宮津エコツアー · 戦争を見た高原

戦争を見た高原

2013/02/07

昭和19年大火のかたりのなかで「軍部には、兵隊が40人ほどおって、」とおさよおばさん。軍部とは兵隊が駐留するところです。人数40人。ちなみに現在の伊根町の場合一般行政職員さん47人、一般管理職員32人ということ。40人は、決して少なくない人数です。相当な重要部隊です。

(↑ 24日11月 ※ 許可を得て撮影しています。)

どのような任務を担ったのか?

世屋高原で訓練をした × 理由、それは、これです。


この写真は、軍港舞鶴湾をまともに写しています。海軍出撃基地であった舞鶴は米軍の艦船、航空機の一大攻撃目標。上世屋駐屯部隊の任務は最重要施設防衛の監視任務であったはずです。

実際に米艦載機により舞鶴海軍工廠、宮津湾などに停泊していた艦艇などが攻撃されたのは敗戦直前の昭和20年7月29・30日の両日。29日の攻撃は午前8時頃から始まりました。工場で働く一万人のうえに500kg爆弾が落とされたといいます。学徒動員で工場作業をしていた学生も含め多数の犠牲者を出しました。
大混乱の中でその様子を目撃していたであろう「軍部」の場所は、駒倉分かれと木子別れの中間山手。コンクリートの構造物がそれです。

伊根湾に避難していた艦船「長鯨」も攻撃を受けました。

伊根のガイドさんは、その様子をしっかり語られます。

「世屋」からみた戦争も、平和の時代だからこそ、かたることが大事かなと思います。

(↑ 12/3 煙を上げているのは舞鶴湾口の舞鶴火力発電所)

美しい絶景を自由に探勝できるように。

 

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