宮津エコツアー · みんなが持ち寄る豆知識

みんなが持ち寄る豆知識

植物・動物、スポット案内に加え、歴史・生活文化など地域の人しか知らないレアな情報まで

2013/02/12

右の山塊を汐霧山ヤマ 左手の鈍角三角が「岳山ダケヤマ」さらに 左の先に鼓ケ岳ダケがあり、そのいただきに 成相山サンがあります。


宮津湾から世屋の山を撮った写真の説明をするなら、こうなります。

こっちの写真では、ま正面に由良が岳タケ 右の方に大江山ヤマ そのなかに千丈ヶ嶽ダケ 双峰

みんな丹後にあるもの。

それにしても、「だけ、やま、さん、がく ホウ、、」言葉は違っても周辺のトチより高いところを意味することで共通です。それが、一つの地域でいろいろ使われている、こっちはヤマ、そっちでは、ダケ、あっちではサン、ホウとも、、、
山の環境をガイドするときの悩みのタネ。ネタ。「なんででしょう?」
でも、説明は必要。そこで、「だけ、やま、さん、がく ホウ、、」それぞれどんな旅をしてきたのか、、時間差で説明するのがいいようです。
最も古くから使われていたのはヤマ、現日本人がもともともっていた言葉だと言うことです。日本人のルーツであろうと推定される地域でも、周辺のトチより高いところをヤマと発音するそうです。
そして南のほうの竹の生育しているあたりからこの地に到達したのがタケ・ダケ。それより遅れてやってきたのが、サン(セン)。

ところで、クリた半島、宮津湾、阿蘇海、加悦谷を挟んで向き合う山々に、方や「由良が岳」(640m)「千丈ヶ嶽」、方や「岳」、鼓が岳(569m)を対峙させたのは、周辺のトチより高いところを意味する言葉を「たけ」とする同一の部族と言うことになります。ちなみに、鼓か岳(355m)はお伊勢さんのちかくにもあります!古代部族たちの移動コースという歴史のロマンは、足下の地名にも眠っているというのはおもしろいことです。

2013年2月8日

「世屋高原にはかってスキー場があり、絶景のもと多くの若者たちが楽しんだ」と橋立部会の0さん。そうそう、光野新太郎さん(おためさんのご主人)。こんな話しをされていました。

・・・・・・・・・・
「昔は焼いた炭を日置まで負うていっただで。主婦やおばあらあが賃かせぎにしたわなあ、一貫に駄賃17,8銭ぐらいだったけど、えらかったでえ。
昔『飛行少年』いう雑誌があっただが、わしはこれを買うんに炭の駄賃持ちをしたんだ。わしは、この本で外国にはスキーゆうもんがあるのを知ったんだ。二十歳の歳だったなあ、もう五十年も前の旧正月のことじゃった。武つさんげで、節呼びゆうて、今の新年会でよばれるとったときだった。いま、小川ラジオ店のおばあさんが便所にたったんだ。その時、門口から外をみたら、※今の好美さんげ(※現在の合力の家)の上の方をなにやらとんどる、飛ぶもんがある、それでびっくりして『天狗がきたっちゃあおまえたちー』というて叫ぶもんだて、みんな飛び出していったんだ。

(↑ 野間秋祭)

わしも出ていったんだが、それはスキーだいうことが、雑誌みとったで、わかったんだ。みんな、なんだえーいうて雪ん中をわら靴はいて、どんぶらどんぶらいっただ。そうしたところが、寒いで赤ゃあ頬をした人がスキーにのっとんなった。それで、てっきり天狗がきたとおもったんだろうで。それに、今まで雪の上歩くいうたら、かんじきで、もっそりもっそり歩くぐりゃあしかしれへんだもんだで、よけいだわなあ。この、スキーにのっとんなった人は、丸山先生ゆうて、それから二十年ほどして校長を退職してから、駒倉へ代用教員みたいな形で来なった。で、丸山先生はこれがスキーいうて、今、はやっとるもんだ。野間の青年会へ講習にいった帰りに、山を越えてきたんだ、、と言うて、すーっと滑ってみせなったで、みんなあっけにとられてみとっただが、みごとなもんだったでえ。この時、※おフサおばあさんもいっしょだったで、おぼえとろうで。
丸山先生いうのは、京都府スキー連盟の会長もしなった人らしいが、そのときは、※もっと偉い人をつれてくるいうていんなって、またその人をつれてきなっただ。その人が、府立第二中(現府立鳥羽高校の敷地にあった)の校長をしとんなった中山再次郎ゆう人で、二人で、スキーの講習をしとくれた。中山先生は、上世屋の雪は、北海道と違わん、ひゃあひゃあ雪(※灰がたつように軽い雪)だゆうて宣伝しなって、大阪や京都のほうからようけお客さんを連れてきなった。それで、お寺の上の三本松、岩のえにスキー場を作っておっ坂に降りるようにしただが、どんによかっただゃあ。
わしは、中山先生の一の子分だった。それから、スキーにこってなあ、それまで冬だゆうたら、藁仕事ばっかりだったで、おもしろかったんだ。一冬、屋根の雪をほつといてよわったとがあった。
しかし、炭負いもせんならんだし、それにいまもそうだけど、リュックに帽子、スキーいやあ金がかかって困った。幸いスキーは村が補助してくれただけど。それからも、中山先生からは、電報がたびたび来て、誰々が行くから案内せえいうてきなったし、スキーのコースも、世屋村青年団の協力を得て、成相から千代原(せんだいはら)、ごにゅうどう、官地、中郡境、奥地、駒倉の尾根、駒倉道をとおって上世屋に至る道を伐採して作ったもんだ。(1975 世屋上小中 育友会誌)

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新太郎さんがいう、「偉い人」、講習をうけた「偉い人」という中山再次郎という方はは、甲子園大会第一回大会優勝の京都二中めんばーで、日本にスキーを伝えたオーストリアのレルヒ少佐から直接講習をうけた方です。世屋の地滑り地形の緩斜面は、スキーには最適です。教育者としてスキー普及に努められる中、世屋高原を発見されたのでしょう。

それにしても、新太郎さんの、「一冬、屋根の雪をほつといてよわったとがあった」というのめり込みよう」おためさんが「新太郎さんに惚れたのは、

そういうとこだったかもしれません。

ちがうかな(^.^)

(↑※ 今の好美さんげ(※現在の合力の家)の上の方をなにやらとんどる、という斜面)

※「もっと偉い人」中山再次郎氏について検索してみました。
「その伊吹山スキーの生みの親が元京都府立第二中学校長の中山再次郎氏であるといわれています。明治44年(1911)、オーストリアのレルヒ少佐が来日、新潟県の高田でスキー技術の講習会を行い、それに中山氏も参加しています。(中山氏は若い頃、旧制高田中学校の教頭先生をされていました。)
レリヒ少佐直伝の中山氏は関西でのスキー場を物色し、遂に伊吹山を最適地と選び、大正3年ごろから毎年京都二中の生徒を引率し、スキーに来られました。その後、地元の若者も次第にスキーに親しむようになり、現在の伊吹山スキー場へと発展していったといわれています。私の母(若い頃、アルペンスキーで全国大会に出場)の身内にも、昔レルヒ少佐からスキーを習った人がいたという話を子ども心に聞いていました。何か因縁のようなものを感じました。昭和39年(1964)、伊吹山三合目に京都市長の意を受け、中山校長の胸像が立てられました。 hiromiti1011.sakura.ne.jp/sub1-94.html –
と言う方です。また、
中山再次郎(慶応3〜昭和38年【1867〜1963】)
京都府立第二中学校(現在の京都府立鳥羽高等学校)の校長です。中山は、明治26年に東京帝国大
学文学部国史科を卒業後、明治33年に京都府立第二中学校長となっています。中山は、関西のスキー
普及に努めた先駆者であり、大正4年には第一回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校
野球選手権大会)で優勝しています中山は、教え子の羽田亨(後に京都帝国大学総長
となる)の父親で当時中郡長であった羽田信明の委嘱を受け、中郡誌の編纂を始めます。編纂に伴っ
て明治36年8月3日〜18日まで郡誌編纂資料採訪に丹後地域を訪れます。その経緯は、大正3年に
刊行された『丹後国中郡誌稿』巻末に所収されている「郡誌編纂材料採訪日誌」に詳しく記されています。
この中で中山は、8月16日に「久美浜に至り稲葉氏方にて丹後一覧集一部、他書一部、並に地図一
折を得又織田幾次郎氏方の古墳物陳列館を覧る我善王寺其他の古墳発掘品整然として陳列しあり又
丹後大地図一枚あり」と記載しており、稲葉家と織田考古館を訪れています。稲葉家には、中山が携え
ていた京都府庁本『丹哥府志』を借り受けて稲葉宅蔵が写した写本(実際に写したのは、婿養子の稲葉岸之助)が残されています。
平成20年度丹後古代の里資料館コーナー展示1
「郷土史の黎明~明治時代の丹後地域~」2008年4月16日(水)~7月6日(日)資料

 

※ おふさおぱあさん

丹後民話の語り部‥数多くの話しが岡節三氏、細見正三郎氏らにより、採話され、日本の昔話 丹後の昔話 、日本放送協会発行の中に納められている

2013/02/07

間人宮津京都各地点の気象記録を気象庁HPで見ました。
興味深いのは冬の平均気温。
1月から2月にかけての旬間平均気温。
.   A   B   C
1月  5.6       5.0       4.3
.  5.0       4.8      3.8.
。  4.3       4.1      3.1
2月  4.5       4.3      3.2
。   5.3       5.3     4.0
.  5.6       5.9     4.6
3月     6.4        6.8      5.4

間人・宮津・京都 は、さて、 A B Cのどれになるかというと、

間人 A ・宮津 C ・京都 B。

冬の間、最も寒いのが宮津、逆に温かいのは強い北西の風を強くうける間人。
今日の丹後町海岸。

am8;40


同  pm1;15

けれども、湯たんぽのような暖流。スイセンを、咲かせ始めました。

2012/10/24
「ふなやといえば伊根、伊根へ伊根へとバスは走りますけれど、

船屋は伊根の専売特許じゃありまへん。

潮汐の差が少ない宮津湾、若狭湾の漁村に特徴的なものであって、

阿蘇の海にも船屋はあるのでっせ!

ちいさいけれど味のある船屋があるんでっせ。」

 

2012/09/20

山の田の米作りには、水を温める工夫があります。世屋では、コナワ、ひよせという地方もあります。

水の絶えないコナワには、ドジョウ カエル サンショウウオ タイコウチ トンボのヤゴ などが棲んでいます。里山の生物にとって大切な住処です。
日本最大のトンボ、オニヤンマもここを利用しています。

9/19、コナワの水の浅く残った所に体を立てて腹の先を繰り返し突き立て産卵していました。


オニヤンマは、五年かけて成虫になります。

その間、ヤゴが安心してなおかつ餌を穫れる場所でなければならないということで、コナワは最適な場所なのです。

2012/09/20
蜜をあげるから花粉を運んでくれる?
オーケー
花粉運んであげるから蜜ちょうだい!
いいわよ
花と昆虫はギブアンドテイク、そういう関係だというのは思い込みです。
花粉を運ばずに,蜜を頂戴する輩は、存在するのです。

ツリフネソウの美しい群生。

クマバチ!

様子が変。距の方をむいて足を踏ん張っている!

口吻を差し込んでる!蜜吸ってる!

花には、差し込まれた痕。

ちょっとあんた、だめじゃないか!

「花だと思って花粉運んであげようと入ったら捕まって溶かされた仲間もいるんだぜ!」

2012/09/14

数ある植物のなかに「タンゴ」の名を冠した植物があることをご存じでしょうか。植物和名には、エゾ・・・イブキ・・・ホクリク・・・など地域や土地や発見者の名を冠したとしたものが多くあります。つまり、タンゴ・・・・という和名で通用している植物もあるというと。
イワテンダ科のシダの仲間で従来、シロヤマシダといわれていたものを詳しく調査すると、独立性が高く別物とさたのがそれ、つけられた名が「タンゴワラビ」。

(↑ 画面中央の個体がたんごワラビ)
北陸から近畿にかけて高い空中湿度を保っているところに生育し、この地域ではシロヤマシダとされていたものの見直しが進められているということです。
世屋の里で空中湿度の高い所といえば、あそこしかないじゃないですか!付近には、コモチシダ(シシガシラ科)やサガリゴケも生育していていますよ。


(↑ 画面中央がコモチシダ 葉の表面に無性芽が付くことが、名前の由来 )

渓谷、湿地湿原、水田、畑、林、森、草原などさまざまな生育環境のあることが旧世屋村、世屋の里の生き物の生態系を豊かにしています。
ちなみに、コモチシダ、丹後ワラビは、京都府レッドデータ要注目種に指定されています。

2012/09/11
ヤマナシは稲作と共に伝来した果樹とされます。 「百果の長」と中国ではされていたとか。

そんな果樹ですから、珍重されないわけがありません。
日本書紀には  持統天皇が、「桑、からむし、梨、栗、青菜などの草木を植え、五穀の助けとせよ」とおっしゃって全国に栽培をすすめられたとの記録があるとのことです。 693年のことです。

真応上人による世屋の里の開村記録は、704年。上人さまといえば、当代一流の学者、行政マン、文化人であったはず。開村とともに梨の苗木をもってきて、これを植えよ、天皇様のありがたいお心ぞ、と指導なさったことは、十分想像できます。

現在上世屋には四本残っている木は、そのころからの栽培歴を持つものかもしれませんよ。藤おりという古代布が、伝承され、「おたてえ」という古代語が残る地域です、切るなよ、飢饉の時はたべんならん、実際に幾度もあった不作の年の飢えを救ったであろうヤマナシが古代果実として連綿と守り伝えられてきた、と考えれば、ロマンのわく話ではありませんか。上世屋だけでなく、下世屋にも内山にも丹後半島の古村には巨木が残っていますが、同じ経歴が想像されます。

その後、品種改良されたり、食糧事情も変わりましたので、振り返られることも少なくなりました。しかし、五穀の助け、元々がそんな位置づけですから、食べられないわけはありません。『果実酒』・『シロップ煮』・『ジャム』などに加工してみたという情報はあります。石細胞と呼ばれるものによるザラザラ食感があるものの逆にそれも個性、秋独特の食感として楽しめますとのことです。古代魚、シーラカンスのような味がするのかもしれません。

(↑ 4/29 開花 岡の前)

ちなみに万葉集
「 霜露の 寒き夕の秋風に
もみちにけらし 妻梨の木は 」
巻10-2189 作者未詳
妻梨とは 「妻無し」、つまり独り身のこと、独り身で色気のなかったあなたにもいい人ができたのではないですか、すてておけないかたですこと!といった意味。

2012/09/10
「木は旅が好き」

・・・・・この詩を書かれたのは、茨木のり子さん。

木は
いつも
憶っている
旅立つ日のことを

一つ所に根をおろし
身動きならず立ちながら

花をひらかせ 虫を誘い 風を誘い
結実を急ぎながら
そよいでいる
どこか遠くへ
どこか遠くへ


ようやく鳥がついばむ
野の獣が実を囓る
リュックも旅行鞄もパスポートも要らないのだ
小鳥のお腹なんか借りて
木はある日 ふいに旅立つー空へ
ちゃっかり船に乗ったのもいる

ぽとんと落ちた種子が
《いいところだな 湖が見える》
しばらくここに滞在しよう
小さな苗木なって根をおろす
元の木がそうであったように
分身の木もまた夢見始める
旅立つ日のことを

幹に手を当てれば
痛いほどにわかる

木がいかに旅好きか
放浪へのあこがれ
漂白へのおもいに
いかに身をよじっているのかが

詩人茨木のり子さんの最後の詩集「拠りかからず」(筑摩書房)に所収。

大ブナの下で、朗読してみたいとおもいます、穂ツツジのそばでも、ヤマナシの木に触れながらでも、読んでみたいと想いました。里山は思考するのに最適の所です。


ちなみに、中学生が一年を終え二年生になろうとする頃に読んほしいと、中学国語教科書一年生に掲載されている作品です。君は花?君は種!鳥はだれ、君かも、彼女かも!身をよじっているのはだれ?

2012/09/05
花が咲くまでは、タデだと思っていました。ヤナギ葉なので、やなぎたで。いやーすいません、花をみたらタデではないです。ではなにか、チョウジタデ。花が、「ちょうじ」という薬木の花ににて、葉はタデににている、二つ合わせてチョウジタデ。

チョウジは、薬としては健胃、鎮嘔、鎮痛、興奮剤として腹痛、下痢、胃腸病の治療に使われるほか、歯科での消毒、防腐、止痛剤としてむし歯の治療に、刀剣の防錆(さび止め)にも用いられる有用植物。名付けの親は刀剣などを身につける階級の相当な知識人!。ウムを言わさない説得力があったのでしょう。花が丁の字の形などとどう見てもそうは見えない説明もされている向きもありますが、今はその「チョウジ」が身の回りにないので、そんなこともおこります。また、「タデ」としたのも、似ているから、程度でなく、「だ」と認識されていたのでしょう、それも時代。「タデ科ではございません。アカバナ科てす。」などと申し出るものもなかったのです。

ちなみに、別名たごぼう、これも特徴がゴボウの根ににているから。抜いてみたらわかりますが、説明がいります、ガイドとしては、秋には全体が紅色に紅葉しますので、「タモミジ(田紅葉)といいます」、ぐらいにしておいていただけるとすっきり理解してもらえていいと思いますが、、、、。

 

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