この法きょう印塔は初代宮津藩主京極高知が建てたとされます、
慶長一六年二月の日付があるとのこと。
では、誰のために?!
基壇石の文字は消えている。しかしうっすらながら読みとれる二つの文字、「一夢」。
その 一夢の、前には「稲富」、あとには「直家」とあったといいます、つまり、「稲富一夢直家」。
藩主高知をして、供養せしめた「稲富一夢直家」とは、どんな功績を残した人物なのか、
教育委員会の解説はあるけれども、なにもつたえていない解説といわざるを得ない!
おりから、町にはガラシャ旗!
この、「稲富一夢直家」深く、ガラシャと関わっている人物です。
中村彰彦『ガラシャを棄てて』(徳間文庫・『敵は微塵弾正』収録)
とあるように、玉造の細川屋敷の警護団にありながら生き残ったため、世評では「裏切った」「逃亡した」とされるのが、この供養塔の横に墓石の立つ稲富直家なのです。
「稲富流砲術の創始者である稲富伊賀守直家について、松本清張さんが書いた「火の縄」を読みました。稲富直家(この本では稲富治介という名前)以外にも、その主である細川忠興とその妻である玉(ガラシャ)も主人公といえます。時代的には、細川忠興が織田信長より丹後の地を賜ったところから、稲富治介が細川家を離れて、最後は徳川家康に鉄砲師匠となったあたりまでが描かれています。稲富治介は稲富流砲術の創始者として有名ですが、他に有名なエピソードとしては、関ヶ原の戦いの時期に、細川ガラシャと共に大阪の地におりながら、石田家が細川ガラシャを拘束しようとした際に、逃亡したことがあげられると思います。一説には臆病だから、ということもあるようですが、この本では、主人公の一人である細川忠興や玉(ガラシャ)との良好でない関係というのも一因となったようにしています。」と、言う人もあります。
そういう評判の発信もとは、霜というガラシャの侍女からの聞き取り、いわゆる「霜女覚え書き」。表門の守りを命ぜられた直家が敵兵に囲まれて去っていったところを目撃したと聞いたと彼女はいう。この証言は、事件から45年後のことという。たった一人の証言によって、「有罪」となるのであろうか、
根っからの丹後人、真のガラシャ人なら、そこはおかしいとするでしょう。信憑性はあるのであろうか、見間違い、聞き間違い、勘違い、あるいは誘導、そういうものがなかったのだろうか、と。これは怪しいとしなくてはならないところですよ。
本当か、嘘か、、、真実は高知が知っている。しっているがゆえに、この手厚い供養のではないでしょうか!
そして、そのまかり通る世評の謎を暴いたのが、峰山の郷土史家、伊崎義明氏の想像力。『時代小説 戦国哀史 花なき峰』(昭和52年刊)。
彼は、『夫人もろとも生死の境に直面した彼が、今こそ鉄砲にかけて最後の防戦に出るのが常識』、屋敷の外に出た事を踏まえながら、表には出ない何かがあったとする、たとえば手の込んだ策略にはめられたのかもというのもその一つ。根拠は、争いが起きた様子はなかったという状況。なにか出ざるを得ない話を持ちかけおびき出し引きずり出して、そのうえで、「なおいえがうらぎったぞう」と叫ぶ、それを真に受けた他の家臣がここまでと、屋敷に仕掛けた爆薬に火を付けたことも考えられるではないかと。
伊崎ワールドでは、彼こそ丹後の麒麟児。
真実の解明は、裏切ってはいない、ということを確信する気合いから始まります。
この本、宮津図書館にあります、
ガラシャの最期が変だ!
光秀の裏切り者としての評価が覆った今、「麒麟が来る」の機会を生かすためにもお奨めの一冊です。
それにしても、『夢』を用いた名、直家自らの案なのか、また、誰かの命なのか、そして、その夢とはなんだったのか、、玉、ガラシャが深く関わっている!というのが、伊崎さん。わたしもそうおもいます。