宮津エコツアー · 11月 2019

11月 2019

文殊智恩寺境内のお石塔たち。

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この法きょう印塔は初代宮津藩主京極高知が建てたとされます、

慶長一六年二月の日付があるとのこと。

では、誰のために?!

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基壇石の文字は消えている。しかしうっすらながら読みとれる二つの文字、「一夢」。

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その 一夢の、前には「稲富」、あとには「直家」とあったといいます、つまり、「稲富一夢直家」。

藩主高知をして、供養せしめた「稲富一夢直家」とは、どんな功績を残した人物なのか、

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教育委員会の解説はあるけれども、なにもつたえていない解説といわざるを得ない!

おりから、町にはガラシャ旗!

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この、「稲富一夢直家」深く、ガラシャと関わっている人物です。

 中村彰彦『ガラシャを棄てて』(徳間文庫・『敵は微塵弾正』収録)

とあるように、玉造の細川屋敷の警護団にありながら生き残ったため、世評では「裏切った」「逃亡した」とされるのが、この供養塔の横に墓石の立つ稲富直家なのです。

「稲富流砲術の創始者である稲富伊賀守直家について、松本清張さんが書いた「火の縄」を読みました。稲富直家(この本では稲富治介という名前)以外にも、その主である細川忠興とその妻である玉(ガラシャ)も主人公といえます。時代的には、細川忠興が織田信長より丹後の地を賜ったところから、稲富治介が細川家を離れて、最後は徳川家康に鉄砲師匠となったあたりまでが描かれています。稲富治介は稲富流砲術の創始者として有名ですが、他に有名なエピソードとしては、関ヶ原の戦いの時期に、細川ガラシャと共に大阪の地におりながら、石田家が細川ガラシャを拘束しようとした際に、逃亡したことがあげられると思います。一説には臆病だから、ということもあるようですが、この本では、主人公の一人である細川忠興や玉(ガラシャ)との良好でない関係というのも一因となったようにしています。」と、言う人もあります。

そういう評判の発信もとは、霜というガラシャの侍女からの聞き取り、いわゆる「霜女覚え書き」。表門の守りを命ぜられた直家が敵兵に囲まれて去っていったところを目撃したと聞いたと彼女はいう。この証言は、事件から45年後のことという。たった一人の証言によって、「有罪」となるのであろうか、

根っからの丹後人、真のガラシャ人なら、そこはおかしいとするでしょう。信憑性はあるのであろうか、見間違い、聞き間違い、勘違い、あるいは誘導、そういうものがなかったのだろうか、と。これは怪しいとしなくてはならないところですよ。

本当か、嘘か、、、真実は高知が知っている。しっているがゆえに、この手厚い供養のではないでしょうか!

そして、そのまかり通る世評の謎を暴いたのが、峰山の郷土史家、伊崎義明氏の想像力。『時代小説 戦国哀史 花なき峰』(昭和52年刊)。

彼は、『夫人もろとも生死の境に直面した彼が、今こそ鉄砲にかけて最後の防戦に出るのが常識』、屋敷の外に出た事を踏まえながら、表には出ない何かがあったとする、たとえば手の込んだ策略にはめられたのかもというのもその一つ。根拠は、争いが起きた様子はなかったという状況。なにか出ざるを得ない話を持ちかけおびき出し引きずり出して、そのうえで、「なおいえがうらぎったぞう」と叫ぶ、それを真に受けた他の家臣がここまでと、屋敷に仕掛けた爆薬に火を付けたことも考えられるではないかと。

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伊崎ワールドでは、彼こそ丹後の麒麟児。

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真実の解明は、裏切ってはいない、ということを確信する気合いから始まります。

この本、宮津図書館にあります、

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ガラシャの最期が変だ!

光秀の裏切り者としての評価が覆った今、「麒麟が来る」の機会を生かすためにもお奨めの一冊です。

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それにしても、『夢』を用いた名、直家自らの案なのか、また、誰かの命なのか、そして、その夢とはなんだったのか、、玉、ガラシャが深く関わっている!というのが、伊崎さん。わたしもそうおもいます。

 

 

 

 

 

まもなく、「宮津藩 文政五年の大一揆」の12月  。

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事の起こりは、宮津藩が領内の7~70歳の男女1人につき1日2文の新税を課す外、農民に対し、先納米1万5000俵と同量の追加上納米を課税するという方針を示したことに対し、農民らがその撤回を求めたこと。

強訴に及んだとして、拘引され詮議を厳しく受けた農民は四十余名。
犠牲者が多数出たはずなのに、そのなかで、石川村奥山の吉田新兵衛死刑(打首)、同為次郎死刑(獄門)、2人にとどまったのは、農民たちの堅い団結だったという。                十数人の追手に囲まれ縛につく際、新兵衛は平然と鍋座に座り飯を食う時間を乞い、妻はその一瞬に強訴の連判帳などを焼き捨てたと伝わる。
「宮津藩 文政一揆」の背景や要因、経過はどのような事だったのか、さまざまに語り継がれているが、60人の庄屋名主、さらに25人の豪商等の富裕層、計85人への攻撃に特徴があるという。農民は<文政5年(1822)12月13日暁方に蜂起、丹後120ヶ村から押し寄せた一揆税は、手に手に松明や鎌、斧、とび口などを持ち、庄屋や豪商宅を次々に打ち壊し、宝物、刀剣、金銀、米等を庭先に積み上げことごとく焼きつくしたという。

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なぜか!

彼らは、新税の徴収に動員され藩と財政上の協力体制を組んでいたのが理由とされる。
では、時の宮津藩主、松平宗発はなぜこのような暴政を行ったのか、数年の作柄は悪くなく、むしろ豊作で、米価も安定していたという。米価が安定していることは領内が平穏であるはず、そのことを領民と共に喜ぶのではなく、暮らし向きの安寧に配慮することなく、1日2文を7~70歳の領民に課す、さらに先納米1万5000俵と同量の追加上納米も課したのだ。
怒りの炎が燃え上がるのは予測出来るはず、また、それに協力したならば、その矛先は自分たちにも向くということを庄屋豪商たちは知らなかったはずはなかろうに、、、。

なぜそうまでして、絞り上げなければならなかったのか。

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「近畿風雲抄」(map46-2.com/koto/kyouto/j_hyakusyouikki.html )は、一揆の背景には藩主・松平宗発 と水野忠邦の出世争いがあるとする。
『◆文政一揆の際、当主松平宗発(宮津藩第5代藩主)は40歳。幕府奏者番(将軍と諸大名との取り次ぎ役)に就いていたが、奏者番の3年後輩に水野忠邦がいた。忠邦は年齢も宗発より10歳ほど若かったが文化14(1817)年に寺社奉行に就任。出世争いにおいて忠邦に抜かれた悔しさが宗発を変身させたとしても不思議ではない。それは、宗発に仕える宮津藩の江戸詰重臣の心痛の種であった。宮津藩は従前から優秀な家臣を江戸に集め人件費や諸費がかさんでいたところ、さらに宗発の上役への接待費等に藩費を費消し、その調達を国元に委ねるという悪循環が藩財政を圧迫するところとなった。宮津藩は新税等の導入に踏み切り、庄屋等を増員し税収の確保に周到な準備を行い、庄屋等には口銭を与えた。それはいわば事務費として処方されたものと思われるが、領民には不健全な役得と映り、一揆の口実となっても不思議はなかった。』

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藩財政の悪化を引き起こした要因は、藩主の出世争いのための浪費としったら、農民でなくとも「それはないだろう」と思うのは当然のこと。

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処刑は文政七年春。

桜咲く さくらの山の桜花 ちる桜あれば 咲く桜あり

民心を忘れ、無思慮に増税を急ぐ理不尽の結果を知らしめるのに一命を賭した新兵衛、為次郎への感謝を込めて、建立した地蔵に寄せられた寄進、75000人。

丹後の民衆は、しんべえ地蔵とよび、慰霊の蓑着せを今も続け一揆を語り継いでいる。

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さて、この巨体に蓑をどうやってお着せするか、そもそも、この像のもとの巨石はどこにあって、どうやってここに運び、どうやって建てたのでありませうか、、、!その謎、解いてみたいとおもいませんか。

 

 

 

 

 

 

 

 

丹後縦貫林道の角突山線のビューポイントからの若狭湾です

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伊根湾を囲む山、青島や冠島と沓島がむっつりとしているのは、シイやタブ、ツバキなどが森を作っているからです。丹後の山のおしゃべりな紅葉と無口な島が対照的です。

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若狭湾の東の端、越前海岸の上に、「若狭湾の守り山は我ぞ!」というように冠雪の白山!

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まもなく丹後の山にも雪。

冬季は丹後縦貫林道は不通になります。

山が冬の眠りにつくまえに、紅葉を楽しみませんか。

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ところで、もう一つ、

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FM丹後で 本日一時より、ひるラジたんご、ふりちゃんとみんなの輪 で、丹後のブナの森について「語り」ます!

大宮バイパス三坂付近。

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冬の虹円かにかかる祝意かな  千原叡子

冬の虹まだ吾に運あるらしき  鶴目鯛遊子

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なにか得した気分になるものです。

見とれけり後ろ髪引く冬の虹  高木智

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冬虹の裏なる能登へ旅つづけ 岩垣子鹿

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冬虹の下にあるとや奥丹後  世屋野蕪村

「三戸野山 きょうみるきみは 夢ならで 

        見てあたたかき もみじ葉の映え」

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(↑ 丹後縦貫林道成相線)

ガラシャさんが山をおりる時に詠んだとされる歌です。

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秀吉から赦しの報が届いたのはもみじの秋のことだったのです。

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本能寺の変の報に接し、明智の娘、玉の処遇を迫られた際、味土野の山へしばらく隠しおけと細川幽斎さん。その時「殺すには惜しい女じゃ」とつぶやいたと、松本清張さん。

義父幽が、惜しんだのは玉の和歌の才だったとか!

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さて、玉さんが見たモミジ、

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(↑ 小町公園)

見てあたたかき もみじ葉の映え、いま丹後の山は、もみじ祭ですよ。

耳を澄ますと、災害無線放送、、

「コシアブラが、黄信号を出しています。」

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「ウリハダカエデは、赤信号です。」

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「みなさん、ご注意ください」

こんな放送してくれる町があったらすてきですね。

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コシアブラやウリハダカエデがどんな注意情報を発しているかというと、例えばインフルエンザ流行注意報。季節は秋から冬、寒い友達が訪ねてきます、寒暖の大きな差に体調を崩さないように、そなえてくださいよ、、、です。

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丹後は、紅葉と虹の季節を迎えます、

 

晩秋の京都・大内山仁和寺

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その書院の一室に御室流!

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ただしくは 仁和寺 御室流華道.その源流は9世紀末、仁和寺開創の宇多法皇までさかのぼり、「風雅をこよなく愛した法皇は、桜一枝を御室の醍醐帝に届け、いま一枝を御室の宝瓶に挿して、人心教化の一法として挿花の道を示した」ということです。
「人心教化の一法」、、、なるほど、、、頷くばかり!

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また、御室流華道によるいけばなの特徴は、大別すれば、生花と自由花、創作花の三つ。
「生花は、伝統的様式を伝えて、さまざまな決まりがある。その基本は、3本の役枝によって構成されます。役枝は、「体・相・用」(仏教で、人間の心に備わる3つのあり方をさす)と名づけられ、寸法や枝を曲げて形を整える時の角度などに厳密な決まりがあります。
これに対し、自由花(盛花と投入花)は、制約が少なく、私たちが日常目にする色鮮やかな草花を自由に使えるものとして生み出されました。これは、「体・相・用」の概念は共通するものの、役枝の使い方などはより自由で、花材の選択・取り合わせも生花とまったく異なるなど、生花と別の色彩豊かな世界を表現することが可能となります。
また、役枝を設けないさらに自由な生け花を、創作花と呼んでいます。
仁和寺の文化活動のひとつに、「御室流華道」があります。仁和寺の門跡を家元に、華道を通して芸術と宗教による人格の形成をめざしています。」
と、 華道・仁和寺御室流 | いけばな(華道) | 紫光会 中嶋皐月さん。
satsuki-n.com/ja/flower-arrangement/omuroryu/

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生花と自由花、創作花という分け方、これは、人間分類が花に託されているのかもしれません、人は、生花人と自由花人、創作花人この三つに大別される、、、と!
ガイドをお願いしたのは、 若い寺僧さんでした

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その中でお話されたこと、
①立石電気の社名「オムロン」は、この「御室・おむろ」由来であること、
、、、なるほどぉ、、、
②「仁和」寺は、「仁和◆◆年」という元号由来の寺名であること。この元号由来の例は、他に三つ、すなわち、最澄の比叡山延暦寺、北条時頼の巨福山建長寺天海の東叡山寛永寺
いずれも、人心教化、国家安泰に貢献するところ大であると認められたことによるもの
、、、、、なんとなんとぉ、、

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(上 手前のパイプは台風被害のために修理中とのこと、)

丁寧に熱心で、気持ちが伝わってきて、『年寄るまで石清水拝まざる仁和寺にある法師』とは、お若い頃はこんなご坊だったのかなと思いながら楽しい一時を過ごせて、感謝感謝です。

京都にはもう一つの塔、、、、

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これを建てた方、生花人と自由花人、創作花人、、いずれのタイプの方なんでしょう。

 

花の色は移りにけりな、、、

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日本の芸能文化史に名を刻む小野小町さん、

彼女が晩年を過ごしたのは、丹後の国三重の庄五十河の里、ではないかとされています。

九重の花の都に住みはせで はかなや我は三重にかくるる

この三重というのが、根拠です。

とはいうものの本当かどうかはわかりません、各地に小町伝説はあります。

大切なのは、疑いつつ信じること!

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旧大宮町が、小町さんにまつわるエピソードを取り込んで公園として整備したのも、そんなエネルギーがあってこそでしょう。

そんな公園に深まる秋、

情熱こそ人生!

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まだ少しある筈なのですわたしにも熱情といふ生真面目なもの.  七戸. 大串. 靖子さん

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九重の花の都での熱く燃える一線の活動からは引退するけれども、里の人たちに文字や歌を教えることに、第二の人生の意義を見つけ、「まだすこしある熱情」を傾けて過ごしたのではないかなぁと思えたりしてきます。

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年取用の干し柿。

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「この干し柿たち、小町さんが剥いたのですって、一晩で!」

そんな伝説をここに植えられたブナも、あほいうて、とわらっています。

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絶世の美女として知られる小野小町が、この地で辞世の句を残しこの世を去ったといわれる、小町ゆかりの公園。神殿づくり(※寝殿作り ではないでしょうか)をイメージして建てられた「小町の舎」には、小野小町に関する文献・資料が展示してある。また、そば処「歌仙」では、五十河の自然の中でとれたそば粉を使い、「ひきたて、手打ち、湯がきたて」にこだわったそばを提供している。

さて、この小町公園が、いま期待されているのが、丹後縦貫林道成相線の全通によって、丹後自然観察ツアーの基点・拠点になることです。

先日迎えたお客さんは京北町で、活躍される樹々の会のおばちゃんたち。

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そのコース!

京北出発7;00→自動車道京丹後森本インター→小町公園(休憩・小町資料館など見学)→丹後縦貫林道成相線→

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ビューポイント→ブナ・ミズナラ個体群横断→せや高原矢野武さん農園

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→上世屋の里・

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へーぇえ!「ちいさなはなこそたいせつにそだてよう、だって」

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「きれいやなあ!」

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藤織り伝承館→

ここでは、古代布藤布を着せてもらいました!

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お昼は、しおぎり荘

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世屋谷を日置へ下って、ここで海岸通りと合流。

お土産の買い物は海産物専門のやまいちさんで→

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こんな可愛いお土産も。

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自動車道与謝野インター14;00→京北町

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さらに、このコースのバリエーション。

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駒倉側入山口から、観察道を辿って高山・内山ブナ林、丹後半島最高地点702mに立つことが出来ます。

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このコースを丹後のやまちゃんの手によるウエブ『ブラタンゴ 花鳥風月』がアップしてくださっています。とくに貴重なのが、ドローンによる高山山頂上空からの紅葉の山の空撮写真。

伊根方向です。

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下は、丹後町方向、真ん中に宇川野間の谷、その左にガラシャの里、味土野と金剛童子山!

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京都府が、ブナ・ミズナラを中心とした充実した落葉広葉樹の森を、自然環境保全地域に指定している意味を実感させてくれる貴重な映像です。

また、このコースご案内は、丹後半島エコミュージアムサービス、川内さんまでお問い合わせください。連絡先 090-3162-4499

 

 

 

 

 

 

「伊根満開」あります!IMG_2147

ソムリエ田崎氏の推薦という世界の指導者が集った大阪サミット公式晩餐会食前酒、「伊根満開」は、いまや幻の銘酒!

これを置くのは、須津の「酒源」さん。

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この酒源さんに丹後の「銘酒」の揃うわけは、お店の当主、酒の十徳を語れる所にあります。

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ちなみに、この酒の十徳とは次のようなこと。

江戸時代に、『餅酒論(もちさけろん)』という一種の知的な遊びが流行しておりました。

これは、餅が好きな人と酒が好きな人とが集まり、餅組と酒組の二組に分かれて、餅と酒のどちらがすばらしいかという議論をたたかわすものです。

餅組は餅の良いところと酒の悪いところを論じ、酒組はその反対を論ずる、これが『餅酒論』です。

結論としては、酒も餅も適度に飲食するのが良いということで決着がつくのですが、この『餅酒論』の結論として酒組のまとめた「酒の十徳」というものがあります。

これは酒の持つ十の効用を並べあげて、酒を称賛したものです。

〇 百薬の長

ほどよく飲めば、万病に効く。

〇 寿命を延ばす

体に活気を漲らせて健康を保ち延命の効果がある。

〇 旅行に食あり

旅先で、疲れている時でも食欲を増進する。

〇 寒気に衣あり

寒いときに酒を飲むと衣のように体が温まる。

〇 推参に便あり

お祝いやお見舞い、お土産などに持っていくと喜ばれる。

〇 愁いを払う玉箒

嫌なことを忘れさせてくれて、心の愁いを払ってくれる。

〇 位なくして貴人に交わる

身分の上下を越えて交友できる。

〇 労を助く

疲れた体を酒が癒してくれる。

〇 万人と和合す

酒は人の心を開き、多くの人と出会い、親しくなれる。

〇 独居の友となる

独り淋しいときには、友人のように自分を励ましてくれる。

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『餅酒論(もちさけろん)』、いまでいうディベートです。この討論力、その力の育成は初めて聞くようなことを言いますが、日本ではとうの昔にやっていたのです。

この酒源さんのカウンターにあるのは『丹後縦貫林道ものがたり』!

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なぜ、、、、、

わたしにもわかりません、

「 もっとも、酒に十徳があるのは、あくまでも適度の飲酒に限られます。 度を過ぎた深酒や、量は少なくても元々アルコールを受け付けない体質の方が飲酒することは百害あって一利ありません。古文書にも、酒の効用ばかりではなく、「狂水(くるいみず)」「地獄湯(じごくとう)」「狂薬(きょうやく)」「万病源(まんびょうのもと)」などといった言葉で酒害を説いているものもあるのです。」

悪酔いしない酒の肴なのでしょうか!

隠岐へ渡る機会がありました!

境港から渡ります。

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日本海に吹き出した火の島というのに惹かれたのです。

その断崖。

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冬の暴風暴波が作り出した、専門用語では、海に食われた崖、つまり海食崖!

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この高さ、257mなのだそうです!

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見に来てよかったとおもわせてくれた決定花は、ツワブキ!

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こんな岩場に転々と咲いているのです。

あぶない、そんなとこいっちゃああかん もどれー!

それが、まあふつうでしょう

暴風暴波にさらされる絶壁でも、活き場所、死に場所ときめて咲く凛とした覚悟の花、

すごい、素晴らしい!

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行ってきてよかったよ、とご挨拶したら、

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水木さん、「なまけものになりなさい」、濃い意味の言葉をかけてくださいました!

もう一つ土産話、

稲木も漁村も舟屋もみるものみんな丹後とそっくりでしたけれど、つたわる話もそっくりでした。というのが、この巨スギの名は、「八百スギ」

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八百比丘尼にちなんだものだそうです。

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この伝説も丹後各地に残っています。

まず、その基本的なストーリー

八百比丘尼伝説[編集]

八百比丘尼(やおびくに)は、人魚など特別なものを食べたことで長寿になった比丘尼である。福井県小浜市と福島県会津地方では「はっぴゃくびくに」、栃木県西方町真名子では「おびくに」、その他の地域では「やおびくに」と呼ばれる。高橋晴美によると、その伝説は全国28都県89区市町村121ヶ所にわたって分布しており、伝承数は166に及ぶ(とくに石川・福井・埼玉・岐阜・愛知に多い)[70]。白比丘尼(しらびくに)とも呼ばれる。800歳まで生きたが、その姿は17~18歳の様に若々しかったといわれている[71]。地方により伝説の細かな部分は異なるが大筋では以下の通りである[72]。
ある男が、見知らぬ男などに誘われて家に招待され供応を受ける。その日は庚申講などの講の夜が多く、場所は竜宮や島などの異界であることが多い。そこで男は偶然、人魚の肉が料理されているのを見てしまう。その後、ご馳走として人魚の肉が出されるが、男は気味悪がって食べず、土産として持ち帰るなどする。その人魚の肉を、男の娘または妻が知らずに食べてしまう。それ以来その女は不老長寿を得る。その後娘は村で暮らすが、夫に何度も死に別れたり、知り合いもみな死んでしまったので、出家して比丘尼となって村を出て全国をめぐり、各地に木(杉・椿・松など)を植えたりする。やがて最後は若狭にたどり着き、入定する。その場所は小浜の空印寺と伝えることが多く、齢は八百歳であったといわれる。

、、、、、、、、、、、、、、、
『京都の伝説・丹後を歩く』
〈 乗原の千年比丘 伝承地 竹野郡丹後町乗原
昔、この村に一人の僧がやって来たそうだ。その僧が此代の海から奇妙な魚を拾ってきた。その魚は、普通の魚とは異なり、胸から上は人間のようであるし、腰から下は魚の鱗がいっぱいある魚だったので、庚申侍をして、みなで食べようかと言っても、だれも箸を出さなかった。
大久保喜兵衛の娘が一口食べてみたところ、その魚のやわらかくて白い身は今までに食べたことのないおいしいものだった。ちょうど石榴のような甘酸っぱい味がしたのだそうだ。
ところが、それ以来、困ったことに、娘は病気ひとつしないし、体はとても大きくなって、嫁のもらい手がなかった。親も兄弟も隣りの家の者も、さらには村中の者がみな死んでも、福々しい娘のままですこしも年をとらなかったものだから、乗原にいるのがつまらなくなって、但馬の方に行ったそうだ。
但馬で嫁にいったという話もあったが、また、乗原に舞い戻ってきて、村に役立つことを何かしたいものだと思って、依遅ヶ尾から落ちてきた石を選り分けて、庚申墓の方から植松のあたりまで敷いた。道が固まって村中の者は喜んだという。また、牧の谷に降りる植松の大きな松もその娘が植えたそうだ。
その娘は八百年余り生きていることから、「千年比丘」といったそうだが、最後には若狭の方へ一人で船に乗って出たということだ。その後どうなったのか、だれも知らないが、何でも、お宮に祀られたとか。 (『丹後の伝説』)
伝承探訪
九州から青森県にかけて、とりわけ日本海側に色濃く、八百比丘尼の伝説が分布している。八百比丘尼とは、人魚の肉を食べたために、若い頃の姿のまま、八百年も長生きしたという尼の話である。福井県小浜市の空印寺の岩屋に籠もって入定したと伝えることが多い。丹後地方にもこの伝説に関わりのある場所が各所にある。たとえば、宮津市の栗田半島の塔ヶ鼻には八百比丘尼がいた庵の跡というあたりに供養塔が建てられ、そこが出生地だともいう。また、久美浜町葛野の岩船神社の左右にあった松の大木は八百比丘尼が植えたものだという。この八百比丘尼は尾張国の出身であったとされる。さらに、宮津市の山あいの木子・世屋のあたりには八百比丘尼が穴を掘って入定したと伝えるところがあるという。
ここ丹後町乗原でも、このような伝説によく似た、千年比丘と呼ばれる人の話が伝えられている。乗原は、海辺の此代集落から旧道を二キロ登った峠の上の戸数三十軒の集落である。屹立する依遅ヶ尾山の北山麓にあるため、牧の谷から吹いてくる北西の季節風は激しいものであった。かつては木材業や茶・蜜柑などの生産が盛んであったという。ここは大久保・川戸という二つの姓に分かれているが、このうちの大久保家の本家にあたる大久保喜平治氏のお宅がこの千年比丘の生家であったと伝える。当家は平家の流れをくむとされ、江戸時代初期の元祖からの名を記した位牌を伝えている旧家である。江戸時代から明治時代以降にかけて、造り酒屋や材木屋を営んでおられた。造った酒は宮津の町まで運んでいたものだという。喜平治氏の祖父は千年比丘の命日とされる日には小浜まで参っておられたとのことである。氏も祖母からこの話を聞いておられる。千年比丘は天候をよく当てたので、漁師から乞われて小浜に行った、しかし、あまりに長生きをしたので、世をはかなんで京に行った(死んだこと)、そこには白い椿の花が咲き、清水が湧いた、という。
八百比丘尼伝説は、まさしく、家の伝承として伝えられてきたのである。  〉

 

 

 

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