宮津エコツアー · 世屋・高山ガイド部会

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世屋・高山ガイド部会の活動ブログ

丹後の国分寺あとに怪獣!!

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人類の守護獣《KOMAINU ―Guardian Beasts−》、、、つまり狛犬のようなものなんですって

聖武天皇が、全国に国分寺を建立した意図は、国家を揺るがした天然痘の大流行と関係があるということです。

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だから このまがまがしきものは、天然痘ウイルス!

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どういうことかというと、

「フリー百科事典『ウィキペディアが、天平の疫病大流行 の項で、詳しくまとめていました。

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天平の疫病大流行(てんぴょうのえきびょうだいりゅうこう)[1]は、天平7年(735年)から同9年(737年)にかけて奈良時代の日本で発生した天然痘の流行。ある推計によれば、当時の日本の総人口の25–35パーセントにあたる、100万–150万人が感染により死亡したとされている[1]。天然痘は735年に九州で発生したのち全国に広がり、首都である平城京でも大量の感染者を出した。737年6月には疫病の蔓延によって朝廷の政務が停止される事態となり、国政を担っていた藤原四兄弟も全員が感染によって病死した。天然痘の流行は738年1月までにほぼ終息したが、日本の政治と経済、および宗教に及ぼした影響は大きかった。
背景
日本の中央政府は、8世紀初頭までに中国にならった疫病のモニタリング制度を導入しており、国内で疫病が発生した際には朝廷への報告が常に行われるよう公式令で定めていた[2]。この制度の存在により、735–737年に発生した疫病の際にも詳細な記録が残されることとなった。それらの記録は『続日本紀』他の史料に残されており、流行した疫病が天然痘[注 1]であったことを伝えている[3]。

発生
天然痘は735年(天平7年)、大宰府管内である九州北部で発生したと記録されている[4]。平安時代末期に書かれた歴史書によれば、735年の流行の感染源となったのは「野蛮人の船」から疫病を移された1人の漁師とされている[3][注 2]。一方で、発生地から見て遣新羅使もしくは遣唐使が感染源である可能性が高いとする見方もある[1]。735年8月までに九州北部では天然痘が大流行しており、事態を受けた大宰府は8月23日、管内(九州)の住民に対する当年度の税の一部(調)を免除するよう朝廷に要請し、許可された[5]。翌736年(天平8年)になっても九州での流行は続き、農民の多くが天然痘により死亡、もしくは農地の放棄に追いやられ、収穫量が激減したことで飢饉が引き起こされた[6][7]。

736年2月、聖武天皇は新たに遣新羅使を任命し、4月には阿倍継麻呂を団長とする使節団が平城京を出発した[6]。使節団は九州北部を経由して新羅に向かったが[1]、一行はその道中で天然痘に感染し、随員の雪宅満は新羅に到達する前に壱岐で病死した[8][5]。その後、大使の阿倍継麻呂も新羅からの帰国途中に対馬で病死し[9][8]、残された一行が平城京に帰還すると本州にウイルスが持ち込まれ、737年(天平9年)には天然痘が全国的に大流行することとなった[5]。737年6月には平城京で官人の大多数が罹患したため、朝廷が政務の停止に追い込まれる事態となった[1]。737年7月には、大和国、伊豆国、若狭国、伊賀国、駿河国、長門国の諸地域が相次いで天然痘の大流行を報告した[10]。737年8月には、流行の拡大を受けて税免除の対象が九州だけではなく日本全国の地域に広げられた[10]。737年の流行は庶民だけではなく全ての階級の日本人を襲い、死亡した多くの貴族には藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂という当時の国政を担っていた藤原氏の四兄弟も含まれていた[1]。天然痘の流行は738年(天平10年)の1月までにほぼ終息した[1]。

日本史の研究者ウィリアム・ウェイン・ファリス (William Wayne Farris) が、『正倉院文書』に残されている当時の正税帳を利用して算出した推計によれば、735–737年の天然痘による日本の死亡者数は当時の総人口の25–35パーセントに達しており、一部地域ではそれをはるかに上回る死亡率であったという[11]。ファリスの推計に従えば、この時期の日本では100万–150万人が天然痘によって死亡していたことになる[1]。

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対策
なお、『類聚符宣抄』という太政官符・宣旨などを集めた書物の中に、天平9年(737年)6月26日付の太政官符が1通収録されている。

太政官符東海東山北陸山陰山陽南海等道諸国司 疫病治療法および禁ずべき食物等のこと、七カ条

今回の疫病は赤斑瘡という。発熱時の症状は瘧(おこり、悪寒・高熱をともなう病気一般)に似ていて、発熱後3、4日、あるいは5、6日で発疹し、瘡(そう、吹き出物)の出る期間も3、4日続く。患者の全身は焼けるように熱く、しきりに冷水を飲みたがるが、決して飲ませてはならない。瘡が出終わると熱も引くが、下痢が併発する。治療しないと出血する。出血は発病当初からの場合もある。併発する症状は4種ある。咳・嘔吐・吐血・鼻血である。これら合併症よりもむしろ下痢に注意すべきであり、以下のような治療を加えねばならぬ。
布・綿で腹・腰を巻き、必ず温かくしておく。冷やしてはいけない。
百姓たちはどうせろくな寝具もないだろうが、患者を地面に寝かせておいてはならない・床に敷物を敷いて寝かせるように。
重湯や粥や粟汁は温かければ勿論、冷えても良いから与える。鮮魚・冷肉・果物・生野菜はいけない。特に生水・氷はかたく慎むように。下痢を起こしたら、韮や葱を煮て、大量に食べさせると良い。血便や乳状便が出たら、糯(もちごめ)の粉と米粉を混ぜて煮、一日に2、3度飲ませる。下痢が止まらなければ、5、6度に増やす。もちごめや粳(うるち)の乾燥米で、粥を作ってもいいが、その場合も必ず細かく砕いてから粥にするように。
およそこの病気は食事を嫌がるものだが、無理しても食事させなくてはならない。また海松(みる)を炙ったものや、岩塩ではなく粉にした塩をたびたび口に含ませると、口や舌が荒れても、結果が良いようである。
回復後も20日間は鮮魚・冷肉・果物・生野菜を摂取してはいけないし、生水・水浴・房事のたぐいや、風雨の中を歩いたりすることも慎むように。もしこの注意を守らないと必ず霍乱(かくらん)になって下痢を再発する。これを勢発・労発というのだが、そうなったら、愈跗(ゆふ)・扁鵲(へんじゃく)のような中国古代の名医を連れてきても手遅れである。20日過ぎれば魚も肉もいい。ただよく炙ってから食べる。乾鮑(ほしあわび)・堅魚(なまりぶし)・乾肉の類もいいだろう。しかし、鯖(さば)や鯵(あじ)はたとえ干物でも止めておくように。年魚(あゆ)もいけない。蘇(乳製品)・蜜・豉(豆腐)などはいい。
およそ疫病を治そうと思ったら、丸薬・散薬など(インチキな薬・効力のないもの)を求めて飲んだりしてはならない。もし熱が引かなければ、人参湯だけは飲んでもよい。
この四月以来、平城京・畿内はことごとく疫病に臥せっており、 死亡者が続出している。諸国の百姓も定めて被害甚大だろう。よって以上の如く、注意を箇条書きにして諸国に伝達する。
この官符本文は到着次第国衙で写し取り、本文は郡司の主帳以上1人を使人としてただちに隣国へ送付し、留滞させてはならぬ。また国司は所管の国内を巡行して百姓にこの内容を告示せよ。もし百姓のうちに重湯や粥にする米のない者がいたならば、国司は正税の倉を開いて賑給(しんごう)し、その使用量は記録して太政官に報告せよ。
なお、この官符は太政官の発行した正文であるから、官印を押しておく。官符到着次第、実行せよ。

以上のように、太政官は疫病についての心得を、国司を通じて全国の百姓(人民)に周知徹底させようとしており、この文書を全国の諸道に複写し、発送している。

余波

東大寺大仏殿。盧舎那仏像(奈良の大仏)は天平の疫病大流行の後、聖武天皇の命によって建立された。
政権を担っていた藤原四兄弟が相次いで病死した後、彼らの政敵であった橘諸兄が代わって国政を執り仕切るようになった[10]。彼の政権では、公卿は合計7人で各氏一人ずつとなった点が注目される。天然痘の終息から数年後には、農業生産性を高めるため、農民に土地の私有を認める「墾田永年私財法」が施行されたが、これは疫病によるダメージからの回復を目指す社会復興策としての一面が強かった[1][12]。

当時、災害や疫病などの異変は為政者の資質によって引き起こされると見なす風潮があり、天然痘の流行に個人的な責任を感じた聖武天皇は仏教への帰依を深め、東大寺および盧舎那仏像(奈良の大仏)の建造を命じたほか、日本各地に国分寺を建立させた[13][14]。盧舎那仏像を鋳造する費用だけでも、国の財政を破綻させかねないほど巨額であったと言われている[15]。

天平の疫病大流行の後、日本では数世紀にわたって天然痘のエピデミックが繰り返されることとなった。しかし、10世紀を迎える頃には日本人にとって天然痘の流行はエンデミックと化しており、735–737年のような壊滅的な被害が出ることはなくなった[16]

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さて現代日本の状況、非常事態宣言体制を延長せず、解除という方向といっています。が、発症者数、ワクチン接種数、医療体制など大丈夫という判断には容易に与し得ないところです。一に専門家、二に専門家、三に専門家 医学医療の見地からの提言を最優先してほしところです。

ちなみにこの制作者

ヤノベケンジYANOBE Kenjiさん。
1965年大阪生まれ。90年初頭より、「サヴァイヴァル」をテーマに実機能のある大型機械彫刻を制作。97年チェルノブイリを訪れる《アトムスーツ・プロジェクト》を敢行。2011年震災後、希望の彫刻《サン・チャイルド》を制作し国内外で巡回。20年3月末、疫病から人々を守る願いを込め設置等、アートの枠組みを超えた幅広い創作活動を続けている。

Lucky Dragon / ラッキードラゴン (2009)
In 2004, Yanobe made Cinema in the Woods a small sized theater which would serve as a shelter for children. For the theater, he reedited the animation films which where intended to give warning to children against the crisis of nuclear war. The film were originally made and broadcasted in the United States during the time of Cold War. From the experience of showing Cinema in the Woods at Daigo Fukuryu Maru Exhibition Hall, he got a concept that Torayan would revive Daigo Fukuryu Maru.
Lucky Dragon was intended to tell the revival of Daigo Fukuryu Maru by Torayan and also to show the revival of waterways that once served for active industries and commerce of Osaka.
ヤノベは2004 年に、冷戦時代にアメリカで放送されていた核戦争に対する啓蒙フィルムを再編集して、子どもだけが鑑賞できるスモースサイズのシェルター型映画館《森の映画館》を制作し、都立第五竜丸展示館でも展示している。その際、《トらやん》が「第五福竜丸」を再生させる空想を抱くようになる。
《ラッキードラゴン》は、「第五福竜丸」を《トらやん》が再生させることをイメージすると同時に、かつて隆盛を極めた水の都、大阪の細長い水路の復活・再生の象徴として制作された。

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Lucky Dragon
Lucky Dragon was made as a head with slender neck. The making process was as follows; firstly, made a base with styrene foam and coat it with FRP (Fiber Reinforced Plastic) and fasten the alminum scales with rivets onto the base. The dragon’s head and neck are light and strong and it was attached to a boat and moved upward and downward. It emitted fire and water with a gas burner and a pump from the mouth. It was made within a month and it proved that the division of labor worked perfectly at ULTRA FACTORY.
リアルな龍(ドラゴン)をイメージした躯体は細長い首を持ち上下に動かすことが可能になっている。成形した発砲スチロールをFRP(繊維強化プラスチック)で塗り固め、鱗状にしたアルミニウムをリベットで締結する。その結果、首を動かす軽量さと丈夫さを兼ね備えている。さらに、口から火炎や水を噴かせるために、ガスバーナーや噴水ポンプを取り付けた。制作期間はわずか1カ月足らずであり、ウルトラファクトリーによる分業体制が確立されていることを物語っている。

Lucky Dragon Lucky Dragon
For the exhibition Munasawagi no Natsuyasumi (The Presage in Summer Vacation) held Fukushima Prefectural Museum of Art (2010), he created an installation work with his previous works such as Lucky Dragon and Torayan. In the collection, the museum has serial works Lucky Dragon by Ben Shahn, the drawings of Daigo Fukuryu Maru (also known as Lucky Dragon 5), a Japanese tuna fishing boat, which was exposed to and contaminated by nuclear fallout from the United States’ thermonuclear device test on Bikini Atoll in 1954. Yanobe included Lucky Dragon Concept Maquette for the installation.
In April of 2011, Lucky Dragon Concept Maquette was installed in the permanent collection room of Fukushima Prefectural Museum of Art, which reopened after the Great East Japan Earthquake. Torayan’s Ark Project was launched with the suggestions from the staffs of museum. The project was aimed to collect dolls and stuffed toys from all over Japan and put them on Lucky Dragon Concept Maquette, which was compared to Noah’s Ark. In August of 2011, the interior space of museum was opened as children’s playground and series of workshops and events Aso-VIVA! (Play-Ground!)were taken place. Because of nuclear fallout contamination, children had been encouraged to play inside of buildings and the museum offered its space for children.
2010 年、福島県立美術館で開催された「胸騒ぎの夏休み」展に、ヤノベケンジは《ラッキードラゴン》と《トらやん》のインスタレーションなどを展示した。福島県立美術館には、ビキニ沖環礁での米軍の水爆実験で被爆した遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」をモチーフにしたベン・シャーンの《ラッキー・ドラゴン》の連作のコレクションがある。そのため同じく「第五福竜丸」をモチーフにしたヤノベの作品の展示構成にベン・シャーンの作品を組み込んだ展示が行われた。その中には、《ラッキードラゴン構想模型》も含まれていた。
《ラッキードラゴン構想模型》は2011年4月、東日本大震災後に再オープンした福島県立美術館の常設展の展示室で特別展示される。そして同館スタッフの提案により、全国から人形やぬいぐるみを募り、箱舟と見立てた《ラッキードラゴン構想模型》に乗せる「トらやんの方舟計画」が始まった。その後、2011 年8月には、美術館独自の試みとして、放射線量の少ない美術館内を子どもたちの遊び場として開放するワークショップやイベント「遊VIVA!」が行われた。その一環として「トらやんの空飛ぶ箱舟大作戦」が企画された。

Lucky Dragon Lucky Dragon
In 2012, Torayan’s Great Flying Ark Project was installed at Art Tower Mito for the exhibition Artists and the Disaster –Documentation in Progress–. At Daigo Fukuryu Maru Exhibition Hall, he had an exhibition from Daigo Fukuryu Maru to Lucky Dragon and he exhibited Sun Child outside of the hall and installed Torayan on Daigo Fukuryu Maru. For Setouchi Triennale 2013, Yanobe installed Jumbo Torayan on the deck of ferryboat connecting Kobe and Shodoshima Island. Jumbo Torayan had a twig of olive in his hand as a dove in Noah’s Ark appeared with a leaf of olive. Shodoshima Island is famous for its olive and Yanobe staged the ferry as Noah’s Ark and likened Shodoshima Island to the island of hope (in Old Testament, a mountain peak which the Ark arrived after the big flood.)
Yanobe’s Ark increases and grows, transcending the boundary between fantasy and reality.
その後、《トらやんの空飛ぶ箱舟大作戦》は2012 年、インスタレーション作品として、水戸芸術館で開催された「3.11とアーティスト:進行形の記録」展においても展示される。また、ヤノベは2012年、第五福竜丸展示館で開催された「第五福竜丸からラッキードラゴンへ」展において、屋外展示された《サン・チャイルド》と同時に、実際の「第五福竜丸」に《トらやん》などを乗せるインスタレーションを行った。さらに「瀬戸内国際芸術祭2013」に合わせて、神戸と小豆島を結ぶ連絡船ジャンボフェリーの甲板にオリーブの葉を持った《ジャンボ・トらやん》(2013)を展示した。それはオリーブの木で有名な小豆島をノアの箱舟が到達した希望の島(旧約聖書では洪水後に到達した山の頂上)へと読み替える試みである。
ヤノベの「箱舟」は空想と現実を超えて増殖、拡大を続けている。

また、この展示期間は、9.24[FRI]-11.7[SUN]
会期中全日展示/作品ライトアップ:18:00〜21:00

「11.5[FRI]〜7[SUN]は、18:00から不定期で龍の口から火を噴き出し、七重塔と天橋立のオマージュとして「炎の塔」「炎の橋」をつくるパフォーマンスを試みます。また、同じく2009年に制作された《黒い太陽》を「金堂」に見立て、設置し、伽藍を形成します。」とのこと。

楽しみながら、with コロナ への危機感、対策、感謝などを共有できればいいですね。

「いい写真のスポットのために、わたしら撮影者も地元とともに汗をかく覚悟が求められているのでしょうね」

20210913_173511松尾ススキ

感動しました、わかってらっしゃるかただ!

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ススキやヒガンバナ
のいいところ ありませんか
問い合わせを受けました
京都市内の写真同好会の幹事さんからです

「さてえ」
即答しかねたのです。

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里山三大疫病神 ご存じですか
イノシシ シカ、そして ススキ!なんですよ
里山の状況は、地球温暖化のように日々年々悪化しているのです

とそんな 愚痴をついこぼしたその続きにかえって来たことばなのです。

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「丹後の海里川里山里谷里の里山景観の価値は、今や国家遺産レベル。私たちも及ばずながら発信させていただきますよ。」

誠実さには誠実さで応えなければいけません。
「少子高齢化機械化省力化しょうしこうれいかきかいかしょうりょくか
てめえらの横着病をわしらになすりつけるなんて 人間もせこいね、」
などススキたちに侮られるのも悔しいです、

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「去年良かったところが今年もいいとはいえません、すこし時間をください歩いてみてきます、」

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ということで、こんなところ、こんな時間ならと思えるところのいくつかを案内しようとおもいました。

里が秋

20210906_171259里が秋

海が秋

20210909_143654雲が秋

高原が秋

20210909_133716ススキが秋
庭が秋

20210909_091723花が秋

田んぼが秋

20210910_102125田んぼが秋

大きな風や雨、水の災いも受けることも、日のささない日が続くことも想定内

20210910_102004いっぺんに秋

コロナ禍の重苦しく厚い雲を吹き返すように、力強く実りの秋にゴールイン

「あっちにいってみたい」

20210907_122050三つおいたらあっちにいってみたい

ここですかい

20210907_121625あっちいったりこっちに

「そっちにもいってみたい」

20210907_141012キキョウ

木の上ですで!

「いい眺めだ」

きいつけなれよ、落ちんように

、、、、

気ままいう鉢です、

20210910_113957文字入り

ようするに三つおいたらええということ

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中でも中でもしだれ桃の枝の上が一番お気に入りのようです。

ある日のエコギャラリー「花美世屋」

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写真だけでなく、丹後を構成した石や木や民具も、、ありとあらゆるものが仲間として、集っていて、混然としながら一体感を醸し出していると感想をいただきました。

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その構成は、「一体感を醸しながら混然としている」というかたも実はあります。まあ、言い得て妙!なら、「一体感を醸しながら混然としている」でも、「混然としながら一体感を醸し出している」でもどちらでもありがたいです。

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さて、その中には関係書籍なども。特に丹後ゆかりの児童文学者「かわきたりょうじ」コーナーの充実は市立図書館以上。

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言葉の名人川北さんの本は、「puboo.jp/book/132791」(←ここをクリック)で、金山のようにきらきらした川北ワールドをごらん頂けますよ。コロナ禍で出歩くことでできないうっとうしさをはらしてくれる本、探してください。

 

日置の◎矢ファームさんの畦にナツスイセン。

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8月16日は宮津灯籠流しの打ち上げ花火が盛大に、、、というところなのです。しかし、あいにくの事情で今年も中止、、、いつまで続くのやら、という人のため息が聞こえたのか、そうなら私たちが、と咲いてくれたかのようです。

7月の出船祀りに続いて灯籠流しと続く海の京都の一大イベント、その様子をしっかりと映しておいてくださったのが、今井由一さん。

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里山エコギャラリー「花美世屋」で、厳選16点を展示しています。

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その他、太陽となり雲となり雪となり虹となって神様が現れたかのような天橋立を凝視した写真60点を含む約250点の今井ワールドもお楽しみください。

 

ある国会議員さんが当ギャラリーに立ち寄ってくださって、様子をご自身のブログにアップしてくださいました。

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「2021/8/2
宮津市の山間部にある上世屋地区を訪問しました。上世屋地区は10軒、約20人の小さな集落ですが、若い移住者の方が増えており、ベルギー出身男性と日本人女性の家族によってビール工房の準備も進められています。
日本の原風景を残す上世屋地区。安田潤さんのギャラリー「花美世屋」は上世屋の歴史や魅力が一目で分かりますので、機会があれば是非ご覧になってみて下さい。」

『宮津 花美世屋 ギャラリー』で検索してみてください。

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過分のコメントに恐縮するとともに、自分で動いて自分の目で見て聞いて考え、知らせて、つなぐ、そんなこまめで丁寧な活動ぶりに、党派を超えて感心したことです。

さて、そのギャラリーの運営についての最新バージョンです。

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運営協力費、500円を300円に改訂しています。学生さんは無料は変わりません。

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また、花美世屋と名乗っているのは、季節季節に花が美しく彩る里にという願いから、なので、スイセンやヒガンバナの球根、あるいはムクゲやサルスベリの苗木など持ってきていただければ即無料にさせていただきますよ。

細川藩が、河口にお城を造った時に、川筋を変えて大手門を隔てる堀代わりにしたので、それ以後大手川、かっては「宮津川」と呼ばれていたその川で、宮津高校フィールド探究部の皆さん。

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与謝野町の川の学校が縁で滋賀県立大学の先生たちの指導のもと、流水工学を活かした河川環境の回復実験というのがテーマとのこと。

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猛暑とコロナ禍の緊張の中、幸せな夏休みを過ごさせてもらっていることに感心しながら、

なにか面白い発見はありましたかと尋ねると、

「上宮津まで川の中を時々泳ぎながら登ってみました。かなりの数のアユに驚きました。」

おお、アユが!

「持っていった刺し網でも捕れましたし、タモでガサガサをしても捕れました。かなりハードルが低かったですね。」

なんとぉ、とびっくりしました。

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大水害普及の河川改修は三面張り工法で、河川環境を損なうてしまった事例が多く、ご多分に漏れずこの大手川も、と思っておりましたけど、なんとぉなぁ すこし様相が違うようです

敏捷さを誇る天然遡上アユがタモ網ですくえた!

山と川と海の間の関係が寸断されて、、という話ばかり聞く中で、すごい朗報だと思いました。

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大手川河川工事が、どんな工事思想をもってすすめられたかを知りたくて、検索している内に当の京都府土木事務所さんが、大手川激特事業の出前語らいという形で公開されている資料に出会いました。

読んでみると、環境を大事にするという考えで行われていたということが伺えて、参考になればと思いましたので、長いですが、引用します。

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大手川激特事業の出前語らい 丹後広域振興局サイト

大手川激甚災害対策特別緊急事業について

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宮津市の中心部を流れる大手川については、平成16年10月20日の台風23号により2,400戸を越える浸水被害など、大変大きな被害を受けました。

そのため、抜本的な治水対策を早期に実現することが必要であり、「河川激甚災害対策特別事業」により本格的な改修工事を行うこととなりました。

ここでは、大手川激甚災害対策特別事業の概要などについて、宮津市の市民団体(宮津美しさ探検隊)の皆さんに説明しました内容を掲載しています。

京都府丹後土木事務所災害対策室です。

本日は、京都府で現在事業を進めています、大手川の河川激甚災害対策特別緊急事業の概要について説明します。

普段の大手川は皆さん、ご存じのように非常に緩やかな流れをもつ川です。

しかし、大雨が降るとその景色は一変します。この写真は、昨年10月20日の台風23号の翌日にヘリコプターで撮影した航空写真です。 青い線が浸水の範囲です。宮津の市街地の大部分が浸水しているのがわかると思います。 この台風により、2名の尊い人命が奪われ、家屋の浸水被害も約2,500戸となりました。

この写真は、大手川で一番早く水がつく京口橋付近の状況です。

ここは地盤が低いうえに、橋の真ん中の橋脚が流れを邪魔し、今回のような出水の際には、この写真のように大量の流木やゴミなどが引っかかり、浸水の大きな原因となっています。

また、滝馬地区では土石流が発生し、二人がお亡くなりになり、家屋被害も全壊10戸・半壊2戸・一部損壊3戸という大きな被害を受けました。

この写真は翌日の10月21日に撮影した航空写真です。テレビのニュースでもこのような映像が何度も放映されていましたので、ご存じの方も多いと思います。 この土石流に対しては、自衛隊の出動要請が出され救助にあたっていただいたところです。

これが滝馬地区の対策工の全体計画です。この赤い部分が砂防堰堤というものです。現在6箇所が予定されています。 土石流をコンクリート製のダムで受け止め、下流への被害を防ぐものです。

数カ所で堰堤を計画していますが、現在具体的に着工しているものとしては2箇所あり、ともにその高さは8.5メートルです。 現在の工事状況です。この写真は滝馬2の現在の状況です。現在この2基についてはほぼ本体ができあがっています。

さて、これだけの被害をもたらした台風23号の雨は実際、どのように降ったのでしょうか?

この表は、当日の雨量と水位の経過を表したものです。棒グラフが各時間の岩戸地区雨量を表しています。折れ線グラフは京口での水位の変動を表しています。午後2時から5時の3時間で143ミリの雨が降っています。京口での水位は午後6時に最高水位3.87メートルを記録しています。 大手川の場合、岩戸で大雨が降ると、1時間後にはこの付近の水位が上がると考えてください。

また、この雨量・水位は、現在インターネットでも見られますので、是非チェックしてもらい、災害に備えてもらいたいと思います。 これは、周辺の地盤の高さから1.26メートル上まで水が上がってきたことになります。

このあたりでは、ほとんどの家屋が1メートル程度浸水しています。この写真は実際の水位が私の胸まであったことを示しています。

今回の大手川での被害はこのようになりました。死者が2名、浸水による家屋被害が2,485戸となりました。激特事業の採択基準は浸水家屋戸数が2,000戸以上であるので今回の被害は採択基準を満たしております。 この激特事業が京都府で採択を受けたのは昭和61年の城陽市の古川以来、2件目です。

大手川の出水被害の原因について説明します。

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大手川に限らず、近年局所的な集中豪雨が多く発生しており、各所で過去最大の被害が起こっています。これには、複数の要因が絡み合っています。一つは地球温暖化の問題です。地球温暖化の影響で、今後の台風は数は少なくなるが規模が大きくなるといわれています。昨年の台風23号もそういったことが言えるのかもしれません。

次に山林の荒廃について述べます。かつての日本の森林、特に西日本ではクヌギやシイなどの広葉樹を中心とした森林が広がっていました。しかし、戦後の造林政策などで、スギ・ヒノキを中心とした針葉樹林が大部分を占めるようになりました。針葉樹は広葉樹に比べ根の張り方が弱く、常緑のスギ・ヒノキの場合、落葉がほとんど無いことから、落ち葉の分解による表土の形成がされず、広葉樹に比べ、保水力が弱く降雨時の土砂流出も多い傾向にあります。特に近年、外国の安価な木材に押され、働き手の高齢化や人材不足も手伝って、森は荒れ放題になっています。これが、降雨時に一気に川の水を増水させ、度重なる土砂流出を引き起こしていると考えられています。

また、米の減反政策により、休耕田が増加していますが、休耕田が増加することで、水田の持つ保水機能が大幅に低下し、降雨時に一気に水が川に流れ込む傾向が強くなっています。たんぼは自然のダム機能をもっており、降雨を一時的に溜めることで川の水位を少しだけ働きもあります。

これらを解消するにはどうしたらいいでしょうか。キーワードは、「もったいない」という言葉です。ノーベル平和賞受賞者でケニアの環境副大臣でもあるワンガリ・マータイさんが「もったいない」という言葉を環境保護の合い言葉にされています。さらに2005年2月に発効した「京都議定書」では、温室効果ガスの排出量の削減が義務づけられています。私たちひとりひとりが限りある資源を有効に使うことで地球温暖化は防げると考えられます。

スギやヒノキの人工林は、間伐の促進や広葉樹の植林をすることで、森林の健全化を進める必要がありますが、現状では遅々として進みません。

休耕田の増加を防ぐには、国の減反政策を変えることや、農業政策を変換し、国内自給率の向上を図っていくなどが必要ですが、なかなか難しい問題があります。当面の措置としては、休耕田を利用したビオトープ池の整備もわずかではありますが、効果があるかもしれません。ビオトープとは、生き物の生息の場というドイツ語の造語ですが、今の日本はどこを向いても同じような景色が広がっています。これは、生き物についても言えることで、単調な環境は単調な生態系に結びつきます。かつての日本では、山にはいろいろな種類の木々が生い茂り、家の裏山では雑木林の木を定期的に刈り取って燃料に使用していました。川はくねくねと蛇行し、たんぼも同じ形のものはありません。川とたんぼは水路で結ばれており、その水路にはメダカやドジョウなど多様な生き物がいました。こうした環境を取り戻していくことが重要です。

大手川の改修では、かつての環境を取り戻すためのいろいろな工夫をします。いずれの対策も長い将来を見据えて行っていきます。当面京都府や宮津市としましては、治水といったハード面の対策を進める一方で、浸水区域の公表やその対応などの情報を発信するなどといったソフト面の対策を行い、住民のみなさんの防災に対する意識を高めてもらうことが重要だと考えています。ひとまかせにせず、自分たちで助け合ってことにあたる心構えを持っていただきたいと思います。

私たちの仕事は、河川法という法律に基づいて実施しています。平成9年に河川法が改正され、河川法の目的として三つの大きな柱が据えられています。今回、河川整備における基本的な考え方は以下のとおりです。

まずは「治水」ですが、これはいわゆる洪水対策のことです。 具体的には、昨年の台風23号の雨に対して、溢水被害が生じないような川づくりを行います。

次に「利水」、これは流水の正常な機能を維持するため、適正な水利用が成されるように努めます。 具体的には農業用の取水の確保や普段の水量の確保です。

最後に「環境」、これは平成9年の改正時に新たに加わった項目です。洪水を速やかに流すだけならまっすぐな川を作ればいいかも知れません。しかし、普段の水量に対する配慮が無ければ、そこに棲むいろいろな生き物の棲み場所は無くなり、水の流れは平坦なものになり、川中に草が生い茂り、その結果として砂のたまりやすい川になってしまうでしょう。これからの川づくりでは、洪水対策はもちろんですが、様々な環境にも配慮した川づくりを実施します。

ここからは大手川の激特事業について説明します。

青色の線は大手川とその支川を表しており、赤色の線は激特事業が採択された区域を示しております。 大手川本川の全長は約4.5キロメートルで河口からKTRまでを1工区、北近畿タンゴ鉄道から今福川合流地点までを2工区、今福川合流地点から2級起点までを3工区としております。

各工区の改修について説明します。

これは宮津市役所にある大手橋から上流を見た写真です。 第1工区全体はこのようなイメージを持ってこれから検討していきたいと考えています。 例えば、川沿いには可能な区間については遊歩道整備や桜・柳などの植樹を市や地域の皆様と連携しながら進めていきたいと思います。 具体的な内容については、これから検討していきます。 ワークショップというような手法も取り入れたいと思っています。

これは下流部第1工区の整備のイメージ図です。

これは大手橋から中橋のイメージです。

特にここには宮津城があった場所なので実際に城壁に使われていた石を用いたりして城下町の風情を残す川辺とするため、護岸は城壁をしのばせるような石積みとします。

来年早々に実施予定の河口部の工事内容について簡単に説明します。

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川幅は十分に広いので、基本的には川底を掘り下げます。 現在の川底から2から3メートル掘り下げるため、かなり海側まで掘削していく必要があります。

現在川の両側にありますヨシ帯を保全しかつ水の流れを確保するために、現在ある矢板護岸というものの前面にさらに深い矢板を打ち込みます。 矢板の頭は水面より上に出てきますので、景観に配慮した構造とします。 ヨシ帯は水質改善機能もあり、環境配慮という視点からも残します。 ヨシ帯については、賛成・反対ともに意見があるため、維持管理のあり方については今後検討していきたいと考えています。

今回の改修計画は過去の潮の高さを調べ、過去の最も高い潮位でも川があふれない計画としておりますので、堤防の高さが足りない区間については、パラペット護岸というものを設置します。

これは大手橋~中橋の横断図です。ここも河口部同様パラペットを設置し、川底を2メートルから3メートル掘り下げます。 この区間は先ほどのイメージパースに代表されるような、宮津城を忍ばす石積みや桜や柳のある遊歩道といった景観を意識した整備を目指します。次に2工区である中流部の説明をさせていただきます。

現在の状況はこんな感じです。

そしてこれが整備後の中流部のイメージです。

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堤防のブロックシートという護岸に土をかぶせ、コンクリートが見えないような川づくりを進めます。 水の流れは緩やかに蛇行させ、魚たちの住みやすい川づくりを進めます。 この区間は川がくねくねと蛇行して流れています。これまでは川をまっすぐにして、「早く水を海に流してしまえ」という発想がありましたが、川というものは元に戻ろうという性質があります。たとえ川をまっすぐにしても、いったん洪水被害が起きると以前の川の姿に戻っていることも良くあるそうです。大手川では、もともとの川の形を大事にしたいと考えています。

中流部(2工区)の整備イメージです。

堤防の護岸に土をかぶせ、コンクリートが見えないような川づくりを進めます。 水の流れは緩やかに蛇行させ、魚たちの住みやすい川づくりを進めます。 堤防の勾配は緩やかにすることにより、誰もが川に近づき、親しめるようになります。 これにより、川に住む生き物たちの環境の連続性を保つことができます。現在の上流部の状況はこのような感じで、これが改修後はこのようなイメージを考えています。

現地で発生する石を極力利用した石積みなど、護岸をすき間のある構造とし、魚類や小動物の隠れ場を造ります。川の中には石を残し、渓流的な景観を残します。このあたりは、川の中を掘ると大きな石がザクザクと出てきます。 この石を護岸に利用することで、河川環境にやさしいだけでなく、山を削って石を持ってくるといった山の環境破壊をも防ぐことができるのです。

また、まっすぐで隠れ場所の無い川では、いったん洪水が発生すると、魚などは隠れ場所が無いため、一気に海まで流れてしまいます。一般的に淡水魚は、海に流れてしまうと死んでしまったり、もとの場所に帰ろうにも困難が伴い、川の環境を取り戻すには何年もかかります。このように石を使うことで、魚の隠れ場所が出来、生態系の保全につながります。

上流部第3工区の整備イメージです。

これは上流部の横断図です。

現地で発生する石を極力利用した石積みなど、すき間のある構造とし、魚類や小動物の隠れ場を造ります。 川の中には石を残し、渓流的な景観を残します。特に上宮津保育所付近には残すべき景観として多くの樹木があります。 これらにより日陰ができ、水温が維持され、魚類の環境としては大いに効果があります。 そういった環境を子供たちの総合学習の場としても利用できます。 みお筋をつくり、川本来の流れをもたせます。

災害に強いまちづくりに向けて、私なりに思うことを述べさせていただきます。

今回、京都府では、河川改修や砂防堰堤の建設を行い、再度の災害を防止するための努力は進めていきます。 しかし、災害はいつやってくるかわかりません。また、昨年以上の雨が降ったら河川改修を行っても、やっぱりあふれるかもしれません。 佛教大学の植村教授という方が、昨年の大手川と野田川の被害状況をまとめられた「台風23号災害と水害環境」という本がありますが、この本の最後に地域住民への提言として次のようなことが書かれています。

・自分の命や財産は自己の責任で災害から守らねばならない。自己の責任と判断で適切な避難行動をとらなければならない。 ・現在の居住地がどのような災害環境にあるか理解すること。それにはどんな種類の災害がどこで、どの程度の強さで発生する可能性があるか知ることが必要である。 ・避難所と避難経路は実際に歩いて見て確かめることが必要だ。 ・地域の防災組織や伝達経路を知り、この取り組みに積極的に参加しよう。地域内のつきあいを通じて各世帯の家族構成、高齢者や乳幼児の有無などを把握しておくこと。

災害は忘れた頃にやって来ます。自分の身を守るのは自分自身なので、災害に対する情報は集めて、十分理解しておく必要があります。情報を有効利用するためにも日頃からその内容を確認をしておき、情報が錯綜する恐れもあるのでどの情報が自分に必要なのか選ぶ力も養っておきたいものです。

次は住民参加について説明します。

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大手川の河川改修工事は以上の内容で進めますが、地域の方々のご意見・ご助言を伺いながら取り組んでいきたいと思っています。 住民の皆様と行政により、豊かな川辺の空間が形成され、そのことによって川と街に人のにぎわいが生みだされると思います。

その住民参加ではいったい何ができるのか考えたいと思います。これは計画段階、工事段階、維持管理・利用段階といった各段階ごとで考えてみます。

まず、計画段階ではこれらのことが挙げられます。

景観検討委員会とは宮津の自然的、社会的、歴史的環境等との関連から周辺の景観との調和を図るための住民の皆さまから意見・案を出し検討していくものです。次にわんど整備計画は本川に何カ所かわんどを設ける計画で、わんどが整備されることにより、良好な水辺空間が形成されます。これは子供達の環境教育の場となり、イベントなどを通して自然の中で遊び、多くの生き物とふれあい、いろいろな体験をすることによって人間としての豊かな感性をつくりあげていけると思っています。

具体的にどのようなわんどにしたら良いのか、皆さんと一緒に考えていきたいと考えております。

次に工事段階です。

まず、工事見張り番とは、施工業者がどのような作業を行っているのか、日頃から注目し、住民の生活に極力支障のないように見張る。工事用ルートの策定や生活用通路・通学路の見直しを行い、住民で交通誘導し、子供たちを守るということが考えられます。 住民参加型工事とは子供を含む住民のみなさまに直接工事に携わってもらうというものです。その内容は植樹や木杭の打設といった簡単な工事を考えています。

最後に維持管理段階ですが、これが一番大事なことです。例えば、ボランティア活動として堤防の草刈りやゴミ拾い等を行う。普段から川の手入れをすれば川への愛着がもてると思います。それにより、皆さまに愛される大手川になると思います。

計画段階で話したように総合学習は豊かな感性を育むには必要で、河川は多種多様な動植物の存在する場なので、最も適していると思われます。この維持管理・利用の段階を特に住民の皆さまに協力を願いたいと思っております。

最後に市民グループによる水辺づくりの事例をいくつかあげます。

東京都日野市の向島地区の事例です。ここでは行政の呼びかけでビオトープが形成されました。協力してくださった方々は子供達の散歩コースとして利用している地域の保育園、子供達の魚取りの姿を目にしている小学校の先生、日頃水にかかわる活動をしている市民グループの皆さんであり、その皆さんによる清掃活動が開催されました。 その結果、自分たちの環境は自分たちで守ろうという意識が高まり、今でも市民グループを中心にした清掃活動が続いています。

次に栃木県栃木市の巴波川(うずまがわ)の例です。

この土地の優れた歴史と自然の風土を地元住民が再認識した結果、川沿いに立ち並ぶ蔵と巴波川が地元の財産であり、まちづくりのキーワードであることを官民あげて共有していきました。ハードとソフトの両面で整備が進められ、ソフト面では、まちづくりの啓発団体として「蔵の街援護会」か結成され、観光ボランティアなど、地域活性化への活動をしています。

その他、様々な団体ができ、多くの住民がまちづくりに関わり始めています。ハード面では、まちづくり事業の指定を受けたりと、蔵の保全・再生や舗装などの整備が行われています。 この事例は大手川の第1工区の宮津城の歴史的イメージを残すものと似ています。

鳥取県の八東川です。鳥取県は自然環境や地域づくりと一体となった川づくりに力を注いでおり、地域住民と一体となった活動も有名です。

この八東川は河川改修において畑地となっていた旧河道を派川として復元した事例です。復元された場所には多種多様な自然環境が形成され、みごとに緑溢れる川に戻りました。具体的には全く水の流れていない農地をもとの河川に復元するので特に、淵を再生するにあたり、古老の話を聞いたり、現地の状況を観察し、昔合った場所を明確にし、そこに再生しました。それにより自然の瀬と淵が形成され、豊かな自然が取り戻されました。大手川の中流、上流域でもこのとようなわんどをつくってはどうでしょうか?皆さまと一緒に検討したいと考えています。

“どこどこ”の大手川版のような流域マップの作成も良いのではないでしょうか?大手川のどこどこにアユがたくさん居ますとか、この先には今福の滝がありますとか、皆さんで実際に大手川を歩いてみて大手川のポイントごとの魅力を流域マップとして作成してはどうでしょうか?

自然環境の保全が叫ばれ、その重要性を認識していても、限られた財源の中で大手川の維持管理に乗り出すことは難しいのが現状ですので、環境保護団体を始めとし、広く市民(ボランティア)の積極的な支援・取り組みに頼るところが大きいです。

こういった成功した事例は少ないですが住み良い宮津市をつくるには皆さまのご協力が是非とも必要です。豊かな川辺の空間を創り出す主体は市民の方々であり、行政とのパートナーシップの関係が重要なカギになると思われます。 今後とも大手川激甚災害対策特別緊急事業にご理解・ご協力をお願いします。

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同じ宮津湾に注ぐもう一つの川、世屋川河口の日置では、昭和の初めころは農地用水にアユがあふれ、あたりはアユの香りに満ちていたという話が伝えられています。

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「総合学習は豊かな感性を育むには必要で、河川は多種多様な動植物の存在する場なので、最も適していると思われます。」と本講座。

こういうことが、異なる個性、成り立ちを持つ二つの川で、連携しながら、実情の調査と対策が進めばいいですね。

 

 

National Flower Koreans have loved the rose of Sharon for centuries.
国花 韓国人は、何世紀もの間、むくげの花を愛しています。
According to records, Koreans have treasured the rose of Sharon as a heavenly flower since ancient times.
記録によると、韓国人は古代から天国のような花として、ムクゲを大切にしてきました。
The rose of Sharon blooms from early July through late October.
ムクゲは7月初旬から10月下旬に咲きます。

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ほほう!
「京都市立西院中学校 ハングル語講座の締めくくりにと韓国の国花「ムクゲ」の植樹もしました」

長く深い韓国や北朝鮮と日本の関係があります。政治的な駆け引きに明け暮れ、いっこうに改善する兆しのないあきれた事態がある一方、教育の世界では、美しい試みが地道にアイデア豊かに試みられていることに希望を感じました。

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国花を謳った国歌も、教わられたのでしょう、その国歌の訳(非公式)

1. 東海(日本海を指す)が乾き果て、白頭山が磨り減る時まで(=永遠に有得ない事の譬え)
神の護り給う我が国、万歳(=万年永久に)
コーラス
むくげの花(無窮花=韓国の国花)、三千里(3000朝鮮里、朝鮮半島の北から南までの長さ即ち韓国全土という意味)、華麗な山河、
大韓人(韓国人)よ、大韓を末永く保全せむ(韓国を永遠に守ろう)。

2. 南山(首都の山という意味)の老松が鉄の鎧を纏った様に、
風霜の変わらざるは、我等の気性なり。
(コーラス)

3. 広い秋の空が雲一つ無く澄み渡り、
輝く月は、我等の精神、一片丹心(誠実な心)なり。
(コーラス)

4. この気性(=2番で歌われたもの)とこの心(=3番で歌われたもの)で忠誠を尽くし、辛くとも、楽しくとも、国を愛さん。
(コーラス)               上記は非公式訳。

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韓国の市民権を得るための試験のひとつに、「愛国歌の1番を(何も見ずに)歌う」という項目がある、、、、嘘か本当か?

本当なんだそうです。日本人は 春の桜で洗脳されていますけれど韓国は夏のムクゲを叩き込む、、、
これは興味深いことです、、、、

夏草に埋まる棚田と里山の荒廃を救うのは、桜ではなく「ムクゲ」かも、、、。

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さて、このムクゲの花に関して、も一つ感動の記事。、、、

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「散歩道できれいなムクゲの花を毎日見る季節になりました。7月から10月頃まで、白・桃・赤紫色の花を咲かせ、観賞用として庭にもよく植えられています。漢字では「木槿」「無窮花」と表記され、「ムクゲ」の音はその漢字表記によっていることがすぐわかります。一般には朝に花が開き、夕には花がこぼれてしまう「一日花」と説明されているようですが、よく観察すると夕には萎みますが翌朝にはまた咲いて、2~3日で花が落ちます。ただし八重咲きのものは、もう少し長く咲いているようです。一日花という理解は、白楽天の詩の一節「槿花一日自成栄」(槿花は一日で自ら栄を成す)が、本来は「仏法が瞬く間に広まった」という意味であるのに、それを「槿花一日の栄」と誤解したことによるということです。
このムクゲという花は、日本人にとっては愛すべき多くの花の一つに過ぎませんが、韓国では国花とされています。また現在国花になっているというだけではなく、古代以来民族の象徴として大切にされてきたそうです。日本の桜に相当する花と理解すればよいのでしょう。新羅では唐に送る国書の中で、自らを「木槿国」と称したことが、『旧唐書』に記されています。李氏朝鮮の時代には、科挙の合格者に対して国王が「御賜花」と称して無窮花を授け、国王が臨席する宴会では、無窮花が飾られました。日本の統治下においては自主独立の象徴となり、無窮花の植樹運動が各地で行われました。日本人の官憲はそれを禁止し伐採を命じましたが、朝鮮民族の無窮花に対する誇りまで奪うことはできませんでした。

1948年8月15日に制定された韓国国歌「愛国歌」には、「無窮花三千里(北朝鮮の北端から韓国の南端まで)、華麗なる山河、大韓人よ、大韓を永久に保全せよ」と歌われています。

また韓国の最高の勲章である「無窮花大勲章」は、大統領に授与されるそうです。私は韓国人ではないのでそれ以上の例を知りませんが、ムクケ゛が民族の花として尊重される事例は、もっとあるのでしょう。
日本人は桜の花が一斉に散ることに風情を感じていますが、椿のように花がそのままの形で落ちてしまうことを、首が落ちるように感じて忌み嫌います。病気見舞いには、椿は持って行ってはいけない花なのです。無窮花の花は、一つ一つの花の期間が短いだけでなく、花びらが閉じてはいますが、椿のようにそのまま落ちてしまいます。日本人の伝統的美意識からすれば、無窮花に対する好みが分かれるところでしょうか。しかし韓国人は全く異なった見方をしています。一つ一つの花が咲いている期間は確かに短いものです。しかし次から次に新しい花が咲き、途切れることなく長期間にわたって咲き続けます。韓国人はそこに生命力の強さと美しさを感じているのです。ここで桜と無窮花の優劣を比較することは、全く無意味なのです。日本人は桜に感動し、韓国人は無窮花をことのほか愛でる。それでいいのです。
埼玉県の地元ネタで恐縮ですが、埼玉県の日高市には高麗神社というユニークな神社があります。716年(霊亀2)、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の7国に住む高句麗からの帰化人1799人を武蔵国に移して、高麗郡を新設したことが、『続日本紀』記されています。彼等の指導者であった高麗王若光の没後、人々はその遺徳を偲んで祀ったのですが、これが高麗神社の起源となりました。この高麗神社はその特殊な来歴によって韓国人の参拝者が多く、境内には無窮花の木が何本も植えられています。また私の家のすぐ側にある吉見の百穴には、戦時中地下の軍事工場を建設するため、多くの朝鮮人が徴発されたと言われています。そのため、やはり無窮花の木が記念として植えられているのですが、それらの無窮花の意味する所を知っている日本人は大変少ないのです。
平成23年8月、日本の国会議員が竹島問題に関連して、視察のために韓国に入国しようとして拒否された事件が起きました。その際、鬱陵島にある「独島博物館」の敷地内に、「対馬は元わが国の領地」と刻んだ石碑があることが広く日本でも知られ、驚いたものです。そういう動きに呼応するように、最近は対馬に多くの韓国人観光客が押し寄せています。そして中には島のあちらこちらに無窮花を植樹する人もいるそうです。実際韓国には、対馬を無窮花でいっぱいにしようという運動が起きているそうです(未確認)。韓国資本が対馬の土地を次々に買収し、無窮花を植えていくことの意味を、日本人はあまり気付いていないように思います。
戦後ですが、日本の象徴である桜が、韓国で伐採される受難がありました。日本もかつて無窮花の植樹を禁止したことがあるのですから、これについてはお互い様かもしれません。しかし最近は少し様子が違っているらしい。韓国ではあらゆる日本文化に対する韓国起源説が強烈に主張されることがよくあるのですが、「桜は韓国起源」「桜は日本の花という主張は間違っている」という主張をよく耳にするようになりました。こういう話を聞くにつけ、本当に悲しくなってきます。どちらが起源であるといって、それが一体何なのでしょう。日本人は日本人の価値観で桜を尊び、韓国人は同じように無窮花を大切にする。お互いに尊重しあって、それでよいではありませんか。私は韓国にことさらに桜をうえようとも思いませんし、無窮花の木を切り倒そうとも思いません。それぞれの風情をそれなりに楽しんでいます。

追記
先日、埼玉県日高市の高麗山聖天院に見学に行きました。このあたりは高句麗の帰化人たちが入植し、716年に高麗郡が置かれたところです。そして聖天院はその族長であった高麗王若光の菩提寺です。そのような歴史的背景から、境内には、日韓併合から独立までの36年間に亡くなった、韓国・朝鮮人の無縁者供養塔が建てられています。それに隣接して三・一独立運動のときにソウルのパゴダ公園で独立宣言書が読み上げられた八角亭を縮小した建物が建てられています。その軒丸瓦にはっきりと無窮花の花が浮き彫りになっていました。今まで見落としていたのですが、やはり意識していないと、価値のある物を見ても見過ごしてしまうものだと、改めて思ったことです。」2015-06-24 10:24:22 の記事

 

金さんにもさんさんと注ぐ真夏の日差、

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いくら金さんでも水分は大切です、彼がその酷暑にもめげないのは、世屋には美味い冷たいこの水があるから!と言わんばかりに、11度の水を湧きだし続ける岳ガラシャ名水。

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炎天の続くこの夏お奨めの水スポットですよ。

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丹後縦貫林道角突山線沿い、松尾田んぼ越しに展望する若狭湾の絶品の海岸美とあわせて楽しめます。

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※生原水ですので煮沸などのうえご利用ください。

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さて、読書にいそしむ少年時代の像が一般的なイメージ。

しかし、その生涯の功績の意味や評価はメディアで急速に高まっています。

たとえば、『英雄たちの選択』

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 「闘う“復興請負人” 二宮金次郎」

「江戸時代後期、災害や飢きんで荒廃した農村を救うすご腕の復興請負人が現れた。二宮金次郎。型破りな方法で農村と人の心を復興。薪を背負う少年像とは違う実像に光を当てる 江戸時代後期、農家に生まれた二宮金次郎は災害で没落した実家を再興、奉公先の武家の家計も再建。その腕を買われ、災害と飢きんで荒廃した北関東の農村の復興を任される。10年かけて成功、復興請負人として引く手あまたになる。しかし、金次郎の型破りな手法の前には常に役人の壁が立ちはだかる。金次郎の「時代を先取りした経済感覚」と「大胆な手法」の根底にある考え方と官僚機構との摩擦の中に、現代に通じる教訓を探る。」とNHK。

大人の金治郎像も造られています。

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物語をもとに映画化も。

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薪を背負う姿も、映画では!

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「二宮金次郎物語 映画上映会」もしてみたいですね。

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せやこうげんきゅうけいしょで、ガラシャ名水で入れたコーヒーを呑みながら!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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