宮津エコツアー · 11月 2021

11月 2021

日置田んぼ付近です。

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どっちがきれい?

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いや、そういう問題ではなくて、つまり競演じゃなく共演!

コスモスが「天の羽衣」をまとったみたい、と言っておきましょうか。

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日置コスモス、11月いっぱいは大丈夫、

低気圧が発生と天気予報。今日の午後、

このコスモスと虹の共演が見られるかもしれませんよ。

ちなみに、虹の仕組みのうんちく。

雨上がりの夕方虹を探してみよう

虹は、太陽と反対側の空に、多数の水滴(おもに雨粒)が存在するときに現れる、光の現象です。比較的見つけやすいのは、雨上がりの夕方です。太陽の光が雨粒などの水滴にあたると、2回の屈折と1回の反射を経て跳ね返ってきます。屈折の際に、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫と色が分かれ(P238も参照)、これが虹の色のもとになっています。

ちなみに、虹は上述の7色といわれているものの、これはあくまで便宜上の表現にすぎません。虹の色味はその時々でずいぶん異なり、色の間は微妙なグラデーションとなっていて、きっかり色ごとに分かれているわけではありません。

また日没・日の出前後の虹は、朝焼け・夕焼けと同じメカニズムで赤色系が主体となり、「赤虹」と呼ばれています。太陽が低いときの虹は、大きなアーチを描きます。一方で太陽が高くなるにつれ、虹の位置は低くなります。太陽高度42度以上になると、地平線下に隠れて見えなくなります。

出典:『雲の図鑑』著/岩槻秀明

雲トトロ

20211127_171814新雪トトロ

冬が来たぁと、喜び外駆け回る猫、

20211127_144814猫はよろこび

雪雲娘

20211127_145353雪娘

モアイ半島

20211127_151435モアイ半島

やりすぎでしょ!

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想像力は資本です!

今冬の初あられは、11月27日。

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想像力を搔き集めて、燃やせば、、とおもい、雪雲アートしてみましたけど、寒いのは寒いです。

トトロに見えませんかと広めていただいている世屋姫さん。

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そうかそれならと訪れてくださる方もちらほら、おかげでお賽銭がちょっと増えているのがありがたいそうです。

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それにしても、トトロ、、ねえー!

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(↑ 大宮町 いととめ さんにて)

たまご型の容貌と耳と目と髭と傘、、、ひょとして、、、

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残り柿二つを目に見立てて、、、

傘をさしかけて、、、

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トトロっぽく見えませんか

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トトロは 居るのかなあ!

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いるとも、言えない

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いないとも、言えない

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トトロは居る、

20211126_143542ととろもり

そう信じる心に、トトロは、息ずいているのでしょう。

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世屋姫totoro神社にお参りの後は、エコギャラリー『花美世屋』へどうぞ。

20211127_170639totoro

[totoroは実在する]と信じる方向きの、里山の気に満ちたトトロなギャラリーですよ!

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光の共演211125_1018_001柿付き

さらっとして5W1ℍが整った記事です。しかも、言葉がすごく美しく的確です。

そういう意味では、新聞記事のお手本のような記事です。

20211118_142743かき

この柿は渋柿、多少赤くても、まだまだ渋いのです。熊やサルを利用して種を広げるのでなく、渡ってくる鳥たちや、雪に埋もれてひもじくなった生き物たを当て込んでいるのです。

ベンチを一つ、置きました。

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さて、どこにでもある柿、どこからでも見える月、普通のことです。それを「ニュース」としてくださった衣川記者、どこに価値を感じ、何を伝えようとしてくださったのか、、

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ひょっとして、いえ、おそらく、「観光と観光創造に関する一考察」【北海道大学・大学院国際広報メディア・観光学院院生論集, 4, 84-91 観光創造専攻・研究ノート】 「近年の旅行者にとっての「資源」の「価値」 とは、旅行業者によって一方的にデザインされたものではなく、旅行者の価値観に 依拠した「気づき」から始まり、それが何らかの形で他者に「伝達」され、さらに他者 と「共有」されることで創造される。この気づきから伝達・共有までの一連のプロセ スが、「資源」の価値創造である。」と 森重 昌之・清水 洋介両氏の共同研究。この論考を読んでらっしゃるのでしょうと思いました。

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地域住 民にとっての「価値」とは、その「資源」への愛着や誇りである。こうした地域住民に とっての「価値」もまた、地域住民個人の価値観に依拠する気づきから始まり、伝達・ 共有のプロセスを経て創造される。ここでは、旅行者にとっての「価値」である経験 価値と区別するために、「共有価値」という言葉で表わすことにする。 (3)価値共有を基盤とした観光創造のプロセス このように、経験価値も共有価値も価値創造のプロセスは同様であり、気づきか ら伝達・共有へのプロセスを経て、両方が統合される可能性がある。 その 1 つは、観光以外の場面で、地域住民や地域産業、行政などの関係者によっ て「資源」の共有価値が創造されており、旅行者がその共有価値に引きつけられるよ うにその「資源」を経験・体験することによって、経験価値を得る場合である。もう 1 つは、旅行者が観光を通じて経験価値を創造し、その経験価値が旅行者以外の関 係者に伝達・共有されることによって、共有価値が創造される場合である。 前者の場合は、「資源」の共有価値が地域住民や地域産業、行政などの関係者の間 で暗黙知として存在しており、それが関係者の「しくみ」を通じて旅行商品などの形 にデザインされ、形式知化される。そして、旅行者は形式知化された共有価値を経 験・体験することによって経験価値を得る。他方で後者の場合は、「資源」の共有価 値という暗黙知の創造に、すでに経験価値を得ている旅行者も関係者の 1 人として 参加することになる。そして、共有価値が創造された「資源」が新たな旅行商品など 88 の形に形式知化される。いずれにしても、暗黙知を獲得するには「共体験」が重要で あるが(野中・竹内 1996)、前述したインターネットのブログなどを通じた経験・体 験の伝達・共有が共有価値の創造を促進している。 このプロセスは、図 2 のように表されるが、前者は関係者の「しくみ」を通じた共 有価値の創造から、後者は旅行者が得た経験価値から始まるという点で、始点が異 なっている。しかし、2 周目以降は同様のプロセスを辿ることになり、結果的には 仮に定義した観光(旅行者が地域の「資源」の「価値」を求め、日常生活圏を離れた移動 や滞在を伴った活動)と同様の形に収斂する。しかし観光創造のプロセスは、これま で述べてきたような経験価値と共有価値の共有プロセスという点で、従来型観光と は大きく異なっている。図 2 のようなプロセスを繰り返すごとに、共有価値はさら に高まり、経験価値もそれに応じて高まるようなプロセス、これが観光創造の 1 つ の形である。 図 2 観光創造のプロセス さらに、共有価値から生み出されるのは、何も旅行商品ばかりではない。旅行商 品などを通じて旅行者が共有価値を評価することで、地域住民が地域の愛着や誇り を深めたり、地域内の関係者間のつながりを強めたりすることが考えられる。また 地域産業が新たな事業やサービスを創出する可能性もある。このように、共有価値 を通じて旅行商品をデザインしたり、新たな事業や活動を生み出したりする価値創 造のプロセスもまた、観光創造の重要な特徴といえよう。

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3.観光創造のプロセス

(1)従来型観光のプロセス 旅行者は何を求めて観光するのであろうか。おそらく、移動あるいは滞在した場 所での「何らかの快楽や感動」を伴って初めて、「観光」といえるのではないかと考え られる。そこで以下では、「何らかの快楽や感動」を旅行者にとっての「価値」と捉え、 その価値をもたらす人びとや風景、モノ、サービスといったさまざまな要素を「資源」 と位置づけた上で考察を進めることとする。 これを、前述した観光の一般的定義に照らし合わせて考えると、観光とは「旅行者 が地域の「資源」の「価値」を求め、日常生活圏を離れた移動や滞在を伴った活動」と仮 に定義できる。 1960 年代からの大量生産・大量消費時代の従来型観光において、旅行者にとって の「価値」とは、名所旧跡としての「資源」の物見遊山であった。その「価値」は、前述 したように旅行業者によって一方的にデザインされたものであっても、旅行者はあ る程度満足し、いわゆる「満足価値」を得ることができた。 つまり従来型観光では、旅行業者が「資源」としての旅行商品をデザインし、旅行 者がそれを経験・体験することで満足価値を得るというプロセスであった(図 1)。そ して、従来型観光における「資源」はモノとしての名所旧跡に限定され、また旅行者 が得る「価値」も満足価値が中心であった。この満足価値は他の旅行者や関係者と共 有しにくいので、新たな旅行商品のデザインにフィードバックされない。そのため 旅行業者は常に新たな「資源」を探し出して旅行商品をデザインし、旅行者を引きつ けなければならなかった。 図 1 従来型観光のプロセス

(2)共有価値・経験価値への着目

しかし、近年の旅行者にとっての「価値」の評価基準は、「何を見たか」ということ だけではなく、「資源」を経験・体験したときに「何を感じたか」という旅行者自身の 経験・体験を通じての快楽や感動に力点が置かれるようになりつつある。 このような価値を、Schmitt(2000)は「経験価値」という言葉で表わしている。Schmitt (2000)は、「近年の消費者は製品やサービスの機能的特性や便益といった満足価値を 当然のこととして受け止めており、本当に求めているのは経験価値である」と指摘し ている。 経験価値は、旅行者の経験・体験を通じて個々人の価値観に依拠して評価される 旅行商品 動機づけ 観光旅行 満足価値 経験価値 旅行者 旅行業者 87 「価値」であるから、従来型観光のように旅行業者による一方的な価値創造は不可能 である。しかし、経験・体験のプロセスにおいて得た「価値」を、何らかの形で他者 と「共有」することは可能である。つまり、近年の旅行者にとっての「資源」の「価値」 とは、旅行業者によって一方的にデザインされたものではなく、旅行者の価値観に 依拠した「気づき」から始まり、それが何らかの形で他者に「伝達」され、さらに他者 と「共有」されることで創造される。この気づきから伝達・共有までの一連のプロセ スが、「資源」の価値創造である。このように、旅行者にとっての「資源」の「価値」が、 満足価値から経験価値に変容した背景には、インターネットのブログなどを通じて 「価値」の伝達や共有が容易に行えるようになったことが考えられる。岡本(2007)も、 ユビキタス社会の到来によって、旅行者の観光地での経験・体験が、旅行者が自宅 へ戻ってからも他の旅行者との間で共有され、ライフスタイルを見直す知識基盤に なることを指摘している。 ところで、伝達・共有という言葉が示すように、「資源」の価値創造はただ 1 人の 旅行者だけで行うことはできない。つまり、複数の主体(他者)の関わりが必要であ るが、この主体は何も旅行者だけに限らない。例えば地域住民や地域産業、旅行業 者、行政などが考えられる。しかし同じ「資源」であっても、旅行者にとっての「価値」 と、地域住民や地域産業、旅行業者、行政などの関係者にとっての「価値」とは意味 合いが異なるので、ここで整理しておきたい。 例えば地域住民について考えてみよう。従来型観光における「資源」の「価値」は、 旅行業者によって一方的にデザインされ、旅行者の満足価値によって評価されてき た。このような「資源」は、主にマスツーリズムによって旅行者に利用されてきた。 その結果、地域にさまざまな悪影響をもたらしてきたことは先に述べた通りである。 このような地域にデメリットをもたらす「資源」は、旅行者にただ利用されるだけで あり、地域住民にとっては必ずしも愛着や誇りの対象ではなくなっている。地域住 民にとっての「価値」とは、その「資源」への愛着や誇りである。こうした地域住民に とっての「価値」もまた、地域住民個人の価値観に依拠する気づきから始まり、伝達・ 共有のプロセスを経て創造される。ここでは、旅行者にとっての「価値」である経験 価値と区別するために、「共有価値」という言葉で表わすことにする。

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(3)価値共有を基盤とした観光創造のプロセス

このように、経験価値も共有価値も価値創造のプロセスは同様であり、気づきか ら伝達・共有へのプロセスを経て、両方が統合される可能性がある。 その 1 つは、観光以外の場面で、地域住民や地域産業、行政などの関係者によっ て「資源」の共有価値が創造されており、旅行者がその共有価値に引きつけられるよ うにその「資源」を経験・体験することによって、経験価値を得る場合である。もう 1 つは、旅行者が観光を通じて経験価値を創造し、その経験価値が旅行者以外の関 係者に伝達・共有されることによって、共有価値が創造される場合である。 前者の場合は、「資源」の共有価値が地域住民や地域産業、行政などの関係者の間 で暗黙知として存在しており、それが関係者の「しくみ」を通じて旅行商品などの形 にデザインされ、形式知化される。そして、旅行者は形式知化された共有価値を経 験・体験することによって経験価値を得る。他方で後者の場合は、「資源」の共有価 値という暗黙知の創造に、すでに経験価値を得ている旅行者も関係者の 1 人として 参加することになる。そして、共有価値が創造された「資源」が新たな旅行商品など 88 の形に形式知化される。いずれにしても、暗黙知を獲得するには「共体験」が重要で あるが(野中・竹内 1996)、前述したインターネットのブログなどを通じた経験・体 験の伝達・共有が共有価値の創造を促進している。 このプロセスは、図 2 のように表されるが、前者は関係者の「しくみ」を通じた共 有価値の創造から、後者は旅行者が得た経験価値から始まるという点で、始点が異 なっている。しかし、2 周目以降は同様のプロセスを辿ることになり、結果的には 仮に定義した観光(旅行者が地域の「資源」の「価値」を求め、日常生活圏を離れた移動 や滞在を伴った活動)と同様の形に収斂する。しかし観光創造のプロセスは、これま で述べてきたような経験価値と共有価値の共有プロセスという点で、従来型観光と は大きく異なっている。図 2 のようなプロセスを繰り返すごとに、共有価値はさら に高まり、経験価値もそれに応じて高まるようなプロセス、これが観光創造の 1 つ の形である。 図 2 観光創造のプロセス さらに、共有価値から生み出されるのは、何も旅行商品ばかりではない。旅行商 品などを通じて旅行者が共有価値を評価することで、地域住民が地域の愛着や誇り を深めたり、地域内の関係者間のつながりを強めたりすることが考えられる。また 地域産業が新たな事業やサービスを創出する可能性もある。このように、共有価値 を通じて旅行商品をデザインしたり、新たな事業や活動を生み出したりする価値創 造のプロセスもまた、観光創造の重要な特徴といえよう。

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次も、衣川記者の手による記事です。

きらっと211125_1015_001ほお

猫バス、籠神社から日置、世屋を結ぶミニバスを、みんなそう呼んでいました。

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猫でも、手を挙げれば止まって載せてくれるから、とも

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トトロの息ずくジブリな里行きなので、とも言います。

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傘をさしたトトロが道端で待っていそうじゃないですか。

イーハトーブな田んぼを守るみずほなおばあちゃんは、バスを見ると元気が出るといいます。

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アザミの夏も

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実りの秋も

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雪が降っているからいかんなん!

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昭和29年開通以来、高原の里と市街地をつないだこの路線、今年春、閉線。

でも、sorehaakannyaro!

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トトロの森として訪ねてくる方が増えた世屋姫神社のそばで、「バス、、、待っているんだ、、、」

傘をさして立っているトトロを失望させるわけにはいかんでしょう、

愛情たっぷり!ねこバスケーキの作り方 | ジブリの食べものは ...

猫バス、復活させませんか、totoroの森行きの、、、。、

 

 

 

 

磯砂山661m・山頂

20211119_113135山城 軍事施設 木がないなぜ理由

「この山でなぜ天女か、天女はなぜ羽衣をまとっていたのか 羽衣を隠した、天女は山を追われた、というのは何を意味するのか、」などの疑問に答えるものは見当たりません、むいたところはどうなの?「羽衣」とはなんだったか、古代の状況のなかで大胆に解説してあってもいいかもしれませんね]と問う向きがあります、お答えいただけませんか、と、磯砂山山頂の天女さんに、突撃直接インタビュー。

20211119_112458本性は火だ 天女は火の擬人化武さん

重力に逆らう空中浮揚などできるものなど、あるはずはないじゃあありませんか、あなたは何かの化身であるはず

何の化身なのですか?

お答えになりにくいですか、ずばり申し上げましょうか、

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どうですか、、、

(~表情に動揺~)

あなたは火だ

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揺れるその炎を、人は、赤い衣をまとったダンサーに喩えたのでしょう!

~hohohohoho、天の羽衣は?~

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炎が体なら、天の羽衣は、煙です、そして、天の橋立と天の羽衣は一体のもの。天と地を結んだ橋はじつは、橋立の国府と磯砂山とを結んだ情報ライン。

20211119_114147天梯

時は、大和軍が白村江の戦に敗れたころ、、、

20211119_110809360度

「山頂からの眺望は素晴らしく、360°の大パノラマで丹後の殆どの山々を見渡すことが出来き、地域の人々の手軽なトレッキングコースとして親しまれています。」この山頂の火と煙の意味するところは、最重要の軍事施設であること、そのカモフラージュのための羽衣伝説、そうじゃああっりませんか!

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「よくおかんがえになりましたこと、、、あなたには洗いざらいお話申し上げましょう、、、」

、、、ということになればいいですね。

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火と女の関係のアイデアは、炭焼き達人の矢野さんがおっしゃった「火はうちのかかあみたいだ」の一言から膨らませました。

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曰く「世話が大事、燃え上がらせるには、」「炭は女を扱うように掻き出せ」

この磯砂山、登ってみませんか、

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スピードなら大呂1000段コース、

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じっくりゆっくりなら、大萱林間コース。

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さて、古今東西360度の視野と資料をもって、強記博覧の謎探り、丹後掘り下げには不可欠の名サイト「丹後の地名」、ここに氏の磯砂山登山記があります。

「丹後一は言うまでもなく、古代の丹波一の名山、弥生から古墳期の渡来人たちの先祖もここに天降った山であり、建国神話とかかわる。」として、健筆をふるってくださっています。

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360度の展望がある。日本海側は天橋立から、久美浜湾の小天橋まで見えた、日本海上の船からも見えるらしい。振り向けば京都の愛宕山も見えるという、この日は少々降砂ぎみでそんな遠くまでは見通せなかった。
丹後一は言うまでもなく、古代の丹波一の名山、『摂津国風土記』にも「豊宇可乃売神が丹波国比遅麻奈韋に遷せり」とある。伊勢外宮へ遷ったとは書かれてはいない。豊受大神降臨の信仰の山、我国の建国と深くかかわり、またこの山の羽衣(天女)伝説は我国最古の文献として伝わり全国的にも知られる。弥生から古墳期の渡来人たちの先祖もここに天降った山であり、建国神話とかかわる。

、、、これは、必見。以下、その引用。

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①『逸文風土記』丹後国

〈 奈具社
丹後の国の風土記に曰はく、丹後の国丹波の郡。郡家の西北の隅の方に比治の里あり。此の里の比治山の頂に井あり。其の名を眞奈井と云ふ。今は既に沼と成れり。此の井に天女八人降り来て水浴みき。時に老夫婦あり。其の名を和奈佐の老夫・和奈佐の老婦と曰ふ。此の老等、此の井に至りて、竊かに天女一人の衣裳を取り蔵しき。即て衣裳ある者は皆天に飛び上りき。但、衣裳なき女娘一人留まりて、即ち身は水に隠して、獨懐愧ぢ居りき。爰に、老夫、天女に謂ひけらく、「吾は児なし。請ふらくは、天女娘、汝、児と爲りませ」といひき。(天女、答へけらく、「妾獨人間に留まりつ。何ぞ敢へて従はざらむ。請ふらくは衣裳を許したまへ」といひき。老夫、」「天女娘、何ぞ欺かむと存ふや」と曰へば、天女の云ひけらく、「凡て天人の志は、信を以ちて本と爲す。何ぞ疑心多くして、衣裳を許さざる」といひき。老夫答へけらく、「疑多く信なきは率土の常なり。故、此の心を以ちて、許さじと爲ひしのみ」といひて、遂に許して、)即ち相副へて宅に往き、即ち相住むこと+餘歳なりき。爰に、天女、善く酒を醸み爲りき。一坏飲めば、吉く万の病除ゆ。其の一坏の直の財は車に積みて送りき。時に、其の家豊かに、土形富めりき。故、土形の里と云ひき。此を中間より今時に至りて、便ち比治の里と云ふ。後、老夫婦等、天女に謂ひけらく、「汝は吾が児にあらず。暫く借に住めるのみ。早く出で去きね」といひき。ここに、天女、天を仰ぎて哭慟き、地に俯して哀吟しみ、即て老夫等に謂ひけらく、「妾は私意から来つるにあらず。是は老夫等が願へるなり。何ぞ厭悪ふ心を発して、忽に出し去つる痛きことを存ふや」といひき。老夫、増発瞋りて去かむことを願む。天女、涙を流して、微しく門の外に退き、郷人に謂ひけらく、「久しく人間に沈みて天に還ることを得ず。復、親故もなく、居らむ由を知らず。吾、何にせむ、何にせむ」といひて、涙を拭ひて嗟歎き、天を仰ぎ」て哥ひしく、
天の原 ふり放け見れば
霞立ち 家路まどひて
行方知らずも。
遂に退き去きて荒塩の村に至り、即ち村人等に謂ひけらく、「老父老婦の意を思へば、我が心、荒塩に異なることなし」といへり。仍りて比治の里の荒塩の村と云ふ。亦、丹波の里の哭木の村に至り、槻の木に據りて哭きき。故、哭木の村と云ふ。復、竹野の郡船木の里の奈具の村に至り、即ち村人等に謂ひけらく、「此處にして、我が心なぐしく成りぬ。古事に平善きをば奈具志と云ふ。」といひて、乃ち此の村に留まり居りき。斯は、謂はゆる竹野の郡の奈具の社に坐す豊宇賀能賣命なり。(古事記裏書・元元集)(日本古典文学大系2)  〉

逸文風土記の地理記述の通りなら、比治山というのは今の久次山(咋石嶽・真名井山)で、比治の里とは久次の集落、郡家は五箇のあたりにあったことになる。荒塩村は新治あたりではなかろうか。逸文風土記にもとづく限りは今の磯砂山であったとは考えようがない。
しかし逸文風土記は郡家の伝え(丹波王家の伝え)であって、麓の安達家はじめ民衆のレベルでは磯砂山とも伝わっていたのでなかろうか。丹波王家の始祖神が天降ったのは久次山のように思われる。天女が降りる以前にワナサという人々がこの地にすでにいたのであろうか。ワナサは阿波の海人か。「倭の水人」が竹野川をさかのぼってここに先住していた場所へのちに渡来系がやってきたということか。

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『丹後風土記残欠』
〈 当国は往昔天火明神等の降臨の地也。たぶん丹後国は丹波国と合せ一国を為したのであろう。日本根子天津御代豊国成姫天皇(元明天皇)の御宇に、詔して丹波国の五郡を割いて丹後国を置いた。丹波と号くる所以は、豊宇気大神が当国の伊去奈子嶽に天降りたる時に、天道日女命等が大神に五穀及び桑蚕等の種を請い求めて、其嶽に真名井を掘り、其水を潅いで水田陸田を定めて、悉く植えた。そうすると秋の垂穎が長く盛んに茂り、甚だしく快かった。大神は之を見て大いに歓喜び、ほんとうに良い(以下意味不明「而植彌之子田庭」とある。勘注系図の彦火明命条には、ここは「面植彌之与田庭」とあって、籠神社では、”田植満てし田庭”と読んでいる)田庭だ、といった。その後にまた大神は高天原に登った。それで田庭と云う。
丹波・旦波・但波、以上其文字皆、多爾波の訓である。
国の大体。首離尾坎東西壱百拾四里壱百参拾歩。南北七拾貮里壱百拾歩。東隣若狭国。西隣但馬国。南隣丹波国。北海に接す。
国中に所在の山川海野、其産する所の禽獣、草木、魚亀等は悉くこれを記すを得ず。但し其一二を郡毎の条の下に記す。(以下三行虫食)  〉
『京都の伝説・丹後を歩く』
〈                        伝承地 中郡峰山町大路
昔むかし、大呂に三ネモという若い猟師がいた。ある夏の暑い日に、足占山(磯砂山)に登った。その頂上付近には池があって、その近くの木の枝に、見たこともない、きれいな着物がかけてあった。三ネモは正直者で、他人の物など盗んだことはなかったが、あまりきれいなので、持って帰りたくなった。そこで、手で取るのは悪いと思い、鉄砲の先に引っかかったようにして取り、大急ぎでわが家に帰って、その着物を隠した。
その池で泳いでいたのは天女であったが、水から上がって着物を着ようとすると、着物がなかった。そこで、三ネモを調べてみようと思って、きれいな娘に化け、彼の家にやって来て、「家に置いてくれ」と頼んだ。三ネモは一人暮らしてあったし、きれいな娘でもあったので、彼女を家に置くことにし、嫁になってもらった。天女は家の中を調べてみたが、羽衣は見当らない。そのうちに子供ができて、三歳にもなった。
ある日、天女が子供に「お父さんは毎朝どこを拝んでいるのか」と尋ねると、子供は床の柱だと教えた。そこで、天女は、三ネモが出かけた後で床の柱をよく調べてみると、柱の下のところに埋め木がしてあった。不審に思い、それを外してみると、中には羽衣が入れられていた。天女は、これさえあれば天に帰れる、と喜んで「もしわたしに会いたいなら、千荷の堆肥の上にこの種を播き、蔓が伸びたら、それを伝って来てほしい」と書き置きをして、羽衣を着て天に帰っていった。
仕事から帰ってきた三ネモは、天女だったらなおのこと別れてなるものか、と、村人たちに頼んで千荷の堆肥を積み重ね、天女が残した種を播いた。すると、ほどなく芽が出て伸びてゆき、雲よりも高くなった。そこで、三ネモがその蔓を何日も何日も上って行くと、とうとう天上に着き、天人たちに迎えられた。彼は、「瓜畑の番をしてほしい。しかし、いくら瓜が赤くなっても食べてはいけない」と言われ、毎日瓜の番をしていた。すると、たくさんの瓜があまりにおいしそうに成っているので、彼がとって食べていたら、にわかに大洪水が起こって流されてしまった。それを見て、天女は「七日、七日に会おう」と叫んだが、悪魔が「七月七日に会おう」と取り次いだ。
それ以来、天女は、年に一度、七月七日の夜に三ネモと会うことになった。また、三ネモの流された川は、天の川として、今も天に残っている。大呂の家には、残された子供の子孫が今も続いている。

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②磯砂山は花崗岩の山、丹後を代表する山らしい地層。

磯砂山登山道
コンパスも狂う鉄の山でもある。花崗岩に含まれる鉄分(磁鉄鉱)のせいか、これを還元すれば鉄が得られるという。
確かめようと安物のコンパスを持っていったのであるが、わずかの距離を移動しただけで、くるっと180度南北が狂う場所もある。観測場所はこの登山道途中のかなり上の方である。

↑左右の写真の位置の距離は50センチばかりであるが、北がこれくらい狂う。乙女の山らしく変わりやすくてうつろいで気まぐれで、わけわからん…
地磁気の反転か、日本列島が移動したためか、それとも落雷で多量の電流が流れた影響かも知れない。1億5000万年の歴史ある山なのでそのあいだに何があったか正確に反転場所を計測していけば原因がわかるかも知れない、朝鮮半島の東側で大陸にくっついていた時代のもの、 当方はそうした機材もヒマも見識深い頭も持ち合わせていないので、どなかたお願い申し上げる。

風化した花崗岩の山、崩れやすいもろい山。花崗岩は「おぼろ石」とか「ボロボロ石」と地元では呼ばれているとか。おんぼろ石、そんなおかげで鉄も採りやすかったのかも…

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③頂上に到着。展望台が作られている。何か碑か石柱が建てられていたような礎石がある、山頂からちょっと下った所に岩がある。「ケズラ石」と呼ばれている。「ケズラ」と呼ばれる灌木の葉に似ているからこの名があるという。

この花崗岩の岩塊はたぶんかつての磐座と思われる、豊受大神や天女はここでお祀りするのが本来と思われ、今では下へ降りてしまった多くの神社の故地であろうか。

④磯砂いさなご山(伊去奈子いさなこ嶽)はフツーは、一山四名、比治ひじ山・比沼ひぬ・ひち・ひぬま山・足占あしうら(葦占)山ともいうといわれるが、実は10コ以上も呼び名があるそうで、伊佐山、白雲山、真名井山、鳶尾山などとも古来呼び伝えられるとか。
イザナギ、イザナミと似た山名で、イサナゴは丹波の国生み神話と関わる名でなかろうか、あるいは歌垣山か、しかしそうした伝承は何も残されていない。
明治前は女人禁制の山であった。あるいは女池までは登れたがそれ以上は禁制だったともいう。女が登れば禍あると信じられていた。竹野川の最上流で最大支流の鱒留川と常吉川は、いずれも磯砂山塊から発している。
古代以来の大聖山で、麓の一帯には数多く超古い歴史が伝わっている。本当かどうなのか地元の史家すらもよくわからない深き失われつつある謎多き山とその広い山麓地帯。そんなことで強く引きつけられる古代史ファンの方々も多かろう。
ヒジ・フジ・クジとかこの山の周辺にはそんな地名や神社が多い。アシウラやイサ、ワシオもそうだろうが、クシフル系ソフル系の古代地名。まさかウソだろうと思われるかも知れないが、麓に藤社ふじこそ神社(式内社比沼麻奈為社比定説もある)が鎮座する。もともとはこの山上にあったものと思われるが、コソは朝鮮語であり、ここでは神社の意味に使われているのだが、そうすればセットのフジもそうだろうと思われるのである。元々がそうした渡来人(渡来人はフツー北方系だが、ここはそれと習合した文化を持つ南方系倭人系の渡来人か)たちが祀ったものであろうが、誰も解明はしていないよう。歴史は古く弥生期の地名と思われる。そんな山に入る、身が震えてくる感動ものです。

上の資料↑は『図説 韓国の歴史』(河出書房新社1988)による。

⑤女池はどちらかと言えば南面側だが、磯砂山にはもう一つ北面に池があるらしくて、それを男池おいけと呼ぶ、こちらの池と女池とはよく混同されて説明される。どちらが古来の真奈井なのか私にはよくわからない(磯砂山に真名井が実際には複数あったとしても別におかしいな話ではない、一つしかないと書かれた記録はどこにもなく、「答えは一つ」としか考え及ばない非科学的近代人が勝手にそう思い込んでいるだけのことである)。真名井の滝は山の北面側にあり、男池側になる。舞鶴の真名井なども元々はここが発祥地であろう。
女池はあるいは目池かも知れない、目と書いてマナと読み、女池とは真名井のことではなかろうか。

⑥七夕七夕とはホントはどんな日?

七月七日の「七夕の日」に、この山の天女は戻ってくると伝わる、その日は麓の安達家では祭礼が行われてきた。「七夕」とは一般には、あるいは子供用には織姫と彦星に限定された夜空の男女星の架空の話であるが、語られないが実は地上では人間の男女が織姫彦星と同じように会うことのできる特別な日であったと言われる。
それは隠されていて(権力には都合が悪い「悪習」なので)ほとんど知る人ともないようである、勝手に戦争を引き起こして人を殺すことは「悪習」でなく立派な当然の「自衛」権、アホほどそのために税金をを使いアホほども秘密で縛るのは「悪習」ではない、スンバラシイと心得ているようなクレージが言うことなど、ドアホクサイので、少し書き加えてみると、

鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 娘子(おとめ)壮士(をとこ)の 行き集ひ かがふ?歌(かがひ)に 人妻に 我も交はらむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より 禁(いさ)めぬ行事(わぎ)ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな
?歌は、東の俗語に「かがひ」と曰ふ
『万葉集』の高橋虫麻呂の「筑波の嶺に登りて?歌の会を為せし日に作りし歌一首」と題されている、有名な長歌である。短歌もついている。
大系本では、「鷲の住む筑波の山の裳羽服津のその津の辺りに、誘い合って男女が集まり、歌を掛け合って遊ぶ?歌(かがい)で、他人の妻と私も交わろう、私の妻に人も言い寄るがよい、この山を領治する神が昔から禁じていない行事だ、今日だけはいとしい妻も見るな、私のする事も咎めるな。(「?歌」は東国の言葉で「かがい」と言う)」と訳している。?の漢字は「曜」の偏が「女」。

筑波山の歌垣(かの地ではカガヒと呼んだ。踏歌(中国)とも呼ぶ、コトトイとも呼んだのではなかろうか)の様子で、『常陸風土記』によれば、春秋の二回あったという、足柄峠から東の国々(関東平野全域とその東の国々)の男女は続々と連れ立って、食べ物飲み物を用意して登った、この夜は性はまったくフリーで、この夜に相手が見つからないようなことではイッチョマエの娘とはしなかったと伝えている。主に未婚の若い男女なのだろうが、特にそうとも限られていない様子は虫麻呂が歌うのでわかる。
短歌に「時雨」の季語があり、季節は秋とされている、「立秋」は8月7日くらいで、月遅れの七夕の日(陰暦)は秋の始まりの日であった。七夕の日の出来事でなかったかと想像もできるのである。
「七夕」の和歌は腐るほども残されているが、当時の人々にはわかりきったことなので、;品もアラレもなくモロ出しに「七夕」の行事内容が歌われたりはしていないが、現代人でもそのつもりで読めば、だいたいの様子が伝わってくる。
『懐風藻』に、紀朝臣男人の、「五言。七夕。一首。」がある。冒頭部分は、
犢鼻(たふさぎ)を竿に標(かか)ぐる日、…
犢鼻というのは「褌、下袴の類」と大系本は注している。今流に訳せば、七夕というのは、パンツを脱いで竹の竿に結びつけて、それを目印とした日というのである。七夕の夜は星の話や、竹に短冊を結びつけたりするのは子供用の話で、地上の七月七日の夜は大人の男女は、それぞれ自分のパンツを脱いで、それを竹の竿に結びつけて、「ここにいるぞ」「ここにいるわよ」と呼び合った夜だったということのようである。この漢詩全体は、「男女二星の一年に一度の逢会の喜びの情はまだ半分にも満たないのに(天上の二星の歓情はまだ十分尽しきれないのに)、夜は白みはじめ、天の河には暁の光がさしはじめている。」と歌っている。天上の話にして、実は地上の男女の心情を歌ったように思われる。これなどは七夕の風習がよくわかるものである。虫麻呂にしても男人にしても国家権力のエライさん、当時では超一流の紳士で文化人だが、民衆ばかりでなく、彼らとて同じように加わっていた。
・・・・人類の歴史10万年と見て、その9万9千年間はこうした慣習があった。最近の千年ほどでそれは忘れられて、特に日本では昭和に入ったころには忘れられた、忘れたこともスコーンと忘れて、支配者どもの考えで、それまでは神聖であったが、性はいかがわしい忌むべき隠すべきカレラ権力によって取り締まられるべきものにおとしめられるようになった。この風習の変化と見られる「夜這い」はごく最近までワレラの近くで見られたものであったという、

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⑦七月七日は牽牛と織姫の星祭は中国的な伝説で、倭国ではずっと古くは、重要な神(王)が現れる、あるいは重要な神(王)が亡くなる、そうした日ではなかったのかと、浦島太郎さんもこの日に漁に出て常世へ行ったという、常世は常夜でヨミの国でもある、浦島太郎さんは七月七日にあの世へ行きました、という話であり、彼(神なのか王なのか)この日に死んだということである、死は悲しいしことなのか、それとも喜びなのか、当時はどう考えられていたのかは不明、しかし親恋しさに彼はよみがえる、手に玉手箱という死の箱を持たされて。ヨミの国から帰ってくる、死から蘇生するのはイザナギや大国主、山幸彦と同じであり、浦島太郎は丹後の国生・国作の始祖神(王)であったのかも知れない。そのほか各地の伝承など見てみれば思わされるが、こうした特異な日と認識されていたのではなかろうか。
七月七日は立秋であり秋の始まり、これまでの神(王)が常夜へ去り、新しい神が常夜より現れる日なのかも知れない、ネブタも元々はこの日に行われたといい、穢れ禍いや邪鬼が追われる、送られる、流される、焼かれる、殺される、と観念された日かも知れない。
八日の夜明けとともにすべて穢れた過去はすべてリセットされ、なかったこととされる、まことに都合のよく過去の禍いがすべて払われて、マッサラの新しい年、新しい世界が始まる「年度終い」「年度始め」 。
対になるのが節分の次の日の立春、古くはこの日が正月と考えられていた。七月七日も正月とする1年を2年と数える、2倍年暦があったものかも…

天女伝説や建国伝説は元々は何も我国のものではなかろう。渡来人たちが持ってきたものであろう。それは半万年の歴史をもっているが、そこにつながるのでは…
白頭山山頂の天池
真名井のはるかな故地はここか。写真は白頭山(長白山)の天池(2500m超の16の峰々に取り囲まれて周囲13キロ、深さ200m超ばかり)。天の真名井がもしここなら、高天原もここになろうか…、日本族ばかりでなく、朝鮮族や満州族の太古よりの大聖池、近くでは清朝もここを聖地としていたという。
「白頭山」「長白山」

〈 白頭山 韓(朝鮮)半島の北端にある標高2744mの最も高い山で、この民族の象徴的な存在でもある。古くから神秘性の高い山で、壇君の生誕地や建国神話の舞台にもなった。中国では長白山と呼ぶ。頂上に天池がある。  〉
摩尼山開天祭・仙女の舞 ↓

暫城壇 江華島摩尼山の山頂にある方形の祭壇。壇君が天神への祭りを行ったという。↓

↑摩尼山開天祭 10月3日は壇君の古朝鮮建国の日に定められている。その日、暫城壇で祭天儀式を行い、八仙女の舞が献舞される。
上の資料↑は『図説 韓国の歴史』(河出書房新社1988)による。

古くは磯砂山の頂上でもこうした舞が奉納されていたのかも知れないが、日本でも8名の天女が舞い降りたことになっている。これは北斗七星のことで、七星ではなく、一つに連星があって八つ星とされているのだが、日本の場合はこれは豊受大神に習合される。天照大神は北極星で、これは天皇にも習合される。だから大和権力による政治的人為的にゆがめられた宗教観念に基づく伝説と思われる。残缺にはこんな話はなく、こちらが本来のこの地の伝説かも知れない。
キトラ古墳の星宿図
キトラ古墳(7世紀)の星宿図の北斗七星↑。直径6ミリの金箔を貼って星を表しているが、もうはげ落ちたのか柄の部分の最後の星(大熊座η星)は見えない、その次の二つくっついているのが、ミザールとアルコルの肉眼でも見えるという二重星(グルグルとお互いに回り合っている連星。これらもそれぞれ連星というが肉眼では見えない)。北斗七星は実は8つの星と見られていたようである。風土記当時、日本天文学がどこまで発達していたかは不明だが、ここに表された天文知識は外来のもので、高句麗からだとか唐からだとか言われている。

磯砂山は聖山なので地元ではその信仰伝承の口外が長らく禁止されてきたというし、また皇国史観の狂気吹き荒れた戦時中などは、この山の周辺から高天ケ原や真名井など天皇の出自に関わってきそうな歴史について、皇国史観以外の立場から疑念的な発表をしたりしようものなら、即官憲が飛んできた、ヘタすれば殺されかねない、即免職、転勤、解雇になった人もかなりあったと言い伝えられている。溝谷神社(弥栄町溝谷の式内社)が古来新羅明神と呼ばれて、それを日本人が拝む、なんでチョーセン(差別用語)を拝むんじゃ、天皇陛下だけを拝んでいればいいのだ、オマエらおかしいと厳しく取り調べられたという、今でもこんな大変に困った子孫がけっこういるくらいだから、当時ならさぞや大変であったことだろう、インチキと大ウソがバレバレになってしまう、ここは調べるな、の特定機密の場所だったのである。
先人たちは知っていたかも知れないが、書き残されることはなかった、うっかりした事を言えば刑務所行き、虐殺される、そうした山であった。
天皇さん神さんとするために、時の権力が秘密だ、漏らせば死刑だと暗にしてきたためか、せっかくの伝説はそれ以後は発展させられることなく、蝦蟇棲む池となっていった。他国ではみごとに昇華させて世界的芸術までに高めていた。恥ずかしいのぉ。乙女の山には不似合いな、そうしたあまり知られない暗黒の日本史もまた秘めている。秘密保護法なとどいうものは本当はそうしたネライを「二度繰り返す」ものである。

天孫の壇君が建国したのは紀元前2333年という。これを古朝鮮、壇君朝鮮と呼ぶ。朝鮮の支配者はどの国もすべて天孫であった。どこかの国の全体支配者も同じ、そしてどこかの地方支配者もまたその別れのようで天孫であったよう。このあまり知られない山(日本では)はこんなどこかの国家発生の秘密を見せてくれる。
チョンマゲは満州族の弁髪の一種といった人があったが、そうかも知れない、尺八という楽器は私は日本古来の日本だけのものかと思っていたが、白頭山の中国側麓にもよく似た楽器があるようで、テレビで見て、ヤハリなぁと思わざるを得なかった。

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きっちりと残しておいてやらねば、のお気持ちがひしひしつたわります、真実は豊かな想像力のあるところにのみ姿を現すもの、登山ガイドとして携えておきたいものです。

なに、思ってんの!

20211120_163755何思ってんの h知れメロス

「走れメロスのこと」

メロスは帰ってくると思う?

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「思う きっと帰ってくると思う」

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メロスたちが走っています、夕日に向かって。

20211120_162902走れメロスの夕日

「メロス、読んでみよ!」

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[メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐じゃちぼうぎゃくの王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。]

 

冬至を前に、阿蘇海は「メロスの海」。

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時刻は、4時30分頃。

里モミジもいいけど、野趣は、やっぱ、山モミジ!

20211120_150047モミジ野生

車利用なら、樹種が多様なので、カラフルな丹後縦貫林道成相線モミジ・

20211120_145151モミジ

樹が大きくて迫力のあるモミジが楽しめます。

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ウオークの余裕があるなら、11月下旬の内山ブナ林・東谷がおすすめ。

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ブナが葉を落とし、あかるくなった林の下層の木々たち

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充実したクロモジ黄葉が楽しめます。

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空を見上げること、おわすれなく。

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すっかり春待ちモードの梢も見どころですよ。

 

「しぶ・い【渋い】は、舌がしびれるような味とする、国語辞典ほぼみなが、たとえば、と引き合いに出すのが、あんたやて」

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「うちを、ほう それは 光栄なこと」

20211119_163540柿柿

そうクリ君を押しのけて 渋柿を食べたときなどの、舌がしびれるような味である。」と書いてあるんやて。

Q: 渋い とはどういう意味ですか?(こんな質問する人、やっぱいらっしゃるんですよ)

どうこたえてはんの?

A: もともとは「苦い/酸っぱい味」です。
食べると顔にシワが寄るので、「渋い顔をする」で「不満そうな顔、嫌そうな顔」を表します。
長い時間置いていた食べ物は「渋く」なるので、「深みのある」「落ち着いた」という、ポジティブな意味も増えました。
30年くらい前に「かっこいい」という意味の使い方が流行りました。

20211119_162237かき柿

今の人たちは、その「舌がしびれるような味」の本当のところをしらんやろ、 一度体験しとくといいねー!
さて、そんな柿でも、月夜の柿は甘くなる、

柿1夜柿1

 

(↑ 山尾太郎君撮影)

嘘かほんとか、、うーそぴょん、、、

でも、皆既月食の夜の柿は、ひょっとして甘くなるかもしれないと

軽トラックを集めてライトアップ。

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撮影は、やっぱそうは甘くはありませんでしたけれど、集まった人たちみんな、気分はなんだか幸せになりました。

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ところで、同じ時間 こっちではこんな写真を撮ってらっしゃたと、ネットをにぎやかしている月のはなし 。

画像

なぜ、こんなに月が大きいの? 撮影方法は…

五箇は大呂の乙女神社。

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境内にはシイが一本だけ、

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乙女神社は、天女のまとった羽衣は、かくあらん!そう思えるおみやさんを創ろうという気持ちがうれしい丹後のモミジスポット、

「はよいっときなれ すぐゆきになるで」

20211119_124733はごろものさと

羽衣ロマン、その伝承を解説する隣接の「はごろものさと」も、おすすめ。

20211119_124549はごろも

ただ、その展示品や解説には、「この山でなぜ天女か、天女はなぜ羽衣をまとっていたのか 羽衣を隠した、天女は山を追われた、というのは何を意味するのか、」などの疑問に答えるものは見当たりません、むいたところはどうなの?「羽衣」とはなんだったか、古代の状況のなかで大胆に解説してあってもいいかもしれませんね、

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