城山とは聞いていましたが、未踏の山なんです。そこにガイド付きで上ることが出来る、という願ってもない企画!
- 「千賀の大島城址 -
伊根町字日出にいたる半円の半島山上を、むかしから「城山」といいつたえ、かって一色氏が丹後の領主であった時代、千賀氏が城砦をきづき、この城を伊根庄支配の中心として、千賀城または大島城ともいった。ところが足利氏が織田信長に亡ぼされると、丹後は、その部将である細川藤孝(幽斎)・忠興の父子に命じて、天正七年(一五七九)一色氏を亡ぼさせたが、その残党はなお各地にあって、細川氏の命に服さず、ここ大島城の千賀氏なども、その有力な勢力であった。そして天正十年(一五八二)の秋、一色氏義俊・義清を最後に、その残党討伐の戦いがはじまり、ここ大島城へも細川勢が押しよせたが、このとき城には亀山城の倉内将監・島津藤兵衛、岩ヶ鼻の橋本豊後守、田原の小出左京などの手勢がたてこもって防戦したがおよばず、ついに多くは傷つき、あるいは戦死して落城。ただ千賀山城守だけは馬で対岸栗田へ渡り、後には尾張の徳川氏に仕えたと伝えられるが、その他にも一族中土着した者もあり、現に岩滝町の千賀氏なども、その末流といわれ、さらに当地の慈雲山顕孝寺もまた大島城にゆかリのある寺である。」※と 宮津市文化財保護委員会。
残党はなお各地にあって、細川氏の命に服さず、、、、あの織田軍の圧倒的な戦力に敢えて抵抗した先人たちの、絶望的なけれども奮迅の戦いに、花を手向けてこようと思います。
「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である」(カー)
定員にはまだ余裕があるとのこと、参加されませんか!
※ 坂根栄六(えいろくちゃん) ブログ2014-02-22 02:09:56 より拝借