宮津エコツアー · 上越市と宮津市を結ぶ赤い糸

上越市と宮津市を結ぶ赤い糸

2013/02/13

新潟県上越市には、レルヒ少佐がゆるキャラになっているとのこと。

「常に何かを企んでいるが、基本的にお人よし。やや照れ屋だが、おだてられると調子に乗る一面も。子ども好きだが、女性には弱い。教えたがりでおせっかい。スキーは上手だがやや本番に弱い傾向もあり。特技:一本杖スキー」という人物設定をもとにイメージしたそうです。

さて、日本スキー史100年      outdoorjapan.com によると、
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「1911年1月12日。オーストリア=ハンガリー帝国軍のテオドール・エドラー・フォン・レルヒ少佐が金谷山をスキーで滑走し、日本におけるスキー史の幕を開いたのだ。

それまで雪山を滑る文化がなかった日本の軍人達にとって、ひとりで雪山を登り、さっそうと滑り降りてくるレルヒ少佐の姿は、宇宙人が空からやってきたかのようなインパクトを与えたであろう。

事実、その姿を目の当たりにした軍人達は両手をあげ、『万歳!』のコールで彼を迎えたという。」

そのスキーが上世屋にやってきたのが、1913年2月のこと。日本伝来12年後のことです。日本の軍人達がうけたであろう「宇宙人が空からやってきたかのようなインパクト」は上世屋でも同じ。上世屋の人は「テングが山から降りてきた」と表現しています。

(↑写真 outdoorjapan.com )

さて、上世屋の雪は北海道と同じ、関西有数のスキー適地と認めてくださったのが、直接レルヒ少佐から指導をうけた、当時高田中学校教頭中山再次郎氏。むらは、その後、スキー立村へと大きく動きました。当時の様子を小川元吉さんは次のように語ります。

「2013年2月、丸山万作先生が木子からスキーで行程に降りてこられ、村中の者が初めてスキーというものを知った。ほどなく京都二中校長、中山再次郎氏がこられ、寺に泊まられ、成相、鼓が岳、官林、霧奥地、檜尾、中畑、三本松、しょぶ谷、岳、大清水、木子峠、汐霧など調査せられて、

丹後の北海道と折り紙を付けられ、スキー場開発を宣伝されるので、区長所も何かと力を入れずにいられないことになった。学校へは十台のスキーの寄贈品が届けられたが、家では、子どもにせがまれた親たちは、竹製、木製のスキー作りでおお忙しやが始まった。14年には、青年も、飯山式、ノルウエー式で七、八台区の補助をもらって購入し、練習に余念がなかった。」(「高原の碧晶」)

スキージ場として、整備された地を歩きました。

林に経過したであろう時間を70年ほど巻き戻してみると、斜面としても景観としても絶好のスキー場だったことが確認できました。耳を澄ませば雪と戯れる歓声が聞こえそうでした。
それにしても、初めて目にしてから、瞬く間に和製のスキーを作り上げてしまう里人のすごさ。伝来した鉄砲を模倣して作り上げた鍛冶師を彷彿とさせるじゃありませんか。
また、スキー発祥の金屋谷を持つ上越市と上世屋とは、レルヒ少佐の縁につながるじゃありませんか。
宮津市と上越市、赤い糸で結ばれています(^.^)

ところで、スキー選手に「清水礼留飛」という選手名がテレビに出ていました。このかた、「レルヒ」と読む?(^.^)

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