6月は紫色のファンファーレ。
各田んぼに勢揃いした命たち
いっせいにスタート、
大切なのは毎日まいにちの対話
ゴールは秋。
「むりにならんようにきばりまひょうで」
丘の上から、紫色のメッセージ
新緑がひときわあかるい巨樹、
メタセコイアです。
戦後復興のシンボルになれ!そんなミッションをたくされ広く植樹されたので、兄弟が全国にいて、活躍しました。
そんな兄弟の消息を「まいどなニュース」で、京都新聞・浅井 佳穂記者がとどけてくれました。木と人とのかかわりの深さをあらためてかんがえさせてくれたいい記事でした。
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地域の歴史を知るメタセコイア、無念の伐採 「申し訳ないではすまない…相談ほしかった」
伐採されたメタセコイアの切り株(京都市北区・原谷中央公園)
明治神宮外苑(東京都)や明石公園(兵庫県明石市)など、各地で物議を醸している公共空間における樹木の伐採。そんな中、記者のもとにも「70年ほど前からあるメタセコイアの木が切られたんや」と、京都市北区の男性から電話がかかってきました。何が起きたのか取材しました。 【写真】メタセコイアの木が写る、1987年の写真 メタセコイアが伐採されたのは3月下旬。金閣寺の北西にある京都市北区原谷地区の原谷中央公園で大きく成長した木でした。原谷地区は戦後すぐ、国策による開拓が行われた場所です。地元在住で1948年に一家で入植した前原英彦さん(87)によると、メタセコイアは公園に3本あり、いずれも50年代前半に中国から贈られたといいます。旧満州(中国東北部)からの引き揚げ経験者が多い地区住民に愛されていたそうです。 メタセコイアは当時、開拓者でつくる洛北開拓農業協同組合の事務所北西側に植えられました。しかし、宅地化に伴い農業に従事する人が減少し、2008年に組合は解散を決議。組合事務所のあった一帯は京都市に寄贈され、原谷中央公園として10年に開園しました。 今年の3月下旬、3本のうち2本が京都市の請負業者によって切り倒されました。市北部みどり管理事務所によると、落ち葉が多く住民からの苦情が寄せられていたことや、メタセコイアが隣接して植えられている「区民の誇りの木」のソメイヨシノの成長に影響を及ぼしていることから伐採が決まったといいます。 自身も旧満州からの引き揚げ者で、近隣住民による連絡で伐採を知った前原さんは「申し訳ないではすまされないが、今となっては切ってしまったものは仕方がない」と肩を落としています。 残るメタセコイアの前方に、木の由来を記した案内板を立てることで市北部みどり事務所とは合意したといい、前原さんは「最後の1本が長く残るようにしてほしい」と話しています。 (まいどなニュース/京都新聞・浅井 佳穂)
田庭の国丹後上世屋から、京都のメタセコイアにエールを送ります。
「ひいながさいたら粟を蒔け!」
ひいなとは、タニウツギのことです。
では、なぜ、タニウツギのことを「ひいな」と呼ぶのか、
「上世屋ではひいながさいたら粟を蒔けと「ひいな」、弥栄町舟木では「ひいなご」とよんでいることについては、調査が及んでいないようです。その解釈のポイントは「な」なんでしょう、つまりおひたし、和え物、みそ汁、ご飯に混ぜるなど食用にしたということです。りょうぶも「な」を含む方言がある、「ギョーブナ(静岡・愛知・熊野・奈良)、ジョーブナ(三重・奈良・和歌山)、サダメシ(青森・岩手・宮城・秋田。サルナメシの転訛か)がそれで、このナは食糧となる『菜』を意味する。」と和泉光一さんがおっしゃっています。」、、、こんなくるしまぎれのあてずっぽうをかってしておりました。
違いますよ ひいなとはひな、雛のことと 国語辞典編集者の 神永暁さん。
以下のように解いてくださいました。
「雛(ひな、ひいな)」とは、もともと小さくて可愛らしいものを表す言葉。 平安時代の「ひいな遊び」に使われたのは、紙や布で作られた素朴な人形だったと考えられています。 やがて時代がすすむにつれ「ひいな遊び」の人形は華麗で立派なものになり、飾って楽しむものへと変化していきます。
、「雛」は古くは「ひいな(歴史的仮名遣いは「ひひな」)」と言うこともあった。ただし「ひな」も「ひいな」も今とは違い、ひな祭りに飾る人形のことではなく、女の子が玩具にする、紙や土、木などで作った小型の人形のことを言っていた。
「ひな」と「ひいな」ではどちらが古い言い方なのかよくわからないのだが、『日本国語大辞典 第2版』を見ると、平安時代の用例は「ひいな」の方が圧倒的に多い。
たとえば『源氏物語』には、幼い紫の上の姿が可憐に描かれた以下のような場面がある。
「ひゐななど、わざと屋ども造りつづけて、もろともに遊びつつ」(『源氏物語』若紫)
「屋」というのは人形の家屋のこと。人形遊びをしている紫の上と「もろともに遊」んでいるのはほほえましいことに光源氏である。
平安時代には、人形に着物を着せたり、いろいろな調度を整えたり飾ったりする女の子の遊びを「ひいな遊び」と呼んでいた。
『枕草子』の「すぎにしかた恋しきもの」の段にも、「枯れたる葵。ひひなあそびの調度(=道具)」とある。
これらの用例からもおわかりのように、平安時代には貴族の子女にとって「ひいな遊び」とはふだんの遊びであり、もともとは3月の節句と直接の関係はなかったのである。
ひいながさいたら粟を蒔けというのは、上世屋の方言ではなく、平安時代の雅ことばだったのです。