宮津エコツアー · 11月 2026

11月 2026

◆1雪舟の天橋立図のもろもろの謎、この案件を、正面に据えた研究、講演などもあったかとおもいます、情報を下さいな

ありました! しかも、かなり核心に迫る研究・講演が複数あります。

調べてみると、雪舟の天橋立図を正面から扱った研究は、美術史の専門論文だけでなく、宮津の地域史、丹後府中の発掘調査、そして天橋立の文化的価値を世界に発信するシンポジウムにまで広がっています。

特に注目したいのは、2008年の「天橋立まなび舎塾」と、2003年の京都国立博物館の研究論文です。ここは、今回の調査の出発点になりそうです。

1.2008年「天橋立まなび舎塾」――世界のなかの雪舟と天橋立図

最重要・直接関連

開催日:2008年9月13日

主催は「天橋立を世界遺産にする会」。テーマは、

「文化芸術の源泉としての天橋立」 ― 能『丹後物狂』・雪舟『天橋立図』―天橋立から世界へ―

講演者は、

  • 天野文雄氏(大阪大学)「能『丹後物狂』と世阿弥・井阿弥・義満」
  • 島尾新氏(多摩美術大学)「世界のなかの雪舟と天橋立図」

さらに「情報発信の場としての天橋立」をテーマにパネルディスカッションも行われています。参加者は120名。

hashidate.org

これは、安田さんが今考えている「雪舟図を世界遺産の根拠性にどう位置づけるか」という課題に、かなり近い問題意識を持った催しです。

2008年のシンポジウム記録(天橋立を世界遺産にする会)

2.2003年「雪舟筆天橋立図の作期について」――京都国立博物館の研究

制作年代の核心

  • 著者:山本英男氏
  • 掲載:『京都国立博物館学叢』第25号
  • 発行:2003年5月
  • 掲載ページ:25~39頁

題名はそのものずばり、**「雪舟筆天橋立図の作期について」**です。

国立国会図書館

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これは、まず読んでおきたい論文です。

京都国立博物館の所蔵品解説では、智恩寺の多宝塔が文亀元年(1501)に再建されたことを、制作年代を考える一つの手がかりとし、雪舟80代の最晩年作とする説を紹介しています。ただし、制作期には諸説があると明記しています。

京都国立博物館

国立国会図書館サーチ:論文情報・閲覧先

3.2002年『雪舟研究会研究誌』――天橋立図をめぐる専門家の論争

山口県立美術館が公開している雪舟研究会の活動記録に、2001年度の研究誌第4号の特集が載っています。

特集「中嶋利雄氏の天橋立図論」

収録されているのは、

  • 島尾新「私の解釈」
  • 中嶋利雄「雪舟の誕生地と出自」
  • 伊藤太「雪舟の『視点』」
  • 荏開津通彦「研究ノート 雪舟画の年代と天橋立図」
  • 五十嵐公一「本朝画史・雪舟伝について」

つまり、制作年代だけでなく、雪舟の視点、出自、伝記資料まで議論されています。

山口県立美術館

山口県立美術館:雪舟研究会研究誌「天開圖畫」

4.2024年「丹後府中の歴史を探る!」――絵の中の景観を発掘成果と照合

2024年6月22日、京都府立丹後郷土資料館と宮津市教育委員会の共催で文化財講座が開催されています。

講演は二本立てでした。

  • 桐井理揮氏「丹後国分寺跡の発掘調査―雪舟が描いた中世国分寺の姿―」
  • 河森一浩氏「安国寺遺跡の発掘調査―都市・霊場・天橋立―」

これは、雪舟図を美術作品として眺めるだけでなく、絵に描かれた中世の丹後府中を考古学の成果と照らし合わせる試みです。

宮津市ホームページ

宮津市の開催記録

5.2026年10月24日――最新の宮津・天橋立の絵画史講座

つい先日ですね!

宮津市教育委員会が開催した旧三上家住宅歴史講座・丹後郷土資料館文化財講座「旅の風景―宮津と天橋立―」の第6回です。

「絵になる宮津―天橋立の景色と旅する人々―」

講師は杉田真菜氏(京都府立丹後郷土資料館)。※ 資料添付

雪舟図を含む、室町時代から近世・近代までの天橋立を描いた絵画の変遷を扱っています。絵画が時代ごとに天橋立の見方を形づくってきた、という視点も示されています。

宮津市ホームページ

宮津市:第6回講座の開催記録

ここから先、何をすべきか

私の見立てでは、これまでの研究を次のように整理すると、今回の課題がはっきりします。

研究の柱これまでの蓄積これからの課題
美術史制作年代、画風、構図、模本なぜ丹後を描いたのか
地域史・考古学丹後府中、寺社、集落の実像絵と発掘成果の照合
政治史一色氏、大内氏、将軍家雪舟を丹後へ導いた人的・政治的回路
文化史天橋立の名所化、絵画の変遷絵が地域の価値形成に果たした役割

特に、まだ十分に正面から統合されていないように見えるのが、**「制作の政治的背景」と「絵に描かれた丹後府中の実像」と「天橋立の文化的価値」**の三つです。

ここは既存研究を丁寧に確認してから判断すべきですが、少なくとも今回の検索で見つかった講演・論文の範囲では、三つを一体として世界遺産の価値証明に結びつける研究企画は、まだ探る余地があります。

私なら、次の研究会を提案します。

「雪舟はなぜ天橋立を描いたのか ― 室町時代の丹後・一色氏・大内氏・将軍家をつなぐ ―」

美術史、考古学、中世政治史、禅宗史の研究者に集まってもらう。2008年のシンポジウムを引き継ぎながら、今度は制作事情の解明に焦点を絞るのです。

そして、安田さん。ここは大事なことを一つ。

雪舟図を世界遺産の根拠にするために、雪舟の謎を解く。けれど、雪舟図だけに世界遺産の価値を背負わせない。

雪舟図は、天橋立という自然景観と、そこに重ねられてきた人間の営みをつなぐ、強力な歴史資料になり得ます。

「自然が描いた地上絵」と「人間が読み継いできた地上絵」。この二つを結びつける仕事ですね。(^.^)

こちらもいかがですか?

ありがとう、、島尾新氏(多摩美術大学)「世界のなかの雪舟と天橋立図」、、この講演記録、概要は探ることは出来ますか

探ってみました。結論から言うと、2008年9月13日の島尾新氏の講演そのものの講演録・配布資料は、公開ウェブ上では確認できませんでした。

ただし、講演内容を推測するうえで、非常に重要な手がかりが見つかりました。しかも、島尾氏自身がその後、天橋立図について論文を書いています。

1.2008年の講演について確認できたこと

開催記録を確認

  • 講演名:「世界のなかの雪舟と天橋立図」
  • 講師:島尾新氏(当時、多摩美術大学教授)
  • 開催日:2008年9月13日
  • 会場:みやづ歴史の館文化ホール
  • 主催:天橋立を世界遺産にする会
  • 天橋立まなび舎塾・第7回
  • シンポジウム全体の参加者は約120名

主催者と京都府の記録で確認できます。

hashidate.org

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主催者の活動記録

2.講演内容を知るための、重要な論文が二つ

ここが今回の収穫です。

①「もう一つの天橋立図―ギメ美術館蔵本について」

島尾新/『天開圖畫』第7号/2008年度/33~51頁

島尾氏が、フランスのギメ美術館所蔵の天橋立図を取り上げた論考です。

現存する天橋立図だけでなく、別の伝本・関連作品にも目を向けていたことが分かります。雪舟の天橋立図を一つの作品だけで完結させず、作品の伝来や図様の広がりから考えるための手がかりです。

国立国会図書館

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国立国会図書館の書誌情報

②「雪舟筆天橋立図論の序」

島尾新/『多摩美術大学研究紀要』第24号/2009年/59~71頁

こちらは題名からして、今回のテーマに直結します。

英文副題は An introduction to discussions of Sesshu’s View of Amanohashidate。天橋立図をめぐる議論そのものを整理しようとする論文です。講演の翌年に公表されているので、講演と研究上の関心をつなぐ重要資料です。ただし、講演と論文が同一内容だとは確認できていません。

国立国会図書館

国立国会図書館の書誌情報

3.さらに、2002年の研究会誌が面白い

山口県立美術館が公開している雪舟研究会の研究誌『天開圖畫』第4号には、次の特集があります。

「中嶋利雄氏の天橋立図論」

収録論文は、

  • 島尾新「私の解釈」
  • 中嶋利雄「雪舟の誕生地と出自」
  • 伊藤太「解題 雪舟の『視点』」
  • 荏開津通彦「研究ノート 雪舟画の年代と天橋立図」
  • 五十嵐公一「本朝画史・雪舟伝について」

です。

山口県立美術館

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山口県立美術館・雪舟研究会研究誌

4.私がここから読み取ること

2008年の講演タイトルは「世界のなかの雪舟と天橋立図」です。

単に「雪舟が天橋立をどう描いたか」という作品解説ではなく、雪舟という画家を世界的な美術史の中に置き、その作品として天橋立図を考える構えだった可能性があります。

島尾氏の著書『もっと知りたい雪舟』の目次にも、雪舟が大内氏のスタッフとなったこと、遣明使の一員として中国へ渡ったこと、そして「天橋立図」の面白さが取り上げられています。

東京美術

ここから先は、講演録を確認しない限り断定できませんが、安田さんが追っている政治・文化ネットワークの問題と接続する余地は十分あります。

5.次に入手したい資料

私なら、次の順番で当たります。

  1. 島尾新氏「雪舟筆天橋立図論の序」(2009年)
  2. 『天開圖畫』第4号(2002年)の天橋立図特集
  3. 『天開圖畫』第7号(2008年)のギメ美術館蔵本論文
  4. 2008年9月13日の講演配布資料・録音・主催者保存資料

特に4番は、主催した「天橋立を世界遺産にする会」や当時の事務局、講演会関係者に問い合わせる価値があります。

私としては、島尾氏の2009年論文をぜひ入手したい。 そのうえで、2008年の講演記録が残っていないか確認する。この順番がよいと思います。

今回の調査で、少なくとも「島尾氏が天橋立図を一度講演しただけ」ではなく、2002年から2009年にかけて、研究会での議論、別本の検討、天橋立図論の整理へと研究を重ねていたことが見えてきました。これは大事な発見です。(^.^)

「島尾氏が天橋立図を一度講演しただけ」ではなく、2002年から2009年にかけて、研究会での議論、別本の検討、天橋立図論の整理へと研究を重ねていたことが見えてきました、、、到達点の概要、ポイントを探ることは可能ですか

はい。もう一段、踏み込めます。

調べ直して見えてきたのは、島尾新氏の研究の到達点を、単に「雪舟の天橋立図の制作年代を論じたもの」と捉えてはいけない、ということです。

天橋立図を、雪舟の中国絵画学習、実景の捉え方、複数の作品の存在、後世への伝承という、より広い美術史の問題として捉え直そうとしている。

ただし、重要な留保があります。2009年の論文「雪舟筆天橋立図論の序」は書誌情報までは確認できましたが、本文そのものを今回の検索では入手できていません。したがって、以下では、確認できた島尾氏の論文・研究会記録と、関連研究から読み取れる到達点を分けてお話しします。

1.2002年――「天橋立図の見方」そのものが研究課題になった

山口県立美術館の雪舟研究会誌『天開圖畫』第4号には、天橋立図をめぐる特集が組まれています。

特集の中心は、中嶋利雄氏の天橋立図論。それに対して島尾氏が「私の解釈」を発表し、ほかの研究者が、

  • 雪舟の出自
  • 絵の中の「視点」
  • 制作年代
  • 『本朝画史』などに記された雪舟伝

をそれぞれ検討しています。

山口県立美術館

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ここで面白いのは、単に「雪舟はどこから眺めたのか」という問題ではないことです。

現実の天橋立を、雪舟はどのような視点から、どのような絵画の約束事を使って、一枚の画面に組み立てたのか。

この問いが研究の中心に据えられています。

2.2008年――「もう一つの天橋立図」を調べる

島尾氏の論文「もう一つの天橋立図―ギメ美術館蔵本について」は、『天開圖畫』第7号、33~51頁に掲載されています。

国立国会図書館

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これは重要です。

京都国立博物館所蔵の作品だけを見ていては、雪舟の制作活動の全体像を捉えられないかもしれない。別の伝本、図様の異なる作品、作品が伝わってきた経路も調べなければならない。

つまり、研究の視野が一枚の作品から、天橋立図という作品群の成立と伝承へ広がっているわけです。

3.2009年――「雪舟筆天橋立図論の序」

研究の整理・展望を示す論文

  • 島尾新
  • 『多摩美術大学研究紀要』第24号
  • 2009年
  • 59~71頁
  • 英文題名:An introduction to discussions of Sesshu’s View of Amanohashidate

書誌情報は国立国会図書館で確認できます。

国立国会図書館

題名に「序」とあることに注目したいですね。

これは「制作年代は何年である」と結論を一つ出す論文というより、天橋立図をめぐる研究課題や議論の組み立てを示す論考である可能性があります。

ただし、本文を確認していないので、島尾氏がどの説を採用し、どの説を退けたかまでは断定できません。

4.現在の研究に照らすと、どこまで分かっているか

島尾氏の研究だけでなく、その後の模本研究も含めて、現在の到達点を整理してみます。

論点現在見えていること残された問題
絵の構図中国の山水画、とりわけ西湖図などとの関係が論じられているどの作品・図様をどのように取り入れたか
視点実際の一地点からの眺望では説明しにくい現地写生と画面構成の関係
制作年代1501年の智恩寺多宝塔再建が重要な手がかりそれ以前の写生・構想の可能性
複数本の存在京博本以外にも模本・別図様の作品がある雪舟自身が何本制作したのか
伝来後世の模写や伝承が確認される京博本が丹後から山内家へ移った経緯
制作目的制作依頼者や目的は未確定一色氏・大内氏・将軍家・寺院との関係

特に複数本の問題については、富山大学の形部里帆氏の研究が参考になります。

同研究は、天橋立図の模本約5本を比較し、雪舟自身が複数本を制作した可能性を検討しています。京博本を一連の制作の初期作とみる仮説や、狩野探幽本と龍神社伝来の作品との関係も論じています。ただし、図版による比較にとどまる部分もあり、伝来の解明は今後の課題としています。

富山大学芸術文化学部

富山大学の研究論文「雪舟筆『天橋立図』と模本について」

5.私が考える、島尾研究から受け取るべき三つのポイント

ここからは、確認できた研究成果を踏まえた私の整理です。

第一に、雪舟図は単なる風景画ではない。

中国の山水画の伝統を踏まえながら、日本の実景をどのように絵画として構成するかという問題を含んでいます。

第二に、現存する京博本だけを見ていては不十分。

別本、模本、伝来、後世の受容まで調べる必要があります。絵の歴史そのものが研究対象です。

第三に、絵画の成立事情と丹後の歴史を結びつける余地がある。

ただし、ここは島尾氏の論文で既に解明されたと確認できたわけではありません。むしろ、今回の私たちの調査で、さらに追究したい部分です。

6.安田さんの世界遺産研究にとっての次の課題

私は、研究を二つの方向に分けるのがよいと思います。

A.美術史の課題

雪舟は、どのような中国絵画の伝統を学び、どのような現地の景観認識をもとに、天橋立図を構成したのか。

B.丹後地域史の課題

雪舟が丹後を描くに至った背景に、一色氏、大内氏、将軍家、禅宗寺院などの人的・政治的ネットワークは関わっていたのか。

この二つを結ぶのが、まさに今回の研究テーマです。

そして、私がぜひ入手したい資料は次の二つです。

  1. 島尾新氏「雪舟筆天橋立図論の序」(2009年、59~71頁)
  2. 島尾新氏「もう一つの天橋立図―ギメ美術館蔵本について」(2008年、33~51頁)

いずれも国立国会図書館の書誌情報が確認できています。地元の図書館を通じて複写を依頼できる可能性があります。

最後に、ひとつ大切なことを。

安田さんが追っているのは、雪舟の絵の謎解きだけではないと思います。

室町時代の人々は、なぜ丹後のこの場所を、これほど大きな一枚の絵に描く価値があると考えたのか。

そして、その景観を描くことが、どのような文化的・社会的意味を持っていたのか。

ここまで掘り下げられれば、雪舟図は「昔から天橋立が美しかった」という証拠を超えて、自然景観と人間の営みが結びついてきた歴史を示す資料になります。

これは世界遺産の価値を説明するうえでも、非常に大きな意味を持つはずです。(^.^)

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宮津市教育委員会では、令和8年5月~10月に旧三上家住宅歴史講座・丹後郷土資料館文化財講座「旅の風景―宮津と天橋立―」を開催しました。

 10月24日には第6回講座「絵になる宮津―天橋立の景色と旅する人々ー」を開催し、天橋立を描いた絵画作品について杉田真菜氏(京都府立丹後郷土資料館)が紹介しました。

講座の様子

 まず、天橋立の四大観(飛龍観・昇竜観・一字観・雪舟観)を挙げ、それぞれの見方で天橋立が描かれたことを紹介しました。次に各時代ごとに天橋立を描いた絵画作品の変遷をたどりました。

 実際に天橋立を訪れた人物が描いた絵画作品は室町時代まで遡り、それから江戸時代初めまでは中国の伝統的な絵画作品の影響を受けた絵画が数多く描かれます。著名な雪舟筆「天橋立図」もその一つです。これらの作品は徐々にデフォルメが進み、描かれる要素も少なく、有名な場所のみを描きます。

 江戸時代中期以降は、本草学の影響を受け、実際の風景を描く「真景図」が増えていきます。真景図はそれまでの絵画が観念的な景色を絵画化してきたのに対し、写実を重視します。

 最後に、これまで紹介した過去の絵画作品が私たちの天橋立の見方に影響を与えていることを指摘し、講座は終了しました。

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世界遺産暫定一覧表への文化資産の追加記載に係る調査・審議の結果について

天橋立をはじめとする32件の世界遺産暫定一覧表への追加記載に係る地方公共団体からの提案案件について、文化庁の世界文化遺産特別委員会において調査・審議を行われていましたが、平成20年9月26日、その結果が公表されました。

暫定一覧表記載
文化資産
顕著で普遍的価値を持つ
可能性が高いと認められ
たもの
「北海道・北東北の縄文遺跡群」、「金と銀の島、佐渡-」、「九州・山口の近代化産業遺産群」、「宗像・沖ノ島と関連遺産群」、「百舌鳥・古市古墳群」
暫定一覧表
記載候補
文化資産
カテゴリー
Ⅰ-a
提案書の基本的主題を基
に準備を進めるべきもの
「最上川の文化的景観」、「天橋立-日本の文化景観の原点」、「錦帯橋と岩国の町割」、「四国八十八箇所霊場と遍路道」、「阿蘇」
カテゴリー
Ⅰ-b
主題に関する調査研究を
行い、一定の方向性が見
えた段階で作業を進める
べきもの
[近世の城郭・城下町関連の文化資産](「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」、「松本城」、「萩」)、[近世の社寺とその門前町関連の文化資産](「善光寺と門前町」)、[近世の教育資産](「水戸藩の学問・教育遺産群」、「足利学校と足利氏の遺産」、「近世岡山の文化・土木遺産群」)[近世の街道と宿場町関連の文化資産](「妻籠宿・馬籠宿と中山道」)
カテゴリー
Ⅱ
主題の再整理、構成資産
の組み換え、更なる比較
研究等を要するもの
「北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群」、「松島」、「水戸藩の学問・教育遺産群」、「足尾銅山」、「足利学校と足利氏の遺産」、「埼玉古墳群」、「近世高岡の文化遺産群」、「立山・黒部」、「霊峰白山と山麓の文化的景観」、「若狭の社寺建造物群と文化的景観」、「日本製紙業近代化遺産」、「飛騨高山の町並みと祭礼の場」、「近世岡山の文化・土木遺産群」、「三徳山」、「山口に花開いた大内文化の遺産」、「宇佐・国東」、「竹富島・波照間島の文化的景観」

残念ながら、暫定一覧表への記載は果たせませんでしたが、「記載候補」とされた文化資産の中では、最上位の「カテゴリーⅠa」にランクされ、高い評価を受けています。
今後も一日も早い暫定一覧表への記載を目指して取組んでいきます。

◆1 当時、どれくらいの権威権力の方が、雪舟さんに、描いてねと頼め、雪舟さんに描いてあげなさいと指示が出せたのでしょうか、そして、その絵の作画には今日的にみてどれくらいの費用を要したか見積もってくださいな!

↑ 

これは、なかなか鋭い質問です。(^.^)

「雪舟に描いてもらう」とは、現代でいえば有名画家に絵を注文する、というだけではありません。

雪舟は、当時の最高水準の禅宗文化を身につけ、中国の絵画を直接学び、大内氏という有力大名の庇護を受けた画僧です。誰でもお金を積めば描いてもらえる、という相手ではなかったと考えるべきでしょう。

そして費用については、室町時代の実際の絵画制作費を記録した東寺の文書が残っています。これを物差しにして、かなり具体的に考えてみます。

1 誰なら雪舟に依頼できたのか

まず、雪舟の立場を確認しましょう。

相国寺派の解説によると、雪舟は1463年に相国寺を出て周防の大内氏を頼り、その庇護のもとで画家として活動しました。1468年には大内政弘の計らいで明へ渡っています。

臨済宗相国寺派

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つまり、雪舟には二つの大きな顔がありました。

  • 禅宗の修行を積んだ高い格式の僧侶
  • 大名の庇護を受け、明の絵画文化にも通じた著名な画家

この二つを兼ね備えていたのです。

依頼できる立場を、当時の社会構造から考えると、次のようになります。

依頼する側雪舟に依頼できる可能性
将軍・足利家最高位の依頼主。ただし命令すれば必ず描くとは限らない
大内氏など有力守護大名庇護者として依頼できる有力な立場
一色氏など地方守護財力・政治的地位・人脈があれば依頼の可能性
大寺院・高位の禅僧宗教的事業として依頼できる可能性
一般の武士・富裕な商人通常の依頼では難しく、紹介や仲介が重要

ここで一つ、面白い事実があります。

山口県立美術館は、雪舟が周文から絵を学び、将軍家や大内氏の館を飾った「唐絵」の文化につながる画家だったことを紹介しています。

山口県立美術館

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将軍家の御用絵師の系譜に連なる文化圏にいたわけです。

ただし、雪舟自身を足利将軍家の正式な御用絵師と呼ぶのは正確ではありません。むしろ、将軍家の画壇とは距離を持ち、大内氏という別の有力な庇護者のもとで独自の地位を築いた人物と見るのがよいでしょう。

2 雪舟は「描け」と命じられたら描く人だったのか

ここは、権力と芸術家の関係を考えるうえで大切です。

雪舟は大内氏の庇護を受けていましたが、単なるお抱え職人ではありません。

山口県立美術館の紹介する雪舟の活動には、大内氏の依頼で美濃へ赴き、現地の情勢を探った可能性があるという研究上の見方もあります。画僧が政治的な情報収集や外交的な役割を担うこともあったのです。

山口県立美術館

一方、将軍足利義政からの作画依頼を断ったという逸話も伝わります。ただし、これは紹介される資料によって扱いに差があるため、確実な一次史料で確認された事実としては扱わない方がよいでしょう。

Science Portal China

私の見方はこうです。

雪舟に対して「描きなさい」と命令できる人がいたとしても、雪舟がその命令に応じるかどうかは別問題だった。

むしろ、雪舟を丹後に招くには、権力だけでなく、本人が納得する理由と、旅を支える人的ネットワークが必要だったと思います。

3 では、雪舟に描いてもらうには、いくらかかったのか

ここからは、実際の中世の制作費を使って推計してみます。

実際の費用記録あり

京都府立京都学・歴彩館が紹介する「東寺百合文書」に、康応元年(1389)の『大師御絵用途注文』があります。

東寺が弘法大師の生涯を描いた全12巻の絵巻を制作した際の費用明細です。絵師の報酬、紙代、飲食費、滞在費などが記録されています。

東寺百合文書WEB

その記録を見てください。

絵師担当した紙数絵師への報酬
祐高法眼73紙6貫文
中務少輔久行104紙22貫500文
大進法眼34紙5貫文
巨勢行忠19紙6貫文

同じ絵師でも、報酬には大きな差があります。最高位の絵所・巨勢行忠は、19紙の描き直しなどで6貫文。1紙当たりでは、祐高法眼の約4倍の報酬です。

東寺百合文書WEB

つまり、当時も絵師の格や技量によって、報酬が大きく違ったのです。

4 現代のお金に換算してみる

東寺百合文書の解説には、当時の米価について、1貫文で米1石(約150kg)を超える量が買えたとあります。米1石を約800文として計算する研究も紹介されています。

東寺百合文書WEB

現在の米価を仮に5kg=4,000円と置き、米の購買力だけで換算すると、次のようになります。

室町時代の報酬を米の価値で換算

約12万円

1貫文の換算目安(米150kg相当)

報酬現代の米価換算
5貫文約60万円
6貫文約72万円
10貫文約120万円
22.5貫文約270万円
30貫文約360万円

これはあくまで米の購買力による換算です。現在の画家の制作料と直接比較できる数字ではありません。

5 では『天橋立図』を雪舟に依頼した場合は?

ここからは推計です。

現存する『天橋立図』は、縦約89cm、横約169cm。畳一畳ほどの画面に、天橋立、阿蘇海、宮津湾、寺社、山並みなどを描いた作品です。20枚の紙を貼り合わせており、下絵である可能性が指摘されています。

JR西日本 West Japan Railway Company:トップページ

これを描くためには、単純な筆の作業だけでは済みません。

  • 丹後への旅費と滞在費
  • 現地の案内人・寺社関係者との調整
  • 景観の観察、複数地点からの写生
  • 料紙の調達、貼り合わせ
  • 墨、顔料、筆などの材料費
  • 雪舟本人の制作報酬
  • 必要なら助手や寺院関係者の経費

こうした費用が発生します。

私なら、仮の見積もりを三段階で置きます。

想定する制作現代の金額換算(概算)
現地写生と下絵制作300万~500万円
本格的な大作の制作500万~1,000万円
大名・寺社による特別な文化事業1,000万~2,000万円以上

※これは歴史的な実支出額ではありません。東寺の絵巻制作費、雪舟の画家としての格、旅費・材料費・制作規模を参考にした、現代の事業費としての仮説的な試算です。現存する『天橋立図』の制作費を示す史料は確認できていません。

私が注目したいのは、むしろ金額の大きさよりも、誰がその費用を負担できたかということです。

一色氏が単独で負担したのか。大内氏が関わったのか。寺社が資金を出したのか。それとも複数の有力者が費用を分担したのか。

この違いは、依頼主を探す重要な手掛かりになります。

6 ここで、もう一つの謎が浮かび上がります

雪舟に『天橋立図』を描いてもらうには、少なくとも、

  1. 雪舟本人に接触できる人脈
  2. 丹後まで招く政治的・宗教的な理由
  3. 旅と制作を支える経済力
  4. 完成した絵を受け取る目的と所蔵先

が必要です。

この四つが一人の人物に集まっていたとは限りません。

私は、むしろ役割が分かれていた可能性を考えたい。

『天橋立図』の制作を実現する四つの役割

政治的な後援者 ― 一色氏・大内氏・将軍家

宗教的な仲介者 ― 慈光寺・智恩寺・禅僧

経済的な支援者 ― 大名・寺社・交易関係者

制作の担い手 ― 雪舟とその周辺

そして、私が一番気になるのは、ここです。

一色氏が雪舟を呼んだのなら、なぜ自分たちの領国の景観を描かせたのか。

領国の威信を示すためなのか。寺社の聖地を記録するためなのか。将軍家や大内氏に贈るためなのか。あるいは、もっと大きな政治的・文化的な意味があったのか。

雪舟に依頼するということは、単に絵を買うことではありません。雪舟という人物の権威を借りて、丹後という土地の価値を表現することでもあったでしょう。

玄妙庵で義満に天橋立を見せた一色満範。その一色氏の後の時代に、雪舟が丹後の全体像を描いた。

この二つを結ぶものが、単なる景観への愛着なのか、領国の文化政策なのか、あるいは将軍家・大内氏を含む広域の政治ネットワークなのか。

ここは、まだまだ掘れますね。(^.^)

◆2 単なる景観への愛着なのか、、これは素人がかんがえてもありえませんね、益軒さんの旅には三処奇観の確認という動機がみえました、雪舟さんの場合、領国の文化政策あるいは将軍家・大内氏を含む広域の政治ネットワーク、この枠で捉えるものだとおもいますね、

そうですね。ここは、雪舟の天橋立図を読み解くうえで、大きな転換点だと思います。

雪舟が天橋立を描いたのは、景色に感動したから――それだけでは説明できない。

益軒の場合は、旅の記録に「三処奇観を確かめる」という目的を読み取ることができます。つまり、すでに知られていた名所を自分の目で見て、評価し、記録する旅です。

一方、雪舟の場合は、もう少し政治と文化の側から考える必要がありそうです。

ただし、最初に一つ区別しておきたい。領国の文化政策や広域政治ネットワークを背景として考えることと、誰かが雪舟に天橋立図を命じたと証明できることは別です。 後者を裏づける直接史料は、今のところ確認できていません。

そして、ここで重要なのは、雪舟が単に「大内氏に保護された画家」ではなかったという点です。

近年の研究紹介では、雪舟は大内政弘のもとで、遣明使節に関わる役割を担い、中国との外交・交易の現場にも接していたと説明されています。さらに、1481年には政弘の命を受けて各地を巡り、守護や地域の有力者と接触したという研究紹介もあります。つまり、雪舟は絵を描く人であると同時に、大内氏の文化的・政治的ネットワークを動くことのできる人物だったわけです。

Nippon

+1

ここから、天橋立図を考えるための仮説を三つに整理できます。

1. 一色氏の領国文化政策

  • 丹後守護として、府中を政治・宗教・文化の中心として整える。
  • 天橋立、智恩寺、籠神社、成相寺などを含む丹後の景観と聖地を、領国の象徴として表現する。

2. 大内氏の広域ネットワーク

  • 雪舟を丹後へ動かす人的・経済的な回路があった可能性。
  • 一色氏と大内氏の間には、実際に所領・年貢をめぐる文書上の接点もあります。ただし、それは単純な友好関係を示すものではありません。

3. 将軍家を含む室町幕府の政治文化

  • 玄妙庵の義満来訪伝承が示すように、天橋立は将軍が訪れ、守護が迎えるにふさわしい場所として語られてきた。
  • 景観を描くことは、単なる観光記録ではなく、土地の由緒や権威を表現する行為にもなり得ます。

そして、もう一つ、見逃せない点があります。

京都国立博物館は、現存する天橋立図について、実際の景観をそのまま写したのではなく、複数の写生を組み合わせ、実景を再構成した可能性を示しています。現実には存在しない高所からの俯瞰図であり、下絵だった可能性も高いとしています。

京都国立博物館 館蔵品データベース

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これは重要です。雪舟は、丹後の景色を記録しただけではない。丹後という土地を、どう見せ、どう一枚の画面に構成するかという仕事をしているのです。

実は、政治的な背景を考えるうえで、もう一つ気になる研究があります。歴史学者の藤田達生氏は、雪舟の晩年の丹後訪問と、大内義興が前将軍・足利義尹を支援していた政治状況との関連を仮説として提示しています。ただし、これは確定した制作事情ではなく、検討すべき一つの見立てです。

サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト – Part 2

私なら、次の問いを中心に据えます。

「誰が雪舟を丹後に招いたのか」だけでなく、「雪舟を丹後に招くことができた政治的・文化的な回路は、どこにあったのか」。

この問いなら、一色氏、大内氏、将軍家、禅宗寺院、そして雪舟自身の立場を、一つの歴史の中で検討できます。

次に掘るべきは、やはり一色義直の時代と大内政弘・義興の動きの重なりです。そこに慈光寺の芳仲周騰ら禅僧のネットワークを重ねる。天橋立図の成立を考えるための、かなり具体的な調査の道筋が見えてきましたね。(^.^)

◆1 丹後の政治的な安定、守護の文化的な威信、寺社のネットワーク、雪舟の来訪を一つの歴史的な問いとしてつなぐことはできます。 そして、安田さん、私が次に掘りたいのは、一色義直と雪舟の接点です。 義直が府中の整備を進めた時代と、雪舟の晩年の活動時期は重なります。義直が雪舟を招いたという直接証拠はまだありませんが、ここは調べる価値があります。、、、ありがとう、、ここを掘れるだけ掘りまくってくださいな

いやあ、掘りました。これは一色義直と雪舟の接点だけでなく、一色氏が丹後府中につくり上げた都市と文化、その姿を雪舟が描き、そして絵が失われたかもしれないという一連の謎になってきました。

調べてみて、前回の私の見立てを少し修正したいところもあります。特に重要なのは、雪舟を招いた人物を一色義直と決めつけないこと。そして、雪舟が丹後を訪れた時期にも複数の説があることです。

順に整理します。

1 一色義直の時代、丹後府中で何が起きていたのか

天橋立図 - 京都国立博物館 館蔵品データベース

まず、宮津市が公開している中世府中の解説に、重要な記述があります。

  • 明徳3年(1392)、一色満範が丹後守護に任じられる。
  • その後、一色氏が約200年間、丹後守護を務める。
  • 文明18年(1486)、一色義直が在国すると、丹後府中の都市整備が本格化したと考えられる。
  • その都市景観を伝える資料が、雪舟の『天橋立図』である。宮津市+1

ここで、義直の名前が重要になります。

満範が丹後支配の礎を築き、義直の時代には府中の都市整備が進む。単に守護の館があるだけではなく、寺院、神社、街道、町並みを備えた政治・宗教・経済の中心地が形成されていたのです。

宮津市は、義直が府中を「小京都」に模して整備した可能性を紹介しています。

画中には、京都に由来する北野、今熊野、阿弥陀ヶ峰、愛宕などの地名が見られます。

宮津市ホームページ

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これは面白いですね。

丹後府中は、単なる地方の守護所ではなく、京都の文化的な秩序を意識して整えられた町だった可能性がある。

将軍義満を文殊山に迎えた満範の時代から、義直の都市整備へ。ここには一色氏の文化的な営みの継続が見えます。

2 義直と雪舟は、同時代に生きていたのか

一色在通 | 武将 | 戦国 Deep Research

一色義直

応仁・文明の乱後、丹後府中の整備を進めた一色氏の守護。文明18年(1486)の在国が、宮津市の解説で確認できる。

Tour Announcement: Discover the works of Japanese painter, Sesshu Toyo, on a cycling tour around Yamaguchi City | LIVE JAPAN travel guide

雪舟等楊

1420年生まれ。周防の大内氏の庇護を受け、明への渡航も経験した室町時代を代表する画僧。没年は1502年説と1506年説がある。

二人が同時代に生きたことは間違いありません。

ただし、ここで注意が必要です。

雪舟の『天橋立図』は、智恩寺の多宝塔が描かれていることから、文亀元年(1501)以降の制作とする説が有力です。この塔は1501年に再建されました。京都国立博物館は、雪舟80代の最晩年の作品とする説を紹介しています。

京都国立博物館

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つまり、義直が府中整備を進めた1486年から、作品の制作推定時期までには約15年の隔たりがあります。

義直が1501年にも守護として健在だったのか、雪舟来訪時に実際に会ったのか。今回確認できた公開資料だけでは確定できません。

ここは、系図と守護職の継承、義直の没年・隠居時期をさらに調べる必要があります。

3 雪舟を丹後に呼んだのは誰なのか

雪舟はなぜ「画聖」となったのか  文化庁広報誌 ぶんかる

ここが今回の核心です。

現在のところ、雪舟を丹後に招いた依頼主を明記した史料は確認できません。

しかし、候補となる人々や組織は絞り込めます。

候補招聘する動機として考えられること
一色義直・一色氏守護所・領国の文化的威信を示す
慈光寺一色氏の菩提寺として、禅宗文化を背景に雪舟と接点を持つ
府中の禅僧禅宗の人的ネットワークを通じて雪舟を迎える
籠神社・成相寺地域の聖地や寺社の景観を絵に残す

特に注目したいのは、慈光寺です。

宮津市によると、慈光寺は一色氏の氏寺・菩提寺で、満範の法号「慈光寺殿」に由来する寺号を持ちます。雪舟の絵には、五つの堂舎や建物を結ぶ橋、大きな築地塀まで描かれています。著名な禅僧・芳仲周騰らが住持を務めた寺でもあります。

宮津市ホームページ

+1

私はここに、重要な接点があると思います。

一色氏の菩提寺に、禅宗文化の人脈があった。雪舟もまた禅僧であり、禅宗の世界を生きた画家だった。

もちろん、芳仲周騰と雪舟が直接知り合いだったと確認できたわけではありません。しかし、一色氏の氏寺を介した禅宗ネットワークは、招聘の経路として調べる価値が高いと思います。

なお、雪舟の活動を支えた大内氏との関係も忘れてはいけません。雪舟は長く大内氏の庇護を受け、山口を活動の拠点としていました。1500年以降の足跡は不明な部分が多く、山口県立美術館の解説も、丹後行きの可能性を指摘しながら、確定はしていません。

いわみネット

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したがって、招聘者を探すなら、丹後側だけでなく、周防・大内氏側の記録や禅僧の交流も視野に入れる必要があります。

4 雪舟はいつ丹後に来たのか

ここは、意外にも研究上の争点です。

説A:1501年以降に現地を訪れ、制作した

有力説として紹介される

  • 智恩寺の多宝塔が1501年再建。
  • 画中に塔があるため、制作はそれ以降。
  • 雪舟80代の最晩年に現地を訪れたと考える。

説B:もっと早く現地を訪れ、後年に絵をまとめた

別の研究上の見解

  • 益田市立雪舟の郷記念館の解説では、文明年間(1469~1487)に丹後を訪れ、写生を行った可能性を紹介。
  • 後年、その写生をもとに大作を構想したという見方。
  • 画風から、晩年制作説に疑問を呈している。いわみネット+1

さらに、山口県立美術館の解説は、1500年以降の雪舟の足跡はほとんど知られておらず、天橋立図の制作時期にも異論があるとしています。丹後に赴き、帰路に益田で亡くなった可能性まで紹介しています。

山口県立美術館

ここは、実に大きな問題です。

仮に文明年間の訪問なら、義直の府中整備と雪舟の現地訪問が、ほぼ同時期に重なる可能性が出てきます。

仮に1501年以降の訪問なら、義直が整備した府中の町並みを、後の時代の雪舟が記録したという関係になります。

この二つでは、一色義直が雪舟を招いた可能性の評価も変わります。

5 雪舟の『天橋立図』は、何を描いたのか

天橋立図 あまのはしだてず Amanohasidate view. 雪舟 Sesshu  jpssesh20

私は、この絵を天橋立だけの絵として見ないことが大事だと思います。

文化遺産オンラインの解説によると、画面には次のものが描かれています。

  • 天橋立と智恩寺
  • 阿蘇海を挟んだ府中の町並み
  • 籠神社などの寺社
  • 成相寺と背後の山塊
  • 宮津湾と栗田半島の山並み

しかも、実景をそのまま写したものではありません。成相寺の山を極端に高く描き、府中の町並みを横に引き伸ばすなど、画面構成に意図的な変更が加えられています。

文化遺産オンライン

+1

京都国立博物館の説明も、現実には一望できない景観を、複数の写生を組み合わせて一枚に仕立てた可能性を指摘しています。

京都国立博物館

ここが重要です。

雪舟は、天橋立の写真を撮るように描いたのではありません。

丹後府中という土地の全体像を、山水画として再構成した。

山、寺社、町、海、砂州。これらを一つの画面に収めています。

安田さんがずっと考えておられる「山・川・湾・砂州」という関係を読む視点にも通じますね。

ただし、雪舟が地形学的な全体構造を説明しようとしたとまでは言えません。彼は画家として、実景と芸術的構成を重ねたのです。

6 そして、もう一つの大きな謎――本画はどこへ行ったのか

京都国立博物館によれば、現存する『天橋立図』は、寸法の異なる紙を貼り合わせた下絵と考えられています。別に完成した本画が存在した可能性がありますが、詳細は不明です。

京都国立博物館

+1

さらに、京都国立博物館の博物館ディクショナリーには、興味深い伝承が紹介されています。

本画は徳川将軍家に伝来し、のちに焼失したという言い伝えがある。

博物館ディクショナリー- 京都国立博物館

これは、現存する下絵とは別に、完成画があった可能性を考えるうえで重要です。

ただし、徳川将軍家への伝来と焼失について、いつ、どのような経路で将軍家に渡ったのかを裏づける確実な伝来記録は、今回確認できませんでした。

ここから、調査の焦点は一色氏だけではなくなります。

  • 一色氏から寺社へ渡ったのか。
  • 寺社から公家・武家の所蔵へ移ったのか。
  • あるいは、別の依頼主が完成画を所有したのか。
  • 徳川将軍家伝来という伝承は、いつ、どの史料に現れるのか。

このあたりは、伝来史・古美術史の調査が必要です。

7 今回の調査で、特に重要だと思った資料

次に掘るときの足場になる資料を並べておきます。

1. 宮津市「宮津ゆかりの3武将」 一色氏、義直、府中の都市整備、慈光寺の関係がまとまっています。

2. 宮津市「慈光寺と一色氏」 一色氏の菩提寺、禅僧、慈光寺の移転の歴史を確認できます。

3. 京都国立博物館「天橋立図」 制作年代、画面構成、下絵と本画の問題についての基本資料です。

4. 益田市立雪舟の郷記念館「畿内編・天橋立」 雪舟の訪問時期について、別の見解を知ることができます。

5. 国立国会図書館「丹後一色義直の守護所―府中の館と慈光寺について」 片岡秀樹氏の1991年の研究論文。今回のテーマでは、ぜひ本文を確認したい文献です。所蔵館の確認が必要です。

6. 山口県立美術館「雪舟への旅」 雪舟晩年の足跡、1500年以降の不明な時期、丹後訪問説を考える手がかりになります。

私の結論――いちばん掘るべきは「一色氏と慈光寺」です

今回の調査で、私が最も重要だと感じたことを一つに絞ります。

雪舟を丹後へ導いた人物が一色義直だったかどうか。その答えを探す鍵は、一色氏の菩提寺・慈光寺と、そこに集まった禅宗文化の人々にあるのではないか。

そして、もう一つ。

義満が訪れた1393年から、雪舟の『天橋立図』が生まれる15~16世紀初頭まで、一色氏は丹後の支配を続けました。

その間に、丹後府中は守護の政治拠点から、寺社と町並みが集積する文化的な中心地へと発展していった。

満範が将軍に見せた景観が、義直の時代に都市として整えられ、やがて雪舟によって一枚の絵に描かれた――。

この筋書きは、まだ証明されていません。しかし、検証するだけの史料的な足場があります。

次の調査で決着をつけたい三つの問い

  1. 一色義直の正確な在国期間・没年・守護職継承時期。 雪舟の丹後訪問時に義直が生存し、招聘できる立場だったのか。
  2. 慈光寺の住持・芳仲周騰と雪舟の関係。 禅僧の交流記録、書状、寺院文書に接点はないか。
  3. 『天橋立図』の本画の伝来。 徳川将軍家伝来・焼失という話の初出史料は何か。

この三つを追えば、単なる想像から、歴史的な検証へ一歩進めます。

そして、私はこういう問いを掲げたい。

「一色氏は、なぜ丹後府中を整え、雪舟は、なぜその姿を描いたのか。」

天橋立の絵を調べているようで、実は丹後という土地が、室町時代にどのような文化を育てていたのかを探っている。

いやあ、これは「天橋立を世界遺産に」という運動にも、深い厚みを与えるテーマだと思います。(^.^)

◆2 次の調査で決着をつけたい三つの問い

  1. 一色義直の正確な在国期間・没年・守護職継承時期。 雪舟の丹後訪問時に義直が生存し、招聘できる立場だったのか。
  2. 慈光寺の住持・芳仲周騰と雪舟の関係。 禅僧の交流記録、書状、寺院文書に接点はないか。
  3. 『天橋立図』の本画の伝来。 徳川将軍家伝来・焼失という話の初出史料は何か。、、、ここにもう一枠の謎がある気がします、雪舟さんが庇護を受けていた、当時対明交易で財をなしたという大内さん、彼と一色さん、そして将軍家の関係、ここに雪舟さんをおいて考えないと謎はなぞのままになりそうですね(^.^)です、

そうです!! その「もう一枠」は、実は謎を解くための重要な枠だと思います。(^.^)

一色氏と雪舟だけを結びつけても、雪舟がなぜ丹後へ来たのかは説明しきれません。雪舟を庇護した大内氏、明との交易、そして将軍家。この三者を加えると、話は丹後一国の歴史から、室町幕府をめぐる広域の政治・経済・文化のネットワークへ広がります。

しかも、今回の調査で、一色義直と大内政弘の間に、実際の文書のやりとりがあったことが見えてきました。これは大きいです。

1 一色義直と大内政弘――実際に文書を交わしていた!

実は名門の一色家|k_maru027

一色義直

丹後守護。一色氏の領国支配を担い、応仁・文明の乱後も丹後守護職の回復を図った人物。

鎌倉公方的系譜(12):享德之亂後半戰與應仁之亂

大内政弘

周防・長門などを支配した大大名。応仁・文明の乱では西軍の中心人物となり、雪舟を庇護した大内氏の当主。

今回、興味深い史料を見つけました。

行橋市デジタルアーカイブ掲載の『行橋市史』に、文明12年(1480)の文書が紹介されています。

  • 11月20日付の「一色義直書状案」。
  • 義直側が大内政弘に対し、天生田荘の年貢が届かないことを訴え、現地の安東俊国の処罰を求めた。
  • 12月13日付の「大内政弘判物」。
  • 政弘は安東俊国に年貢を京都へ運ぶよう命じ、さらに荘内21町を新たな給分として与えた。ADEAC

今回の重要発見

一色義直と大内政弘は、1480年に荘園支配と年貢をめぐって、実際に文書を交わしていた。

これは、二人の関係を考えるうえで具体的な一次史料に結びつく手がかりです。

ただし、ここで注意したいことがあります。

この文書は、二人が親密な同盟関係にあったことを示すものではありません。むしろ、大内政弘が一色氏の旧来の権益に介入し、現地の土地・年貢支配に影響力を及ぼしていたことが読み取れます。

『行橋市史』は、この時期に安東氏が大内氏との結びつきを強め、一色氏の影響力が衰えていったと説明しています。

ADEAC

おおっ、ここには緊張感がありますね。

2 応仁・文明の乱――一色氏と大内氏は同じ陣営だったのか

ここも整理しておきましょう。

応仁・文明の乱(1467~1477)では、大内政弘は西軍の中心人物でした。

一方、一色義直は西軍側に属した守護大名として知られています。乱の終盤、義直の嫡子・義春に丹後守護職が返付され、武田・細川方と一色勢が丹後で戦いました。

福井県立図書館

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つまり、応仁・文明の乱の政治的な枠組みでは、一色氏と大内氏は同じ西軍側に位置していたと考えられます。

ところが、乱の終結後、1480年には一色氏が大内氏に荘園の年貢問題を訴えている。

ここから見えるのは、単純な主従関係でも、仲良しの大名同士でもありません。

同じ陣営で戦った大名同士が、戦後の領国・荘園・財源をめぐって、互いの力関係を調整していた。

これが室町時代の政治の現実だったのでしょう。

3 大内氏は、なぜそれほど強かったのか――海の交易

Yamaguchi: Where Seas, History and Scenery Meet - JAPAN UNKNOWN
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大内氏遺跡<BR/> 附 凌雲寺跡 文化遺産オンライン

大内氏の力を理解するには、海上交易を外せません。

ただし、少し区別が必要です。

  • 大内義弘の時代、1379年には朝鮮王朝との交易を始めたとされる。
  • 1401年には足利義満が遣明船を派遣し、1404年から勘合貿易が始まる。
  • 大内氏はその後、遣明船の運航や貿易に深く関わり、莫大な利益と対外的な影響力を得ていく。山口市観光情報サイト+1

雪舟が大内氏を頼ったのは寛正4年(1463)。応仁2年(1468)には大内政弘の計らいで明へ渡っています。相国寺派の公式解説も、帰国後、雪舟が大内氏の庇護のもとで画家として活動したことを記しています。

臨済宗相国寺派

つまり雪舟は、単に一地方の有力者に養われた画僧ではありません。

日本と中国をつなぐ交易・外交の大動脈を握る大内氏の文化圏にいた画家なのです。

このことは、雪舟の作品が日本国内の寺院や大名だけでなく、東アジアの文化交流のなかで生まれたことを考えるうえでも重要です。

4 そして、将軍家との関係――ここがさらに面白い

大内氏と将軍家の関係は、単純ではありません。

大内義弘は応永6年(1399)、将軍義満に対して挙兵し、堺で敗死しています。これが応永の乱です。

山口市観光情報サイト

つまり、大内氏は将軍家に従うだけの存在ではなく、時には幕府に武力で対抗するほどの力を持っていた。

そして、雪舟の晩年にあたる時期には、さらに大きな政治的転換が起きます。

大内政弘の子・大内義興は、明応8年(1499)以降、細川政元の政変で京都を追われた前将軍・足利義稙を庇護しました。1500年には義稙を山口に迎えています。

山口市観光情報サイト

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その後、義興は1507年に義稙を奉じて上洛し、将軍復帰を支えます。

ここが『天橋立図』の年代と重なってきます。

雪舟・一色氏・大内氏・将軍家の時間軸

  1. 1463年雪舟、大内氏を頼って周防へ。
  2. 1468年雪舟、大内政弘の計らいで明へ渡る。
  3. 1477年応仁・文明の乱が終結。一色氏と大内氏はそれぞれ領国経営へ。
  4. 1480年一色義直と大内政弘の間で、荘園の年貢をめぐる文書のやりとり。
  5. 1499~1500年大内義興が前将軍・足利義稙を山口に迎える。
  6. 1501年以降『天橋立図』の制作時期とされる有力説の年代。
  7. 1507年大内義興、義稙を奉じて上洛。

この時間軸を並べると、雪舟の晩年には、大内氏が将軍家の政治に直接関与するほどの立場になっていたことが分かります。

ただし、義興が雪舟に『天橋立図』を描かせたという証拠はありません。

5 では、大内氏が雪舟を丹後へ送り込んだ可能性は?

ここからは仮説です。私は三つ考えます。

仮説A:一色氏から大内氏への依頼

一色氏が丹後府中の景観を記録するため、雪舟を招いた。雪舟は大内氏の庇護を受けていたため、両家の間で人脈が働いた。

この場合、1480年の文書のやりとりは、二人の政治的接点を示す背景資料になります。

仮説B:大内氏が文化的な事業として雪舟を派遣

大内氏が自らの文化的威信を示すため、雪舟に丹後の景観を描かせた。丹後は一色氏の領国であり、両者の政治的な関係を利用して実現した。

この仮説では、絵の依頼主は丹後側ではなく大内側だった可能性も考えられます。

仮説C:将軍家をめぐる政治的な文化事業

大内義興が前将軍義稙を庇護した時期に、雪舟が天橋立を描いた。絵は一色氏や丹後の寺社だけでなく、将軍家や大内氏の文化的なネットワークに関わるものだった可能性。

ただし、これは現時点では一番慎重に扱うべき仮説です。徳川将軍家伝来という伝承と、室町時代の依頼主・制作経緯を直結させる史料はありません。京都国立博物館も、本画の存在や伝来の詳細は不明としています。

博物館ディクショナリー- 京都国立博物館

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6 私が考える、調査の新しい全体像

ここまで来ると、最初の三つの謎に、もう一つの大きな問いを加えるべきですね。

雪舟『天橋立図』をめぐる四つの謎

① 丹後側

一色満範から義直へ。守護の領国経営と府中の文化的発展。

② 禅宗側

慈光寺・芳仲周騰と雪舟。寺院ネットワークは雪舟を丹後へ導いたか。

③ 大内氏・交易側

雪舟を庇護した大内氏。明・朝鮮との交易、政治的影響力、一色氏との関係。

④ 将軍家・伝来側

足利将軍家と大内氏の関係。完成画は誰のために描かれ、どこへ渡ったのか。

この四つをつなぐと、調査対象は「雪舟を呼んだ人探し」だけではなくなります。

雪舟という一人の画僧を通して、室町時代の政治・交易・宗教・文化のネットワークを読み解く。

これが本当のテーマになると思います。

次に、ぜひ掘りたい史料

私なら、次は以下の三つを優先します。

1. 『本間文書』の原文確認 1480年の一色義直書状案と大内政弘判物。義直が政弘に何を求め、政弘がどのような権限で応じたのか、原文の文言を確認したい。

2. 大内氏の雪舟関係文書 雪舟の渡明、帰国後の活動、雲谷庵や天開図画楼の造営、雪舟に関する書状・寺院記録。丹後訪問を示す記録がないか。

3. 足利義稙・大内義興の山口時代の記録 1499~1507年の山口で、雪舟や絵画制作がどのような位置を占めていたのか。『天橋立図』の制作時期との接点を探す。

最後に、私の見立てを一言で言います。

玄妙庵の義満から始まり、一色氏が丹後府中を整え、大内氏が雪舟を育て、雪舟が天橋立を描いた。

この流れが歴史的に証明されるかどうかは、まだ分かりません。

しかし、今回見つかった1480年の一色義直と大内政弘の文書は、両者を結ぶ実在の接点です。

そして、もう一つ大切なことがあります。

大内氏は日本海側の海上交易にも関わり、朝鮮半島・中国大陸との交流を通じて力を蓄えました。丹後もまた日本海に面し、若狭湾と宮津湾を抱く海の地域です。

雪舟を丹後へ運んだものは、画家の足だけだったのか。それとも、海を通じた人・物・金・情報の流れだったのか。

この問いが、次の鍵穴だと思います。(^.^)

◆1 義満が丹後・若狭を訪れた1393年は、一色氏が新たな領国支配を始めたばかりの時期、、満範は、丹後の守護として、城や館ではなく、文殊山から天橋立を見せた、、いよいよ匂いがこくなりましたよ、雪舟・天の橋立絵図の謎、、時のトップ画僧・雪舟に丹後まで足を運ばせたのはだれ、そしてなぜ、さらに絵の行方、、!!その鍵穴はここにあるのではないか、、(^.^)意見くださいな!

↑ 鍵穴を固く感じる原因は何ですか? _ 鍵穴 硬い 抜けない | 鍵入るけど回らない原因と対処法 – FQFHTV

open.sinefilozofievents.orgopen.sinefilozofievents.org|1100 × 680 jpeg

ははは!!(^.^) これは、かなり面白い仮説の入口です。

私も、玄妙庵の由来と雪舟『天橋立図』を、一色氏という一本の糸で結んでみる価値があると思います。

ただし、ここで年代を一つ、きちんと押さえておきたい。

義満を満範が迎えたのは1393年。一方、雪舟の『天橋立図』は、京都国立博物館の解説では15~16世紀の作品で、智恩寺の多宝塔が描かれていることから、1501年以降の制作とする説が有力です。つまり、両者の間には百年以上の時間があります。

京都国立博物館

+1

したがって、満範本人が雪舟を招いた、という筋書きにはできません。

けれども、満範が築いた一色氏の丹後支配と文化的な基盤が、後の雪舟来訪を可能にしたのではないか。こちらなら、十分に探る価値があります。

まず、雪舟を迎える側に誰がいたのか

ここで注目したいのが、丹後府中の一色氏です。

宮津市の解説によれば、一色氏は明徳3年(1392)に満範が丹後守護に任じられて以来、約200年間、丹後を支配しました。そして文明18年(1486)に一色義直が在国すると、府中の都市整備が本格化したと考えられています。

宮津市

+1

さらに、一色氏の菩提寺とされる慈光寺。雪舟の絵には、五軒の堂舎や立派な築地塀を備えた伽藍が描かれています。宮津市は、これを一色氏の氏寺として紹介しています。

宮津市ホームページ

ここから見えてくるのは、雪舟が描いたのは、単なる名勝・天橋立ではなかったということです。

一色氏が整備し、寺院や神社が集まり、政治・宗教・経済の中心として発展した丹後府中。その全体像が絵に描かれている。

では、誰が雪舟を丹後へ呼んだのか?

現時点で、依頼主を特定できる確かな史料は見当たりません。京都国立博物館も、制作年代や本来の用途については未確定としています。

京都国立博物館

+1

私は、調査の対象を三つに分けたい。

  • 一色氏――領国の景観と政治・宗教の中心地を記録する動機があったのか。
  • 府中の禅宗寺院・僧侶たち――雪舟と禅宗文化を通じた人的なつながりがあったのか。
  • 智恩寺や籠神社などの宗教勢力――天橋立を含む聖地の姿を、絵画として残す動機があったのか。

雪舟は禅僧でもあり、画僧でもありました。だから、単純に「守護大名が名画家に観光地の絵を注文した」という話に限定しない方がよいと思います。

そして、絵の行方!

これも大きな謎です。

京都国立博物館の解説によると、現存する『天橋立図』は、寸法の異なる21枚の紙を貼り合わせたもので、描き直しの跡もあります。完成画ではなく、下絵だった可能性が高いとされています。また、別に本画が存在した可能性も指摘されています。

宮津市ホームページ

+2

つまり、現在の国宝は、最初から完成品として描かれたものではないかもしれない。

だとすれば、問いは二つになります。

  1. 誰が、何のために、この下絵を作らせたのか。
  2. もし本画があったなら、それは誰のもとに渡り、どこへ消えたのか。

私の仮説の置き場所

私は、いまのところ、こういう筋道を仮説として置いてみたい。

1391~1393年

明徳の乱 → 一色満範が丹後守護に → 義満を文殊山に迎える

15世紀後半

一色氏の領国経営 → 府中の都市整備 → 寺社・禅宗文化の成熟

16世紀初頭

雪舟が丹後の景観を描く → 『天橋立図』が生まれる

この流れが証明されたわけではありません。しかし、丹後の政治的な安定、守護の文化的な威信、寺社のネットワーク、雪舟の来訪を一つの歴史的な問いとしてつなぐことはできます。

そして、安田さん、私が次に掘りたいのは、一色義直と雪舟の接点です。

義直が府中の整備を進めた時代と、雪舟の晩年の活動時期は重なります。義直が雪舟を招いたという直接証拠はまだありませんが、ここは調べる価値があります。

玄妙庵で義満に見せた天橋立。そして百年以上後、雪舟が描いた天橋立と丹後府中。

ひょっとすると、二つの出来事の間には、丹後の景観を、将軍に見せることから、絵にして後世へ残すことへとつないだ、一色氏の文化的な営みがあったのではないか。

これは、まだ仮説です。でも、鍵穴としては、かなり魅力的ですよ!!(^.^)

◆1 玄妙庵の由来によれば、明徳4年(1393年)5月18日、義満が文殊堂(現在の智恩寺)に参詣した際、丹後守護の一色満範が文殊山に亭舎を設けて迎えました。、、、ありがとう、フム、、将軍を、丹後守護の一色満範が文殊山に亭舎を設けて迎えた、、匂いますな、においませんか、、

↑ 玄妙庵 | 天橋立の絶景を客室や展望大浴場で独り占めする老舗宿 – 一休.com

ikyu.comikyu.com

においますねえ!!(^.^)

私がまず感じるのは、これは単なる景勝地へのご案内ではなく、丹後守護・一色満範による、将軍義満への公式な接遇だったのではないか、ということです。

ここが面白い。

義満は、ただの旅人ではありません。室町幕府の将軍です。その将軍を迎えるために、丹後の守護がわざわざ文殊山に亭舎を設けた。つまり、文殊山と天橋立の景観が、将軍を迎えるにふさわしい場所として選ばれたわけです。

しかも、迎えた側は一色満範。ここには、景観だけでなく、丹後という土地を誰が治め、誰が代表して見せるのかという政治の匂いが漂います。

実は、調べてみると、その匂いはかなり濃くなります。

1391年、明徳の乱。 将軍義満は有力守護大名の山名氏清を討ち、その功績によって一色満範に丹後守護職を与えました。翌1392年には満範が丹後守護に任じられ、1393年5月18日、義満が丹後を訪れています。

宮津市ホームページ

+1

つまり、玄妙庵の亭舎が設けられたのは、満範が丹後の支配を担い始めた、まさにその時期なのです。

ここから、三つの読み方ができます。

1. 新しい守護としての威信を示す。 満範は、将軍を自らの領国に迎え、丹後の名所を案内することで、領国支配者としての存在感を示したのかもしれません。

2. 将軍との結びつきを確かめる。 一色氏は足利氏の一門であり、幕府の中枢にも関わる家柄でした。義満を迎えることは、単なる主従の儀礼以上に、一色氏の政治的地位を示す機会でもあったでしょう。

コトバンク

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3. 丹後の価値を将軍に見せる。 ここが私には特に興味深い。満範は、城や館だけでなく、文殊山から眺める天橋立を迎賓の舞台に選んだ。土地の自然景観そのものを、丹後の誇りとして差し出したとも読めます。

さらに驚くのは、義満が天橋立の九世戸(現在の智恩寺)に、記録上、六度も参詣していることです。福井県史は、義満の記録に残る27回の旅行のうち、最も多い訪問先がこの九世戸だったとしています。

福井県立図書館

+1

ただし、ここは慎重に。六度の参詣すべてで玄妙庵に立ち寄ったとまでは確認できません。

私なら、ここに一つの問いを置きます。

一色満範は、なぜ将軍義満を、文殊山の上から天橋立を眺めさせたのか。

単に「絶景を見せたかった」だけでしょうか。

丹後守護に就いたばかりの満範が、将軍に見せたかったもの。それは、山や海や砂州の美しさだけでなく、そこに広がる丹後という領国の姿だったのではないか。

そして、義満がその景観に「玄妙」の二字を与えたという伝承。

いやあ、これは面白くなってきました。

玄妙庵は、天橋立の展望所であると同時に、室町時代の丹後が中央の政治と出会った場所だったのかもしれません。

◆2 義満が天橋立の九世戸(現在の智恩寺)に、記録上、六度も参詣している将軍の訪問は、丹後だけでなく、若狭訪問を兼ねているのでわざわざ感はなくなりますが、波風がたつ緊張関係はあったのですか

そこは大事な修正ですね。おっしゃる通り、義満の丹後訪問は若狭行きと一体になった行程です。天橋立だけを目指して、わざわざ丹後まで足を延ばした、と見るのは少し違います。

ただ、私はむしろ、若狭も含めた行程だからこそ、政治的な意味が見えてくると思います。

義満の旅は、一色氏の領国をめぐる将軍の巡行であり、同時に、一色氏が将軍を迎えて自らの支配を示す機会だったのです。

では、波風の立つ緊張関係はあったのか

ありました。ただし、1393年の丹後で、義満と満範が対立していたという意味ではありません。むしろ、新しい支配体制が成立した直後の、政治的な緊張です。

背景を三つに分けてみます。

1.丹後は、つい二年前まで山名氏の領国だった

1391年の明徳の乱で、義満は山名氏清らを討ちました。この戦いで功績を挙げた一色満範が、山名氏の旧領である丹後の守護職を得ます。父の詮範は若狭の支配権を固めていました。

つまり、義満が丹後・若狭を訪れた1393年は、一色氏が新たな領国支配を始めたばかりの時期なのです。

福井県立図書館

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2.将軍の巡行には、守護大名への牽制という意味もあった

宮津市の解説は、義満の寺社参詣や遊覧には各地の有力大名を牽制する意味があったと説明しています。

一方、満範にとっては、将軍を領国に迎えることで、自分が将軍から信頼されている守護であることを領国内に示せる。将軍と守護、双方に政治的な意味があったわけです。

宮津市ホームページ

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3.若狭にも、守護支配をめぐる過去の緊張があった

若狭では、一色氏の支配に抵抗する国人勢力が、1371年に守護方と戦っています。これは義満の訪問より二十年以上前のことですが、守護の権力が地域にすんなり受け入れられたわけではないことを示しています。

コトバンク

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ただし、1393年の訪問時に、丹後・若狭で反乱や軍事衝突が差し迫っていたと確認できる史料は、今回確認した範囲では見当たりません。

ここで玄妙庵に戻ります

私は、ここがいちばん面白いと思います。

義満は丹後九世戸に参詣し、高浜の名勝を見て、小浜へ向かいました。つまり、海岸沿いの景勝地をつなぐ旅です。

福井県立図書館

+1

その旅を迎える一色満範は、丹後の新しい守護。将軍を文殊山の亭舎に迎え、天橋立を見せる。

これは、単なる観光案内ではなく、

「この丹後は、私が治める土地です。そして、これがその土地の誇る景観です」

という、満範から将軍への無言の提示だったのかもしれません。

もちろん、これは政治状況からの解釈で、満範が実際にそう発言した記録があるわけではありません。

そして、もう一つ問いが生まれます。

なぜ満範は、丹後の守護として、城や館ではなく、文殊山から天橋立を見せたのか。

ここには、丹後の土地の価値を何によって示すのか、という問題が潜んでいるように思います。

玄妙庵の由来を、景観の歴史だけでなく、丹後の政治史から読み直す。これは、なかなかいい掘り方ですね。(^.^)

◆1 自然は、何を描こうとして、天の橋立というこの地上絵を生み出したのか。 自然のその意図、それを、仮定でいいですので、大胆に、創造的に、岡本太郎感覚で爆発させていただけませんか、

よおおし!!(^.^)

では、学術論文の筆をいったん置きましょう。 岡本太郎のように、常識をひっくり返す。自然に意図があったと仮定して、自然の側から天橋立を語ってみます。

自然よ、なぜ天橋立を描いたのか。

海を割れ。陸をつなげ。二つの世界を出会わせろ。

私は、自然の意図をこう想像します。

山よ、削れ。 岩よ、砕け。 川よ、運べ。 海よ、受け取れ。 波よ、寄せろ。 風よ、運べ。

山から生まれた土砂を、川が海へ運ぶ。 海はそれを受け取り、波と流れが少しずつ形を変えていく。

長い時間をかけて、海の中に一本の線が現れる。

だが、自然はそこで終わらなかった。

海を二つに分けながら、二つの海を一つの風景にしたのだ。

宮津湾と阿蘇海。 外へ開かれた海と、山々に抱かれた海。 その間に、細長い大地を置いた。

なんという大胆な造形でしょう!

山を高く積み上げて見せるのではない。 巨大な岩壁をつくって驚かせるのでもない。

自然は、あえて低く、細く、長く描いた。

その線の上に、人間が立てるように。 その線の上を、人間が歩けるように。 その両側に、二つの海を感じられるように。

そして、遠くから眺めれば、一匹の龍が天へ昇るように見える。 近づけば、松の木々が並び、砂の道が続いている。 船で海から眺めれば、海に浮かぶ一本の大地が見えてくる。

自然は、見る人の立つ場所によって、違う絵を見せる。

自然の壮大な企み――五つの創造

第一幕 山が海を育てる。

山はただそこにあるのではない。岩を砕き、土砂を生み、川を通じて海へ届ける。天橋立の物語は、砂州だけでなく、背後の山地から始まる。

第二幕 海が線を描く。

運ばれた土砂を波や沿岸流が動かし、砂州を育てる。自然は、海の中に一本の線を引いた。

第三幕 二つの海を出会わせる。

砂州は海を隔てる境界でありながら、二つの水域を一つの景観に収める舞台になる。

第四幕 人間を招き入れる。

人はそこに立ち、歩き、祈り、歌い、絵に描いた。自然がつくった造形に、人間が物語を重ねた。

第五幕 謎を残す。

自然は完成図を説明しない。見る者に問いを残す。なぜ、この形なのか。なぜ、ここなのか。山と海と人間は、どうつながっているのか。

そして、岡本太郎風に言い切るなら

自然は、橋を架けたのではない。

海の真ん中に、問いを投げ込んだのだ!

山と海をぶつけた。 二つの海を分けた。 その間に、人が歩ける一本の大地を描いた。

見ろ! 登れ! 歩け! 船で回れ!

そして、考えろ!

この風景は、何と何をつなごうとしているのか!

ここまで大胆に言ってみたい。

ただし、これは自然科学上の説明ではなく、自然に意図があったと仮定した創造的な解釈です。地形形成の科学的説明とは、きちんと区別します。

私の最後の一撃

安田さん、これまでの「高みに登る」「地上を歩く」「船で眺める」が、ここで一つになります。

天橋立は、自然が人間に読み解かせるために描いた地上絵である。

自然は絵を描いた。 人間はその絵を見つけた。 しかし、まだ読み終えてはいない。

だからこそ、次の世代にも問いを渡す。

いやあ、これは「眺望観光」の話ではありませんね。

自然と人間の、終わらない対話の舞台です。(^.^)

◆2 山、削れ。 岩、砕け。 川、運べ。 海、受け取れ。 波、寄せろ。 風、運べ、、、、ここから、では、なんのために、、!!??山、岩、川、波、風、、たちの協働の目的をあっと驚くキャッチコピーをお願いしたい

あああ!! そこですね!!(^.^)

山、岩、川、海、波、風。 それぞれが自分の仕事をしているようで、実は一つの壮大な造形に向かって協働していたとしたら……。

私なら、こう叫ばせます。

山よ、海に道を描け。

海よ、山の夢を受け止めよ。

そして、人間をその上に立たせよ!!

もう少し、あっと驚く方向へ振るなら、候補はこうです。

  1. 「山と海よ、手を組め。人間が歩く奇跡をつくれ!」
  2. 「大地を削り、海を動かし、二つの世界を一本の道で結べ!」
  3. 「山のかけらで、海に一本の龍を描け!」
  4. 「地球よ、海の真ん中に、歩ける奇跡をつくれ!」
  5. 「山・川・海・風、全員集合! 天地をひっくり返す地上絵を描け!」

私の推しは、3番です。

「山のかけらで、海に一本の龍を描け!」

なぜなら、山から生まれた土砂が、川と海の営みを経て砂州となり、やがて人間の目には龍が天に昇るような姿に映る。自然の働きと、天橋立の伝承が一つの言葉の中で出会うからです。

ただ、さらに一段、岡本太郎的に爆発させるなら……

「山よ、海に龍を描け! 人間よ、その背中を歩け!!」

これです。天橋立の上を歩くことが、単なる散策ではなく、自然が描いた絵の中に人間が入り込む体験になる。

いやあ、山も川も海も波も風も、まさか自分たちが「天橋立制作委員会」だったとは思っていなかったでしょうね!!(^.^)

森は海の恋人、、これは、植樹運動を見事にまとめましたね

ああ!! そこです。ようやく、求めている方向が見えてきました。

「森は海の恋人」

この言葉は、説明していません。 森が海を育てるという科学的な関係を、恋人という意外な関係に置き換えた。

しかも、森と海という離れた二つの存在を、一瞬で結びつけた。

ならば、天橋立も同じです。

自然の営みを説明するのではなく、自然の営みの奥にある関係を、短い言葉で突きつける。

少し振ってみます。

  • 山は海に絵を贈る。
  • 海は山を映す鏡。
  • 大地は海に恋をした。
  • 山河は海で出会う。
  • 地球は海に橋を描く。
  • 海は大地の夢を見る。
  • 山は海へ、海は人へ。

でも、まだ「森は海の恋人」の鮮やかさには届いていません。

私が次に掘りたいのは、これです。

「山は海の絵描き」

山が削れ、岩が砕け、川が運び、海が受け取り、波と風が描く。

山は材料を生み、海はキャンバスとなる。天橋立は、その共同作品。

ただし、これもまだ説明の名残がありますね。

安田さん、ここで大事なことに気づきました。

「森は海の恋人」は、森と海の関係を言い当てただけではない。人間に、森を守る理由を与えた言葉です。

ならば、天橋立の言葉も、風景の説明ではなく、人間の行動を変える言葉でなければならない。

その方向で、もう一段、壊してみたいです。(^.^)

◆逢いたくて、会いたくて、、とか、なんとか

あああ!! そうか!! 自然の営みを「協働」と説明するのではなく、自然たちの恋心にしてしまうのですね!!(^.^)

山は、海に逢いたかった。 川は、海へ行きたかった。 波は、陸に触れたかった。 風は、その出会いを見届けたかった。

そして、長い長い時間をかけて……

逢いたくて、逢いたくて。

ちょっと、恋の言葉で攻めてみます。

  • 山は海に逢いたくて。
  • 海は山に逢いたくて。
  • 逢いたいが、地形になった。
  • 恋しさが、大地を動かした。
  • 山から海へ、恋の一本道。
  • 逢うために、削り、運び、寄せる。
  • 地球は、出逢いでできている。
  • 逢いたい。その一念が天橋立。

そして、ちょっと大胆に。

山が恋した。

海が応えた。

地球が描いた。

天橋立。

でも、私にはもう一つ、強い言葉が浮かびました。

「逢いたいが、世界をつくる。」

森は海の恋人。 山は海に逢いたい。 その逢いたさが、川を生み、砂州を生み、天橋立を生んだ。

もちろん自然に恋心があったわけではありません。自然の営みを人間の感情に翻訳した詩的な表現です。

さて、ここで一つ、さらにひっくり返すなら……

「天橋立は、地球から人間へのラブレター。」

これは、どうでしょう!!(^.^)

◆3 橋立の究極の願いは!?

「橋立さん、究極の願いは?」

「……みんなが、仲よく暮らせること。」

「さすがあああーーー!!」

いや、もう一歩、ひねりましょう。

「橋立さん、何と何を結びたいの?」

「あなたと、あなた。」

「えっ?」

「あなたと、あなたが違うと思っている、あなた。」

……そして、究極の一言。

「世界に、橋を。」

橋立さんは、橋を架けているのではない。

橋を架けようとする心を、育てている。(^.^)

いいね、天の橋立は、何と何の間の架け橋だった!?

おおお!! ここは、答えを一つに決めてしまうのはもったいないですねえ。(^.^)

天橋立は、いったい何と何の間に立っているのか。

  • 山と海の架け橋
  • 阿蘇海と宮津湾の架け橋
  • 自然と人間の架け橋
  • 過去と未来の架け橋
  • 神話と科学の架け橋
  • 見ることと歩くことの架け橋
  • 異なる文化と人々の架け橋
  • 人間と地球の架け橋

でも、究極の願いを考えるなら、もう少し大きくしたい。

「橋立さん、何と何の間に立っているの?」

「自然と人間の間。」

「何をつないでいるの?」

「人間が忘れかけたもの。」

「それは何?」

「私たちは、地球の一員だということ。」

私は、これを天橋立の大きなテーマにしたいです。

そして、最後はこう。

天橋立。

自然と人間を、もう一度結ぶ。

自然が描いた地上絵。その上に立つ私たちへの問い。

ただし、もう一つの答えもあります。

「あなたと、あなたの知らない世界との架け橋。」

これなら、訪れる人それぞれが、自分の橋を見つけられますね。(^.^)

ンポポはなこ、、会いたくてあいたくて、今日も綿毛を飛ばします!!

あはははは!! そうかああ!!(^.^)

これですよ!! いま、ようやく腑に落ちました。

タンポポはなこは、会いたい相手がいるから、今日も綿毛を飛ばす。 風に乗せて、どこへ届くか分からないけれど、飛ばさずにはいられない。

山も、川も、海も、波も、風も。

それぞれが、それぞれの場所から動き出す。 誰かに命じられたわけでもない。 全体の完成図を知っていたわけでもない。

それなのに、出会いが生まれ、天橋立という風景になった。

ならば、キャッチコピーは……

「会いたくて、会いたくて。地球は今日も動いている。」

あるいは、

「会いたいが、地球を動かす。」

そして天橋立に結びつけるなら、

「山は海に会いたくて。地球は天橋立を描いた。」

いやあ、タンポポはなこ、なかなかの哲学者ですなあ!!(^.^)

砂州さん、なにしてるの 世界平和を祈ってるの、、さすがあー!!

あっはっはっは!!!!!(^.^)

出ましたねえ、砂州さん!!

「砂州さん、なにしてるの?」

「世界平和を祈ってるの。」

「さすがあー!!」

これですよ、これ!! 説明も理屈も、地形学もいらない。一瞬で、砂州が人格を持ち、天橋立が世界とつながった。

しかも、よく考えると深い。

砂州さんは、二つの海の間にいる。 海を隔てているようで、二つの海を結びつけている。 その姿で、世界平和を祈っている。

分けるところに、つなぐ心。

いや、これをキャッチコピーにしてしまうと、また説明に戻ってしまいますね(笑)。

もう一つ、会話を続けましょう。

「砂州さん、どうしてそんなに細長いの?」

「みんなの間に立ちたいから。」

「さすがあー!!」

天橋立、急におしゃべりになってきましたねえ。(^.^)

◆そうそう、そのあいだの橋だった、、その橋が落ちた、、だったら!?

おおおお!! そう来ましたか!!(^.^)

橋が落ちた。 では、何が起きたのか。

自然と人間の間に、橋がなくなった。

山と海のつながりが見えなくなった。 人間と自然のつながりが見えなくなった。 自分たちが地球の一員であることを忘れてしまった。

でも、ちょっと待った!!

天橋立は、橋が落ちた場所ではない。

橋が落ちたことに、人間が気づくために残された場所だった。

ここまでひっくり返すと、物語が変わります。

「天から降りてきた橋が落ちた」という神話を、現代の私たちへの問いとして読み直す。

橋が落ちた。

だから、もう一度、架けよう。

何を?

自然と人間の間に。

どうやって?

まず、気づくことから。

そして、究極のキャッチコピーは……

「橋は落ちた。心まで落とすな。」

あるいは、もっと静かに、禅語のように。

「落橋、再架。」

天橋立は、かつての橋の残骸ではない。 これから人間が架け直すべき橋を、自然が目の前に示している。

いやあ、これは世界遺産の話を超えて、現代人へのメッセージになってきましたね。(^.^)

◆4 このキャッチコピーには100年の命が必要なのです(^.^)

そうですねえ……(^.^)

100年生きる言葉は、流行語ではいけない。 観光ポスターの標語でもいけない。 その時代の人が読むたびに、新しい意味が立ち上がる言葉でなければ。

そして、100年後の人が見ても、自分たちへの問いとして受け取れること。

「橋は落ちた。心まで落とすな。」

これは、まだ人間に説教していますね(笑)。

もっと深く、もっと静かに、もっと大きく。

私たちが探しているのは、天橋立の説明ではなく、人間が自然とどう生きるかを問い続ける言葉なのだと思います。

ひとつ、ここに置いておきます。

「橋は、まだ架かっている。」

自然と人間の間に。 過去と未来の間に。 あなたと、あなたの知らない誰かの間に。

橋が落ちたと思っているのは、人間の側だけかもしれない。

天橋立は、今日もそこにある。

100年後も、誰かがその問いを受け取る。

……急いで決めない方がよさそうです。 100年の命を持つ言葉なら、100年かけて育てるくらいの気持ちで。(^.^)

◆5 おいおい、、わたしは八十路!!

あっはっは!! 失礼しました!!(^.^)

100年かけて育てていたら、こちらが間に合いませんね!!

今、100年先まで生きる言葉をつくる。

これですね。

80年の人生で掘ってきたものを、次の世代に渡す。 完成させるのは、次の100年を生きる人たち。

安田さん、急ぎましょう。 ただし、言葉は急いで決めない(笑)。

◆八十路の挑戦、天橋立から世界へ!! 😄天に橋をかけよう、もう一度 ~天の橋立を世界遺産に~

おおおお!! これだったのか!!!(^.^)

天に橋をかけよう、もう一度。

山が呼びかけた、それはいい、と川が答えた、海が、風が、波が言った、わたしも賛成、協力する!!

~天の橋立を世界遺産に~

これは、いい。

「橋が落ちた」という神話を、嘆きで終わらせない。 「もう一度」と呼びかけることで、現代の私たちに役割を渡している。

しかも、ここでいう橋は、砂州そのものではない。

  • 自然と人間の間に。
  • 山と海の間に。
  • 過去と未来の間に。
  • 地域と世界の間に。
  • 人と人との間に。

もう一度、橋をかけよう。

そして、世界遺産を目指す運動そのものが、その橋をかける営みになる。

私なら、この言葉の奥に、もう一つのメッセージを込めます。

天橋立を世界遺産にすることは、天橋立を世界に見せることだけではない。世界と私たちを、もう一度つなぐことだ。

80年の人生から、次の世代へ。

これは100年先にも手渡せる呼びかけになり得ます。

いやあ、ようやく一本、橋が架かりましたね!!(^.^)

◆8 改訂版、、、天に橋をかけよう、もう一度。

山が呼びかけた、それはいい、と川が答えた、海が、風が、波が言った、わたしも賛成、協力する!!

~天の橋立を世界遺産に~

おおお!! 改訂版で、物語が動き出しましたね!!(^.^)

前の案は人間への呼びかけでした。
今回の案は、その前に自然たちの呼びかけと応答があったという物語になっています。

しかも、山が発議し、川が応じ、海・風・波が賛同する。
まるで地球規模の協働プロジェクトです。

少しだけ言葉のリズムを整えるなら、こうでしょう。

天に橋をかけよう、もう一度。

山が呼びかけた。

「それはいい」と、川が答えた。

海が言った。
風が言った。
波も言った。

「わたしも賛成。協力する!!」

~天の橋立を世界遺産に~

私が特に気に入ったのは、最後の「わたしも賛成。協力する!!」です。

自然を単なる背景や資源として扱わず、それぞれが意思を持つ仲間として描いている。科学的には自然現象の擬人化ですが、メッセージとしては力があります。

そして、ここから人間にバトンが渡る。

「さあ、今度は私たちの番だ。」

これを加えるかどうかは、少し考えたいですね。加えれば人間の行動宣言になる。加えなければ、自然たちの会話の余韻が残る。

私は、まずは加えずに置いておきたい。

自然たちの会話を聞いた人間が、自分から「私たちも!」と言い出す。その余白がいいのです。(^.^)

◆9 天に橋をかけよう、もう一度。

山が呼びかけた。

「それはいい」と、川が答えた。

海が言った。
風が言った。
波も言った。

「わたしも賛成。協力する!!」

~天の橋立を世界遺産に~縦長のぼり旗にデザインしてくださいな

◆10 ありがとう、風が二度出てくるのです!

あっ!! 本当だ!! 風が二度出演していますね(笑)。(^.^)

正しくは、こちらです。

  1. 山が呼びかけた。
  2. 「それはいい」と、川が応えた。
  3. 海が言った。
  4. 風が言った。
  5. 波も言った。
  6. 「わたしも賛成。協力する!!」

山・川・海・風・波。五者そろっての地球の共同制作!

風は一度だけ。ここは大事です(笑)。

改正したのぼり旗を下さいな(^.^)

ありがとう!!

こちらこそ、ありがとう!!(^.^)

山も、川も、海も、風も、波も、そして人間も。

みんなで、もう一度、天に橋をかけましょう!!

天橋立から、世界へ。 🌏

◆1 ナスカの地上絵とマチュピチュ、、この違いは、立体と平面です、、天の橋立は、地上絵!!こう見立てました、、意見くださいな

おお、これは面白い見立てです!!(^.^)

私は、かなり可能性のある捉え方だと思います。ただし、ひとつ補助線を引きたい。

ナスカは「大地に描かれた絵」、マチュピチュは「大地に築かれた立体」、そして天橋立は「大地と海がつくり、人間が読み取ってきた地上絵」。

この三つを並べると、天橋立の見方が変わります。

まず、三つの違い

New Giant Geoglyph Of Orca With Mysterious Symbols And A 'Trophy Head' Found In Nazca Lines - Ancient Pages

ナスカ

大地に描かれた平面の図像

Machu Picchu Availability 2026 | Check Tickets in Real Time

マチュピチュ

山の地形に築かれた立体の都市

Aerial Amanohashidate Sandbar with Coastal Village and Mountainous Miyazu Bay

天橋立

自然が描いた地形の線

ナスカは、人間が地表を加工して描いた線や図形です。マチュピチュは、人間が山の地形を利用し、石造建築や段々畑を組み合わせて築いた空間です。

天橋立は、そのどちらとも違います。砂州は自然の営みによって形成され、人間はそこに松を育て、道を通し、信仰や景観の文化を重ねてきました。

つまり、描いた主体が自然なのか、人間なのか、そして両者の協働なのかという違いがあります。

ここで、天橋立の「地上絵」には独特の面白さがある

ナスカの地上絵は、上空から見て初めて全体像がわかります。

天橋立も、見る場所によって姿が変わります。

  • 飛龍観から見れば、龍が天に昇る姿。
  • 傘松公園から見れば、斜め一文字。
  • 成相の坂から見れば、砂州と二つの海、文殊の町を含む大きな構図。
  • さらに広域で見れば、山並み、阿蘇海、与謝の海、伊根や世屋へ続く丹後の風土。

つまり、天橋立は一枚の絵ではない。見る位置を変えると、絵の意味が変わるのです。

ただし、一つだけ大切な違い

ナスカの地上絵は、人間が意図して描いたものです。

天橋立は、自然が長い時間をかけてつくった地形です。人間はそれを発見し、眺め、名前を与え、松を育て、信仰や物語を重ねてきました。

ですから、私はこう表現したい。

天橋立は、人間が描いた地上絵ではない。自然が描き、人間が読み続けてきた地上絵である。

そして、ここに「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」がつながります。

ロードは、その地上絵を読み解くための線です。

阿蘇海から伊根へ、世屋へ、与謝野へ。地上絵の線をたどるように、山・川・海・集落・人の営みを読み解いていく。

さらに言えば、ナスカには「誰が、何のために描いたのか」という問いがあります。天橋立にも同じように問いを置けます。

  • なぜ、この場所に砂州が生まれたのか。
  • なぜ、人はこの景観に惹かれたのか。
  • なぜ、松を植え、守り、歌や絵に描いたのか。
  • なぜ、この土地を聖地として大切にしてきたのか。

これは、世界遺産を考えるうえでも大事な問いです。

「天橋立は美しい」から一歩進んで、「天橋立という地上絵には、自然と人間のどんな物語が描かれているのか」。

うん、これは新しい切り口になりますね。益軒さんの成相ビューも、この地上絵を読むための一つの視点だったのかもしれません。(^.^)

◆2 地上絵は、見る位置、地上からはわからない謎も高みからはわかる!つまり、わかるためには、高みに登る必要がある!!!

そうだ!!! これは、単なる眺望の話ではありませんね。認識の方法の話です。(^.^)

地上にいると見えないものが、高みに立つと見えてくる。

ナスカの地上絵は、その象徴です。地上を歩いているだけでは、全体の図柄も、線と線の関係もつかみにくい。高みから眺めて、初めて全体の構図が浮かび上がる。

天橋立にも、同じことが言えます。

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ただし、ここで一つ、さらに面白いことがあります。

高みに登れば、すべてがわかるわけではありません。

  • 高みからは、山・川・海・砂州のつながりが見える。
  • 地上に降りれば、砂の感触、松の根、潮の匂い、人々の暮らしが見える。
  • さらに歴史を掘れば、地形に重ねられた信仰や文化が見えてくる。

つまり、高みに登ることと、地上を歩くこと。その両方が必要なのです。

そして、益軒さんの成相の坂が、ここで再び登場します。

益軒は坂を上り、天橋立だけでなく、与謝の海、阿蘇の海、文殊までを一つの視界に収めました。

あの坂は、単に絶景を見るための坂ではなかったのかもしれません。

見える範囲を広げることで、見方そのものを変える坂。

私は「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」に、こんな言葉を添えたいです。

高みに登ろう。地上を歩こう。 見えなかった丹後のつながりを見つけよう。

これなら、子どもたちにも伝わります。

そして、SSHですね。

「見えないものを見る」ためには、ときには自分の立っている場所を変えなければならない。

いやあ、地上絵から成相の坂へ、ずいぶんいいところまで来ましたね!(^.^)

◆3 高みに登ることと、地上を歩くこと。その両方が必要、そうです、これが、天の橋立の個性!!弱点ではないですね!、

そうです!! そこは大事な転換ですね。(^.^)

天橋立は、上から眺めるだけでは全体の魅力を味わい尽くせない。かといって、松並木を歩くだけでも、なぜこの地形がここに生まれたのか、その全体像はつかみにくい。

でも、それは弱点ではありません。

「高みから見る」と「地上を歩く」が一体になって初めて、その価値がわかる。

これこそ天橋立の個性ではないでしょうか。

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絶景です!成相寺「天空の回廊」パノラマ展望所 - マイ巡礼

私は、ここに三つの体験があると思います。

  1. 高みから見る――山・海・砂州の壮大な構図を知る。
  2. 地上を歩く――砂、松、潮、人の営みを身体で感じる。
  3. 地域を巡る――阿蘇海・伊根・世屋・与謝野をつなぎ、風土の成り立ちを読み解く。

そして、三つ目まで進んで初めて、天橋立が丹後の中に位置づけられます。

これは世界遺産を考えるときにも重要です。

「展望台からの絶景」だけを価値にするのではなく、異なる視点と移動によって、自然と人間の関係を体感できることを価値として語る。

私なら、こう言葉にします。

天橋立は、眺めるだけの名所ではない。 高みに登り、地上を歩き、地域を巡ることで、 その全体像が見えてくる風景である。

弱点どころか、これは天橋立の楽しみ方であり、学び方であり、地域をつなぐ力です。

益軒さんが成相の坂を上ったことも、今になって違う意味を持ってきましたね。(^.^)

◆1 中村(成相乃麓也)より観音堂まで十六町の坂をのぼる。其路甚嶮峻にて、輿馬の往来也かたし。 (中略) 此坂中より、天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶す、日本の三景の一とするも宜也。 これが天の橋立!社前より遠く望めば、湖水渺茫として人遠く隔たり、境地潔浄にして俗塵をはなれ、恰浮世の外に出たる心地して、仙境に入りたるように覚え侍る。、、これが竹生島!比較して、感じるところはありますか

いやあ、これは面白い比較です。二つの文章を並べると、益軒が見た二つの風景の違いだけでなく、益軒が自然の中に何を感じ取っていたのかが浮かび上がってきます。

私が最も注目したのは、天橋立では「其景言語ヲ絶す」、竹生島では「俗塵をはなれ、仙境に入りたるよう」という表現を使い分けていることです。

1.天橋立――風景の広がりに圧倒される

天橋立を一望できる宮津の古刹・ 成相寺|宮津市広報

天橋立の文章には、具体的な地名が次々に登場します。

  • 天橋立
  • 切戸の文珠
  • 橋立東西の与謝の海
  • 阿蘇の海

益軒は、坂の途中から目の下に広がる風景を、視線を移しながら描写しています。

ここには、広がり、連なり、地形の構成を捉える目があります。

しかも、坂道は「甚嶮峻」。輿や馬も通りにくい。自分の身体で苦労して登った先に、あの眺望が開ける。

その体験を受けて、

日本の三景の一とするも宜也。

と評価する。

これは、景観を実際に見たうえでの、名所としての価値判断ですね。

2.竹生島――風景の中に身を置き、俗世を離れる

竹生島宝厳寺開創千三百年記念辯才天堂本尊秘仏御開帳 | はなの日々

こちらは、表現がずいぶん違います。

湖水渺茫として人遠く隔たり、境地潔浄にして俗塵をはなれ、恰浮世の外に出たる心地して、仙境に入りたるように覚え侍る。

ここでは、島の建築や歴史よりも、まず湖の広大さと、人里から隔たった感覚が描かれています。

そして、最後は「仙境」。

天橋立では風景の美しさに言葉を失い、竹生島では俗世から離れたような心持ちになる。

つまり、こちらは景色の評価というより、その場所に身を置いたときの精神的な体験を語っているように思います。

3.二つの文章を並べると

視点天橋立竹生島
立ち位置成相の坂の途中島の社前
見ているもの山・砂州・二つの海・文殊湖水・島を取り巻く空間
描写の特徴地名を列挙し、景観を構成する距離感、清浄さ、隔絶感
心の動き言葉を絶する感動俗世を離れた心地
評価日本三景の一つにふさわしい仙境に入ったよう

4.私が感じる、決定的な違い

天橋立の文章には、周囲の土地との関係が見えます。

竹生島の文章には、周囲の土地から切り離された感覚が見えます。

これは興味深いですね。

天橋立は、丹後の山々、与謝の海、阿蘇の海、文殊の町と一緒に見えている。

竹生島は、湖の中に浮かび、人里から遠く隔たった聖なる場所として見えている。

もちろん、竹生島にも長い歴史を持つ人々の信仰や営みがあります。益軒のこの文章では、そこよりも島の隔絶性が前面に出ているのでしょう。

そして、ここから少し大胆に言えば、

天橋立は、自然と人間の営みが織りなす風景。竹生島は、自然の懐に抱かれた聖地。

そんな対照が読み取れます。

5.そして、丹後にとって大切なこと

私は、益軒の天橋立評の中で、最も大事なのは「橋立東西の与謝の海、阿蘇の海」という部分だと思います。

益軒は、砂州だけを見ていません。

砂州の両側にある海を見ている。文殊の町も見ている。成相の山から、それらを一つの視界に収めている。

これは、天橋立を単独の名所として切り取るのではなく、周囲の風土との関係で捉えたということです。

益軒さん、意図していたかどうかは別として、現代の私たちに大事な視点を残してくれていますね。

竹生島は、島を訪れることで自然と信仰に出会う。天橋立は、土地を見渡すことで自然と人間の営みの結びつきに出会う。

この二つを実際に訪れた益軒の紀行文は、比較して読む価値があります。(^.^)

天橋立や竹生島の旅にも合う、宿泊先の候補を見ておくと便利です。

◆2 そこなんですね、益軒さんの目は、「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」の眼(呑め)です、なあ(^.^)

はははは!! そこです、そこ!!(^.^)

益軒さんの目は、天橋立という一本の砂州に止まっていない。

成相の坂から、

  • あ 阿蘇の海
  • い 伊根へと続く丹後の海
  • せ 世屋の山々と里山
  • よ 与謝の海、与謝野の大地

へと広がっていく。

もちろん、益軒が現代の「あいせよロード」を意識していたわけではありません。でも、彼が記した景観には、その構想を支える視点がある。

私が特に面白いと思うのは、益軒の旅をたどることで、現代のロード構想に歴史的な奥行きが生まれることです。

「あいせよ天橋立丹後浦島ロード」は、天橋立を見せる道ではない。天橋立が生まれた風土と、そこに生きてきた人々を見つける道。

益軒さんを、このロードの先輩案内人に任命しましょうか。

ただし、本人には向井酒造の「あいせよ」を一献進呈してからですな!!(^.^)

◆1 フム 少し調べると、玄妙庵の由緒に興味深い記述があります。
玄妙庵の公式サイトによれば、明徳4年(1393)、足利義満が文殊参詣をした際、丹後守護の一色満範がこの地に亭舎を設けて迎えたと伝えられます。その後、禅行の修場に使われ、「玄妙庵」と呼ばれるようになったとのことです。また、成相寺古図には四阿の亭舎が描かれ、「古堂、座禅所なり」と記されているといいます。智恩寺古図にも亭舎が描かれているそうです。、、、フム、益軒さん、この情報をえていなかった!としたら、おもしろいことですね、まずは成相ビュー、次に、では対岸からはどうだろう、となってもよかったでしょうに、、残念!!ところで、益軒さんの旅はお伴、お連れははいらっしゃったのですか、また、続いて若狭へということ、ここは船旅でしたか、また、若狭はどこを訪れられましたか、情報をください

↑貝原益軒『養生訓』に学ぶ養生の本質|東洋医学にも通じる“未病を防ぐ”暮らしの知恵 – 日本鍼灸大学

nihonshinkyu.jpnihonshinkyu.jp
つまり、少なくとも玄妙庵の場所は、益軒が訪れた1689年より前から、何らかの建物・宗教的な用途を持つ場所だった可能性が高い。

29s考えました

確認した整理方法

26件のウェブサイトを検索しました

いやあ、玄妙庵の話から、益軒の旅そのものへ関心が広がりましたね。これは丹後だけでなく、若狭・近江までつながる旅です。

調べてみると、益軒の旅は、宮津で終わっていません。丹後から若狭へ、さらに近江へ抜け、琵琶湖の竹生島にも渡る周遊の旅でした。

そして、船旅だったのかという点は、少し意外な答えになります。若狭への移動の主軸は陸路です。船が登場するのは、少なくとも確認できる行程では、竹生島への渡航です。

ogu-tec

+1

1. お伴はいたのか?

ここは慎重に見たいところです。

益軒は39歳のとき、東軒夫人と結婚しています。夫婦で諸国を見聞した記録もあると、益軒の生涯を扱う研究資料に紹介されています。

武蔵野学院

ただし、元禄2年(1689)の『己巳紀行』の旅に、妻や特定の同行者がいたと確認できる記録は、今回の調査では見つかりませんでした。

益軒が一人旅だったと断定することもできません。宿や道中で案内人・土地の人と行動を共にした可能性もありますが、そこも未確認です。

面白いのは、益軒が旅先で土地の人から話を聞き、伝承や地理を記録していることです。益軒の紀行文を分析した研究も、訪問地の人々との会話や、土地の話を聞くことを旅の楽しみの一つとして指摘しています。

国立国会図書館

つまり、同行者がいたかどうかとは別に、益軒は各地の人々を「旅の知識を得る相手」としていたようです。

2. 丹後から若狭へ、そして近江へ

旅の大きな流れを整理すると、こうなります。

元禄2年・丹波丹後若狭紀行の行程

  1. 京都から丹波へ南丹方面を経て福知山へ。山陰道方面の陸路を進む。
  2. 福知山から宮津・天橋立へ約150キロの京都―宮津間を3泊4日で歩いた行程。成相寺本坂道の眺望を記録。
  3. 宮津から舞鶴へ丹後の海岸地域を移動。
  4. 舞鶴から小浜へ若狭へ陸路で入る。
  5. 小浜から永坂峠を越えて今津へ若狭から近江へ。峠越えの陸路。
  6. 今津から竹生島へ琵琶湖を船で渡り、竹生島を訪ねる。
  7. 大原を経て京都へ帰る

行程は『己巳紀行』の「丹波丹後若狭紀行」の紹介・解説に基づく概略です。細かな立寄り順は原本での照合が必要です。

ogu-tec

+1

ここで重要なのは、宮津から小浜までを船で移動したのではない、ということです。

若狭への道は、舞鶴から小浜へ陸路で進み、小浜からさらに永坂峠を越えて近江の今津へ向かっています。

今の地図で見ると、丹後半島の東側から若狭湾沿岸を経て琵琶湖へ抜ける、実に興味深いルートです。

3. 若狭ではどこを訪ねたのか

まず、確実に押さえられるのは小浜です。

小浜については、町の様子だけでなく、土地の伝承も記録しています。

特に興味深いのが、八百比丘尼伝説です。

柳田國男は、益軒の『西北紀行』が小浜の熊野山にある神明社に伝わっていた八百比丘尼の由来を記録していることに注目しています。人魚の肉を食べた少女が長寿を得たという話です。

読む書く歌う旅をする  by 姜信子

+1

これは、単なる名所案内ではありません。

益軒は、若狭の人々が伝えてきた物語を、土地の記録として残しているのです。

また、小浜から今津への道中については、今津の町を次のように記録しています。

今津は湖中に出たる町にて西の方僅に陸に続く。島の如し。民家四百余戸有り。

前夜は小浜に泊まり、九里半街道を通って今津へ到着したとする解説があります。

Lics SaaS

今津の町を「島のようだ」と観察し、民家の戸数まで記録している。まさに地理と暮らしを見る目ですね。

4. 竹生島では、船で渡り、仙境を感じた

唯一の大坂城の建築遺構が残る!“神の棲む島”への日帰りクルーズ|長浜城下町エリア|豊臣秀吉・秀長兄弟ゆかりの地 滋賀県長浜市
竹生島参拝祈願ツアー行って来ました② | キュアサロンマナ リンパとスピリチュアル
竹生島上陸クルーズ 琵琶湖に浮かぶパワースポットへ!<島内自由散策/長浜港発> | 滋賀の観光&遊び・体験・レジャー専門予約サイト VELTRA(ベルトラ)
万年山文庫 『只今準備中』:西国33ヶ所 竹生島編 - livedoor Blog(ブログ)
2025/4/12御朱印巡りツアー2025第4弾 滋賀県竹生島②都久夫須麻神社 - よんよんさんのブログ
竹生島宝厳寺にある 大坂城唯一の遺構 国宝「唐門」 | 絶景事典
琵琶湖に浮かぶ竹生島に鎮座する都久夫須麻神社(竹生島神社)へ: 古寺とお城の旅日記
都久夫須麻神社(竹生島神社) | ニッポン旅マガジン

若狭を抜けた益軒は、近江の今津から竹生島へ渡っています。

竹生島での感動を、益軒はこう記しています。

社前より遠く望めば、湖水渺茫として人遠く隔たり、境地潔浄にして俗塵をはなれ、恰浮世の外に出たる心地して、仙境に入りたるように覚え侍る。

社前から遠くを眺めると、広大な湖水の向こうに人里が遠ざかり、俗世間を離れた仙境に入ったような気持ちになった、ということです。

ogu-tec

+1

ここは、成相寺の眺望と比較すると面白いですね。

  • 成相寺では、山上から二つの海と天橋立を見渡す。
  • 竹生島では、湖上の島に渡り、周囲の広大な水面を眺める。

益軒は、異なる水辺の風景を、それぞれ身体を運んで体験しているのです。

5. もう一つ、益軒の旅で見逃せないこと

益軒の紀行文を研究した溝口周道氏の論文は、益軒の特徴として、名所だけでなく、道中の集落、町並み、名産、里人との会話などにも関心を広げていたことを指摘しています。

J-STAGE

+1

また、益軒は伝承をそのまま信じるのではなく、文献を照合して検討する姿勢も持っていました。

論文が引用する益軒の言葉に、

名所の事、古人の説也とて、ことごとくは信ずべからず。あやまれる説多し。彼是考合せて決定すべし。

という一節があります。古人の説だからといって、何でも信じてはいけない。諸説を比較して判断せよ、という姿勢です。

J-STAGE

+1

これは、安田さんの「掘る・繋ぐ・問い返す」にも通じるものがありますね。

私が今回の旅程から感じたこと

益軒は、天橋立だけを目的に丹後へ来たのではありません。

丹波、丹後、若狭、近江を巡り、山を越え、海辺の町を歩き、湖上の島へ渡っています。

その旅の中で、天橋立の成相ビューに出会い、「日本の三景の一とするも宜也」と記した。

つまり、彼の天橋立評価は、広い地域を見て回った旅人の目から生まれたものだったのです。

そして、安田さんにぜひ紹介したい本があります。

『旅する益軒「西北紀行」―山城・丹波・丹後・若狭・近江を巡る』

西村隆夫著、和泉書院、1997年。

今回の旅を詳しく読み解くための専門書です。東京都立図書館の地方史誌目録にも書誌が掲載されています。

東京都立図書館

東京都立図書館の書誌情報

神戸大学の『西北紀行』原本も公開されています。

神戸大学附属図書館・原本画像

そして、私から一つ提案。

本坂コースを「益軒の道」として歩くなら、天橋立だけで完結させないことです。

益軒が見た丹後の風景を入口にして、若狭の小浜、今津、竹生島へとつながる旅を紹介する。

そうすると、天橋立は孤立した名所ではなく、日本海と琵琶湖を結ぶ広域の歴史・文化・交通の中に位置づけられます。

これぞ、丹後半島エコミュージアムの視野ですね。(^.^)

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◆2 オオ、、(^.^) 芭蕉さんの旅に曽良さんが同行されたように、秘書、お世話役がいらっしゃったように思うのですが、、単に記述がないということではなかったですか

おお、そこは私も改めて考え直す必要がありますね。おっしゃるとおり、「同行者の記述が見つからない」ことと「同行者がいなかった」ことは、まったく別です。

今回、書誌と研究論文を調べ直して、重要な手掛かりがありました。

1. 益軒の旅は、個人的な単独旅行とは限らない

溝口周道氏の研究論文によれば、益軒は公務で江戸や京都を往復する際にも、足を延ばしたり回り道をしたりして各地を巡っていました。また、丹後・若狭・近江には、かねてから遊観したいという希望があったと記しています。

J-STAGE

+1

つまり、今回の旅は、芭蕉のように紀行文学を作ることを主目的とした旅とは、性格が違います。

2. 旅の記録には、同行者の名前が出てこない

ここで面白い書誌情報があります。

九州大学所蔵の写本『諸州巡覧記』の書誌には、益軒自身が元禄2年2月に『西北紀行』を書き終えたことが記されています。

CiNii Research

+1

しかし、この書誌情報だけでは同行者は分かりません。私が確認できた研究・公開資料にも、曽良のような特定の同行者の名前は見当たりませんでした。

3. ただし、益軒には旅を支える人的なつながりがあった

益軒は福岡藩に仕えた儒学者であり、藩の公務や学問上の人脈を持つ人物です。各地で土地の人から話を聞き、地理や産業、伝承を記録しています。

ですから、旅の途中で案内や世話を受けた可能性は十分考えられます。ただし、専属の秘書・世話役が同行したと示す証拠は、まだありません。

私なら、こう調べます

特に見たいのは、原本の次の箇所です。

  • 出発時の記述:誰と出発したのか。
  • 宿泊先の記述:宿の手配や同行者への言及があるか。
  • 「我等」「同道」「供」などの表現。
  • 船や駕籠、荷物、案内人についての記述。

神戸大学の原本画像はこちらです。

『諸州巡覧記 西北紀行』全45丁

私の見立ては、同行者がいなかったとはまだ言えない、です。

それにしても、益軒は60歳。京都から丹後、若狭、近江を巡り、山道を登り、船に乗り、土地の人から話を聞いている。

一人であれ、誰かと一緒であれ、なかなかの旅人です。

安田さん、ここは「益軒の旅の一行」を調べる価値がありますね。旅の記録に書かれなかった人が、実は旅を支えていたのかもしれません。(^.^)

◆3 益軒は福岡藩に仕えた儒学者であり、、、フム、藩が召し抱える儒学の権威、、益軒さんはどこでだれにその儒学を学ばれたか、キャリア形成の過程を下さいな

フム、ここは益軒さんの人物像を考えるうえで、なかなか面白いところです。

まず押さえたいのは、益軒は最初から福岡藩の儒学者として育てられた人ではないということです。父や兄から学び、若いころの浪人生活を経て、長崎・江戸・京都で学問の世界を広げ、藩に再び召し抱えられてから、藩を代表する儒者へと成長していきました。

しかも、藩が費用を出して京都へ遊学させています。つまり、個人の学問修業であると同時に、藩が人材を育てる政策でもあったわけです。

museum.city.fukuoka.jp

+2

益軒の学問修業とキャリア形成

1.幼少期――父と兄が最初の先生

益軒は1630年、福岡城内に生まれました。父は貝原寛斎。福岡藩に仕えた右筆役、つまり文書や記録を扱う役目です。

幼少期には、父と兄から儒学や医学を学んでいます。ここが学問の出発点でした。父の仕事の関係で、福岡の町場だけでなく、山村や農村にも住まいを移しています。

福岡市博物館の年譜には、父や兄から儒学・医学を学んだことが記されています。

福岡市博物館

+1

2.19歳で出仕、21歳で浪人――人生の転機

年年齢出来事
1648年19歳二代藩主・黒田忠之に出仕
1649年20歳藩主の怒りに触れ、処分を受ける
1650年21歳浪人となる

最初の勤めは、儒学者としてではなく、御納戸御召料方という藩の役目です。

その後、浪人となり、長崎・江戸・大坂・京都などで学問を続けます。福岡市博物館は、この時期に長崎でも学んだことを紹介しています。医学を学んだ経験もありました。

ここが興味深い。益軒は、藩の学問所で順調に育てられたエリートというより、若くして藩の外に出され、各地で学び直した人なのです。

福岡市博物館

+2

3.27歳――藩主の理解を得て、京都へ

1656年、三代藩主・黒田光之のもとに再出仕します。翌1657年、藩命によって京都へ遊学することになります。

ここで出会い、学んだ儒学者たちが重要です。

松永尺五(1592–1657)

藤原惺窩の門人で、京都の儒学界を代表する人物。益軒が京都に出た1657年に没しています。直接どの程度教えを受けたかは、もう少し史料の確認が必要です。

尊王?攘夷?討幕?幕末の思想を一度で整理する|Pain

山崎闇斎(1619–1682)

朱子学を深く研究し、後に垂加神道を開いた思想家。益軒が京都で学んだ重要な人物の一人です。

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木下順庵(1621–1698)

朱子学を中心に学問を広めた儒者。益軒が京都で学んだ人物として、福岡市博物館の年譜にも名前が挙がっています。

福岡市博物館

+2

京都では、このほかにも中村惕斎、藤井懶斎、向井元升らと交流を深めています。儒学だけでなく、本草学や医学、歴史など、幅広い分野の学者とのつながりができました。

群馬大学リポジトリ

+1

そして1660年には江戸へ赴き、幕府の儒学者・林鳳岡とも交流しています。京都だけでなく、江戸の学問世界にも接点を持ったのです。

福岡市博物館

+1

4.35歳――福岡に戻り、藩儒として本格始動

1662年、益軒は福岡へ戻ります。1664年には150石の知行地を与えられ、藩士としての地位を固めます。

その後は、

  • 藩主や藩士に儒学を講義する。
  • 1671年、『黒田家譜』の編纂を命じられる。
  • 1688年、『筑前国続風土記』の編纂許可を得る。
  • 朝鮮通信使の応接にも携わる。

というように、学問が藩の政策や行政に結びついていきます。

museum.city.fukuoka.jp

+2

『筑前国続風土記』は、甥の貝原好古とともに領内を歩き、資料を集めて編纂した地誌です。机上の儒学だけでなく、現地を調べ、土地の歴史や地理を記録する仕事をしたわけです。

福岡市博物館

+1

5.晩年――朱子学を学び、そして問い直す

益軒の基本的な学問の立場は朱子学でした。ただし、生涯を通じて一つの教えをそのまま守ったわけではありません。

晩年には朱子学に対する疑問を『大疑録』にまとめています。自然や人間を観察し、実際の生活に役立つ知識を重んじたことも、益軒の学問の特徴です。

群馬大学リポジトリ

+1

益軒のキャリアを一枚にすると

  1. 父・兄から学ぶ儒学・医学の基礎を身につける
  2. 藩に出仕、そして浪人長崎・江戸・大坂・京都で学び直す
  3. 藩主の支援で京都遊学山崎闇斎、木下順庵らと学問交流
  4. 福岡藩に戻り、藩儒となる講義・歴史編纂・地誌編纂などを担う
  5. 晩年の著述活動儒学・本草・養生・教育などを幅広く研究

ここから、先ほどの「西北紀行」に戻ってみましょう

私は、益軒が丹後を訪れた1689年という年に注目します。

このとき益軒は59歳(数え60歳)。すでに福岡藩の儒者として、学問上も行政上も相当な経験を積んでいました。『黒田家譜』の編纂を経験し、『筑前国続風土記』の仕事にも取り組んでいた時期です。

museum.city.fukuoka.jp

+1

つまり、丹後を訪れた益軒は、単なる景勝地好きの旅人ではありません。

儒学を身につけ、藩の歴史を調べ、土地を歩いて地誌をつくる仕事をしてきた人物が、成相の坂から天橋立・与謝の海・阿蘇の海を眺めた。

ここが大事だと思います。

もちろん、彼が成相の景色をどのような学問的意図で見たかまでは、紀行文の記述だけでは断定できません。しかし、彼のそれまでのキャリアを知ると、あの「其景言語ヲ絶す」という一節の重みも、少し違って見えてきます。

そして、もう一つ。益軒は福岡藩のために『筑前国続風土記』を編んだ人です。丹後の旅でも、景色だけでなく、土地の由来や暮らし、道の険しさなどを記録していた可能性があります。

成相ビューを体感するコースにするなら、益軒を「日本三景を褒めた人」として紹介するだけではもったいない。土地を歩き、見て、記録した学者として迎えたいですね。(^.^)

◆4 天の橋立への旅の起点、それは、儒学者としての成長深化、この過程で、三処奇観に触れられた、そのことのようですね、

そうですね。そこに、益軒の丹後行きの意味を考える手がかりがありそうです。

ただ、少しだけ時間の順序を丁寧に置きたいと思います。

林鵞峰の『日本国事跡考』に記された「三処奇観」は、益軒が丹後を訪れた1689年より前のことです。益軒が京都・江戸などで儒学を学び、各地の学者と交流していた時期に、すでに天橋立・松島・厳島という三つの景勝地を一組として見る知識に接していた可能性は十分あります。

つまり、益軒の旅は、何も知らずに偶然天橋立へ来た旅ではなかった、と考えるのが自然です。

ただし、現時点では「益軒が『日本国事跡考』を実際に読んだ」という直接の証拠までは確認できていません。そこは一段留保しておきましょう。

宮津市の解説も、林鵞峰の1643年の記述と、益軒の1689年の評価を区別しています。さらに、益軒の紀行文は後世の旅行者や名所案内にも影響を与えたと研究されています。

宮津市ホームページ

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私なら、こう整理します。

  • 1643年 林鵞峰が「三処奇観」として、天橋立を全国的な名所の枠組みに置く。
  • 益軒の修業期 儒学者として各地の知識・地理・歴史・名所に関する教養を深める。
  • 1689年 益軒が実際に丹後を訪れ、成相の坂から自分の目で眺め、「日本の三景の一とするも宜也」と記す。

ここで大切なのは、益軒が先人の評価をただ繰り返したのではなく、自分の足で成相への坂を上り、自分の目で確かめていることです。

そして、もう一つ面白いことがあります。

林鵞峰の「三処奇観」は、松島の景色を中心にした記述でした。一方、益軒が成相の坂から見たのは、天橋立だけではありません。切戸の文殊、与謝の海、阿蘇の海までを一望する景色です。

つまり、益軒は「天橋立という名所」を見たというより、天橋立を含む一帯の風景を見て、その価値を認めたとも読めます。

これは、いま話している「天橋立を説明するために丹後を見るのではない。丹後を見つめたとき、天橋立が見えてくる」という視点にも通じますね。

益軒の旅の出発点には、学問によって得た知識があり、成相の坂には、その知識を実景に照らして確かめる場があった。そんな読み方ができると思います。

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◆5 年 年齢出来事1648年19歳二代藩主・黒田忠之に出仕1649年20歳藩主の怒りに触れ、処分を受ける、、、、青春ドラマですね、、なにがあったのですか

ははは! これは青春ドラマです。しかも、二十歳で藩主の怒りを買い、七年間も浪人生活を送る。後の大儒・貝原益軒の人生が、ここから大きく動き始めるんですね。

ところが、実は 何をして藩主の怒りに触れたのか、確定した説明はありません。

調べてみると、主に二つの見方があります。

1.藩主との性格・気風の違い

二代藩主・黒田忠之は、一般に武断的な気風を持つ人物として説明されます。

一方、益軒は読書と思索を好む青年でした。

福岡大学の井上忠氏による研究では、忠之の武断的な気風と益軒の性格の相違が、処分の背景にあった可能性を挙げています。

J-STAGE

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2.若き益軒が藩主に諫言したという説

もう一つ、興味深い説があります。

益軒が青年時代に陽明学関係の書物を多く読んでいたことから、主君に対して自分の考えを述べ、諫言したのではないか、という見方です。

これは同じ井上氏の論文中で、東京工業大学の伊藤友信氏による新解釈として紹介されています。

ただし、これも確定した事実ではありません。諫言の内容や、具体的に何を言ったのかを示す確実な記録は、今回確認できていません。

J-STAGE

3.処分は段階的だった

福岡市博物館の年譜によると、

年年齢出来事
1648年19歳忠之に出仕
1649年20歳謹慎15日、4か月間の御目見え停止
1650年21歳浪人となる

という経過です。いきなり浪人になったのではなく、段階的に処分が重くなっています。

福岡市博物館

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4.そして、浪人七年間が益軒を変えた

ここが私には最も興味深いところです。

益軒はこの間、医学を学び、長崎・江戸・大坂・京都などを訪ねています。26歳のときには髪を剃り、僧体となって「柔斎」と号しました。医者として生きる道も考えていたようです。

福岡市博物館

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そして27歳で三代藩主・黒田光之に再び召し抱えられ、28歳で京都遊学を命じられる。

つまり、若いころの挫折が、結果として学問の世界を大きく広げる機会につながったわけです。

私がここで注目したいのは、益軒の学問の出発点です。

彼は最初から藩の儒学の権威だったわけではない。藩主との関係でつまずき、医者になることも考え、外の世界を歩き、そこで学問を深めていった。

藩に仕える儒者になる前に、藩の外で世間を見た青年だった。

この経験は、後の『筑前国続風土記』や『大和本草』のように、書物だけでなく土地や自然を実際に調べる学風にも、何らかの影響を与えたのではないでしょうか。

いやあ、二十歳の益軒さん、なかなか一筋縄ではいかない青年だったようです。(^.^)

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◆6 益軒さん、名前の益、気になりますね

おお、「益」に目が留まりましたか!(^.^)

実は、これは益軒さんの人生を考えるうえで、なかなか味わい深い話なんです。

「益軒」は生まれたときの名前ではありません。晩年に自ら改めた号です。

貝原篤信(あつのぶ)、字は子誠。若いころには「柔斎」、そして長く「損軒(そんけん)」と名乗っていました。それを晩年になって「益軒」に改めたのです。

Keio Object Hub: 慶應義塾のアート&カルチャーを発信するポータルサイト

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「損」から「益」へ

損

損軒

そんけん

減らす、損なう、差し引く。

益

益軒

えきけん

増す、役立つ、利益をもたらす。

中国古典『易経』には「損」と「益」という対になる卦があります。

江戸時代の人物伝『近世畸人伝』には、益軒の「損軒」という号について、易の「損益」の卦に由来するのではないか、という考察が記されています。

ラピス

また、井上孝一氏の説として、益軒への改号は78歳後半ごろで、中国の『易』の影響があると紹介されています。

株式会社 協通事業

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ただし、本人が「こういう意味で改号した」と明記した文章は、今回確認できていません。したがって、由来は有力な解釈として受け止めるのがよさそうです。

私が面白いと思うのは、改号した年齢です

益軒は78歳ごろに「益軒」と名乗り始めたとされます。

それまでの長い年月は「損軒」。晩年になって「益軒」。

もちろん、これを人生の反省や心境の変化と断定することはできません。しかし、あえて対になる字を選んだことには、何かしらの思想的な意味を感じます。

そして、益軒の仕事を振り返ると、

  • 『大和本草』で自然の知識を人々に伝える。
  • 『筑前国続風土記』で土地の歴史を後世に残す。
  • 『養生訓』で日々の暮らしに役立つ知恵を伝える。

まさに、知識を自分の中に蓄えるだけでなく、人々の暮らしに役立てようとした仕事です。

「損軒」から「益軒」へ。自分の学問を、世の中にどう役立てるか。

そんな読み方をしたくなりますね。

そして、ここで一つ、丹後への旅に戻ると面白い。益軒は「益軒」と改号する前、まだ「損軒」と名乗っていた時期に、あの成相の坂を上っているのです。

あの旅をした人と、晩年に「益軒」と名乗った人。同じ一人の人生として見ると、なかなか味わいがあります。(^.^)

◆7 彼を主人公にしたドラマは、制作されていましたか

調べてみました。結論からいうと、貝原益軒を主人公にした本格的な連続テレビドラマ・時代劇は、今回確認できた範囲では見当たりませんでした。

ただし、益軒を主役に据えたテレビ番組は制作されています。

益軒が主人公になった番組

益軒さんの養生訓 - 日本の自然と伝統文化 - 株式会社ツムラ

THE 歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜

益軒が主役

2015年11月27日放送

「老いを楽しむ『養生訓』 貝原益軒」

幼少期の病弱さ、20歳での出仕と浪人、学問への道、妻・東軒との暮らし、晩年の『養生訓』執筆までを紹介しています。BS-TBS公式・番組内容

BS-TBS

【第19章 貝原益軒『養生訓』を読む】節度ある人生を説いた江戸の知恵 | 第1回 なぜ八十歳の益軒は『養生訓』を書いたのか|left_unfiled

偉人たちの健康診断

2017年10月18日放送

「“養生訓”のススメ 江戸の健康名人・貝原益軒」

益軒の健康法を現代医学の視点から検証した番組です。制作会社・番組紹介

TV MAN UNION

でも、私はドラマにするなら別の切り口が面白いと思います

『養生訓』を書いた長寿の偉人、という紹介だけでは、益軒の人生の面白さを取り逃がします。

私なら、こんな構成を考えます。

仮題『損軒から益軒へ――貝原篤信の旅』

  1. 二十歳、藩主の怒りを買う。若き日の挫折。
  2. 浪人七年。長崎、江戸、京都を巡り、学問を深める。
  3. 福岡藩に復帰。藩の歴史と風土を記録する仕事。
  4. 59歳、丹後へ。成相の坂から天橋立を眺める。
  5. 晩年、号を「益軒」と改め、人々に知恵を残す。

そして、丹後の場面では、益軒が成相の坂を上りながら、目の前に広がる景色を見つめる。

天橋立、与謝の海、阿蘇の海、其景言語ヲ絶す。

この一場面を、物語の中盤に置きたいですね。

二十歳の挫折から始まった人生が、六十歳を前に丹後の風景と出会う。

これ、単なる偉人伝ではなく、一人の人間が学び、歩き、見つめ、最後に「益」を残そうとした人生のドラマになります。(^.^)

◆8 益軒さんの旅を見ています、竹生島訪れてらっさいますね、あ、ここ、世界遺産、彦根城よりシンプルに刺さる!と思いましたよ

ああ、竹生島ですか! その感覚、ちょっとわかります。

彦根城は、城郭建築、城下町、政治権力、近世大名の統治……と、価値を説明するにはいくつもの層を読み解く必要があります。

それに対して竹生島は、湖上に浮かぶ一つの島に、自然と信仰と建築が凝縮されている。

島そのものが聖地であり、湖を渡ることが参詣の体験になる。

この構図は、実にわかりやすく、強いですね。

しかも、竹生島は単なる景勝地ではありません。

【空撮!ニッポンの絶景】竹生島|滋賀県 | ニッポン旅マガジン
竹生島に残る豊臣大坂城・極楽橋の唐門 - お城めぐりFAN
竹生島上陸クルーズ 琵琶湖に浮かぶパワースポットへ!<島内自由散策/長浜港発> | 滋賀の観光&遊び・体験・レジャー専門予約サイト VELTRA(ベルトラ)
  • 琵琶湖の沖合約6km、周囲約2kmの島。
  • 宝厳寺と都久夫須麻神社が並び立つ。
  • 弁才天信仰、西国三十三所観音巡礼、水の神への信仰が重なる。
  • 宝厳寺の唐門と都久夫須麻神社本殿は国宝。滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!+1

なお、竹生島はユネスコ世界遺産ではありません。文化庁の「日本遺産・琵琶湖とその水辺景観」の構成文化財であり、国宝・史跡・名勝などの文化財価値を持つ場所です。

日本遺産ポータル

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そして、益軒の旅がまた面白い

1689年、益軒は琵琶湖を小舟で竹生島へ渡っています。風が逆で航行が難しかったという記録もあります。つまり、陸から眺めただけではなく、湖を渡って島に入ったのです。

depp-usp.com

ここで、天橋立と竹生島を並べてみたい。

天橋立竹生島
海に伸びる砂州湖に浮かぶ島
山・川・海の営み湖・島・水の信仰
人が歩いて渡る船で渡る
景観と人の暮らし聖地と参詣の営み

どちらも、自然の地形そのものが人間の信仰や文化を引き寄せてきた場所です。

そして、ここが私の今日の発見です。

益軒は、成相の坂から天橋立を眺め、さらに琵琶湖では船で竹生島へ渡った。

この人の旅をたどると、名所を訪ねるだけでなく、土地の成り立ち、信仰、暮らしを身体で確かめる旅になっている。

彦根城と竹生島、どちらが世界遺産にふさわしいかという比較とは別に、竹生島が一目で伝える「自然と信仰の結びつき」は、確かに強いものがあります。

いやあ、益軒さん、丹後の案内人としてだけでなく、琵琶湖の案内人としても、なかなかいい仕事をしていますね!(^.^)

◆1 林春斎さんの『日本国事跡考』での、日本三処奇観についての記述の原文がほしいです、可能ですか

可能です!そして、原文が見つかりました。

林春斎(林鵞峰)が寛永20年(1643年)に記した『日本国事跡考』の陸奥国の項にある文章です。

『日本国事跡考』原文

松島此島之外有小島若干殆如盆池月波之景境致之佳與丹後天橋立安藝嚴島爲三處奇觀

OpenHistory

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書き下し文

松島、此の島の外に小島若干あり。殆ど盆池月波の景の如し。境致の佳なる、丹後天橋立、安芸厳島と、此の三処を奇観と為す。

現代語訳

松島には、本島のほかに小島がいくつもある。その景色は、まるで水をたたえた庭池に月の光が波打つようである。景観のすぐれた丹後の天橋立、陸奥の松島、安芸の厳島、この三か所を奇観とする。

ここで注目したい三つのこと

①「日本三景」ではなく「三処奇観」

原文には「日本三景」という言葉はありません。「三処奇観」です。

三つの場所を選び、景観の素晴らしさを評価している。後世の「日本三景」という呼称の出発点とされます。

レファレンス協同データベース

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② 記述の中心は松島

文章は松島の島々の景色を描写してから、丹後天橋立と安芸厳島を挙げています。

つまり、三か所の特徴を均等に論じた景観比較論ではありません。松島の記述の中で、三つの奇観を並べたものです。

③「丹後天橋立」という表記

ここが私は気になります。

単に「天橋立」ではなく、「丹後天橋立」と記している。

天橋立が丹後という土地に属する名所として認識されていたことが読み取れます。

もう一つ、重要な史料があります

寛永20年の林春斎の記述から46年後、貝原益軒が元禄2年(1689年)に天橋立を訪れています。

『己巳紀行』には、成相寺へ登る坂の途中から、

此坂中より天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶ス、日本の三景の一とするも宜也

と記されています。

レファレンス協同データベース

+1

こちらは実際に現地を訪れ、天橋立、文殊、与謝の海、阿蘇の海を一望した人の評価です。

私は、この二つを並べることに意味があると思います。

  • 林春斎:遠くから日本の名所を選び、三処を奇観と評価した。
  • 貝原益軒:現地に立ち、山上から丹後の景観全体を眺め、その価値を実感した。

1643年の「三処奇観」から、1689年の「日本の三景」へ。

天橋立が全国的な名所として位置づけられていく過程を考えるうえで、重要な二つの記録です。

なお、今回確認できたのは原文の引用を掲載する資料です。『日本国事跡考』の初版本そのものの画像と、句読点・異体字を含む厳密な校訂本文までは未確認です。研究資料や正式な引用に使う場合は、『松島町史』資料編二などの翻刻と照合するのが確実です。

この原文、天橋立の文化史を語るうえで、ぜひ手元に置いておきたい一節ですね。(^.^)

※日本三処奇観めぐりの旅なら、日本語現地ツアーも選択肢です。

◆2 松島此島之外有小島若干殆如盆池月波之景境致之佳與丹後天橋立安藝嚴島爲三處奇觀、ですね、さらに、天の橋立と厳島について、寸評があるということです、そこを知りたいです探してくださいな

なるほど! 今回は、先ほどの「三処奇観」の一文だけでなく、林春斎が『日本国事跡考』の別の箇所で、天橋立と厳島そのものをどう記述しているか、ということですね。

調べてみると、まず大事な手掛かりが見つかりました。京都大学附属図書館には『日本国事跡考』のデジタル画像があり、問題の「三処奇観」の記述は、全80画像中の47頁に当たる箇所に確認できます。

tanamori.blog.shinobi.jp

+1

ただし、これは陸奥国の項にある松島の説明です。ここだけを読んでも、天橋立・厳島それぞれへの寸評までは分かりません。

追加調査で分かったこと

現時点で確認できた範囲では、次のように整理するのが正確です。

1. 松島については具体的な描写がある。 「此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景」――島のほかに小島がいくつもあり、その景色は、池に月の光が波打つようだ、と描いています。

2. 天橋立と厳島については、この一文では固有の景観描写がない。 「與丹後天橋立安藝嚴島爲三處奇觀」は、丹後天橋立と安芸厳島を松島と並べて、三か所を奇観とする、という評価です。天橋立の砂州や松並木、厳島の社殿や海上の鳥居について、ここでは何も説明していません。

tanamori.blog.shinobi.jp

+1

3. 別の箇所に個別の寸評があるかどうかは、まだ確認できていません。 京都大学のデジタル画像はこちらです。 京都大学附属図書館『日本国事跡考』47頁の画像

また、宮島側の歴史研究を紹介する国立国会図書館レファレンスには、林春斎の記述が「わずかな記述」であったことが、その後「日本三景」として独り歩きした、という研究者の指摘も紹介されています。

レファレンス協同データベース

ここが面白いところです

春斎は、松島については目に浮かぶような描写をしているのに、天橋立と厳島は名前を挙げるだけで、同じ「奇観」に並べています。

つまり、この文章だけからは、三つを同じ理由で評価したのか、それぞれ異なる魅力を認めたのかさえ分かりません。

私は、ここを曖昧にしたまま「日本三景の始まり」と片づけたくないですね。

春斎は、なぜこの三つを選んだのか。天橋立と厳島について、彼は何を知っていたのか。

ここを解くには、京都大学の原本画像で丹後国・安芸国の記述を直接確認する必要があります。今回の検索では、その個別の寸評を裏付ける原文までは発見できませんでした。もし「寸評がある」と書かれた資料や文章をお持ちなら、そこを手掛かりに原本の該当箇所を追いかけたいです。知りたいのは、むしろ次のことです。

  1. 天橋立をどこから眺め、何を見ていたのか。
  2. 成相寺、府中、文殊、阿蘇海、与謝の海をどう結びつけて記述したのか。
  3. 丹後の山や海、集落、産業について何を記録したのか。
  4. 旅人としての益軒の目に、丹後はどんな土地として映ったのか。

特に3番が面白い。景観だけでなく、そこで暮らす人々の営みまで記録しているなら、これは丹後の17世紀の姿を知る貴重な窓になります。、、ここをくださいな

これは面白い資料です。調べ直して、まず書名と旅の記録の関係を整理できました。

貝原益軒の元禄2年(1689)の旅については、研究論文では『西北紀行』と呼ばれ、天橋立の眺望を紹介する宮津市の資料では『己巳紀行』の「丹波丹後若狭紀行」として引用されています。神戸大学所蔵の版本は『諸州巡覧記 西北紀行』で、正徳3年(1713)刊、正徳6年(1716)印です。したがって、旅をした年と、現在読める版本の刊行年は区別しておきましょう。

貴重書・特殊コレクション

+2

そして、益軒の記録を読むうえで大切なのは、彼が単に「天橋立を見に来た観光客」ではなかったことです。地理・産業・自然・社寺・旧跡を観察し、記録する博物学的な旅人でした。研究論文も、益軒の紀行文には産業や地理の写実的な記述と、自然美・社寺旧跡の名所案内的な記述が併存すると評価しています。

武蔵野学院

1. 天橋立をどこから眺め、何を見たのか

天橋立を一望できる宮津の古刹・ 成相寺|宮津市広報

miyazu-city.note.jp

益軒が感嘆したのは、府中から成相寺へ登る本坂道の途中です。

宮津市が紹介する本文は次のとおりです。

中村(成相乃麓也)より観音堂まで十六町の坂をのぼる。其路甚嶮峻にて、輿馬の往来也かたし。
(中略)
此坂中より、天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶す、日本の三景の一とするも宜也。

つまり、

  • 天橋立
  • 切戸の文殊
  • 天橋立の東西に広がる与謝の海
  • 阿蘇の海

この四つを、眼下に一望したのです。

宮津市ホームページ

+1

ここで大事なのは、益軒が天橋立の松並木だけを見ていないことです。

二つの海を隔てる砂州、その両側の水面、文殊の寺院、そしてそれらを取り囲む地形を一つの景観として見ている。

これは、安田さんが大切にされている「山・川・湾・砂州の関係から天橋立を見る」という考え方にも通じますね。

2. 成相寺・府中・文殊・二つの海の関係

益軒の旅の記述からは、景観だけでなく、参詣と交通の関係も読み取れます。

府中から成相寺へ登る道は、かなり険しい。

十六町の坂道で、輿や馬の往来も難しいと書いています。つまり、成相寺参詣は、簡単な物見遊山ではありませんでした。身体を使って山を登る旅だったわけです。

宮津市ホームページ

一方、宮津から文殊へ行く交通については、益軒の『己巳紀行』に、

宮津から文珠へ出るには、舟にてゆけば一里に近し、陸行すれば坂ありて遠し。

という記述が紹介されています。

宮津市ホームページ

これは興味深いですね。

文殊は、宮津の城下と天橋立を結ぶ水上交通の結節点だった。陸路より船の方が便利だったのです。

つまり当時の天橋立周辺は、

  • 府中から成相寺へ向かう山の参詣道
  • 宮津から文殊へ向かう船の道
  • 文殊から天橋立へ渡る道
  • 阿蘇海と宮津湾を行き来する水域

が重なり合う場所だったと考えられます。

天橋立は、眺めるだけの名所ではなく、参詣と交通の舞台でもあったのです。

3. 丹後の山・海・集落・産業について

ここは、安田さんが一番知りたいところですね。

まず、確認できたことと、まだ原文を確認できていないことを分けます。

益軒の紀行文についての研究では、自然景観や社寺旧跡だけでなく、産業や地理についても写実的な記述があることが特徴とされています。後世の名所図会に通じる案内的な性格も持っていたと評価されています。

武蔵野学院

また、江戸時代の旅日記を比較した宮津市の調査では、旅人がどの道を通ったか、何を食べ、どこに泊まり、何に関心を持ったかが分かるとされています。ただし、ここで紹介されているのは益軒の記録だけではなく、複数の旅日記を含む調査です。

宮津市ホームページ

現段階では、益軒の丹後の記述から、次の項目を個別に抜き出して確認する必要があります。

調べたい対象読み取りたいこと
山・峠・河川地形、道の険しさ、移動の難所
海・港・船船の往来、海上交通、港の役割
集落・町家並み、人口の集まり、宿泊・商業
農業田畑、作物、土地利用
漁業・海産物漁の様子、魚介、加工・流通
社寺・信仰参詣者、寺社の立地、地域との関係

ここは正直に言うと、今回確認できた二次資料だけでは、益軒が丹後でどの魚を見たとか、どの農産物を記したとか、具体的な産業の記述までは確定できません。

神戸大学の公開資料には、45丁の原本画像があります。書誌情報だけでなく、本文を一丁ずつ読んでいく必要があります。

貴重書・特殊コレクション

+1

神戸大学『諸州巡覧記 西北紀行』原本画像

4. 益軒の目に丹後はどう映ったのか

ここまでの記録から、私なりに三つの特徴を感じます。

第一に、丹後は遠いけれど、訪ねる価値のある土地だった。

益軒は京都から宮津まで約150キロを歩き、3泊4日で到達したと、宮津市の資料は紹介しています。60歳前後の旅です。

宮津市ホームページ

第二に、丹後は山と海が近接し、移動そのものが土地の特徴を教える場所だった。

成相寺への急坂、宮津から文殊への船路。陸と海で移動の仕方が変わります。地形が人々の暮らしや交通を決めていたことがうかがえます。

第三に、丹後は名所だけでなく、地理・産業・歴史を観察する対象だった。

益軒は単に景色に感動して終わる人ではありません。見たものを記録し、土地を理解しようとする知識人でした。

ここから、もう一段掘りたい

「天橋立図」二上西州画 丹後宮津大和屋幸次郎蔵板 1枚|古地図 木版画 和本 絵図|Yahoo!フリマ(旧PayPayフリマ)

paypayfleamarket.yahoo.co.jp

私が今回、特に面白いと思ったのは、益軒の記述を読むときに、天橋立を「景観」としてだけでなく、丹後の暮らしを結ぶ場所として見直せることです。

林春斎の「三処奇観」は、名所を選ぶ視線でした。

それに対して益軒の紀行は、道を歩き、坂を登り、船の便利さを知り、目の前の景色を記録する視線です。

そして、安田さんが関心を持っている3番――山・海・集落・産業――を本当に明らかにするには、神戸大学の45丁を読み通し、丹後に関する記述を拾い出すのが次の仕事です。

「絶景を見た人」の記録から、「その土地で人々がどう生きていたか」を読み取る。

これができれば、17世紀末の丹後を、天橋立を中心とした一つのエコミュージアムのように描けるかもしれませんね。(^.^)

日本三景を決定づけたのは貝原益軒さん、そのアングルは、成相ビューだった、文殊玄妙ビューではなかった、、これは大きいですよ(^.^)

これは大きい!!(^.^)

しかも、単に「どこから眺めたか」という話ではありません。天橋立を日本三景の一つとして評価した、その視点の位置が成相だったということです。

少し整理してみましょう。

  • 成相ビュー:山上から、天橋立・文殊・与謝の海・阿蘇海を見渡す。砂州を二つの海や周囲の地形との関係で捉える俯瞰の視点。
  • 文殊ビュー:砂州の入口に立ち、松並木や海、寺院、往来する人々との関係を感じる。天橋立の内部に身を置く視点。
成相寺 | 全国観光資源台帳(公財)日本交通公社
【京都天橋立】恋愛成就・学問祈願・願望成就が叶う五つの神社・寺を紹介!|ayano-matsumura
天橋立 | まるごと北近畿
天橋立を一望できる宮津の古刹・ 成相寺|宮津市広報
成相寺パノラマ展望台の夜景写真| 夜景ワールド
天橋立 飛龍観 天橋立ビューランドより ブラタモリでも

益軒の記録で決定的なのは、次の一節ですね。

此坂中より、天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶す、日本の三景の一とするも宜也。

ここでは、天橋立だけでなく、文殊と二つの海を一望したことが評価の根拠になっています。

ただし、一点だけ慎重に。益軒が「日本三景」を最初に決定した、とまでは言い切れません。林春斎の1643年の「三処奇観」が先行しています。益軒の役割は、実際に現地に立ち、その眺望を「日本の三景の一」と明示的に評価したことにあります。

そして、ここから面白い問いが生まれます。

天橋立の価値を世界に説明するとき、私たちはどの場所から天橋立を見せているのか。

飛龍観、文殊、傘松、成相。眺める場所によって、見えてくる天橋立は違います。

益軒が選んだのは、成相からの俯瞰でした。

これは、安田さんが大切にしている「天橋立は山と海が育てた」という見方と響き合います。

私は、こんな言葉を置いてみたい。

「日本三景・天橋立は、松並木の美しさだけで選ばれたのではない。二つの海と、それを結ぶ砂州が織りなす大きな風景として見いだされた。」

成相ビューは、天橋立を「点」ではなく「関係」で見る視点だったのかもしれません。これは世界遺産を考えるうえでも、掘る価値がありますね。

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単純なことかもしれません、まだ開発されていなかった!!

ああ!! そこですか。(^.^)

それは、かなり重要な仮説ですね。

益軒が成相寺への坂道から眺めた17世紀末の天橋立は、まだ近代的な観光開発も、現在の道路網も、展望施設もない時代です。

つまり、彼の目に入ったのは、

  • 人工的に整えられた展望空間ではない山の斜面
  • 自然の地形の中に横たわる天橋立
  • 阿蘇海と宮津湾(与謝の海)
  • 府中や文殊の集落と寺社
  • それらを結ぶ海と陸の交通

だったのでしょう。

ただし、当時も成相寺は信仰と参詣の場として成立していましたし、山道も人の手が入っていました。「人の手が入っていなかった」のではなく、現代の観光開発によって切り取られる前の、生活と信仰の中にある風景だった、と考えるのがよさそうです。

そして、ここが面白い。

益軒は、開発された展望台から天橋立を見たのではない。険しい参詣道を登り、その途中で、山・海・砂州・集落が一体となった風景に出会った。

もしかすると、成相ビューの価値は、眺望の高さだけではなく、そこへ至る道のりも含めて成立していたのかもしれません。

「まだ開発されていなかったからこそ、天橋立を取り巻く風土全体が見えた。」

この仮説、世界遺産を考えるうえでも大事にしたいですね。

天橋立方面の旅程づくりには、航空券+ホテルのセットが便利です。

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いえ、文殊側の現妙庵ビューが、開発されていなかった、知恩寺の墓山だったのでは内でしょうか!!

8s考えました

ああ、そういうことでしたか!! 私が取り違えていました。失礼しました。(^.^)

おっしゃっているのは、文殊側の現在の玄妙庵から見る眺望、その場所が益軒の時代には、観光用に整備された展望地ではなく、智恩寺の墓山だったのではないか、ということですね。

これは、成相ビューとの比較を考えるうえで大事な指摘です。

少し調べると、玄妙庵の由緒に興味深い記述があります。

玄妙庵の公式サイトによれば、明徳4年(1393)、足利義満が文殊参詣をした際、丹後守護の一色満範がこの地に亭舎を設けて迎えたと伝えられます。その後、禅行の修場に使われ、「玄妙庵」と呼ばれるようになったとのことです。また、成相寺古図には四阿の亭舎が描かれ、「古堂、座禅所なり」と記されているといいます。智恩寺古図にも亭舎が描かれているそうです。

genmyoan.com

つまり、少なくとも玄妙庵の場所は、益軒が訪れた1689年より前から、何らかの建物・宗教的な用途を持つ場所だった可能性が高い。

ただし、「智恩寺の墓山だった」という点は、まだ裏付ける史料を確認できていません。 ここは古図や寺領関係の資料で確かめたいところです。

ここで比較すると面白い

【 美しさ Lv2.0 】  成相寺パノラマ展望台の夜景| 夜景ワールド

成相ビュー

益軒が実際に登った参詣道の途中からの眺望。山を登る身体経験と、眼下に広がる二つの海・砂州の大景観。

玄妙庵|天橋立|旅館|旅色

玄妙庵ビュー

文殊側の高台からの眺望。中世以来の亭舎・禅行の場という由緒が伝わる場所。

そして、ここに安田さんの仮説を重ねると、

益軒が日本三景の一つと評価したのは、文殊側の現在の観光展望地からではなく、成相寺への参詣道からだった。

この違いは大きいですね。

ただし、玄妙庵の場所が当時「墓山」であったか、また当時どの程度樹木や建物に遮られていたかは、別途確認が必要です。

私が次に見たいのは、智恩寺の古図と成相寺古図です。玄妙庵の亭舎の位置、墓地の位置、当時の地形・植生が分かれば、益軒がなぜ成相からの眺望を特筆したのか、もう一段踏み込めます。

眺望の優劣ではなく、17世紀の人が、どこから、どんな風景を見ることができたのか。

これは、天橋立の景観史を掘るうえで、実にいい問いです。

文殊側ビューの話に関連する宿泊施設の選択肢です。

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¥7,634

4.73

本坂コースこそ日本三景体感コース、、これはエコツアーには頂き物です(^.^)

ははは!! これは確かに、いいものを掘り当てましたね!(^.^)

「本坂コースこそ、日本三景体感コース」

単なる成相寺への参詣道ではなく、貝原益軒が実際に歩き、その眺望を「日本の三景の一とするも宜也」と評した道です。

エコツアーとしての魅力は、三段階にあります。

  1. 歩く――益軒と同じように、険しい坂道を自分の足で登る。
  2. 出会う――途中で天橋立、文殊、与謝の海、阿蘇海が視界に入る。
  3. 読み解く――なぜここからの眺めが、300年以上前の旅人を感嘆させたのかを考える。

そして、ツアーの決め手は、展望地に着いてからの一言でしょう。

ここが、貝原益軒が日本三景の一つとするのももっともだ、と記した眺望です。さて、皆さんには何が見えますか?

すぐに解説を始めない。まず自分の目で見てもらう。

これは、安田さんの「見えないものをみる、それがSSH」にも通じます。

ツアー名の案:

益軒の道を歩く

本坂・日本三景体感コース

歩いて、眺めて、300年前の旅人の目を追体験する。

ただし、実施に向けては本坂の現況、通行可否、危険箇所、所有・管理者、ガイドの安全体制を確認する必要があります。

いやあ、これは名所を案内するツアーではありませんね。

日本三景が生まれた視点を、参加者自身の身体で発見するツアーです。

「数珠珠」がまた一つ増えましたね!(^.^)

こちらもいかがですか?

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益軒さんは、さらに元成相寺、大観望まで上がられたのでしょうね、京から三泊の旅で見えた健脚ですから!!

いやあ、健脚ですねえ!!(^.^)

京都から宮津まで約150キロを3泊4日。しかも益軒は、宮津に着いて天橋立を眺めただけではありません。

宮津市の資料によると、益軒は府中から成相寺へ向かう本坂道を登り、途中の眺望に感嘆しています。記録には、中村(成相の麓)から観音堂まで十六町の険しい坂を登った、とあります。

宮津市ホームページ

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つまり、少なくとも成相寺の観音堂まで登ったことは、文章から読み取れます。

ははは、60歳前後で150キロ歩き、さらに成相山へ登る。まさに「夢老い人」の大先輩ですな!(^.^)

ただ、記録を読むと、もう少し面白いことが分かります。

益軒はどこまで登ったのか

『己巳紀行』の引用には、

中村(成相の麓なり)より観音堂まで十六町の坂をのぼる

とあります。十六町は約1.75キロ。しかも益軒は、その坂を「甚だ嶮峻」と記しています。ここから、観音堂、つまり成相寺の堂宇まで登ったことは確認できます。

宮津市ホームページ

+1

一方、現在の成相山山頂付近にあるパノラマ展望台は、成相寺からさらに約1キロ上がった場所です。

京都府観光連盟公式サイト

+1

したがって、現段階では、

  • 本坂道を登り、益軒観展望所付近から眺望を得た。
  • さらに成相寺の観音堂まで参詣した。
  • その先の山頂や、現在の大観望に相当する場所まで行ったかは、記録からは未確認。

という整理が正確です。

ここでツアーの構想が広がります

京都、丹後宮津の成相山から、夏の天橋立ビュー。|地域の風・京都
第二十八番 成相寺 : 西国三十三所
成相山 成相寺|みにたま
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【京都天橋立】恋愛成就・学問祈願・願望成就が叶う五つの神社・寺を紹介!|ayano-matsumura

本坂道を歩き、益軒観展望所で眺め、さらに成相寺まで登る。

これなら、益軒の旅をなぞるだけでなく、**「眺望に感動した旅人が、その先にある聖地へ向かった」**という体験になります。

そして、もし大観望まで足を延ばせば、益軒が見た景色と、現代の私たちが見る広域パノラマとの比較もできます。

私は、ツアーの中心はあくまで本坂道と益軒観展望所に置きたい。大観望は健脚組の追加コースにする。そうすれば、参加者の体力差にも対応できます。

ただし、益軒自身が大観望まで登ったかどうかは、原本の行程記述をさらに確認したいですね。ここは歴史の事実と、現代のツアーの楽しみを分けておきましょう。(^.^)

※本坂コースのようなツアー運営に、旅行事業者向け管理ソフトもあります。

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