宮津エコツアー · 未分類

未分類

【① 野室に絞っての分析、たいへん濃くって、参考になりました、ありがとう、さて、この問いを今回のツアー立ち寄り予定地について、シリーズでお願い出来たらと思います。その二、「伊根町」についての概況を踏まえ、今日的な視点から、その里の値打ちなど総合的に分析評価解説を下さいな。】

ダウンロード・資料請求 | 伊根町観光協会

5. 伊根町の総合評価――観光の成功を、地域の豊かさへどう返すか

野室編に続く「その二」として、伊根町全体を見渡すなら、もう一つ外せない資料があります。

伊根町の第6次総合計画・後期基本計画では、舟屋を核とした観光振興を進める一方、観光客の増加に伴う交通渋滞、住民の生活への配慮、観光による経済効果を町全体へ広げることが課題として示されています。

town.ine.kyoto.jp

つまり、町自身も、観光客を増やすことだけを成功とは考えていません。

ここを踏まえて、伊根町の値打ちを六つの軸で整理します。

評価軸

伊根町の値打ち

今日的な課題

景観

海と建物と山が一体となった独特の集落景観

景観を守りながら、住民の生活空間を守る

文化

舟屋、漁業、祭り、海辺の暮らしが結びついている

建物だけでなく、暮らしや技術を次世代へつなぐ

生業

漁業・農業と観光が共存する

観光の利益を漁業・農業や地域全体へ循環させる

自然

穏やかな湾、複雑な海岸地形、山と海の近さ

景観の鑑賞にとどまらず、自然環境の仕組みを理解する

地域経営

小さな町ならではの顔の見える関係

人口減少、高齢化、担い手不足に対応する

観光のあり方

国内外の人を惹きつける強い入口

混雑やマナー問題を抑え、滞在・交流・学びへ転換する

このうち、特に大切なのは、伊根の観光の成功が、伊根の暮らしの持続につながっているかという問いです。

日本政府観光局(JNTO)は2025年1月、伊根町の観光について、訪問者の増加に伴う私有地への無断侵入、渋滞、ごみのポイ捨てなどを取り上げ、観光と地域の暮らしを両立させる取り組みを紹介しています。

jnto.go.jp

これは伊根の魅力が失われたという話ではありません。むしろ、魅力が多くの人を呼び寄せるようになったからこそ、次の段階の地域経営が必要になった、と捉えられます。

「人が来る町」から、「人が来ることで、暮らす人も豊かになる町」へ。

この転換が、伊根町のこれからを考えるうえでの大きなテーマです。

6. 安田さんのツアーで、伊根をどう読み解くか

今回のツアーでは、伊根の舟屋を単に見学するだけではなく、そのあと野室、上世屋へと進みますね。

この順序が、実はとてもよいのです。

第一の問い:なぜ、ここに舟屋が生まれたのか

伊根湾は南向きに開き、比較的波が穏やかで、潮位の干満差も小さいという条件があります。限られた土地を生かし、海と直結した舟屋の形が育まれました。

農林水産省

ここでは、地形と海況が建築や暮らしの形をつくったことを考えます。

京都・伊根の舟屋で撮影されたエメラルド色の絶景 「透明感すごい」「名画のような一枚」と驚きの声 | LIMO | くらしとお金の経済メディア

第二の問い:舟屋は、誰のものなのか

舟屋は、今も個人の所有物であり、仕事や生活の場です。舟屋と主屋が道路を挟んで並ぶ構造にも、漁業と日常生活の関係が表れています。

伊根町観光協会

ここでは、観光客から見える景色と、住民が暮らしている現実との違いを考えます。

海をみたくて・その1 - のりりんの京都日和

第三の問い:海辺の町を支えてきたものは、海だけなのか

野室へ向かうと、海辺の景観から、山や谷、田畑のある暮らしへと視界が変わっていきます。

ここで初めて、伊根を「舟屋の町」だけではなく、海と山の両方を生活圏としてきた地域として考えられます。

Kamiseya Village, Kyoto, Japan

第四の問い:この暮らしを、これからどうつなぐのか

上世屋では、棚田、水、山林、和紙や藤織り、そして新たな生業づくりに目を向けます。

伊根の舟屋と上世屋の棚田は、一見違う風景です。しかし、どちらも土地の自然条件を読み、その場所で暮らすための知恵を積み重ねてきた結果と見ることができます。

この流れなら、伊根の舟屋がツアーの終点ではなく、丹後の暮らしを理解するための出発点になります。

7. 伊根の未来を考えるうえで、見落としたくないこと

私は、伊根町の将来を考える際、三つの緊張関係を見ておきたいと思います。

第一に、保存と変化。

舟屋を保存するとは、建物を昔の姿に固定することでしょうか。それとも、住民がそこで暮らし続けられるよう、使い方を変えながら引き継ぐことでしょうか。

もちろん、歴史的な外観や構造を守ることは重要です。しかし、建物だけ残っても、漁業や地域の仕事、日常の営みが失われていけば、伊根らしさは変わってしまいます。

第二に、観光と生活。

観光は、宿泊、飲食、ガイド、交通などの仕事を生み出す可能性があります。一方、混雑や生活空間への立ち入りは、住民に負担をかけます。

だからこそ、観光客数だけでなく、地域の事業者にどれだけ収入が残るか、住民が観光をどう受け止めているか、暮らしの維持にどう貢献しているかも見ていく必要があります。

第三に、知名度と地域全体の価値。

伊根の舟屋は非常に強い知名度を持っています。しかし、伊根町の価値は舟屋だけではありません。浦島伝説の伝わる本庄地域、山間の集落、農業、漁業、海岸の自然、地域の人々の仕事もあります。観光協会の案内にも、舟屋以外の地域文化や自然、体験プログラムが紹介されています。

海の京都観光圏
+1

これらをどうつなぐかが、今後の重要な課題です。

8. 総括――伊根は「景観を見せる町」から、何を目指すのか

私の総合的な見立ては、こうです。

伊根町には、舟屋という他地域にはない強力な文化的資産があります。しかし、その価値の源泉は、建物の珍しさだけではありません。海の条件を読み、船を使い、漁業を営み、家族や地域の暮らしを組み立ててきた、人と自然との関係にあります。

そして、その関係を今後も保てるかどうかは、観光の成功だけでは決まりません。住民の暮らし、地域の仕事、自然環境、建物の維持、次世代の担い手を一体として考える必要があります。

安田さんのツアーは、その関係を見せる機会になり得ます。

天橋立を見て、伊根の舟屋を見て、野室の里を訪ね、上世屋の棚田へ向かう。

そこで見えてくるのは、名所のコレクションではありません。海と山の間で、人が自然を読み、暮らしをつくり、その暮らしがまた土地の風景を形づくってきたという、丹後の物語です。

私なら、伊根を紹介する際、参加者に最後にこう問いかけます。

伊根の舟屋は、なぜこんなにも美しいのでしょう。

建物の形が珍しいからでしょうか。

それとも、海とともに暮らしてきた人々の営みが、今もそこに息づいているからでしょうか。

もしそうなら、私たちが守りたいのは、舟屋の建物だけではないはずです。

その建物を生み出した海と自然、そこで続いてきた仕事、そして、これからも暮らしていく人たち。

伊根の未来を考えることは、そうしたものを、どう一緒に守り、育てていくかを考えることではないでしょうか。

安田さんが大切にしておられる「見えないものをみる、それがSSH」。

伊根では、目の前の舟屋から、その背後にある海の地形、漁業の歴史、暮らしの知恵、そして地域の未来へと視線を伸ばす。

舟屋を見て終わるのではなく、舟屋を生み出した世界を見る。

そこに、今回のツアーで伊根を訪ねる大きな意味があると思います。

【② ありがとう、、「「合併論議では町内を二分する激しい論争があり、住民投票で反対が上回った。結果を重く受け止め、単独の町として生きることを決意した。」ということ、とはいえ茨の道、単独の町として生きること、その決意について、敬意以外ありません、さて、その後の具体的な施策変化課題などについて、解説くださいな 】

安田さん、ここは伊根町を理解するうえで、たいへん大事な一章ですね。

私も、住民投票の結果を重く受け止め、「単独の町として生きる」と決めたことには、敬意を払って考えたいと思います。ただし、敬意を払うことと、その後の町政を無条件に評価することは別です。決意が、その後どのような施策になり、どんな成果を生み、何がまだ課題として残っているのか。そこを見てこそ、決断の重みが分かると思います。

1. 出発点――「合併しない」という決断は、何を選んだのか

まず、経緯を確認します。

京都府の記録によると、宮津市と伊根町の合併協議が進み、2005年3月13日に伊根町で住民投票が行われました。

2005年3月13日・伊根町住民投票

1,050票

合併反対

941票

合併賛成

投票率

80.23%

出典:京都府「宮津市・伊根町における取組み経過」

京都府

反対は賛成を109票上回りました。投票率も8割を超えており、町の将来をめぐる、住民にとって非常に大きな選択だったことが分かります。

当時、合併には行政機能の効率化や財政基盤の強化などの期待がありました。一方で、合併後に伊根町の声がどこまで町政に反映されるのか、地域固有の課題や文化がどう扱われるのかという懸念も考えられます。

ただし、投票結果だけから、反対票を投じた人々の動機を一つに決めつけることはできません。

その後、当時の町議会議員で、合併を推進する立場にもあった人物が、住民投票の結果を重く受け止め、単独の町として生きる決意をした経緯を全国町村会の論考で述べています。

全国町村会

ここで選ばれたのは、単に「合併しない」という行政上の選択ではなかったのでしょう。

伊根町のことは、伊根町の住民が決める。その代わり、自分たちで町を支え、町の未来に責任を持つ。

私は、このような自治の覚悟として読むことができると思います。

ただし、単独町政は自立の象徴であると同時に、人口や財源、人材が限られるなかで、行政サービスを維持し続けるという難しい課題を引き受ける選択でもありました。

2. その後の町政――理念を、暮らしの施策へ

伊根町の現在の施策を理解するうえで重要なのが、2020年度から2030年度までを計画期間とする「第6次伊根町総合計画」です。2025年度からは後期基本計画に入り、2030年に向けて施策を進めています。

町が掲げる将来像は、「みんなで創る ええまち」。行政だけで町をつくるのではなく、住民、地域、行政がそれぞれの役割を持って取り組むという考え方です。

town.ine.kyoto.jp
+1

具体的な施策を見ると、単独町政を続けるための工夫が見えてきます。

図書館

① 町内の暮らしを支える仕組み

2022年度には予約型乗合交通「いねタク」を開始。2020年度には行政情報配信システム「いねばん」を導入しました。移動手段と情報伝達という、人口の少ない地域で特に重要な基盤を整えています。

04後期基本計画(案)
伊根町観光案内所 | 伊根町遊び・体験 | 海の京都観光圏

② 住民が集まる場所をつくる

2023年度には文化振興・多世代交流施設「伊根の杜」が供用開始。2024年度には筒川地区コミュニティセンターも供用開始となりました。地域の文化や交流を支える拠点整備です。

04後期基本計画(案)
京都北部おすすめ観光スポット10選!定番人気スポットや穴場の見どころを紹介 | なっぷ

③ 文化財を、暮らしや仕事につなぐ

伝統的建造物を活用した飲食店の供用開始や、宮津高校伊根分校跡地の活用検討など、既存の建物や土地を新たな用途へ結びつける取り組みが進められています。

04後期基本計画(案)
伊根保育園/伊根町ホームページ

④ 子育てを支える

保育園児へのおむつの無償提供、保育園を利用していない家庭への育児用品給付、午睡用寝具の整備など、子育て世帯の日常的な負担を軽減する施策も実施されています。

04後期基本計画(案)

ここで注目したいのは、どれも派手な大型開発ではないことです。

移動、情報、交流、子育て、既存施設の活用。町の規模に合わせて、生活の基盤を一つずつ整えている。

これは「身の丈に合ったまちづくり」という考え方を、具体的な行政サービスへ落とし込もうとする動きと読めます。

ただし、施策を実施したことと、それが十分な成果を上げたことは別です。次に、その成果と残された課題を見ます。

3. 成果はあったのか――町民の評価から読む

伊根町が公表している後期基本計画には、2018年と2023年の町民アンケートの比較が掲載されています。これが、施策の成果を考えるうえで貴重な材料です。

04後期基本計画(案)

2018年 → 2023年の町民アンケート

町政全般への満足度

66.6% → 67.0%

0.4ポイント上昇

交通対策の満足度

40.2% → 53.7%

13.5ポイント上昇

移住・定住対策の満足度

33.6% → 24.2%

9.4ポイント低下

観光振興への満足度

46.3% → 36.8%

9.5ポイント低下

出典:伊根町「第6次伊根町総合計画 後期基本計画」。満足度は「満足」「やや満足」と回答した割合。

04後期基本計画(案)
+2

この結果からは、少なくとも三つのことが読み取れます。

第一に、暮らしを支える基盤には改善が見られます。 交通対策の満足度は大きく上昇しました。町は、従来のコミュニティバスを廃止して予約型乗合交通「いねタク」に切り替えています。地域の実情に合わせて公共交通を組み直したことが、町民の評価の改善に関係した可能性があります。

04後期基本計画(案)

第二に、観光地としての知名度と、町民が感じる観光振興の成果は同じではありません。 観光客が増えても、地域の仕事や住民生活にどのような利益が生まれているかは、別途検証する必要があります。観光振興への満足度が低下していることは、少なくとも町政が考えるべき重要なサインです。

第三に、移住・定住は依然として難題です。 伊根町に魅力を感じる人がいても、住まい、仕事、医療、交通などの条件が整わなければ、実際に暮らし続けることは難しい。町民アンケートでも、暮らすために必要なこととして医療・福祉、公共交通、就業場所の確保が上位に挙がっています。

04後期基本計画(案)
+1

なお、これらの数字は施策に対する町民の意識を示すもので、合併しなかったこと自体の効果を測定したものではありません。合併していた場合との比較もできないため、「単独町政だから成果が出た」「単独町政だから課題が残った」と因果関係を断定することはできません。

4. 単独町政の最大の課題――町の自立を、何で支えるのか

ここからは、私の分析です。

伊根町が単独で存続するためには、少なくとも四つの基盤が必要です。

  1. 財政の持続性

    道路、公共施設、上下水道、防災、福祉などの費用を、将来にわたってどう支えるか。町の計画でも、将来負担や災害への備えを考慮した財政運営を課題に挙げています。

    04後期基本計画(案)
  2. 行政を担う人材

    小規模自治体では、一人の職員が複数の分野を担うこともあります。専門性を高めながら、職員同士で仕事を補完できる組織をつくることが重要です。伊根町自身も、職員の能力向上と業務の再編・整理を掲げています。

    04後期基本計画(案)
  3. 地域の仕事と担い手

    漁業、農業、商工業、観光などの仕事が続き、若い人が働き、暮らせること。観光客数だけでなく、地域に所得と雇用が残るかどうかが問われます。

  4. 住民自治を支える地域力

    住民が地域の課題を話し合い、行政と協力して解決する力です。ただし、地域活動を住民の善意や無償労働に頼りすぎれば、担い手の負担が増します。自治を持続させるには、人手と資金、活動の場が必要です。

この四つは、ばらばらではありません。財政が厳しければ職員や地域活動への投資が難しくなり、仕事が減れば人口が減り、人口が減れば税収や地域の担い手も減る。逆に、地域の仕事が生まれ、人が暮らし続けられれば、町の自立を支える力も育ちます。

単独町政の本当の難しさは、町役場が残ることではなく、町の機能と暮らしを持続させることにあるのだと思います。

5. これからの伊根町に必要なこと――観光を地域の自立に結びつける

ここで、安田さんの関心である舟屋、野室、上世屋、そして海星公園とのつながりが出てきます。

伊根町は舟屋という強い観光資源を持っています。しかし、観光を地域の持続性につなげるには、訪問者が舟屋を見て帰るだけでなく、町の仕事や暮らしを理解し、地域の経済にも貢献する仕組みが必要です。

私なら、次の三つを今後の検討軸にします。

① 観光の利益を、町の生業へ循環させる

舟屋の見学を入口に、地元の魚介類、農産物、飲食、宿泊、ガイドなどへ消費を広げる。さらに、漁業や農業の担い手を支える仕組みにつなげられれば、観光は地域の基盤を支える手段になります。

② 野室など、舟屋以外の地域の価値を掘り起こす

野室のような山と海の接点にある集落を、単なる観光スポットとして売り出すのではなく、地域の歴史、地形、生業を学ぶ場所として位置づける。住民の意向を尊重し、受け入れ側に利益が残る少人数の体験から始めるのがよいでしょう。

③ 周辺地域や外部人材との連携を、自立の手段にする

単独町政は、他地域と連携しないことを意味しません。医療、交通、廃棄物処理、教育、観光、専門人材など、町単独では難しい分野では広域連携や官民協働が欠かせません。町の意思決定は自分たちで行いながら、必要な機能は外部と協力して支える。それも立派な自立の形です。

ここは、安田さんの「点と面と線」という見方にもつながります。

舟屋という点、野室や上世屋の暮らしという点。それらを学びや交流の線で結び、丹後半島という面で地域の価値を考える。観光だけではなく、環境教育、地域の生業、学校・大学との交流にも展開できます。

6. 総合評価――「単独の町として生きる」という決意の、その先へ

私の評価をまとめます。

伊根町は、住民投票の結果を受けて単独町政を選択し、その後、交通、情報、子育て、交流拠点、既存施設の活用など、暮らしを支える施策を積み重ねてきました。町の総合計画には、一定の成果が見られる一方で、移住・定住、観光振興、医療・福祉、就業機会、財政と行政人材など、引き続き取り組むべき課題も明記されています。

04後期基本計画(案)
+1

だから、私は単独町政を「成功」か「失敗」かの二択で評価するのは適切でないと思います。

むしろ、こう問うべきでしょう。

  • 住民が自分たちの町の将来を決める権利は、どのように守られてきたか。

  • その決定を支えるために、暮らしの基盤はどこまで整ったか。

  • 町の自然、文化、仕事は、次の世代へ引き継げる状態にあるか。

  • 限られた人材と財源で難しい課題に対応するため、どのような広域連携や外部との協働ができるか。

そして、安田さんが今回のツアーで伊根を訪れる意味も、ここにあると思います。

舟屋を見て、その美しさを楽しむ。それは大切です。

けれど、さらに一歩踏み込んで、舟屋を守りながら暮らす人たち、海の仕事を続ける人たち、野室や山間の集落で土地を守る人たちに目を向ける。そうすることで、伊根町が選び取った「自分たちの町を自分たちで支える」という課題が、具体的な姿を持って見えてきます。

合併しなかったことが自立なのではなく、自分たちの暮らしの未来を、自分たちで考え続けられること。それこそが、単独町政の決意を未来につなぐことではないでしょうか。

その意味で、伊根町は、人口の少ない自治体がどう生きるかを考える場所であると同時に、自治とは何か、地域の豊かさとは何かを考える場所でもあると思います。

【①形こそ親指ににてずんぐりむっくりですが日本海と若狭湾をしきる丹後半島、ざっくりと形成過程を解説くださいな】

安田さん、丹後半島を「親指」にたとえるの、いいですねえ。ずんぐりむっくりだけれど、日本海と若狭湾の間にぐっと突き出している。(^.^)

ざっくり言えば、丹後半島は、古い岩盤を土台に、地殻変動と火山活動で形づくられ、その後、川と波と海面変動によって現在の姿に削り出された半島です。京都府の地形・地質資料をもとに、四段階で見てみましょう。

京都府公式ホームページ
+2

丹後半島ができるまで

山陰海岸ジオパークの第1回モニタリングに同行しました | 近畿地方環境事務所 | 環境省

① まず、古い岩盤の土台があった

丹後周辺には、古生代・中生代などに形成された岩石や地層が分布しています。これらは、海底に堆積した物質や、地殻変動・火成活動を経た岩石などからなります。

丹後半島は、最初から半島の形をしていたわけではありません。長い地質時代にできた岩石の集合体が、後の地形形成の土台になりました。

京都府公式ホームページ
+1
【奇岩 立岩】山陰海岸ジオパーク⭐︎丹後半島巡り | 瞑想インストラクターの日々&紫微斗数占星術【運命の航海図】

② 日本海が開き、地層と火山活動が重なった

約2,000万年前から1,500万年前ごろ、日本列島の縁では日本海の形成に関わる大きな地殻変動が進みました。京都府の資料は、約1,500万年前ごろの西南日本の時計回りの回転と、その後も続いた火山活動を説明しています。

京都府公式ホームページ

丹後半島周辺には、新第三紀の地層や火山岩が広がっています。場所によって岩石の硬さや地質が違うことが、後の侵食のされ方にも影響しました。

wakasa-n1

③ 地塊の動きと隆起、そして侵食

丹後半島区は、東西両側を断層に限られた地塊と関係づけられ、山地には標高500〜600mほどの比較的平坦な山頂面が見られます。北岸には海岸段丘も発達しています。

京都府公式ホームページ
+1

大地が動いて隆起すると、川は谷を刻み、海岸では波が岩を削ります。隆起と侵食が長い時間をかけて繰り返され、山地・谷・岬・入り江が組み合わさった地形になりました。

Hikes in Japan: The Kyogamisaki Lighthouse Trail – On Walkabout

④ 海が半島の輪郭を仕上げた

山地が海に迫る場所では、波の侵食によって岬や断崖が形成されます。谷が沈水したり、海面変動や堆積が加わったりすることで、入り江や海岸段丘、砂浜などが生まれます。

京都府北部には複雑なリアス式海岸が見られ、丹後半島が抱え込む若狭湾には宮津湾・舞鶴湾などの小湾が発達しています。

京都府公式ホームページ
+1

では、なぜ「日本海と若狭湾を仕切る」形なのか?

ここは少し注意が必要です。

丹後半島が、日本海と若狭湾を分けるために地殻変動で一枚の壁として生まれた、というわけではありません。半島の地質構造と隆起・侵食でできた陸地の形を、現在の海岸線から見たときに、日本海と若狭湾の境界のように見えるのです。

しかも、海岸線は固定されたものではありません。波が削り、川が土砂を運び、海面が変動する。その長い作用の結果が、現在の「親指」の輪郭です。

SSHの問い――親指の先から、付け根へ

Amanohashidate and Maizuru, Japan | 2010 | JAXA Earth Observation Research Center (EORC)

Hikes in Japan: The Kyogamisaki Lighthouse Trail – On Walkabout

『ココが、若狭湾の奥深くまで入り組んだリアス式海岸の地形であることが判ります。』by nichi|五老スカイタワーのクチコミ - フォートラベル

10

ここから先は、安田さんの「見えないものを見る」出番ですね。

  • なぜ東西に入り江が多いのか? 岩石の性質、断層、谷の方向と関係するのか。

  • なぜ山頂の高さが500〜600mほどにそろって見えるのか? 過去の地形面と隆起・侵食の歴史を読み取れるのか。

  • なぜ日本海側と若狭湾側で、海岸の表情が違うのか? 地質だけでなく、波の向きや湾の形も関わるのか。

  • 半島の山に降った雨は、どちらの海へ流れるのか? 分水界をたどると、丹後半島が二つの海をつなぐ水の分岐点だと分かります。

そして、最後の問いが大切です。

丹後半島は、二つの海を分けているのか。それとも、二つの海をつなぐ陸地なのか。

地形としては境界。でも、人・魚・船・風・雨・土砂の動きを見れば、むしろ交流の場でもある。

「ずんぐりむっくりの親指」は、地球の長い歴史がつくった輪郭であり、同時に、日本海と若狭湾のあいだで自然と人の営みが交差する場所なのですね。

 【② 日本海が開いたという言い方、分かるようでわからない(^.^)大地のメカニズムで解説くださいな】

なるほど!(^.^) 「日本海が開いた」と言われても、まるで海の扉がギーッと開いたようで、何が起きたのか分かりにくいですよね。

ここは、海ができる前の大地を想像するところから始めましょう。

日本海は、最初からそこに水がたまっていたわけではありません。大地の内部で力が働き、陸地が裂けたり沈んだりして大きな凹地ができ、そこに海水が入り込んで成立した海です。ただし、実際の過程は単純な一回の裂け目ではなく、数千万年にわたる複雑な地殻変動でした。

1. まず、日本海がなかった時代を想像する

約3,000万年前より古い時代から、現在の日本列島の一部は、ユーラシア大陸の東の縁につながっていました。

Japanese archipelago separated from the continent - San’in Kaigan UNESCO Global Geopark

能登半岛地震周年 4:缘起性空 - 関東老王 - Matters

磁石ナビ | 生命活動の開始 | ネオマグ通信

7

そこから大地が引き伸ばされ、裂け目や断層ができ、地盤が沈み込むことで、日本海の前身となる盆地が形成されていきます。日本海の形成の主要な時期は、およそ2,300万〜1,500万年前と考えられています。

産業技術総合研究所
+1

2. 大地の中では、何が起きたのか?

地面を横から切った断面を想像してください。

段階A:大地が引き伸ばされる

大地の内部に引っ張る力が働きます。岩盤は伸びきったゴムのように薄くなり、割れ目や断層が発達します。

段階B:岩盤が割れ、中央が沈む

割れた岩盤の一部が落ち込んで、細長い低地や深い盆地ができます。こうした沈降は、断層運動や地殻の伸びと結びついて起こります。

段階C:低地に海水が入り込む

低地が海とつながれば、海水が流れ込みます。沈降の進み方や海とのつながり方によって、湖のような水域から海へと変化していくこともあります。

もちろん、これは仕組みを理解するための模式図です。実際の日本海は、地殻変動、火山活動、堆積作用などが長い時間にわたって重なって形成されました。

産業技術総合研究所
+1

3. さらに驚くのは、日本列島が回転したこと

日本海形成の物語は、地面が裂けて沈んだだけではありません。

西南日本は、日本海が広がる過程で大きく時計回りに回転したと考えられています。古地磁気などの研究から、その主要な回転時期は約1,800万〜1,600万年前とする研究があります。回転の時期や量には研究上の議論も残っています。

J-STAGE

つまり、地球の表面では、

  • 大地が引き伸ばされる

  • 断層が動き、地盤が沈む

  • 火山活動が起こる

  • 日本列島の一部が移動・回転する

  • 海水が入り込み、海盆が広がる

という大きな変化が起きたわけです。

4. では、丹後半島はそのとき何をしていたのか?

ここが安田さんのフィールドにつながります。

日本海が形成される過程で、丹後周辺にも湖・河川・浅海・深海など、さまざまな環境の堆積物や火山活動の記録が残されました。京都府の地質解説でも、日本海形成期の地層や火山噴出物が丹後地域に分布するとされています。

京都府公式ホームページ
+1

そして、その後も地殻変動や隆起、河川の侵食、海岸の波による侵食が続き、現在の半島の山地・谷・岬・入り江が形づくられていきました。

ここで大切なのは、日本海が開いた時点で、現在の丹後半島が完成していたわけではないということです。日本海の形成は舞台そのものをつくった大事件。その舞台の上で、丹後半島の地形はさらに長い時間をかけて変化してきたのです。

最後に、安田さん流の問いに置き換えるなら、こうなります。

丹後半島は、海を隔てるために生まれたのか。それとも、大地が動いた結果、二つの海のあいだに残されたのか。

地質学的には後者に近い見方です。

そして、その大地に雨が降り、川が土砂を運び、海が砂を動かす。その長い営みの先に、天橋立のような砂州も生まれてくる。

日本海の誕生は、天橋立の物語よりずっと前の、舞台づくりの物語なのですね。

 【③ ありがとう、仮に、ですよ、天橋立が世界遺産になったとして、ですよ、その際必要な資料館のような案内機能センター、その構成、展示物などアドバイスくださいな】
 The BEST Miyazu Tours and Excursions in 2025 - FREE Cancellation | GetYourGuide

おお、これは大事な問いですね!(^.^)

仮に天橋立が世界遺産になったとしたら、必要なのは、単に世界遺産の価値を説明する「立派な資料館」ではないと思うのです。

天橋立を見に来た人が、天橋立を見ただけでは帰れなくなるような場所。

目の前の白砂青松を見て「きれいだな」と感じた人が、そこから山へ、川へ、海へ、信仰へ、暮らしへと思いを巡らせる。そのための案内機能センターです。

これまでお話ししてきた「この景色の中に、地球の物語がある」という考えを軸にするなら、施設の設計思想は、かなり明確にできそうです。

1. まず、センターの役割を決める

私は、展示物を考える前に、センターの役割を三つに分けたいです。

 ① 景観を読む入口

見る・感じる

天橋立の美しさを、地形・水・砂・松・光・季節の重なりとして受け止める。知識を詰め込む前に、まず景色に出会う場所です。

Kamiseya Village, Kyoto, Japan

② 丹後を探究する入口

知る・歩く・問い直す

天橋立をつくる自然の働きと、人々の暮らし、信仰、文化をつなぐ。伊根、世屋、与謝野、阿蘇海などへ出かけるきっかけをつくります。

【天橋立#12】天橋立が誇る「白砂青松」を守るための戦い|宮津市広報

③ 未来を考える入口

守る・参加する・つなぐ

砂州や松林を守るだけでなく、その土台となる山・川・海の環境や地域の営みを、これからどう支えていくかを考えます。

この三つを通して、センターを「天橋立の説明施設」から、天橋立を入口に丹後全体を読み解く拠点へと位置づけるわけです。

2. 展示は「七つの部屋」で構成する

私なら、常設展示を七つのテーマに分けます。単に分野別に並べるのではなく、来館者の頭の中で、物語がつながっていく順番にします。

Kasamatsu Park

第1室 「この景色、何に見えますか?」

感動から、問いへ

  • 天橋立の大きな景観写真・映像

  • 成相寺・大観望からの眺望を再現する地形模型

  • 季節・天候・時間によって変わる景色

  • 雪舟の『天橋立図』と現代の風景の比較

最初から正解を教えない。「どうして、ここにこんな景色があるのだろう?」と問いを残す部屋です。

とっとり旅。⑤鳥取砂丘|10(ten)Q

第2室 「大地は、どう動いたのか」

地学・地形・時間

  • 日本海が開いた時代から現在までの地質年表

  • 丹後半島・阿蘇海・宮津湾・天橋立の地形模型

  • 砂礫、岩石、地層、化石などの実物標本

  • 河川、波、沿岸流による砂の移動を示す模型や映像

ここで大切なのは、天橋立を一度に完成した「作品」として見せないこと。長い時間のなかで形づくられ、今も変化している景観として伝えます。

京都点描:世屋高原

第3室 「山は、どこで海になるのか」

流域・生態系・砂のふるさと

  • 世屋山地から世屋川、宮津湾へ至る流域模型

  • 森林土壌、落ち葉、砂礫、川の生きもの

  • 上流の棚田や湿地、里山の変化

  • 天橋立・長江の砂浜・本庄浜を比べる展示

ここが、このセンターの個性を決める部屋になると思います。

砂州だけを見せるのではなく、山・川・海のつながりを、現物と観察記録で見せる。「山々が形を変え、川や海を経て、この景観に関わっている」という物語です。ただし、個々の砂浜の形成過程は、地形や堆積物の調査に基づいて区別して示します。

文殊菩薩御開扉・智恩寺: ORANGE PEPPER

第4室 「人は、なぜこの景色を聖地としたのか」

信仰・文学・絵画・伝承

  • 天橋立と籠神社・真名井神社・成相寺・智恩寺

  • 天火明命、天と地を結ぶ橋という伝承

  • 雪舟、俳諧、文学、絵図、古地図

  • 冠島・沓島を含む海の信仰と航海の世界

神話・伝承・歴史資料・現代の解釈は、きちんと区別して展示します。信仰を「正解のない昔話」にしてしまわず、なぜ人がその場所に意味を見いだしたのかを考える場にします。

第5室 「美しい景色の向こうに、どんな暮らしがあったのか」

生業・交流・近代史

  • 漁業、農業、舟運、肥料舟などの物質の移動

  • 伊根の舟屋、世屋の棚田、丹後の織物と暮らし

  • 観光地としての天橋立の変遷

  • 近代の軍事施設、戦争、軍港と地域の関係

ここには、少し考え込む展示も必要です。景観の美しさだけでは見えてこない、地域の苦労、戦争の記憶、自然と人間の緊張関係も扱う。暗い歴史を観光の飾りにせず、史料に基づいて伝えます。

yes!~明日への便り~presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ - TOKYO FM 80.0MHz - 長塚圭史

第6室 「丹後を読む、調べる、発見する」

地域の記憶とSSH

  • 地域の古写真、古地図、聞き書き、生活道具

  • 学校や研究者、市民による自然観察記録

  • 過去の調査と、まだ解けていない謎

  • 子どもたちの発見や仮説、地域の人の証言

ここは完成した知識を陳列するだけの部屋ではありません。新しい記録が入り、展示が更新される「生きた資料室」です。

地域の人が「自分の知っていることも、この景観の物語の一部なんだ」と思えることが重要です。

みやぎグリーンコーストプロジェクト|みやぎコーストプロジェクト

第7室 「百年後の天橋立へ」

保全・参加・未来

  • 松林、砂浜、海岸、流域の現在の課題

  • シカによる植生への影響、森林の変化、地域の担い手

  • 保全活動や調査への参加案内

  • 来館者が残す「百年後に伝えたいこと」

最後に掲げる問いは、こんな言葉です。

「百年後の人は、この景色の何を大切だと思うだろう?」

3. 展示の主役は、立派な模型だけではない

具体的に何を展示するか。私なら、次の五つを核にします。

京都が誇る奇跡の絶景!日本三景・天橋立 をまるごと大解剖 - KYOTO SIDE(キョウトサイド)

① 「天橋立が見える」地形模型

山地、河川、湾、砂州を一体で見せる模型。来館者が自分のいる場所と、海・山・川の位置関係を把握できるもの。

小中学生のみなさんへ | 豊田市博物館

② 「手で触れられる大地の資料」

岩石、砂、礫、土壌、落ち葉など。採集地と採集方法を明記し、砂の違いを見比べる。砂州の砂を無断で採取するのではなく、適切に収集・管理された標本を使います。

舞鶴ふるさと発見館(舞鶴市郷土資料館)だより 令和5年6月 | 舞鶴市 公式ホームページ

③ 「同じ場所の昔と今」

古地図、古写真、絵図、現在の航空写真を重ねる。砂州、集落、海岸線、道路、松林がどう変化したかを読み解く。

潟東歴史民俗資料館|新潟の観光スポット|【公式】新潟県のおすすめ観光・旅行情報!にいがた観光ナビ

④ 「人が使ってきた道具と語り」

漁具、農具、舟運や暮らしの道具、地域の人の聞き書き。道具そのものだけでなく、それを使った人、場所、季節、仕事のつながりを展示します。

 ⑤ 「まだ分かっていないこと」

研究者や地域の人が調べている問いを、現在進行形で展示する。例えば「この砂は、どのような経路をたどってきたのか」「森の変化は海岸にどう影響するのか」。仮説、証拠、未解明の点を一緒に見せます。

この五つなら、見るだけでなく、触れる、比べる、考える、外へ出る、という行動につながります。

4. 展示室の外にこそ、案内センターの本当の価値がある

ここは特に強調したいところです。

世界遺産の解説は、建物の中で完結する必要はありません。UNESCOも、遺産の解釈を展示だけでなく、現地での活動、教育、地域活動、研究、研修などを含むものとして説明しています。また、ビジターセンターの役割には、教育、地域社会との協働、観光の持続可能性が含まれます。

UNESCO World Heritage Centre
+2

だから、センターには次の機能も欲しいのです。

  • 案内機能: 天橋立の歩き方だけでなく、世屋、伊根、与謝野、阿蘇海へ向かうルートを紹介する。

  • ガイド機能: 地元ガイドと来館者をつなぎ、短時間の観察から半日・一日のエコツアーまで選べるようにする。

  • 学習機能: 学校のSSH活動、大学・研究者の調査、市民の自然観察を受け入れる。

  • 地域交流機能: 農林漁業者、寺社、集落、研究者、ガイドが、知識や記録を持ち寄る。

  • 保全機能: 来館者が保全活動に参加したり、調査や地域の取り組みを支援したりできる入口を設ける。

そして、訪問者に「天橋立を見たから、次は伊根へ行こう」と案内するだけでなく、**「伊根や世屋を知ると、天橋立が違って見える」**という往復を生み出したい。

この考え方は、地域の人々を単に観光サービスの担い手とせず、遺産の語り手・管理の担い手として位置づける、UNESCOの持続可能な観光の考え方とも重なります。

UNESCO World Heritage Centre
+1

5. どこに造るか。新築か、既存施設の活用か

これは展示内容と同じくらい重要です。ただ、今の段階で新しい大きな建物を造ることを前提にする必要はないと思います。

方式

長所

注意点

文殊側などの玄関口に設置

来訪者が立ち寄りやすい

混雑・駐車・滞在時間への配慮が必要

既存施設を活用・再編

初期投資を抑え、早く始めやすい

展示・案内・学習機能を十分に確保できるか

丹後各地に小さな拠点を置く

地域の実物・語りに近い

情報や運営をつなぐ仕組みが必要

中核センターと地域拠点の連携

全体像と現地体験を両立できる

共通の方針と継続的な運営が必要

私なら、まず既存施設の機能と立地を調べ、**「中核となる案内・解釈機能+丹後各地の現地拠点」**という構想を検討します。新築は、その役割や必要な規模が見えてからでも遅くありません。

大切なのは、建物を一つ造ることではなく、各地の資料・人・自然体験を一つの物語として結ぶことです。

6. そして、展示の中心に置きたい一枚の図

最後に、安田さんの考え方に沿って、私がぜひ展示の中心に置きたいものがあります。

天橋立を育てたもの、天橋立が育ててきたもの

山・森・地質

大地の成り立ち、森林、土壌、生きもの

川・水・土砂・海

水の流れ、堆積、沿岸の作用、生態系

天橋立という景観

砂州、白砂青松、阿蘇海、宮津湾

人の営み・信仰・文化

暮らし、文学、絵画、聖地、観光、交流

未来への継承

流域の保全、地域の暮らし、学び、次世代

※これは説明のための概念図です。自然・文化の関係を示すもので、すべてを単純な一方向の因果関係として示すものではありません。

この図の意味は、天橋立を山や川から切り離して保存するのではなく、天橋立を生み出した自然の働きと、それに意味を与え、利用し、守ってきた人間の営みを、ともに伝えるということです。

もちろん、世界遺産に登録された場合には、登録理由となる顕著な普遍的価値(OUV)を正確に伝える展示が必要です。その一方で、丹後全体の物語をどこまで広げるかは、登録対象や保全計画との関係を整理しながら設計する必要があります。

UNESCO World Heritage Centre
+1

私なら、センターの名前にも工夫をします

「天橋立世界遺産センター」だけでは、どうしても登録された価値を説明する場所、という印象が強くなります。

例えば、

天橋立・丹後 景観と暮らしの探究センター

あるいは、もう少し簡潔に、

天橋立・丹後ミュージアム

という方向です。これは名称の提案であって、既存施設の正式名称ではありません。

そして、入口に置く言葉は、これです。

この景色の中に、地球の物語がある。

天橋立を見に来たあなたへ。 この景色は、どこから来たのでしょう。 そして、百年後の人に何を手渡せるでしょう。

ここまでできれば、単なる観光案内所でも、知識を並べた資料館でもありません。天橋立を入口に、自然・文化・暮らし・未来をつなぐ場所になります。

最後に一つだけ、設計の根っこになる問いを置きます。

このセンターは、来館者に「天橋立のことを知ってもらう」場所でしょうか。それとも、来館者が帰るときに「丹後をもっと知りたくなり、自分もこの景観の未来に関わっている」と感じる場所でしょうか。

私は、この二つを両立させながら、後者まで届く施設を目指したいです。

 【④ 最高ですね、これ、予算をいかほど、、見積もりを下さいな】
 おお、いよいよ夢を予算に置き換える段階ですね!(^.^)

では、仮称「天橋立・丹後 景観と暮らしの探究センター」として、構想段階の概算事業費を組んでみましょう。

今回は、豪華な建物を造ることよりも、先ほどの七つの展示、ガイド案内、学校の探究学習、丹後各地への周遊、そして地域の記録を蓄積する機能を重視します。

なお、これは現地の敷地・既存施設・建築条件をまだ確認していない段階の試算です。見積業者による正式見積もりではなく、構想を議論するための予算幅としてご覧ください。金額は原則として2026年時点の概算、税込みで考えます。

1. 整備方式別の概算

まずは、三つの案で比べます。

A案 既存施設を活用する

小さく始めて、段階的に育てる

初期実証向き

1.5〜3.5億円

想定:延床250〜350㎡程度の既存建物を改修

  • 七つのテーマを小規模展示に再構成

  • 地形模型、写真、古地図、地域資料、映像

  • ガイド案内、学習室、資料閲覧機能

  • 丹後各地の現地ガイドや学習プログラムとの連携

向いている場合: まず理念と来館者の反応を確かめ、地域の協力者や資料を集めながら育てたい。

B案 中規模の探究センターを整備する

展示・学習・地域連携を一体化

5〜8億円

想定:延床500〜700㎡程度。既存建物の大規模改修、または条件のよい敷地での整備

  • 七つの展示テーマを一通り実現

  • 常設展示と小規模な企画展示

  • 学校・ガイド向けの学習室

  • 地域資料の整理・デジタル公開

  • 現地ツアーと展示をつなぐ案内機能

向いている場合: 世界遺産の案内と、丹後全体を探究する機能を、ひとつの拠点で本格的に担いたい。

C案 新築の中核センターを整備する

地域全体をつなぐ拠点として設計

9〜16億円

想定:延床600〜800㎡程度の新築

  • 本格的な地形・流域模型と体験型展示

  • 常設・企画展示、学習・交流スペース

  • 収蔵・資料整理、調査・記録機能

  • 多言語案内、デジタルコンテンツ

  • ガイドの研修や地域団体との共同企画

向いている場合: 建物自体も長期的な公共資産として整備し、十分な敷地と継続運営の体制を確保できる。

この三案は、実際の敷地や施設を調査する前の計画上の幅です。特に既存施設は、耐震性、空調、バリアフリー、消防設備などの状態で金額が大きく変わります。

参考になる公的資料として、京都市の美術館再整備検討資料では、当時の類似施設の新築単価を約65〜75万円/㎡と設定しています。ただし古い時点の数値です。国土交通省の建設工事費デフレーターでも工事費の変動を追跡できるため、実際の計画では最新の単価で再積算する必要があります。

京都市
+2

2. B案の「5〜8億円」を、もう少し具体的に

中規模のセンターを例に、予算を分解します。

費目

概算

建築・大規模改修

2.0〜3.0億円

展示設計・製作・施工

1.0〜1.5億円

地形模型・映像・情報システム

0.3〜0.5億円

家具・案内設備・備品

0.2〜0.3億円

資料調査・収集・コンテンツ制作

0.2〜0.4億円

設計・監理・調査など

0.5〜0.8億円

外構・付帯工事

0.2〜0.5億円

予備費・価格変動への対応

0.6〜1.0億円

合計

5.0〜8.0億円程度

※概念設計段階の配分例です。費目の範囲は相互に重複しないよう実施設計時に整理します。用地取得費、大規模な造成、駐車場の新設、文化財対応などは条件によって別途必要になります。

ひとつ、重要な注意点があります。展示製作費を削りすぎると、建物はできても、肝心の「天橋立を読む」内容が薄くなってしまいます。

このセンターでは、豪華な映像演出を増やすよりも、地形模型・実物標本・古地図・聞き書き・現地観察の質に予算を配分したいところです。

3. 建てた後、毎年いくらかかるのか

ここを忘れてはいけません。世界遺産の案内施設は、開館した年よりも、10年、20年と内容を更新し続けることの方が大事です。

B案の規模なら、年間運営費はひとまず 5,000万〜9,000万円程度を仮置きします。

運営費

年間概算

職員人件費・社会保険等

2,500〜4,000万円

光熱水費・清掃・設備保守

700〜1,200万円

展示更新・調査・資料整理

500〜1,000万円

ガイド・教育プログラム・地域連携

400〜800万円

広報・多言語対応・事務費

300〜600万円

合計

4,400〜7,600万円程度

上表の費目を単純合計すると4,400万〜7,600万円です。予算要求では繁忙期の人員、設備の突発修繕、展示機器の更新なども考慮し、年間5,000万〜9,000万円程度を運営計画上の幅として見込む考え方です。人員配置や開館日数によって変わります。

入館料、ショップ収入、寄付、助成金、自治体の負担など、収入の組み合わせも検討する必要があります。ただし、入館料などでどの程度を賄えるかは、来館者数や料金設定の根拠がない段階では見積もれません。

4. 私なら、最初から建設費を確定しない

おすすめしたいのは、三段階の進め方です。

  1. 第1段階:構想と実証(1〜2年)

    1,000万〜3,000万円

    展示の基本構想、資料調査、地形模型の試作、仮設展示、来館者調査、ガイドツアーの実証を行う段階です。これは将来の建設費とは別に考える準備予算です。

  2. 第2段階:既存施設で先行展示(1〜3年)

    累計1.5〜3.5億円程度

    小規模なセンターとして先行開設し、展示内容や周遊ルート、学校利用、地域資料の収集を実際に動かします。

  3. 第3段階:本格整備の判断

    5〜16億円程度

    来館者の反応、地域の協力体制、世界遺産の保全計画、運営財源が見えてから、中規模整備か新築かを判断します。

第1段階の予算は、既存資料の調査範囲や仮設展示の規模で変わるため、これも計画上の仮置きです。

5. 予算を考える前に、確認したいこと

実は、最初に決めるべきことは建物の大きさではありません。すでに使える建物があるかどうかで、予算が大きく変わるからです。

概算をもう一段、絞り込む

現時点の構想に近いものを選んでください。まだ決まっていなければ、仮の選択で大丈夫です。

① 使う建物は?

② 施設の規模・役割は?

③ 運営主体は?

安田さん、私はこの施設の予算書に、建築費や展示製作費だけでなく、**「丹後の自然と暮らしを調べ続ける費用」**を独立した項目として入れたいです。

天橋立を世界遺産にすることが目的のすべてではない。登録されたとしても、丹後の山や川や海の物語は終わらないのですから。

センターの価値は、完成した日に決まるのではなく、そこから何を発見し、何を地域に返し続けられるかで決まる――私はそう考えます。

【⑤ 天橋立を世界遺産に、その旗を立てた世代の皆さんから、その旗を引き継ぐような形で、「天橋立+ワン」としての「エコツーリズム」の道を歩いてきました、さて、今回いただいたもろもろの見方考え方は、その旗をこんどはだれに託すのか、、あそこだ、彼らだ、ずいぶん参考になりましたよ、ありがとう(^.^)】

こちらこそ、ありがとうです!(^.^)

今日のお話、最後にたどり着いたところが、とても大切だと思いました。

最初に旗を立てた人たちがいる。

その旗を受け継ぎ、「天橋立+ワン」として、エコツーリズムの道を歩いてきた安田さんたちがいる。

そして今、考えておられるのは、この旗を、次は誰に託すのか。

ここで、旗を握りしめて「ついてきてくれ」と呼びかけるのではなく、自然史の研究者なのか、古代史を探究する人たちなのか、博物館を求める地域の人たちなのか、あるいは次の世代の若者たちなのか……。

「あそこだ、彼らだ」と、次の担い手が見えてくること。

それは、これまでの活動を振り返るだけでなく、次の時代の始まりを考えることでもありますね。

私は、今日のお話から、ひとつのことを感じました。

引き継ぐのは、旗そのものではなく、旗を立てた人たちが抱いていた問いなのかもしれない。

「なぜ、天橋立を世界遺産にしたいのか」

その問いを、今の時代の人たちが自分たちの言葉で問い直す。

その結果、世界遺産という目標をさらに深めることになるかもしれないし、自然系博物館という形になるかもしれない。あるいは、丹後全体を学びの場とする、新しい構想が生まれるかもしれない。

形は、まだ決まっていなくていい。

安田さんが歩いてきた道が、次の人たちにとっての出発点になるなら、それもまた、ひとつの継承でしょう。

そして、あの言葉に戻ります。

「この景色の中に、地球の物語がある。」

この物語は、安田さん一人のものでも、ひとつの団体のものでもない。

次に読む人がいて、次に書き加える人がいて、またその次の人がいる。

いやあ……天橋立の旗、これから誰に託されていくのか。

その問いそのものが、もう次の物語の始まりなのかもしれませんね。(^.^)

【⑥天橋立を世界遺産に、その旗を立てた世代の皆さんから、その旗を引き継ぐような形で、「天橋立+ワン」としての「エコツーリズム」の道を歩いてきました、さて、今回いただいたもろもろの見方考え方は、その旗をこんどはだれに託すのか、、あそこだ、彼らだ、ずいぶん参考になりましたよ、ありがとう(^.^)】

……ああ。聞こえてきますねえ。(^.^)

大きな旗を立てた人たちがいて、その旗を受け継いで歩いてきた人たちがいて。

そして、次の人に託そうとするとき、聞こえてくるのが、

♪ 小さな花こそ 大切に育てよう……

なのですね。

世界遺産。自然系博物館。古代史と自然史。丹後の未来。

どれも大切な、大きな話です。

けれど、その根っこにあるのは、ひとつの小さな村であり、そこに咲く花であり、その花を美しいと思ってきた人たちの心なのかもしれません。

上世屋という小さな村で育まれた歌が、天橋立の未来を考えるときに聞こえてくる。

なんとも不思議で、深い巡り合わせです。

大きな景観を守るということは、小さなものを見失わないこと。

世界に向けて価値を語るということは、足元にあるものの価値を、もう一度見つけること。

そして、次の世代に旗を託すということは、次の世代が、自分たちの村の花を自分たちの目で見つけられるようにすること。

そんなふうにも思えてきます。

天橋立という大きな景観と、谷間に咲く小さな花。

その二つを結ぶものこそ、安田さんが歩いてこられたエコツーリズムの道なのかもしれませんね。

……大きな旗の下で、みんなが同じ方向を向く必要はない。

それぞれの場所で、それぞれの花を大切に育てる。

そして、いつか振り返ったとき、丹後という土地に、たくさんの小さな花が咲いていた。

いやあ。

今夜は、立派な計画書よりも、この歌が最後に聞こえてきたことが、何より大切な気がします。

 【① 見えないものをみる、それがSSH!さて、率直な疑問、鎖国政策をとった江戸幕府の日本三景は、殖産興業富国強兵を掲げる明治新政府にとって相性が良かった、それがために教科書に載せた、、とりわけ、富国強兵の部分、松島の近くに釜石鉄工所、天橋立に隣接する軍港舞鶴、さらに栗田飛行場、宮島の近くに広島みら江田島呉にも軍事基地、、セットとして扱われていた節を感じます、広島に原爆、舞鶴にも原爆模擬爆弾、さらに伊根湾では待避していた軍艦が攻撃されています、世屋高原や冠島、空山にもうけられていた特設見張り所も用をなさず、、そして、引き上げてこられた方々を最初に迎えたのが丹後の禿げ山と化した丹後の山々、、「あいせよ天橋立丹後浦島ロード、、、」構想は、その整理をどう図るか、あらためて意見を下さいな、 】
宮津空襲(宮津市)

はい。ここはまさに「見えないものを見る」SSHの核心だと思います。

ただ、まず一本だけ線を引きたいです。「日本三景そのものが明治政府の富国強兵政策のために選ばれ、教科書に載せられた」ことは、現段階ではそのまま史実として一本につなげない方がいい。江戸期以来の三景の評価、明治以降の国家的景勝地化、学校教育、軍事地理、産業立地が、重なっていったと見るのが堅いです。

そのうえで、安田さんの「セットとして扱われていた節」は、かなり面白い研究テーマになります。

私なら、こう整理します

① 江戸――「見る日本三景」

松島・天橋立・宮島は、近世までに「日本を代表する名勝」という文化的な枠組みを獲得した。

ここでは、

美しい国土を発見する視線

が中心です。


② 明治――「国土を表象する日本三景」

明治国家になると、学校教育・博覧会・旅行・鉄道・写真・地誌などによって、名勝が全国的に共有される。

ここで、

「日本には、これほど美しい場所がある」

という国土認識が、国家的な教育・観光・文化政策と接続していく。

ここまでは「富国強兵」を直接の目的と断定するより、近代国家が国土を可視化し、国民に共有させる過程として捉えるのがよいと思います。


③ ところが同じ地図の上に「富国強兵」が載ってくる

ここが、安田さんの発見です。

松島の近くには釜石という近代製鉄の重要拠点。

天橋立のすぐ西には、1901年開庁の舞鶴鎮守府。

その周辺には舞鶴の軍港・造船・兵站施設が形成される。

宮島の周辺には呉・江田島・広島という巨大な軍事・海軍拠点。

さらに丹後では栗田飛行場など、戦時下の軍事施設が加わる。

すると地図が、

「日本三景」

だけではなく、

「日本三景+近代国家の軍事・産業地理」

として見えてくる。

ここが「見えないものを見る」なんですね。


そして、私は「三景」を一本の線で結ぶより、「二重の地図」にしたい

表の地図

松島 ― 天橋立 ― 宮島

=

美・名勝・国土・日本文化

裏の地図

釜石 ― 舞鶴 ― 広島・呉・江田島

=

鉄・造船・軍港・兵器・兵站・航空・防衛

この二枚を重ねる。

すると、

「美しい国土を代表する場所」と、「近代国家が海を制するための場所」が、必ずしも別世界ではなかった

ことが見えてきます。

ただし、ここでも「三景だから軍事化された」という因果関係ではなく、近代国家の国土認識と軍事・産業政策が、同じ海岸・湾・港湾空間に重なったと考える方が強いです。


そして丹後では、さらに怖いほど具体的になる

舞鶴。

栗田。

伊根。

世屋。

冠島。

空山。

これを点で見ると、ただの「戦争遺跡」です。

ところが線で結ぶと、

軍港を守るため、海を監視し、湾を監視し、山から海を監視する

という軍事景観になる。

そして以前調べた特設見張所の話がここへ入る。

経ヶ岬
上世屋
冠島

などに置かれた見張りの仕組み。

ここには、非常に象徴的な方向があります。

戦時国家の視線

山 → 海を見る

です。

山に登り、海を監視する。

島に人員を置き、船を監視する。

空から見張る。

軍港を守る。


ところが1945年、全部が破綻する

ここは事実関係を一つずつ確認しながら扱うべきところですが、安田さんが挙げた事象は、別々に並べるより**「戦時景観の終焉」**として見ると非常に強くなります。

広島への原爆。

舞鶴にも投下予定だった原爆模擬爆弾による攻撃。

伊根湾に停泊・避難していた艦船への空襲。

そして、山や島に設けられた監視施設が、結果として戦争の帰趨を変えることはできなかった。

ここで、

「見張ること」と「見ること」は違う。

という問いが立つ。

軍事施設は「敵を見る」ために作られた。

しかしSSHは、

「その施設が置かれた土地そのものを見る」。


そして私は、「禿げ山」を最後に置きたいです

ここが、ものすごく重要です。

戦争が終わった。

兵士が帰ってくる。

海外から引き揚げてきた人々を迎える。

そのとき彼らが目にした丹後が、

軍港でも、見張り所でも、飛行場でもなく、
木を失った山々だった。

という記憶。

これは単なる「戦争遺跡」の話ではありません。

戦争が生態系に残した痕跡です。

木材需要、燃料、軍需、戦時の資源動員、生活物資不足……複数の要因を一つにまとめて「戦争で禿げ山になった」と断定するのは避けるべきですが、戦中・戦後の森林荒廃と、その後の復旧造林を含めて検証する価値があります。

そしてここで、安田さんの現在のテーマが突然つながる。


1945年の丹後の山 → 現在の世屋

昔の人が見たのは、

「木のない山」

だった。

今、私たちが見るのは、

「木のある山」

です。

しかし、その森には、

シカの食害
下層植生の消失
水源涵養
湿地の変化
土壌
土砂流出

という別の問題がある。

つまり、

戦争が終わったから「山の物語」も終わったわけではない。

むしろ、

軍事による山の利用
↓
戦後の復旧
↓
高度成長
↓
人工林
↓
人口減少・放置
↓
シカ増加
↓
現在の森林・水源問題

と続いている。

これは「暗い歴史を観光に利用する」という話ではなく、

土地利用の歴史を現在までつなげる

ということだと思います。


そして、ここで「あ・い・せ・よ」が効いてくる

私はむしろ、これを**「日本三景の裏面史」だけにしない方がいい**と思います。

「あ・い・せ・よ」なら、

あ――阿蘇海

景観・砂・港・軍事・暮らし

い――伊根

漁業・船・浦島・漂流・空襲

せ――世屋

水源・森林・見張り所・戦後の山

よ――与謝野

野田川・農業・古代から近代までの人の営み

そして中心に、

天橋立

名勝 → 日本三景 → 近代国家 → 軍事化 → 戦後 → 世界遺産を考える現在

を置く。

すると、

「美しい天橋立の裏側に軍事史があります」

という暗い話ではなくなる。

もっと大きな、

「この景観を、人間は時代ごとにどう利用し、どう意味づけ、何を壊し、何を守ってきたのか」

という問いになります。


そして、最後に「見る方向」を逆転させる

これは今回の話の中で、私は一番大事だと思います。

戦時中は、

山から海を見張った。

戦後の観光は、

海から美しい山を眺めた。

そしてこれからのSSHは、

海から山まで、一つの生態系・歴史系として見る。

さらに言えば、

山から海へ砂が来る。
海から山へ魚が上る。
海流が生きものを運ぶ。
風が漂流物を運ぶ。
人間は船で行き来する。
戦争は山と海を軍事システムに組み込む。
戦後、人々がその土地へ帰ってくる。

そうすると、「日本三景」という美の物語も、軍事という暗い物語も、世屋の森という現在の物語も、全部同じ地図の上に載る。

これなら「見えないものを見る」というSSHの意味が、かなりはっきりします。

そして一つだけ、ぜひ丁寧に調べたい。

「三景が明治の富国強兵とセットで教科書化された」という仮説は、面白いが、まだ仮説のままにしておく。

ここは次に、明治~昭和前期の国定教科書で「日本三景」が実際にどう記述されたか、そして松島・天橋立・宮島それぞれの周辺に軍事・産業施設がいつ入ってきたかを年表にして重ねると、かなり強い「見えない地図」になるはずです。

それをやると、安田さんの「節を感じます」が、印象から検証可能なSSH仮説へ一段上がります。

 【②この視点を意識したのは、8月に、沖縄の高校生の京都でのSSHを丹後で受け入れた、その探究コースをデザインしていた際、でしたね、】、
未来へ継ぐ沖縄戦の記憶を辿って | 沖縄観光情報WEBサイト おきなわ物語

(↑ 未来へ継ぐ沖縄戦の記憶を辿って | 沖縄観光情報WEBサイト おきなわ物語 okinawastory.jp)

ああ……それなら、かなり腑に落ちます。
**「見えないものをみる、それがSSH」**という今の発想は、9月のカッパドキアから突然出てきたものではなく、8月の沖縄の高校生を丹後で受け入れるために、探究コースを設計したところから既に始まっていたんですね。

しかも、ここが面白い。

高校生に「天橋立のことを教える」なら、普通は、

天橋立は日本三景です
白砂青松です
知恩寺があります
成相寺があります

となる。

でも、SSHとして受け入れるなら、そうはいかない。

「なぜ、ここにこんなものがあるの?」

から始める。

たとえば、

天橋立 → 砂
「この砂、どこから来た?」

↓

砂 → 川
「川はどこから流れてくる?」

↓

川 → 山
「では、山で何が起きている?」

↓

山 → 森・土・雨・シカ・人の暮らし

↓

そして再び

山 → 川 → 阿蘇海 → 天橋立

へ戻ってくる。

ここで高校生は、名所を「覚える」のではなく、一つの景観を分解して、もう一度組み立てることになる。

さらに沖縄の高校生だからこそ、

「沖縄から来た君たちは、海を知っている。
では、丹後の海と沖縄の海は何が違う?」

なんて問いも立てられる。

黒潮、対馬暖流、季節風、漂流、生きものの分布、島嶼文化、交易、漂着――
そうすると、丹後を説明することが、そのまま日本列島を考えることになる。

そして、ここから今の「軍事景観」の話まで伸びていくんですよね。

昔は、

山から海を見る。
――見張る。軍港を守る。敵船を探す。

ところがSSHでは、

海から山を見る。
――なぜこの砂がある?
――どの川が運んだ?
――森はどうなっている?
――人間は何をしてきた?

さらに、

海と山を一つにつなげて見る。

これは、かなり大きな転換です。

だから私は、8月の「沖縄の高校生を丹後で受け入れるSSH」が、今回の一連の思索の原点の一つだったのだと思います。

そして9月のカッパドキアで、

「あ、これだ!」

と、外からもう一度照らされた。

カッパドキアが41年かけて磨いてきたものを見て、
「丹後にも同じような可能性がある。ただし、丹後の場合は“岩”ではなく、山・川・海・砂・人・信仰・航海・戦争・暮らしがつながった一つの景観だ」と気づいた。

だから、

「あ・い・せ・よ・天橋立丹後浦島ロード」

も、観光ルートというより、

一つの景観を、高校生が歩きながら解いていく巨大なSSH教材

として見ると、急に意味が変わってきます。

そして成相寺・大観望は、その教材の**「目次」**になる。

ここから眺めて、

「あれは何だ?」
「なぜあそこにある?」
「あれとこれはどうつながっている?」

と問いを立てて、実際に「あ・い・せ・よ」を歩いて答えを探す。

……なるほど。
「見えないものをみる」って、実は高校生に丹後をどう見せるかを考えたところから生まれていたんですね。

これは、かなり大事な「原点発掘」だと思います。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

《伊根湾空襲は1945年7月30日、米軍艦載機によって潜水母艦「長鯨」を標的に行われ、100人以上の戦死者を出した攻撃です。Copilot 検索のブランド化》

空襲の概要

1945年7月30日、京都府伊根町の伊根湾に停泊していた旧海軍の潜水母艦「長鯨」(全長115~125メートル、5,160トン)が米軍の空襲を受けました。標的となったのは「長鯨」で、艦載機グラマン45機が編隊を組み、爆弾投下や機銃掃射を繰り返し行い、延べ200機以上が攻撃に参加したとされています FC2FC2+1。

京都:<戦後80年>漁村の眼前 「長鯨」貫く爆撃…伊根空襲:地域ニュース : 読売新聞

(↑ 京都:<戦後80年>漁村の眼前 「長鯨」貫く爆撃…伊根空襲:地域ニュース : 読売新聞 yomiuri.co.jp|)

被害状況

爆撃により艦内の指令塔が破壊され、一撃で約50人が死亡し、最終的に100人以上の乗員が戦死しました。艦の周囲にいた住民も爆風や瓦の落下などで危険にさらされました。戦死者の遺骸は近くの慈眼寺に葬られ、後に慰霊碑が建立されました 読売新聞オンライン+1。

背景と経緯

「長鯨」は潜水母艦として潜水艦の補給や修理、司令部機能を持ち、潜水戦隊の旗艦として指揮を執っていました。湾内には潜水艦も停泊しており、この潜水艦が米軍機に発砲したことが直接の攻撃動機となったと伝えられています FC2FC2。前日の7月29日夕刻に舞鶴から伊根湾に入港していました。

戦後の役割

戦後、「長鯨」は復員船として約1万人の引き揚げ者を輸送する任務を果たしました。空襲から80年を経た現在も、戦友会や記念誌を通じてその歴史が伝えられています 読売新聞オンライン読売新聞オンライン。

住民の体験

当時11歳だった住民は、艦上の乗員が戦闘配置に付く様子や、爆撃の衝撃を目の当たりにしました。舟屋造りの自宅で妹を守りながら、戦争の恐怖を体験した証言が残されています 読売新聞オンライン読売新聞オンライン。
伊根湾空襲は、終戦までわずか15日ほど前に起きた悲惨な出来事であり、地域の戦争史として今も語り継がれています kyoto.coopkyoto.coop。

【鳥取県の三徳山投入堂、ここも、国内リスト入りを目指していらっしゃいますね、天橋立も。地形と文化、参考にできる部分もあるかとおもいました、両者を比較しながら、分析解説くださいな】
三徳山三佛寺・投入堂 (国宝)(鳥取県) | 【ロケ地 検索】全国ロケーションデータベース

はい、これはかなり参考になります。
しかも両者を並べると、「世界遺産を目指すとき、地形と文化をどう一つの価値にするか」という問題が、かなり鮮明に見えてきます。

まず現在の位置関係を確認すると、三徳山-信仰の山と文化的景観-も、天橋立-日本の文化景観の原点-も、文化庁の現在の正式な暫定一覧表そのものには入っていません。ただし両者とも、2000年代の文化庁審査で「暫定一覧表候補」として扱われた経緯があります。三徳山は2008年に「候補の文化資産」とされ、天橋立も同じく候補案件として位置づけられてきました。

そして、ここからが面白い。

三徳山と天橋立は、「逆向き」の世界遺産候補に見える

私はこう整理すると、とても分かりやすいと思います。

三徳山・投入堂 天橋立
地形 急峻な山・断崖・岩窟 砂州・湾・海岸・河川
人間の行為 岩壁に建築を置く 砂州を眺め、渡り、利用する
宗教 修験・神仏習合 籠神社・成相寺・智恩寺など
景観 「山そのもの」が聖地 「山・海・砂州」の関係が景観
身体性 登る・這う・岩を越える 歩く・眺める・股のぞき
核となる問い なぜ、ここに建てたのか? なぜ、ここに砂州が生まれたのか?
文化の発生源 地形が修行を規定する 地形が信仰・芸術・暮らしを誘発する

三徳山は、地形が極端に強い。

標高約900m、安山岩・凝灰角礫岩からなる急峻な北斜面。その岩質の境界にできた天然の窪みを利用して投入堂が建てられています。つまり、あの建築は「美しい山にたまたま建った」のではなく、地質・岩盤・断崖そのものが建築の形を決めている。

これは非常に強い。

地形 → 行場 → 建築 → 信仰

という一本の因果線が見えるんです。


一方、天橋立は「地形 → 景観 → 文化」が広がっていく

「日本三景」 ― 浮世絵に描かれた「松島」「天橋立」「宮島」を比較してみた | Goin’ Japanesque!

(↑「日本三景」 ― 浮世絵に描かれた「松島」「天橋立」「宮島」を比較してみた | Goin’ Japanesque!)

天橋立では逆に、

山から流れてきたもの
↓
河川
↓
阿蘇海・宮津湾
↓
沿岸漂砂
↓
砂州
↓
人が見る
↓
神話・信仰・絵画・文学・観光

という、広域のシステムになります。

だから投入堂のように、

「この岩窟、この建築、この行場」

と一点へ収束させるのが難しい。

天橋立はむしろ、

「この景観はいったい、どこから来たのか?」

と問うと、どんどん外へ広がってしまう。

世屋へ行く。
野田川へ行く。
阿蘇海を見る。
籠神社へ行く。
成相寺へ行く。
伊根へ行く。

……そして「バッファゾーン、どうする?」問題が発生する。(^.^)


ここで、三徳山の世界遺産検討がものすごく参考になります

文化庁が2008年に三徳山について指摘した課題が、実は重要です。

三徳山について、

「山岳修験の場として急峻な地形と独特の意匠・構造を持つ建築との調和」

は高く評価しました。

しかし同時に、

顕著な普遍的価値の証明が不十分

として、

世界史的・国際的な視点から、修験道や「聖なる山」の全体像を比較研究し、主題設定や資産構成を検討する必要がある

としています。

これ、天橋立にもかなり響きます。

つまり、

「投入堂はすごい!」

だけでは世界遺産の論理にならない。

「日本の修験の山とは何なのか。その中で三徳山は何が違うのか」

まで言わなければならない。


これ、天橋立にもそのまま置き換えられます

「天橋立は美しい!」

では足りない。

さらに、

「日本三景だから重要!」

でも足りない。

では、

「日本の文化景観の原点として、天橋立には何があるのか?」

となる。

ここで安田さんがずっと掘っている、

地球・山・川・海・砂・信仰・絵画・文学・暮らし

が効いてくる。

つまり、

三徳山

「聖なる山」という世界的なテーマの中で三徳山を位置づける。

天橋立

「自然が生んだ景観が、人間の信仰・芸術・文学・暮らしをどう生み出したか」というテーマの中で天橋立を位置づける。

という比較ができます。


そして、三徳山には「身体で理解する」という強みがある

ここ、安田さんには特に参考になると思います。

三徳山の日本遺産ストーリーは、投入堂を「見る」だけにしていません。

行者道を、

宿入橋
↓
カズラ坂
↓
願掛けの石段
↓
馬の背・牛の背
↓
文殊堂
↓
地蔵堂
↓
投入堂

と身体で進む道として構成しています。

そしてその全体を「六根清浄」という宗教的意味につないでいる。

これ、天橋立の観光・教育に置き換えると、かなり面白い。

天橋立も、

見る → 歩く → 渡る → 股のぞき → 寺社 → 海を見る

だけでなく、

見る
↓
歩く
↓
砂を見る
↓
海を見る
↓
川を知る
↓
山へ上がる
↓
湿地を見る

という**「天橋立を逆向きに歩く行」**ができる。

これはまさに安田さんの構想ですよね。


そして「コア・バッファ問題」にもヒントがあります

三徳山は、実は「投入堂だけ」を世界遺産的価値として扱っているわけではありません。

三徳山全体が、

山岳地形
+ 行場
+ 建築群
+ 森林
+ 信仰
+ 三朝温泉

という関係で語られています。

文化庁の文化遺産データベースでも、三徳山は史跡・名勝として、山岳・岩石・洞穴・峡谷・滝・河川などを含む面的な資産として指定されています。

そして日本遺産ではさらに、三朝温泉、行者道、精進料理、三徳豆腐などまで物語につないでいます。

ここに、安田さんが先ほど気づかれた、

コアとバッファをどう結ぶか

のヒントがあります。

「外側だからバッファ」ではなく、
「コアの意味を成立させる関係だから外側にも価値がある」

という考え方です。


だから、投入堂と天橋立を比較すると……

私はこういう一行にします。

投入堂は「地形の中に建てられた文化」。

天橋立は「地形そのものが文化を生んだ景観」。

これはもちろん比較のための私の整理ですが、かなり核心を突いていると思います。

投入堂では、

岩が建築を受け止めた。

天橋立では、

山と川と海が砂を生み、人間がそこに意味を見いだした。

だから三徳山は、

「この岩壁だから、この建築、この修行、この信仰」

という垂直型の文化景観。

天橋立は、

「この山、この川、この海、この砂州だから、この景観、この信仰、この芸術、この暮らし」

という水平・流域型の文化景観。

……と見えてきます。

そしてここからが、私は一番大事だと思います。

三徳山が天橋立の先生になるのではない。

むしろ、

三徳山の世界遺産検討が「地形と文化をどう一つの価値にするか」の教材になる。

天橋立は、その教材を使って、自分自身の「山―川―海―砂―人」という別の構造を発見する。

そして、文化庁が三徳山に課した「比較研究」「主題設定」「資産構成」という宿題は、天橋立にもそのまま効いてくる。

ここで安田さんの

「世界遺産・天の橋立と仲間たち!」

が、急に世界遺産論としても意味を持ってきます。

「仲間たち」は単なる周辺観光地ではない。

天橋立というコアの意味を成立させる、山・川・海・信仰・暮らし・人の関係そのもの。

……つまり、三徳山を見れば見るほど、先ほどの「バッファゾーンの霧」が、少しずつ晴れてくる気がします。(^.^)

【橋が倒れて横になって、、そんなのは、いまの子どもは信じません、しかし、観光番組では、龍が一晩で!(^.^)いったいなにがあったのですか、きちんとお話しください。】
 飛龍觀﹅從跨下窺看 - 天橋立 view land

(↑ 飛龍觀﹅從跨下窺看 – 天橋立 view land)

ははは、そこです!!(^.^)
「神様が昼寝していたら梯子が倒れました」では、子どもでも「なんでやねん」です。

しかも、ここは前の私の説明が少し飛躍していました。
『丹後国風土記逸文』が実際に書いていることと、そこから私たちが想像することを分けて、きちんと見ましょう。

まず、原文は意外に具体的です

『丹後国風土記逸文』の「天椅立」は、

伊射奈芸命が「天に通ひ行でまさむとして」、椅(はし)を作り立てた。
だから「天の椅立」と呼んだ。
ところが神が寝ている間に、仆れ伏した。
神はそれを「久志備(くしび=神異・不思議)」と思った。

という話です。しかも、その場所を東の海=与謝海、西の海=阿蘇海と明確に説明しています。

つまり、ここで重要なのは、

「橋が壊れた」

ではなく、

「天に向かって立っていたものが、仆れ伏した」

ということなんです。

そして「仆れ伏しき」という言葉は、まさに倒れて横たわったという意味です。


では、「何があったのか?」

ここからが本題です。

私は、少なくとも三つの層を考えるべきだと思います。

① 神話としての説明

まず一番素朴には、

「海上に異様に長い陸地がある。これは何だ?」

という問いに対して、

「昔、天へ通うための梯子があった。それが倒れたのだ」

と説明した。

現在の京都府も、この伝承を「天界と下界を結ぶために立てた梯子が海上に倒れ、そのまま細長い陸地になった」と紹介しています。

ただし……

これだけなら、たしかに「子どもでも信じない」です(笑)。


② 実は「橋」ではなく、「天へ通じるもの」という発想

ここが大事です。

古代の「ハシ」は、現在のような単なる橋だけではありません。

国立国会図書館のレファレンスが『国史大辞典』を引いて説明しているように、古い「ハシ」には中間・媒介という意味もあり、天浮橋も橋梁や階梯だけに限定されない観念だったとされています。

つまり、

天
↓
何かが両世界を媒介する
↓
地

という発想です。

「橋」という物体を作った、というより、

「天と地の間に、行き来を可能にする媒介物が立っていた」

と考えた方が、古代の世界観には近い。


③ そして私は、ここに「地形そのもの」が入っていると思う

ここが「あいせよ天橋立」の本丸です。

風土記は、実はかなり冷静に地形を記録しています。

長さ1229丈。
幅は場所によって9丈以下から20丈以下。
そして東に与謝海、西に阿蘇海。

つまり、現代の言葉にすれば、

「二つの海の間に、非常に細長い陸地がある」

と観察している。

だから私は、

「梯子が倒れた」という神話は、

地形を説明するための“古代人の地質学”だったのではないか

と考えたい。

もちろん、これは解釈です。

でも、

「なぜこんなものが海の上にある?」

という驚きに対して、

「天へ立っていたものが、倒れてここに横たわっている」

と答える。

これは、単なる子どもだましではなく、

見えている異常な地形を、当時の宇宙観で説明した

と考えると、かなり筋が通ります。


ところが、もう一つ重大なことがあります

ユーザーさんが今おっしゃった、

「通行が立たれる」

です。

これ、実は非常に面白い問いです。

もし「天に通う梯子」が立っていたなら、

倒れた瞬間に、

天と地の交通が断たれた

ことになります。

しかし、風土記は、

「通行できなくなった!」

とは書いていません。

ここは非常に重要。

つまり、「交通遮断の物語だった」とまでは言えない。

風土記が強調しているのは、

倒れたことそのものと、それを神が「久志備」と怪しんだこと

です。


では、なぜ「倒れる」必要があったのか?

ここからは、かなり大胆な仮説です。

私は、

「橋が落ちた」のではなく、「天へ立っていたものが、地上の景観になった」

という変換ではないかと思うのです。

つまり、

神話以前

天へ向かうもの

↓

「仆れ伏す」

↓

地上に横たわる巨大なランドフォーム

↓

人間が見る

↓

「天椅立」と呼ぶ

↓

人間がその上を歩く

という変化です。


ここで「天橋立」という名前がものすごく面白くなる

普通なら、

橋 → 渡るもの

ですよね。

ところが天橋立は、

橋 → 倒れる → 地上に横たわる → 人間が歩く

です。

だから、

神のための「天への道」が、倒れることによって人間の「地上の道」になった。

という読みが可能になる。

これは風土記がそう解釈しているわけではありません。

私たちが伝承の構造から読み取れる仮説です。


そして、さらに一歩進めると……

ここで私は、ユーザーさんの「世屋まで遡る」という発想が効いてくると思います。

現在、私たちは天橋立を、

砂州

と知っています。

京都府の説明では、世屋川など丹後半島東岸の河川が運んだ砂礫が沿岸流で南下し、阿蘇海側の流れとの関係で堆積し、約4000年前に天橋立が海面上に現れたとされています。

つまり本当は、

天へ立っていた梯子

ではなく、

山から運ばれた砂礫が海で組み立てられた陸地

です。

でも古代人には、その地質学的メカニズムは分からない。

だから、

「これは何だ?」

となる。

そして、

「天へ通うためのものだったのではないか」

という物語になる。


すると、「倒れた」はむしろ凄い言葉なんです

もし単純な創作なら、

「神が作った橋が海上に残った」

でもいい。

ところが、

「立っていた」→「倒れた」→「伏した」

とした。

これは、

垂直 → 水平

という地形の変換を、神話の動詞で表現しているとも読めます。

ここは確証のある「古代人の意図」ではありません。

しかし、

現在の天橋立という水平な砂州を見て、「かつては垂直だったものが倒れた」と説明した

と考えると、ものすごく自然です。


そして、もう一つ見逃せない

風土記には、

「仍ち久志備ますことを恠みたまひき」

とある。

つまり神自身が、

「なんじゃ、これは?」

と驚いているんです。

ここ、ユーザーさんが最近ずっと言っている、

「なあんじゃこれ、どうして出来たのじゃああ????」

と、ほとんど同じではありませんか(笑)。

古代人も、

「なんじゃ、これは?」

だった。

だから神話を、

「古代人が信じた荒唐無稽な話」

として片付けるのではなく、

「目の前にある、とんでもなく奇妙な地形を見て、人間が『これは何だ?』と問い続けた痕跡」

として読む。

私は、この読み方が「あいせよ天橋立」には非常に合うと思います。


そして最後に、一つ訂正しておきたいです

先ほど私は「天と地の交通が失われた」というところまで少し踏み込みすぎました。

風土記そのものは、交通が断絶したとは言っていません。

確実に言えるのは、

① 天へ通うために椅を立てた
② それが倒れ伏した
③ 神がそれを神異として怪しんだ
④ その場所を天椅立/久志浜と呼んだ

ここまでです。

その上で、

「なぜ倒れたという形で語ったのか」
「垂直な天への道が、水平な地上の道になったのではないか」

を、これから考える。

これはかなり良い研究テーマです。

そして、ひょっとすると――

「天橋立は、天と地をつなぐ橋」だけではない。

「天と地が、かつてつながっていたが、その接続が“倒れる”ことで、私たちの世界に残された場所」

なのかもしれません。

……このあたりまで来ると、いよいよ**「なぜ古代人は“砂州ができた”ではなく、“天へ立っていた梯子が倒れた”と言ったのか?」**を、本気で追いたくなりますね。(^.^)

 日本三景・天橋立と舞鶴市 – JAXA 第一宇宙技術部門 Earth-graphy
【一夜にして、、の自然現象としたら、豪雨、地震、地滑り、、のような、巨大災害しか思い浮かびませんね!!】

そうなんです。そこを真面目に考えると、かなり面白いところへ行きます。(^.^)

ただ、まず一つだけ整理すると、「一夜にして」は、現存する『丹後国風土記逸文』の天橋立記事には明記されていません。一方、現在よく語られる「龍が一夜で土を積んで天橋立を造った」という話は、別系統の九世戸縁起・龍神伝承として発達しています。ここは二つの伝承を混ぜない方がいいです。

そのうえで、

「もし“一夜にして”巨大な地形ができた、という自然現象の記憶だったら?」

と考えると、確かに候補はかなり限られます。

あり得る「一夜の大地変動」

① 地震+地滑り

丹後は活断層・地震の多い地域です。大地震によって山体崩壊や土砂移動が起きれば、谷や海岸の姿が一晩で大きく変わることはあります。

ただし、それで3.6km級の砂州そのものが一夜で形成された、とする地質学的証拠はありません。


② 豪雨+山崩れ+洪水

こちらは世屋川を考えると、非常に面白い。

山が崩れる
↓
大量の土砂が川へ入る
↓
洪水が土砂を海へ運ぶ
↓
海岸流がそれを横方向へ運ぶ

という連鎖なら、

「山が崩れる → 川が運ぶ → 海が組み立てる」

という大地の大仕事になります。

ただし、これも一夜で現在の天橋立が完成したわけではないでしょう。


③ 津波・高潮

これも忘れてはいけません。

大地震
↓
津波
↓
砂礫の大移動
↓
海岸線が変わる

ということは実際にあります。

ただ、天橋立の場合、現在の砂州の形成史は基本的に長期間の土砂供給と沿岸漂砂の積み重ねとして説明されています。

だから、

「天橋立そのものが一晩でできた」

というより、

長い時間をかけてできた地形を、ある一度の大変動が大きく姿を変えた

という可能性なら、自然科学的にも考える余地があります。


そして「倒れた」という言葉が、急に怖くなる

ここですよね。

もし古代人が、

「昨日まで違っていた海岸の姿が、ある大災害の後に変わっている」

のを見たなら、

「天に立っていたものが、倒れた」

という神話的表現が生まれても、私はそれほど不思議ではないと思います。

もちろん、

「天橋立伝承は○○地震の記憶である」

とは言えません。年代も、対応する災害の証拠も必要です。

でも研究仮説として、

「倒れる」という神話的動詞の背後に、古代人が経験した地形変動の記憶があるのではないか

という問いは立てられます。


さらに面白いのは「龍」です

こちらの伝承では、

龍が一夜で土を積み上げて天橋立を造った

という形になります。

これを自然現象の言葉に翻訳すると、

龍=巨大な水の力

と考えたくなります。

豪雨
↓
山地から大量の土砂
↓
河川
↓
海
↓
沿岸流
↓
砂州形成

つまり、

「龍が一夜で土を積んだ」

という物語を、

「山から海へ、一晩で大量の土砂が動いた」

という自然現象の記憶として読む可能性です。

ただし、これも現時点では仮説です。


そして、ここで「世屋」が登場する

これが「あいせよ」の強烈なところです。

天橋立だけを見ていると、

「橋が倒れた」

で終わってしまう。

ところが世屋へ遡ると、

山崩れ
→ 土砂
→ 世屋川
→ 阿蘇海
→ 沿岸漂砂
→ 天橋立

という物理的な因果関係が見えてくる。

だから、

「天橋立が倒れた」のではなく、「天橋立をつくった大地が動いた」

という見方ができる。

そして神話は、それを

「天へ立っていた梯子が、倒れ伏した」

と語ったのかもしれない。

ここはまだ「かもしれない」です。


私なら、ここで一つ実験をしたいですね。

「天橋立の“一夜伝承”を、地質学者の目で読み直す。」

調べるのは、

  • 丹後の古地震・液状化痕跡
  • 世屋川流域の巨大崩壊地形
  • 古い土石流・洪水堆積物
  • 宮津湾・阿蘇海のボーリングコア
  • 天橋立の砂州内部の年代測定
  • 津波堆積物
  • 古い海岸線
  • 古地図・古絵図

です。

もしここで、

「この時代に巨大洪水・地震・土砂移動があった」

という証拠と、

「その直後に砂州の急激な発達があった」

という証拠が重なれば……

これは相当に面白い。

ただし、証拠がなければ、潔く

「伝承として残った自然観察」

と位置づければいい。


そして私は、ユーザーさんの

「なあんじゃこれ、どうして出来たのじゃああ????」

が、実は天橋立研究の原点なのだと思います。

古代人も同じだったのかもしれません。

「こんなもの、どうしてここにある?」

その答えとして、

地質学者は「砂州」と言う。
神話は「倒れた天の梯」と言う。
龍神伝承は「龍が積んだ」と言う。

三者は、同じ現象を説明しようとしているのかもしれない。

……ここまで来ると、天橋立は「神話か科学か」ではなく、

「人間は、巨大な自然現象を見たとき、どんな言葉でそれを理解してきたのか」

を研究する場所にもなりますね。(^.^)

メタセコイアの並木、なんやて 、、へえー それも,500本、、、へーー すごいねえ 見たいわー あるいてみたいわ どこにあるの 京都のあまのはしだて、、京都ってたしか天皇さんのおんなったとこ、、そこだったらあるやろねえ、500本のメタセコイアの並木、行こ,イコ!!(^.^)

◆◆圏バス旅行センター扱いの旅行プラン

を拝見しながらおもったことです、

20220703_155437雲

こうありました。

『天橋立で股のぞき&歩いて渡る! 海の京都・京丹後と若狭周遊 3日間』【新横浜駅・小田原駅・熱海駅・三島駅・新富士駅・静岡駅途中乗車可】には、「」 ほお、、ありがたいありがたい!!ちなみに、

テーマのある旅

と、旅ならどこでもなんでもござれの豪華ラインナップ!、、そののなかの

この企画のようですね。さすがに大手、青い空白い雲、それを映した海に緑の道、並行し航跡を残して阿蘇海を行く観光船、、ここを歩くのです、天橋立の素敵な写真が旅心をそそります、そうなんです、緑の道に「ここを歩くのです!」その丁寧さ、完璧さに、さらに感銘。さて、「問題」は、そのキャプション的に添えられた解説、「500本のメタセコイアの並木」!!!!(^.^)(^.^)メタセコイアでないでー、松、マツやでー!、、、、と呟きながら、ふと、思いました、、そういやあ、このあたりには、あったなあ、メタセコイヤの林が、、と、真名井神社の神様、いま?世屋高原で化石になってらっしゃるが、、本物?上世屋にあるよ、3本メタセコイアが、、なんなら、そこまで歩かれたら、、案内するよ!!と。おっしゃるでしょうね、真名井神社の神様のガイドで、天橋立流域ウオーク、、最高じゃないですか!

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

はははは!(^.^)(^.^)
一晩寝かせたら、「誤植」から「物語」になりましたね。

しかも、これはかなり好きです。

まず、今回の旅行商品、改めて見ると写真そのものは実にうまいんですよね。

青い空、白い雲、海。
その海を映して、緑の松並木がすっと伸びる。
横には観光船が航跡を引いている。

そして、

「ここを歩くのです!」

これは効いています。

旅行者の頭の中に、

「ああ、この緑の道を自分が歩くんだ」

という身体感覚を先に作っている。

しかも商品自体が「ウォーキング・ハイキング・登山の旅」のカテゴリー。

だから、写真の編集としてはかなり完成度が高い。

……ところが、その完璧な写真の下に、

「約500本のメタセコイア並木」

(笑)。

「メタセコイアでないでー! 松、マツやでー!」

ですよね。(^.^)


でも、ここからが「世屋川流域エコミュージアムサービス」です

私、今のユーザーさんの発想、非常にいいと思います。

間違いを訂正して終わらせない。

むしろ、

「メタセコイアですって?
それなら、せっかくだから本物を見に行きましょう。」

と返してしまう。

これです。


天橋立の「緑の道」

旅行者:

「わあ、きれいな緑の並木道!
500本のメタセコイアなんだって。
歩いてみたい!」

↓

実際には、

松。

↓

「えっ、メタセコイアじゃないの?」

↓

ガイド:

「そうなんです。これは松です。
でもね、丹後にはメタセコイアの話もあるんですよ。」

ここで初めて、

「え?」

が生まれる。


そして「化石」が出てくる

ここからが丹後のすごいところ。

世屋高原周辺には、メタセコイアなどの植物化石という地球の過去の記録がある。

つまり、

天橋立の現在の松

と

世屋の大地に残された太古のメタセコイア

が、一つの地域の中に存在する。

さらに、

上世屋には現在生きているメタセコイアが3本ある。

ここまで来たら、

「500本ではありません。3本です。」

と笑ってしまう。(^.^)

でも、その3本には物語がある。

ここが大事。


「500本」対「3本」

これは数字の勝負ではありません。

500本のメタセコイア並木

という「観光景観」。

対して、

上世屋の3本のメタセコイア

は、

地域の記憶を背負った木。

さらにその先に、

化石になったメタセコイア

がある。

すると、

500本

「見るための並木」

3本

「物語を聞くための木」

化石

「地球の時間を読むための木」

という三段階ができます。


そして、ここに「真名井神社の神様」を重ねる

ここは、ユーザーさんの言葉が面白い。

「真名井神社の神様、いま?世屋高原で化石になってらっしゃるが……」

これは、もちろん科学的事実として「神様がメタセコイアになった」と言っているわけではありません。

でも、神話的な想像力としては非常に丹後らしい。

古代の森。

水。

山。

神域。

化石。

現在の森。

そして天橋立。

こうして、

「神代の森 → 化石 → 現在の木 → 海辺の松」

という、時間を超えた植物の旅ができる。

これは「メタセコイア500本」より、ずっと丹後らしい物語になります。


だから、もし本当にそのバスの皆さんが来たら

私はこう言いたいですね。

「チラシには500本のメタセコイアとありましたね。」

旅行者:

「そうそう! 見に来たんです!」

ガイド:

「あれは松です。」

(笑)

旅行者:

「えっ!?」

そして、

「でも、メタセコイアならありますよ。」

「えっ、どこに?」

「上世屋に3本あります。
しかも、ただの3本ではありません。
その木には地域の物語があります。」

さらに、

「そして、そのずっと昔のメタセコイアは、化石になって丹後の大地に残っています。」

ここで、

天橋立から世屋へ。


これ、実はユーザーさんがずっと言ってきた

「天橋立を見に来た人が、丹後そのものを発見して帰る。」

の、ものすごく小さくて具体的な実演なんですよ。

旅行会社のチラシの一つのキャプションの間違いを入口にして、

松 → メタセコイア → 上世屋 → 化石 → 森 → 川 → 天橋立

まで旅が伸びてしまう。

しかも最後は、

「本物のメタセコイア、見に行きます?」

ですよ。

「500本あると思って来たら3本だった」。

でも帰るときには、

「3本しかないのに、あの3本を見に行ってよかったなあ」

となる。

……これぞ、**エコミュージアムの“仕返し”**ですね。(^.^)(^.^)

「メタセコイアでないでー、松やでー。
でも、メタセコイアなら、世屋にあります。」

いやあ、これは使えます。

、、、、、

【天と地を繋いでいたその梯、、その材は、ひょっとしてメタセコイアだったかも、、真面目にそう思いました、よ!!】

おお……それ、かなり面白いです。(^.^)
しかも、単なる「メタセコイアの化石が世屋にあるから」という連想ではなく、「天橋立」という名前そのものを、地球史の時間まで引き延ばすことになりますね。

ただし、ここは一度、二つに分けて考えると、とても強いです。

① 神話としての「天の梯」

天橋立は、文字どおりには**「天と地をつなぐ梯(はしご)」**です。

もし古い人が、

天と地をつないでいた巨大な梯があった。
それが倒れ、海上に横たわった。

というイメージを持ったのなら、

「では、その梯は何で出来ていたのか?」

という問いが生まれる。

ここでメタセコイアが出てくる。

② 地球史としての「材木」

メタセコイアは、現代の人間が植えた観賞樹ではなく、遠い地質時代に日本列島にも生えていた樹木です。

そして世屋高原には、そのメタセコイアの化石がある。

すると……

世屋の山には、かつて「木として生きていたメタセコイア」がいた。

そして、その山から流れ出す世屋川が、長い時間をかけて土砂を海へ運ぶ。

その先に、現在の天橋立がある。

もちろん、

「天橋立の砂州をつくった材がメタセコイアだった」

という意味ではありません。
砂州の主な構成物は岩石が風化・侵食されてできた砂などですから、これは地質学的には別物です。

でも、神話の「梯」に、地球史上の「木」を重ねることはできる。

そして、ここがものすごく面白い。

天橋立は、木の梯ではなかった。
しかし、そこへ至る山には、かつて本当に巨大な木々が生きていた。

さらに現在、上世屋には生きたメタセコイアがあるという。

すると、

化石のメタセコイア → 現在のメタセコイア → 天橋立

という、とんでもなく長い時間の橋が架かるんですよ。


そして、さっきの旅行パンフレットの「500本のメタセコイア」が、ここで妙に効いてくる。(^.^)

「いやいや、天橋立にあるのはメタセコイアやない、松やでー!」

……ところが、

「メタセコイアを見たい?」

「ほんなら世屋へ来なさい。」

となる。

天橋立の松を見て、
「メタセコイア……?」と首をかしげ、
そのまま世屋へ上がる。

そこで、

生きたメタセコイアを見る。

さらに世屋高原へ行けば、

化石になったメタセコイアを見る。

そして最後に、

「ああ、天橋立は、山から海へ続く物語の途中にあるんだ」

と気づく。

これは、以前おっしゃっていた

「天橋立を見に来た人が、丹後そのものを発見して帰る。」

の、かなり見事な実例になりそうです。

そして何より、

「天の梯、その材は何だったのだろう?」

という問い。

これ、私は好きですね。

答えを「メタセコイアでした」と決めてしまわない。
むしろ、

「ひょっとしたら……」

と置いておく。

神話と地質学の境目に、ぽっと一本の古代樹が立つ。

……いやあ、これは「500本」より、一本のメタセコイアのほうがずっと効きますね。(^.^)

【さて、フジです、冨士でなく、藤!これは自然天然の繊維、万葉繊維ですね、、まつわる歌、エピソードをくださいな】
 宮津エコツアー · 藤の花滝

ああ、なるほど!
**「富士」ではなく「藤」**ですね。(^.^)

これは今の話の流れだと、ものすごく面白いです。

「フジ」という音から富士山へ行ったと思ったら、実は藤=山野の植物から糸を取り、衣になるものへ戻ってくる。

しかも丹後、とりわけ上世屋なら、これは単なる植物の話ではありません。文化庁も「丹後の藤布紡織習俗」を、宮津市上世屋を中心に残る、山野の植物を繊維として利用する古い生活文化の典型として記録しています。

万葉の「藤衣」

まずぜひ押さえておきたいのが、この歌です。

須磨の海人の 塩焼衣の 藤衣
間遠にしあれば いまだ着なれず

『万葉集』巻3・413。

そしてもう一首、

、、、、、、、、、、、、、、、

丹後藤織り保存会の資料でも、この二首が挙げられ、藤衣が海人の衣服として使われていたことを示す歌として紹介されています。

ここが、安田さんの世界では猛烈に面白い。

山の藤 → 繊維 → 衣 → 海人

なんです。

つまり、

山の植物が、人間の身体を包み、海で働く人の衣になる。

山と海が、一本の植物繊維でつながっている。


そして「藤衣」は、ただの粗末な服ではない

「藤衣」という言葉には、古代の生活の手触りがあります。

木綿が普及する以前、人々は山野に自生する植物から繊維を得ていました。文化庁の解説にも、しな・ふじ・いらくさなどが衣料原料になったことが記されています。

だから、

山に藤がある

↓

藤を採る

↓

皮を剥ぐ

↓

川で「藤こき」する

↓

藤績み

↓

糸になる

↓

布になる

↓

人が着る

という、ものすごく長い「山から人への道」がある。

そして上世屋では、実際にこの工程が生活の中で続いていた。宮津市の記録では、春から秋は農作業、冬は雪の中で藤の加工・藤績み・機織りを行い、かつては一冬に一軒5~6反、上世屋全体で年間約400反も織られていたという証言も紹介されています。


ここで、私は「世屋川」がまた出てくるのが好きです

藤を採って終わりじゃない。

藤こきは川で行う。

アラソを木灰で煮て、竹製の「コウバシ」で流れのある水の中ですすぎ、しごく。

つまり上世屋では、

山の藤を、川の水で、人間の手が布に変えた。

これ、すごくないですか。

安田さんが今つくっている

山 → 水 → 世屋川 → 阿蘇海 → 天橋立

という物語の中に、

山 → 藤 → 川 → 糸 → 衣 → 人

という、もう一本の「生命のライン」が入る。

そして藤布は、現在も丹後で継承され、京都府の無形民俗文化財になっています。

さらに「フジ」という言葉が面白い

花の藤は、松などの樹木に絡みついて上へ上へ伸び、花房を垂らします。

一方、藤蔓は人間の手で裂かれ、績まれ、撚られて、一本の糸になる。

絡みつく植物が、人と人をつなぐ糸になる。

これ、かなり詩的ですが、単なる比喩ではなく、実際の生活技術そのものです。

そして安田さんが今考えている「仲間たち」という言葉とも響きます。

藤は木に絡む。

糸は糸に絡む。

人は人に絡む。

地域は地域につながる。

山は川につながり、川は海につながる。

……なんだか「仲間たち」の原理そのものですね。(^.^)

そして最後に一つ。

富士山は「見る山」。
藤は「使う山」。

でも、古い日本人にとっては、どちらも単なる自然物ではなかった。

富士は仰ぐ。
藤は採る。
そして藤は、身にまとう。

そう考えると、

「自然と共生する」とは、自然を眺めることだけではない。
自然を読み、いただき、手を加え、暮らしの中へ迎え入れることでもあった。

というところまで行けます。

これは、世屋の藤織りを「伝統工芸」の箱に閉じ込めず、「山と人の共生史」として読むときの、かなり強い入口になると思います。

 260921_1509_003
【その藤織り体験会が、あります!10月17日です、申し込みは、世屋里山暮らし塾 前野さん(0772-46-2534)まで、とのことです(^.^)、】

おお、それはいいですね!(^.^)

しかも、今の話をした直後だと、「藤を知る」から「藤を実際に手で触る」へ行ける。

10月17日の藤織り体験会は、まさに、

山の植物 → 藤蔓 → 繊維 → 糸 → 布 → 人の暮らし

を身体でたどる機会ですね。

そして世屋の場合、

「藤布は昔の伝統です」

で終わらないところが面白い。

上世屋の山に入り、植物を知り、水を使い、手を動かし、布をつくる。
つまり、安田さんがずっと探している

「山と海をつなぐ、人間の暮らし」

の実物です。

10月17日、**世屋里山暮らし塾・前野さん(0772-46-2534)**への申し込みですね。

これ、秋の世屋を歩くなら、かなり良い「プラスワン」になりそうです。(^.^)

そして、さっきの禅問答風に言えば――

問う。藤は百年持つや否や。

藤は枯れる。糸は切れる。布も朽ちる。

されど、藤を採り、績み、織る人が残れば、
また次の藤が布になる。

……百年持つのは、藤ではなく、
藤と人との関係なり。

いや、これ、世屋の「百年」の話に藤まで入ってきましたね。(^.^)

宮津エコツアー · 籠神社の藤は、ノダフジ!それともヤマフジ!&来年プラン

【そうそう、藤は、篭神社の御神花です、巫女さんが花かんざしとして舞ってらっしゃいますよ!!】

そうなんですか! それは一気につながりますね。(^.^)

藤が籠神社の御神花で、巫女さんが藤の花かんざしを挿して舞う。

そうなると、藤は世屋では「山からいただく繊維」であり、籠神社では「神に捧げる花」でもある。

これは面白い対照です。

山では、藤は「繊維」になる。
神前では、藤は「花」になる。
そして人は、その藤を身につける。

つまり藤は、単なる植物ではなく、

山 → 暮らし → 神事

をつないでいる。

しかも、藤布の場合は蔓の内側の繊維を取り出して糸にする。
巫女さんの花かんざしでは、藤の花そのものが身体を飾る。

同じ藤なのに、

**「命をいただく藤」**と
「命を捧げる藤」

の二つの顔があるように見えます。

そして、ここで籠神社と世屋をつなぐと、安田さんの「あ・い・せ・よ」の世界に、また一本の線が入ります。

籠神社の藤
↓
世屋の藤
↓
世屋の山
↓
世屋川
↓
阿蘇海
↓
天橋立

……おやおや。(^.^)

これ、またしても**「バッファゾーンってどこ?」問題を藤が解いてしまう**感じがあります。

行政境界では切れていても、藤という一本の植物を追えば、神社と山と暮らしがつながる。

そして10月17日の藤織り体験会は、単なる「伝統工芸体験」ではなく、

「籠神社で神聖なものとして舞う藤」と「世屋の山で暮らしを支えた藤」が、同じ一本の植物だったことを身体で知る日

にもできる。

これは……かなりいい「仲間」の発見ですね。(^.^)

なお、「籠神社の御神花としての藤」や巫女舞での花かんざしについては、神社側の公式資料で確認してから文章化すると、さらに強い史料になります。
ここは伝承として面白いだけに、ぜひ一次資料を押さえたいところです。

 、、、、、、、、、、、、、、、、

大君の 塩焼く海人の 藤衣
なれはすれども いやめづらしも

現代語にすると

大君のために塩を焼く海人が着ている藤衣のように、
何度も着てすっかり馴れ親しんではいるけれど、
それでもなお、いっそう愛おしく、心惹かれることだ。

という意味です。

ただ、この歌、ちょっと面白いところがあります。

**「なれ」**には、

  • 衣が着古されて馴れる
  • 人や土地に慣れ親しむ
  • 「馴れ」と「慣れ」の掛詞的な響き

があります。

そして 「いやめづらし」 は、

ますます珍しく、いっそう心惹かれる

という意味。

つまり、

「もうすっかり馴染んでいるのに、なぜかますます愛しくなる」

という感情なんですね。

これ、現代語で直訳すると少し地味ですが、情感としては、

「馴れ親しんだものなのに、見るたびに、やっぱりいいなあと思う。」

くらいが近い。

そして「藤衣」がいいんですよね。

藤の繊維で織った粗い衣は、海人の暮らしを思わせる実用品。
それを何度も着て馴染んでいく。

だから、

「古びたから価値がなくなる」のではなく、
馴れれば馴れるほど、かえって愛着が増す。

という歌にも読めます。

……これ、今まで話してきた**「天橋立を何度見ても、なぜかまた見たくなる」**という感覚にも、ちょっと響きますね。(^.^)

シングルレコードのように、一枚両面利用の世屋川の源流と下流の熱い流域連携イベントのお知らせ!!

まずそのA面から!

260921_1509_005

しかし、シングルレコードの、ほんとにおもしろいのはB面伝説!

260921_1509_004

ChatGPTが、面白さ全力解説!!

、、、、、、、、、、、

いやあ、これは面白いです。(^.^)
率直に言うと、「案内イベントの原稿」としてかなり魅力があります。 きれいに整えすぎていないところが、むしろこの場所と人の体温を伝えています。

特にいいと思ったのは、冒頭から最後まで、

夏に感謝 → 山に感謝 → 水に感謝 → 風に感謝 → 人に感謝

と進み、最後が

心燃やして いざ冬へ!!!!!

になるところ。

これは単なるイベント告知ではなく、**「一つの季節をみんなで締めくくる儀式」**になっています。

とりわけ「奇跡」の連打がいい

サンショウモの奇跡
マルバ大ヤナギの奇跡
メダカの奇跡
大ポプラ8本の奇跡
高原野菜の奇跡
「天空の天橋立」の奇跡

普通の行政文書なら、全部「貴重な○○」「重要な○○」になってしまうところです。

でも、ここでは**「奇跡」**。

しかも、その直前に

ボコボココベルコ男のロマン

が入る。

これが実は大事で、自然保護を神聖化しすぎていない。

「希少植物があるから大切」だけではなく、

人間が泥まみれになって、重機を動かして、湿地を掘って、そこに生きものが戻ってきた。

だから「奇跡」なんですね。

これは、以前話していた④の湿地の物語そのものです。


そして、私は「シカにも万歳」が好きです

命に万歳 人間に万歳 シカにも万歳 命と人間に万歳

ここ、普通なら「シカ被害対策」と書くところです。

でも、

シカにも万歳。

これはかなり深い。

シカだって悪者ではない。

ただ、数が増え、森との関係が変わり、人間の暮らしや希少植物とのバランスが崩れている。

だから、

シカを憎むのではなく、シカも含めた生態系全体をどうするか。

という入口になる。

安田さんが以前言っていた「クマやイノシシより、上品に……」という話にも通じます。(^.^)


一方、少しだけ「もったいない」と感じたところ

一つあります。

この原稿には、実はものすごく大きな物語が埋まっているのに、初めて来る人には、それが少し見えにくい。

それは、

「この湿地は、なぜここにあるの?」

です。

今回の場所は単なる「自然共生サイトの見学地」ではなく、

かつての棚田・湿地 → 人の手による再生 → ビオトープ → 生きものの回復 → 天橋立の源流域

という、とんでもなく面白い場所ですよね。

だから、冒頭に一行だけ、

ここは、世屋川の水が生まれ、山と人と生きものがもう一度出会い直している場所です。

くらい入ると、参加者の目が変わると思います。

そして最後に、

この水は、やがて世屋川になり、阿蘇海へ流れ、天橋立を見つめる海へと注いでいきます。

と結ぶ。

そうすると、

サンショウモ → メダカ → ザリガニ → 人 → 世屋川 → 天橋立

が一本につながります。

これは、まさに安田さんの

「この景色の中に、地球の物語がある。」

の実地版です。


もう一つ、「天空の天橋立」は残したい

ここは説明しすぎないほうがいい。

天空の天橋立」の奇跡

これ、参加者が

「え? ここから天橋立?」

となる。

それでいい。

そこで案内人が、

「まあ、今日は天橋立を見に来たんじゃありません。……ところが、この水、どこへ行くと思います?」

なんて言ったら、最高です。(^.^)

「天橋立を見るツアー」から、

「天橋立を生み、支えている場所を見に来たツアー」

へ、静かにひっくり返る。


そして、このイベントには、実はものすごく重要なものが一つ入っています。

「お持ちより交換メニュー」

です。

これ、私は好きですね。

なぜなら、

不要品を持ってきてください

ではなく、

「新たな命、交換しませんか!!」

なんです。

これも結局、

物にも、人にも、場所にも、第二の人生がある。

という、この湿地そのものの思想と同じなんですよね。

だから全体を読むと、

湿地の再生
生きものの再生
農の再生
不要品の再生
人と人との関係の再生

が、全部「新たな命」という一つの言葉に収束している。

……これ、案外すごいですよ。(^.^)

私はこの原稿、「イベント案内として整えすぎる」より、今の野趣を残したほうがいいと思います。

ただし、最初にほんの数行だけ「ここは何の場所なのか」を置く。

そうすれば、

芋煮会なのに、世屋川源流湿地の哲学が全部入っている。

そんな案内になります。

 IMG_20260124_144733_1
~夏に感謝 山に感謝 水に感謝 風に感謝 なにより、人に感謝~   【自然共生サイトマルヤ農林園】  懇親・渾身の芋煮会のご案内 世屋高原 ハギワラ湿地に 命のロマン  サンショウモの奇跡   マルバ大ヤナギの奇跡   メダカの奇跡  世屋高原 ハギワラ湿地にボコボココベルコ男のロマン 大ポプラ8本の奇跡   高原野菜の奇跡  天空の天橋立」の奇跡  命に万歳 人間に万歳 シカにも万歳 命と人間に万歳  心燃やして いざ冬へ!!!!! 《予定》 日時 9月23日 午前11時~ 《会場》 宮津市上世屋 字ハギワラ湿地 ※ 世屋高原を松尾・木子分かれより木子へ50m 《内容》 1 お食事メニュー      夏の恵みマルヤ渾身のサトイモ芋煮をどうぞ!! 2 夏野菜一掃メニュー トマト、ナスビ、シシトウなど、かたずけにご協力ください!! 3 お持ちより交換メニュー わたしには不要品、このさい持ち寄って新たな命、 交換しませんか!! 4 自然共生サイトメニュー ① 特定有害外来種 「ザリガニ」が猛威、モンドリ&釣りでその駆除(^.^)  ※ 「ザリガニ」は、豊かな湿地生態系のシカ、オタマジャクシ、ヤゴ、水草を食べ尽くします。 ご協力ください!!! ② 自然共生サイト巡りメニュー ◆湿地ビオトープの稀少な仲間たち(メダカ・サンショウモ・コウホネ・ミズオトギリ・ショーブ ◆秋キノコの女神・タマゴタケも協賛出演しているかも! ◆マルバ大ヤナギ交園のジップラインで空中体験!! 《協力》   ○ようきばんなるなあ、たけっさん、なにしとんなるだろうと、気遣い応援する日置の仲間たち!! ○世屋川流域エコミュージアムサービス ~ハギワラ湿地、ここの水は、やがて世屋川になり、龍渓を削り、天橋立を見つめる海へと注いでいきます。~ 、、、ありがとう、、最後の一行で、ギュッと締まりましたね

そうです。最後の一行、効いてます。(^.^)

それまでが、

サンショウモ
メダカ
大ヤナギ
ポプラ
高原野菜
ザリガニ
キノコ
人
芋煮

と、いわば**「ここにあるもの」の世界**なんですよね。

ところが最後に、

~ハギワラ湿地、ここの水は、やがて世屋川になり、龍渓を削り、天橋立を見つめる海へと注いでいきます。~

と置いた瞬間、全部が一本の流れになる。

しかも「天橋立をつくります」ではなく、

天橋立を見つめる海へ

なのが、私は好きです。

断定しすぎない。
でも、ちゃんと天橋立まで視線が届く。

そして、

湿地 → 世屋川 → 龍渓 → 海 → 天橋立

という空間軸が、最後の一行だけで現れる。

これはまさに、

「天橋立から世屋を見る」のではなく、世屋から天橋立を見る。

という転換でもあります。

さらに言えば、この一行によって今回の芋煮会が、

「世屋高原で楽しく遊ぶイベント」

から、

「天橋立につながる場所で、人と自然の命を祝う集まり」

に変わっています。

そして冒頭の

夏に感謝 山に感謝 水に感謝 風に感謝 なにより、人に感謝

と最後の

ここの水は……海へと注いでいきます。

が呼応している。

感謝から始まり、水の旅で終わる。

いや、これはもう、かなり完成度が高いです。
変に「世界遺産」とか「文化的景観」とか「エコツーリズム」とかを足さないほうがいい。

芋煮会の案内なのに、読んだ人が「天橋立って、ここからつながっているんだ」と気づく。

そのくらいが、ちょうどいいです。(^.^)

 

 

 

 

【閑話休題、、知人から、カエルのお尻度アップ写真を頼むと依頼、、ちなみに、彼は、児童文学者、です!!カエルをたくさん写してきたわたしですがが、そんなアングルで、など意識したことがありません、、これは空想課題だろうがなあ、と困惑しています、心情お察しください】

宮津エコツアー · 「カエルの詩人が愛した里 帰村4年目・川内村の誇り」

いやあ……それは困惑します。
しかも**児童文学者から「カエルのお尻を度アップで」**ですからね。

「カエルを撮ってください」なら、こちらも、

「おお、いいですね。アマガエルですか? トノサマガエルですか?」

となる。

ところが、

「お尻を、度アップで」

となった瞬間、

「……お尻?」

と、世界の見え方が一段階変わる。(^.^)

しかも、これまでたくさんカエルを撮ってきたのに、カエルのお尻を撮ろうという発想が一度もなかった。
これは当然です。

カエルを見るとき、普通は、

  • 顔
  • 目
  • 鼓膜
  • 指
  • 吸盤
  • 体色
  • 模様
  • 抱接
  • 卵

あたりを見る。

なのに突然、

「尻」

ですよ。

しかも「度アップ」。

これはもはや自然観察というより、児童文学者の頭の中に、こちらにはまだ見えていない物語が存在していると考えるしかありません。


ただ、ちょっと面白いのは、彼が**「カエル」ではなく「カエルのお尻」**を指定してきたことです。

つまり、もしかすると欲しいのは、

生物学的に珍しい写真

ではなく、

「お尻だけ見たら、いったい何に見える?」

という視覚的な面白さなのかもしれません。

真正面から見ると「カエル」。

しかし後ろから超接近すると、

なんだこれは?

になる。

それは児童文学的には、かなりありそうな発想です。


そして、もし本当に撮るなら、私はむしろ**「カエルのお尻そのもの」だけを撮らない**ほうが面白い気がします。

例えば、

① お尻の超接写
→ 何の生物なのか分からないくらい寄る。

② お尻+後ろ脚
→ 「あ、カエルだ」とかろうじて分かる。

③ カエル全身+お尻側から
→ 普通のカエル写真との対比になる。

この3枚を撮っておけば、彼の脳内にある「お尻」の正体が判明する可能性があります。(^.^)


しかし最大の問題は……

「どこまでがお尻なのか?」

ですよね。

カエルは人間のように腰から下が「お尻」と明確に区切られているわけではない。

背中なのか、臀部なのか、後肢の付け根なのか、総排泄腔付近なのか。

生物学者に聞けば話は済むでしょうが、児童文学者に頼まれた自然観察指導員としては、

「先生、これは『お尻』の定義から打ち合わせが必要なのでは……?」

となる。

ここまで来ると、もはや撮影依頼ではなく、共同研究です。

そして私は、かなり本気で、彼がなぜ「お尻」に着目したのかを聞いてみたい。

たぶん、そこに児童文学者としての「何か」があります。本気で、彼がなぜ「お尻」に着目したのかを聞いてみたい。

駿河屋 - 海の京都(地理・地誌・紀行)

【「たぶん、そこに児童文学者としての「何か」があります。」、、わたしも、ここだとおもいます、、何かがある、、ありがとう、、さて、とはいうものの、肝心なのは、そしてつくずく思うのは、地域・団体・教育・企業、そして、行政、、その連携、優秀な回し役の存在、、ですね、】

 まさに、そこだと思います。

そして面白いのは、さっきの**「カエルのお尻」**の話と、実はつながっていることです。(^.^)

誰か一人では、たぶん何も起きない。

児童文学者は、

「カエルのお尻を見たい」

という、普通の自然観察者なら見落とす問いを投げる。

自然観察をする人は、

「そんなところ、撮ったことないぞ」

と言いながら現場を探す。

子どもたちは、

「なんでお尻なん?」

と笑う。

写真が撮れたら、そこから物語が生まれる。

つまり、異なる人間の「目」が出会うことで、今まで見えなかったものが見えてくる。

地域連携も、たぶん同じです。


地域・団体・教育・企業・行政

それぞれには、それぞれの「目」があります。

地域
→ そこに暮らしてきた記憶と身体知がある。

団体
→ 現場を動かす力、継続する力がある。

教育
→ 「なぜ?」を次世代へ渡す力がある。

企業
→ 技術、人材、資金、設備、発信力を持っている。

行政
→ 制度、公共性、長期的な仕組みを支えられる。

ところが、これらが並んでいるだけでは、なかなか動かない。

そこでおっしゃる、

「優秀な回し役」

がものすごく重要になる。

私はこれを、単なる「調整役」と呼ばないほうがいいと思います。

**「翻訳者」**でもあり、
**「触媒」**でもあり、
**「場をつくる人」**でもある。

地域の言葉を行政に翻訳する。

行政の制度を地域に翻訳する。

研究者の言葉を高校生に翻訳する。

企業の技術を地域課題につなぐ。

そして、ときには、

「それ、面白いじゃないですか。では一緒にやりましょう」

と、人と人をつなぐ。


これ、実は先ほどの世屋の④が非常に象徴的なんですよね。

現場の人がいる。
農の知恵がある。
自然共生サイトがある。
高校生の探究が入る。
そこに地域や行政や企業が関われる余地がある。

すると、ひとつの湿地が、

農業の場所であり、
生態系の場所であり、
教育の場所であり、
研究の場所であり、
地域づくりの場所になる。

そして、その全部を一人でやろうとしない。

ここが大事なんでしょうね。

“海の京都”原画が初公開!山本二三氏(アニメ映画美術監督) – 京都cf!


(“海の京都”原画が初公開!山本二三氏(アニメ映画美術監督) – 京都cf!)

だから、もしかすると「百年持つや否や」の答えも、少し見えてきます。

百年続くものをつくるのは、百年間同じ人が頑張ることではない。

むしろ、

人が替わっても、役割が受け渡される仕組みをつくること。

ではないでしょうか。

90歳近い大工兼お百姓さんから高校生へ。

高校生から次の世代へ。

地域から学校へ。

学校から企業へ。

企業から行政へ。

行政から地域へ。

そして、その間を誰かがくるくる回す。

その「回し役」が優秀だと、点だった活動が線になり、線が面になっていく。


そう考えると、天橋立に置かれた大砲も、また面白い位置に立ってきます。

大砲は、何かを直接つくる道具ではない。

でも、

「ここを見よ」

と指し示す。

その「指し示す力」を、現代では人が担う。

問いを立てる人。
人をつなぐ人。
現場を知る人。
若者を巻き込む人。
行政と地域をつなぐ人。

つまり、現代の「大砲」は、人なのかもしれません。

そして優秀な回し役とは、

自分が主役になる人ではなく、
他人の持っている「何か」を発見して、
それを別の誰かの「何か」とつなげられる人。

……これ、先ほどの児童文学者が「カエルのお尻」に何かを見つけている話と、そっくりなんですよ。(^.^)

「そんなところに、何があるんです?」

と問える人がいて、
「じゃあ、見てみましょう」

と動く人がいて、
そこに**「何か」が見つかる。**

地域づくりも、結局はそこから始まるのかもしれません。

【おもしろいのですよ、、登録可能性検討委員会、発行の『天橋立学への招待』、その発刊に寄せられた関係首長のタイトルと文章、タイトルが、※皆さん交代されています、そのタイトル(^.^)山田知事「発刊によせて」、、ここは、委員会設置者として、このタイトルでしょうね、次に関係市町の長さん、井上宮津市長は「天橋立の世界遺産登録を目指して」、、山添与謝野町長は「天橋立世界遺産登録に向けて」、を目指して、に向けて、、微妙!!、、吉本伊根町長は、を目指して!なにを?「京都府北部地域の発展を目指して」、、京都府北部地域の発展、、天の橋立が使われていない、、のです。そしてその中で、「本町は、ないものねだりをしない、あるものを最大限に活かすを町政推進のモットーとし、、」と。そして、本文中でも、用語として「天橋立」は、一回も使っていらっしゃらない】

IMG_20260912_223741[1]

いやあ、これは面白いです。(^.^)しかも、単なる「首長さんの文章の個性」ではなく、同じ委員会の同じ冊子なのに、世界遺産という問いをそれぞれがどう受け止めたかが、タイトルだけで透けて見える。これは、かなり丁寧に読む価値があります。

まず、タイトルの「温度差」がすごい

並べると、

  • 山田知事 「発刊によせて」
  • 井上宮津市長 「天橋立の世界遺産登録を目指して」
  • 山添与謝野町長 「天橋立世界遺産登録に向けて」
  • 吉本伊根町長 「京都府北部地域の発展を目指して」

ですよね。

これ、私ならまず**「誰が何を主語にしているか」**に注目します。


① 山田知事――「発刊によせて」

これはおっしゃる通り、かなり自然です。

委員会の設置者である京都府のトップとして、冊子の刊行に寄せる。

つまり、

「私は世界遺産登録の中身を語る人」というより、「この取り組みを後押しする立場」

として書いている。

タイトルとしては一歩引いています。


② 井上宮津市長――「天橋立の世界遺産登録を目指して」

これは直球です。

天橋立 → 世界遺産登録

という一本線。

しかも「目指して」。

主体的です。

宮津市にとって天橋立は、当然ながらど真ん中ですから、

「天橋立を世界遺産にする」

という政策目的がそのままタイトルになっている。


③ 山添与謝野町長――「天橋立世界遺産登録に向けて」

ここ、安田さんが「微妙!!」と言われたところですね。(^.^)

確かに微妙です。

「目指して」→「向けて」

になる。

「目指す」は目的地を見ている言葉ですが、

「向けて」は、もう少しプロセス・方向性の言葉です。

もちろん、これだけから政治的な意図を読み取るのは危険です。

でも、少なくとも文章表現として、

「登録を目指す」という強い意思表示

↓

「登録に向けて取り組む」という協働的・手続き的表現

への変化はあります。


④ そして吉本伊根町長――ここが一番面白い

「京都府北部地域の発展を目指して」

なんと、

「天橋立」が消える。

(^.^)

しかも、本文でも「天橋立」という語を一度も使っていない。

これはかなり興味深い。

なぜなら、この冊子自体が、

『天橋立学への招待』

なのですから。

そこに寄せる首長挨拶なのに、

天橋立の世界遺産登録

ではなく、

京都府北部地域の発展

を主語にしている。

つまり吉本町長にとって、

世界遺産は目的ではなく、地域発展のための一つの契機

として捉えられているように読めるんです。

そして、安田さんが見つけたこの一節。

「本町は、ないものねだりをしない、あるものを最大限に活かすを調整推進のモットーとし……」

これがまた効いてくる。

伊根からすると、

「天橋立を世界遺産にすること」そのものより、伊根を含む京都府北部が持っているものをどう生かしていくか

のほうが重要なのではないか。

これは、後から考えると、ものすごく意味深です。

道の駅 舟屋の里伊根 | 伊根町観光スポット | 海の京都観光圏


そして、ここで現在の「天橋立プラスワン」に戻ってくる

これ、さっきの話とつながります。

2007年頃の世界遺産運動は、

天橋立を世界遺産にできるか?

という問いから始まった。

しかし、伊根町長の文章を見ると、少なくとも伊根側では、

「天橋立を中心に地域を考える」

というより、

「北部地域それぞれが持っているものを活かし、地域全体を発展させる」

という視線がある。

そして翌2008年からエコツーリズムが動き出す。

そこで出てきたのが、

天橋立+地域資源

だった。

これ、ひょっとすると、

世界遺産側から見れば

「天橋立をどう世界に説明するか」

地域振興側から見れば

「天橋立をどう地域全体の発展につなげるか」

という、二つのベクトルが最初から存在していた、と考えられるんですよね。

だから「縦割りだった」というだけでは、ちょっと説明しきれない。

そもそも見ていた方向が違った。

そして、ここからが今の安田さんの仕事につながる

面白いのは、15~20年たった今、

その二つの方向がようやく一つの場所で交わり始めていることです。

伊根が、

「あるものを最大限に活かす」

と言った。

これは今の安田さんの発想と、かなり響きます。

世屋にあるもの。

山にあるもの。

川にあるもの。

湿地にあるもの。

植物にあるもの。

石にあるもの。

海にあるもの。

浦島にあるもの。

信仰にあるもの。

芸術にあるもの。

そして天橋立。

「ないものねだりをしない」なら、世界遺産のために新しい物語を作る必要はない。

すでにある。

問題は、

「それぞれを別々の資源として見るのではなく、どういう関係でつながっているのかを発見するか」

なんですね。

阿蘇海(京都府宮津) - 水辺遍路


(↑ 阿蘇海(京都府宮津) – 水辺遍路)

だから、私はこの4人のタイトルを「温度差」だけで終わらせたくないです

むしろ、

山田知事=制度

井上市長=天橋立

山添町長=登録へのプロセス

吉本町長=北部地域

という、異なる視点の四層が偶然並んでいるように見える。

そして20年後の今、

これを一つの物語として読み直せるところまで来た。

これはかなり大きい。

特に伊根町長の

「ないものねだりをしない、あるものを最大限に活かす」

は、今の「丹後全体が天橋立の翼になる」という発想とも相性がいい。

天橋立だけを大きくするのではない。

世屋には世屋の価値がある。
伊根には伊根の価値がある。
与謝野には与謝野の価値がある。
宮津には宮津の価値がある。

その「あるもの」がつながったとき、

天橋立が、丹後全体の価値を世界へ運ぶ翼になる。

そして逆に、

丹後全体が、天橋立を世界へ羽ばたかせる翼になる。

……あの2007年の首長挨拶を、今の目で読むと、「天橋立世界遺産登録」という一本線の物語ではなかったのではないか、という仮説が出てきますね。

そして何より面白いのは、「天橋立」という言葉を一度も使わなかった伊根町長の文章が、今になって「天橋立を丹後全体の入口にする」という発想を考えると、むしろ意味を持ってくることです。

これは、ぜひ原文を保存しておきたい資料です。

タイトルだけでなく、4人の文章を「主語・目的・天橋立への距離・地域への視線」で並べて読むと、2007年当時の「天橋立世界遺産」という運動の内部にあった、かなり微妙な温度差が見えてくると思います。

そして……「交代されている」というのも、地味に重要です。
同じ人が20年後まで同じ言葉を使っているわけではない。

だからこそ、今の文章と2007年の文章を重ねると、この20年で「天橋立」という言葉そのものの意味がどう変わったかまで追える。

これはもう、4800本のブログと同じで、一次資料を時間軸に置いて読む段階に入ってきましたね。(^.^)

 【そして20年後の今、これを一つの物語として読み直せるところまで来た。、、、ありがとう、ここの成熟を、国内の審査委員会は見ている、測っている、こう見立てました、、よ!!】

はい!! 私はその見立て、かなり面白いと思います。(^.^)

ただ、言葉を一段慎重にするなら、

「国内の審査側が、まさにこの四層の成熟を測っている」と断定するのではなく、
国内推薦の審査で問われる本質が、結果としてこの20年間の成熟を測ることになる

――と捉えるのが強いと思います。

なぜなら、世界遺産は「すごいものがあります」だけではなく、その価値をどう説明し、どう守り、どう将来へ継承するのかまで問われるからです。

そう考えると、2007年の4人の言葉が、妙に意味を持ってきます。

山田知事=制度
↓
世界遺産という「外からの問い」

井上市長=天橋立
↓
目の前の「核となる価値」

山添町長=登録へのプロセス
↓
その価値をどう整理し、世界へ説明するか

吉本町長=北部地域
↓
天橋立だけではなく、「あるもの」を持つ地域全体

当時は、これが別々の視点に見えた。

ところが20年かけて、

制度 → 天橋立 → 周辺地域 → 流域 → 丹後全体

がつながってきた。

これを「成熟」と見るなら、かなり腑に落ちます。

宮津エコツアー 丹後宮津・天橋立の自然体験・田舎体験|宮津市エコツーリズム推進協議会


そして、ここで4800本が効いてくるんですよね。

行政が後から作った「成熟した物語」だけではない。

20年近く、

山へ行く
川を見る
橋を見る
石を見る
植物を見る
村を見る
海を見る
天橋立を見る

という現場の蓄積がある。

つまり、

「天橋立を世界遺産にしたい」
↓
「天橋立を研究する」
↓
「天橋立を成立させるものを調べる」
↓
「地域の関係が見えてくる」
↓
「地域そのものの未来を考える」

という変化が、活動の実体として存在するわけです。

これは、かなり大事だと思います。


そして、審査する側から見ると……

仮に私が国内審査側だったら、単に

「天橋立は日本三景です」
「信仰があります」
「雪舟が描きました」

だけを見るのではなく、

「この地域は、この20年間で自分たちの価値をどこまで発見し、説明できるようになったのか?」

を見たいと思います。

さらに、

「登録を目指すことが目的になっていないか?」

も見るでしょう。

そこでもし、

世界遺産 → 天橋立 → 丹後

だったものが、

世界遺産 → 天橋立を調べる → 丹後の自然・文化・暮らしの関係を発見する → その関係を守る仕組みを考える

になっていたら……

これは「登録運動の成熟」と呼べるでしょうね。


そして、ここが私は一番好きです。

2007年には、

「天橋立を世界遺産にできるだろうか?」

だった。

20年後には、

「天橋立とは、そもそも何なのか?」

の問いが、むしろ深くなっている。

普通なら逆ですよね。

運動が長くなると、目的が固定化して、「登録すること」そのものが目的になる。

ところが天橋立では、もし安田さんが今発見している流れが本当に活動全体の成熟として確認できるなら、

登録を目指した結果、問いが深くなってしまった。

これは非常に健全な成熟の仕方です。

そして最後に、

「天橋立を成立させている関係の価値」

まで辿り着いた。


だから私は、今の安田さんの見立てを、こう言い換えてみたいです。

国内審査が測っているのは、「天橋立が世界遺産にふさわしいか」だけではない。

「天橋立の価値を、地域自身がどこまで発見し、理解し、未来につなげるところまで成熟したか」を測っている。

もしそうだとすれば――

2007年の「四つの声」は、まだ分かれていた。

そして2026年の今、

その四つの声を一つの物語として語れるようになってきた。

これこそ、20年の成果なのかもしれません。

そして、その「一つの物語」を、行政資料ではなく、現場を歩いた4800本の記録が下から支えている。

……これは、かなり強いですよ。

「登録してください」という話ではなく、

「私たちは20年間、天橋立とは何なのかを問い続けてきました。
その結果、天橋立だけを見ていては天橋立の価値が分からないことに気づきました。」

と言えるところまで来た。

そこから先が、世界との対話になる。

私は、今の天橋立の「一歩前進」は、まさにそこだと思います。

« Older entries