日本の春はサクラてんこ盛り。学校に、公園に寺社に駅に堤防にと全国に植えられています。
このサクラたちの、開花の気温の目処は15度、名付けて桜前線、これが出会いと別れの春を彩りながら、南から北まで遡っていくのです。
この前線、上世屋にもやってきましたよ。
さて、改良に改良を重ねて生み出された品種、その数300種以上とも言われます。
↑ 地主神社の「ミクルマカエシのサクラ」。
この新品種改良も、長い旅。
このあたりの事情は、「農水省 日本の桜の歴史」が詳しいようです。
① いま、お花見といいます。しかし、平安時代初頭の嵯峨天皇までは、花見といえば梅だったといいます。
なぜ嵯峨天皇の時に「梅→桜」という変化がおこったのか、そのきっかけは、嵯峨天皇が地主神社に植えられていた桜をたまたま見かけて、そのあまりの美しさに魅了されたからだといわれています。
地主神社の境内に咲く見事な桜の美しさに、牛車を二度、三度と引き返させて眺めたと伝わっています。
それ以来、嵯峨天皇は毎年神社から桜を献上させ、梅ではなく桜の花見を催すようになったようです。
地主神社の桜(地主桜)―嵯峨天皇の故事から「御車返しの桜」とも呼ばれるように
こうして桜の花見は、貴族たちにも一気に広まっていきました。
やがて桜の花見は天皇主催の定例行事として取り入れられるようにもなり、皇族や貴族などの上流階級のあいだで定着していったのです。
京都の東山などに桜が植えられ、現在にも続く花見の名所が誕生していきました。
また貴族たちも屋敷の庭に桜を植え、常日頃から桜を愛でるようになっていきました。
② 3月3日の桃の節句は、もともとは中国から伝わったもので、春を祝い無病息災を願う厄払いの「上巳(じょうし)の節句」という儀式でした。奈良時代まではその儀式に桃や梅を使用していましたが、いずれも中国から持ち込まれた観賞用の植物であり、日本には自生しない外来種でした。
「桃や梅は貴族社会で珍重されていましたが、平安時代になるとどこにでもある身近な桜を愛でようという機運が高まり、儀式や行事に桜が用いられるようになりました。奈良時代の『万葉集』にも桜が詠われていますが、儀式的な意味は無かったようです」(勝木先生)。
春の花の象徴として桜が詠まれるのは平安時代の「古今和歌集」からで、桜を愛でる文化が生まれたのは、この時代からだろうと推測されます。
平安時代には、ヤマザクラを用いた桜の栽培化も行われるようになりました。
「桜の鑑賞性が高まったのでしょう。庭に植えるための苗木生産も始まり、野生種ではない栽培品種も誕生しました。もっとも古い歴史を持つのが‘枝垂桜’であり、平安時代の文献に名前の記載が確認されています。なお、‘枝垂桜’は野生種であるエドヒガンの突然変異だと考えられています。現在も調査中ですが、当時、育てられた個体の子孫が、日本全国に広まったと推測されます」(勝木先生)。
伊豆諸島から鎌倉へ渡ったと思われるオオシマザクラ。歴代の“鎌倉殿”も白き桜を愛でていたのかもしれません。
オオシマザクラは、第1週目のもっと知りたい! 身近な桜たちで紹介したとおり伊豆諸島の大島などに自生していた野生種であり、当時の京都の人々はその存在を知りません。しかし、室町時代の文献にはオオシマザクラらしき記述が見受けられるようになりました。
「伊豆諸島から鎌倉に渡り育てられていたものが、すでにヤマザクラが栽培されていた京都へ持ち込まれたと考えられます」(勝木先生)。
平安時代に始まった桜の栽培は鎌倉時代に発展し、流通が始まっていたのかもしれません。 (農水省 日本の桜の歴史)
という歴史は、一面、けたたましい喧噪の競い合いの歴史。御所やお城のサクラのお下がりをもらうような気分もしないわけでもありません。
ところで、さざ波立つ水面に姿映す花、これもサクラ。
「古池やかわず飛び込む水の音」のわびさびに通じるものが感じられて、いいサクラです。
このため池の水で米を作るお百姓は、天水だけを貯めた雑排水が混じらん水だ、と米の品質を味を自慢します。
そのサクラ(桜)の語源は稲作と共に?と思えたので
では、と調べて見ましたら、韓国語では、pŏt-kkot、ポッコッ。
(ポッコチピダ) 桜が咲く(ポッコッチョンソン) 桜前線
中国語か、 yīnghuā イン フゥア
どうもその気配はありません。
としたら、日本語起源。そこで、Copilotさんにとりあえず、見当をつけてもらいました。
そうしたら、「**桜(さくら)**という名前の由来や語源について、いくつかの説があります。どれも未だに「これが正しい説」という確証は得られていませんが、」と諸説ある中、認知度の高い説として二つを紹介してくれました。
以下、まずやりとり。
「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」からきている説:
古事記や日本書紀に登場する「木花之佐久夜毘売」が由来とされています。
逸話によれば、富士山の上空から桜の種を蒔いたとされ、その名前が「さくや」から「さくら」に変化したと考えられています。
「田んぼの神様」からきている説:
桜は「豊作をもたらす田んぼの神様が宿る木」と考えられていました。
「さ」は稲の精霊、「くら」は稲の精霊が降臨する場所を指す古語で、このふたつが組み合わさって「さくら」となったとされています。
◆自分
「木花之佐久夜毘売」説と「田んぼの神様」説、この有力説の二つを比較して、どちらが成立的に早いと思われますか
◇Copilot
「木花之佐久夜毘売」説と「田んぼの神様」説の比較を考えてみましょう。
「木花之佐久夜毘売」説:
この説は、古事記や日本書紀に登場する神話的な人物「木花之佐久夜毘売」が由来とされています。
逸話によれば、彼女が富士山の上空から桜の種を蒔いたことがあります。
この名前が「さくや」から「さくら」に変化したと考えられています。
成立的には、古代の伝説や神話が存在しているため、比較的早い時期に名前が付けられた可能性が高いです。
「田んぼの神様」説:
桜は「豊作をもたらす田んぼの神様が宿る木」と考えられていました。
「さ」は稲の精霊、「くら」は稲の精霊が降臨する場所を指す古語で、このふたつが組み合わさって「さくら」となったとされています。
成立的には、日常的な農耕文化に密接に関連しているため、比較的早い時期に名前が付けられた可能性があります。
どちらが正確に早い時期に名前が付けられたかは、歴史的な文献や証拠が限られているため断定できませんが、いずれの説も桜の美しさと日本文化との結びつきを感じさせてくれますね。
ありがとさん、しかし、Copilotさん、逃げたかな!と思いました。
この花説 比較的早い時期に名前が付けられた可能性が高いです。
稲の精霊説 比較的早い時期に名前が付けられた可能性があります。
どちらが正確に早い時期に名前が付けられたかは、歴史的な文献や証拠が限られているため断定できませんと避けたのです。しかし、どちらが正確に早い時期か、古事記や日本書紀は、稲作文化が作った国家の記録ですから、農耕の現場から生まれたとする説が先とするのは、そう難しい判断ではないはずです。
桜は、 尋常小学校教科書 一年生 国語に、こう取り上げられています。
サイタサイタサクラガサイタ(咲いた、咲いた、桜が咲いた)
コイコイシロコイ(来い、来い、シロ来い)
ススメススメヘイタイススメ(進め、進め、兵隊進め)
オヒサマアカイアサヒガアカイ(お日様赤い、朝日が赤い)
ヒノマルノハタバンザイバンザイ(日の丸の旗、万歳、万歳)
西条八十は 「二輪の桜」として雑誌『少女倶楽部』【昭和13年(1938年)2月号】発表した軍国歌謡詩。
君と僕とは二輪のさくら 積んだ土嚢の陰に咲く
どうせ花なら散らなきゃならぬ 見事散りましょ 皇國(くに)のため
君と僕とは二輪のさくら 同じ部隊の枝に咲く
もとは兄でも弟(おとと)でもないが なぜか氣が合うて忘られぬ
君と僕とは二輪のさくら 共に皇國(みくに)のために咲く
昼は並んで 夜は抱き合うて 弾丸(たま)の衾(ふすま)で結ぶ夢
君と僕とは二輪のさくら 別れ別れに散らうとも
花の都の靖國神社 春の梢で咲いて会ふ
つまり、戦前の国策花というサクラの持つ側面に、いまだにCopilotも忖度するか!と思いました。
それはそれとして、安易なコピペが出回らないことを願います。
そんな中で、なるほどと思う紹介さてていたのは
いにしえびとの音楽会 古人(いにしえびと)の息吹を感じる古代史サイト
花見の起源~なぜ日本人はサクラを愛でるようになったのか~
2019.03.24 文化・民俗
ですね
、、、、、
昔々、田の神様は普段は山の上にいると信じられていました。
その神が春になると山から降りて来て桜の木に宿ります。すると、その桜の木は開花すると考えられたのです。
桜の開花=田の神様が山から降りてきた証拠であり、その合図をきっかけに、昔の人々は田植えを始めました。
古代には正確な暦もなかったし、現代のような気象観測技術もありませんでした。春になってなんとなく温かくなってきたことはわかっても、はたして本当に田植えに適した時期がやってきたのかは、なかなか判断するのが難しかったのです。
稲というのは繊細な植物で、気温が15度以下の時期に苗を植えても育ってくれません。田植えする時期を間違えると大変なことになってしまうのです。そこで参考にしたのが桜の開花でした。
桜は春になり気温が15度を超えてくる時期に開花を始めます。岐阜県下呂市和佐にある樹齢350~400年の2本の桜が、苗代桜(なわしろざくら)「暦桜」や「薬師様の桜」とも呼ばれるように古代の人々は、開花する美しい桜の花を見て、「もう田植えの時期だよ」という神からのメッセージを受け取っていたのです。
このように春のサクラは、農民のものだったのです。
もう一度copilotさん
「稲(サ)の神」とは、一説によれば、古語では「さ」は山の神を意味し、春になると里に降りてきて田の神・稲の神(稲霊)となると信じられていたという。これを仮に「サ神」説と呼ぶ。稲の苗を早苗(さなえ)、苗を植える女性を早乙女(さおとめ)、田植えをする5月を皐月(さつき)と呼ぶが、「サ神」説では、これらの先頭に「さ」がついているのは、「さ」が田の神・稲の神(稲霊)を表しているから、と説明される。そして「サ神」説では、田の神・稲の神が憑依する「座(クラ)」が早春の山の桜の木であるとして、サ神の座(クラ)を「サクラ」の語源として導き出している。
、、、、、
納得です、
岐阜県下呂市和佐にある樹齢350~400年の2本の大桜は、苗代桜(なわしろざくら)「暦桜」や「薬師様の桜」とも呼ばれているということです。