磯砂山661m・山頂
「この山でなぜ天女か、天女はなぜ羽衣をまとっていたのか 羽衣を隠した、天女は山を追われた、というのは何を意味するのか、」などの疑問に答えるものは見当たりません、むいたところはどうなの?「羽衣」とはなんだったか、古代の状況のなかで大胆に解説してあってもいいかもしれませんね]と問う向きがあります、お答えいただけませんか、と、磯砂山山頂の天女さんに、突撃直接インタビュー。
重力に逆らう空中浮揚などできるものなど、あるはずはないじゃあありませんか、あなたは何かの化身であるはず
何の化身なのですか?
お答えになりにくいですか、ずばり申し上げましょうか、
、
どうですか、、、
(~表情に動揺~)
あなたは火だ
揺れるその炎を、人は、赤い衣をまとったダンサーに喩えたのでしょう!
~hohohohoho、天の羽衣は?~
炎が体なら、天の羽衣は、煙です、そして、天の橋立と天の羽衣は一体のもの。天と地を結んだ橋はじつは、橋立の国府と磯砂山とを結んだ情報ライン。
時は、大和軍が白村江の戦に敗れたころ、、、
「山頂からの眺望は素晴らしく、360°の大パノラマで丹後の殆どの山々を見渡すことが出来き、地域の人々の手軽なトレッキングコースとして親しまれています。」この山頂の火と煙の意味するところは、最重要の軍事施設であること、そのカモフラージュのための羽衣伝説、そうじゃああっりませんか!
「よくおかんがえになりましたこと、、、あなたには洗いざらいお話申し上げましょう、、、」
、、、ということになればいいですね。
火と女の関係のアイデアは、炭焼き達人の矢野さんがおっしゃった「火はうちのかかあみたいだ」の一言から膨らませました。
曰く「世話が大事、燃え上がらせるには、」「炭は女を扱うように掻き出せ」
この磯砂山、登ってみませんか、
スピードなら大呂1000段コース、
じっくりゆっくりなら、大萱林間コース。
さて、古今東西360度の視野と資料をもって、強記博覧の謎探り、丹後掘り下げには不可欠の名サイト「丹後の地名」、ここに氏の磯砂山登山記があります。
「丹後一は言うまでもなく、古代の丹波一の名山、弥生から古墳期の渡来人たちの先祖もここに天降った山であり、建国神話とかかわる。」として、健筆をふるってくださっています。
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360度の展望がある。日本海側は天橋立から、久美浜湾の小天橋まで見えた、日本海上の船からも見えるらしい。振り向けば京都の愛宕山も見えるという、この日は少々降砂ぎみでそんな遠くまでは見通せなかった。
丹後一は言うまでもなく、古代の丹波一の名山、『摂津国風土記』にも「豊宇可乃売神が丹波国比遅麻奈韋に遷せり」とある。伊勢外宮へ遷ったとは書かれてはいない。豊受大神降臨の信仰の山、我国の建国と深くかかわり、またこの山の羽衣(天女)伝説は我国最古の文献として伝わり全国的にも知られる。弥生から古墳期の渡来人たちの先祖もここに天降った山であり、建国神話とかかわる。
、、、これは、必見。以下、その引用。
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①『逸文風土記』丹後国
〈 奈具社
丹後の国の風土記に曰はく、丹後の国丹波の郡。郡家の西北の隅の方に比治の里あり。此の里の比治山の頂に井あり。其の名を眞奈井と云ふ。今は既に沼と成れり。此の井に天女八人降り来て水浴みき。時に老夫婦あり。其の名を和奈佐の老夫・和奈佐の老婦と曰ふ。此の老等、此の井に至りて、竊かに天女一人の衣裳を取り蔵しき。即て衣裳ある者は皆天に飛び上りき。但、衣裳なき女娘一人留まりて、即ち身は水に隠して、獨懐愧ぢ居りき。爰に、老夫、天女に謂ひけらく、「吾は児なし。請ふらくは、天女娘、汝、児と爲りませ」といひき。(天女、答へけらく、「妾獨人間に留まりつ。何ぞ敢へて従はざらむ。請ふらくは衣裳を許したまへ」といひき。老夫、」「天女娘、何ぞ欺かむと存ふや」と曰へば、天女の云ひけらく、「凡て天人の志は、信を以ちて本と爲す。何ぞ疑心多くして、衣裳を許さざる」といひき。老夫答へけらく、「疑多く信なきは率土の常なり。故、此の心を以ちて、許さじと爲ひしのみ」といひて、遂に許して、)即ち相副へて宅に往き、即ち相住むこと+餘歳なりき。爰に、天女、善く酒を醸み爲りき。一坏飲めば、吉く万の病除ゆ。其の一坏の直の財は車に積みて送りき。時に、其の家豊かに、土形富めりき。故、土形の里と云ひき。此を中間より今時に至りて、便ち比治の里と云ふ。後、老夫婦等、天女に謂ひけらく、「汝は吾が児にあらず。暫く借に住めるのみ。早く出で去きね」といひき。ここに、天女、天を仰ぎて哭慟き、地に俯して哀吟しみ、即て老夫等に謂ひけらく、「妾は私意から来つるにあらず。是は老夫等が願へるなり。何ぞ厭悪ふ心を発して、忽に出し去つる痛きことを存ふや」といひき。老夫、増発瞋りて去かむことを願む。天女、涙を流して、微しく門の外に退き、郷人に謂ひけらく、「久しく人間に沈みて天に還ることを得ず。復、親故もなく、居らむ由を知らず。吾、何にせむ、何にせむ」といひて、涙を拭ひて嗟歎き、天を仰ぎ」て哥ひしく、
天の原 ふり放け見れば
霞立ち 家路まどひて
行方知らずも。
遂に退き去きて荒塩の村に至り、即ち村人等に謂ひけらく、「老父老婦の意を思へば、我が心、荒塩に異なることなし」といへり。仍りて比治の里の荒塩の村と云ふ。亦、丹波の里の哭木の村に至り、槻の木に據りて哭きき。故、哭木の村と云ふ。復、竹野の郡船木の里の奈具の村に至り、即ち村人等に謂ひけらく、「此處にして、我が心なぐしく成りぬ。古事に平善きをば奈具志と云ふ。」といひて、乃ち此の村に留まり居りき。斯は、謂はゆる竹野の郡の奈具の社に坐す豊宇賀能賣命なり。(古事記裏書・元元集)(日本古典文学大系2) 〉
逸文風土記の地理記述の通りなら、比治山というのは今の久次山(咋石嶽・真名井山)で、比治の里とは久次の集落、郡家は五箇のあたりにあったことになる。荒塩村は新治あたりではなかろうか。逸文風土記にもとづく限りは今の磯砂山であったとは考えようがない。
しかし逸文風土記は郡家の伝え(丹波王家の伝え)であって、麓の安達家はじめ民衆のレベルでは磯砂山とも伝わっていたのでなかろうか。丹波王家の始祖神が天降ったのは久次山のように思われる。天女が降りる以前にワナサという人々がこの地にすでにいたのであろうか。ワナサは阿波の海人か。「倭の水人」が竹野川をさかのぼってここに先住していた場所へのちに渡来系がやってきたということか。
『丹後風土記残欠』
〈 当国は往昔天火明神等の降臨の地也。たぶん丹後国は丹波国と合せ一国を為したのであろう。日本根子天津御代豊国成姫天皇(元明天皇)の御宇に、詔して丹波国の五郡を割いて丹後国を置いた。丹波と号くる所以は、豊宇気大神が当国の伊去奈子嶽に天降りたる時に、天道日女命等が大神に五穀及び桑蚕等の種を請い求めて、其嶽に真名井を掘り、其水を潅いで水田陸田を定めて、悉く植えた。そうすると秋の垂穎が長く盛んに茂り、甚だしく快かった。大神は之を見て大いに歓喜び、ほんとうに良い(以下意味不明「而植彌之子田庭」とある。勘注系図の彦火明命条には、ここは「面植彌之与田庭」とあって、籠神社では、”田植満てし田庭”と読んでいる)田庭だ、といった。その後にまた大神は高天原に登った。それで田庭と云う。
丹波・旦波・但波、以上其文字皆、多爾波の訓である。
国の大体。首離尾坎東西壱百拾四里壱百参拾歩。南北七拾貮里壱百拾歩。東隣若狭国。西隣但馬国。南隣丹波国。北海に接す。
国中に所在の山川海野、其産する所の禽獣、草木、魚亀等は悉くこれを記すを得ず。但し其一二を郡毎の条の下に記す。(以下三行虫食) 〉
『京都の伝説・丹後を歩く』
〈 伝承地 中郡峰山町大路
昔むかし、大呂に三ネモという若い猟師がいた。ある夏の暑い日に、足占山(磯砂山)に登った。その頂上付近には池があって、その近くの木の枝に、見たこともない、きれいな着物がかけてあった。三ネモは正直者で、他人の物など盗んだことはなかったが、あまりきれいなので、持って帰りたくなった。そこで、手で取るのは悪いと思い、鉄砲の先に引っかかったようにして取り、大急ぎでわが家に帰って、その着物を隠した。
その池で泳いでいたのは天女であったが、水から上がって着物を着ようとすると、着物がなかった。そこで、三ネモを調べてみようと思って、きれいな娘に化け、彼の家にやって来て、「家に置いてくれ」と頼んだ。三ネモは一人暮らしてあったし、きれいな娘でもあったので、彼女を家に置くことにし、嫁になってもらった。天女は家の中を調べてみたが、羽衣は見当らない。そのうちに子供ができて、三歳にもなった。
ある日、天女が子供に「お父さんは毎朝どこを拝んでいるのか」と尋ねると、子供は床の柱だと教えた。そこで、天女は、三ネモが出かけた後で床の柱をよく調べてみると、柱の下のところに埋め木がしてあった。不審に思い、それを外してみると、中には羽衣が入れられていた。天女は、これさえあれば天に帰れる、と喜んで「もしわたしに会いたいなら、千荷の堆肥の上にこの種を播き、蔓が伸びたら、それを伝って来てほしい」と書き置きをして、羽衣を着て天に帰っていった。
仕事から帰ってきた三ネモは、天女だったらなおのこと別れてなるものか、と、村人たちに頼んで千荷の堆肥を積み重ね、天女が残した種を播いた。すると、ほどなく芽が出て伸びてゆき、雲よりも高くなった。そこで、三ネモがその蔓を何日も何日も上って行くと、とうとう天上に着き、天人たちに迎えられた。彼は、「瓜畑の番をしてほしい。しかし、いくら瓜が赤くなっても食べてはいけない」と言われ、毎日瓜の番をしていた。すると、たくさんの瓜があまりにおいしそうに成っているので、彼がとって食べていたら、にわかに大洪水が起こって流されてしまった。それを見て、天女は「七日、七日に会おう」と叫んだが、悪魔が「七月七日に会おう」と取り次いだ。
それ以来、天女は、年に一度、七月七日の夜に三ネモと会うことになった。また、三ネモの流された川は、天の川として、今も天に残っている。大呂の家には、残された子供の子孫が今も続いている。
②磯砂山は花崗岩の山、丹後を代表する山らしい地層。
磯砂山登山道
コンパスも狂う鉄の山でもある。花崗岩に含まれる鉄分(磁鉄鉱)のせいか、これを還元すれば鉄が得られるという。
確かめようと安物のコンパスを持っていったのであるが、わずかの距離を移動しただけで、くるっと180度南北が狂う場所もある。観測場所はこの登山道途中のかなり上の方である。
↑左右の写真の位置の距離は50センチばかりであるが、北がこれくらい狂う。乙女の山らしく変わりやすくてうつろいで気まぐれで、わけわからん…
地磁気の反転か、日本列島が移動したためか、それとも落雷で多量の電流が流れた影響かも知れない。1億5000万年の歴史ある山なのでそのあいだに何があったか正確に反転場所を計測していけば原因がわかるかも知れない、朝鮮半島の東側で大陸にくっついていた時代のもの、 当方はそうした機材もヒマも見識深い頭も持ち合わせていないので、どなかたお願い申し上げる。
風化した花崗岩の山、崩れやすいもろい山。花崗岩は「おぼろ石」とか「ボロボロ石」と地元では呼ばれているとか。おんぼろ石、そんなおかげで鉄も採りやすかったのかも…
③頂上に到着。展望台が作られている。何か碑か石柱が建てられていたような礎石がある、山頂からちょっと下った所に岩がある。「ケズラ石」と呼ばれている。「ケズラ」と呼ばれる灌木の葉に似ているからこの名があるという。
この花崗岩の岩塊はたぶんかつての磐座と思われる、豊受大神や天女はここでお祀りするのが本来と思われ、今では下へ降りてしまった多くの神社の故地であろうか。
④磯砂いさなご山(伊去奈子いさなこ嶽)はフツーは、一山四名、比治ひじ山・比沼ひぬ・ひち・ひぬま山・足占あしうら(葦占)山ともいうといわれるが、実は10コ以上も呼び名があるそうで、伊佐山、白雲山、真名井山、鳶尾山などとも古来呼び伝えられるとか。
イザナギ、イザナミと似た山名で、イサナゴは丹波の国生み神話と関わる名でなかろうか、あるいは歌垣山か、しかしそうした伝承は何も残されていない。
明治前は女人禁制の山であった。あるいは女池までは登れたがそれ以上は禁制だったともいう。女が登れば禍あると信じられていた。竹野川の最上流で最大支流の鱒留川と常吉川は、いずれも磯砂山塊から発している。
古代以来の大聖山で、麓の一帯には数多く超古い歴史が伝わっている。本当かどうなのか地元の史家すらもよくわからない深き失われつつある謎多き山とその広い山麓地帯。そんなことで強く引きつけられる古代史ファンの方々も多かろう。
ヒジ・フジ・クジとかこの山の周辺にはそんな地名や神社が多い。アシウラやイサ、ワシオもそうだろうが、クシフル系ソフル系の古代地名。まさかウソだろうと思われるかも知れないが、麓に藤社ふじこそ神社(式内社比沼麻奈為社比定説もある)が鎮座する。もともとはこの山上にあったものと思われるが、コソは朝鮮語であり、ここでは神社の意味に使われているのだが、そうすればセットのフジもそうだろうと思われるのである。元々がそうした渡来人(渡来人はフツー北方系だが、ここはそれと習合した文化を持つ南方系倭人系の渡来人か)たちが祀ったものであろうが、誰も解明はしていないよう。歴史は古く弥生期の地名と思われる。そんな山に入る、身が震えてくる感動ものです。
上の資料↑は『図説 韓国の歴史』(河出書房新社1988)による。
⑤女池はどちらかと言えば南面側だが、磯砂山にはもう一つ北面に池があるらしくて、それを男池おいけと呼ぶ、こちらの池と女池とはよく混同されて説明される。どちらが古来の真奈井なのか私にはよくわからない(磯砂山に真名井が実際には複数あったとしても別におかしいな話ではない、一つしかないと書かれた記録はどこにもなく、「答えは一つ」としか考え及ばない非科学的近代人が勝手にそう思い込んでいるだけのことである)。真名井の滝は山の北面側にあり、男池側になる。舞鶴の真名井なども元々はここが発祥地であろう。
女池はあるいは目池かも知れない、目と書いてマナと読み、女池とは真名井のことではなかろうか。
⑥七夕七夕とはホントはどんな日?
七月七日の「七夕の日」に、この山の天女は戻ってくると伝わる、その日は麓の安達家では祭礼が行われてきた。「七夕」とは一般には、あるいは子供用には織姫と彦星に限定された夜空の男女星の架空の話であるが、語られないが実は地上では人間の男女が織姫彦星と同じように会うことのできる特別な日であったと言われる。
それは隠されていて(権力には都合が悪い「悪習」なので)ほとんど知る人ともないようである、勝手に戦争を引き起こして人を殺すことは「悪習」でなく立派な当然の「自衛」権、アホほどそのために税金をを使いアホほども秘密で縛るのは「悪習」ではない、スンバラシイと心得ているようなクレージが言うことなど、ドアホクサイので、少し書き加えてみると、
鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 娘子(おとめ)壮士(をとこ)の 行き集ひ かがふ?歌(かがひ)に 人妻に 我も交はらむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より 禁(いさ)めぬ行事(わぎ)ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな
?歌は、東の俗語に「かがひ」と曰ふ
『万葉集』の高橋虫麻呂の「筑波の嶺に登りて?歌の会を為せし日に作りし歌一首」と題されている、有名な長歌である。短歌もついている。
大系本では、「鷲の住む筑波の山の裳羽服津のその津の辺りに、誘い合って男女が集まり、歌を掛け合って遊ぶ?歌(かがい)で、他人の妻と私も交わろう、私の妻に人も言い寄るがよい、この山を領治する神が昔から禁じていない行事だ、今日だけはいとしい妻も見るな、私のする事も咎めるな。(「?歌」は東国の言葉で「かがい」と言う)」と訳している。?の漢字は「曜」の偏が「女」。
筑波山の歌垣(かの地ではカガヒと呼んだ。踏歌(中国)とも呼ぶ、コトトイとも呼んだのではなかろうか)の様子で、『常陸風土記』によれば、春秋の二回あったという、足柄峠から東の国々(関東平野全域とその東の国々)の男女は続々と連れ立って、食べ物飲み物を用意して登った、この夜は性はまったくフリーで、この夜に相手が見つからないようなことではイッチョマエの娘とはしなかったと伝えている。主に未婚の若い男女なのだろうが、特にそうとも限られていない様子は虫麻呂が歌うのでわかる。
短歌に「時雨」の季語があり、季節は秋とされている、「立秋」は8月7日くらいで、月遅れの七夕の日(陰暦)は秋の始まりの日であった。七夕の日の出来事でなかったかと想像もできるのである。
「七夕」の和歌は腐るほども残されているが、当時の人々にはわかりきったことなので、;品もアラレもなくモロ出しに「七夕」の行事内容が歌われたりはしていないが、現代人でもそのつもりで読めば、だいたいの様子が伝わってくる。
『懐風藻』に、紀朝臣男人の、「五言。七夕。一首。」がある。冒頭部分は、
犢鼻(たふさぎ)を竿に標(かか)ぐる日、…
犢鼻というのは「褌、下袴の類」と大系本は注している。今流に訳せば、七夕というのは、パンツを脱いで竹の竿に結びつけて、それを目印とした日というのである。七夕の夜は星の話や、竹に短冊を結びつけたりするのは子供用の話で、地上の七月七日の夜は大人の男女は、それぞれ自分のパンツを脱いで、それを竹の竿に結びつけて、「ここにいるぞ」「ここにいるわよ」と呼び合った夜だったということのようである。この漢詩全体は、「男女二星の一年に一度の逢会の喜びの情はまだ半分にも満たないのに(天上の二星の歓情はまだ十分尽しきれないのに)、夜は白みはじめ、天の河には暁の光がさしはじめている。」と歌っている。天上の話にして、実は地上の男女の心情を歌ったように思われる。これなどは七夕の風習がよくわかるものである。虫麻呂にしても男人にしても国家権力のエライさん、当時では超一流の紳士で文化人だが、民衆ばかりでなく、彼らとて同じように加わっていた。
・・・・人類の歴史10万年と見て、その9万9千年間はこうした慣習があった。最近の千年ほどでそれは忘れられて、特に日本では昭和に入ったころには忘れられた、忘れたこともスコーンと忘れて、支配者どもの考えで、それまでは神聖であったが、性はいかがわしい忌むべき隠すべきカレラ権力によって取り締まられるべきものにおとしめられるようになった。この風習の変化と見られる「夜這い」はごく最近までワレラの近くで見られたものであったという、
⑦七月七日は牽牛と織姫の星祭は中国的な伝説で、倭国ではずっと古くは、重要な神(王)が現れる、あるいは重要な神(王)が亡くなる、そうした日ではなかったのかと、浦島太郎さんもこの日に漁に出て常世へ行ったという、常世は常夜でヨミの国でもある、浦島太郎さんは七月七日にあの世へ行きました、という話であり、彼(神なのか王なのか)この日に死んだということである、死は悲しいしことなのか、それとも喜びなのか、当時はどう考えられていたのかは不明、しかし親恋しさに彼はよみがえる、手に玉手箱という死の箱を持たされて。ヨミの国から帰ってくる、死から蘇生するのはイザナギや大国主、山幸彦と同じであり、浦島太郎は丹後の国生・国作の始祖神(王)であったのかも知れない。そのほか各地の伝承など見てみれば思わされるが、こうした特異な日と認識されていたのではなかろうか。
七月七日は立秋であり秋の始まり、これまでの神(王)が常夜へ去り、新しい神が常夜より現れる日なのかも知れない、ネブタも元々はこの日に行われたといい、穢れ禍いや邪鬼が追われる、送られる、流される、焼かれる、殺される、と観念された日かも知れない。
八日の夜明けとともにすべて穢れた過去はすべてリセットされ、なかったこととされる、まことに都合のよく過去の禍いがすべて払われて、マッサラの新しい年、新しい世界が始まる「年度終い」「年度始め」 。
対になるのが節分の次の日の立春、古くはこの日が正月と考えられていた。七月七日も正月とする1年を2年と数える、2倍年暦があったものかも…
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天女伝説や建国伝説は元々は何も我国のものではなかろう。渡来人たちが持ってきたものであろう。それは半万年の歴史をもっているが、そこにつながるのでは…
白頭山山頂の天池
真名井のはるかな故地はここか。写真は白頭山(長白山)の天池(2500m超の16の峰々に取り囲まれて周囲13キロ、深さ200m超ばかり)。天の真名井がもしここなら、高天原もここになろうか…、日本族ばかりでなく、朝鮮族や満州族の太古よりの大聖池、近くでは清朝もここを聖地としていたという。
「白頭山」「長白山」
〈 白頭山 韓(朝鮮)半島の北端にある標高2744mの最も高い山で、この民族の象徴的な存在でもある。古くから神秘性の高い山で、壇君の生誕地や建国神話の舞台にもなった。中国では長白山と呼ぶ。頂上に天池がある。 〉
摩尼山開天祭・仙女の舞 ↓
暫城壇 江華島摩尼山の山頂にある方形の祭壇。壇君が天神への祭りを行ったという。↓
↑摩尼山開天祭 10月3日は壇君の古朝鮮建国の日に定められている。その日、暫城壇で祭天儀式を行い、八仙女の舞が献舞される。
上の資料↑は『図説 韓国の歴史』(河出書房新社1988)による。
古くは磯砂山の頂上でもこうした舞が奉納されていたのかも知れないが、日本でも8名の天女が舞い降りたことになっている。これは北斗七星のことで、七星ではなく、一つに連星があって八つ星とされているのだが、日本の場合はこれは豊受大神に習合される。天照大神は北極星で、これは天皇にも習合される。だから大和権力による政治的人為的にゆがめられた宗教観念に基づく伝説と思われる。残缺にはこんな話はなく、こちらが本来のこの地の伝説かも知れない。
キトラ古墳の星宿図
キトラ古墳(7世紀)の星宿図の北斗七星↑。直径6ミリの金箔を貼って星を表しているが、もうはげ落ちたのか柄の部分の最後の星(大熊座η星)は見えない、その次の二つくっついているのが、ミザールとアルコルの肉眼でも見えるという二重星(グルグルとお互いに回り合っている連星。これらもそれぞれ連星というが肉眼では見えない)。北斗七星は実は8つの星と見られていたようである。風土記当時、日本天文学がどこまで発達していたかは不明だが、ここに表された天文知識は外来のもので、高句麗からだとか唐からだとか言われている。
磯砂山は聖山なので地元ではその信仰伝承の口外が長らく禁止されてきたというし、また皇国史観の狂気吹き荒れた戦時中などは、この山の周辺から高天ケ原や真名井など天皇の出自に関わってきそうな歴史について、皇国史観以外の立場から疑念的な発表をしたりしようものなら、即官憲が飛んできた、ヘタすれば殺されかねない、即免職、転勤、解雇になった人もかなりあったと言い伝えられている。溝谷神社(弥栄町溝谷の式内社)が古来新羅明神と呼ばれて、それを日本人が拝む、なんでチョーセン(差別用語)を拝むんじゃ、天皇陛下だけを拝んでいればいいのだ、オマエらおかしいと厳しく取り調べられたという、今でもこんな大変に困った子孫がけっこういるくらいだから、当時ならさぞや大変であったことだろう、インチキと大ウソがバレバレになってしまう、ここは調べるな、の特定機密の場所だったのである。
先人たちは知っていたかも知れないが、書き残されることはなかった、うっかりした事を言えば刑務所行き、虐殺される、そうした山であった。
天皇さん神さんとするために、時の権力が秘密だ、漏らせば死刑だと暗にしてきたためか、せっかくの伝説はそれ以後は発展させられることなく、蝦蟇棲む池となっていった。他国ではみごとに昇華させて世界的芸術までに高めていた。恥ずかしいのぉ。乙女の山には不似合いな、そうしたあまり知られない暗黒の日本史もまた秘めている。秘密保護法なとどいうものは本当はそうしたネライを「二度繰り返す」ものである。
天孫の壇君が建国したのは紀元前2333年という。これを古朝鮮、壇君朝鮮と呼ぶ。朝鮮の支配者はどの国もすべて天孫であった。どこかの国の全体支配者も同じ、そしてどこかの地方支配者もまたその別れのようで天孫であったよう。このあまり知られない山(日本では)はこんなどこかの国家発生の秘密を見せてくれる。
チョンマゲは満州族の弁髪の一種といった人があったが、そうかも知れない、尺八という楽器は私は日本古来の日本だけのものかと思っていたが、白頭山の中国側麓にもよく似た楽器があるようで、テレビで見て、ヤハリなぁと思わざるを得なかった。
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きっちりと残しておいてやらねば、のお気持ちがひしひしつたわります、真実は豊かな想像力のあるところにのみ姿を現すもの、登山ガイドとして携えておきたいものです。