宮津エコツアー · 11月 2017

11月 2017

俺の背中に乗って♪って誰かが歌ってんだってねぇね 行先は「命のさばく」荷物は「雨雲の渦」とね。
それって何のこと?

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とギンリョウソウ。乗せた覚えもないんだけどなあと。けれどあんたは確かに「銀竜草」。
さて、このギンリョウソウについての新聞報道二つ。

一つ目、

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カマドウマなどの糞を知らべるという発想かいいじゃないですか。

このネタいただきです。

もう一つ。/2010/9/6  陸奥新報に掲載されたというギンリョウソウ話。

「エコツアーガイドには、いろいろな知識が必要だ。知識の多くは文献や資料から得るので、熱心なガイドはそれぞれシコミのための使いやすいネタ本を持っている。
わたくしの場合、一般的な植物の利用に関しては「資源植物事典」(北隆館)、マタギさんの事例と比べるためのアイヌの人々の植物利用については更科源蔵・光著「コタン生物記」(法政大学出版局)、植物の地方名に関しては「日本植物方言集成」(八坂書房)、DNAの解析によって最近大幅に変わった植物分類体系に関しては大場秀章編・著「植物分類表」(アボック社)などのお世話になることが多い。
それらにもまして日常的にお世話になっているのが、京都大学名誉教授の河野昭一先生が監修された「ニュートン・スペシャル・イシュー 植物の世界1~4」(教育社)と、「植物生活史図鑑1~3」(北海道大学図書刊行会)である。「植物の世界」はすでに絶版で、同じ出版社から「植物の世界 草本編上・下および樹木編」として出されているようである。「植物生活史図鑑」は現在でも購入できる。
いずれも、生活史つまりいろいろな種類の植物の生活の仕方を詳しく研究した成果で、大変おもしろい。読むと目から鱗(うろこ)がぼろぼろぼろぼろ落ちていく感じがする。カラー写真とともにすばらしいイラストがたくさん添えられている。
「植物の世界」の第2号に、ギンリョウソウの記事が載っている。ギンリョウソウは、従来はイチヤクソウ科あるいはギンリョウソウ科とされていたが、新しい体系ではイチヤクソウ科もギンリョウソウ科もツツジ科に統合された。ちなみに、新しい体系では、カエデ科、トチノキ科がなくなり、ムクロジ科のカエデ属、トチノキ属になってしまった。油断もすきもないというか、茫(ぼう)然(ぜん)というか…。
日本には、ギンリョウソウの仲間は、ほかにシャクジョウソウとギンリョウソウモドキ(アキノギンリョウソウ)がある。3種類とも白神山地のブナ林でみられる。
白神山地ではギンリョウソウが最も多く、春の終わりから初夏にかけて林床に小さな群を作ってたくさん咲く。年によって、咲く数が違うようで、今年は少なかった。写真で真っ白に見えるのはまったく葉緑体を持っていないからである。漢字を当てるとすれば「銀竜草」らしい。美しい花であるが、不気味な感じもしないではなく、普通の植物離れしているので、ユウレイタケ(幽霊茸)(日本の野生植物・平凡社)とか、こけのゆーれい、ゆーれーそー、ゆーれーばな(日本植物方言集成)とか呼ばれることがある。
ギンリョウソウモドキは、ギンリョウソウによく似ているが、8月から9月にかけて咲くところが違う。シャクジョウソウも8月から9月にかけて咲き、色は純白ではなく麦藁(わら)色をしている。熟すると茎にいくつも付いた果実が上を向いてお坊さんや修験者が持つ錫(しゃく)杖(じょう)のように見える。今年もギンリョウソウモドキが咲き出し、シャクジョウソウはすでに一部は果実になっている。
これから先は、「植物の世界」の受け売り。ギンリョウソウの仲間は葉緑体を持たないから光合成ができない。そのかわり根には菌類が共生して「菌根」を作っている。植物は菌糸を細胞内に誘い込んで消化し、栄養を奪う。一方で、環境の厳しい夏には自分が菌根菌にむしばまれることを許して菌を養っていると考えられている。熾(し)烈(れつ)、絶妙な持ちつ持たれつの関係である。
このような知識を、ほとんど専門用語を使わずに、お客さまにわかりやすく説明するのが、すなわちガイドの腕というものである。そのためには仕込んだ知識をとことん咀(そ)嚼(しゃく)しておかねばならない。ガイドの中には生かじりの専門用語を振り回してえらそうな顔をする者もいるが、それは三流である。
(白神マタギ舎ガイド・牧田肇)(www.mutusinpou.co.jp/六感で味わう自然/2010/9/6 月曜日)」

「読むと目から鱗がぼろぼろぼろぼろ落ちていく感じがする。」その感動をお客さんと共有できればという思いは、共有できます。エコツアーガイドとしての心構えについて教わりました。

来年の初夏が楽しみになりました。

なにしてんですか?その①

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「腹筋!」

そうかぁ、がんばりやぁ!

オリンピックオリンピックというのですけれど、せやの栃の木村からも選手が出るといいですね。

なにしてんですかぁ?その②

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「縦貫林道をつなげているの!」

大工事ですね、、

「そうでもないのよ!」

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「ほらぁ、こうしたらつながるでしょ」

丹後縦貫林道再全通記念パンフ編集で、デザインの相談をしている一コマ。

「蛇腹のページにしたらおもしろいかもねぇ」

え!?!なーるほどぉ、それゃあめいあんだ。

想像と想像がぶつかり合うのが「創造」なのかもしれないと思ったことです。

ウラニシの候、山も葉を落とし、冬の眠りにつこうとしています。師走のあわただしい声がきこえますが落ち葉の上にアラレが降り積もり、こずえの向こうの見通しが開けるなど、山里の味わいは、「今」が一番かもしれません。さて、《2017年 第10回 モデルフォレスト運動教育研修プログラム》  を計画しています。

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内容は、上世屋特設見張り所跡地を保全しつつ平和の森つくりを試み、高校生の研修の地とても活用されるようになりました。その様子を皆様にも見ていただけたらと思います。
また、人と自然との絶妙なかかわりで里山世界をはぐくんだ人々の、心の扉を開けてくださいました宝厳寺前ご住職小野先生の里山講話、その三回目もお願いしています。さらに、リニューアル工事完了した丹後縦貫林道の全線再開通を記念したパンフレット作りをスライドで紹介します。

◆  日時   12月10日(日) 午後

◆ 会場   ①見学→ 戦争遺跡森つくり現地    11時45分~

②昼食→  ペンション「自給自足」 12時15分~

③里山講話など→世屋高原家族旅行村 しおぎり荘 13時30分~15時30分

▼  ・林道全線開通記念パンフレット作りの取り組み スライドで

▼  ・宮津高校フィールド探求部の活動のレポート

▼  ・ハープギター演奏「里山」 安田守彦氏

▼  ・里山講話 小野泰昭先生(加悦・宝巖寺住職、与謝野町文化財審議委員)

◆参加費  昼食ご希望の方のみ1500円 現地説明・里山講話無料

◆参加定員 15人

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お忙しい時とは思いますが、年の暮れの一時世屋高原にいらっしゃいませんか!
※お昼をご希望の方は、別会場にて準備いたします。どうぞご利用ください。

晩秋は夕暮れの味土野高原。

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シカが鳴きました。細川ガラシャも聞いたのでしょう。

さて、このガラシャさんについての「京丹後市 観光協会」による紹介。

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細川ガラシャ(弥栄町味土野)

「戦国時代の武将、明智光秀の二女として生まれた。幼名を玉という。ガラシャというのは、洗礼名である。天正6年(1578)、織田信長のすすめで宮津城主細川忠興に嫁いだ。忠興、玉ともに16歳であった。忠興は、聡名にして美しい玉を愛し、玉にとっても幸せな生活を送っていたが、長くは続かなかった。天正10年(1582)、父である明智光秀が主君織田信長に反旗を翻し、京都の本能寺で信長を討ち取ってしまうことから玉の人生は狂いを来たしてくる。明智光秀の謀反は中国攻めの羽柴秀吉に伝わることとなり、武力対決は必死の様相を呈した。当然、明智光秀は娘婿の細川忠興に援軍の要請を出すことになる。しかし、この義父の要請を忠興は断ってしまう。そのため、忠興は、秀吉側に立つ人間として謀反人の娘を傍に置いておくことが出来なくなったのである。秀吉の命により忠興がガラシャを泣く泣く幽閉したのが弥栄町味土野である。居住地(女城)跡には、「細川忠興夫人隠棲地」の石碑が立っている。男城は、谷を500mほど隔てた台地にあって警固の武士数十名が詰めていたという。秀吉が光秀を山崎の戦いで破ったのは周知の通りである。幽閉が解かれてからは、大阪の細川屋敷に住むようになり、そこでキリスト教の洗礼を受けたようである。秀吉の死後、石田三成と徳川家康の対立が決定的になったときに、三成側に人質になるよう脅しを受けたガラシャは、これをきっぱり拒絶。屋敷に火を放ち家臣に自らを刺すように命じた。キリスト教徒は自害を禁じられていたからであろう。「ちりぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」という辞世の句が残っている。僅か38歳の生涯であった。味土野の女城の近くには、ガラシャが植えたとされる藤の蔓が大木に巻き付き、今も薄紫のきれいな花を咲かせている。

【参考図書】『もっと知りたい伝えたい丹後の魅力』
発行者:NPO法人まちづくりサポートセンター 〒627-0221 京都府京丹後市丹後町竹野 Tel. 0772-75-1411」

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(※ 独り言 おいおいここでもガラシャ藤、、、ガラシャは藤織りをしていたのです!だから一本桜も、お手植えなんですよ。)

これはスタンダードな説明でしょう。幽斎は幽閉を決めた、(それは愛情だったのか非情だったのか、それは別のこととして)その場所を味土野とした、ので味土野へ来た、そして、幽閉が解かれた、ので味土野を出た。それだけが説明してあります。

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しかし、知りたいのは味土野と彼女の関係、その後どうだったのか「さよなら さよなら さよならもうすぐ外は白い冬」 オフコース だったのか
“さよならは別れの言葉じゃなくて再び会うまでの遠い約束”という…薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」だったのか、、です。

味土野体験は彼女について回ったのかどうかです。その後のガラシャに味土野が顔を出したという資料がない、様々な小説にあたっても言及がない、、、

しかし、濃厚な時間であった味土野生活が心に刻まれていないはずばない、ので願望は後者。しかし、資料がないのでいかんとも言い難い。

そういうことなので、それがあったとしたら、どうですか、サプライズでしょ、ガラシャファンには!ええ、出てきたのです、、ガラシャと味土野、このつながりの深さを示すエピソードが。いいですか、こういうことです

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①「前野 景定(まえの かげさだ)は、安土桃山時代の武将。豊臣氏の家臣。本名は坪内景定。
生涯[編集]
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の重臣・前野長康の子として生まれる。父と共に豊臣秀次付の家老となって秀次を支えた。しかし文禄4年(1595年)、秀次事件で秀次を弁護したことにより、豊臣秀吉から秀次与党として謀反連座の疑いで父と共に捕らえられ、中村一氏に預けられた。そして、父と共にそこで秀吉の命令により切腹した。
なお景定の妻・御長(おちょう)にも捕縛命令が出された。彼女は細川忠興の長女であったため、慌てた細川家では、重臣の松井康之などが奔走し、景定から離縁出家させて、ようやく捕縛を免れたという。」

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( お長はは細川忠興の長女、つまりガラシャの娘なのです。離縁出家させて事なきを得たという手法は、本能寺の変のさい、玉を偽装離婚の形で味土野へ幽閉させたのと同じ、母ガラシャは娘の危機の際どう動いたか、、、下記の記述に会いました。出典は小さな松尾史p109)

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②母ガラシャは離縁出家させられた愛娘・長を味土野へやった! 語るのは下世屋出身の前野勝志氏、として小谷さんが紹介されている、、

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(上 下世屋の共同墓地にて)

キーマンはこの 前野半助さん。前野半助さんは、お父さんと子供さんがいらして、お父さんは前野左衛門尉宗央さん。前野一族は尾張の国河内牧を本拠地にしていたとのこと。お父さんの半助さんは、ガラシャの味土野行きをてづったが、一色と細川が戦った弓の木城の戦いで一色方に与し、討ち死にしたと伝えられています。後を託されたのは嫡子の半助さん、前野半助宗定さん。かれがガラシャの味土野暮らし、さらに大阪行き、そしてまたお長の味土野隠棲を助けたということなのです。前野長康・前野景定親子は、同じ前野一族 墓碑は33代めが建てられたとのこと )

ガラシャは娘の世話を味土野衆に頼んだ、ということは、ガラシャさんと味土野とはよほどの信頼関係があって結ばれていたということになるじゃあありませんか。とすると従来のガラシャと丹後との関係は言われているように浅からぬものを感じます。

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丹後におけるガラシャ観はいまいちです、大きなものに媚びをうったりおもねったり決してしない郷土史家斎藤さんですら サイトで次のように。

「最近ではガラシャ夫人をや光秀を取り上げたテレビ番組を作ってもらいたいなどと運動が丹波・丹後で行われているという。
ドラマ性はあるが、しかしガラシャや光秀の持つ文化と丹後丹波文化がつながるのかということが問題になる、ガラシャなら特にキリスト教文化が当地にあったのかという問題がある。彼らと生活や精神を共にし、共に同じカマのメシを喰い喜びも苦労も共にし、共に理解し合えた仲にわれらの故郷はあるのかということである。光秀や忠興とは多少はあっただろうが、ガラシャや幽斎とはたしてあったのだろうか、チトばかりレベルが違う、住む世界が違う。何か農民にとってエエことでも気を入れてしてくれただろうか。エエことをしてくれたのなら、私も賛成するが、何もないなら無縁の人でしかない。しかし末裔が原発反対を言っているのでまあ応援してもエエが…」

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「けれども、娘をガラシャは味土野に置いたということが事実なら、彼らと生活や精神を共にし、共に同じカマのメシを喰い喜びも苦労も共にし、共に理解し合えた仲にわれらの故郷はあるのかということである。」にかかわってなんかあるぞとおもわせるじゃありませんか。

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それにしても、戦国の政争に翻弄されたガラシャさん、父も自分もまた娘までも、、、そんなことがいつまで繰り返されるのか、救いはないのかこの問いは大河「女城主景虎」ではないですが、彼女の場合その抵抗が入信 だったかもしれません

琴引浜で細川幽斎さんが「 根上りの 松に五色の 糸かけ津 琴引き遊ぶ 三津の浦浜」、その息子の妻細川ガラシャも「名に高き 太鼓の浜に 鳴神の 遠くも渡る秋の夕さめ」と詠んだとか。

幽斎さんが、地名の掛津と糸掛けるを重ね「五色の 糸かけ津 琴引き遊ぶ」と遊んでいるのに対して、ガラシャさんその時はまだたまさんはいたってまじめ。

さて、夕さめの 「さめ」は雨の意味。  鳴神とは、なるかみ・いかづち・はたたがみ、つまり雷のこと、 丹後では今でも古老ははたがめと雷のことをいいます。

となると、ガラシャさんが歌に描いたのはウラニシじゃないですか!、

ちなみに「 はたたがみ【霹靂神】とは。意味や解説、類語。《はたたく神の意》激しい雷。
はたたくとは。意味や解説、類語。[動カ五(四)]1 旗などが風に吹かれてはたはたと 鳴る。はためく。「頭上に―・く旗のそよぎを耳にして」〈蘆花・思出の記〉2 雷が鳴り とどろく。はためく。「水無月の照り、―・くにも障らず来たり」〈竹取〉」

その時の雷の音は半端でなかったと思われますがその時聞いたのは雷鳴、雨が降ったのですから、見たのは当然、雲、

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(上 若狭湾のうらにし雲)

海の京都の秋は、これですよ、これ。一にも二にも雲!

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(上 宮津湾のウラニシ雲)
では、、何しに彼女はここを訪れたか、それはもうカニ、蟹に決まってますよ。
おいしいものには目がない!
彼女はくいしんぼでグルメ、美味しいもののためには多少遠方まで行くことは厭わない、そういう意味て゛は行動的な女性だったのでしょう。
さて、彼女の丹後での行動足跡は味土野、そこしかないように思われていますけれど、そうではない、ということです。丹後一円をくまなく歩いていらっしゃるのではないでしょうか、探せばあるかもしれませんよ。歌とか、うちでお泊めしたとか、、、まあそれはともかく、宮津から味土野までの経路がどうだったかが話題になるように、太鼓浜までの経路はどうだったか、海路で伊根、経が岬を回ったのか、陸路で大内峠峰山網野経由で、まさか歩いてということはないでしょうから、馬かかごかでだったのか、ガラシャさんのイメージをガラッと変えて想像の幅を、「ガラシャ街道」を京丹後一円に延伸させるようなというか、とんでもなく広げてくれる歌に間違いありません!ですから、彼女の名にあやかって、太鼓浜は「ガラシャ浜」食べたカニは「がらしゃカニ」ソバも食べられたでしょうから、「がらしゃソバ」お酒も吞まれたでしょうから、「銘酒・ガラシャ」これは吉野酒造さんでなければなりませんよ、それくらいやれば、大河ドラマ「細川ガラシャ」が実現するのではないでしょうか、、、

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(上 内山ブナ林からウラニシ雲)

そんな夢を見ながら、ウラニシの雲を見ていました。

 

いないいないー!

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ばあっ!

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衝立になって視界を閉ざすススキの株を刈り払ってくれているのは、里山の守り人・「丹後グリーンバレーズ構想実行委員会」の仲間たち。

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さて、ここは、「生物多様性保全上重要里地里山500」。この作業、草地環境保全の観点から行ったものです。

かっては、ススキも笹も暮らしの資源。

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(上 五十河地区にて 笹葺き屋根葺き替え準備中

余さず使い尽くして、それが生物の多様性を生み出したものです。

原野にするのも人、田畑ににするのも人、パークにするのも人、

方向性を伴った情熱とボランティア精神、パイオニア精神をもった若者がいることは心強いかぎりです。

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感謝感謝!

♪北の山に住む人は 幸せ 一番先に 冷たい雪に さわれるから♪

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ま、この幸せ論については意見は分かれるところです。

♪なさけないわな これから先は 雪や霰のことおもや♪

♪足が冷たい 手が冷たいと 泣いて親方さんに 叱られた♪

それはおいておいて、今日の寒波は今季最強とのこと。

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丹後一番雪の便りは、木子からです。

これから始まる冬、

「近畿日本海側では、平年に比べ曇りや雨または雪の日が多いでしょう。」と三ヶ月予報はいっています。

しかし、合力の家のまえの土手のスイセンが勢いよく葉を伸ばしています、この様子から推しはかるにかれらは、「暖冬」ですぞ!といっているようにおもうのですが。

どっちがあたるのでしょうか。

ヤマカガシはヒキガエルを食べる!※前回のぶろぐを参照下さい

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ほほう、、、
そのヤマカガシを人が食べる!

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「薬虫薬畜の効用と療法」啓文社、昭和31年、酒井則天先生著によると
「ヤマカガシ(赤棟蛇)は、耳鳴・脊髄病に有効とされている。というぶろぐを拝見しました。
まむしはよく聞きますけれど、ヤマカガシもかぁと思ったら、ヘビは全体に薬効生物だ、特にシマヘビはいいとおっしゃるのです。

「シマヘビ(縞蛇)は、痔疾・胎毒・喘息・肋膜炎・肺病に有効とされている。」
これは本当のようで、

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『私たちの小さな松尾史』に掲載されている経験談です。

マムシボールにも家族愛にも、あらためて驚きなおしました。

爪、切ってあげようか!

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だめだめ、この爪で木に登るんだから!

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芦生の森ガイドウオークの基地美山町自然文化村河鹿荘ホールに剥製展示されているクマ君です。
さて、この芦生の森、久しぶりのウオークです。

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(↑ この桂の直径3.5m)

この森を位置づけるなら、里山に対する奥山、その奥山の中の奥山、ということになるのでしょうか。該博な知識を整理してポイントをよどみなく解説して下さるガイドさんの力量、あらためて感動。

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豊富な話題のなかでおもしろかったのは、やまかがしとヒキガエルの話。ヤマカガシの毒は、ヒキガエルを食べるからだと。そういうことを明らかにした研究があると。ふーむ!ヤマカガシはヒキガエルを食べる、それは事実です。目撃したことがあります。残念なのはその日に限ってカメラを持っていなかったこと。撮っていれば世紀のスクープだったのにと悔やまれてなりません。それにしても、それでは、ヒキガエルの持つ毒は何に由来するのだろうと思ったことです。彼らの身近にいて口に合いそうなサイズで、しかも毒をもつもの!といえば?クモ!イモリ?!トリカブトの葉でもたべるのでしょうか。ふーむぅ!??、、、、ヒキガエルの毒成分の由来、さらに、ヒキガエルの毒は身を守るバリアだった、それなのになぜ無力だったのか?ここからはガイドされた側の仕事ですね。、、、、、これがまた私たちのガイドネタになるのです、、、(そういうもんです!)

このツアーを企画して下さったのは海の京都DM0。美山町自然文化村というのは、山村という条件を最大限に生かした地域作りの先進地、「美山町自然文化村の実施されている芦生の森ガイドウオークに学べ」!

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そのとおりでした。

ほぉーお!

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里山の秋の情感を、正確に写し取られていく力量に感心しながら手元を拝見しました。

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スケッチ旅行に来て頂いた絵画教室の皆さんです。

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遠く奈良から。

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道中に手頃な里山など幾つもありましょう。

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それなのに、わざわざ大型バスで、九十九折りの道をたどっりここ上世屋を目指して!

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上世屋の里は、一期一会の出会いを、一年に一度の天気でお迎えしました。

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また、同じ画業の道を歩む身、

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上世屋に定住し紙漉に励む若い工芸士の作品もたくさん買って励ましてくださいました。

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グレートサンクス!

ちなみにこの旅行、奈良→(京都縦貫自動車道)→上世屋→夕日が浦(泊)→半島一周道路→伊根→奈良。

丹後のええとこどりピックコースですよ。

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