伊根町菅野の上山神社の前を、奥に約二キロのところに、「福の内」はあります。
人のいなくなった里を守ってらっしゃるのが、六体のお地蔵様。
かぶり物が時代劇そのままで、いずれも男前で、知的で、品のいいお顔なのです。
背後にかいてある履歴がまた、すばらしい達筆です。
読むと、制作年代は、享保年間とあります。享保は1716年から1736年の間。
同八年とかいてありますから、1724年。享保といえば、時の将軍は徳川吉宗さん主導の改革と大飢饉、
国家政策・公共政策
倹約と増税による財政再建を目指し、農政の安定政策として年貢を強化して五公五民に引き上げて、検見法に代わり豊凶に関わらず一定の額を徴収する定免法を採用して財政の安定化を図る。治水や、越後紫雲寺潟新田や淀川河口の新田などの新田開発、助郷制度の整備を行う。米価の調整は不振に終わった。青木昆陽に飢饉対策作物としての甘藷(サツマイモ)栽培研究を命じ、朝鮮人参やなたね油などの商品作物を奨励、薬草の栽培も行った。日本絵図作製、人口調査。国民教育、孝行者や善行者に対する褒章政策。サクラやモモなどの植林。
地蔵制作は、木津郷、今の網野町の石屋に制作を依頼、とあります。木津付近には、凝灰岩の山があります、tuff、タフとも呼ばれ火山灰が地上や水中に堆積したもので、細工のしやすい岩です。
完成時には、村中総出で一体一体を背に負うて連れかえったと伝えますから、村にとっては大事業です。そこには、どんな動機があったのでしょうか、、、、それに言及する記述は残念ながらありません!。
さて、ふくのうち・福の内、この地名も気になります。
「内」に着目して見れば解けるかもしれません。
内を含む代表格、ブナ林で有名な今の「内山」(京丹後市)はかっては「おちやま・落山」と標記していたといいます。「内」が「落ち」の変化したものなら、谷内(大宮町・丹後町)は谷落ち。大内峠(与謝野町)は、大落ち峠。
このように考えれば、「福の内」の「内」も、「落ち」。
では「落ちる、崩れる」ことがなぜ「福」なのか、そこが不思議、ですけれども、崩れるたびに逆にそれを利用して棚田をひろげ住み続け氷河の谷のような丸みを持った優しい里山景観、それが丹後半島特有の地滑り地形であることと関係しているかもしれません。
重機のない時代、地滑りは農地拡大のチャンスでもあったのです。
「福の内」の「福」と「内・落ち」との関係には、、「聖人の事を制するや、禍を転じて福と為し、敗に因りて功を為す」(戦国策)自然への畏れと共に新しい土地を作ってくれたことへの感謝すら感じられます。 お地蔵様たちを見ていると、「地滑りも福の内さ」とうそぶく声が聞こえるように感じました。。五公五民、半分は年貢に取られます、絞ればしぼるほど、という圧政を、としたたかに知恵を寄せ合い力を合わせて乗り越えるのに、このお地蔵たちがどんなにか力になったことを思いました
こんな百姓の気持ちを、二百年も三百年も伝えてくれ、そのためにはいい石でなければならない、石を選ぶ村人のきびしい眼がいま、私たちにお地蔵様を見せてくれているのでしょう。
ところで、享保の飢饉は 17 (1732) 年。暖冬に次ぐ冷夏で,虫害を伴い,米の大凶作が起ったと言バンク。「暖冬に次ぐ冷夏で虫害を伴い」というところが今年の冬に似て、今年の夏が気になるところです。
もう一つ、福の内のとんでもなさ!関ヶ原の戦の前年にあたる慶長四年(一五九九)のものとわかる資料があるといいます。
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孫太郎稲荷(桑飼神社)www.geocities.jp/k_saito_site/doc/sugano.
孫太郎稲荷
福之内の桑飼神社に、孫太郎稲荷社再建の棟札が残されている。関ヶ原の戦の前年にあたる慶長四年(一五九九)、細川忠興に係わるもので、四○○年の風雪に耐えたこの棟札は、右下の角の一部を欠いて虫喰いもひどいが、文字ははっきりと読み取ることができる。
上部は幅一八センチ、下部は幅一二センチ、長さ二七センチの剣先型の棟札で、表の中央に「大願主当国大守細川越中守殿」とあり、右側に「為当国安全怨敵敗亡」と記され、左側に「祭主三獄坊氏子惣代利右衛門」と書かれている。
裏面には「是慶長四己亥年五月日再建天神地祇八百万神孫太郎神国中安穏処、丹後国與佐郡菅野村孫太郎」と記されている。「孫太郎」は、太鼓ヶ岳山系の旧野間村と菅野村の境附近で、この地に八八の谷があるといわれ、その一部の谷が「孫太郎」である。土地の人々のいい伝えによると、平家の落武者一六人がこの地にのがれて住みついたといわれ、土地の名前も落人の姓をとって名付けられ、井上・昌蒲・牧・平家・藤の原・孫太郎・瀬戸などの名がある。福之内の住民はもと瀬戸に居住し、孫太郎稲荷が慶長四年(一五九九)五月、再建された当時に現在地に移住したと伝えられている。
この孫太郎稲荷社は、細川忠興が同年十一月に分神を宮津の大久保に勧請しているが、山間僻地の菅野から一国の太守細川忠興が、何の因縁によって大久保城の守護神とされたのか明らかでない。
戦国末期に菅野城主三冨将監通論の父山内伊勢守と、細川忠興の父藤孝は共に将軍足利家の家臣であり、常に京都御所に参会し、公私にわたって親しく交わり旧友の間柄であったことから、天正十年(一五八二)菅野城が落城したのち、二人の旧縁によるものかとも考えられる。
棟札にある「怨敵敗亡」の「怨敵」は何を意味しているのであろうか。豊臣秀吉は慶長二年(一五九七)再度朝鮮に出兵したが、同三年(一五九八)八月十八日に死亡し、同四年(一五九九)には大坂城をめぐって石田三成・徳川家康・前田利家など重臣の間に一触即発の不穏な状況があり、石田三成から徳川家康に、忠興が宮津で謀反の準備をしているという密使が飛び、父幽斉は家康の臣永井直勝に会って弁明したが疑いが晴れず、十月には細川幽斉・同興元・松井康之三名連一記の誓紙を家康に差出しやっと許されるなど、忠興にとっては波乱に満ちた年であった。「怨敵」の文字は朝鮮再征の直後であり、国内の紛争によるものではなく、やはり明・朝鮮の外敵を意味しているのであろうか。その後忠興は慶長五年(一六○○)正月二十五日に、三男忠利を人質として江戸に差し出し、二月七日宮津より豊後国六万石を与えられ、閏四月十五日九州に赴き、同年秋には天下分け目の関ヶ原の合戦に、東軍徳川家康の陣に加わり戦功を挙げている。丹後の諸史に現れている孫太郎稲荷と細川忠興について、その一部を拾ってみると次のような記事がある。…
この神社は文政の百姓一揆に関係した坂根氏が、代々神官を勤め明治まで続き、明治八年(一八七五)土地改革により京都府より発行された稲荷社の地券が、坂根家の縁者伊根町字亀島の奥家に残されている。…
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