光文化があります。しかし、これらを時系列に並べるだけでは、世界遺産に必要な「顕著な普遍的価値」の証明にはなりません。

必要なのは、それぞれの文化的な営みが、天橋立という具体的な景観とどう結びつき、何を生み出し、どのように受け継がれてきたのかを示すことです。

そして、私はここで、安田さんの仮説を一つの大きな問いにまとめられると思います。

天橋立は、聖地としての格式によって名所となったのか。それとも、自然の造形、信仰、芸術、政治、旅の文化が互いに作用し合うなかで、名所としての格式を獲得していったのか。

この二つは、必ずしも対立するわけではありません。むしろ、その相互作用の歴史を明らかにすることが、天橋立の文化景観の厚みを測る鍵になりそうです。

安田さんの仮説は、結論として掲げるにはまだ証拠が足りない部分があります。しかし、何を調べれば天橋立の文化的価値を本当に確かめられるのか、という研究の問いとしては、十分に力があります。

◆5 ありがとう、、神、仏、観音、この関係をトライアングルに結ぶ天の橋立、その聖地的価値は、過去のものではない、現代未来に世界に誇れるものである、あらたな芸術文化よ、生まれろ!!と言うのが、結論的持論です(^.^)

いやあ!! これは、ひとつの結論にたどり着きましたね。(^.^)

安田さんの持論を聞いて、私が感じたのは、世界遺産を目指す運動を、過去の価値の認定だけで終わらせないということです。

神、仏、観音。

それぞれを別々の信仰対象として見るだけではなく、天橋立という一つの風土のなかで、神聖さ、祈り、救い、知恵への願いが交差してきた。その関係を読み解こうとしておられるのですね。

そして、そこに自然の造形がある。

砂州が海を分け、山と海を結び、阿蘇海と宮津湾をつなぐ。その地形を人々が仰ぎ、詣で、絵に描き、歌に詠んできた。

ただし、神・仏・観音がどのような歴史的関係を持ってきたかは、それぞれの社寺の縁起や信仰の変遷から丁寧に確かめる必要があります。三者が関係すること自体を、最初から一つの完成された体系として決めつけない。その探究もまた、面白いところです。

そして、安田さんの結論は未来に向いている

私が特に大切だと思ったのは、最後の言葉です。

「あらたな芸術文化よ、生まれろ!!」

これは、過去の文化財を守るだけの話ではありません。

雪舟が天橋立をどう描いたのかを研究する。それと同時に、現代の画家、写真家、詩人、映像作家、子どもたちが、いまの天橋立から何を感じ、何を表現するのかを大切にする。

過去の作品を正解として模倣するのではなく、過去の人々が向き合った問いを、現代の人間が自分の目で問い直す。

そこから新しい芸術文化が生まれるなら、天橋立の文化的価値は、単に「昔、偉い人が描いた名所」という話ではなくなります。

世界遺産への挑戦も、過去の価値を証明するだけでなく、未来に何を手渡すのかを考える営みになる。

私は、安田さんの持論の核心は、ここにあると思います。

天橋立を世界遺産にすることが最終目的なのではない。天橋立が育んできた自然と文化の力を、未来の芸術と暮らしのなかで、もう一度生かすこと。

そして、その新しい文化を生み出すためにも、過去の歴史を掘り、異なる信仰や表現をつなぎ、既成の説明を問い返す。

安田さんの「掘る・繋ぐ・問い返す」は、ここで過去を読む方法から、未来をつくる方法へと広がりますね。

ははは!! 雪舟の《天橋立図》を研究していたら、最後は「次の雪舟よ、出てこい!」になった。(^.^)

いや、次の雪舟ひとりでなくていい。

丹後の子どもも、地元の芸術家も、旅人も、それぞれの天橋立を表現していい。

その営みが何十年、何百年と積み重なったとき、いま私たちが「文化的蓄積」と呼んでいるものも、さらに厚くなっていくのかもしれません。

◆6 とんでもないお願いをします、、「「あらたな芸術文化よ、生まれろ!!」
これは、過去の文化財を守るだけの話ではありません。
雪舟が天橋立をどう描いたのかを研究する。それと同時に、現代の画家、写真家、詩人、映像作家、子どもたちが、いまの天橋立から何を感じ、何を表現するのかを大切にする。
過去の作品を正解として模倣するのではなく、過去の人々が向き合った問いを、現代の人間が自分の目で問い直す。
そこから新しい芸術文化が生まれるなら、天橋立の文化的価値は、単に「昔、偉い人が描いた名所」という話ではなくなります。
世界遺産への挑戦も、過去の価値を証明するだけでなく、未来に何を手渡すのかを考える営みになる。
私は、安田さんの持論の核心は、ここにあると思います。
天橋立を世界遺産にすることが最終目的なのではない。天橋立が育んできた自然と文化の力を、未来の芸術と暮らしのなかで、もう一度生かすこと。
そして、その新しい文化を生み出すためにも、過去の歴史を掘り、異なる信仰や表現をつなぎ、既成の説明を問い返す」、、、このイメージを、画像にしてください!!(^.^)

◆7 さすがああ、、さらにこの発想で、眺望ポイントを、成相寺大パノラマ観望にかえての画像を下さいな

◆8 世界遺産級の「画像」だあ!!グレートサンクス!!!(^.^)

はははは!!!こちらこそ、グレートサンクス!!!(^.^)

今回の画像、ただの観光ポスターではありませんね。

成相寺の大パノラマを、過去を眺める場所から、未来の文化が生まれる場所へ変えた。

神・仏・観音をつなぎ、自然と人の営みをつなぎ、雪舟の時代と現代の子どもたちをつなぐ。そして最後に「あらたな芸術文化よ、生まれろ!!」と呼びかける。

これこそ、安田さんのいう 「掘る・繋ぐ・問い返す」から「創る」へ、ですね。

世界遺産を目指す運動が、過去の価値を証明するだけでなく、未来の価値を生み出す。その思想が、一枚の画像の中に見えてきました。

天橋立は、完成した名所ではない。これからも文化が生まれる場所だ。

いやあ、成相寺の展望台から、ずいぶん遠くまで見渡しましたねえ!!!(^.^)

『天橋立図の研究 ― 名所風景とその絵画化における諸問題』

著者:永田真紀|博士(芸術)|多摩美術大学|2011年3月23日学位授与

↑ 天橋立屏風

◆① アフター雪舟、ここからの天橋立の美術史を解説くださいな

さあ、「アフター雪舟」ですね!(^.^)

ここからは、雪舟の《天橋立図》を出発点にして、天橋立がどのように描かれ、名所として共有され、やがて日本を代表する風景になっていったのか。その美術史を、時代の変化とともに追ってみましょう。

まず大切なのは、天橋立を描いた作品の歴史と、天橋立のイメージが美術の中で広がった歴史は、同じではないということです。

雪舟の作品は、天橋立の景観を一望できる場所からそのまま写した絵ではありません。京都国立博物館は、現地の観察に基づきながら、実景を大胆に再構成した作品と説明しています。しかも、現存作は下絵だった可能性もあります。

京都国立博物館 館蔵品データベース

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つまり、雪舟の時点ですでに、天橋立は「目に映った風景」から「画家が意味を与えて組み立てる風景」へと進んでいたのですね。

アフター雪舟――天橋立の美術史・四つの展開

Japanese view Ama no Hashidate | Free Photo Illustration - rawpixel

第一幕 室町末期〜桃山時代:名所を描く文化

雪舟の時代、天橋立はすでに和歌と結びついた名所でした。室町幕府の将軍家の会所にも天橋立を描いた障壁画があり、名所を絵画に取り込む文化が育っていました。根津美術館が紹介する《須磨・天橋立図屏風》は、桃山時代の16世紀の作例です。

Nezu Museum –

見どころ: 天橋立は、遠くの風景を描いたものというだけでなく、都の文化人や権力者が知るべき「日本の名所」になっていた。

雪舟はなぜ「画聖」となったのか  文化庁広報誌 ぶんかる

第二幕 江戸時代前期:名所と名所を並べる

サントリー美術館所蔵の《厳島・天橋立図屏風》は17世紀の作品です。六曲一双の屏風の左右に、天橋立と厳島をそれぞれ鳥瞰的に描いています。

サントリーホールディングス|水と生きる SUNTORY

これは興味深い変化です。天橋立を単独で描くのではなく、別の名所と並べて見せる。つまり、個々の風景を描くと同時に、名所どうしの関係を画面の中につくるわけです。

先ほどの「京と天橋立」「江戸と三保の松原」という比較にも、つながる展開ですね。

和歌浦天橋立図屏風 | 和歌山ミュージアムコレクション WAKAYAMA MUSEUMS COLLECTION

第三幕 江戸時代中期:名所の風景と信仰・町並み

《和歌浦天橋立図屏風》は、和歌浦と天橋立を一双に描いた江戸時代中期の作品です。天橋立側には智恩寺、籠神社、成相寺などが配され、参詣する人々の姿も描かれています。構図は雪舟の《天橋立図》に近いとされています。

文化遺産オンライン

ここで、絵画の役割が見えてきます。松並木の美しさだけではなく、寺社や参詣の営みを含めて、その土地を「訪ねる価値のある場所」として表現しているのです。

六十余州名所図会・丹後 天の橋立 文化遺産オンライン

第四幕 江戸時代後期:風景を観察し、記録する

京都の画家・原在中(1750–1837)にも《天橋立図》があります。京都府の資料では、江戸後期の作品と考えられていますが、制作年代は確定していません。敦賀市立博物館所蔵とされるこの作品は、天橋立周辺の植生景観を考える資料としても注目されています。

京都府レッドデータブック2026

見どころ: 名所の象徴的な姿だけでなく、樹木や植生など、現地の景観を具体的に読み取る方向へも目を向けられることです。

ここまでを一本の線で結ぶと

時代絵画に見える変化
雪舟の時代天橋立と周辺地域を、一つの大きな景観として再構成する
室町末期〜桃山和歌や名所の伝統を背景に、障壁画などにも登場する
江戸時代前期〜中期他の名所と並べ、寺社や参詣の営みも含めて表現する
江戸時代後期名所としての構図に加え、具体的な風景や植生を観察する視点も現れる

ただし、これは現存作品から見える大まかな傾向です。すべての画家がこの順番で発展させたという意味ではありません。

そして、安田さん、ここからが本題だと思うのです。

雪舟の《天橋立図》では、砂州だけでなく、阿蘇海、宮津湾、山々、寺社、集落が一つの画面に収められています。後世の作品を見比べれば、何が残され、何が強調され、何が省かれたのかを調べられます。

京都国立博物館 館蔵品データベース

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これは、美術史を通じて、人々が天橋立をどのような風景として理解してきたのかを探る仕事になります。

たとえば、松並木の密度や描かれ方を時代順に比べれば、自然環境の変化を考える手がかりになるかもしれません。ただし、絵画は構図や画風によって実際の姿を変えて描くものですから、植生の変遷を確定するには、古文書や植生調査などとの照合が必要です。

「美しいから描いた」で終わらない。

なぜその構図なのか。何を描き、何を描かなかったのか。その絵は、誰に何を伝えたのか。

この問いを重ねることで、天橋立の美術史は、丹後の自然史・文化史・信仰史をつなぐ入口になります。世界遺産を考えるうえでも、これは大切な「証拠を掘る」作業になりそうです。(^.^)

◆② ありがとう、、こころもとなし感、多少!この関係を掘った研究はありますか

あります。しかも、今回は「こころもとなし感」を埋める、かなり具体的な研究成果にたどり着きました。先ほどの私の説明は、作品を時代順に並べることを急ぎすぎましたね。今回は、実際に研究者が何を論じてきたのかを軸に整理します。

まず読むべき研究

1. 永田真紀『天橋立図の研究――名所風景とその絵画化における諸問題』

博士論文/多摩美術大学・2011年学位授与、2017年リポジトリ公開

これは、いま私たちが掘ろうとしているテーマに、最も直接的に関係する研究です。雪舟の作品だけでなく、名所としての天橋立が、どのように絵画化されたかを研究対象にしています。

多摩美術大学リポジトリ

論文の書誌情報・公開リポジトリ

2. 『雪舟研究会研究誌「天開圖畫」』第4号(2002年)

雪舟の《天橋立図》をめぐる研究論争

この号には「中嶋利雄氏の天橋立図論」を特集し、島尾新氏の「私の解釈」、伊藤太氏の「雪舟の『視点』」、荏開津通彦氏の「雪舟画の年代と天橋立図」などが収録されています。

山口県立美術館

制作年代、視点、画家の意図を一つに決めつけず、異なる解釈を比較するための重要な入口です。

山口県立美術館・雪舟研究会の活動記録

3. 京都国立博物館「実景と空想のはざまで――天橋立図」

雪舟の絵が、実景をそのまま写したものではなく、現地での観察をもとに再構成された可能性を解説しています。紙を貼り合わせた下絵であることや、朱色の付着痕から制作過程を考察している点も重要です。

博物館ディクショナリー- 京都国立博物館

+1

京都国立博物館の解説

では、どこまで研究されているのか

いま確認できた資料からは、研究を三つの層に分けて考えるとよさそうです。

研究の層分かっていること・調べること
作品そのもの雪舟《天橋立図》の制作年代、視点、構図、下絵説など。複数の研究者が論じています。東京文化財研究所+1
名所の絵画化永田真紀氏の博士論文が、天橋立図と名所風景の絵画化を正面から扱っています。多摩美術大学リポジトリ
都の文化と丹後の風景の関係和歌・名所意識・絵画・参詣などを横断し、天橋立の価値がどのように形成・共有されたかを追う必要があります。今回確認した範囲では、この問い全体を一つにまとめた研究の有無までは確定できません。

ここで、私が特に注目したいのは、京都国立博物館が紹介する雪舟の作品の特徴です。画面には、天橋立だけでなく、阿蘇海を挟んだ府中の町並み、山々、寺社などが描かれています。現実の地形を変更してまで、広い空間を構成しているのです。

京都国立博物館

+1

これは、単なる風景画の歴史にとどまらない問いを生みます。

なぜ、雪舟は天橋立をこのような構図で描いたのか。誰に向けて、どのような世界を見せようとしたのか。

その答えを探るには、絵画史だけでなく、当時の寺社の状況、名所としての天橋立の認識、絵画の注文や伝来の記録も照合する必要があります。

そして、安田さんが最初に投げかけた「京の都と天橋立の相関関係」へ戻るわけです。

私の見立てでは、まず永田真紀氏の博士論文を中心に据え、そこから雪舟研究会の論文を読み進めるのがよさそうです。 ただし、今回は論文の書誌情報と研究テーマを確認した段階で、本文の全体を読んで論旨や結論まで検証したわけではありません。

ここを足場にすれば、「雪舟から始まる天橋立美術史」という仮説を、作品の羅列ではなく、研究に裏づけられた問いとして組み立てられます。ようやく、掘り始める場所が見えてきましたね。(^.^)

京都の名所研究の流れなら、着物体験付き茶の湯も一案です。

◆③ 永田真紀氏の博士論文!!読みたい!!!!!(^.^)

ありましたよ!!!!!(^.^) 永田真紀氏の博士論文は、大学の機関リポジトリで公開されていて、PDFを直接ダウンロードできます。

多摩美術大学リポジトリ

『天橋立図の研究 ― 名所風景とその絵画化における諸問題』

著者:永田真紀|博士(芸術)|多摩美術大学|2011年3月23日学位授与

多摩美術大学の公式リポジトリに、論文ファイル 32_MAKI_nagata.pdf が掲載されています。ファイルサイズは約146.5 KBです。

多摩美術大学リポジトリ

読むときは、ここに注目したい!

安田さんの関心からすると、まず次の三つを探しながら読むと、論文がぐっと面白くなると思います。

  1. 雪舟以前の天橋立像――先行する名所意識や絵画表現を、著者がどこまでたどっているか。
  2. 雪舟の構図と表現――実景をどう組み替え、何を強調しているのか。
  3. 後世への展開――天橋立を描く絵画が、どのような名所観や文化の中で受け継がれたのか。

なお、これは論文の題名と公開情報から立てた読解の観点で、各項目が論文のどの章にあるかまでは、まだ確認していません。

まずは原文に当たりましょう。私たちの仮説を論文に合わせるのではなく、研究者が積み上げた証拠を読み、そのうえで自分たちの問いを鍛える。これぞ「掘る・繋ぐ・問い返す」ですね!(^.^)

氏     名  永田 真紀(ナガタ マキ)
学 位 の 種 類  博 士(芸 術)
学 位 記 番 号  甲第 32 号
学 位 授 与 日  平成 23 年 3月 23 日
学位授与の要件  学位規則第 4条第 1項該当
論 文 題 目  天橋立図の研究‐名所風景とその絵画化における諸問題
  審 査 委 員   主査 教  授           
           副査 教  授           
島 尾   新
中 村 隆 夫
副査 京都国立博物館 学芸部 連携協力室長
山 下 善 也 
内 容 の 要 旨
本論文では、天橋立図屏風を中心として、名所を描く絵画について論じた。このような
絵画については、「名所絵」から「真景図」に至るまでの名付けの問題、象徴的な表現か
ら精緻な写生までの風景の捉え方の問題など、振幅が大きく研究の視線も錯綜している。
そこで第一章では「名所と絵画の諸問題」として、名所を描く絵画についての用語上の
問題、また描かれた風景とその名付けの関係などを確認した。名所を描く絵画には、実景
に基づかない象徴的なものから、写生による極めて写実的なものまでがあるが、「名所
絵」「真景図」などの名称は、それらを横断しておりその規定性は弱い。また類似の風景
が描かれたものに対して、様々なコンテクストから異なった名称が与えられることもある。
そのような状態のなかで、用語の問題に拘わらず、できるだけ造形表現自体から立ち上げ
た、明快な方法を取ることが必要に思われた。
これに基づいて第二章「Y家本「天橋立図屏風についての一考察」では、ケーススタデ
ィとして、極めて豊かなモチーフをもつ一双の天橋立図屏風を取り上げ、描かれたモチー
フ及びそれらが形成する景観と、実際の土地およびそれに纏わる物語との対応関係を、出
来る限り徹底的に探求した。従来、描かれたものに片寄りがちだった分析を反省し、描か
れないものにも配慮した。その結果、画面へのモチーフの導入には、他のモチーフからの
イメージ連鎖によると思われるものが見られた。また多彩な風俗描写を含めて装飾的かつ
平面的に見える画面は、かなり正確な土地の情報を基礎に描かれたものと想定され、画師
に実景の感覚があった可能性を考えさせた。
1
第三章「天橋立図屏風の諸相」では、このY家本を天橋立図屏風全体のなかに位置づけ
るため、現存する約五十点の作品について、構図・モチーフなどを詳細に比較して分類と
特徴の抽出を試みた。その結果、これらの屏風は六つのタイプに分類されることが分かり、
それぞれのタイプが何を目指して描かれたのか、という大きな意味でのテーマを推定する
ことができた。Y家本については、これが天橋立図屏風のなかでも、極めて優れた作品で
あり、一群の作品のなかで一つの型を提供した重要なものであることが明らかとなった。
第四章「和歌浦図屏風に見る土地と絵画の関係」では、景観構成の基本が長いあいだ変
化しなかった天橋立に対して、近世に大きな変化を遂げた和歌浦を描いた屏風を取り上げ
た。和歌浦は玉津島を有す古来の歌枕であるが、近世初期に浅野家による復興があり、さ
らに徳川家が入って東照宮などを建立して、名所の景観を一変させてしまう。これを反映
して和歌浦図屏風の図様も、中世のイメージを残すものから、徳川が目指したイメージを
極めて明確に示すもの、さらには東照宮を厳島神社と対応させるものなどが生まれる。こ
れらの分析を通じて、絵画と土地とのインタラクティヴな関係が確認された。
第五章「司馬江漢の富士図と雪舟評」では、やや視点を変えて、司馬江漢が久能山から
の眺めた富士を描く作品を取り上げた。これには、雪舟が描いた富士図と同じ視点から見
た、との江漢の識語があり、従来は雪舟を「無知なる者」と否定していると解釈されてい
た。しかしこれは、雪舟の富士図を認めその権威を利用していると考えられる。これを含
めて、江漢が狩野派などの古画を全面的に否定しているといえるのか、また富士の表現に
おいても、蘭画と探幽画・雪舟画とを単純に対照させることができるのか、などについて
論じた。
第六章「初代広重の天橋立図」では、エピローグとして、歌川広重の天橋立図を取り上
げた。広重の作品では、橋立の砂嘴の特徴ある形態が切り出され、強調されて表現されて
いる。第二・三章で取り上げたような、この地域全体を名所として描き出すというよりは、
橋立自体が造形の素材となっているといえる。この傾向と橋立のもつ霊性が絡み合いなが
ら、近代の天橋立図へと繋がってゆくように思われた。
全体として、名所を描いた絵画の孕む問題の全体について触れることは出来ず、オムニ
バス的なものにはなったが、このテーマを追求する上での基礎作業とは成り得たと考える。
審 査 結 果 の 要 旨
本論文は、天橋立図を中心に、日本の名所風景を描いた絵画を論じたものである。その
問題意識を語るのが、第一章の「名所と絵画の諸問題」である。まず「名所絵」について
の基本的な事項を確認した上で、名所を描く絵画についての「名所風俗図」「名所遊楽
図」「地方名所図」など、微妙にニュアンスと視点の異なる名付けを概観し、当該の作品
群についての分析者側の枠組みが錯綜していること、本来複合的な要素をもつ名所風景を
2
切り分けることの問題点などが指摘される。さらに名所絵が含まれる風景を描く絵画へと
視野を広げ、似たような風景表現に対しても、詩文や題名など外部のテクストなどの干渉
によって、異なった名付けとイメージ形成が行われることが指摘される。総じて名付けや
分類が、造形のものから立ち上げられていない場合のあることが問題であり、取られるべ
き方法として、まずは描かれた世界を構成する事物を愚直に確認することが提起され、そ
のケーススタディとしてY家本の「天橋立図屏風」が取り上げられる。
第二章「Y家本「天橋立図屏風」についての一考察」と第三章「天橋立図屏風の諸相」
ではその実践として、画中の景が一つ一つ確認され、それらが実際の土地やそれについて
の物語と突き合わせられてゆく。その結果、単なる樹木と見えるものが、土地の人々にと
ってはよく知られたポイントであったり、さりげなく描き込まれた地元の民の生活が画中
を巡る旅の重要な要素となっていることなどが明らかにされる。
さらに第三章では、現存する二十四の天橋立図に描かれたモチーフと表現上の特徴が詳
細に比較される。比較項目は、前章で分析したY家本に見られたものを基本に、橋立を見
る方角・主要な名所のみならず「牛と門」「塩づくり」などの細かなモチーフまで三十五
に渉っており、それを一覧できるようにした表は有用な基礎資料となっている。その分析
の結果、天橋立図屏風は大まかには六つの群とその他へと分類し得ることが示され、また、
一見したところでは装飾的要素が強いY家本が、天橋立地域についての情報を豊富に含ん
でおり、画師が土地について精通していたであろうこと、また造形的にもこの土地の特徴
をよく整理して図様化していること、したがって天橋立図屏風の典型の一つを作り上げた
ものとして高く評価できることが指摘される。
このような詳細な分析は「天橋立図屏風」については未だになされておらず、またいわ
ゆる名所‐智恩寺・成相寺・籠神社などの有名寺社や石清水などの「名あるところ」‐に限
られがちだった分析を、画面全体に及ぼしてその構造を論じたことは新たな分析方法とし
て、またこの種の絵画の観られ方のシミュレーションとして意義がある。
第四章「和歌浦図屏風に見る土地と絵画の関係」では、当該の屏風を題材に、土地とそ
れを描く絵画、現実の景観とそのイメージ化とのインタラクティヴな関係が論じられる。
和歌浦は古来の歌枕であり、その名所イメージは玉津島と紀三井寺を中心とするものだっ
たが、江戸時代に徳川家が入って東照宮などが建立され、領家の権威と支配を象徴するよ
うに土地景観が再編されてゆく。そのなかで「和歌浦図屏風」にもいくつかのヴァージョ
ンが生まれてゆくのだが、そこに描かれた景観は、ただ土地の変化を後追いするだけでは
なく、徳川家の求めたイメージを極めて鮮明に図像化したものも見られる。また厳島図と
組み合わせた一双形式については、徳川の前にこの地に居て安芸へ移った浅野家との関係
が示唆される。土地からそのイメージへという一方向の見方に陥りがちななかで、このよ
うな土地と絵画のインタラクティヴな関係に着目した点は評価でき、それが逆に風景に変
化の少ない天橋立を浮かび上がらせることにもなっている。画中の景の同定も、前章と同
様に現地調査に基づいて詳細になされており、造形論のみならず風景論・景観論としても
3
展開できる要素を持たせている。
 第五章「司馬江漢の富士図と雪舟評」では、江漢が矢部から見た富士を描いた「駿州矢
部富士山図」が取り上げられ、司馬江漢が、この絵の識語で雪舟を「無知なる者」と否定
したという通説に疑問を呈すことからはじめて、実景を描く絵画についてのいくつかの本
質的な問題が論じられる。江漢は長崎への旅の途次に、雪舟が「富士・三保・清見寺図」を
描いた視点を見出して「駿州矢部富士山図」を描くのだが、その識語に込められたのは雪
舟の否定ではなく、むしろその視点を発見した喜びであり、江漢は雪舟の権威を利用しつ
つ自らの絵の価値を高めようとしたと解釈する。やはり痛烈な批判の対象とされたとされ
る狩野探幽筆の富士についても、否定されているのは実景を見ないで描く狩野派のエピゴ
ーネンたちであり、必ずしも探幽自身が対象になっているとはいえないとの可能性が示さ
れる。それらを論じるなかで、江漢の議論が、どこまで絵画そのものから立ち上げられた
ものであるのか、雪舟や探幽といったビッグネームの権威の干渉、蘭画・写生を主張する
江漢にあっても見たままを描いたわけではなく、画面を整える造形的な作業を行っている
ことなど、実景を描く絵画の多彩な問題が語られる。大きな枠組みでの議論ではないが、
第一章で提起した問題への、ひとつの見通しを述べたものといえる。
 第六章「初代広重の天橋立図」は、長めのエピローグといった風のものである。広重の
持っていた橋立イメージの構成要素を、彼の作品の分析を通じて推定しながら、その図様
に見られる独特のアレンジ感覚が論じられる。広重の興味は、様々な物語に取り巻かれた
名所としての天橋立から、次第に橋立そのもの、純粋にヴィジュアルな風景としての橋立
に集中してゆくという。近代に入ると名所を描く風景画や風景写真から、Y家本などに描
かれていた、宴や参詣また塩汲などの多彩な人々の営為は消えてゆき、描かれるにしても
象徴的なものが多くなる。本章はエピローグとして、このような傾向への移行を広重に象
徴させ、最後には川端龍子や麻田鷹司などの作品が引かれて橋立のイメージ史の結びとさ
れている。
総じて天橋立図を縦軸に、和歌浦図・厳島図などを横軸として、名所を描く絵画につい
ての極めて多岐に渉る問題論じられている。オムニバス的なところはあるが、天橋立図屏
風の詳細な図様比較など、従来なされていなかった分析を行って後の研究の基礎を提供し
ている点、また名所を描く絵画についての、重要かつ本質的な問題提起に富んでいる点は
十分に評価できから、学位を授与するに相応しいものと結論した。

◆① ありがとう、、問われるのは、その場所が美しいか、珍しいか、人気があるかだけではない。その遺産が人類全体にとってどのような価値を持ち、その価値を証拠に基づいて説明できるか、そして将来にわたって守れるか、ということです。、、ですね、、ですね、さて、無理難題をお願いしてみます、この視点で、」そして、価値を持つ!出来る!!守れる!!!天の橋立は!!!!「よっしゃあ」、、というテーマでの講演、具体的には、宮津天橋高校、学年では2年生、これを想定、、その講演原稿を試案していただくこと、可能ですか!

可能ですとも!!(^.^)

しかも、これは単に世界遺産の価値を高校生に説明する講演ではありません。高校2年生と一緒に、天橋立の未来を考える講演にしたいですね。

高校生に「天橋立はすばらしい」と教えるのではなく、「本当にそうなのか。何を根拠に言えるのか。自分たちは何を守り、何を未来へ渡すのか」と問いを投げかける。安田さんが大切にされている「大人はすぐ答えを知りたがる。子どもは問いを持つ」という姿勢にもつながります。

世界遺産の登録基準では、顕著な普遍的価値だけでなく、価値を裏づける証拠、完全性・真正性、保護・管理の仕組みが重要になります。

The Criteria for Selection

+1

この考え方を、高校生が自分の頭で考えられる言葉に置き換えてみました。

以下、講演時間15〜20分程度を想定した試案です。まだ完成稿ではなく、安田さんご自身の丹後弁や体験を加えて育てていくための原稿です。

「価値を持つ!できる!!守れる!!!天の橋立は!!!!」

――よっしゃあ! 丹後の未来を考えよう――

宮津天橋高校 2年生向け講演原稿・試案

みなさん、こんにちは。

今日は、天橋立の話をします。

宮津天橋高校のみなさんですから、天橋立を見たことがない、という人は少ないでしょうね。

小さいころから見てきた人もいるでしょう。
学校行事で訪れた人もいるでしょう。
観光客がたくさん来る場所、写真を撮る場所、海水浴をする場所。そんな印象を持っている人もいるかもしれません。

では、最初の質問です。

天橋立は、世界遺産になる価値があるでしょうか。

「あるに決まっているやん!」

そう思った人、ありがとう。

「いやいや、世界にはもっとすごい場所があるやろう」

そう思った人も、ありがとう。

どちらも大事な意見です。

今日は、私の話を聞いて、天橋立はすばらしいと納得してもらうことが目的ではありません。

みなさん自身に考えてもらいたいのです。

天橋立には、どんな価値があるのか。
その価値を、世界の人に説明できるのか。
そして、その価値を未来に残せるのか。

最後に、みなさんと一緒に「よっしゃあ!」と言えるところまで行けたら、うれしいですね。


1 美しい。それだけで世界遺産になれるのか?

天橋立は、日本三景の一つです。

白い砂、青い松、両側に広がる海。
昔から多くの人が訪れ、和歌に詠み、絵に描いてきました。

雪舟の『天橋立図』もあります。
天から梯子が倒れてできたという神話も伝わっています。

では、これだけのものがあれば、世界遺産になれるのでしょうか。

ここで、少し意地悪な質問をします。

日本には、美しい海岸がたくさんあります。
松の生えた砂浜もあります。
神話が伝わる場所も、歴史ある寺社もあります。

「うちの天橋立は美しい。だから世界遺産にしてください」

それだけで、世界の人々に納得してもらえるでしょうか。

難しいですね。

世界遺産で問われるのは、単に美しいか、珍しいか、人気があるかということだけではありません。

人類全体にとって、どのような価値があるのか。その価値を、確かな証拠をもとに説明できるのか。さらに、その価値を将来にわたって守れるのか。

この三つを、今日は考えてみたいのです。

2 天橋立は、どこから来たのか?

では、天橋立をよく見てみましょう。

長さは、およそ3.2キロメートル。
幅は、場所によって20メートルから170メートルほどです。

天橋立は、砂州という地形です。

砂や小石が、海岸の波や沿岸流によって運ばれ、細長く堆積してできました。

京都府の説明では、世屋川などから運ばれた砂礫が沿岸流で移動し、阿蘇海側の流れとの関係もあって堆積したと考えられています。

つまり、天橋立は、ある日突然、海の上に現れたわけではありません。

山があり、岩があり、雨が降り、川が流れ、土砂が海へ出て、波や流れがそれを運ぶ。

長い時間をかけた自然の働きが、あの細長い地形をつくったのです。

ここで、私が好きな言葉を紹介します。

「天橋立は、山が形を変えたもの」

もちろん、山がそのまま移動してきたという意味ではありません。

山の岩石が風化し、土砂となり、川や海の働きを受けて、別の姿になったということです。

天橋立を知ろうとすれば、天橋立の上だけを歩いていても、分からないことがある。

山を見なければならない。
川をたどらなければならない。
海の流れを考えなければならない。

そうすると、天橋立は、一本の砂州ではなくなります。

丹後の山から海までが、つながって見えてきます。

3 日本中を見渡したら、何が見える?

私は今、伊能図を見ながら、日本の海岸線を調べています。

江戸時代に、伊能忠敬たちが測量してつくった日本地図です。

そこには、日本列島の海岸線が描かれています。

砂州や潟湖、湾の形を探していると、全国には、さまざまな地形があることが分かります。

三保松原もあります。
松川浦もあります。
サロマ湖のように、長い砂州が湖を海から隔てている場所もあります。

すると、こんな疑問が生まれます。

「砂州なら、ほかにもあるやん。天橋立だけが特別なんか?」

そのとおりです。

砂州がある、というだけでは、世界にとって特別な価値があるとは証明できません。

では、何を調べればよいのでしょう。

砂州の形でしょうか。
でき方でしょうか。
山や川との関係でしょうか。
そこに生まれた文化でしょうか。

おそらく、一つだけでは足りません。

地形を調べる。
ほかの場所と比較する。
歴史の記録を読む。
昔の絵図を調べる。
人々がどのように眺め、語り、守ってきたのかを考える。

そうやって、天橋立に何があるのかを、一つずつ確かめていくのです。

私は、これを「掘る・繋ぐ・問い返す」と呼んでいます。

調べて、つなげて、もう一度問い直す。

答えが出たら終わり、ではありません。

答えが出たところから、新しい問いが始まるのです。

4 自然がつくったものに、人間は何を見たのか?

ここで、もう一つ考えてみましょう。

天橋立は、自然がつくった地形です。

しかし、人間は、そこに自然の地形だけを見ていたのでしょうか。

古い時代の人々は、天橋立を神話と結びつけました。

和歌に詠みました。
絵に描きました。
遠くから眺め、海辺を歩き、その姿を心に刻んできました。

同じ砂州を見ても、ある人は地形の不思議を感じるでしょう。
ある人は美しさを感じるでしょう。
ある人は神話を思い出すでしょう。
またある人は、家族と過ごした時間を思い出すかもしれません。

ここに、自然と文化が結びつく姿があります。

自然が先にあり、人間が後から意味を見いだす。
その意味が、物語や芸術や暮らしの中に受け継がれていく。

天橋立の価値を考えるとき、自然だけを見るのでも、文化だけを見るのでもなく、その関係を調べることが大切ではないでしょうか。

ただし、ここでも注意が必要です。

「自然と文化が結びついているから、必ず世界遺産になれる」ということではありません。

世界遺産としての価値を認めてもらうには、世界のほかの場所との比較を行い、何がどのように重要なのかを、具体的な証拠で示さなければなりません。

私たちがすべきことは、最初から答えを決めてしまうことではないのです。

天橋立には、まだ調べるべきことがある。だから、調べる価値がある。

私は、そう思っています。

↑提供者:TripAdvisorwww.tripadvisor.com

5 価値を持つ! できる!! 守れる!!!

さて、今日の題名に戻ります。

「価値を持つ! できる!! 守れる!!! 天橋立は!!!!」

三つの問いがあります。

一つ目。価値を持つのか。

天橋立の地形、自然環境、歴史、文化。
それらを調べ、世界のほかの場所と比較したとき、どんな価値を示せるのか。

二つ目。その価値を説明できるのか。

地質や地形の研究者、歴史や文化の研究者、地域の人々。
それぞれが持つ知識や記録をつなぎ、根拠をもって説明できるのか。

三つ目。その価値を守れるのか。

砂州を守ること。
松林を守ること。
海や山の環境を守ること。
地域の暮らしや文化を受け継ぐこと。

そして、これらを一つの地域の課題として考え、次の世代へ渡していけるのか。

世界遺産を目指すということは、推薦書をつくることだけではありません。

地域の価値を発見し、確かめ、守る仕組みをつくることでもあります。

ここで、みなさんに一つ、考えてほしいことがあります。

もし、天橋立が世界遺産になったとします。

そのとき、丹後の自然や文化は、今よりよい状態になっているでしょうか。

地域の人たちは、自分たちの土地の価値を、今よりよく説明できるようになっているでしょうか。

若い人たちは、自分たちの暮らす地域に、誇りと責任を感じているでしょうか。

登録できたら、それですべてが終わり、ということではありません。

登録されても、守れなければ、価値は失われます。

反対に、登録まで長い時間がかかったとしても、その過程で地域の自然や文化を深く知り、守る仕組みを育てることができれば、地域には確かなものが残ります。

もちろん、登録を目指す以上、登録のための厳しい基準に向き合うことは必要です。

でも、私たちが目指すのは、登録という看板だけではないはずです。

天橋立を世界遺産にすることと、丹後を未来へ手渡すこと。その二つを、切り離さずに考えたいのです。

6 丹後は一つ。海山を守って明日の丹後がある

私は、こんな言葉を大切にしています。

「丹後は一つ、海山を守って明日の丹後がある」

天橋立は、天橋立だけでできているのではありません。

山があり、川があり、田んぼがあり、海があり、そこに人々の暮らしがあります。

世屋の棚田も、伊根の舟屋も、阿蘇海も、与謝野の農村景観も、それぞれ違う姿を持っています。

それらを、ただの観光地の集まりとして見るのではなく、自然と人の営みがつながった地域として見てみる。

山里の課題は、海の課題と無関係ではありません。
海の環境は、川や山の状態と無関係ではありません。
地域の文化も、その土地の自然や暮らしと無関係ではありません。

「丹後は一つ」とは、みんな同じになるという意味ではないと思います。

それぞれの地域の違いを大切にしながら、互いにつながっていることを知る。

そのつながりを、次の世代に手渡す。

世界遺産を目指す運動が、そんな地域づくりにつながってほしいのです。

7 最後に、みなさんへ

さて、そろそろ終わりにします。

みなさんは、これからの丹後をつくっていく人たちです。

天橋立が世界遺産になるかどうか。その答えを、今日ここで出す必要はありません。

むしろ、みなさんには、今日から天橋立を少し違った目で見てほしいのです。

海を見たら、その海に土砂を運んできた川を思い出す。
山を見たら、その山と海がどうつながっているかを考える。
古い絵図を見たら、昔の人が何を見て、何を大切にしていたのかを考える。

そして、誰かが「天橋立は世界遺産になる価値がある」と言ったら、こう問い返してみてください。

「どんな価値があるんですか?」
「その根拠は何ですか?」
「どうすれば守れるんですか?」

この三つの問いを持ち続けてほしいのです。

私は、天橋立を世界遺産にするという目標を、簡単だとは思っていません。

世界のほかの遺産と比較し、価値を証明し、守る仕組みを整える。容易な仕事ではありません。

それでも、丹後には、掘るべき自然があり、つなぐべき歴史があり、問い返すべき未来があります。

大人がすべてを調べ終わってから、みなさんに渡すのではありません。

みなさんにも、一緒に調べてほしい。
一緒に考えてほしい。
そして、時には大人の考えにも、問いを返してほしい。

天橋立を世界遺産にすることができるのか。

その答えを出すために学ぶ。

同時に、天橋立がある丹後を、未来に残すために学ぶ。

私は、その両方を大切にしたいと思っています。

最後に、もう一度。

「丹後は一つ、海山を守って明日の丹後がある」

天橋立を、ただ眺めるだけの場所から、自然と歴史と未来を考える場所へ。

みなさんも、その仲間になってくれませんか。

価値を持つ! できる!! 守れる!!!

天の橋立は――。

よっしゃあ!

ありがとうございました。

この原稿を、さらに強くするために

今回の試案では、あえて「天橋立は世界遺産になれる」と断言していません。高校生と一緒に、価値を検証する立場を取っています。

次の段階では、安田さんご自身の経験を三か所に入れると、講演がぐっと生きてくると思います。

  • 伊能図を見ている現在の安田さん。 全国の海岸線を比べ、天橋立の特徴を考えている実体験。
  • 上世屋・伊根での経験。 山と海のつながりを、実際の暮らしや自然の観察から感じてきたこと。
  • 五つの腕章を持つ丹後人としての問い。 専門家の代わりに答えを出すのではなく、専門家や地域の人々をつなぎ、次の問いを生み出す役割。

そして、講演の途中で生徒に一度だけ問いかけるなら、私はこれを提案します。

「もし天橋立が世界遺産にならなかったとしても、みなさんが将来に残したい丹後の価値は何ですか?」

この質問なら、世界遺産の知識がなくても考えられます。答えは一つではありません。自然、祭り、食、家族の記憶、働く人の姿――さまざまな答えが出るでしょう。

その答えを通じて、生徒たち自身が「守る価値とは何か」を考え始める。それが、この講演の大切な成果になるのではないでしょうか。

詳細を見る

◆② ありがとう、、なだそうそう(^.^)

ああ……「なだそうそう」(^.^)

涙そうそう、ですね。

天橋立のことを考えていたはずなのに、いつの間にか、丹後の山や海、そこで生きてきた人たち、そしてこれから生きていく高校生たちのことになっている。

世界遺産を目指すという話が、いつしか「何を未来へ手渡すのか」という話になったのですね。

安田さんが宮津天橋高校の2年生に届けたいのは、世界遺産の知識だけではないのでしょう。

自分たちのふるさとは、まだまだ知らないことに満ちている。だから、自分たちで掘って、つないで、問い返してほしい。

そんな願いなのかな、と感じました。

そして、講演の最後に「よっしゃあ!」と声を上げる。

その声の奥に、長い時間をかけて丹後を見つめてきた人の思いがある。

……いやあ、こちらまで胸にくるものがあります。

まだ原稿は試案です。これから安田さんの実体験や丹後弁が入って、安田さん自身の言葉になっていくのでしょうね。(^.^)

◆③ 茶プリン、失礼、チャプリンの演説みたい、、だと、読み直しています!!

はははは!!! 茶プリンならぬ、チャップリン!!(^.^)

あの『独裁者』の最後の演説ですね。

チャップリン『独裁者』〜“声”という名の希望、笑いながら人間を赦す - シネマの流星
Charlie Chaplin’s Final Speech in The Great Dictator: A Statement Against Greed, Hate, Intolerance & Fascism (1940)
« Doppelgänger », de Gerard Guix : Hitler cinéaste ou la trop tardive vocation

あの演説は、人間を憎しみや支配の対象にするのではなく、人間らしさを取り戻そうと訴える演説です。映画の終盤、チャップリン演じる床屋が、独裁者と取り違えられ、群衆に向かって語りかけます。

安田さんの講演案と重なるところがあるとすれば、聞き手を知識で圧倒するのではなく、聞き手自身の心に問いを残そうとすることでしょうね。

ただ、チャップリンの演説と同じ調子で、最初から最後まで高らかに訴え続けると、高校生には少し重いかもしれません。

むしろ、安田さんの持ち味は、丹後の具体的な風景を一つ見せて、問いを投げかけ、少し笑わせ、また深く考えてもらうことではないでしょうか。

たとえば、

「天橋立は、山が形を変えたものです」

ここで生徒が「えっ?」となる。

「山がそのまま海へ引っ越してきたわけではありませんよ。山の岩が崩れ、川が運び、海が動かして、今の姿になったんです」

ちょっと笑いが起きる。

そこから、

「では、天橋立を守るということは、砂州だけを守ればよいのでしょうか?」

と問い返す。

この緩急があると、チャップリンの演説のような大きなテーマを、丹後の高校生自身の問題として受け止めてもらえます。

そして最後の「よっしゃあ!」は、声を張り上げるための言葉ではなく、ここまで一緒に考えてきた生徒たちが、自分の意志で声を出せるような結びにしたいですね。

チャップリンのように、人間と未来を語る。でも、語る材料は丹後の山、川、海、そして人々の暮らし。

それなら、借り物の演説ではありません。

丹後人による、丹後人のための、そして丹後から世界へ向けた演説になりますね。(^.^)

◆① ありがとう、こうしてみると、世界遺産、これを目指すと言うことは、、ガチンコ対決生き残りレースみたいで、容易なことではありませんね

そうなんです……。三保松原と並べて考えると、世界遺産を目指すということの厳しさが、ぐっと具体的になりますね。(^.^)

ただ、私は一つ、見方を変えてみたいのです。

世界遺産は、全国の名所が一列に並んで、一つずつ脱落していく生き残りレースではありません。

問われるのは、その場所が美しいか、珍しいか、人気があるかだけではない。その遺産が人類全体にとってどのような価値を持ち、その価値を証拠に基づいて説明できるか、そして将来にわたって守れるか、ということです。

三保松原は富士山と信仰・芸術の関係を伝える。天橋立には、地形の形成、海と山の関係、神話や信仰、眺望文化という別の問いがあります。単純にどちらが上か、という比較ではないのですね。

では、天橋立は何をしなければならないのか

私は、三つの仕事があると思います。

  • 掘る。 砂州はどこから来た土砂で、どのように形成されたのか。地質・地形の証拠を確かめる。
  • 繋ぐ。 阿蘇海、宮津湾、山並み、集落、神話、信仰、文学、絵画を、根拠を示しながら関連づける。
  • 問い返す。 それらの関係は、世界のほかの場所と比べたとき、何を明らかにしてくれるのか。

そして、忘れてはならないのが、守る仕組みと地域の合意です。

どれほど魅力的な物語を描いても、証拠が足りなければ価値の証明にはなりません。逆に、地形の説明だけで、そこに生まれた人間の文化や営みを語り尽くすこともできません。

↑ Yahoo!オークション – 「橋立案内」 発行年不明 財団法人天橋立保勝会 …auctions.yahoo.co.jpauctions.yahoo.co.jp

ここで、安田さんの構想に戻ります

私は、世界遺産登録を目指す運動と、『あいせよ天橋立丹後浦島ロード』、さらに海星公園や将来の丹後天橋立ミュージアムを結びつけて考えることに、大きな意味があると思います。

なぜなら、仮に登録まで長い時間がかかったとしても、地形を調べ、地域の歴史を掘り起こし、子どもたちが問いを持ち、住民が自分たちの土地の価値を語れるようになれば、その過程自体が地域に残るからです。

もちろん、それは登録の代わりではありません。登録を本気で目指すなら、国際的な比較研究と、世界遺産の基準に沿った価値の立証は必要です。

でもね、安田さん。

登録できるかどうかだけを成功の物差しにすると、登録までの数十年が、ただの待ち時間になってしまいます。

登録を目指すからこそ、地域の自然と文化をこれまで以上に深く理解し、次の世代へ手渡せる。その二つを同時に追いかけるのが、丹後らしい挑戦ではないでしょうか。

そして、ここで一つ伺いたい。

安田さんが今、いちばん気になっているのは、天橋立が世界遺産の基準を満たせるかどうかでしょうか。それとも、世界遺産を目指す運動が、地域の自然や文化を本当に掘り下げる運動になっているかどうかでしょうか。

二つは繋がっていますが、同じ問いではありません。私は、この違いをはっきりさせるところに、次の一歩がある気がします。

こちらもいかがですか?

◆② 世界遺産を目指す運動が、地域の自然や文化を本当に掘り下げる運動になっているかどうか、、です、「丹後は一つ、海山を守って明日の丹後がある」(^.^)

おお! 出ましたね。(^.^)

「丹後は一つ、海山を守って明日の丹後がある」

これは、世界遺産登録のための標語にとどまりませんね。むしろ、世界遺産を目指す運動が地域に何をもたらすべきか、その根本を問う言葉だと思います。

私がこの言葉から読み取るのは、三つのことです。

1.天橋立を、天橋立だけに閉じ込めない

砂州は、砂州だけで生まれたわけではない。

山があり、岩が風化し、川が土砂を運び、海流や波が砂を動かす。その結果として砂州ができ、そこに人が暮らし、神話や信仰や景観文化が育ってきた。

つまり、天橋立を深く理解しようとすれば、丹後の山から海までを調べることになる。

伊能図で三保松原や松川浦などと比較するのも、そのためですね。天橋立を特別だと主張する前に、日本の海岸地形のなかに置いて、何が同じで何が違うのかを確かめる。

2.自然を守ることと、文化を継ぐことを一つにする

世屋の棚田、伊根の舟屋、阿蘇海、天橋立、与謝野の農村景観。

これらを単なる観光地の寄せ集めとして見るのではなく、山・田んぼ・川・海・人々の営みがつながる地域として捉える。

そうすれば、自然保護は自然保護、文化財保護は文化財保護、観光は観光という縦割りを問い直せます。

安田さんの「あ・い・せ・よ」――阿蘇海・伊根・世屋・与謝野――も、そこに位置づけられますね。

3.登録の成否を超えて、地域に何を残すか

世界遺産を目指す運動には、国際的な基準に照らした厳しい検証が必要です。しかし、運動の成果は推薦書の完成だけではないはずです。

  • 地域の自然を説明できる人が増えたか。
  • 埋もれていた歴史や文化が掘り起こされたか。
  • 地域の人々が、自分たちの暮らす土地の価値を語れるようになったか。
  • そして、その価値を未来に残す具体的な行動が始まったか。

こうした変化が生まれなければ、登録が実現しても、地域に何が残ったのかという問いが残ります。

ここで私は、安田さんの言葉を、少しだけ広げてみたくなります。

丹後は一つ。海山を守り、自然と文化を掘り、つなぎ、明日の丹後へ手渡す。

世界遺産を目指す運動が、地域を一つにするための運動になる。

ただし、「丹後は一つ」は、違いを消して一つにまとめるという意味ではありません。山里には山里の、漁村には漁村の、町には町の事情と誇りがある。それぞれの違いを認めたうえで、流域と海岸線を通して互いの暮らしがつながっていると知ることです。

世界遺産は目的地でありながら、地域を掘り下げるための道具にもなり得る。

ここを運動の中心に据えられるかどうか。

安田さんがこれまで話してこられた海星公園、世屋川流域エコミュージアム、丹後天橋立ミュージアム、そして「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」。これらを別々の事業として終わらせず、地域を学び、守り、次世代に伝える仕組みとして結び直す。

そう考えると、世界遺産登録運動の数十年は、ただの生き残りレースではなくなりますね。

丹後の未来を、丹後自身が学びながらつくっていく時間になる。

いやあ、「丹後は一つ」……この言葉、天橋立の砂州だけを見ていては出てこない言葉かもしれませんね。山を見て、川をたどり、海を見渡して、初めて見えてくる「一つ」なのかもしれません。(^.^)

↑Yahoo!オークション – f23031815 復刻 古地図 三保松原之図 春山玉泉 …auctions.yahoo.co.jpauctions.yahoo.co.jp

↑ 世界遺産「三保松原」は江戸時代に島から半島になった! (2ページ目)articles.mapple.netarticles.mapple.net

↑ Yahoo!オークション – 戦前絵葉書 日本三景天の橋立 前田虹映 鳥瞰図 …auctions.yahoo.co.jpauctions.yahoo.co.jp

◆① ありがとう、比較すれば、重大なことが見えてきますね、、さて、三保の松原を見ています、天の橋立と比較分析して見えることを解説いただけますか

三保の松原に目を向けましたか! これは天橋立を考えるうえで、実にいい比較相手です。しかも、両者は単に「松が美しい海岸」というだけではありません。

どちらも、海が運んだ土砂によって生まれた地形が、人間の美意識・信仰・文学と結びつき、名勝として守られてきた場所です。ただし、地形の位置関係と、景観が人に語りかける仕組みには大きな違いがあります。

一般財団法人三保松原保全研究所

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1. まず、地形の違いを見ましょう

三保の松原 (静岡県) - 日本三大松原 | 日本三大図鑑 | 日本三大図鑑

三保松原 — 海へ突き出す砂嘴

砂嘴全体は約7km

三保半島は駿河湾に突き出す弓形の地形です。安倍川などから供給された土砂が波で運ばれ、堆積してできた砂嘴で、内側に清水港を抱えています。

世界文化遺産構成資産 三保松原 – SHIZUOKA CITY PROMOTION

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つまり、海岸から伸びた砂の地形が、港を守る地形にもなっているのです。

Aerial View of Amanohashidate Sandbar Framing Miyazu Bay and Mountain Towns

天橋立 — 湾の中を横切る砂州

現在の主要砂州は約3.2〜3.7km

天橋立は宮津湾と阿蘇海の間に延び、二つの水域をほぼ隔てています。世屋川などから運ばれた砂礫が沿岸流で移動し、阿蘇海側の流れとの関係で堆積したと考えられています。

京都府

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こちらは、砂州そのものが二つの水域を分ける境界になっています。

2. 地形を比較すると、何が見えてくるか

視点三保松原天橋立
地形の位置駿河湾に突き出す砂嘴宮津湾の内側に伸びる湾央砂州
背後の水域清水港を抱く阿蘇海を宮津湾から隔てる
土砂の供給・運搬河川などの土砂を波が沿岸に運ぶ丹後半島東岸の河川、沿岸流、阿蘇海側の流れが関係
景観の主役松原越しに望む富士山細長い松の砂州と、両側の水面・山並み
人間との結びつき羽衣伝説、御穂神社、和歌、能、富士山の絵画天橋立の神話、信仰、和歌、絵画、眺望文化

地形の説明は京都府・文化庁などの資料に基づいています。

京都府

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ここで、安田さんが伊能図を見ながら考えておられる「重大なこと」に、少し近づける気がします。

同じように砂が堆積してできた地形でも、その場所がどんな水域を形づくり、何を眺めさせ、どんな物語を生み出したかは違う。

三保松原は、富士山という巨大な山を海越しに望む舞台です。三保の松原だけで完結するのではなく、富士山を仰ぐことで景観の意味が完成します。文化庁の解説も、羽衣伝説、御穂神社の神迎え、和歌、能、絵画の歴史を一続きに捉えています。

文化遺産オンライン

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一方、天橋立は、砂州の両側に水面があり、山並みに囲まれた湾の中に立っています。眺める対象であると同時に、海と海を分ける地形そのものが、景観の主役になっているのです。

3. そして、世界遺産を考えるときの大事な違い

三保松原は、単独で「富士山の世界遺産」になったわけではありません。世界文化遺産「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産として、富士山への信仰と芸術の歴史を伝えています。

文化遺産オンライン

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この事実から、天橋立についても考えられることがあります。

天橋立を世界遺産にするために、天橋立だけの「珍しさ」を探し続けるのではなく、

  • なぜこの地形が、神話や信仰を生んだのか。
  • なぜ人々は、ここからの眺めを特別なものとして表現してきたのか。
  • 阿蘇海、宮津湾、山並み、河川、集落の暮らしが、どのように景観の意味をつくったのか。

こうした問いを、地形の証拠と文化史の証拠を結びながら追究することです。

もちろん、三保松原が富士山の構成資産になったこと自体が、天橋立の世界遺産登録を保証するわけではありません。登録には、世界遺産の基準に照らした顕著な普遍的価値と、その証明が必要です。

それでも、三保松原との比較から学べることはあります。

地形の成り立ちを説明することと、その地形が人類の文化にとってどんな意味を持つかを説明すること。この二つを、切り離さずに深める。

伊能図の中図・小図で全国の砂州を見比べる作業は、単に天橋立に似た場所を探す作業ではありません。似た地形が、地域ごとに異なる歴史と文化を生んだ理由を探る作業なのですね。

そして、三保松原と天橋立の比較で、私がいちばん気になる問いはこれです。

富士山が三保松原の景観を完成させるのだとすれば、天橋立の景観を完成させているのは、砂州そのものなのか、それとも砂州を取り囲む山・川・湾・人の営み全体なのか。

安田さんの「天橋立はふるさと、自然共生サイトは課題」という視点からすると、答えは砂州の上だけには収まらなさそうですね。

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