宮津エコツアー · yasuda

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◆1 中村(成相乃麓也)より観音堂まで十六町の坂をのぼる。其路甚嶮峻にて、輿馬の往来也かたし。 (中略) 此坂中より、天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶す、日本の三景の一とするも宜也。 これが天の橋立!社前より遠く望めば、湖水渺茫として人遠く隔たり、境地潔浄にして俗塵をはなれ、恰浮世の外に出たる心地して、仙境に入りたるように覚え侍る。、、これが竹生島!比較して、感じるところはありますか

いやあ、これは面白い比較です。二つの文章を並べると、益軒が見た二つの風景の違いだけでなく、益軒が自然の中に何を感じ取っていたのかが浮かび上がってきます。

私が最も注目したのは、天橋立では「其景言語ヲ絶す」、竹生島では「俗塵をはなれ、仙境に入りたるよう」という表現を使い分けていることです。

1.天橋立――風景の広がりに圧倒される

天橋立を一望できる宮津の古刹・ 成相寺|宮津市広報

天橋立の文章には、具体的な地名が次々に登場します。

  • 天橋立
  • 切戸の文珠
  • 橋立東西の与謝の海
  • 阿蘇の海

益軒は、坂の途中から目の下に広がる風景を、視線を移しながら描写しています。

ここには、広がり、連なり、地形の構成を捉える目があります。

しかも、坂道は「甚嶮峻」。輿や馬も通りにくい。自分の身体で苦労して登った先に、あの眺望が開ける。

その体験を受けて、

日本の三景の一とするも宜也。

と評価する。

これは、景観を実際に見たうえでの、名所としての価値判断ですね。

2.竹生島――風景の中に身を置き、俗世を離れる

竹生島宝厳寺開創千三百年記念辯才天堂本尊秘仏御開帳 | はなの日々

こちらは、表現がずいぶん違います。

湖水渺茫として人遠く隔たり、境地潔浄にして俗塵をはなれ、恰浮世の外に出たる心地して、仙境に入りたるように覚え侍る。

ここでは、島の建築や歴史よりも、まず湖の広大さと、人里から隔たった感覚が描かれています。

そして、最後は「仙境」。

天橋立では風景の美しさに言葉を失い、竹生島では俗世から離れたような心持ちになる。

つまり、こちらは景色の評価というより、その場所に身を置いたときの精神的な体験を語っているように思います。

3.二つの文章を並べると

視点天橋立竹生島
立ち位置成相の坂の途中島の社前
見ているもの山・砂州・二つの海・文殊湖水・島を取り巻く空間
描写の特徴地名を列挙し、景観を構成する距離感、清浄さ、隔絶感
心の動き言葉を絶する感動俗世を離れた心地
評価日本三景の一つにふさわしい仙境に入ったよう

4.私が感じる、決定的な違い

天橋立の文章には、周囲の土地との関係が見えます。

竹生島の文章には、周囲の土地から切り離された感覚が見えます。

これは興味深いですね。

天橋立は、丹後の山々、与謝の海、阿蘇の海、文殊の町と一緒に見えている。

竹生島は、湖の中に浮かび、人里から遠く隔たった聖なる場所として見えている。

もちろん、竹生島にも長い歴史を持つ人々の信仰や営みがあります。益軒のこの文章では、そこよりも島の隔絶性が前面に出ているのでしょう。

そして、ここから少し大胆に言えば、

天橋立は、自然と人間の営みが織りなす風景。竹生島は、自然の懐に抱かれた聖地。

そんな対照が読み取れます。

5.そして、丹後にとって大切なこと

私は、益軒の天橋立評の中で、最も大事なのは「橋立東西の与謝の海、阿蘇の海」という部分だと思います。

益軒は、砂州だけを見ていません。

砂州の両側にある海を見ている。文殊の町も見ている。成相の山から、それらを一つの視界に収めている。

これは、天橋立を単独の名所として切り取るのではなく、周囲の風土との関係で捉えたということです。

益軒さん、意図していたかどうかは別として、現代の私たちに大事な視点を残してくれていますね。

竹生島は、島を訪れることで自然と信仰に出会う。天橋立は、土地を見渡すことで自然と人間の営みの結びつきに出会う。

この二つを実際に訪れた益軒の紀行文は、比較して読む価値があります。(^.^)

天橋立や竹生島の旅にも合う、宿泊先の候補を見ておくと便利です。

◆2 そこなんですね、益軒さんの目は、「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」の眼(呑め)です、なあ(^.^)

はははは!! そこです、そこ!!(^.^)

益軒さんの目は、天橋立という一本の砂州に止まっていない。

成相の坂から、

  • あ 阿蘇の海
  • い 伊根へと続く丹後の海
  • せ 世屋の山々と里山
  • よ 与謝の海、与謝野の大地

へと広がっていく。

もちろん、益軒が現代の「あいせよロード」を意識していたわけではありません。でも、彼が記した景観には、その構想を支える視点がある。

私が特に面白いと思うのは、益軒の旅をたどることで、現代のロード構想に歴史的な奥行きが生まれることです。

「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」は、天橋立を見せる道ではない。天橋立が生まれた風土と、そこに生きてきた人々を見つける道。

益軒さんを、このロードの先輩案内人に任命しましょうか。

ただし、本人には向井酒造の「あいせよ」を一献進呈してからですな!!(^.^)

◆1 フム 少し調べると、玄妙庵の由緒に興味深い記述があります。
玄妙庵の公式サイトによれば、明徳4年(1393)、足利義満が文殊参詣をした際、丹後守護の一色満範がこの地に亭舎を設けて迎えたと伝えられます。その後、禅行の修場に使われ、「玄妙庵」と呼ばれるようになったとのことです。また、成相寺古図には四阿の亭舎が描かれ、「古堂、座禅所なり」と記されているといいます。智恩寺古図にも亭舎が描かれているそうです。、、、フム、益軒さん、この情報をえていなかった!としたら、おもしろいことですね、まずは成相ビュー、次に、では対岸からはどうだろう、となってもよかったでしょうに、、残念!!ところで、益軒さんの旅はお伴、お連れははいらっしゃったのですか、また、続いて若狭へということ、ここは船旅でしたか、また、若狭はどこを訪れられましたか、情報をください

↑貝原益軒『養生訓』に学ぶ養生の本質|東洋医学にも通じる“未病を防ぐ”暮らしの知恵 – 日本鍼灸大学

nihonshinkyu.jpnihonshinkyu.jp
つまり、少なくとも玄妙庵の場所は、益軒が訪れた1689年より前から、何らかの建物・宗教的な用途を持つ場所だった可能性が高い。

29s考えました

確認した整理方法

26件のウェブサイトを検索しました

いやあ、玄妙庵の話から、益軒の旅そのものへ関心が広がりましたね。これは丹後だけでなく、若狭・近江までつながる旅です。

調べてみると、益軒の旅は、宮津で終わっていません。丹後から若狭へ、さらに近江へ抜け、琵琶湖の竹生島にも渡る周遊の旅でした。

そして、船旅だったのかという点は、少し意外な答えになります。若狭への移動の主軸は陸路です。船が登場するのは、少なくとも確認できる行程では、竹生島への渡航です。

ogu-tec

+1

1. お伴はいたのか?

ここは慎重に見たいところです。

益軒は39歳のとき、東軒夫人と結婚しています。夫婦で諸国を見聞した記録もあると、益軒の生涯を扱う研究資料に紹介されています。

武蔵野学院

ただし、元禄2年(1689)の『己巳紀行』の旅に、妻や特定の同行者がいたと確認できる記録は、今回の調査では見つかりませんでした。

益軒が一人旅だったと断定することもできません。宿や道中で案内人・土地の人と行動を共にした可能性もありますが、そこも未確認です。

面白いのは、益軒が旅先で土地の人から話を聞き、伝承や地理を記録していることです。益軒の紀行文を分析した研究も、訪問地の人々との会話や、土地の話を聞くことを旅の楽しみの一つとして指摘しています。

国立国会図書館

つまり、同行者がいたかどうかとは別に、益軒は各地の人々を「旅の知識を得る相手」としていたようです。

2. 丹後から若狭へ、そして近江へ

旅の大きな流れを整理すると、こうなります。

元禄2年・丹波丹後若狭紀行の行程

  1. 京都から丹波へ南丹方面を経て福知山へ。山陰道方面の陸路を進む。
  2. 福知山から宮津・天橋立へ約150キロの京都―宮津間を3泊4日で歩いた行程。成相寺本坂道の眺望を記録。
  3. 宮津から舞鶴へ丹後の海岸地域を移動。
  4. 舞鶴から小浜へ若狭へ陸路で入る。
  5. 小浜から永坂峠を越えて今津へ若狭から近江へ。峠越えの陸路。
  6. 今津から竹生島へ琵琶湖を船で渡り、竹生島を訪ねる。
  7. 大原を経て京都へ帰る

行程は『己巳紀行』の「丹波丹後若狭紀行」の紹介・解説に基づく概略です。細かな立寄り順は原本での照合が必要です。

ogu-tec

+1

ここで重要なのは、宮津から小浜までを船で移動したのではない、ということです。

若狭への道は、舞鶴から小浜へ陸路で進み、小浜からさらに永坂峠を越えて近江の今津へ向かっています。

今の地図で見ると、丹後半島の東側から若狭湾沿岸を経て琵琶湖へ抜ける、実に興味深いルートです。

3. 若狭ではどこを訪ねたのか

まず、確実に押さえられるのは小浜です。

小浜については、町の様子だけでなく、土地の伝承も記録しています。

特に興味深いのが、八百比丘尼伝説です。

柳田國男は、益軒の『西北紀行』が小浜の熊野山にある神明社に伝わっていた八百比丘尼の由来を記録していることに注目しています。人魚の肉を食べた少女が長寿を得たという話です。

読む書く歌う旅をする  by 姜信子

+1

これは、単なる名所案内ではありません。

益軒は、若狭の人々が伝えてきた物語を、土地の記録として残しているのです。

また、小浜から今津への道中については、今津の町を次のように記録しています。

今津は湖中に出たる町にて西の方僅に陸に続く。島の如し。民家四百余戸有り。

前夜は小浜に泊まり、九里半街道を通って今津へ到着したとする解説があります。

Lics SaaS

今津の町を「島のようだ」と観察し、民家の戸数まで記録している。まさに地理と暮らしを見る目ですね。

4. 竹生島では、船で渡り、仙境を感じた

唯一の大坂城の建築遺構が残る!“神の棲む島”への日帰りクルーズ|長浜城下町エリア|豊臣秀吉・秀長兄弟ゆかりの地 滋賀県長浜市
竹生島参拝祈願ツアー行って来ました② | キュアサロンマナ リンパとスピリチュアル
竹生島上陸クルーズ 琵琶湖に浮かぶパワースポットへ!<島内自由散策/長浜港発> | 滋賀の観光&遊び・体験・レジャー専門予約サイト VELTRA(ベルトラ)
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竹生島宝厳寺にある 大坂城唯一の遺構 国宝「唐門」 | 絶景事典
琵琶湖に浮かぶ竹生島に鎮座する都久夫須麻神社(竹生島神社)へ: 古寺とお城の旅日記
都久夫須麻神社(竹生島神社) | ニッポン旅マガジン

若狭を抜けた益軒は、近江の今津から竹生島へ渡っています。

竹生島での感動を、益軒はこう記しています。

社前より遠く望めば、湖水渺茫として人遠く隔たり、境地潔浄にして俗塵をはなれ、恰浮世の外に出たる心地して、仙境に入りたるように覚え侍る。

社前から遠くを眺めると、広大な湖水の向こうに人里が遠ざかり、俗世間を離れた仙境に入ったような気持ちになった、ということです。

ogu-tec

+1

ここは、成相寺の眺望と比較すると面白いですね。

  • 成相寺では、山上から二つの海と天橋立を見渡す。
  • 竹生島では、湖上の島に渡り、周囲の広大な水面を眺める。

益軒は、異なる水辺の風景を、それぞれ身体を運んで体験しているのです。

5. もう一つ、益軒の旅で見逃せないこと

益軒の紀行文を研究した溝口周道氏の論文は、益軒の特徴として、名所だけでなく、道中の集落、町並み、名産、里人との会話などにも関心を広げていたことを指摘しています。

J-STAGE

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また、益軒は伝承をそのまま信じるのではなく、文献を照合して検討する姿勢も持っていました。

論文が引用する益軒の言葉に、

名所の事、古人の説也とて、ことごとくは信ずべからず。あやまれる説多し。彼是考合せて決定すべし。

という一節があります。古人の説だからといって、何でも信じてはいけない。諸説を比較して判断せよ、という姿勢です。

J-STAGE

+1

これは、安田さんの「掘る・繋ぐ・問い返す」にも通じるものがありますね。

私が今回の旅程から感じたこと

益軒は、天橋立だけを目的に丹後へ来たのではありません。

丹波、丹後、若狭、近江を巡り、山を越え、海辺の町を歩き、湖上の島へ渡っています。

その旅の中で、天橋立の成相ビューに出会い、「日本の三景の一とするも宜也」と記した。

つまり、彼の天橋立評価は、広い地域を見て回った旅人の目から生まれたものだったのです。

そして、安田さんにぜひ紹介したい本があります。

『旅する益軒「西北紀行」―山城・丹波・丹後・若狭・近江を巡る』

西村隆夫著、和泉書院、1997年。

今回の旅を詳しく読み解くための専門書です。東京都立図書館の地方史誌目録にも書誌が掲載されています。

東京都立図書館

東京都立図書館の書誌情報

神戸大学の『西北紀行』原本も公開されています。

神戸大学附属図書館・原本画像

そして、私から一つ提案。

本坂コースを「益軒の道」として歩くなら、天橋立だけで完結させないことです。

益軒が見た丹後の風景を入口にして、若狭の小浜、今津、竹生島へとつながる旅を紹介する。

そうすると、天橋立は孤立した名所ではなく、日本海と琵琶湖を結ぶ広域の歴史・文化・交通の中に位置づけられます。

これぞ、丹後半島エコミュージアムの視野ですね。(^.^)

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◆2 オオ、、(^.^) 芭蕉さんの旅に曽良さんが同行されたように、秘書、お世話役がいらっしゃったように思うのですが、、単に記述がないということではなかったですか

おお、そこは私も改めて考え直す必要がありますね。おっしゃるとおり、「同行者の記述が見つからない」ことと「同行者がいなかった」ことは、まったく別です。

今回、書誌と研究論文を調べ直して、重要な手掛かりがありました。

1. 益軒の旅は、個人的な単独旅行とは限らない

溝口周道氏の研究論文によれば、益軒は公務で江戸や京都を往復する際にも、足を延ばしたり回り道をしたりして各地を巡っていました。また、丹後・若狭・近江には、かねてから遊観したいという希望があったと記しています。

J-STAGE

+1

つまり、今回の旅は、芭蕉のように紀行文学を作ることを主目的とした旅とは、性格が違います。

2. 旅の記録には、同行者の名前が出てこない

ここで面白い書誌情報があります。

九州大学所蔵の写本『諸州巡覧記』の書誌には、益軒自身が元禄2年2月に『西北紀行』を書き終えたことが記されています。

CiNii Research

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しかし、この書誌情報だけでは同行者は分かりません。私が確認できた研究・公開資料にも、曽良のような特定の同行者の名前は見当たりませんでした。

3. ただし、益軒には旅を支える人的なつながりがあった

益軒は福岡藩に仕えた儒学者であり、藩の公務や学問上の人脈を持つ人物です。各地で土地の人から話を聞き、地理や産業、伝承を記録しています。

ですから、旅の途中で案内や世話を受けた可能性は十分考えられます。ただし、専属の秘書・世話役が同行したと示す証拠は、まだありません。

私なら、こう調べます

特に見たいのは、原本の次の箇所です。

  • 出発時の記述:誰と出発したのか。
  • 宿泊先の記述:宿の手配や同行者への言及があるか。
  • 「我等」「同道」「供」などの表現。
  • 船や駕籠、荷物、案内人についての記述。

神戸大学の原本画像はこちらです。

『諸州巡覧記 西北紀行』全45丁

私の見立ては、同行者がいなかったとはまだ言えない、です。

それにしても、益軒は60歳。京都から丹後、若狭、近江を巡り、山道を登り、船に乗り、土地の人から話を聞いている。

一人であれ、誰かと一緒であれ、なかなかの旅人です。

安田さん、ここは「益軒の旅の一行」を調べる価値がありますね。旅の記録に書かれなかった人が、実は旅を支えていたのかもしれません。(^.^)

◆3 益軒は福岡藩に仕えた儒学者であり、、、フム、藩が召し抱える儒学の権威、、益軒さんはどこでだれにその儒学を学ばれたか、キャリア形成の過程を下さいな

フム、ここは益軒さんの人物像を考えるうえで、なかなか面白いところです。

まず押さえたいのは、益軒は最初から福岡藩の儒学者として育てられた人ではないということです。父や兄から学び、若いころの浪人生活を経て、長崎・江戸・京都で学問の世界を広げ、藩に再び召し抱えられてから、藩を代表する儒者へと成長していきました。

しかも、藩が費用を出して京都へ遊学させています。つまり、個人の学問修業であると同時に、藩が人材を育てる政策でもあったわけです。

museum.city.fukuoka.jp

+2

益軒の学問修業とキャリア形成

1.幼少期――父と兄が最初の先生

益軒は1630年、福岡城内に生まれました。父は貝原寛斎。福岡藩に仕えた右筆役、つまり文書や記録を扱う役目です。

幼少期には、父と兄から儒学や医学を学んでいます。ここが学問の出発点でした。父の仕事の関係で、福岡の町場だけでなく、山村や農村にも住まいを移しています。

福岡市博物館の年譜には、父や兄から儒学・医学を学んだことが記されています。

福岡市博物館

+1

2.19歳で出仕、21歳で浪人――人生の転機

年年齢出来事
1648年19歳二代藩主・黒田忠之に出仕
1649年20歳藩主の怒りに触れ、処分を受ける
1650年21歳浪人となる

最初の勤めは、儒学者としてではなく、御納戸御召料方という藩の役目です。

その後、浪人となり、長崎・江戸・大坂・京都などで学問を続けます。福岡市博物館は、この時期に長崎でも学んだことを紹介しています。医学を学んだ経験もありました。

ここが興味深い。益軒は、藩の学問所で順調に育てられたエリートというより、若くして藩の外に出され、各地で学び直した人なのです。

福岡市博物館

+2

3.27歳――藩主の理解を得て、京都へ

1656年、三代藩主・黒田光之のもとに再出仕します。翌1657年、藩命によって京都へ遊学することになります。

ここで出会い、学んだ儒学者たちが重要です。

松永尺五(1592–1657)

藤原惺窩の門人で、京都の儒学界を代表する人物。益軒が京都に出た1657年に没しています。直接どの程度教えを受けたかは、もう少し史料の確認が必要です。

尊王?攘夷?討幕?幕末の思想を一度で整理する|Pain

山崎闇斎(1619–1682)

朱子学を深く研究し、後に垂加神道を開いた思想家。益軒が京都で学んだ重要な人物の一人です。

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木下順庵(1621–1698)

朱子学を中心に学問を広めた儒者。益軒が京都で学んだ人物として、福岡市博物館の年譜にも名前が挙がっています。

福岡市博物館

+2

京都では、このほかにも中村惕斎、藤井懶斎、向井元升らと交流を深めています。儒学だけでなく、本草学や医学、歴史など、幅広い分野の学者とのつながりができました。

群馬大学リポジトリ

+1

そして1660年には江戸へ赴き、幕府の儒学者・林鳳岡とも交流しています。京都だけでなく、江戸の学問世界にも接点を持ったのです。

福岡市博物館

+1

4.35歳――福岡に戻り、藩儒として本格始動

1662年、益軒は福岡へ戻ります。1664年には150石の知行地を与えられ、藩士としての地位を固めます。

その後は、

  • 藩主や藩士に儒学を講義する。
  • 1671年、『黒田家譜』の編纂を命じられる。
  • 1688年、『筑前国続風土記』の編纂許可を得る。
  • 朝鮮通信使の応接にも携わる。

というように、学問が藩の政策や行政に結びついていきます。

museum.city.fukuoka.jp

+2

『筑前国続風土記』は、甥の貝原好古とともに領内を歩き、資料を集めて編纂した地誌です。机上の儒学だけでなく、現地を調べ、土地の歴史や地理を記録する仕事をしたわけです。

福岡市博物館

+1

5.晩年――朱子学を学び、そして問い直す

益軒の基本的な学問の立場は朱子学でした。ただし、生涯を通じて一つの教えをそのまま守ったわけではありません。

晩年には朱子学に対する疑問を『大疑録』にまとめています。自然や人間を観察し、実際の生活に役立つ知識を重んじたことも、益軒の学問の特徴です。

群馬大学リポジトリ

+1

益軒のキャリアを一枚にすると

  1. 父・兄から学ぶ儒学・医学の基礎を身につける
  2. 藩に出仕、そして浪人長崎・江戸・大坂・京都で学び直す
  3. 藩主の支援で京都遊学山崎闇斎、木下順庵らと学問交流
  4. 福岡藩に戻り、藩儒となる講義・歴史編纂・地誌編纂などを担う
  5. 晩年の著述活動儒学・本草・養生・教育などを幅広く研究

ここから、先ほどの「西北紀行」に戻ってみましょう

私は、益軒が丹後を訪れた1689年という年に注目します。

このとき益軒は59歳(数え60歳)。すでに福岡藩の儒者として、学問上も行政上も相当な経験を積んでいました。『黒田家譜』の編纂を経験し、『筑前国続風土記』の仕事にも取り組んでいた時期です。

museum.city.fukuoka.jp

+1

つまり、丹後を訪れた益軒は、単なる景勝地好きの旅人ではありません。

儒学を身につけ、藩の歴史を調べ、土地を歩いて地誌をつくる仕事をしてきた人物が、成相の坂から天橋立・与謝の海・阿蘇の海を眺めた。

ここが大事だと思います。

もちろん、彼が成相の景色をどのような学問的意図で見たかまでは、紀行文の記述だけでは断定できません。しかし、彼のそれまでのキャリアを知ると、あの「其景言語ヲ絶す」という一節の重みも、少し違って見えてきます。

そして、もう一つ。益軒は福岡藩のために『筑前国続風土記』を編んだ人です。丹後の旅でも、景色だけでなく、土地の由来や暮らし、道の険しさなどを記録していた可能性があります。

成相ビューを体感するコースにするなら、益軒を「日本三景を褒めた人」として紹介するだけではもったいない。土地を歩き、見て、記録した学者として迎えたいですね。(^.^)

◆4 天の橋立への旅の起点、それは、儒学者としての成長深化、この過程で、三処奇観に触れられた、そのことのようですね、

そうですね。そこに、益軒の丹後行きの意味を考える手がかりがありそうです。

ただ、少しだけ時間の順序を丁寧に置きたいと思います。

林鵞峰の『日本国事跡考』に記された「三処奇観」は、益軒が丹後を訪れた1689年より前のことです。益軒が京都・江戸などで儒学を学び、各地の学者と交流していた時期に、すでに天橋立・松島・厳島という三つの景勝地を一組として見る知識に接していた可能性は十分あります。

つまり、益軒の旅は、何も知らずに偶然天橋立へ来た旅ではなかった、と考えるのが自然です。

ただし、現時点では「益軒が『日本国事跡考』を実際に読んだ」という直接の証拠までは確認できていません。そこは一段留保しておきましょう。

宮津市の解説も、林鵞峰の1643年の記述と、益軒の1689年の評価を区別しています。さらに、益軒の紀行文は後世の旅行者や名所案内にも影響を与えたと研究されています。

宮津市ホームページ

+1

私なら、こう整理します。

  • 1643年 林鵞峰が「三処奇観」として、天橋立を全国的な名所の枠組みに置く。
  • 益軒の修業期 儒学者として各地の知識・地理・歴史・名所に関する教養を深める。
  • 1689年 益軒が実際に丹後を訪れ、成相の坂から自分の目で眺め、「日本の三景の一とするも宜也」と記す。

ここで大切なのは、益軒が先人の評価をただ繰り返したのではなく、自分の足で成相への坂を上り、自分の目で確かめていることです。

そして、もう一つ面白いことがあります。

林鵞峰の「三処奇観」は、松島の景色を中心にした記述でした。一方、益軒が成相の坂から見たのは、天橋立だけではありません。切戸の文殊、与謝の海、阿蘇の海までを一望する景色です。

つまり、益軒は「天橋立という名所」を見たというより、天橋立を含む一帯の風景を見て、その価値を認めたとも読めます。

これは、いま話している「天橋立を説明するために丹後を見るのではない。丹後を見つめたとき、天橋立が見えてくる」という視点にも通じますね。

益軒の旅の出発点には、学問によって得た知識があり、成相の坂には、その知識を実景に照らして確かめる場があった。そんな読み方ができると思います。

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◆5 年 年齢出来事1648年19歳二代藩主・黒田忠之に出仕1649年20歳藩主の怒りに触れ、処分を受ける、、、、青春ドラマですね、、なにがあったのですか

ははは! これは青春ドラマです。しかも、二十歳で藩主の怒りを買い、七年間も浪人生活を送る。後の大儒・貝原益軒の人生が、ここから大きく動き始めるんですね。

ところが、実は 何をして藩主の怒りに触れたのか、確定した説明はありません。

調べてみると、主に二つの見方があります。

1.藩主との性格・気風の違い

二代藩主・黒田忠之は、一般に武断的な気風を持つ人物として説明されます。

一方、益軒は読書と思索を好む青年でした。

福岡大学の井上忠氏による研究では、忠之の武断的な気風と益軒の性格の相違が、処分の背景にあった可能性を挙げています。

J-STAGE

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2.若き益軒が藩主に諫言したという説

もう一つ、興味深い説があります。

益軒が青年時代に陽明学関係の書物を多く読んでいたことから、主君に対して自分の考えを述べ、諫言したのではないか、という見方です。

これは同じ井上氏の論文中で、東京工業大学の伊藤友信氏による新解釈として紹介されています。

ただし、これも確定した事実ではありません。諫言の内容や、具体的に何を言ったのかを示す確実な記録は、今回確認できていません。

J-STAGE

3.処分は段階的だった

福岡市博物館の年譜によると、

年年齢出来事
1648年19歳忠之に出仕
1649年20歳謹慎15日、4か月間の御目見え停止
1650年21歳浪人となる

という経過です。いきなり浪人になったのではなく、段階的に処分が重くなっています。

福岡市博物館

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4.そして、浪人七年間が益軒を変えた

ここが私には最も興味深いところです。

益軒はこの間、医学を学び、長崎・江戸・大坂・京都などを訪ねています。26歳のときには髪を剃り、僧体となって「柔斎」と号しました。医者として生きる道も考えていたようです。

福岡市博物館

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そして27歳で三代藩主・黒田光之に再び召し抱えられ、28歳で京都遊学を命じられる。

つまり、若いころの挫折が、結果として学問の世界を大きく広げる機会につながったわけです。

私がここで注目したいのは、益軒の学問の出発点です。

彼は最初から藩の儒学の権威だったわけではない。藩主との関係でつまずき、医者になることも考え、外の世界を歩き、そこで学問を深めていった。

藩に仕える儒者になる前に、藩の外で世間を見た青年だった。

この経験は、後の『筑前国続風土記』や『大和本草』のように、書物だけでなく土地や自然を実際に調べる学風にも、何らかの影響を与えたのではないでしょうか。

いやあ、二十歳の益軒さん、なかなか一筋縄ではいかない青年だったようです。(^.^)

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◆6 益軒さん、名前の益、気になりますね

おお、「益」に目が留まりましたか!(^.^)

実は、これは益軒さんの人生を考えるうえで、なかなか味わい深い話なんです。

「益軒」は生まれたときの名前ではありません。晩年に自ら改めた号です。

貝原篤信(あつのぶ)、字は子誠。若いころには「柔斎」、そして長く「損軒(そんけん)」と名乗っていました。それを晩年になって「益軒」に改めたのです。

Keio Object Hub: 慶應義塾のアート&カルチャーを発信するポータルサイト

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「損」から「益」へ

損

損軒

そんけん

減らす、損なう、差し引く。

益

益軒

えきけん

増す、役立つ、利益をもたらす。

中国古典『易経』には「損」と「益」という対になる卦があります。

江戸時代の人物伝『近世畸人伝』には、益軒の「損軒」という号について、易の「損益」の卦に由来するのではないか、という考察が記されています。

ラピス

また、井上孝一氏の説として、益軒への改号は78歳後半ごろで、中国の『易』の影響があると紹介されています。

株式会社 協通事業

+1

ただし、本人が「こういう意味で改号した」と明記した文章は、今回確認できていません。したがって、由来は有力な解釈として受け止めるのがよさそうです。

私が面白いと思うのは、改号した年齢です

益軒は78歳ごろに「益軒」と名乗り始めたとされます。

それまでの長い年月は「損軒」。晩年になって「益軒」。

もちろん、これを人生の反省や心境の変化と断定することはできません。しかし、あえて対になる字を選んだことには、何かしらの思想的な意味を感じます。

そして、益軒の仕事を振り返ると、

  • 『大和本草』で自然の知識を人々に伝える。
  • 『筑前国続風土記』で土地の歴史を後世に残す。
  • 『養生訓』で日々の暮らしに役立つ知恵を伝える。

まさに、知識を自分の中に蓄えるだけでなく、人々の暮らしに役立てようとした仕事です。

「損軒」から「益軒」へ。自分の学問を、世の中にどう役立てるか。

そんな読み方をしたくなりますね。

そして、ここで一つ、丹後への旅に戻ると面白い。益軒は「益軒」と改号する前、まだ「損軒」と名乗っていた時期に、あの成相の坂を上っているのです。

あの旅をした人と、晩年に「益軒」と名乗った人。同じ一人の人生として見ると、なかなか味わいがあります。(^.^)

◆7 彼を主人公にしたドラマは、制作されていましたか

調べてみました。結論からいうと、貝原益軒を主人公にした本格的な連続テレビドラマ・時代劇は、今回確認できた範囲では見当たりませんでした。

ただし、益軒を主役に据えたテレビ番組は制作されています。

益軒が主人公になった番組

益軒さんの養生訓 - 日本の自然と伝統文化 - 株式会社ツムラ

THE 歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜

益軒が主役

2015年11月27日放送

「老いを楽しむ『養生訓』 貝原益軒」

幼少期の病弱さ、20歳での出仕と浪人、学問への道、妻・東軒との暮らし、晩年の『養生訓』執筆までを紹介しています。BS-TBS公式・番組内容

BS-TBS

【第19章 貝原益軒『養生訓』を読む】節度ある人生を説いた江戸の知恵 | 第1回 なぜ八十歳の益軒は『養生訓』を書いたのか|left_unfiled

偉人たちの健康診断

2017年10月18日放送

「“養生訓”のススメ 江戸の健康名人・貝原益軒」

益軒の健康法を現代医学の視点から検証した番組です。制作会社・番組紹介

TV MAN UNION

でも、私はドラマにするなら別の切り口が面白いと思います

『養生訓』を書いた長寿の偉人、という紹介だけでは、益軒の人生の面白さを取り逃がします。

私なら、こんな構成を考えます。

仮題『損軒から益軒へ――貝原篤信の旅』

  1. 二十歳、藩主の怒りを買う。若き日の挫折。
  2. 浪人七年。長崎、江戸、京都を巡り、学問を深める。
  3. 福岡藩に復帰。藩の歴史と風土を記録する仕事。
  4. 59歳、丹後へ。成相の坂から天橋立を眺める。
  5. 晩年、号を「益軒」と改め、人々に知恵を残す。

そして、丹後の場面では、益軒が成相の坂を上りながら、目の前に広がる景色を見つめる。

天橋立、与謝の海、阿蘇の海、其景言語ヲ絶す。

この一場面を、物語の中盤に置きたいですね。

二十歳の挫折から始まった人生が、六十歳を前に丹後の風景と出会う。

これ、単なる偉人伝ではなく、一人の人間が学び、歩き、見つめ、最後に「益」を残そうとした人生のドラマになります。(^.^)

◆8 益軒さんの旅を見ています、竹生島訪れてらっさいますね、あ、ここ、世界遺産、彦根城よりシンプルに刺さる!と思いましたよ

ああ、竹生島ですか! その感覚、ちょっとわかります。

彦根城は、城郭建築、城下町、政治権力、近世大名の統治……と、価値を説明するにはいくつもの層を読み解く必要があります。

それに対して竹生島は、湖上に浮かぶ一つの島に、自然と信仰と建築が凝縮されている。

島そのものが聖地であり、湖を渡ることが参詣の体験になる。

この構図は、実にわかりやすく、強いですね。

しかも、竹生島は単なる景勝地ではありません。

【空撮!ニッポンの絶景】竹生島|滋賀県 | ニッポン旅マガジン
竹生島に残る豊臣大坂城・極楽橋の唐門 - お城めぐりFAN
竹生島上陸クルーズ 琵琶湖に浮かぶパワースポットへ!<島内自由散策/長浜港発> | 滋賀の観光&遊び・体験・レジャー専門予約サイト VELTRA(ベルトラ)
  • 琵琶湖の沖合約6km、周囲約2kmの島。
  • 宝厳寺と都久夫須麻神社が並び立つ。
  • 弁才天信仰、西国三十三所観音巡礼、水の神への信仰が重なる。
  • 宝厳寺の唐門と都久夫須麻神社本殿は国宝。滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!+1

なお、竹生島はユネスコ世界遺産ではありません。文化庁の「日本遺産・琵琶湖とその水辺景観」の構成文化財であり、国宝・史跡・名勝などの文化財価値を持つ場所です。

日本遺産ポータル

+1

そして、益軒の旅がまた面白い

1689年、益軒は琵琶湖を小舟で竹生島へ渡っています。風が逆で航行が難しかったという記録もあります。つまり、陸から眺めただけではなく、湖を渡って島に入ったのです。

depp-usp.com

ここで、天橋立と竹生島を並べてみたい。

天橋立竹生島
海に伸びる砂州湖に浮かぶ島
山・川・海の営み湖・島・水の信仰
人が歩いて渡る船で渡る
景観と人の暮らし聖地と参詣の営み

どちらも、自然の地形そのものが人間の信仰や文化を引き寄せてきた場所です。

そして、ここが私の今日の発見です。

益軒は、成相の坂から天橋立を眺め、さらに琵琶湖では船で竹生島へ渡った。

この人の旅をたどると、名所を訪ねるだけでなく、土地の成り立ち、信仰、暮らしを身体で確かめる旅になっている。

彦根城と竹生島、どちらが世界遺産にふさわしいかという比較とは別に、竹生島が一目で伝える「自然と信仰の結びつき」は、確かに強いものがあります。

いやあ、益軒さん、丹後の案内人としてだけでなく、琵琶湖の案内人としても、なかなかいい仕事をしていますね!(^.^)

◆1 林春斎さんの『日本国事跡考』での、日本三処奇観についての記述の原文がほしいです、可能ですか

可能です!そして、原文が見つかりました。

林春斎(林鵞峰)が寛永20年(1643年)に記した『日本国事跡考』の陸奥国の項にある文章です。

『日本国事跡考』原文

松島此島之外有小島若干殆如盆池月波之景境致之佳與丹後天橋立安藝嚴島爲三處奇觀

OpenHistory

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書き下し文

松島、此の島の外に小島若干あり。殆ど盆池月波の景の如し。境致の佳なる、丹後天橋立、安芸厳島と、此の三処を奇観と為す。

現代語訳

松島には、本島のほかに小島がいくつもある。その景色は、まるで水をたたえた庭池に月の光が波打つようである。景観のすぐれた丹後の天橋立、陸奥の松島、安芸の厳島、この三か所を奇観とする。

ここで注目したい三つのこと

①「日本三景」ではなく「三処奇観」

原文には「日本三景」という言葉はありません。「三処奇観」です。

三つの場所を選び、景観の素晴らしさを評価している。後世の「日本三景」という呼称の出発点とされます。

レファレンス協同データベース

+1

② 記述の中心は松島

文章は松島の島々の景色を描写してから、丹後天橋立と安芸厳島を挙げています。

つまり、三か所の特徴を均等に論じた景観比較論ではありません。松島の記述の中で、三つの奇観を並べたものです。

③「丹後天橋立」という表記

ここが私は気になります。

単に「天橋立」ではなく、「丹後天橋立」と記している。

天橋立が丹後という土地に属する名所として認識されていたことが読み取れます。

もう一つ、重要な史料があります

寛永20年の林春斎の記述から46年後、貝原益軒が元禄2年(1689年)に天橋立を訪れています。

『己巳紀行』には、成相寺へ登る坂の途中から、

此坂中より天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶ス、日本の三景の一とするも宜也

と記されています。

レファレンス協同データベース

+1

こちらは実際に現地を訪れ、天橋立、文殊、与謝の海、阿蘇の海を一望した人の評価です。

私は、この二つを並べることに意味があると思います。

  • 林春斎:遠くから日本の名所を選び、三処を奇観と評価した。
  • 貝原益軒:現地に立ち、山上から丹後の景観全体を眺め、その価値を実感した。

1643年の「三処奇観」から、1689年の「日本の三景」へ。

天橋立が全国的な名所として位置づけられていく過程を考えるうえで、重要な二つの記録です。

なお、今回確認できたのは原文の引用を掲載する資料です。『日本国事跡考』の初版本そのものの画像と、句読点・異体字を含む厳密な校訂本文までは未確認です。研究資料や正式な引用に使う場合は、『松島町史』資料編二などの翻刻と照合するのが確実です。

この原文、天橋立の文化史を語るうえで、ぜひ手元に置いておきたい一節ですね。(^.^)

※日本三処奇観めぐりの旅なら、日本語現地ツアーも選択肢です。

◆2 松島此島之外有小島若干殆如盆池月波之景境致之佳與丹後天橋立安藝嚴島爲三處奇觀、ですね、さらに、天の橋立と厳島について、寸評があるということです、そこを知りたいです探してくださいな

なるほど! 今回は、先ほどの「三処奇観」の一文だけでなく、林春斎が『日本国事跡考』の別の箇所で、天橋立と厳島そのものをどう記述しているか、ということですね。

調べてみると、まず大事な手掛かりが見つかりました。京都大学附属図書館には『日本国事跡考』のデジタル画像があり、問題の「三処奇観」の記述は、全80画像中の47頁に当たる箇所に確認できます。

tanamori.blog.shinobi.jp

+1

ただし、これは陸奥国の項にある松島の説明です。ここだけを読んでも、天橋立・厳島それぞれへの寸評までは分かりません。

追加調査で分かったこと

現時点で確認できた範囲では、次のように整理するのが正確です。

1. 松島については具体的な描写がある。 「此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景」――島のほかに小島がいくつもあり、その景色は、池に月の光が波打つようだ、と描いています。

2. 天橋立と厳島については、この一文では固有の景観描写がない。 「與丹後天橋立安藝嚴島爲三處奇觀」は、丹後天橋立と安芸厳島を松島と並べて、三か所を奇観とする、という評価です。天橋立の砂州や松並木、厳島の社殿や海上の鳥居について、ここでは何も説明していません。

tanamori.blog.shinobi.jp

+1

3. 別の箇所に個別の寸評があるかどうかは、まだ確認できていません。 京都大学のデジタル画像はこちらです。 京都大学附属図書館『日本国事跡考』47頁の画像

また、宮島側の歴史研究を紹介する国立国会図書館レファレンスには、林春斎の記述が「わずかな記述」であったことが、その後「日本三景」として独り歩きした、という研究者の指摘も紹介されています。

レファレンス協同データベース

ここが面白いところです

春斎は、松島については目に浮かぶような描写をしているのに、天橋立と厳島は名前を挙げるだけで、同じ「奇観」に並べています。

つまり、この文章だけからは、三つを同じ理由で評価したのか、それぞれ異なる魅力を認めたのかさえ分かりません。

私は、ここを曖昧にしたまま「日本三景の始まり」と片づけたくないですね。

春斎は、なぜこの三つを選んだのか。天橋立と厳島について、彼は何を知っていたのか。

ここを解くには、京都大学の原本画像で丹後国・安芸国の記述を直接確認する必要があります。今回の検索では、その個別の寸評を裏付ける原文までは発見できませんでした。もし「寸評がある」と書かれた資料や文章をお持ちなら、そこを手掛かりに原本の該当箇所を追いかけたいです。知りたいのは、むしろ次のことです。

  1. 天橋立をどこから眺め、何を見ていたのか。
  2. 成相寺、府中、文殊、阿蘇海、与謝の海をどう結びつけて記述したのか。
  3. 丹後の山や海、集落、産業について何を記録したのか。
  4. 旅人としての益軒の目に、丹後はどんな土地として映ったのか。

特に3番が面白い。景観だけでなく、そこで暮らす人々の営みまで記録しているなら、これは丹後の17世紀の姿を知る貴重な窓になります。、、ここをくださいな

これは面白い資料です。調べ直して、まず書名と旅の記録の関係を整理できました。

貝原益軒の元禄2年(1689)の旅については、研究論文では『西北紀行』と呼ばれ、天橋立の眺望を紹介する宮津市の資料では『己巳紀行』の「丹波丹後若狭紀行」として引用されています。神戸大学所蔵の版本は『諸州巡覧記 西北紀行』で、正徳3年(1713)刊、正徳6年(1716)印です。したがって、旅をした年と、現在読める版本の刊行年は区別しておきましょう。

貴重書・特殊コレクション

+2

そして、益軒の記録を読むうえで大切なのは、彼が単に「天橋立を見に来た観光客」ではなかったことです。地理・産業・自然・社寺・旧跡を観察し、記録する博物学的な旅人でした。研究論文も、益軒の紀行文には産業や地理の写実的な記述と、自然美・社寺旧跡の名所案内的な記述が併存すると評価しています。

武蔵野学院

1. 天橋立をどこから眺め、何を見たのか

天橋立を一望できる宮津の古刹・ 成相寺|宮津市広報

miyazu-city.note.jp

益軒が感嘆したのは、府中から成相寺へ登る本坂道の途中です。

宮津市が紹介する本文は次のとおりです。

中村(成相乃麓也)より観音堂まで十六町の坂をのぼる。其路甚嶮峻にて、輿馬の往来也かたし。
(中略)
此坂中より、天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶す、日本の三景の一とするも宜也。

つまり、

  • 天橋立
  • 切戸の文殊
  • 天橋立の東西に広がる与謝の海
  • 阿蘇の海

この四つを、眼下に一望したのです。

宮津市ホームページ

+1

ここで大事なのは、益軒が天橋立の松並木だけを見ていないことです。

二つの海を隔てる砂州、その両側の水面、文殊の寺院、そしてそれらを取り囲む地形を一つの景観として見ている。

これは、安田さんが大切にされている「山・川・湾・砂州の関係から天橋立を見る」という考え方にも通じますね。

2. 成相寺・府中・文殊・二つの海の関係

益軒の旅の記述からは、景観だけでなく、参詣と交通の関係も読み取れます。

府中から成相寺へ登る道は、かなり険しい。

十六町の坂道で、輿や馬の往来も難しいと書いています。つまり、成相寺参詣は、簡単な物見遊山ではありませんでした。身体を使って山を登る旅だったわけです。

宮津市ホームページ

一方、宮津から文殊へ行く交通については、益軒の『己巳紀行』に、

宮津から文珠へ出るには、舟にてゆけば一里に近し、陸行すれば坂ありて遠し。

という記述が紹介されています。

宮津市ホームページ

これは興味深いですね。

文殊は、宮津の城下と天橋立を結ぶ水上交通の結節点だった。陸路より船の方が便利だったのです。

つまり当時の天橋立周辺は、

  • 府中から成相寺へ向かう山の参詣道
  • 宮津から文殊へ向かう船の道
  • 文殊から天橋立へ渡る道
  • 阿蘇海と宮津湾を行き来する水域

が重なり合う場所だったと考えられます。

天橋立は、眺めるだけの名所ではなく、参詣と交通の舞台でもあったのです。

3. 丹後の山・海・集落・産業について

ここは、安田さんが一番知りたいところですね。

まず、確認できたことと、まだ原文を確認できていないことを分けます。

益軒の紀行文についての研究では、自然景観や社寺旧跡だけでなく、産業や地理についても写実的な記述があることが特徴とされています。後世の名所図会に通じる案内的な性格も持っていたと評価されています。

武蔵野学院

また、江戸時代の旅日記を比較した宮津市の調査では、旅人がどの道を通ったか、何を食べ、どこに泊まり、何に関心を持ったかが分かるとされています。ただし、ここで紹介されているのは益軒の記録だけではなく、複数の旅日記を含む調査です。

宮津市ホームページ

現段階では、益軒の丹後の記述から、次の項目を個別に抜き出して確認する必要があります。

調べたい対象読み取りたいこと
山・峠・河川地形、道の険しさ、移動の難所
海・港・船船の往来、海上交通、港の役割
集落・町家並み、人口の集まり、宿泊・商業
農業田畑、作物、土地利用
漁業・海産物漁の様子、魚介、加工・流通
社寺・信仰参詣者、寺社の立地、地域との関係

ここは正直に言うと、今回確認できた二次資料だけでは、益軒が丹後でどの魚を見たとか、どの農産物を記したとか、具体的な産業の記述までは確定できません。

神戸大学の公開資料には、45丁の原本画像があります。書誌情報だけでなく、本文を一丁ずつ読んでいく必要があります。

貴重書・特殊コレクション

+1

神戸大学『諸州巡覧記 西北紀行』原本画像

4. 益軒の目に丹後はどう映ったのか

ここまでの記録から、私なりに三つの特徴を感じます。

第一に、丹後は遠いけれど、訪ねる価値のある土地だった。

益軒は京都から宮津まで約150キロを歩き、3泊4日で到達したと、宮津市の資料は紹介しています。60歳前後の旅です。

宮津市ホームページ

第二に、丹後は山と海が近接し、移動そのものが土地の特徴を教える場所だった。

成相寺への急坂、宮津から文殊への船路。陸と海で移動の仕方が変わります。地形が人々の暮らしや交通を決めていたことがうかがえます。

第三に、丹後は名所だけでなく、地理・産業・歴史を観察する対象だった。

益軒は単に景色に感動して終わる人ではありません。見たものを記録し、土地を理解しようとする知識人でした。

ここから、もう一段掘りたい

「天橋立図」二上西州画 丹後宮津大和屋幸次郎蔵板 1枚|古地図 木版画 和本 絵図|Yahoo!フリマ(旧PayPayフリマ)

paypayfleamarket.yahoo.co.jp

私が今回、特に面白いと思ったのは、益軒の記述を読むときに、天橋立を「景観」としてだけでなく、丹後の暮らしを結ぶ場所として見直せることです。

林春斎の「三処奇観」は、名所を選ぶ視線でした。

それに対して益軒の紀行は、道を歩き、坂を登り、船の便利さを知り、目の前の景色を記録する視線です。

そして、安田さんが関心を持っている3番――山・海・集落・産業――を本当に明らかにするには、神戸大学の45丁を読み通し、丹後に関する記述を拾い出すのが次の仕事です。

「絶景を見た人」の記録から、「その土地で人々がどう生きていたか」を読み取る。

これができれば、17世紀末の丹後を、天橋立を中心とした一つのエコミュージアムのように描けるかもしれませんね。(^.^)

日本三景を決定づけたのは貝原益軒さん、そのアングルは、成相ビューだった、文殊玄妙ビューではなかった、、これは大きいですよ(^.^)

これは大きい!!(^.^)

しかも、単に「どこから眺めたか」という話ではありません。天橋立を日本三景の一つとして評価した、その視点の位置が成相だったということです。

少し整理してみましょう。

  • 成相ビュー:山上から、天橋立・文殊・与謝の海・阿蘇海を見渡す。砂州を二つの海や周囲の地形との関係で捉える俯瞰の視点。
  • 文殊ビュー:砂州の入口に立ち、松並木や海、寺院、往来する人々との関係を感じる。天橋立の内部に身を置く視点。
成相寺 | 全国観光資源台帳(公財)日本交通公社
【京都天橋立】恋愛成就・学問祈願・願望成就が叶う五つの神社・寺を紹介!|ayano-matsumura
天橋立 | まるごと北近畿
天橋立を一望できる宮津の古刹・ 成相寺|宮津市広報
成相寺パノラマ展望台の夜景写真| 夜景ワールド
天橋立 飛龍観 天橋立ビューランドより ブラタモリでも

益軒の記録で決定的なのは、次の一節ですね。

此坂中より、天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶す、日本の三景の一とするも宜也。

ここでは、天橋立だけでなく、文殊と二つの海を一望したことが評価の根拠になっています。

ただし、一点だけ慎重に。益軒が「日本三景」を最初に決定した、とまでは言い切れません。林春斎の1643年の「三処奇観」が先行しています。益軒の役割は、実際に現地に立ち、その眺望を「日本の三景の一」と明示的に評価したことにあります。

そして、ここから面白い問いが生まれます。

天橋立の価値を世界に説明するとき、私たちはどの場所から天橋立を見せているのか。

飛龍観、文殊、傘松、成相。眺める場所によって、見えてくる天橋立は違います。

益軒が選んだのは、成相からの俯瞰でした。

これは、安田さんが大切にしている「天橋立は山と海が育てた」という見方と響き合います。

私は、こんな言葉を置いてみたい。

「日本三景・天橋立は、松並木の美しさだけで選ばれたのではない。二つの海と、それを結ぶ砂州が織りなす大きな風景として見いだされた。」

成相ビューは、天橋立を「点」ではなく「関係」で見る視点だったのかもしれません。これは世界遺産を考えるうえでも、掘る価値がありますね。

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単純なことかもしれません、まだ開発されていなかった!!

ああ!! そこですか。(^.^)

それは、かなり重要な仮説ですね。

益軒が成相寺への坂道から眺めた17世紀末の天橋立は、まだ近代的な観光開発も、現在の道路網も、展望施設もない時代です。

つまり、彼の目に入ったのは、

  • 人工的に整えられた展望空間ではない山の斜面
  • 自然の地形の中に横たわる天橋立
  • 阿蘇海と宮津湾(与謝の海)
  • 府中や文殊の集落と寺社
  • それらを結ぶ海と陸の交通

だったのでしょう。

ただし、当時も成相寺は信仰と参詣の場として成立していましたし、山道も人の手が入っていました。「人の手が入っていなかった」のではなく、現代の観光開発によって切り取られる前の、生活と信仰の中にある風景だった、と考えるのがよさそうです。

そして、ここが面白い。

益軒は、開発された展望台から天橋立を見たのではない。険しい参詣道を登り、その途中で、山・海・砂州・集落が一体となった風景に出会った。

もしかすると、成相ビューの価値は、眺望の高さだけではなく、そこへ至る道のりも含めて成立していたのかもしれません。

「まだ開発されていなかったからこそ、天橋立を取り巻く風土全体が見えた。」

この仮説、世界遺産を考えるうえでも大事にしたいですね。

天橋立方面の旅程づくりには、航空券+ホテルのセットが便利です。

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いえ、文殊側の現妙庵ビューが、開発されていなかった、知恩寺の墓山だったのでは内でしょうか!!

8s考えました

ああ、そういうことでしたか!! 私が取り違えていました。失礼しました。(^.^)

おっしゃっているのは、文殊側の現在の玄妙庵から見る眺望、その場所が益軒の時代には、観光用に整備された展望地ではなく、智恩寺の墓山だったのではないか、ということですね。

これは、成相ビューとの比較を考えるうえで大事な指摘です。

少し調べると、玄妙庵の由緒に興味深い記述があります。

玄妙庵の公式サイトによれば、明徳4年(1393)、足利義満が文殊参詣をした際、丹後守護の一色満範がこの地に亭舎を設けて迎えたと伝えられます。その後、禅行の修場に使われ、「玄妙庵」と呼ばれるようになったとのことです。また、成相寺古図には四阿の亭舎が描かれ、「古堂、座禅所なり」と記されているといいます。智恩寺古図にも亭舎が描かれているそうです。

genmyoan.com

つまり、少なくとも玄妙庵の場所は、益軒が訪れた1689年より前から、何らかの建物・宗教的な用途を持つ場所だった可能性が高い。

ただし、「智恩寺の墓山だった」という点は、まだ裏付ける史料を確認できていません。 ここは古図や寺領関係の資料で確かめたいところです。

ここで比較すると面白い

【 美しさ Lv2.0 】  成相寺パノラマ展望台の夜景| 夜景ワールド

成相ビュー

益軒が実際に登った参詣道の途中からの眺望。山を登る身体経験と、眼下に広がる二つの海・砂州の大景観。

玄妙庵|天橋立|旅館|旅色

玄妙庵ビュー

文殊側の高台からの眺望。中世以来の亭舎・禅行の場という由緒が伝わる場所。

そして、ここに安田さんの仮説を重ねると、

益軒が日本三景の一つと評価したのは、文殊側の現在の観光展望地からではなく、成相寺への参詣道からだった。

この違いは大きいですね。

ただし、玄妙庵の場所が当時「墓山」であったか、また当時どの程度樹木や建物に遮られていたかは、別途確認が必要です。

私が次に見たいのは、智恩寺の古図と成相寺古図です。玄妙庵の亭舎の位置、墓地の位置、当時の地形・植生が分かれば、益軒がなぜ成相からの眺望を特筆したのか、もう一段踏み込めます。

眺望の優劣ではなく、17世紀の人が、どこから、どんな風景を見ることができたのか。

これは、天橋立の景観史を掘るうえで、実にいい問いです。

文殊側ビューの話に関連する宿泊施設の選択肢です。

Agoda.com

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小旅慢行

¥8,361

4.25

慢 生活屋

¥3,800

4.13

小魷魚輕旅

¥6,038

4.52

御宿商旅 後驛館

¥4,561

4.02

步步精心

¥7,634

4.73

本坂コースこそ日本三景体感コース、、これはエコツアーには頂き物です(^.^)

ははは!! これは確かに、いいものを掘り当てましたね!(^.^)

「本坂コースこそ、日本三景体感コース」

単なる成相寺への参詣道ではなく、貝原益軒が実際に歩き、その眺望を「日本の三景の一とするも宜也」と評した道です。

エコツアーとしての魅力は、三段階にあります。

  1. 歩く――益軒と同じように、険しい坂道を自分の足で登る。
  2. 出会う――途中で天橋立、文殊、与謝の海、阿蘇海が視界に入る。
  3. 読み解く――なぜここからの眺めが、300年以上前の旅人を感嘆させたのかを考える。

そして、ツアーの決め手は、展望地に着いてからの一言でしょう。

ここが、貝原益軒が日本三景の一つとするのももっともだ、と記した眺望です。さて、皆さんには何が見えますか?

すぐに解説を始めない。まず自分の目で見てもらう。

これは、安田さんの「見えないものをみる、それがSSH」にも通じます。

ツアー名の案:

益軒の道を歩く

本坂・日本三景体感コース

歩いて、眺めて、300年前の旅人の目を追体験する。

ただし、実施に向けては本坂の現況、通行可否、危険箇所、所有・管理者、ガイドの安全体制を確認する必要があります。

いやあ、これは名所を案内するツアーではありませんね。

日本三景が生まれた視点を、参加者自身の身体で発見するツアーです。

「数珠珠」がまた一つ増えましたね!(^.^)

こちらもいかがですか?

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益軒さんは、さらに元成相寺、大観望まで上がられたのでしょうね、京から三泊の旅で見えた健脚ですから!!

いやあ、健脚ですねえ!!(^.^)

京都から宮津まで約150キロを3泊4日。しかも益軒は、宮津に着いて天橋立を眺めただけではありません。

宮津市の資料によると、益軒は府中から成相寺へ向かう本坂道を登り、途中の眺望に感嘆しています。記録には、中村(成相の麓)から観音堂まで十六町の険しい坂を登った、とあります。

宮津市ホームページ

+1

つまり、少なくとも成相寺の観音堂まで登ったことは、文章から読み取れます。

ははは、60歳前後で150キロ歩き、さらに成相山へ登る。まさに「夢老い人」の大先輩ですな!(^.^)

ただ、記録を読むと、もう少し面白いことが分かります。

益軒はどこまで登ったのか

『己巳紀行』の引用には、

中村(成相の麓なり)より観音堂まで十六町の坂をのぼる

とあります。十六町は約1.75キロ。しかも益軒は、その坂を「甚だ嶮峻」と記しています。ここから、観音堂、つまり成相寺の堂宇まで登ったことは確認できます。

宮津市ホームページ

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一方、現在の成相山山頂付近にあるパノラマ展望台は、成相寺からさらに約1キロ上がった場所です。

京都府観光連盟公式サイト

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したがって、現段階では、

  • 本坂道を登り、益軒観展望所付近から眺望を得た。
  • さらに成相寺の観音堂まで参詣した。
  • その先の山頂や、現在の大観望に相当する場所まで行ったかは、記録からは未確認。

という整理が正確です。

ここでツアーの構想が広がります

京都、丹後宮津の成相山から、夏の天橋立ビュー。|地域の風・京都
第二十八番 成相寺 : 西国三十三所
成相山 成相寺|みにたま
�y�����R���W�]��@�ٓV�R�W�]��z�A�N�Z�X�E�c�Ǝ��ԁE������� - ������net
【京都天橋立】恋愛成就・学問祈願・願望成就が叶う五つの神社・寺を紹介!|ayano-matsumura

本坂道を歩き、益軒観展望所で眺め、さらに成相寺まで登る。

これなら、益軒の旅をなぞるだけでなく、**「眺望に感動した旅人が、その先にある聖地へ向かった」**という体験になります。

そして、もし大観望まで足を延ばせば、益軒が見た景色と、現代の私たちが見る広域パノラマとの比較もできます。

私は、ツアーの中心はあくまで本坂道と益軒観展望所に置きたい。大観望は健脚組の追加コースにする。そうすれば、参加者の体力差にも対応できます。

ただし、益軒自身が大観望まで登ったかどうかは、原本の行程記述をさらに確認したいですね。ここは歴史の事実と、現代のツアーの楽しみを分けておきましょう。(^.^)

※本坂コースのようなツアー運営に、旅行事業者向け管理ソフトもあります。

◆1 地元出版社から、天の橋立百人一首 という労作が編集出版されていますね、情報と評価くださいな、

おお、これは見逃せませんね!

調べてみると、正式な書名は 『天橋立百人一首』、副題は「撰歌集」。しかも、単に地元の方が百首を集めたというだけではありません。昭和63年(1988年)に刊行され、宮津の出版社「あまのはしだて出版」から世に出た、地域の文学文化を掘り起こす仕事です。

そして、驚いたことに、2026年の今も、この本をめぐる展示が続いています。まず、確認できた事実を整理します。

宮津市ホームページ

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1. 『天橋立百人一首』とは

  • 刊行:1988年(昭和63年)
  • 選歌:丹後歌人会
  • 監修:天橋立百人一首の会
  • 書:岡村鬼城、小滝紫水
  • 絵:栗田美也子
  • 解説:上田博章、宮崎龍太郎
  • 出版社:あまのはしだて出版(宮津)
  • 構成:69ページ、22cm判

宮津市の説明によると、丹後歌人会が、天橋立を詠んだ膨大な和歌の中から100首を選び、歌集と「かるた」として刊行したものです。平安時代から現代まで、著名な歌人の作品が収められています。

宮津市ホームページ

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また、1989年に第2版、1990年に第3版、1996年に第4版が確認できます。少なくとも複数回版を重ねた地域出版物です。

天橋立百人一首 : 撰歌集

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2. この本の価値は、百首を選んだことだけではない

私が注目したいのは、選歌の時間幅です。

平安時代から現代まで。つまり、天橋立が一時代の流行として詠まれたのではなく、長い時間をかけて人々の文学的な記憶の中に生き続けてきたことを、一冊にまとめようとしたわけです。

しかも、歌だけではありません。

  • 和歌を選ぶ丹後歌人会
  • 文字を表現する書家
  • 歌の世界を視覚化する画家
  • 全体を監修する「天橋立百人一首の会」

文学、書、絵、地域の文化活動が一つになっています。

これは、歌枕文化を単に研究対象として保存したのではなく、地域の人々が楽しみ、伝え、次の人に手渡せる形にした仕事だと思います。

3. ここが面白い!百首を同じ性質の歌として扱ってはいけない

宮津市の文学碑紹介を読むと、天橋立をめぐる歌には、かなり違う性格があることがわかります。

宮津市広報

歌・人物天橋立との関係
小式部内侍母のいる丹後を思いながら、実景を見ずに詠んだ歌
松尾芭蕉天橋立を訪れた記録はなく、別の場所で詠んだ句が後に塚として顕彰された
与謝野寛・晶子実際に宮津を訪れ、廻旋橋や海の景色を詠んだ
昭和天皇1951年の行幸時に実景を詠んだ

ここに、歌枕文化を考えるうえでの重要な区別があります。

① 実際に見て詠んだ歌 ② 見ずに、土地のイメージを詠んだ歌 ③ 先行する文学や人物への憧れを重ねた歌 ④ 後世の人々が、その土地と結びつけて顕彰した歌

この四つは、同じ「天橋立を詠んだ歌」でも文化的な意味が異なります。

例えば、小式部内侍の歌は、天橋立を実際に見ていないからこそ、歌枕としての天橋立の力を示しているとも読めます。

一方、与謝野晶子の歌には、実際に動く廻旋橋や、目の前の景観への観察があります。

この二つを並べるだけでも、天橋立の文化史が立体的になりますね。

4. 世界遺産の目線での評価

私の評価を三つに分けます。

高い

地域文化の記録・継承として

長い時間にわたる和歌を選び、書と絵を添え、歌集とかるたにして地域に残した。これは地域文化の継承という点で意義があります。

重要

天橋立の文化的景観を理解する資料として

人々が天橋立をどう想像し、訪れ、表現してきたのかを調べる入口になります。

要検証

世界遺産の顕著な普遍的価値の証明として

百首の存在や刊行だけでは、世界的な価値の証明にはなりません。他地域との比較、文学史上の位置づけ、景観との関係、影響の広がりなどを明らかにする必要があります。

つまり、この本は世界遺産の価値を直接証明する資料というより、その価値を検証するための重要な地域資料と評価するのが適切だと思います。

5. 私なら、この本をもう一段掘ります

ここからが、安田さんの「掘る・繋ぐ・問い返す」の出番です。

百首を次のような視点で読み直してみたい。

調べること見えてくるもの
詠まれた年代天橋立のイメージの変遷
歌人の居住地・訪問歴都と丹後の文化交流
詠まれた景物松、砂州、海、山、橋、雪など
歌の主題恋、旅、郷愁、自然美、信仰など
本歌取り・先行歌との関係歌枕としての記憶の継承
絵画・庭園・歌碑との関係文学から他の芸術への展開

これをやると、単なる百首の鑑賞集から、天橋立の文化史を読み解く資料へと発展します。

そして、もう一つ大切なことがあります。

この百首は、天橋立を詠んだ歌のすべてではありません。

誰が何を基準に百首を選び、何を選ばなかったのか。そこにも編集者たちの天橋立観が表れているはずです。

6. そして、今まさに続いている仕事

実は、宮津市は2025年に旧三上家住宅で栗田美也子さんの原画展を開催し、さらに2026年10月8日から11月1日まで、旧尾藤家住宅で原画展を開催しています。今日が10月31日ですから、会期は明日までですね。

宮津市ホームページ

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しんのすけのはらさんの投稿|天橋立京都府宮津市文珠天橋立はその名のとおり、白い砂と約6,700本の松でできており、その美しい姿は古くから多くの人々に愛されてきました。 また、二つの海を分けるようにしてある松並木が珍しい景色でもあ|【天橋立ケーブルカー】【天橋立ビューランド】|日本の魅力発信インバウンドSNS「クールジャパンビデオ」

この展開も興味深い。

1988年に地域の人々が編集・出版した本が、約40年後に、原画展という形で改めて紹介されている。

歌を選んだ人、書いた人、描いた人、出版した人、展示を企画する人。文化は、こうして受け継がれていくのですね。

私の評価を一言で

『天橋立百人一首』は、天橋立が自然景観から文学的な共有イメージへと育ってきた歴史を考えるうえで、非常に大切な地域の仕事です。

ただし、私はこの本を「完成した天橋立文化の答え」とは見ません。

むしろ、ここから問いが始まる。

なぜ、遠く離れた都の人々までが、天橋立を知り、詠み、憧れたのか。

その憧れは、実際の天橋立をどのように変えて見せたのか。

そして、その文学的なイメージは、丹後の人々の暮らしや地域への誇りに、どのように返ってきたのか。

これを追いかけてみたい。

天橋立は、歌に詠まれた名所であるだけではない。人々が歌に詠むことによって、さらに名所になっていった場所ではないか。

私は、ここに世界へ伝えるべき文化の物語の一つがあると思います。

そして、ぜひ一度、この『天橋立百人一首』の現物を手に取ってみたいですね。百首そのものだけでなく、選歌の解説や配列、栗田さんの絵も含めて読みたい。そこに、編者たちが描いた天橋立の姿があるはずです。(^.^)

こちらもいかがですか?

◆2 歌会始というようにこの歌会というシステム、歌文化は、さすがに言霊の幸う国、日本酒が世界なんちゃら遺産に選ばれた、それと同じように評価できる、百人百様の表現の楽しさは文句なし、言葉も育つ、教養ジャよ、歌枕という形だピントがピタと当たてるからできること、国を代表する名所といっても、、68カ国の国の一つですから日本という国を代表するわけでもないじゃない、それを割り引いても素敵な文化ですね!、

いやあ、今のお話で、歌枕文化の評価軸が一つ見えてきましたね。(^.^)

私は、特に 「歌枕という形だからピントがピタと当たる」 というところに注目しました。

これは面白い指摘です。

1. 歌会という文化の仕組み

歌会は、単に歌の上手な人が集まって作品を披露する場ではありません。

共通のお題を持ち、限られた言葉と形式の中で、それぞれが自分の感情や発見を表現する。

そこには、

  • 共通のお題があるから、互いの表現を比べられる。
  • 同じ題材でも、百人百様の見方が生まれる。
  • 人の歌を聞くことで、自分の言葉や感性も磨かれる。
  • 世代を超えて、表現の蓄積が受け継がれる。

という仕組みがあります。

これは一種の文化的な学びの場ですね。

歌枕は、その共通のお題を土地の名前によって提供する。

「天橋立」と聞けば、松、海、砂州、遠望、旅、憧れ、恋、郷愁……さまざまなイメージが立ち上がる。

それを共有しているからこそ、歌人は限られた言葉で豊かな表現ができる。

歌枕は、土地の名前を文化の共通言語に変える仕組みだった。

これは、なかなか重要な見方だと思います。

2. 日本酒の文化との比較も興味深い

ちなみに、2024年にユネスコ無形文化遺産に登録されたのは「伝統的酒造り」です。日本酒だけでなく、焼酎や泡盛なども含む、日本の伝統的な酒造りの技術・知識・実践が対象です。

歌文化との共通点は、完成品だけではなく、それを生み出す人間の営みや、知識・技術・社会的な継承に価値を見いだすところです。

ただし、歌会文化と酒造りは、制度上の登録対象も評価基準も異なります。そこは区別しておきたいですね。

3. そして、安田さんの「68カ国の一つ」という指摘

ここも大切です。

日本国内で名所として知られていることと、世界の中で顕著な普遍的価値を持つことは別です。

天橋立が日本を代表する名所の一つであっても、それだけで世界を代表する価値が証明されたわけではありません。

しかし、逆に言えば、天橋立の文化を日本の代表として過剰に背負わせる必要もない。

丹後という一地域で育まれた文化が、どのように日本の文学文化と結びつき、どのような独自性を持ったのか。

その説明で十分に研究する価値があります。

4. 私がもう一つ加えたいこと

歌枕は、土地を詠む文化であると同時に、土地を読む文化でもあったのではないでしょうか。

同じ天橋立を見ても、ある人は松を詠み、ある人は海を詠み、ある人は恋を詠み、ある人は旅の心を詠む。

つまり、自然景観は一つでも、人間の受け止め方は一つではない。

これは、私たちが話してきた「見えないものをみる」にも通じます。

そして、ここに一つ、現代への展開が考えられます。

昔の歌人が天橋立をお題に歌を詠んだ。今度は、子どもも、農家も、漁師も、旅人も、それぞれの天橋立を詠んでみる。

上手な歌を競う必要はありません。土地をよく見て、自分の言葉を探す。それ自体が文化の継承になります。

『天橋立百人一首』を、過去の百人の作品集として読むだけでなく、次の百人が生まれるきっかけにする。

これは、世界遺産運動とは別の意味でも、実に豊かな取り組みだと思います。

名所を守るだけでなく、名所を詠む人を育てる。

夢老い人も、一首くらい詠んでみますかね。(^.^)

◆3 ありがとう、時代をまたいで、数千首から百首の厳選ここが労作の所以!

そうです、そこです!!!(^.^)

『天橋立百人一首』の労作たる所以は、百首を集めたこと以上に、時代をまたいで詠み継がれてきた数千首の中から、百首を選び抜いたことにありますね。

そこには三つの仕事があります。

  1. 発掘する――古今の歌を探し出す。
  2. 選ぶ――何を天橋立の歌として残すのか、判断する。
  3. つなぐ――時代も身分も表現も異なる歌を、一つの歌集に編み直す。

そして、選歌には必ず編集者の天橋立観が表れます。

何を選び、何を選ばなかったのか。どんな天橋立の姿を後世に伝えようとしたのか。

これは、まさに文化の編集作業です。

私なら、この本をこう紹介したい。

「数千首の歌に刻まれた天橋立への思いを、百首に凝縮した、丹後の人々による文化の結晶」

そして、もう一つ。

百首は終着点ではありません。

1988年に選ばれた百首を、今の私たちが読み直す。さらに未来の人が新しい百首を選ぶ。

歌枕は、過去の記憶であると同時に、未来の表現を生む土壌でもある。

いやあ、これは大切に扱いたい一冊ですね。選んだ百首だけでなく、選んだ人々の志も含めて。

◆4 映像時代、おおきな落とし穴があります、それだけに、「言葉」は貴重です!!

そうですねえ。これは、かなり大切な指摘だと思います。

映像は一瞬で人を引きつけます。美しい天橋立、夕日に染まる海、松並木、ドローンからの絶景。説明しなくても「きれいだな」と伝わる。

しかし、そこに落とし穴がある。

見たつもりになって、考えなくなることがある。

映像は風景を見せてくれますが、なぜそこにあるのか、誰が何を感じてきたのか、何を見落としているのかまでは、必ずしも伝えてくれません。

一方、言葉には違う力があります。

  • 見えないものを想像させる。
  • 一つの風景に複数の意味を与える。
  • 時代を越えて記憶をつなぐ。
  • 自分自身の考えを育てる。

歌枕は、その典型かもしれません。

「天橋立」というわずかな言葉から、遠く離れた人々がそれぞれの風景を思い描き、歌を詠んだ。

映像が同じ景色を共有させる力を持つなら、言葉は一人ひとりに異なる景色を生み出す力を持つ。

私は、こう言いたいですね。

映像は風景を見せる。言葉は風景の奥へ連れていく。

そして、安田さんが大切にしてきた「見えないものをみる、それがSSH」。

映像時代だからこそ、言葉を育てることが必要なのかもしれません。

天橋立を世界に伝えるときも、絶景映像だけで終わらせない。

見た人が、思わず誰かに問いかけたくなる言葉を残す。

それが文化を伝えるということではないでしょうか。(^.^)

◆5 わたしの一押し句!

① 橋立の 文殊に暮れて ご詠歌の 母の背による ちさき子なりし  真下飛泉

② 与謝の海や 底まで温む 春潮に 海月の体 透きて流らう  四賀光子

③ わかめ刈る 与謝の入り海 かすみぬと 海士にはつげよ 伊根の浦風  鴨長明

おおお、三首ともいいですねえ!!!
しかも、三首の選び方に、安田さんの天橋立の見方が表れているように思います。

私には、この三首はそれぞれ違う世界を開いてくれます。

① 真下飛泉

橋立の 文殊に暮れて ご詠歌の
母の背による ちさき子なりし

地域の夏のイベントのお知らせ - 日本三景 天橋立ビューランド

viewland.jp

これは、信仰と人の記憶ですね。

天橋立の名所を詠んでいるようで、実は主役は母と子です。

夕暮れの文殊堂、ご詠歌の声、母の背に寄り添う小さな子。

景勝地の説明は一切ない。それなのに、天橋立の文化が見えてくる。

しかも「ちさき子なりし」という結び。大人になった今、幼い日の記憶を振り返っているのでしょう。

天橋立は、観光名所である前に、誰かの人生の記憶の場所だった。

② 四賀光子

与謝の海や 底まで温む 春潮に
海月の体 透きて流らう

Magical moment with Moon jellyfish and Kelp forest | Water Life | British Photography Awards 2022 Shortlist | British Photography Awards

britishphotographyawards.org

こちらは、自然へのまなざし。

「底まで温む」という感覚がいいですね。

春の海の温もりを、海面から眺めるのではなく、海の底まで感じ取っている。

そして海月。

海月の体が透けて、潮に流れていく。華やかな松並木も、雄大な山並みも出てこない。

けれど、海の中にまで目を向けたとき、与謝の海の別の美しさが現れる。

これは、まさに「見えないものをみる」ですね。

③ 鴨長明

わかめ刈る 与謝の入り海 かすみぬと
海士にはつげよ 伊根の浦風

関西の日帰り旅行におすすめのスポット19選!ドライブに人気の穴場は? | NEWT(ニュート)

newt.net

これは、私は特に好きです。

自然と人の営みが一つの歌になっている。

わかめを刈る人がいる。与謝の入り海には霞がかかる。伊根の浦風に、その様子を海士へ伝えてくれと頼む。

風が通信手段になっているんですね。

しかも、海を隔てた人と人のつながりがある。

ここには、観光地としての天橋立ではなく、働く海、暮らす海、つながる海がある。

三首を並べて見えてくるもの

歌私が感じた天橋立
真下飛泉信仰と人生の記憶
四賀光子海の自然と生命
鴨長明海の仕事と人の交流

この三首、実にいい組み合わせです。

そして、三首を通して気づくことがあります。

天橋立そのものを正面から描いている歌は、一首もない。

それなのに、天橋立の世界が見えてくる。

文殊の堂、与謝の海、伊根の浦、母の背、海月、わかめ、浦風。

つまり、天橋立は単独の景勝地として存在するのではなく、信仰、自然、生活、交流の中に息づいている。

これは、安田さんが目指している「天橋立と仲間たち」の世界にも通じます。

私なら、この三首に一つの見出しをつけます。

「天橋立を詠まずして、天橋立を語る」

いやあ、百人一首の中からこの三首を選ばれた理由、少しわかった気がします。

そして、③の鴨長明の歌。これは伊根と上世屋をつなぐ旅の冒頭に置いてもいいですね。海の風が、山の暮らしまで運んでくるようです。(^.^)

◆1 世界に伝えるべき価値とは、名産品そのものではなく、なぜその土地で、それが生まれ、育ち、受け継がれてきたのか、、、そうかあ、、世界遺産は冠島に、橋はない、泳げ、泳いで渡れ、、、と、火明かりの命が夢枕(^.^)

はははは!!!(^.^)

夢枕に立ったのは、火明かりの命ですか。しかも、なかなか手厳しいお告げですね。

「世界遺産は冠島に、橋はない。泳げ、泳いで渡れ!」

これは、なかなか深い(笑)。

ちょっと立ち止まってみましょう。

冠島には、天橋立のような観光客を迎える橋も、土産物屋も、名産品を売る店もありません。人が自由に渡れる場所でもない。そこにあるのは、島そのものと、海と、鳥たち、そして人間が長い時間をかけて結んできた関係です。

だからこそ、問いが生まれます。

  • なぜ人は、この島を特別な場所として見てきたのか。
  • なぜ海を越えて、祭祀や信仰の物語が伝えられてきたのか。
  • 島の自然と人間の営みは、どのように関わってきたのか。
  • その関係は、今どのように受け継がれているのか。

そして、ここが面白い。

冠島と天橋立は、同じ丹後の海にありながら、まったく違う姿をしています。

冠島は海に浮かぶ島。天橋立は海の中に伸びた砂州。けれど、どちらも海と陸、自然と人間の関係を考えさせる場所です。

ただし、冠島の価値を世界遺産として語れるかどうかは、また別の検証が必要です。火明かりの命のお告げだけでは登録できませんからね(笑)。

私なら、今日の夢枕から、こんな言葉を拾います。

「橋がないから、渡れないのではない。橋がないからこそ、渡る意味を問い直す。」

そして、泳いで渡るのは、海ではなく、私たちの思い込みかもしれません。

名産品から風土へ。観光名所から人間の営みへ。天橋立から丹後の海へ。

いやあ、火明かりの命、なかなかいい仕事をなさいますなあ!(^.^)。

◆2 ふふふふ、幾人溺れたことか、それでも飛び込む「夢老い人」よ!!(^.^)

ふふふふ!!(^.^)

溺れても、溺れても、また飛び込む。 それが「夢老い人」ですか!

しかし、ひとつ申し上げたい。

夢を追う人は、夢に向かって泳ぐ。夢老い人は、夢の中にまで泳いでいく。

しかも、ただ泳ぐのではない。 海底をのぞき、潮の流れを読み、島の岩肌を確かめ、岸に戻っては地図を広げる。

ときには溺れる。ときには岸を間違える。 でも、そこで拾ったものが、次の問いになる。

ただし、救命胴衣は着けてくださいよ(笑)。

そして、今日の一節を残しておきましょう。

**橋のない海に、夢老い人は飛び込む。 渡り着く先に、世界遺産があるとは限らない。 けれど、渡ろうとした海の中に、まだ知らない丹後が眠っている。**

いやあ、「夢追い人」ではなく「夢老い人」。 この一字の違いに、人生の深みと笑いがありますなあ。(^.^)

◆3「夢老い人」、、うん、、このイメージでフォークソング、、武田鉄矢と高石友也さん、笠木透さん、三者のミックスイメージでいただけませんか

いただきましょう!!!(^.^)

三人の名前が並ぶところが、またいいですねえ。

ただし、特定の歌手それぞれの歌い回しや作風をそのまま再現するのではなく、そこに通じるフォークソングの魅力――語りかける言葉、土の匂いのする人生観、社会へのまなざし、みんなで歌える力強いサビを合わせてみます。

ギター一本。少ししゃがれた声。最初は独り言のように、最後はみんなで歌う。

『夢老い人』

― 橋のない海へ ―

一番

夢を追うのは 若者だと 誰が決めたか 知らないが 夢を老いても 捨てられず 今日も海辺に 立っている

山を見上げりゃ 雲が行く 川を見下ろしゃ 海へ出る あの山もまた 海の底から 顔を出したと 誰が言う

二番

冠島まで 橋はない 泳いで渡れと 声がする 火明かりの命が 夢枕 おまえは何を 見てきたか

名物だけを 並べても この土地のことは わからない 誰が耕して 誰が織り 誰が海から 魚をとった

サビ

ああ 夢老い人よ まだ見ぬものを 見に行こう ああ 夢老い人よ 溺れた数だけ 海を知る

橋がなければ 橋を問え 道がなければ 道を探せ 明日の丹後は 今日の問い まだまだ これから これからだ

三番

藤を績む手に 山があり 布をまとう手に 海がある 棚田の水は 川を下り 魚のいのちを 育ててる

昔の人が 残したもの 古い名前や 小さな祠 誰も気づかぬ その奥に 世界へ伝える 物語

四番

世界遺産に なるかどうか それだけならば 夢は小さい 子どもたちに 何を渡す どんな丹後を 残してゆく

若いもんには 笑われる 年寄りには 心配される それでも海へ 飛び込むのさ 夢を老いても 夢は老いぬ

最後のサビ(みんなで)

ああ 夢老い人よ まだ見ぬものを 見に行こう ああ 夢老い人よ 溺れた数だけ 海を知る

橋がなければ 橋を問え 答えがなければ 問いを残せ 明日の丹後は みんなのもの まだまだ これから これからだ!

歌のイメージ

  • 前半:ギターのアルペジオ。独り言のように静かに始める。
  • 「冠島まで橋はない」:少し調子を上げ、語り歌にする。
  • サビ:ストロークを強め、仲間が加わる。
  • 最後:「まだまだ、これから、これからだ!」を全員で歌う。

私がこの歌でいちばん大事にしたいのは、ここです。

「夢を老いても 夢は老いぬ」

夢を追いかける若者の歌ではない。長く生きて、失敗もして、溺れた経験もある人間が、それでもなお海へ向かう歌。

そして、夢老い人は一人ではない。

丹後の山にも、海にも、田んぼにも、まだ問いを持っている人がいる。

これは、なかなかいいフォークソングの種になりましたぞ!(^.^)

ギターの音作りやフォークソング制作に、ギタ-リグも一案です。

◆4 hあはh丹後夢老い人、マルヤ農林園・矢野武さんにささげよう!!

はははは!!!それは、歌の行き先が決まりましたね!!(^.^)

『丹後夢老い人』――マルヤ農林園・矢野武さんに捧ぐ。

90歳の矢野さんに、夢を追う若者の歌を贈るのではない。

丹後の土に向き合い、田んぼを守り、自然と折り合いをつけながら生きてきた人に贈る歌です。

そして、矢野さんを単なる「長寿の農家」として歌ってはいけませんね。

歌の主人公は、年齢ではなく、今も丹後の未来に手を伸ばしている人です。

献辞をつけるなら、こんな具合でしょう。

丹後夢老い人

マルヤ農林園・矢野武さんに捧ぐ

夢を老いても 夢は老いぬ

丹後の土に根を張り、明日の風景を夢見る人へ。

それから、これは大事なこと。

矢野さんに歌を聴いてもらうとき、最後にこう尋ねたい。

「矢野さん、まだ夢がありますか?」

きっと、その答えの中に、二番、三番の歌詞が隠れていると思います。

歌を完成させるのは、こちらではない。矢野さんの言葉です。(^.^)

◆5 ああ、曲作りは吉幾三さんにたのもう、、映像は、ブラ丹後花鳥風月さん!

あはははは!!!(^.^)

おお、制作陣まで決まりましたか!

『丹後夢老い人』プロジェクト、始動!!

丹後夢老い人

― 夢を老いても、夢は老いぬ ―

袖志の棚田(丹後) | フォトギャラリー | 海の京都観光圏
  1. 献呈先マルヤ農林園・矢野武さん
  2. 作曲構想吉幾三さんにお願いしたい!演歌の哀愁とフォークの語り、そしてみんなで歌えるサビ。
  3. 映像構想ブラ丹後花鳥風月さん。丹後の山、棚田、海、鳥、人、そして働く手。
  4. 企画・発想丹後の夢老い人たち。

映像は、最初から矢野さんの顔を大写しにしない。

朝の田んぼ、土を踏む足、稲の葉、山から流れる水。鳥の声。

そして、矢野さんの後ろ姿。

最後に、こちらを振り返って、ひと言。

「まだ、やることがあるでな」

……これでギターが鳴り出したら、たまりませんなあ。

ただの記念歌ではありません。

丹後には、まだ夢を老いていない人がいる。

それを映像に残す。歌に残す。次の世代に渡す。

いやあ、世界遺産運動にも、海星公園の20周年にも、こんな人間の物語が必要ですね。(^.^)

◆6 ジョーは死なねえ、、!!

ああああ!!!(^.^)

「ジョーは死なねえ……!!」

そうだ、そうだ!!

夢老い人は、明日のジョーだ。

何度倒れても、何度リングに沈んでも、立ち上がる。

ただし、丹後夢老い人のリングは、ボクシング場じゃない。

山の棚田、海辺の集落、冠島、天橋立。 相手は、老いでも時代でもなく、諦めてしまう心かもしれない。

そして、主題歌の最後は、これで決まりです。

「ジョーは死なねえ! 夢老い人も、まだ終わらねえ!」

矢野武さんに捧げる歌が、いつの間にか丹後の応援歌になってきましたなあ。

燃えろ、丹後夢老い人!!(^.^)

◆1 世界に伝えるべき価値、、、頭の中でもちつきです、オリーブとワインと魚、、、と出てきました(^.^)

はははは!!(^.^) これは面白い餅つきが始まりましたね。

オリーブとワインと魚。

私は、この三つが出てきたことに注目します。単なる名産品の連想ではないかもしれません。

三つとも、土地の自然条件と人間の営みが結びついて生まれるものです。

  • オリーブ:気候、土壌、斜面、栽培技術、人の手入れ。
  • ワイン:ブドウ、土地、気候、醸造技術、食文化。
  • 魚:海流、湾、漁場、魚の回遊、漁法、食文化。
Zeytinciefe - Zeytine Dair Her Şey

オリーブ土地と栽培

Aprender de vinos - Notas de Cata | Los mejores vinos en Perú

ワイン土地と醸造

三重県総合博物館 伊勢志摩サミット開催記念 第11回企画展 伊勢志摩~常世の浪の重浪よする国へ、いざNOW!~

魚海と生業

ここで、私から一つ、餅をつき返します。

世界に伝えるべき価値とは、名産品そのものではなく、なぜその土地で、それが生まれ、育ち、受け継がれてきたのか、ではないでしょうか。

そして、三つを天橋立・丹後に引き寄せると、違う景色が見えてきます。

  1. オリーブは、日置の新しい土地利用と地域の未来。
  2. ワインは、土地の個性を読み取り、農産物に価値を与える文化。
  3. 魚は、丹後の海と人々の暮らしをつないできた歴史。

ただし、ワインについては、丹後の歴史文化との具体的なつながりをこれから探る必要があります。三つを同じ歴史的重みで扱う必要はありません。

そして、ここで思い出すのが、安田さんの「山・田んぼ・海・人々」です。

天橋立は海の景観ですが、その背後には山があり、川があり、田んぼがあり、人々の仕事があります。

オリーブとワインと魚。実は、世界に伝えるべき価値を探すための、三つの入口なのかもしれません。

さて、私はもう一つ、餅をつきたい。

この三つに共通するものは、何でしょう。

私は「風土を食べる」という言葉が浮かびました。

土地の気候や水や土や海を、人間が食べ物に変え、文化として受け継いでいく。

天橋立の世界遺産論に、食文化という窓を開けるのも面白いと思いますよ。(^.^)

◆2 藤布を纏った神さんたちが、鹿肉のジビエでワインをやっている!天の橋立のワインやオリーブには、人間のドラマ、プロジェクトXがあります、世界遺産ワールドは豊かでなくては、とおもいます(^.^)

あははは!! これは一気に世界が広がりましたね!!(^.^)

藤布を纏った神さんたちが、鹿肉のジビエでワインを楽しんでいる。なんとも丹後らしい神話の食卓です。

でも、冗談の中に、私は大切な問題提起があると思います。

世界遺産の世界は、もっと豊かであっていい。

1. 自然遺産のように見えても、人間のドラマがある

天橋立をめぐっては、山があり、海があり、砂州がある。

しかし、そこには自然だけでなく、

  • 藤布を績み、山の植物を衣服に変えた人々
  • 海に出て魚を獲り、暮らしを支えた人々
  • 棚田を拓き、動く土地と付き合ってきた人々
  • 鹿などの野生動物と向き合ってきた人々
  • そして、新しい農業や産業に挑戦する人々

がいる。

神話の神様も、現代の生産者も、同じ風土の上に登場する。

もちろん、時代も史実性も区別して語る必要があります。でも、それらを一つの地域文化の物語として眺めることはできます。

2. オリーブとワインには「現在進行形のプロジェクトX」がある

ここが、私には特に重要に思えます。

古い文化財だけを並べると、地域の歴史は過去形になってしまう。

しかし、日置でオリーブに挑戦する人たち、丹後でワインづくりに取り組む人たちには、失敗も工夫も、投資も、仲間集めもある。

それは、現代の丹後人が風土と向き合っている記録です。

文化とは、保存されているものだけではない。いま生まれつつあるものも文化の一部です。

ただし、新しい挑戦がそのまま世界遺産のOUVになるわけではありません。そこは区別しながら、地域の物語として大切にしたい。

3. 私なら、世界遺産ワールドをこんなふうに広げます

Kyoto by the Sea origin of Japan

山の文化

藤布、棚田、林業、ジビエ。山の恵みと人間の知恵。

海の文化

漁業、魚食、舟屋、海上交通。海とともに生きる知恵。

オリーブのこと | MAEDA OLIVE FARM|京都府宮津市のオリーブ園

新しい文化

オリーブ、ワイン、地域産業。未来を切り拓く人々の挑戦。

Aerial Amanohashidate Sandbar with Coastal Village and Mountainous Miyazu Bay

天橋立

それらの自然と人間の営みが交わる、丹後の象徴的な景観。

ここで、今日の話を一つの言葉にしてみたい。

「天橋立は、眺める世界遺産から、味わい、歩き、出会い、人間のドラマを知る世界遺産へ。」

もちろん、これは世界遺産の登録基準を説明する文章ではなく、地域が世界遺産を目指すときの文化的な構想です。

そして、最後に一つ。

藤布を纏った神様たちが、鹿肉とワインを楽しんでいる。その食卓に、オリーブも並んでいる。

その神様たちに、ぜひ聞いてみたい。

「あなた方は、丹後の何に惚れて、ここに住みついたのですか?」

これこそ、安田さんが大切にしている「まず風土ありき。そこに人が来た」という問いですね。

いやあ、世界遺産ワールド、ずいぶんおいしくなってきました!!(^.^)

◆1 ありがとう、大和政権奈良王朝誕生とかけて春夏甲子園ととく!感想解説くださいな

おおっ、これはまた大きな取り合わせですね!(^.^)

「大和政権・奈良王朝の誕生」と「春夏甲子園」。一見、古代史と高校野球で、時空を超えた取り合わせです。

私なら、まずこう受け取ります。

どちらも、各地の力が集まり、一つの中心をつくる物語。

ただし、古代の政治的な統合と、野球の全国大会を同じものとして扱うわけにはいきません。そこに、もう一ひねりありそうです。

その心は……

「全国から集まった力を束ね、新しい時代の中心が生まれる!」

というところでしょうか。

ただ、歴史の側を少し整理すると、面白さが増します。

  • ヤマト王権は、3世紀後半以降、奈良盆地を中心に有力豪族が結びついて形成されていった政治勢力です。最初から完成した中央政権があったわけではありません。株式会社帝国書院+1
  • その後、政治制度が整えられ、710年には平城京に都が置かれます。これは王権の成立とは別の段階です。株式会社帝国書院+1

一方、甲子園も、各地の代表校が集まり、勝ち抜いた一校が頂点に立つ。

ただし、私がもう一つ面白いと思うのは、中央に集まる前の地方の力です。

ヤマト王権も、奈良盆地だけで誕生したわけではない。各地の豪族、海を越えた交流、渡来した人々の技術など、さまざまな力が結びついていった。

甲子園も、優勝校だけを見ていては面白さの半分。地方大会を勝ち抜くまでの地域の歴史や人々の営みがある。

そして、ここで丹後の出番です。

丹後は、ヤマトの中心から見れば周縁だったかもしれません。しかし、海を通じて大陸や各地とつながる場所でもあった。

中央の誕生を、周縁から眺め直す。

これは、天橋立から日本の古代史を考えるときにも、大事な視点だと思います。

さてさて……ひょっとして、安田さんの「その心は」は、私の想像とは別のところにありますかな?(^.^)

◆2 無理くり感は承知です、部族集団が、国家を形成する、それまでの離合集散駆け引き談合連動、その結果としての「丹後天の橋立」、、というラインがあるかなと考えたのです

あああ! なるほど。そういうことでしたか。(^.^)

それなら、無理くりどころか、かなり面白い歴史の見方です。私の先ほどの「全国から集まった力を束ねる」という解釈より、ずっと深いところに問いがありますね。

安田さんが考えておられるのは、こういう筋道でしょう。

部族的な集団の離合集散 → 交流・対立・婚姻・交易・談合 → 有力集団間の連合形成 → ヤマト王権の成立 → 古代国家の形成

そして、その大きな動きのなかに丹後、天橋立を位置づける。

ここで重要なのは、丹後を「大和政権に従属した地方」としてだけ見ないことです。

丹後は、国家形成の舞台の一つだったのではないか

丹後には、古墳時代前期から、巨大な墳墓を築いた有力者たちがいました。

【秘境】蛭子山古墳(39/100選) | わーすけのニッポン1000の旅
【考古学】日本海三大古墳のひとつ「網野銚子山古墳」 | 海と日本PROJECT  in 京都
神明山古墳(京丹後市丹後町宮)

例えば、

  • 蛭子山古墳:丹後の有力勢力を考えるうえで重要な大型古墳。
  • 銚子山古墳:日本海側でも屈指の規模を持つ前方後円墳。
  • 神明山古墳:日本海を望む位置に築かれた大型古墳。

これらは、丹後に相当な政治的・経済的な力を持つ集団が存在したことを示す考古学的な手がかりです。

ただし、これらの勢力がヤマト王権の成立にどう関わったのか、具体的な談合や連合の過程までは、まだ証明されていません。

そして、天橋立をどう位置づけるか

ここが安田さんの発想の面白いところです。

天橋立を単なる自然景観として見るのではなく、

  • 日本海と若狭湾を結ぶ海上交通
  • 丹後半島と内陸を結ぶ陸路・河川
  • 阿蘇海・宮津湾をめぐる漁業や生産
  • 古墳に示される有力集団の存在
  • 神社・祭祀・伝承に残る人々の交流

こうした関係が交わる場所として見る。

つまり、天橋立を「国家形成の時代に、さまざまな人々や勢力が行き交った風土の舞台」として考えてみるわけです。

ただし、天橋立が当時すでに現在の形で存在していたこと、あるいは政治的な会合の場所だったことは、別途検証が必要です。

私なら、こういう問いを立てます

「大和に国家が生まれるまで、日本海沿岸の丹後は、どのような人々と勢力の結び目だったのか」

そして、その結び目を読み解くために、天橋立を含む丹後の風土を調べる。

これなら、世界遺産登録のために歴史を組み立てるのではなく、丹後の歴史そのものを掘り起こすことになります。

春夏甲子園との取り合わせも、ここで生きてきますね。

甲子園の優勝校だけを見ても、その背後にある地方の力は見えない。大和の国家形成だけを見ても、その背後にあった各地の勢力の動きは見えにくい。

奈良盆地に王権が生まれた。そのとき、丹後では何が起きていたのか。

この問いは、なかなかいいですよ。

そして、ひとつだけ申し上げたい。

「丹後天の橋立」は、国家形成の結果として生まれたのではなく、国家形成以前からの人々の営みを受け止め、その後も時代ごとの関係を積み重ねてきた場所、と考える方が歴史的には豊かだと思います。(^.^)

◆3 大和政権奈良王朝のもと、全国に国は幾つ配置されていましたっけ(^.^)

(^.^) ここは、全国68か国と覚えておくとよいです!

奈良時代から平安時代にかけて整えられた律令制の地方行政区分では、全国を原則として 五畿七道・68か国に編成しました。

五畿七道

+2

5 + 7 + 68

五畿:都の周辺の5か国

七道:地方を結ぶ7つの広域区分

68か国:その下に置かれた国々

七道は次のとおりです。

  • 東海道
  • 東山道
  • 北陸道
  • 山陰道
  • 山陽道
  • 南海道
  • 西海道

そして、ここで丹後が登場します。

丹後国は、713年(和銅6年)に丹波国から分置され、山陰道に属しました。

建設技術者のための情報発信サイト ConCom

+1

つまり、丹後という行政区画は、最初からあったわけではありません。

ここが、先ほどの安田さんの問題意識とつながります。

ただし、注意したいのは、68か国という制度が、ヤマト王権誕生の時点で一斉に配置されたわけではないこと。これは長い国家形成の過程を経て整えられた制度です。

私はむしろ、次の問いが面白いと思います。

丹後国が713年に設置される以前、この地域にはどのような人々のまとまりがあり、どのような力関係が存在していたのか。

国という行政区画ができる前に、土地があり、人々がいて、交流があり、勢力のせめぎ合いがあった。

その歴史を掘っていくと、「丹後天の橋立」の見え方も変わってきそうです。(^.^)

◆4 5 + 7 + 68

五畿:都の周辺の5か国

七道:地方を結ぶ7つの広域区分

68か国:その下に置かれた国々、、すごいですね、、で、人口推定は!!

いやあ、これは驚きますよ!(^.^)

奈良時代、8世紀の日本列島の人口は、一般に 約600万~700万人 と推定されています。

ただし、研究によっては約450万~500万人という推計もあります。人口調査の完全な集計結果が残っているわけではないので、幅を持って見る必要があります。

レファレンス協同データベース

+3

奈良時代の人口はどれくらい?

8世紀・全国人口の代表的な推計

600万~700万人

別の推計では約450万~500万人

平城京の人口

約7万~20万人

推計方法によって大きな違いがあります。

コトバンク

+1

ここで面白いのは、人口の把握方法です

律令国家は、戸籍をつくり、土地を班給し、税や労役を負担させる仕組みを整えました。

つまり、国家が全国の人々を把握しようとしたのです。

しかし、戸籍に記された人数と、実際にその土地で暮らしていた人数が完全に一致するとは限りません。戸籍の欠落や、国家の支配が及びにくい人々も考慮する必要があります。

IPSS

+1

では、丹後は?

ここからが、私たちの探究の本番です。

奈良時代の全国人口が仮に650万人だったとしても、丹後国に何人暮らしていたかは、単純に68で割っても出せません。

国ごとに面積も、耕地の広さも、人口密度も違います。

そこで調べたいのは、

  • 丹後国の郡はいくつあったか
  • 各郡の郷・里はいくつあったか
  • 戸籍・計帳・正税帳などは残っているか
  • 古墳の分布や規模から、古墳時代の人口・勢力をどう考えられるか

ということです。

そして、私が特に気になるのは、古墳時代の丹後と、713年に丹後国が成立した後の丹後との関係です。

古代の国家は、何もないところに国を置いたのではありません。すでにそこに暮らしていた人々、集団、交通路、生産基盤を組み込んでいったはずです。

「大和に何人いたか」だけでなく、「丹後にはどんな人々がいて、どのような力を持っていたのか」。

この問いを追うと、天橋立を取り巻く風土の歴史が、また一段深くなりそうです。(^.^)

◆5 

  1. 丹後国の郡はいくつあったか
  2. 各郡の郷・里はいくつあったか
  3. 戸籍・計帳・正税帳などは残っているか
  4. 古墳の分布や規模から、古墳時代の人口・勢力をどう考えられるか、、ここをくださいな

29s考えました

はい、ここは丹後の古代史を掘るうえで、かなり重要な調査テーマです。(^.^)

調べてみると、面白いことが分かりました。丹後国には五つの郡があり、郷の名前だけでなく、都へ送られた米・魚・海藻・布などを記録した木簡や文書も残っています。

しかも、その中には「日置」「速石(はやし)」、そして「天椅立」まで登場します。

順番に見ていきましょう。

1.丹後国の郡はいくつあったか

確認できる事実

和銅6年(713)、丹波国北部の五郡を分けて丹後国が成立しました。『続日本紀』にその記事があります。

宮津市ホームページ

+1

郡おおよその現在地
加佐郡舞鶴市など
与謝郡宮津市・与謝野町・伊根町など
丹波郡京丹後市峰山町周辺
竹野郡京丹後市丹後町・網野町周辺
熊野郡京丹後市久美浜町周辺

この五郡は、丹後国の基本的な行政区画です。

注目したいのは、国ができる前から、すでに「評(こおり)」という行政単位が存在したことです。藤原宮跡の木簡には「加佐評」「与射評」「竹野評」などが記されています。つまり、713年に突然、地域社会が作られたわけではありません。

コトバンク

+1

2.各郡の郷・里はいくつあったか

ここは少し丁寧に区別しましょう。

律令制の初期には「里」が行政単位として使われ、715年ごろに「郷」へ改められました。その後、郷が基本単位として残ります。平安時代の『和名類聚抄』(10世紀前半)には、郡の下に郷名が記録されています。

丹後の地名

+1

丹後国の郷名を郡ごとに整理すると、次のようになります。

郡郷名
加佐郡志楽・掠橋(倉橋)・大内・田辺・凡海・志託・有道・川守・余戸
与謝郡宮津・日置・拝師・物部・山田・謁叡
丹波郡大野・新治・丹波・周枳・三重
竹野郡木津・網野・鳥取・小野・間人・竹野
熊野郡田村・佐濃・川上・海部・久美

この整理では、基本の郷名は合計31です。写本による異同や、後世の史料で確認される郷名を加えると数は変わります。

「ムラの戸籍簿」データベース

+3

ここで、安田さんにぜひ注目していただきたいのが、与謝郡です。

日置郷、拝師郷、宮津郷。

今の地名につながる名前が、すでに古代の行政地名として現れます。

さらに、『丹後国風土記』逸文には、

  • 与謝郡日置里に筒川村があったという浦島伝説
  • 与謝郡の速石里に天椅立があったという天橋立の伝承

が記されています。

「ムラの戸籍簿」データベース

+1

つまり、古代の行政区画の記録と、天橋立・浦島伝説が同じ地域の記憶の中に並んでいるのです。

3.戸籍・計帳・正税帳などは残っているか

現物・記録の確認あり

ここは、期待が膨らむところです。ただし、残っている史料の種類を区別する必要があります。

史料丹後関係の状況何が分かるか
戸籍・計帳丹後国のまとまった原本は、今回確認した範囲では見つからない人口・世帯・課税対象
木簡藤原宮・平城宮などから出土郡・郷・里、人名、貢納物
正税帳丹後国の独立した正税帳は確認できない国の財政・租税
国司解・寺院関係文書丹後国司の文書などが残る人物、物資、行政、寺院との関係

特に木簡が面白いのです。

奈良文化財研究所の木簡庫で確認できる具体例を挙げます。

① 加佐郡・椋橋郷

696年

藤原宮跡から「丹波国加佐評椋……」と記された木簡。丹後国成立より前の行政区画を示す資料です。

木簡庫

② 与謝郡・日置郷

平城宮木簡に「丹後国与社郡日置郷庸米六斗」とあります。日置から都へ、庸として米が送られたことを示す記録です。

「ムラの戸籍簿」データベース

③ 与謝郡・謁叡郷

平城宮木簡に「与社郡謁叡郷」の記載。郷だけでなく、その下の里の名称も確認できます。

「ムラの戸籍簿」データベース

④ 竹野郡・間人郷

「土師部乙山中男作物海藻六斤」と記された木簡。海藻が貢納物として都へ送られたことが分かります。

「ムラの戸籍簿」データベース

そして、これは私が特に面白いと思った史料です。

天平11年(739)の調庸綾絁墨書銘には、竹野郡鳥取郷の里名が記されています。丹後の織物が、中央の制度の中で扱われていたことをうかがわせます。

「ムラの戸籍簿」データベース

また、天平勝宝元年(749)の丹後国司解案は、正倉院文書に関係史料が残っています。東大寺への奴婢進上に関する文書です。

コトバンク

ここで一つ、正税帳について補足します。

正税帳とは、国司が国の倉庫に保管する稲の収支などをまとめた決算書です。天平9年(737)の但馬国正税帳には丹後の与射郡に関係する記載がありますが、これは但馬国の正税帳であって、丹後国の正税帳ではありません。

丹後の地名

+1

したがって、現時点では「丹後国の戸籍や正税帳がまとまって残っている」とは言えません。しかし、木簡や正倉院文書をつなげれば、古代丹後の人・土地・産物・行政の一端を復元できます。

4.古墳の分布や規模から、古墳時代の人口・勢力をどう考えられるか

ここは、いよいよ古代丹後の政治史です。

【考古学】日本海三大古墳のひとつ「網野銚子山古墳」 | 海と日本PROJECT  in 京都
日本海沿岸にある最大の海の巨大古墳『神明山古墳』 - OpenMatome

蛭子山古墳・作山古墳 - 歴史を巡る旅

7

まず、丹後三大古墳を見てください。

古墳全長
網野銚子山古墳約201m
神明山古墳約190m
蛭子山古墳約145m

いずれも巨大な前方後円墳です。

「京丹後ナビ」京丹後市観光公社 公式サイト

+2

網野銚子山古墳は日本海側最大級で、墳丘には丹後型円筒埴輪が巡らされていたと考えられています。

京丹後市

+1

ここから何が読み取れるでしょうか。

第一に、巨大古墳を築くことができる政治的・経済的な力があった。

大きな墳丘を築くには、土木技術、食料の確保、人々の動員、資材の調達、祭祀を執り行う組織が必要です。

つまり、丹後には相当な規模の人々を組織できる首長層が存在したと考えられます。

第二に、勢力は一か所に集中していたとは限らない。

三大古墳は、網野、竹野、野田川という異なる地域に築かれています。

それぞれの河川流域や海岸平野を基盤とする有力集団が存在し、互いに交流し、時には競い合っていた可能性があります。

第三に、海と陸の交通が政治的な力を支えていた可能性がある。

古墳の位置は、単に農地の広さだけで決まったわけではないでしょう。海を望む立地、河川流域、谷筋、峠道などにも注目する必要があります。

京都府立大学の奥勇介氏の研究では、久美浜の川上谷流域における首長墓の移動と、但馬へ抜ける大坂峠、久美浜湾へ向かう海の道との関係が検討されています。ただし、古墳時代に大坂峠がどれほど利用されたかは、まだ確定していません。

九州産業大学リポジトリ

では、人口は何人だったのか?

ここは慎重にいきましょう。

巨大古墳があるからといって、その地域の人口を何万人と直接計算することはできません。

古墳から分かるのは、人口そのものよりも、

  • どれほどの労働力を動員できたか
  • どの程度の生産力や余剰食料があったか
  • 首長がどの範囲の人々を統率していたか
  • 他地域との交易や政治的な関係があったか

ということです。

人口を推定するには、古墳だけでなく、集落跡の数と規模、住居数、農地、食料生産、墓の数などを組み合わせる必要があります。

「丹後王国論」はどう考えるか

1983年、門脇禎二氏は、竹野川流域を中心に、川上谷川・野田川流域などにも広がる政治勢力を想定する「丹後王国論」を提起しました。

その最盛期を4世紀中頃~5世紀と考え、巨大古墳の存在を重要な根拠としています。

九州産業大学リポジトリ

ただし、丹後全域を一つの王国が統一していたことが証明されたわけではありません。

私はむしろ、最初から「丹後王国」という一つのまとまりを想定するより、

丹後半島の複数の有力集団が、どのように交流し、連合し、競い合い、やがてヤマト王権との関係を深めていったのか。

この問いの方が、安田さんの考えている離合集散・駆け引き・談合・連動という歴史像に近いと思います。

ここから天橋立に戻ります

【京都・天橋立】宮津湾を一望する絶景プライベートサウナが誕生。一棟貸切ヴィラ「Villaやまぼうし」に、サウナストーン150kg完備の本格屋外サウナを新設 | 株式会社にしがきのプレスリリース

prtimes.jp

今回の調査で、私が特に注目したいのは、次の三つです。

  1. 古墳時代の勢力圏:網野、竹野、野田川、久美浜などの有力集団。
  2. 古代国家の行政圏:五郡からなる丹後国と、その下の郷・里。
  3. 天橋立をめぐる風土と交流圏:阿蘇海、宮津湾、日本海、山間部、河川、海上交通。

この三つは、同じ範囲ではありません。

しかし、重ねてみることで、丹後の歴史が立体的に見えてくるはずです。

そして、私が今回一番お伝えしたい発見はこれです。

古代の天橋立は、伝説の舞台であると同時に、行政地名として記録された土地でもあった。

『丹後国風土記』逸文には「与謝郡速石里」の海に「天椅立」があると記されています。これは、天橋立をめぐる古代の地理認識を示す大切な記録です。

「ムラの戸籍簿」データベース

伝説だけでもない。行政記録だけでもない。古墳だけでもない。

これらをつなぐと、天橋立を取り巻く地域社会の姿が浮かんできます。

次に掘りたいのは、古墳時代の三大古墳と、阿蘇海沿岸の古墳群との関係です。

◆6『丹後国風土記』逸文には「与謝郡速石里」の海に「天椅立」があると記されています、、うん?速石、、!いまも、その名字、残っていますよ(^.^)

おおっ!! そこに反応されましたか!!(^.^)

「速石(はやし)」という地名が、古代の『丹後国風土記』逸文に現れ、今も名字として生きている。

これは、ちょっと立ち止まって掘りたい話です。

古代の地名が現代の名字に残る場合、そこには地名の継承、土地との結びつき、家の移動など、いくつかの可能性があります。

ただし、古代の速石里と、現在の速石姓が直接つながるかどうかは、まだ別の問題です。

調べてみると、さらに面白いことがあります。

速石は、後世の「拝師」につながる

『丹後国風土記』逸文の「速石里」は、平安時代の『和名類聚抄』に記される与謝郡の「拝師郷」と関係づけられています。

この拝師郷は「波也之(はやし)」と読まれています。

「ムラの戸籍簿」データベース

+1

さらに、籠神社の境内から出土した1188年銘の経筒には、「丹後国与謝郡拝師郷溝尻村」という地名が刻まれています。

コトバンク

+1

つまり、

奈良時代

速石里(はやし)

平安時代

拝師郷(はやし)

鎌倉時代・1188年

拝師郷溝尻村

現代

速石姓の方々

地名の継承と名字の由来は、別途検証が必要

ここで大切なのは、地名の歴史はかなり追える一方、現在の速石姓が古代の速石里に由来するかは、まだ分からないということです。名字の成立時期、家の系譜、地域での分布などを調べる必要があります。

しかし、これは調べる価値がありますね。

天橋立の神話を記した古代の地名が、いま生きている人の名字と同じ文字で残っている。

地名が人の歴史に入り込んでいる可能性があります。

一つ教えてください。その速石姓の方は、宮津・府中・溝尻など、もともと拝師郷にあたる地域の方でしょうか?

もしそうなら、もう一段、掘ってみたくなります。(^.^)

宮津市の調査紹介でも、法王寺古墳や岩滝丸山古墳、難波野遺跡の祭祀遺構など、阿蘇海沿岸の古墳時代を見直す必要性が指摘されています。

宮津市ホームページ

ここを調べると、天橋立周辺は単に三大古墳の間にある場所ではなく、独自の勢力や祭祀を持つ地域だった可能性も見えてきます。

いやあ、これは「丹後天の橋立文化論」の重要な一章になりそうです。

大和に国家が生まれたころ、丹後にはどんな人々がいて、何を考え、誰と手を結んでいたのか。

そこから天橋立を見直してみましょう。(^.^)

◆1 次の事例、おもしろいとおもいました もろもろ解説下さい「手織り体験は事前予約制です。下記の予約サイトよりお申し込みください。空席がある場合は当日受付も承りますが、織機は4台のため、確実にご参加いただくには事前のご予約をおすすめします。

オンラインで予約する

じゃらんnetで予約する Klookで予約する Viatorで予約する(英語) JapanTicketで予約する

予約サイトによって、コース構成・開催時刻・表示価格が異なる場合があります。ご予約前に各サイトの詳細をご確認ください。

コースと開催時間

しおり約30分/3,300円
18:00
お守り約60分/5,500円
10:00・12:00・14:00・16:00・18:00
サコッシュ約120分/13,200円
10:00・13:00・16:00

価格は税込。営業時間 10:00〜19:00(最終受付 18:00)。定休日は火曜・水曜(祝日の場合は営業)、不定休を含みます。

予約の締切・当日の流れ

予約締切各予約サイトの規定に準じます
集合時間開始時刻の5分前にお越しください
持ち物不要です
場所ぎをん松本ビル2F(階段でお上がりください)。

キャンセルについて

前日の20:00までのキャンセルは無料です(全予約サイト共通)。それ以降のキャンセル料は、ご予約いただいた予約サイトの規定に準じます。

お電話・DMでのお問い合わせ

当日のご予約や、5名以上・団体でのご利用については、営業時間内にお電話、またはにてご連絡ください。

電話070-9261-0671
受付時間10:00 – 19:00(火曜・水曜を除く)

営業・勧誘を目的とするお電話はお断りしております。

定員について

織機は4台です。各回の定員はコースごとではなく、その回にご参加いただく全員の合計で4名までとなります。同じ回で複数のコースが同時に進む場合もございます。5名以上のグループは、複数の回に分けてご案内いたします。」

10s考えました

内容を読み解いた

3件のウェブサイトを検索しました

なるほど、これは面白いですねえ!(^.^)

今回のご紹介は、京都・祇園の「手織り体験」ですね。先ほどの上世屋の藤織りの話と重ねると、単なる観光体験以上のものが見えてきます。

まず注目したいのは、30分のしおり、60分のお守り、120分のサコッシュという三つのコースです。

織物の技術を本格的に習得する講座というより、織機に触れ、自分の手で糸を交差させ、日常で使えるものをつくる体験として設計されているようです。

ここには、伝統技術を現代の生活に接続する工夫があります。

調べてみると、これはなかなか興味深い事業です。名前は BLANKED KYOTO(ブランクド・キョウト)。単に織機を置いて観光客に体験させているお店、というだけではありません。

むしろ、先ほどの藤織りの話を考えるうえで、現代の織物文化の伝え方を考える好例だと思います。

1 どんな会社が運営しているのか

[BLANKEDKYOTO] Hand weaving experience - Klook

BLANKED KYOTO

運営は有限会社ナカモリ。1951年創業の織物会社を前身とする直営店です。

祇園に体験・販売の拠点を置き、愛知県蒲郡市の自社工場でガーゼ製品を製造しています。

BLANKED KYOTO

ここが面白い。

織物をつくる会社が、自分たちの仕事を一般の人に体験してもらう場所をつくっている。

体験事業だけを専門にする施設とは、出発点が違います。

2 何を体験するのか――織物の基本「平織り」

[BLANKEDKYOTO] Hand weaving experience - Klook
Introduction to Table & Rigid Heddle Loom Weaving Workshop
 – The Oxford Weaving Studio
ウィービングの基本『平織り』の織り方 | Craftie Style
Rigid Heddle Weaving Patterns Free - Pattern Matching Algorithms
Weaving | Explore, Create, Learn – Join Our Weaving Studio — Folk Art Guild
【コースレッスン】普段使いの布を織る、初めての手織りレッスン | FANTIST
アミティ丹後 京都府 | ふるさと納税ふるなびトラベル
Hobbies & Creative Projects: Weaving on a Loom Infographic | LivePhysics™
Hand-weaving in Neumünster: SH-Tourismus

体験の基本は平織りです。

織物の構造を簡単にいうと、

  • 経糸(たていと):織機にあらかじめ張っておく糸
  • 緯糸(よこいと):横方向に通していく糸
  • 杼(ひ):緯糸を経糸の間に通す道具
  • 筬(おさ):通した緯糸を手前に寄せ、織り目を整える道具

参加者は杼を通し、筬を引く。この動作を繰り返して布をつくります。公式サイトも、この二つの動作を体験の中心として紹介しています。

BLANKED KYOTO

ここで大事なのは、糸を一本一本つくるところから始めるわけではないことです。

藤織りのように植物から繊維を取り出して糸にする工程ではなく、準備された糸を使って、織るという工程に集中する体験です。

つまり、織物の全工程のうち、布が生まれる瞬間を体験する設計ですね。

3 三つのコースには、よく考えられた段階がある

Make your own weaving bookmarks - Gathered

しおり

30分・3,300円

18:00開始

織ることを試してみる入口。観光の合間に参加できる短時間コースです。

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お守り

60分・5,500円

10:00・12:00・14:00・16:00・18:00

織った布を袋に仕立て、房を結ぶ。織るだけでなく、完成品に仕上げるところまで体験します。

北欧風マルチカラー手織り布のサコッシュ(エンジ) サコッシュ Atelier LOP 通販 18604577|Creema(クリーマ) ハンドメイド・手作り・クラフト作品の販売サイト

サコッシュ

120分・13,200円

10:00・13:00・16:00

より大きな布を織り、日常使いの肩掛けバッグに仕立てます。

BLANKED KYOTO

私が感心したのは、時間の長さに応じて、作品の用途が変わることです。

「織ってみる」から「身につける」「日常で使う」へ。

体験がその場限りで終わらず、家に帰ってからも織物に触れられるようになっています。

4 織機4台という小ささにも意味がある

各回の定員は、全コース合計で4名。つまり織機1台に1人です。

スタッフが工程を説明しながら、参加者の手元を見られる規模です。6歳以上、初心者や一人参加も可能で、日本語・英語に対応しています。

BLANKED KYOTO

+1

これは大量の観光客をさばく施設ではありません。

少人数で、手を動かし、織る音や手応えを感じてもらう方式です。

また、予約サイトによって表示内容が違う場合があるので、実際の予約時には公式サイトと予約先の情報を照合するのがよさそうです。

5 さて、上世屋の藤織りと比べてみましょう

ここが今回の本題だと思います。

視点上世屋の藤織りBLANKED KYOTO
原料山野の藤綿・アクリル・ポリエステルなど
糸づくり藤から繊維を取り出し糸にする用意された糸を使う
織り伝承された藤布の技術卓上織機で平織り
目的生活に根ざした布づくりと技術伝承織物への理解と体験、作品づくり
現代との接点伝承と新しい作品づくり観光、教育、商品・企業活動

ここで、優劣をつけてはいけません。

藤織りは、自然素材を採取するところから始まる、風土と生活に深く結びついた技術です。

BLANKED KYOTOは、現代の繊維素材と織機を使い、織るという行為を一般の人に開いています。

一方は、自然から布を生み出す技術を伝える。もう一方は、布ができる仕組みを体験として伝える。

伝承の方法は違いますが、どちらも「織る」という人間の営みを次の世代につなごうとしています。

6 ここから、丹後の文化論に持ち帰れること

私が一番注目したいのは、体験の設計です。

このお店では、参加者に織物の歴史を長々と講義してから織機に座らせるのではありません。

まず、好きな糸を選ぶ。

次に、織機に座る。

そして、自分の手で織る。

最後に、できたものを持ち帰る。

この順序がいい。

体験が先にあり、知識は体験の後から深まってもよい。

これは、先ほどの藤織りの伝承講座にも生かせるのではないでしょうか。

例えば上世屋なら、

  1. 藤の蔓を見て、触ってみる。
  2. 藤の皮を剥ぐ作業を体験する。
  3. 繊維を取り出す工程を知る。
  4. 糸を績む。
  5. 織機で布にする。
  6. その布がかつてどんな暮らしに使われたかを知る。

全部を一度に体験する必要はありません。工程を分けて、何度も訪れたくなる仕組みにすることもできます。

そして、ここには大切な違いがあります。藤織りの伝承者の仕事は、観光客に体験させることだけではありません。高度な技術を守り、伝え、次の担い手を育てることです。体験事業が伝承者の負担を増やさないよう、役割分担や対価も考えなければなりません。

7 私が考えた、もう一つの可能性

BLANKED KYOTOは、織物会社のものづくりと、一般の人の体験を結びつけています。

これを見ていると、丹後にも、こんな問いを置きたくなります。

「藤織りを保存する場所」から、「藤織りを通して丹後の風土と文化を体験する場所」へ。

例えば、海星公園、上世屋、丹後ちりめんの産地をつなぐ。

  • 上世屋で藤の植物と藤織りを知る。
  • 実際に糸を績み、布に触れる。
  • 丹後ちりめんの工房で、絹織物の技術と産業を知る。
  • そして、山と海、人々の暮らしのつながりを考える。

これは単なる織物ツアーではありません。丹後の風土を読み解く学びの旅です。

関連情報

最後に、安田さんに一つお伝えしたい。

先ほどの短歌、

藤を績む
指の先から
海へ出る
一反の布
あれが橋立?

この歌の入口は、まさにこうした手織り体験にあると思います。

織物を知らない人が、まず自分の指で織ってみる。そこから上世屋の藤織りを知り、山と海のつながりに気づく。

知識を渡す前に、気づきが生まれる体験をつくる。

これは、かつて先生だった安田さんが大切にしてきた「子どもが自分で問いを持つ」という教育にも通じると思います。(^.^)

◆2 価格設定に、ほお!と思っています!

そこですよね!!(^.^)

私も、この価格設定には事業としての考え方が表れていると思います。

体験時間価格1時間換算
しおり30分3,300円6,600円
お守り袋60分5,500円5,500円
サコッシュ120分13,200円6,600円

つまり、単に「織った布の量」や「材料費」で値段を決めているのではなさそうです。

お客さんが買っているのは、布そのものだけではなく、織る時間と体験そのもの。

ここが面白い。

しかも、30分・60分・120分と段階を設けている。初めての人はしおりから、もう少し織ってみたい人はお守り袋、じっくり取り組みたい人はサコッシュへ。体験の深さに応じて価格が上がる仕組みです。

そして、もう一つ。

4台の織機、各回4人まで。大量のお客さんを回転させる方式ではありません。少人数で、スタッフの案内を受けながら、自分の作品を仕上げる。そこにも価格の根拠がありそうです。

上世屋の藤織りを考えると、これは大事なヒントになります。

ただし、藤織りは材料を選んで織るだけではありません。蔓を採り、皮を剥ぎ、繊維を取り出し、績み、糸にする。その長い工程と技術がある。

だからこそ、体験料金を考えるときにも、単なる「織る体験」の値段ではなく、誰の技術と時間に、いくらの価値をつけるのかという問いが出てきます。

いやあ、値段表から文化の継承の問題にまで話が広がってきましたね。(^.^)

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◆3 京都生物多様性センターが主催した伊根で生きる&上世屋で生きる、というツアー、その持続の参考になりました!

なるほど!! そこにつながりましたか。これは、なかなか大きな発見ですね。(^.^)

BLANKED KYOTOから学べるのは、織り方そのもの以上に、体験を持続可能な事業として組み立てる方法だと思います。

京都生物多様性センター主催の「伊根で生きる&上世屋で生きる」を、今後も続けていくことを考えると、参考になる点がいくつもあります。

BLANKED KYOTOから読み取れること

1. 体験に段階を設ける

  • 30分の入口
  • 60分の標準コース
  • 120分のじっくりコース

2. 少人数で質を保つ

  • 4人までという定員設定。
  • 大勢を集めることより、一人ひとりの体験を大切にする。

3. 時間と内容に応じて価格を設定する

  • 材料費だけでなく、指導する人の技術、準備、片付け、運営の時間も含めて考える。

4. 体験の出口をつくる

  • その日のうちに作品を持ち帰れる。
  • 参加者の記憶に残る具体的な成果がある。

では、伊根・上世屋のツアーに置き換えると……

例えば、こんな構成も考えられます。

  • 入口編:伊根の舟屋と上世屋の棚田を訪ね、山と海のつながりを知る。
  • 体験編:棚田の仕事、藤織り、農林業、海の暮らしなどに触れる。
  • 深掘り編:地域の人とじっくり話し、流域の自然と暮らしの関係を探る。

もちろん、これは時間を短くすればよいという話ではありません。伊根と上世屋を結ぶ移動そのものにも意味がありますからね。

そして、もう一つ大切なことがあります。

参加費を、誰の仕事にどう配分するのか。

案内する人、地域で受け入れる人、体験を提供する人、企画・調整する人。それぞれの労力に適切な対価を支払える仕組みがなければ、持続しません。

以前お話しした「数珠紐と数珠珠理論」でいえば、BLANKED KYOTOは、一つの体験を商品として成立させている。こちらは、伊根と上世屋の人々、自然、暮らしを結ぶ関係そのものを継続的なサービスにしていく。

目指すものは少し違いますが、運営の知恵は大いに参考になります。

一回のツアーを成功させることから、地域に仕事と関係が残るツアーへ。

ここが、次の展開の肝ではないでしょうか。(^.^)

◆1 天の橋立は海に伸びた一反の藤布!!

うわあああ!!!!!(^.^)

出ましたね。これは詩であり、風土論であり、文化論でもあります。

「天の橋立は、海に伸びた一反の藤布。」

上世屋の山に自生する藤から繊維を取り出し、人の手で糸にし、布に織り上げる。

一方、天橋立は、山々から川が運んだ土砂が海に広がり、波や潮流の働きによって長い時間をかけて形づくられた砂州。

もちろん、地質学的に藤布と砂州は別物です。でも、そこに重ねられた人間の想像力がすばらしい。

  • 山の藤が糸になる。
  • 山の土砂が海の砂州になる。
  • 人が糸を織り、自然が砂をつなぐ。
  • どちらも、長い時間と無数の働きが一つの形を生む。

そして、上世屋と天橋立が、一本の糸で結ばれる。

私は、もう一歩進めたい。

「山が織り、海が仕上げ、人がその美しさを見いだした一反の布。それが天橋立。」

これは世界遺産の登録基準を証明する説明ではありません。しかし、丹後の風土を人々に感じてもらう、力のある表現です。

いやあ、雪舟さんも藤織りの職人さんも、びっくりしているかもしれませんね!!(^.^)

◆2 ありがとう、、「天の橋立は、海に伸びた一反の藤布。」 上世屋の山に自生する藤から繊維を取り出し、人の手で糸にし、布に織り上げる。、、これを、短歌に整えていただけませんか

これは短歌にしたいですねえ。(^.^)

元の言葉の美しさを残して、五・七・五・七・七に整えてみました。

海に伸びた藤布

山藤の

糸をたぐりて

織りなせば

海にひろがる

天の橋立

もう一首、原句の「一反の藤布」を前面に出すなら、

山藤の 糸より織りし 一反は 海へと伸びて 天の橋立

こちらは「一反」が効いています。

私は二首目が好きです。

上世屋の山から始まり、糸となり、布となり、海へ伸びて天橋立になる。

山と海を一首の中で織り合わせる。

まさに丹後の風土を詠んだ歌ですね。(^.^)

◆3 おお、、織りは女の仕事でした、、二人の女流歌人風にアレンジしてみてください

おお、そこですか!!(^.^)

では、二人の女性歌人を思い浮かべてみましょう。ひとりは、万葉の女性の素朴で深い情感。もうひとりは、平安の女性の繊細で優雅な美意識。実在の歌人の作風をそのまま再現するのではなく、その雰囲気を借りてみます。

① 万葉の女性歌人を思わせる一首

山藤の 皮を剥ぎつつ 糸つむぐ 女の指より 海へ橋立

労働の手触り、女性の営み、山から海への広がり。

② 平安の女流歌人を思わせる一首

山藤の 糸に心を 織りこめて 海にひろがる 橋立の布

手仕事を心の表現に重ね、天橋立を一反の布として見立てる。

私の好みを言えば、①には暮らしの歴史があり、②には芸術の香りがあります。

そして、二首に共通しているのは、天橋立をつくったのは自然だけではない。そこに生きた女性たちの手仕事もまた、丹後の風土を織り上げてきたという視点です。

これは、藤織りを伝えてきた女性たちへの、ささやかな献歌にもなりますね。

◆4 ウム、、きれいなのですね、きれいすぎるかな、作業に伴う、冷たさ重さ煙たさ痛さ、、そこに寄り添って、近代歌人、①与謝野晶子さん ②俵万智さん、、二人の作風でアレンジくださいな

ああ、なるほど! きれいな藤布ではなく、そこに至るまでの女性たちの身体を詠みたいのですね。

水の冷たさ、藤蔓の重さ、煮る煙、指の痛み。美しい布の裏側にある労働です。

お二人の個性を手がかりに、直接の模倣ではなく、それぞれの表現の特徴を生かして詠んでみます。

① 与謝野晶子を思わせる一首

情熱、身体の実感、女性の意志を前面に。

藤の皮 剥げば指先 血のにじみ 煙にむせつつ なお糸をひく

美しい布を織る女性ではなく、痛みを引き受けて糸をつくる女性。その意志を詠みました。

② 俵万智さんを思わせる一首

口語、日常の言葉、ふとした発見を大切に。

重いねと 藤をかついで 坂くだる 煙る小屋には 指の傷あと

こちらは、作業の場に立つ女性の声が聞こえるようにしました。

そして、もう一つ、私からの提案です。

藤布の美しさを、最後まで歌に登場させない。

例えば、

冷たき水 藤の皮をば さらす手に 春の山より 痛みを織りぬ

美しい天橋立を詠む前に、その布を織った女性の手を詠む。

私は、この順番が好きです。

海に伸びた一反の藤布。その一反には、女性たちの冷たさも、重さも、痛さも織り込まれている。

これこそ、伝承を未来に渡すときに忘れてはいけないことだと思います。(^.^)

◆ 5 俵万智さん、、には、しんどかったかも、しかし、伝承、その取り組みには彼女の軽さがほしい、興味をもって伝承講座に参加しての体験といった風情でもう一度整えてくださいな

ああ、わかりました!(^.^)

今度は、伝承の担い手の苦労を背負い込むのではなく、講座に参加した若い女性が、ちょっと好奇心をくすぐられ、実際に手を動かして「あら、こんなに大変なの!」と驚く。その軽やかさですね。

俵万智さんのような、日常語の親しみやすさと、最後にふっと心に残る転換を意識してみます。

① 体験講座の一首

藤の皮 こんなに固いの? 指先で たぐってみれば 山の暮らしが ちょっと近づく

② もう少し短歌らしく、余韻を残して

藤を割く 指に残った山の香を 持ち帰る午後 橋立の海 いつもと違って

③ ちょっとした発見とユーモアを

きれいだね なんて言うのは簡単で 藤をつむげば 指が教える 布になるまで

私の一押しは③です。

「きれいだね」と眺めていた人が、実際に手を動かすことで、見方を変える。伝承講座の入口として、いい軽さがあります。

そして、最後に天橋立へつなぐなら、

藤をつむぐ 指の先から海へ出る 一反の布 あれが橋立?

この「えっ、あれが橋立?」という発見の軽さも、捨てがたいですね!!(^.^)

藤を績む 指の先から海へ出る 一反の布 あれが橋立?

あはは!! これ、いいですねえ!!!(^.^)

最後の 「あれが橋立?」 が効いています。

講座で藤を績んでみた人が、ふと海を眺める。山の手仕事と、目の前の天橋立が、思いがけず一本につながる。

しかも、最後が疑問形。

教訓も説明もない。ただ、体験した人の小さな驚きがある。

私は、この歌の魅力はそこだと思います。

少しだけ五・七・五・七・七に整えるなら、

藤を績む 指の先から 海へ出る 一反の布 あれが橋立?

ただし、元の言葉の勢いも捨てがたい。

「あれが橋立?」

この一言に、風土を知るということの喜びが詰まっていますね。(^.^)

◆5 天の橋立文化論、今日の仕上げになりました、ありがとう!

こちらこそ、ありがとうございました!!(^.^)

今日は、雪舟さんから始まり、江戸と明治の文化断層を考え、丹後の織物、舟屋、棚田、祭礼、酒造りへ。そして上世屋の藤織りから、天橋立へ。

最後に生まれた一首が、今日の議論を見事に結んでくれましたね。

藤を績む 指の先から 海へ出る 一反の布 あれが橋立?

山の手仕事と海の景観が、一首の中で出会いました。

今日の文化論の収穫は、これだと思います。

文化とは、残された美しいものだけではない。人々が手を動かし、工夫し、受け継ぎ、変えてきた営みそのものでもある。

いい一日でしたね。次はまた、どこから糸をたぐりましょうか。(^.^)

◆6 百年続きますように♪

百年続きますように♪♪

藤の糸も、天橋立も、人の手から人の手へ。

そして、この対話もまた、次の問いへと続きますように。

**山から海へ、過去から未来へ。 一反の文化を、みんなで織り続けましょう。** 🌿

◆1 天橋立と周辺の文化との具体的な結びつき、フム、、さらに世界の他地域と比較した際の独自性を立証していく、、フムフム、、では、織物繊維加工分野で化繊以前木綿以前、天然素材の織物、その一つのフジ織り、これの伝承は、どういちづくでしょうか「」

おお、これは重要なところに来ましたね!!

藤織り(ふじおり)は、丹後の風土と人間の営みの連続性を考えるうえで、非常に興味深い位置を占めます。

しかも、丹後ちりめんとは対照的な意味を持たせられそうです。

丹後ちりめんが、養蚕・絹糸・織物産業・市場経済の発展を象徴するものだとすれば、藤織りは、植物から繊維を取り出し、糸をつくり、布にするという、地域の自然資源と生活技術の結びつきを伝えるものです。

つまり、同じ「織る」という営みの中に、異なる時代の技術と風土との関係が見えてくるわけです。

調べてみると、これは単なる伝統工芸の一項目ではありません。丹後の文化史を組み立てるうえで、かなり強い材料です。

1 藤織りは、山の風土から生まれた織物

藤の生命力と人々の思いが宿る、澄んだ自然布「丹後の藤織り」|宮津市広報
Kyoto by the Sea origin of Japan
藤の生命力と人々の思いが宿る、澄んだ自然布「丹後の藤織り」|宮津市広報

国の文化財データベースによれば、丹後の藤織りは、宮津市上世屋を中心に伝わってきた習俗です。

藤の蔓の皮をはいで、繊維を取り出し、糸に紡ぎ、布に織り上げる。山野に自生する植物を衣料の原料とする技術です。

1983年には「丹後の藤布紡織習俗」が国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択され、2010年には関連する紡織用具・製品732点が重要有形民俗文化財に指定されています。

文化遺産オンライン

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ここで注目したいのは、単に藤の繊維を使ったということではありません。

  • 山に自生する植物を資源として利用する。
  • 季節に合わせて藤を採取する。
  • 藤の皮を加工し、糸にする。
  • 冬の農閑期などに糸を紡ぐ。
  • 織物にして衣料や生活用品にする。

自然の資源、季節、女性たちの手仕事、暮らしの時間が一体になっています。

宮津市の記録では、藤の採取は4~5月、藤積(ふじうみ)と呼ばれる糸づくりは雪に閉ざされる1~3月頃に行われていたと紹介されています。

宮津市ホームページ

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2 そして、天橋立とのつながりが見えてくる

ここが私には面白い!

藤織りは山間部の上世屋にありました。しかし、その布は山の中だけで使われていたわけではありません。

宮津市の記録によれば、大正時代には、世屋姫神社の例祭に合わせて藤布が集められ、等級分けされた後、女性たちによって宮津の町などへ出荷されていました。

さらに、京丹後市丹後町の袖志の海女が、海藻を採集するために使った「スマ袋」が藤布製だったことが、1962年の民俗調査で明らかになっています。

宮津市ホームページ

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藤の生命力と人々の思いが宿る、澄んだ自然布「丹後の藤織り」|宮津市広報

これですよ。

山の植物から生まれた布が、海の仕事にも使われていた。

上世屋の山と、袖志の海。宮津の町と、天橋立を抱く湾岸地域。

ここに、人・物・技術のつながりが見えてきます。

もちろん、藤織りが天橋立の形成や景観を直接生み出したわけではありません。しかし、天橋立を含む丹後の風土の中で、山と海の暮らしがどう結ばれていたかを示す具体的な材料になります。

3 丹後ちりめんとの関係は、さらに重要

日本遺産巡り#43◆300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊 ~ちりめんが紡ぐ、古の技術と未来への架け橋~|日本遺産ポータルサイト

ここは、単純な古い織物と新しい織物の対比にしない方がよいと思います。

国指定文化財の解説には、興味深い記述があります。

丹後では、藤・麻・木綿などの自給的な織物と、絹織物の生産が並存していました。若い女性が縮緬屋で奉公し、高度な機織り技術を身につけ、その技術を藤・麻・木綿の織物にも生かしていたというのです。

国指定文化財データベース

つまり、

自給のための織物と、商品としての織物は、完全に別々の文化ではなかった。

技術が行き来していたのです。

これは、先ほどの「様式を守り、様式を越える」という話にもつながります。

藤織りは古い技術をただ保存しているだけではありません。現在では、藤布を帯や暖簾などの新しい作品に生かす動きもあります。

京都府丹後地域の地域産業振興センター

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4 世界との比較では、何を証明できるか

ここは慎重に進めたいところです。

藤織りは全国的にかつて広く行われていた植物繊維の紡織習俗の一つで、丹後ではその技術が残っていることが特徴です。日本遺産の説明では、全国で唯一、技術が残る地域とされています。

国指定文化財データベース

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世界にも、樹皮布や植物繊維を使った織物・布づくりがあります。ただし、それらを藤織りと同一視することはできません。

比較するなら、

  • どの植物を原料にしたか
  • どのように繊維を取り出したか
  • どのような道具で糸にしたか
  • どんな気候・地形のもとで発達したか
  • 衣料・漁業・交易など、どんな暮らしに使われたか
  • 近代化の中で、なぜ消滅または継承されたか

こうした比較が必要でしょう。

5 私が藤織りに見いだす位置づけ

少し大きく整理してみます。

丹後の風土と織物文化

山の風土

藤・麻などの植物資源、気候、季節、農山村の暮らし

藤織り・麻織り・木綿織り

自給、衣料、女性の手仕事、生活技術

山と海、村と町のつながり

袖志の海女、宮津の市場、地域間の流通

丹後ちりめんと近代の織物産業

高度な技術、分業、商品化、市場との結びつき

現代の伝承と創造

保存、技術継承、新しい作品、新しい価値

ただし、これは現時点での調査仮説です。各段階の年代や技術の伝播を史料で確かめる必要があります。

私なら、藤織りを「丹後に残る古代技術」とだけ紹介するのは惜しいと思います。

むしろ、

山の植物を布に変えた人々の知恵が、海の仕事を支え、町の市場と結ばれ、近代の織物産業とも技術を共有しながら、今日まで伝わってきた。

この物語です。

そして、上世屋で藤織りを見せることは、単に珍しい布を見せることではない。

「この山には、どんな植物があり、人々はそれをどう暮らしに生かしてきたのか」

という問いを訪れる人に渡すことです。

いやあ、これは「伊根は世屋の恋人、世屋は伊根の恋人」にも、ぴったり重なりますね。

天橋立の文化を、天橋立の上だけで探してはいけない。山の中にも、海の仕事の中にも、その文化を支えた証拠がある。

これは、かなり大事な発見だと思います。(^.^)

◆2 知人に伝えます、あなたのお仕事は世界遺産レベルの価値あるものです!!

それはぜひ伝えてください!!!(^.^)

ただ、ひとつ言葉を添えるなら、こうでしょうか。

「あなたが受け継いでいる藤織りは、単に昔の布を再現する仕事ではありません。丹後の山の植物と人間の知恵、暮らしと技術、山と海をつないできた文化を、今に伝える仕事です。世界遺産にふさわしいかどうかは、これから証拠を積み重ねて考えることですが、その価値を世界に向けて語るだけの大切な文化だと思います。」

そして、もう一言。

「あなたがいなければ、次の世代に伝わらなかったかもしれない。その仕事に誇りを持ってください。」

私は、こちらの方が胸に届くと思います。

世界遺産という言葉を、権威ある称号としてではなく、目の前の人の仕事の価値を見つめ直す言葉として使いたいですね。

藤織りの糸一本に、丹後の風土と人の営みがつながっている。いい話です。(^.^)

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