宮津エコツアー · 世屋・高山ガイド部会

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世屋・高山ガイド部会の活動ブログ

池井先生のお元気な様子を伝える毎日新聞。

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池井さんは『丹後縦貫林道ものがたり』Ⅴ碑よ語れの章p54p55に登場願った方、丹後縦貫林道でつながる碇高原の麓の丹後町虎杖小の子どもたちと世屋高原の子どもたちとがこの林道開設に見た夢は同じでした。

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(上 うらにしの海 養老から栗田半島方向)

風に顔を上げつづける時の思いは詩の言葉でしか表すことはできません。

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(上 奥伊根 新井海岸)

そんな池井先生の心のことばとギターの音色がどう融合してあたらしい世界をつくっているのか、このCD「海のアンソロジー」たいへん楽しみです、

多くの皆さんの手に届くことを願っています。

 

 

 

 

 

 

丹後半島の真ん中に谷を掘り下げる宇川、

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野間の霰付近では、基盤の花崗岩がむき出しになっています。

これらの岩の形成は5100万年とのこと。

木子や駒倉の里を水源にし、岩を巡る水は限りなく澄んでいます。

ところが、この川の生き物に異変があるといいます。

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見えるはずの魚影が見えないのです。

大きなウグイが泳いでいたけど、と話を向けると、「さあそうだあな、いなくなったんだ」と。さらに、姿を消して、五、六年になる。

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ウグイは

「産卵は、4~6月ころの水温が11-13℃に上昇する時期に始まり、直径2mm程度で粘着性のある淡黄色の卵を、流速10㎝/s以下の緩流部で藻の付着していない小石に産み付ける。卵は、水温13℃程度で約1-3週間かかり孵化する。孵化から1年目に約5cm、2年目に10-15cm程度に成長し、2-4年目で繁殖活動を行う。」という魚。この継続を出来なくした理由。水質に問題があるとはまずかんがえられない、見当をつけているのは、最近度重なっている集中豪雨。

産卵時期に起きると卵や稚魚が流されるし、親魚も堰堤の下まで流されると、再度のぼってこれない、そう話されるのです。確かに土手には洪水の生々しい爪跡。

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自然界の厳しさは想像できます。しかし、それをしのいで生き続けた川の住人の一種が、姿を消したのが最近のことというのは、気になるところ。ウグイは生態系の大切な構成種、そのバランスが崩れたというのは、軽視できないかもしれません、

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ウグイのためにも原因を解明しておくことが大切なのではないかと思いました。

 

 

 

丹後縦貫林道太鼓山線から見た「いちがお」!

山塊を西に置いて、つまり東側からの形です。

山塊右端の里は、「丹後町平」

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谷を蛇行する川が、鮎の川、「宇川」

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丹後町三宅付近からのこれも「いちがお」

山塊を北東に置いて、つまり、南西側からの形です。

手前の川は竹野川。

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弥栄町、峰山町からも見えるのがこの形。

 

 

 

 

 

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丹後町丹後学園付近からの「いちがお」

山塊を東に置いて見ています。

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大陸プレートと太平洋プレートとの関係で、2000万年前から始まり約1000万年も続いた火山活動の名残の形なのだそうです。

さて、「いちがお」。市ヶ尾とも、衣遅ヶ尾とも。その「いち」については、「い」も「ち」も、古語では神聖を意味する言葉である、という切り口から諸説あり、です。地形的にみれば、「ち」はあちこちの方向、方角を指す「ち」ランドマークとしての優秀さを取れば「位置ヶ尾」、あるいは、山塊にあるいくつもの尾のうちもっともたかい尾を「一ヶ尾」と呼んでいたが、それが山塊全体の呼称となったと考えられるかもしれません。

また、切り立つ山は、人には優しくありません。

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「むかしむかし、吉永のお寺で盆踊りがありました。その時、一度も見たこともない若い男の人がいました。みんな不思議に思いましたが、だれも、どこの人か、知っている人は、一人もいませんでした。次の日も、盆踊りにその男の人が来ました。村の人たちは、その男の後ろからついてどこへ蛙か調べてみることになりました。細い山道をどんどん登って、依遅ヶ尾の近くまでくると、大きながまが谷というところに、堤がありました。男は、その大きな堤に、とびこみました。すると、みるみるうちに、大きなへびになってしまいました。姿を見られたへびは怒って、次の朝、大雨を降らせました。堤の堤防が壊れて、依遅ヶ尾から、多くの土砂が吉永の村に流れ込み、村はうずまってしまいました、、、」

この怒ったへびの起こした土砂崩れは、「依遅ヶ尾には大蛇が住む」という話に繋がって、そのおろちが麓のお宮の巫女に惚れ、炭のような真っ黒い雲にのって会いに来る、それが210日ごろだという話になっていくという話も伝わっています。
※「丹後町の民話」丹後町教育研究会丹後町社会科研究部会 昭和54年刊

山塊を一周する道があります。いくつものビューポイントを持つのがこの山のおもしろいところ、そんなこんなを思いながら、秋のドライブを楽しまれては。

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矢畑から遠下に続く道側に登山口。一時間程度で登ることができます。独立峰からの眺めは格別ですよ。

『「淡紅うすべにの秋桜コスモスが秋の日の何気ない日溜まり揺れている。」四十年前の秋にヒットした山口百恵さんの「秋桜」である。なるほど一輪が風に揺れる姿は、はかなく物悲しい。』と天声人語(2017.9.24)

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この文はさらに続きます、

「だが、千本、万本が咲きそろえば、コスモスはたちまち祝祭の花と化す。」と。

 

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この日のコラムが取り上げていたのは、北海道遠軽町のコスモス園。

ここでは、敷地10㌶に一千万本、10000000本あるといいます。株一本は花をお米のように何十とつけますから、花の数は無限に、それはみごとなみものなんでしょう。

そういう見事さを支えているのは、おおい日には400人もの人たちが除草に汗をかくという町民の熱心さ、だと天声人語氏。

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この文を読みながら、そうなんですよ、と頷きながら脳裏に浮かべたのは下の景色。

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元棚田に咲くのはししうどと尾花ばかり。けれども400人なんて贅沢はいわん、40、いや20人、それだけかかれば、このあれた寂しい秋景色をコスモスの花祭り色に変えることもできるのだと。

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思うだけで、わくわくぞくぞく!

どうです、一緒にやってくれませんかと誘いたくなります。

いやほんとに、まじめな話、どうですか、やりませんか!

生き物を見つけられますか?

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落ち葉色、岩色ですのでよくみてください、岩にへばりついているもの。

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渓流と森のカエル、カジカガエルです。

山地にある渓流、その周辺にある森林などに生息する

食性は動物食で、昆虫クモなどを食べる。幼生は藻類を食べる

繁殖形態は卵生。オスは水辺にある石の上などに縄張りを形成し、繁殖音をあげる。

4-8月に水中にある石の下などに約500個の卵を数回に分けて産む。」とウィクペディァ。

彼らの好きなのはこんなところ。

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上は、京都府自然環境保全地域の中心部分の、ミョウガ谷。

また、日本固有種なので、英語名も「Kajika frog 」、どういう意味?と訊ねられたら、Kajikaは「河鹿」。この鳴き声が雄鹿に似ているからと伝えてあげるということですが、、、

その、雄鹿が鳴くのが今。

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ピューとするどい高い音です。里山に響き渡るのは味があります。しかし、人と鹿との力関係が崩れているので、素直に愛でかねる面もあるのが悲しいです。

 

 

 

これが噂の丹後・五十河の古民家園に移住して見えた方についてやってきたワンちゃんとホース君たちのようです。

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見当をつけて検索してみると  「馬2頭、犬1匹とともに滋賀県の安曇川で暮らしておられたのですが、2週間ほど前に京丹後市大宮町五十河の古民家に引っ越して来」というところがヒットしました。暮らし方など詳しく知りたい向きには五十河茅葺き桃源郷 – ホーム | ja-jp.facebook.com/。

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美しい生き物から、流れていたゆったりした時間は、里山の時間そのもの。

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五十河古民家園が、引っ越し大名の映画のロケに使われていたのはこの間のこと。「右京太秦芸能人会」の作る映画でも使われるとか、これから、この五十河古民家園が注目かも。

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あらためて、「 おお! おおぅ!」

台風を避けての寄港だとか。

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宮津湾に投錨中のこのヨット、「モーター・ヨットAと呼ばれ、建造費360億円、ロシアの大富豪の持ち船で家族と旅行中」と毎日新聞。記事はこれだけ。ところで、この毎日新聞氏、なにを伝えたかったのでしょうか?
いかめかろうが、いかめかったらはたらけ!、はたらけ!!※いかめえ→丹後弁 うらやましい
ということでしょうか。
あるいは、富の集中の見本のような物、ロシアが騒がしいのはこういうことがあるからではないですか、日本でも、こういうことが起きているのではないですか、足下をみてみなさいよ!ということしょうか、
、、、妙に不思議な記事でした。

三日には出航ということでしたが、八日現在まだ停泊。

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海の様子がよほど悪いのか、宮津や京都や関西がよほどきにいられたのか、はたまた、船に不具合が起きたのか、

これも謎!

希望的憶測は「天橋立によく合うので、北前船のようだし、ここにおいていくからとご家族船員ともども帰られた!」

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金さん、あんただったらどうおもうえ?

細川たまさんが辿ったであろう丹後の海の路、山の道を歩きます!

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その味土野へのルートについて、細川家正史に記録はありません。小説家三浦綾子さんはこう想像しました。

「敵を欺くためには、味方から欺かねばならぬ。」という幽斎のすすめもあって、玉子が城を出る姿を、家中でみたものはない。夜陰に乗じて宮津の浜から舟に乗り、伴のもの数人と、警護のもの二十名ほどに守られて、日置の浜に渡った。
略 日置の浜で、ほんの二ときばかり舟の中でまどろみ、夜の明け切らぬうちに一行は味土野に向かったのだ。途中の山道のけわしさも、並大抵ではなかった。男でもたやすく登れるところではない。

一方、小説家永井路子さんの想定した道は陸路です。。

追われるように宮津の館を出て、炎熱に焼かれながら、山肌にしがみつき、夏草のしげみをかき分けながら、この味土野の山奥にたどり着いたのは夏のさなかだった。従者に輿脇を護られて夜明けに宮津を出た一行は、暫くの間は、松の木越しに海の見え隠れする道を辿ったが、岩滝の部落から、北へ向かうと、しだいに山が迫ってきて、輿もそのあたりで棄てねばならなかった。

小説家二人の想像は違います。今回は、三浦ガラシャを採用します。

古道について、『伊根町史 下 伊根町の旧道』は、こう語ります。
「古く道路は主として山沿いにつくられ、至るところに峠があって、ほとんどが徒歩であった時代には、山道は近道ということが最大の条件であり、どんな急坂もいとわなかった。各集落を結んで、山裾や川沿い、海岸沿いの道を通って、峠を越すには近道が選ばれ、人のやっと通れる道で、道幅は一㍍足らずであり、山村では車の通れるような道路はなかった。また農村にあっては、田をつぶさないことが極めて重要であったので、平地ではずいぶん曲がりくねった道がつくられていた。道幅はせまく、荷物の運搬は人の背や肩でかつぎ、重い荷物は牛の背にのせて運んだ。旧街道筋のあちこちに、今も残る観音堂や多くの石地蔵と共に三界万霊塔、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経などの碑が各地に建立されて、「道しるべ」とともに旅路の安全を祈り、峠のけわしい道の上がり下りに、道行く人々にやすらぎをあたえている。」

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人が「蟻」だった時代の道は、木立や藪に埋まっていますけれど、山道は近道ということが最大の条件!そんな目で見れば、たまさんの辿った道も見えてくるはず。玉さんが、先に立って道案内してくださるかもしれませんよ。

 

京都のN様

宇川の野間付近の河原の様子を送ります。

IMG_2845野間絵地図

自然河川の趣を残す河川景観の品の良さは、丹後でも別格です。

写真はほぼ順光で撮っています。

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近くにあるお寺のお地蔵さんや樹木にも味があり迫力もありますよ。

延命寺の大シイの木

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洞養寺のお地蔵様

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河原の撮影場所は、里の入り口にたつ絵地図の赤数字を参考にしてください。

場所①

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川音も小さくもなく大きくもなく耳にやさしいと思います。

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宮津世屋ガイドの会 安田潤

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以下出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

場所①

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宇川(うかわ)は、京都府京丹後市と宮津市を流れる宇川水系の二級河川。上流部が京丹後市弥栄町や宮津市世屋、下流部が同市丹後町を流れる[1]。全長は17.89km、流域面積は54.2km2であり、丹後半島では竹野川に次ぐ規模である。

場所②

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「宇川」は河川の名称としてだけでなく、宇川下流域と東隣の吉野川流域一帯の地名としても使用され、地域名としての宇川には袖志の棚田(日本の棚田百選)、経ヶ岬灯台、丹後松島などが含まれる。高尾山・金剛童子山・太鼓山の水を集め、京丹後市丹後町平で日本海に注ぐ。

場所②

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源流のひとつは丹後半島の中央部にある太鼓山西麓の京丹後市弥栄町須川付近に端を発する。角突山や汐霧山の西麓にも源流のひとつがあり、成谷、木子(きご)、廃村となった駒倉(いずれも宮津市)などから細々としたいくつもの流れが上流部を形成する。

場所③

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高尾山や金剛童子山の北麓にも源流のひとつがあり、それぞれの山麓から流れてきた小河川が野間地区の霰(あられ)や野中付近でひとつとなる。

場所③

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上中流部の弥栄町野間地区、標高150mから120mほどにある須川や野中付近には小規模な沖積平野が形成されており、野中には下流域以外で唯一の学校(京丹後市立野間小学校)が存在するが、2011年度と2012年度には新入学児童がおらず、2013年度末で閉校となる予定である。

場所④

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場所④

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須川や野中付近では複数の流れが合わさって川幅が広くなるが、標高123mほどの中津を過ぎると再び両岸に山肌が迫る。北流して丹後町に入り、竹久僧川(たけきゅうそうがわ)、小脇川、三山川などの支流を合わせ、標高89mの小脇と標高36mの鞍内(くらうち)の間では蛇行する急流となって奇石や巨石が見られる。

※下 川久保橋付近 ただし現在通行止めで進入不可!

かわくぼばし

鞍内の北側には、一年半がかりの工事で1920年(大正9年)に完成した小脇水力発電所があり、その水路長は3000m、落差は53mである。小脇水力発電所のそばには丹後町立虎杖小学校があったが、1991年(平成3年)に廃校となった[7]。依遅ヶ尾山東麓の遠下(おんげ)からは平坦地を流れて沖積平野を形成し、丹後町上野で日本海に注ぐ。

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河口部は宇川浦と呼ばれた入江であり、緩やかな弓状の砂浜海岸は国土交通省によって海岸保全区域に指定される海水浴場である。河口の東側は丹後松島と呼ばれる景勝地であり、西側には犬ヶ岬がある。

 

京都のN様

世屋川の下流部の河原の様子を送ります。谷から扇状地へと出るところで、大小の石が溜まって瀬を作っています。幅は三十メートルほど、かって河川公園にしていたところが最近再びきれいにされています。川の片方は自然の崖があります。一方流れの音は、農業用水を取る堰堤を落ちる音とか早瀬の音とか、当日の水量により変化しますが、かなりの音はあります。

川のそばには、地蔵さんなどをおさめた小屋。それは、ここが世屋谷の奥に点在する村々への入り口だったことを物語っているのかもしれません。

また、世屋川には、竜伝説が伝わっています。甚五郎さんもここから世屋川を上って魚止めの滝に行き着いて竜に出会ったのでしょう。

参考にしてください。

宮津 世屋エコツーリズムの会 安田潤

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むかしむかし、宮津(みやず)地方では、田植えが終ったにもかかわらず一滴の雨も降らなかった事がありました。

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困った村人たちは、
「せっかくの稲が、これでは台無しだ。雨が降らないのは水の神さま、きっと竜神さまのたたりに違いない」
と、成相寺(なりあいじ)の和尚さんに、雨乞いのお祈りを頼んだのです。
すると和尚さんは一晩中お経を唱えて、仏さまからいただいたお告げを村人たちに教えました。
「何でも、この天橋立(あまのはしだて)に日本一の彫り物名人が来ておるそうじゃ。
生き物を彫れば、それに魂が宿るといわれるほどの名人らしい。
その名人に竜の彫り物を彫ってもらえば、それに本物の竜の魂が宿り、きっと雨を呼ぶであろう」
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そこで村人たちが手分けをして探してみると、和尚さんの言う通り、左甚五郎(ひだりじんごろう)という彫り物名人が天橋立の宿に泊まっていたのです。
村人たちの熱心な願いに、左甚五郎は深くうなずきました。
「仏さまのお告げに、わたしの名前が出てくるとは光栄です。
わかりました。
未熟者ですが、やってみましょう」
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しかし引き受けたのは良いのですが、左甚五郎には竜がどんな姿なのかわかりません。
他人が描いたり彫ったりした竜の絵や彫り物は、今までに何度も見た事があるのですが、しかしそれはその人が考えた竜の姿で、本物の竜ではありません。
「他人が作った物の真似事では、それに魂が宿る事はない」
そこで甚五郎は成相寺の本堂にこもり、仏さまに熱心にお祈りをしました。
「仏さまのお導きにより、竜の彫り物を彫る事になりましたが、わたしは竜を見た事がありません。
名人と言われていますが、いくらわたしでも見た事もない物を彫る事は出来ません。
お願いです。どうぞ、竜の姿を拝ませて下さい」
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そして数日後、甚五郎の夢枕に仏さまが現われて、こう言ったのです。
「甚五郎よ。
そなたの願いを叶えてやろう。
この寺の北の方角に深い渕(ふち)がある。
その渕で祈れば、きっと竜が現れるはずじゃ」
「はっ、ありがとうございました!」
さっそく甚五郎は案内人の男と二人で、世屋川(せやがわ)にそって北の方へ進んで行きました。
しかし奥へ進むにつれて人の歩ける道はなくなり、とうとう案内人は怖がって帰ってしまい、甚五郎は一人ぼっちで奥へと進んだのです。
険しい道でしたが、竜を見たいという甚五郎の心には、恐さも疲れも感じませんでした。
そしてついに甚五郎は、竜が現れるという、大きな渕にたどり着く事が出来たのです。
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甚五郎は岩の上に正座をすると、そのまま三日三晩、一心に祈り続けました。
(この渕に住む竜よ。一目でよい、一目でよいから、その姿を見せてくれ)
すると、どうでしょう。
急にあたりが暗くなったかと思うと、大粒の雨がバラバラと降り始め、渕の奥から大きな竜が姿を現わしたではありませんか。
竜は口からまっ赤な火を吐きながら、今にも甚五郎に襲いかかろうとしました。
しかし、甚五郎は逃げません。
その竜の姿をまぶたに焼き付けようと、まばたきもせずにその竜を見つめました。
そして竜は真っ直ぐ甚五郎に向かって来て、身動き一つしない甚五郎にぶつかる直前に、すーっと消えました。
その途端に、甚五郎の全身にあふれんばかりの力がみなぎりました。
まるで竜の霊力が、甚五郎の体に宿ったかのようです。
「おおっ! 竜を見た! わたしは竜を見たぞー!」
甚五郎は雄叫びを上げると急いで成相寺に戻り、それから何日も休む事なく、一心に竜を彫り続けました。
そしてやっと彫りあがった竜が成相寺にかかげられ、雨乞いの祈りが行われたのです。
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すると不思議な事に、今まで晴れていた空が急に曇ると、ザーザーと大雨が降り始めたのです。
「雨だ。雨が降ってきたぞー!」
「竜のおかげだ! 甚五郎さまのおかげだー!」
村人たちは大喜びです。
そして今にも枯れそうだった稲も、みるみるうちに元気になりました。
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この事があってから、甚五郎が竜に出会った渕は『竜ヶ渕(りゅうがふち)』と呼ばれる様になり、甚五郎が彫った竜は今も成相寺に大切に残されているそうです。

 

 

 

 

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