宮津エコツアー · 未分類

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世屋の在来タンポポです

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ちなみに「日本産のタンポポは、北村(1957)によって21種類に分類され、この分類が多くの図鑑などでも採用されてきた。このうち、近畿地方にはカンサイタンポポ・トウカイタンポポ・セイタカタンポポ・クシバタンポポ・ケンサキタンポポ・ヤマザトタンポポ・シロバナタンポポなどが分布することが知られている。」ということです。

メッシュ柵のそばに群れ咲いているタンポポは、何者なんでしょうか。

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タンポポってどこにもあるじゃないかと、言うことでしょう。でも、在来の日本産は20パーセントに満たないぐらいになっているそうです。つまり、80%は外来種、

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世屋の在来タンポポが何者なのか、調査してみようとおっしゃる方がいらっしゃいませんか、協力しますよ。

 

 

 

 

 

 

 

松尾の一本サクラは二本株立ちです。

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主幹は187cm 副幹は145cm。

実は一本の孤独なサクラじゃないのです。ご主人と連れ添う奥さんの溝口夫婦サクラなのです。そのサクラが満開ですよ!

その①

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その②

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腰が曲がり、髪も曲がった年寄りに風格があるように昭和から平成を咲ききったそのサクラには、木の傷みが出て、花も少なくはなっていますが、格別の味があります。

そして、松尾高原を丹後縦貫林道から。

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2019・てるみさん90回目の米作りががスタートしました。

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たっぷりの水の中で鍬をふるって土をならすてるみさん。米作りと水とは切り離せません。水を操る日々が実りの秋まで続きます。

さて、{1粒の種もみから、標準で約何粒の米が取れるのでしょうか}の質問に、

[答え]1本のいなほには、山形県で作っている「はえぬき」で、だいたい60粒くらいつきます。「ササニシキ」では、だいたい80から100粒くらいつきます。1粒の種もみから、1本の苗ができますが、この苗を田んぼに植えると、「くき」が増えて、1本だったのが10本くらいになります。ですから、「はえぬき」なら、いなほ10本で600粒、「ササニシキ」なら800~1000粒になります。まいた種もみ1粒が600~1000倍になるわけです。

という答えが寄せられていました。

600から3000,数字はちがうものの毎年600倍から3000倍になるという米、米が途方もなく優れた食料であることは、一円が600円から3000円になると例えると、容易に想像できます。そんな米作りについての記事をアップしていらっしゃるのが農業の未来

田んぼの未来、お米の未来 3.田んぼとお米-面積、生産量、水-

karusyoku.com/nougyou/09kouen03
たいそうおもしろいですよ、
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「収穫率」という概念があるのですが、これは一粒蒔くと、一粒の米から何粒の米が収穫できるかを示す数値です。麦でも同じです。「一粒の麦から何粒の麦が収穫できるか」とを示す数値を「収穫率」としています。江戸時代の平均的な10アール当たり収量は1石3斗(193キロ)と言われています。「収穫率は30倍」ということになります。
それに対して小麦。1500年から1820年のフランスの小麦の「収穫率は6.3倍」。それからイギリスの小麦、時代は違いますけれども、「7倍」と言われておりまして、いかにお米の土地面積あたり生産性が高いかということを示しているわけですね。ヨーロッパ農業の規模が日本より大きいのは、土地生産力が低く規模が大きくないと生活できなかったためであり、逆に日本農業の土地生産力の高さが、零細な規模でも生活することを可能にしたということになります。歴史的に中世からずっとほとんど1町(1ヘクタール)という規模で、日本の農業の規模はあまり変わらない。むしろその前の4町というような、そういう名主経営の頃の規模の中世以前の規模の方が大きかったのです。その頃は大家族制だし、いろんな条件が異なりますから、生産力も全然劣るわけですから、4町というように、中世以前の方がむしろ農業の規模は大きかったというような実態でございます。
中世以降というのはほとんど、戦後の農地改革を経ても尚1ヘクタールという。そういう構造の下に、それで家族を養うことができた。時には「水呑み百姓」という言葉がありますから、水だけを飲んで凌がなければいけない時があったことは否定できませんけれども、相対的にいうと非常に生産力の高い土地として、水田というものがあるということ。
世界を見渡せば、東アジア、アジア全体が零細規模ですね。それはみな「水田」ということで説明されるところかなと思います。


つぎに、田んぼが一体わが国にどれだけの面積あったのかを、ずっと遡ってみておきたいと思います。
現在の239万ヘクタールの水田は、一体どこまで遡ったらその面積なのだろうかと、ずんずん遡ってみますと、どうも統計的には大体明治36年のデータで281万ヘクタールなんですね。それ以前は農地の面積しかないもんですから、そういうことですから、239万ヘクタールという水田は「明治の初期段階ぐらいかな」ということになるかと思います。
1600年頃の水田面積は、歴史書を紐解かなければいけない、統計書ではおさえられないんですね。1600年と言えば「関が原の戦い」の年なんですが、その時の農地面積が205万ヘクタール。ですから当然のことながら水田はそれよりも小さいということになるわけです。
それから100年ごとに見て行きますと、1700年(元禄13年)282万ヘクタール。残念ながらすべて農地面積なのですけれども、100年後の1800年もほとんど変わらずで282万ヘクタールです。そして1872年(明治5年)に321万ヘクタールとなっています。
ですから、水田ということになると、どうもやはり明治初期に現在の239万ヘクタールというものがあったのではないかと思います。ただ、生産調整をやってきましたので、定着分という果樹が植わって、あるいは改廃で元は田んぼだったんだけど、そういう状態にあるものがその他に30万ヘクタールありますから、270万ヘクタールであるとも言えます。


それから「単位当たり収量」ですね。これも調べていて大変興味深かったのですが、「100キロ増やすのに何年掛かっているのか」という見方をしますと、1886年(明治19年)から1935年(昭和10年)の50年間で、200キロから300キロに100キロ増える。1936年の300キロから1965年の400キロになるのに30年間掛かる。そして1966年(昭和41年)から1983年の18年間で400キロから500キロになっています。そしてその後11年間ぐらい500キロ前後で変動して、安定的に500キロ以上になるのが、1994年(平成6年)から今日までの15年間ということになります。いままで全国平均で最高は544キロというのが最高水準です。ですからなかなか500キロの後半までは進めないでいる。ですから今までの50年掛かった。30年掛かった。18年掛かった。というテンポで行くと、もう600キロまでいかないかもしれないわけですね。というのは、「量より質」に変わってきましたから、「もう収量を求めない」という方向が非常に強くなっているわけですから、必ずしも600キロには永久に行かないかもわからないわけですね。まあそんなような生産力の推移をたどっている。


ただ、今回調べ切れなかったのは、「玄米食から白米食に切り替わったのはいつか」なのです。多分、江戸時代ではないかと思っています。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩の中に、米の消費量が出てくるんですね。「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」と出てくるんですね。「1日に玄米4合を食べていた」宮沢賢治の時代はそういうことだったんですね。今は「玄米食ブーム」で、玄米を食べる人がまた少し増えているようですけれども。白米食になったのは多分江戸時代ではないかなと思っています。


つぎに「収穫量」についてみています。現在が855万トンということでいきますと、同水準の収穫量をどこまで遡れば見出せるのかとみて行きますと、1916年(大正5年)852万トンあたりがもっとも現在に近い水準かということになります。ただ、戦後1945年(昭和20年)に582万トンまで落ち込むんですね。当時「ひもじかった」ですよね。その水準が582万トンで、そこから急速に回復しまして、戦前水準を回復するのが1955年(昭和30年)です。そしてそれから12、3年後の1967年(昭和42年)に1426万トンの最高水準を記録して、そしてそこから「生産調整時代」に入っていったということで、現在855万トンということになっております。

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もう一つ、「田んぼとお米」と言えば「水」が非常に重要な意味をもつことになりますが、6ページに「水」についてふれています。
1トンの穀物を生産するのに1000トンの水が必要。1000倍ということですね。1キロの牛肉を生産するのに20トンの水が必要ということで、これは20000倍ということになります。もっとも豊富な水を有する日本が世界最大の食料輸入国になっている。しかも、日本の水は再生産が可能な水です。農業にとっての比較優位性というものがあるのですが、再生産可能な水を持っているということは、もちろんこれは世界的に見ても日本農業の優位性ですよね。実態を見てみますと、これも非常にアジア的といいますか、日本的といいますか、農業用水の9割が河川、そして1割がため池、地下水からの取水はわずかに1パーセントということになっているわけですね。ですから雨が降ったら川の水が浄化される。あるいは森林の山が降った水を貯水する機能を持っていてくれる。田んぼも貯水機能を持っています。そうやって一度降った水を有効に使っているわけです。
水の惑星地球で起こっている水収支のアンバランスが非常に大きな問題なってきておりまして、今世紀は「ウォータークライシスの世紀」だとも言われるわけです。そういう感覚からいくと、例えばアメリカのオガララ帯水層、地下水を利用して農業をやっている農業の場合はどういうことになるのか。
国連環境計画(UNEP)によりますと、世界最大の地下水の宝庫と言われるアメリカのロッキー山脈の東部に広がるグレート・プレーンズ南部、テキサスなど8つの州にまたがるオガララ帯水層の5分の1が消滅した。アメリカ合衆国の中央平原に埋蔵されるオガララ帯水層、数千年をかけて形成された地下水、「化石水」と言いますが、これが年々3メートル低下し続けている。「これはたまらない」ということで「水利費」の値上げを検討していると言われています。
そういう水事情があってですね、しかし「水の再生産」というのは、短期に見るか、長期に見るかで違ってきます。地球史的に見ればオガララ帯水層だって再生産の中に入っているという言い方ができないことはないのです。ここで言っている「再生産」というのはもっと短期ですね。要するに雨量があって、そして流れがあって、ヨーロッパの人が「日本中滝だらけだ」と言ったような激しい流れの川があってという中で、水田、稲作というものが成立しているということです。

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「収穫率」水田面積「単位当たり収量」白米食「収穫量」「水」など歴史的にまた世界と比較して捌いてくださっているわけですが、どんな方が講演なさっているのでしょうか、

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こんな視点を持ってみれば、美しい棚田景観の味わいがまったく違ったものになってきますよ。

ほんとにおもしろいです、

日置・金剛心院のソメイヨシノ。

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この樹の胸高周径325cm。

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一本で勝負しているのはさすがです。日置は、「丹後国風土記逸文」に、

浦嶼子
丹後の国の風土記に曰はく、與謝の郡、日置の里。此の里に筒川の村あり。此の人夫、日下部首等が先祖の名を筒川の嶼子と云ひき。爲人、姿容秀美しく、風流なること類なかりき。斯は謂はゆる水の江の浦嶼の子といふ者なり。…

とあるその「日置の里」で、古い歴史を刻んだ里にふさわしい巨樹です。

どうどうと勝負してらっしゃるということなら、東京からビックニュース。

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今年の本屋大賞は、日置中学校※現在閉校で教鞭をとりながら、『天国はまだ遠く』をものされた瀬尾まいこさんが選ばれたということです。

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ちなみに日本各地にある「日置」という地名人名の由来について、https://tangonotimei.com/doc/tango/ooe/miyazuidx.htmlで、斎藤喜一さんが、

水谷慶一氏の著、『知られざる古代』を取り上げ、

…さて、これだけ同一の緯度上にかなりの密度でならぶ「日置」であるが、これをどのような氏族とみるかは学者によって実にまちまちである。この方も、これまでの説をいちおう整理しておこう。
①太陽神をまつり、暦法・卜占と関係のある集団とみる説。これについては第四章でかなり詳しく述べた。柳田国男や折口信夫によって代表される。
②浄火を常置し、これを管理する集団とみる説。いわゆる「消えずの火」や「火継ぎの神事」にかかわったものとし、のちに宮廷で油火と蝋燭の供給を受け持ったとする。これは民俗学者の中山太郎らによって代表される。
③日置は「ヘキ」と読むのが正しく、もともと戸置の字を当てるべきで、これは租税を徴集するために戸数を調べ置く意味だという説。江戸時代の国学者、伴信友や太田亮によって代表される。

と紹介してくださっています。

日置には、天の神様が地に降りてこられるときの目印の火を焚いていたという②浄火を常置し、これを管理する集団とみる説。に基づくと思われる話が伝承されているとのことです。

 

 

 

日置・妙圓寺は、サクラ寺です。

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サクラといっても、ヤマザクラなのです。

おっさんもこのヤマザクラが自慢なのです、なにしろ四本の木がいずれも樹齢100年は経つ巨木なのですから。

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さらに、

しきしまの やまとごころを ひととわば; あさひににお(お) やまざくらばな

実にすらすらと暗唱してくださいました。

国学の本居宣長の歌だということですが、「この歌が好きだったのは誰だと思う?」

(え!)

「よしだしょういんだぞ!」

吉田松陰、、なんだかヤマザクラがとんでもなく好きになりました。

ところで、本居宣長がこのヤマザクラをどんなに愛していたのかを評論家・小林秀雄さんが学生を相手に語ってらっしゃいます。

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本居宣長「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」
小林秀雄『学生との対話』国民文化研究会・新潮社編 』(12-14頁)
 諸君は本居さんのものなどお読みにならないかも知れないが、「敷島(しきしま)の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花(やまざくらばな)」という歌くらいはご存じでしょう。この有名な歌には、少しもむつかしいところはないようですが、調べるとなかなかむずかしい歌なのです。先(ま)ず第一、山桜を諸君ご存じですか。知らないでしょう。山桜とはどういう趣の桜か知らないで、この歌の味わいは分るはずはないではないか。宣長さんは大変桜が好きだった人で、若い頃から庭に桜を植えていたが、「死んだら自分の墓には山桜を植えてくれ」と遺言を書いています。その山桜も一流のやつを植えてくれと言って、遺言状には山桜の絵まで描いています。花が咲いて、赤い葉が出ています。山桜というものは、必ず花と葉が一緒に出るのです。諸君はこのごろ染井吉野という種類の桜しか見ていないから、桜は花が先に咲いて、あとから緑の葉っぱが出ると思っているでしょう。あれは桜でも一番低級な桜なのです。今日の日本の桜の八十パーセントは染井吉野だそうです。これは明治になってから広まった桜の新種なので、なぜああいう種類がはやったかというと、最も植木屋が育てやすかったからだそうで、植木屋を後援したのが文部省だった。小学校の校庭にはどこにも桜がありますが、まあ、あれは文部省と植木屋が結託して植えたようなもので、だから小学校の生徒はみなああいう俗悪な花が桜だと教えられて了(しま)うわけだ。宣長さんが「山桜花」と言ったって分からないわけです。
 「匂う」という言葉もむずかしい言葉だ。これは日本人でなければ使えないような言葉と言っていいと思います。「匂う」はもともと「色が染まる」ということです。「草枕たび行く人も行き触れば匂ひぬべくも咲ける萩かも」という歌が万葉集にあります。旅行く人が旅寝をすると萩の色が袖に染まる、それを「萩が匂う」というのです。それから「照り輝く」という意味にもなるし、無論「香(か)に匂う」という、今の人が言う香り、匂いの意味にもなるのです。触覚にも言うし、視覚にも言うし、艶っぽい、元気のある盛んなありさまも「匂う」と言う。だから、山桜の花に朝日がさした時には、いかにも「匂う」という感じになるのです。花の姿や言葉の意味が正確に分らないと、この歌の味わいは分りません。
 宣長さんは遺言状の中で、お墓の格好をはじめ何から何まで詳しく指定しています。何もかも質素に質素にと指定していますが、山桜だけは本当に見事なものを植えてくれと書いています。今、お墓参りをしてみると、後の人が勝手に作ったものですが、立派な石垣などめぐらし、周りにいろいろ碑などを立てている。しかし肝腎の桜の世話などしてはいないという様子です。実に心ない業(わざ)だと思いました。

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ついでに ヤマザクラの雑学。
ヤマザクラ山桜、学名:Cerasus jamasakura)はバラ科サクラ属の落葉高木。日本に10種あるサクラ属の基本野生種の中でも代表的な種で、和歌にも数多く詠まれている。 サクラの仲間では寿命が長く、ときに樹高30mを超える大木になる

・花は直径3センチほどで、色は白が基本だが、ほんのりとピンク色を帯びるものもあり、実生によって自然に変異したバリエーションがある。現代人にとっては地味に見える花だが、ソメイヨシノが普及する明治時代以前には広く国民に好まれていた。

■・6月から7月にかけて直径1センチ前後のサクランボがなるものの、苦味があって食べられない。

■他のサクラ類同様、剪定に弱い上に移植も難しいため、雄大な樹形を楽しめる場所に植える必要がある。

■【品種】・数多くの変種、園芸品種があるが、「薄毛山桜」、「大山桜」、「紅南殿」、「兼六園熊谷」が特に知られる。

ところで、今日は一日新元号「令和」で持ちきり。 出典は現存する日本最古の古典「万葉集」から。32首の序文にある梅の花の歌、「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(かぜやわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」という文言から引用したといいます。

同じ花でも、ウメに遅れをとったかんもないわけではありませんが、

令月の用語解説 – 1 何事をするにもよい月。めでたい月。「嘉辰(かしん)令月」2 陰暦2月の異称。 かしんれいげつ. 意味, めでたい月日のこと。 「嘉辰」はめでたい日。 「令月」はめでたい月」。

この意味で「令」を使われたら、3月4月に咲くサクラはかないませんけれど、「匂う」という感じではヤマザクラもまけちゃいないと思います。

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(↑ 伊根湾のヤマザクラ)

梅の花、咲きて散りなば、桜花、継ぎて咲くべく、なりにてあらずや  藥師張氏福子

さて、万葉植物は今の里山植物、そんなことで、ここには、ヤマザクラを植えようとおもいました。

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 あしひきの、山桜戸を、開けおきて、我が待つ君を、誰れかとどむる  作者 不明

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あらためて、日置・妙圓寺、みのがせませんよ!

「燃やすべき 今日の心や 椿燃ゆ」    と  上野泰さん。

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ツバキは、燃やされて灰になっても、というより、灰になるから重宝にされるということですね。

「灰日本酒醸造には木灰が必要で、ツバキの木灰が最高とされている。また、アルミニウムを多く含むことから、古くは染色用にも用いられた。しかし、ツバキが少ないため、灰の入手は難しい。」

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赤椿咲きし真下へ落ちにけり  と加藤暁台さん、

また、野見山朱鳥さんも「落椿天地ひつくり返りけり」

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花が仰向けに落下するところをよんでらっしゃいます。 これには理由があって、 雄蕊ごと落ち、根元の部分が重いため、ということです。

「人を見る如く 椿の花円く」  と岸本尚毅さん、

人はツバキに見られている!とされたところはすごいですね。

雑学 

その①「椿」は、実は漢字ではない。日本で作られたいわゆる「国字」という文字で、中国では通用せず、本当の漢字(ああ、ややこしい)での「椿」は「山茶」と書く。

その② 木炭ツバキの木炭は品質が高く、昔は大名の手焙りに使われた。

伊根町菅野の上山神社の前を、奥に約二キロのところに、「福の内」はあります。

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人のいなくなった里を守ってらっしゃるのが、六体のお地蔵様。

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かぶり物が時代劇そのままで、いずれも男前で、知的で、品のいいお顔なのです。

背後にかいてある履歴がまた、すばらしい達筆です。

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読むと、制作年代は、享保年間とあります。享保は1716年から1736年の間。

同八年とかいてありますから、1724年。享保といえば、時の将軍は徳川吉宗さん主導の改革と大飢饉、

国家政策・公共政策

倹約と増税による財政再建を目指し、農政の安定政策として年貢を強化して五公五民に引き上げて、検見法に代わり豊凶に関わらず一定の額を徴収する定免法を採用して財政の安定化を図る。治水や、越後紫雲寺潟新田や淀川河口の新田などの新田開発、助郷制度の整備を行う。米価の調整は不振に終わった。青木昆陽に飢饉対策作物としての甘藷(サツマイモ)栽培研究を命じ、朝鮮人参なたね油などの商品作物を奨励、薬草の栽培も行った。日本絵図作製、人口調査。国民教育、孝行者や善行者に対する褒章政策。サクラモモなどの植林

地蔵制作は、木津郷、今の網野町の石屋に制作を依頼、とあります。木津付近には、凝灰岩の山があります、tuff、タフとも呼ばれ火山灰が地上や水中に堆積したもので、細工のしやすい岩です。

完成時には、村中総出で一体一体を背に負うて連れかえったと伝えますから、村にとっては大事業です。そこには、どんな動機があったのでしょうか、、、、それに言及する記述は残念ながらありません!。

さて、ふくのうち・福の内、この地名も気になります。

「内」に着目して見れば解けるかもしれません。

内を含む代表格、ブナ林で有名な今の「内山」(京丹後市)はかっては「おちやま・落山」と標記していたといいます。「内」が「落ち」の変化したものなら、谷内(大宮町・丹後町)は谷落ち。大内峠(与謝野町)は、大落ち峠。

このように考えれば、「福の内」の「内」も、「落ち」。

では「落ちる、崩れる」ことがなぜ「福」なのか、そこが不思議、ですけれども、崩れるたびに逆にそれを利用して棚田をひろげ住み続け氷河の谷のような丸みを持った優しい里山景観、それが丹後半島特有の地滑り地形であることと関係しているかもしれません。

重機のない時代、地滑りは農地拡大のチャンスでもあったのです。

「福の内」の「福」と「内・落ち」との関係には、、「聖人の事を制するや、禍を転じて福と為し、敗に因りて功を為す」(戦国策)自然への畏れと共に新しい土地を作ってくれたことへの感謝すら感じられます。 お地蔵様たちを見ていると、「地滑りも福の内さ」とうそぶく声が聞こえるように感じました。。五公五民、半分は年貢に取られます、絞ればしぼるほど、という圧政を、としたたかに知恵を寄せ合い力を合わせて乗り越えるのに、このお地蔵たちがどんなにか力になったことを思いました

こんな百姓の気持ちを、二百年も三百年も伝えてくれ、そのためにはいい石でなければならない、石を選ぶ村人のきびしい眼がいま、私たちにお地蔵様を見せてくれているのでしょう。

ところで、享保の飢饉は 17 (1732) 年。暖冬に次ぐ冷夏で,虫害を伴い,米の大凶作が起ったと言バンク。「暖冬に次ぐ冷夏で虫害を伴い」というところが今年の冬に似て、今年の夏が気になるところです。

もう一つ、福の内のとんでもなさ!関ヶ原の戦の前年にあたる慶長四年(一五九九)のものとわかる資料があるといいます。

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孫太郎稲荷(桑飼神社)www.geocities.jp/k_saito_site/doc/sugano.

孫太郎稲荷
福之内の桑飼神社に、孫太郎稲荷社再建の棟札が残されている。関ヶ原の戦の前年にあたる慶長四年(一五九九)、細川忠興に係わるもので、四○○年の風雪に耐えたこの棟札は、右下の角の一部を欠いて虫喰いもひどいが、文字ははっきりと読み取ることができる。
上部は幅一八センチ、下部は幅一二センチ、長さ二七センチの剣先型の棟札で、表の中央に「大願主当国大守細川越中守殿」とあり、右側に「為当国安全怨敵敗亡」と記され、左側に「祭主三獄坊氏子惣代利右衛門」と書かれている。
裏面には「是慶長四己亥年五月日再建天神地祇八百万神孫太郎神国中安穏処、丹後国與佐郡菅野村孫太郎」と記されている。「孫太郎」は、太鼓ヶ岳山系の旧野間村と菅野村の境附近で、この地に八八の谷があるといわれ、その一部の谷が「孫太郎」である。土地の人々のいい伝えによると、平家の落武者一六人がこの地にのがれて住みついたといわれ、土地の名前も落人の姓をとって名付けられ、井上・昌蒲・牧・平家・藤の原・孫太郎・瀬戸などの名がある。福之内の住民はもと瀬戸に居住し、孫太郎稲荷が慶長四年(一五九九)五月、再建された当時に現在地に移住したと伝えられている。
この孫太郎稲荷社は、細川忠興が同年十一月に分神を宮津の大久保に勧請しているが、山間僻地の菅野から一国の太守細川忠興が、何の因縁によって大久保城の守護神とされたのか明らかでない。
戦国末期に菅野城主三冨将監通論の父山内伊勢守と、細川忠興の父藤孝は共に将軍足利家の家臣であり、常に京都御所に参会し、公私にわたって親しく交わり旧友の間柄であったことから、天正十年(一五八二)菅野城が落城したのち、二人の旧縁によるものかとも考えられる。
棟札にある「怨敵敗亡」の「怨敵」は何を意味しているのであろうか。豊臣秀吉は慶長二年(一五九七)再度朝鮮に出兵したが、同三年(一五九八)八月十八日に死亡し、同四年(一五九九)には大坂城をめぐって石田三成・徳川家康・前田利家など重臣の間に一触即発の不穏な状況があり、石田三成から徳川家康に、忠興が宮津で謀反の準備をしているという密使が飛び、父幽斉は家康の臣永井直勝に会って弁明したが疑いが晴れず、十月には細川幽斉・同興元・松井康之三名連一記の誓紙を家康に差出しやっと許されるなど、忠興にとっては波乱に満ちた年であった。「怨敵」の文字は朝鮮再征の直後であり、国内の紛争によるものではなく、やはり明・朝鮮の外敵を意味しているのであろうか。その後忠興は慶長五年(一六○○)正月二十五日に、三男忠利を人質として江戸に差し出し、二月七日宮津より豊後国六万石を与えられ、閏四月十五日九州に赴き、同年秋には天下分け目の関ヶ原の合戦に、東軍徳川家康の陣に加わり戦功を挙げている。丹後の諸史に現れている孫太郎稲荷と細川忠興について、その一部を拾ってみると次のような記事がある。…
この神社は文政の百姓一揆に関係した坂根氏が、代々神官を勤め明治まで続き、明治八年(一八七五)土地改革により京都府より発行された稲荷社の地券が、坂根家の縁者伊根町字亀島の奥家に残されている。…

 

しかしかしかしか

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しかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしかしか

「ほんまに多いいですでぇ!」

多鹿にそうです、

 

巨樹の調査で訪れる神社でも、巨樹はあっても、幼樹がありません。

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社叢林の健康、老木、古木が倒れてギャップが出来、新しい後継樹が伸びていく、というシステムがあるのが健康な森とすれば、更新のシステムそれが壊れている、そこが問題なんだ、そこで困っているんだと訪れる先々の神様の悩みがきこえるようです。

なので、「鹿を食べよう!」さらに、「鹿で食べよう」となっても当然のことです。ところが、それはあかん、あかんですよ、というかたがいらっしゃったことが丹後には伝わっています。

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それを寺院の縁起として伝えているのが、伊根・朝妻の里の日蓮宗のお寺妙国寺です。

この生き物愛、恐るべし!このとき、鹿に情けをかけ狩りを中止することがなかったら、今の鹿問題は起こっていなかったかも知れません。というのは、置いておいて、、、、!単なる生き物愛、なら、和泉式部さん、いらんこというっちゃあ!と批判されますよ。

かのたわらのとうたこと藤原保昌と和泉式部と、当時のスターが登場させ、600人、 丹後の国司です、丹後の国中から僧を集めて法要の目的はなんだったのでしょうか。なぜ、鹿でなければならないのか、聖獣なので鹿が用いられたので、別に鹿でなくても、イノシシでもスズメでもいい、カラスでもキジでもよかったのかもしれません。そう考えると、キーワードは、「山川草木悉皆成仏」 という仏語にあるのかもしれません。

「山川草木悉皆成仏」の思想を説き広めること、それが目的、意図だった、、、

検索してみると、

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涅槃経』で説かれる言葉。草木国土のような非情なものも,仏性を具有して成仏するという意。この思想はインドにはなく,6世紀頃,中国仏教のなかに見出されるが,特に日本で流行した。日本では空海が最初といわれ,次いで天台宗円珍や安然らによっていわれた。それが鎌倉時代になって,親鸞道元,日蓮らによって主張され,やがて謡曲にこの言葉は多く出てくるようになった。

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時は乱世戦国に移ります、よりたかい次元での新しい人間愛が求められる時代の出来事だったのではないかな、とおもいながら、このエピソードを読んだことです。

それにしても、しかしかしかしかしかしかしかしかし、

このままだと、生えているのはアセビばかりという「奈良公園」化する可能性すら否定できないのが、丹後の実情。

和泉式部さん、ええ知恵ありませんか、悩ましいところです。

それはそうとしておいてついでに、おまけ

その①

、、、、、、、、、、、、、、、、

第26話 山川草木悉皆成仏

山川草木悉皆成仏 挿絵

ある修行僧が草も木も成仏するという話を聞いて、どうしても理解できず、尊敬する学僧に、自分で考えたり修行したりすることのない草や木がどうして成仏するのでしょうかと尋ねた。

そのとき、学僧は、あなたは草木成仏のことを尋ねられたが、それではあなた自身の成仏のことはもうおわかりかな、と逆に質問してきた。

修行僧は、はっと気づくところあって、「恐れ入りました。よくわかりました」と御礼を述べて引きさがったという。
学僧の言ったことが、どうして草木成仏の答えになっているかというと、何も草や木が功徳を積んで仏になるのではなく、草や木を見る人間が仏になるとき、草や木もいっしょに仏になるのであると教えたわけである。

わたしどもは自身が仏になったとき、天地も山も川も、草木もすべてがまた仏になると知るべきである。

 

維摩経いうお経に「心浄ケレバ土モ亦浄シ」とある。
そこに住む人達の心が美しいと、自然にその国土もきよらかになってゆく。
自分が仏になることと、妻を仏にすることとは別々ではない。
妻を仏にする道が自分が仏になる道であり、自分が仏になる道が、やがて妻を仏にする道なのである。

これを自他一如、内外一如という。

 

おまけ ② 柳田国男 子ども風土記

 

鹿・鹿・角・何本

一昨年の九月、米国ミズリー大学のブリウスタアという未知の人から面白い手紙の問合せを受けた。もしか日本にはこういう子供の遊戯はありませんかという尋ねである。一人の子が目隠めかくしをして立っていると、その後にいる別の子が、ある簡単な文句で拍子ひょうしをとって背なかをたたきその手で何本かの指を出して、その数を目隠しの子に当てさせる。英語では問いの文句が、

How many horns has the buck?「いかに 多くの 角を 牡鹿おじかが 持つか」

ドイツのも全くこれと同じだが、国語のちがいで一言葉ひとことば少なく、イタリアでは四言葉、スウェーデンやトルコなどは二言葉ふたことばで、やはり意味は鹿の角の数をくことになっている。目隠しをする代りに壁にもたれ、またつんいになって、その背にまたがって、指を立てて問う例もある。もう長いあいだかかって調べていると見えて、これ以外にスコットランド、アイルランド、米合衆国、フランス、ベルギー、オランダ、ギリシア、セルビア、ヘルツェゴビナ、エストニア、スペイン、ポルトガルにも同じ遊びのあることを確かめたといっている。日本にももしかそれがあったら、面白いと思うがどうかという質問である。
古い文献では、ペトロニュウスの諷刺詩ふうししの一つにも出ているという話である。あったらなるほど面白いが、どうもまだ聞いたことがないようだ、と皆がいうので、一応そういう返事をして置いて、なお念のため『民間伝承』の会報にこの手紙を訳して載せておくと、ほどなく二ヵ所から、あるという報知がやって来た。ありませんなどという答えはめったにできるものでないということを、しみじみと我々は経験したのである。
滋賀県の今津いまづ近くの村では、少なくとも二十年ほど前まで、この遊びをしたということを、長浜女学校の三田村君がまず知らせてくれた。じゃんけんに負けた一人の子は、窓のへりなどにつかまって身をげていると、勝った方の子がそれに馬乗うまのりになって、指を出して、その数を下の子にいい当てさせ、それが当るまではこの問答をくりかえし、あたれば今度は上の子が答える番にまわるのだそうである。馬乗りになるだけで、もう背なかは打たなかったらしいが、やはりその文句は、

鹿しか鹿しかつの何本なんぼん

と、くぎってとなえていたという。
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あてもの遊び

鹿の角なら二本にきまっているようなものだが、これは角のまたがいくつにわかれているかということらしい。御存ごぞんじの通り牡鹿おじかの角は、成長するにつれて枝の数が多くなり、五本ぐらいがまず大鹿である。単に子どもの指の遊びに似つかわしかったというだけでなく、山の猟師りょうしにとっても重大な問題で、毎度おそらくは声を立てずに、こうして指を出して相手に知らせ、またはうわさをしていたことがあったろうかと思う。それを子どもが遠い遠い昔に学んで忘れずに持ち伝えていたものらしい。今日の語でいうと、この遊戯は生活に即している。
これがもし琵琶湖岸びわこがん片隅かたすみに、たった一ヵ所しかない例だったら、或いは近年米国の宣教師が来て、教えて行ったろうなどと、ありもせぬことを想像してすます人が多かったろうが、幸いなことには九州に一つ、飛び離れて同じ「鹿なんぼ」の遊びがあった。久留米くるめ中学校の峰元みねもと君は、近ごろ市中でこの遊戯を子どもがしているのを見かけたと報ぜられた。それから附近の村里を問合せてみたが、三井みい郡にはたしかにあって、他の郡にはまだあるという人を知らぬという。私も強い断定は差控さしひかえるが、これは近江おうみから、または近江へ、ちかごろ輸入したものでないということはまあ言えそうである。
ただし詳しい方式はもう一度見なおす必要がある。熱心なブリウスタア氏に知らせてやりたいのは、久留米の方でも背なかをたたかないかどうか。「鹿なんぼ」という文句があまり簡単だから、あるいはこれも馬乗りの方かも知れぬが、文句が残っている以上はもと拍子ひょうしをとって、叩いていたのではないかと思う。
これによって、ふと心づくことは、今でも東京の小学校の子どもが、別れるときなどにちょいと立ちもどって、

おみやげ 三つに 気がすんだ

というたぐいの、どうしても意味のとれない文句をとなえて、友だちの背なかを打つことである。流行といってしまえばそれでも説明はつくが、あまりにも無意味だから何か別の形があり、それが鹿・鹿・角・何本でないまでも、少しはこれに近いような「あてもの遊び」が、行なわれていた名残なごりではないかと考えている。人の背なかを打つということは、そう軽々しいたわむれではない。それでも喧嘩けんかにはならぬだけの約束が、かつてはこれを許していたもの、といっても理由が一つあるのである。

なんだ、これは?

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「ぼたいじゅ菩提樹」なんだそうです。

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細い葉の真ん中から下がる種、空に放つとくるくる伝回りながら飛びます。

丹後では与謝野町下山田のお宮さんにあります。

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このお社、「明境社」。

よめません、「あけさい」さんとよぶんだそうです。

もう一つの謎、

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天橋立に松の苗を植えたのは、ここのご祭神さん、八千本全部を一夜のうちに植えたんだと伝えられています。植林造林をする神様ということなんでしょうか、それにしても、気になるのは、一晩のうちにというところ。阿蘇海を閉ざした砂嘴がどのように出来たのか、いろんな議論がされています。地震地滑りを想定する説明もあります。この伝承はその謎にふれているのかもしれません。

 

、゜

 

冬ソナの樹に冬

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三本のこの樹たちの胸高周径、いずれも3m以上。環境省巨樹基準を満たしています。

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なかでも、周径370cmの樹は、環境省巨樹データベースに登録されている、メタセコイアの部では全国三位相当。

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とはいうものの、メタセコイアの場合は、この比較にはあまり意味がないようです。

「メタセコイアの化石は日本各地の新生代第三紀層に見られ、カナダ北部・シベリア・グリーンランドなど北半球の北極周辺に広く分布していた[3]。1939年に日本の関西地方の第三紀層で、常緑種のセコイアに似た落葉種の植物遺体(化石の1種)が発見された[4]。発見者の三木茂により、セコイアに「のちの、変わった」という意味の接頭語である「メタ」をつけて[5]「メタセコイア」と命名され[6]、1941年に学会へ発表された[7]。それまで発見されていたヌマスギやセコイアと異なると考え、メタセコイア属を設けた。また、落葉樹であることも推定した[5]。
当初、「化石」として発見されたために絶滅した種とされていたが、1945年に中国四川省磨刀渓村(現在は湖北省利川市)の「水杉(スイサン)」が同種とされ、現存することが確認されたことから「生きている化石」と呼ばれることも多い。
1949年に日本と皇室がそれぞれメタセコイアの挿し木と種子を譲り受け、全国各地の公園、並木道、校庭などに植えられている。」とウィクペディァ。

つまり、全国のメタセコイアはみな同い年、70歳。最高が420cm、二位380cm、、、、その差は土質とか環境だけの違いなのでしょう。

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金さんがここにたったのは昭和11年、1936年。金さんは83歳。メタセコイアは13歳も若いのに、これだけの樹に。この成長力ははんぱないですね。

上世屋校庭跡のこの樹のおもしろいのは、この付近の化石地層からメタセコイアの葉っぱ化石が見つかっていますから、その意味で、先祖と巡り会ったというのか、ふるさとへ里帰りしたということなのかなと思います。

「これからも成長を見守っていきたいです」

 

 

 

 

 

 

生きている化石と

 

ですょは、

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