宮津エコツアー · 12月 2016

12月 2016

戦後、昭和21年、一円札紙幣が発行されました。

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この方、二宮尊徳翁、つまりのちの金さん。他の著名人を差し置いて、登用されていたこと知りませんでした!

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さて、期待される人間像を文部省、そして官製道徳復活! 顔をしかめましたけれど、そのことと金治郎像が存在することとを結びつけるのは、これは早急にすぎる、報徳思想が報国思想にすり替えられたのだ、ご自身は墓石も碑も建てるでない、松か杉を植えておけと遺言なさっていると「ノスタルジックアイドル二宮金次郎」で井上章一さん。

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国の舳先を戦争遂行に向かってよいしょよいしょよいしょと向けなければならない、そんな道具につかわれたのは事実です、

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しかし、戦後、GHQの教育政策の中で奉安伝や御真影と一緒に撤去されたわけではない、それどころか、二宮尊徳は「日本の生んだ最大の民主主義者」であり、「新生日本は二宮尊徳の再認識を必要とする。」とGHQ新聞課長ダニエル・c・インボーデン氏が絶賛しているというのです。

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井上章一さんはGHQは、少年時代のリンカーンと金治郎さんとが、並んで、二人でひとつの本を読み、それを背後の自由の女神が見守っているという図柄の絵を、富山の画家牧野重五郎に描かせていることを、紹介しています。
「国も時代も異にしている、この二人(リンカーンと金治郎)の偉大な日本と米国の指導者は、世界中の自由を大切に育て上げる、すべての国民の精神を象徴し、世界のいたるところ、すべての人々に次のことをすすめます。自由の光りに、頭と心とを開きましょう。一緒に自由というものを勉強いたしましょう。(『白と黒』1952年5月号) 」

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封建時代は封建時代で、戦争中は供出で、資本主義経済の中では資本をもたない小規模経営のために、厳しい里山の暮らしを励ましたのは、金さん、あんただったことはまちがいのないこと!

 

丹後は京都の奥座敷、

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今年二回目の冠雪!里雪になるはずなのですが、それでも、雪が景観を引き立てるのは里山・丹後ならでは。

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さて、さらに麓から20分くらい、車をはしらせていただければ、丹後の奥座敷・せやの里、

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平地の気温が三度のとき、標高450mのここは0度。

雪と暮らしのマッチングした味はさしずめ北陸から東北のものですよ!

雪は天からのさずかりもの、

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楽しむものと受け止めればいろいろおもしろいものです。

この時代、隙間がないじゃないですか、なんでもかんでもまっすぐに!軽く薄く速く短く小さく!
息が詰まります!
だから 生物多様性保全上重要里地里山。
ほっとするんです、すきまだらけで ぐにゃぐにゃで、でこぼこで、。

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生物多様性保全上重要里地里山ってなに?
日本的な歴史風土を維持してきて、生き物に優しい空間というのか、人間が暴走しない空間というのか、言葉でせつめいするのはむずかしい、ようするに、「柱時計が時を刻むアナログの空間」ってこと。、

観光と自然自然保護と観光観光開発と自然てこてこてこてここてこてやってきましたら、それでいいんです、それがいいんです、ほっとするところでありつづけてくださいと「生物多様性保全上重要里地里山500」
それがうれしくって、 ごそごそニョロニョロぴょんぴょんはいずり飛び回った2016、写真でふりかえっておきましょう。「わたしたちの森・里・海・川そして人 ベストショット100イン2016。」

1 草刈りは鎌!とてるみさん。散髪屋さんが顔のひげを剃るようだ。

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2 傘は彼岸花

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3 黍の天日干しする雅道君とゆうこさん

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4 うれしくてうれしくてと小豆採りのかおるさんのようす

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5 里山の歌を奏でる楽器です!

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6 りずみかるな草刈りのおとはすでに音楽の領域

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7 根でしっかり締めんそきゃあに畦が崩れたりイノシシにほられるた゜ぁや!

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8 脇が甘かったらその分、えらいめをするのは自分ですでなぁーあと田圃の神さま

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9 ころあいな大きさころあいな機械!

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10 幸せな時間

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阿蘇海2016年12月20日、

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つまり冬至前日の日没。その時間16:37:42。

さて冬至のサンセットポイントは暦の上でも重要です。日輪が隠れようとしている位置にはなにかある!直感です。

時間を遡ってみました。ちんだる現象が見え始めたのは「 15:23:35」

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画面の左から右へさがる山脈が右端のところでコブのようにふくらみを作っています。

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そのコブは前後に二重になっています。陽はそこを目指して動いていきます。

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日輪をピンポイントで引きつけるすごい力をもった山だ!こういう現象をみながら古代の人々は特別なことを考えたに違いない、、、
調べてみましたら、やはり、最高格の山名、、。
手前のコブを倉梯山(くらはしやま)所在地、宮津市字須津標高:93m。ここには円墳8、方墳20の古墳群が。
倉梯というのは「神庫を創営し給ひて種々の神寳を収蔵し長梯を用ひて其の庫に到るの科となす。」『舞鶴倉梯村史』と言うほどのもの。また、この山には、応神天皇の皇子たちも祀られているとのこと。応神天皇といえば、15代天皇、在位西暦270年~312年の方。ちなみに16代天皇が仁徳ま。

さらに奥のコブは加悦・権現山 526.7m。神と仏の合体して現れる山という意味。

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(↑ 撮影時 16:40:53)
隠れる前に、えもいえぬ黄金色の梯子。この黄金色の光柱こそ、幻の「あまのはしだて」。
ここは冬至の日、邪気を払い命の活力の元をさずけてくださるパワーライトをあびることができるのじゃぞ、かしこみかしみ、、、と 何らかの古代祭祀が執り行われていたのではおもいました。

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来年の冬至にはお供え物をしてやっていただきましょうか!

 

 

今日の気温は20度をこえそうと述べた後、「変な冬です!」と付け加える予報士の笑顔の屈託のなさ。

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ナデシコと水仙とヒマワリが同時に咲いているのを見る年末はたしかに「変」です。

さて、植物は温度の「変」に振り回されているようにみえますが、そんなことにはふりまされていません・かれらが発芽や開花の基準にするのは規則正しく安定している日照時間。

今日は冬至。

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(とくさんの森から)

もっとも南寄りから陽が上ります。

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朝日を見ていると、なにかさざめきを感じたのは、春や夏の草花たちがよっしゃあといっせいにいれたスイッチの音だったのかも。

 

 

 

 

 

日置のそば祭りでは、当然ながら日置産の手打ち蕎麦がふるまわれます。

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出汁もトッピングの大根おろし、ネギ、とろろも、、、みな美味い、

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一日で350食出したと朝日新聞。

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それにしても、と疑問に思ったのは、だいたい蕎麦は寒冷な痩せ地!というイメージがあるじゃないですか。

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日置のような肥沃な暖地で作る蕎麦なのにこんなにうまいのは不思議だと感想を言いましたら、風土に合った改良が加えられて味や香り、収量などの異なる数々の品種がいくつも生まれている、それらの品種をこれまでいろいろ栽培し、日置の風土にあい、食味のいいのをみんなで絞ってきているのだということ。

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合点しました、熱心さ、地道さ、共同性、みんなそろってるじゃないですか!

さて、日置は、世屋谷さらに野間谷の入り口出口!

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三浦綾子の小説『細川ガラシャ婦人』では
「おお、そうじゃ、殿、味土野はいかがでござりましょう。」松井康之がいった。「みとの?とな」「は、丹後半島の中程にある山の中、あの金剛寺亀山のすぐ傍らにござる」「では、険しい山中だな。女の足ではたいへんなところだが、、、」「男の足でも容易ではありませぬゆえめったに人の寄りつくところではござりませぬ」「道のりは?」「宮津より、舟にて余佐の海を横切り、日置の浜に渡り、そこより味土野まで三里でござります。」「おお、それは近い!」ようやく忠興の声がはずんだ。
と、玉の避難ルートと擬されます。当然、幽閉期間中の人や物資の行き来もこのコース。

※上記の一文、この看板の横に掲示しておくとより「説得力」がでるかも。

もう一つまばゆく感じたのは、取り組みの幅の広さ。

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日置が元気だと世屋も元気になります。
このそば祭り、惜しいかな年に一回。是非、今から予定を入れておいてください。

丹後中央高台の一番雪

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(上12月16日)

雪化粧とはよくいったもんです
なだらかに稜線を描く山並みの左側の高いところが高尾山、そこから右に眼をうつすと中央にへこみがあって、そこから右へまた盛り上がり鼓ヶ岳へ流れて行きます。へこみの部分が内山、五十河から味土野への峠です。

さてこの味土野、時は安土桃山時代。とんでもない事件に巻き込まれます。

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時の丹後のファーストレディー、大名家正室細川玉子の「入村」です。
ときめく信長を後見人として結ばれた細川忠興と明智玉子。細川家と明智家は手を携え、中国地方侵攻の準備をすることになります。玉子は丹後を支配する大名家のファーストレディーとして、丹後に君臨したのです。ところが本能寺の変、1562年6月。予想だにしない大事件によって彼女の地位は一変します。殺すか、返すか、殺されるか返されるか自分で死ぬか、二者択一。その玉の運命を決めたのは誰か?
松本清張さんはこう解き明かします。
①忠興は、注進状を見て、蒼くなっていた。「どうなされます?」忠興は、父に訊いた。「お前の考えは?」「てまえは父上のお考えに従います。「うむ」藤孝は黙っていたが、穏やかで深みのある眼差しを息子にむけた。「玉をどうする?」息子はしばらくだまっていた。略 「斬ります」と吐くようにいった。藤孝がじろりと見て、「血迷うな」と叱った。「は?」「なぜ、玉を斬る?」「明智の女ゆえ、諸人から疑いをかけられましょう。斬って証をたてます」「うろたえもの」藤孝はまた叱った。「織田家の諸将への面目はわしが立てる。玉を殺すことはない」

②「光秀は滅びる。あの男、案外小器であったな。いや主殺しをいっているのではない。殺した後の始末を考えていないのだ。味方の算用もなしに、逆上せて事を挙げたといえよう。いまに、あの男、袋叩きになる、惜しい男だが、」「玉はしばらく山の中にでも預けておけばよい。親父と同様、殺すには惜しい女じゃ。与一郎、あのような女房は、またともらえぬぞ。」
③敵味方に分かれると、相手方から来た養子や嫁は戻すのが通例だった。藤孝はそれをしないという。、年来の親友に見せた藤孝の最後の好意であった。                   (小説「火の縄」)

そこで、「玉はしばらく山の中にでも預けておけばよい。」と藤孝のいった「山の中」とは?
三浦綾子さんは、次のように設定します。
「人目につかぬ山中のう」「おお、そうじゃ、殿、味土野はいかがでござりましょう。」松井康之がいった。「みとの?とな」「は、丹後半島の中程にある山の中、あの金剛寺亀山のすぐ傍らにござる」「では、険しい山中だな。女の足ではたいへんなところだが、、、」「男の足でも容易ではありませぬゆえめったに人の寄りつくところではござりませぬ」「道のりは?」「宮津より、舟にて余佐の海を横切り、日置の浜に渡り、そこより味土野まで三里でござります。」「おお、それは近い!」ようやく忠興の声がはずんだ。「戸数はどれほどじゃ」「せいぜい、二十戸もござりましょうか。山伏寺などもござります「では、ひどく淋しいというほどでもないな」「は、山の中とはいえ、人里でございますれば、、、、」「なるほど、では、それに決める。松井!明朝早々にも人をつかわし、住居を用意させよ。」(「細川ガラシャ夫人」)

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さて玉子さん、宮津の城からどの道を辿って味土野に入村したのか、そのルートについて三浦綾子さんの細川ガラシャ夫人が「宮津より、舟にて余佐の海を横切り、日置の浜に渡り、そこより味土野まで三里でござります。」と明確に出されたものですから、その説を中心にうごいています。しかし、それを特定するのは、実は根拠のない不毛の論議なのです。玉の運命を取り上げた重要な小説では発行順に松本清張さんの火の縄、三浦綾子さんの細川ガラシャ夫人、伊崎義明さんの花無き峰がありますが、松本清張さんは

「ただひとつ、戦闘が身近に感じられたのは、光秀の女の嫂が、輿に乗って、奥丹後に送られていったことだった。初夏の眩しい光を受けて、その輿は数十人の家臣に守られて城門を出て行った。蝉時雨の山道を、一行は鎧の金具を光らせながら小さくなって消えた。」

伊崎義明さんは

「その風浪の真ただなかを、押し流されていく小舟一艘・・・どこへ消えたのか・・・伊賀守たち三人の姿はなかった。■伊賀守たち三人が野間の庄行者山に近い高尾山の中腹にある山毛欅の森の炭焼き小屋にたどり着いたのは、幾日めであったろうか。」

いずれも、特定のルートは示されていません。

三浦ルート、それが「望ましい」のですが、私的にはそう思えません。
宮津発→文殊知恩院経由→岩滝男山→駒返しの滝→五十河小町道→内山→味土野峠

状況や地形です。
①一色残党論 これはあり得ない、刃向かったものは皆殺し根絶やしにしたのが戦国の常識。②人数論 数十人の警護隊に護衛されてと松本清張さん。そうであれば寄り広い道を行くのが常識③男城には70人の警備隊を常駐させたということ。それができた物資の輸送路があったはずなど。

五十河→内山→味土野→須川ルートは、現在府道に指定されています。これは古来より幹線道路だったことの名残りではないでしょうか。

つまり、1562年の6月、お玉一行は山裾から雪の峰へ向かった!

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さて、ルート論はさておき、風雲真田丸、今夜が最終回。予告では幸村が単騎家康に肉薄するところでおわるということ。

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(上12/16)

「フェイントと裏切りと寝返りと虚偽」すべての基準が「お家のため」その中で生かされるはずのなかった命を生かされた玉子。味土野の冬、純白の雪景色は、どう戦国婦人お玉の目に映っていたのでしょうか。

若菜と光と雪の共演!

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清少納言さんなら雪はこれくらいがいい、とおっしゃるのではないでしょうか。

上世屋の初雪!

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ただし、深く埋めたるはいと「わろし」

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ほどほどにしてくだされよ、冬神さま!というところですが、スイセン、そのメッセージなんでしょうか。

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お、カラスが!

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{本種を食草とするチョウにはカラスアゲハ、ミヤマカラスアゲハ、モンキアゲハ、ナミアゲハ、クロアゲハがある}。という本種とは「カラスザンショウ」のこと。
さて、カラスザンショウはなぜカラスザンショウなのかについては、「サンショウに似ていて大型で、人に利用されることが余りないので「カラス」と冠されたようです。 カラスがこの種子を食べるからという説がありますが、カラスがこの種子を食べるかどうかは定かではありません。」と「多摩の緑爺の「多摩丘陵の植物と里山の研究室」」さん。
私自身もカラスアゲハが群れるのでカラスザンショウと理解していました。

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が、カラスが群れて食べているのは、紛れもなくカラスザンショウ!

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カラスがこの種子を食べるからカラスザンショウという説、これが正しいようですよ。

「大津・瀬田川の川面、まるで“紅葉” 外来の水生シダ 生態系に悪影響懸念 」「赤い池救え! 名古屋で浮草の除去作業」「万博記念公園:肩身が狭い「はす」アカウキクサ繁殖」「赤土の広場? 堀です アカウキクサ、福岡城跡に発生 市「危険」の看板」 「市民の湿地覆う赤い敵…水生シダ 生態系に悪影響も/和歌山・天神崎」「オニバス:危機、浮草が大繁殖--明石・二見の末々池」など、いずれも新聞見出し。
そのアカウキクサがこれ!

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田圃一面を覆う様は確かに「まるで“紅葉”」

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せやの棚田でもあまりみることがありません、しかしかといってすぐに希少種と言うわけにはいきません。外来種と在来種があって、在来種なら国絶滅危惧種。京都府でも「近年全国的に激減し、府内でも過去20年以上確認されていない。」という絶滅寸前種。

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ただ見分けが難しいんだそうです。ポイントは「植物体は全体が三角形で、全長1~1.5cm。」というところなのだそうですが、今の状態ではその特徴が確認できません。

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水鳥の脚についてきて広がった外来種という可能性もあり、今のところは何とも判定しがたいというところです。

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